最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。
観る聴く読む、絵画と朗読と詩作の作品公開サイトです。 短編小説などもありますので是非いらしてください☆
恥ずかしながら頭の出来が悪く、気付くと幻を見ているのが私の常であるので、この意訳の為にだいぶ時間がとられているのが非常にもどかしい。
いやあ~、人を改心させるってのは、気持ちのいいものですね!…無論もう御免被りたいが。
このような時、グサッと来た時、それでも杖をついているという状況でなければこの種の『迷信因果論』にすら気づけなかった可能性もあるので…心境としては『同族に差別された』感があって複雑だが…新たな境地に行けたような気もしている。
「…訳された聖典に石を投げていいのはヘブライ語原典を忠実に理解して読んでいる者のみである」
旧約聖書朗読【マラキ書】あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる…
お言葉通りになる…という現象は、実のところ神的存在にしか不可能なのではないかと思われる。(とは言え神という存在が人間やその他空間を含めた存在と分離しているとも言い難い。ので、概念上神を一点に集約して喩えているのだが…ほら、こんな風に人間が言葉通りにすることは不可能なのだ。)
そのほかにも『まだら鼠色の馬』という記述もあったので、珍しいのでそっちにしようかとも迷ったが…まあ赤馬のほうが単純でいいだろう。
しかし人間と自然、ひいては宇宙にとっては不要な作品で溢れている…だから人間はゴミを作り出してしまう生き物なのだと私には感じられる。
旧約聖書朗読【ミカ書】その剃った所をはげたかのように大きくせよ…
あまりに周囲の強大な民族から虐げられているとかえって偏った民族主義が発生したりする典型。…等とボロクソに言うようだが、だからこそこの『弱者の立場』から書かれた聖書というものが、結局人類の共感意識にとても切実に響いているのです。
語り【音楽家GouTATEISHI(立石剛)の『エマルジョンミュージック』】
彼の事を紹介してくれたギャラリスト氏と、あわや宗教戦争、というレベルで認識の食い違いについて密かなバトルが勃発したことは…ここだけの秘密にしておこう。
私にとっての主の言葉は…人間と自然との調和…かもしれない。現実的に手っ取り早く調和できるものとしての花壇やゴミ拾いをしているというわけです。
街を喩えるときにその街を毒婦や性悪の女といった女性に喩える文化があったのだろうか?東京を悪しき女帝に喩える、都内最底辺八王子(故郷なので悪く言いたくなるのだ)をヤンキー娘に喩える、世田谷あたりを悪妻に喩える(世田谷の方すみません)…おお、わりとピンときた!!ような気もする。
旧約聖書朗読【ハガイ書】山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ…
聖書中での主の家というとエルサレムの石造りの神殿を思い浮かべるが…ハガイ書で書かれたのはあくまで、故郷に戻ってその地の産物を使って宮を建てよという寓意であることを視野に入れたとしても、木の家を建てるというのは聖書ではなかなか珍しい表現だと思う。
そしていなごを画像検索したらかなり苦手な生き物であった。何か過去世のトラウマがあるんじゃないかと言うほどで、画像選びに苦戦した。
という事でホセア書は2章から4章まで『悪しき妻の悪行』から『(性別には言及せず)愚かな人が神を顧みずに、悪友と偶像崇拝にふけり、散々飲み食いをして金銀を使うが、神はそれをすべて見通された上でその人を許す(でも許さない)』という性別を超えた普遍的な人間的内容へと、独断と偏見で大いに改変させてもらった。
何やら、雌鹿の足のようにする、という文言は『権力を得る』というニュアンスがあるようにも感じられる。『シギヨノテの調べ』というのも、果たしてどのような音楽だったのか…。
「ブログリーダー」を活用して、AyaOgataさんをフォローしませんか?
最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。
『玉藻の前』のすべての録音編集を終えたとき、登場人物たちが…まるで映画のロケが終わった時のように、内輪で歓声をあげて、それから一人ひとりが素の顔に戻って、そしてどこかへ帰ってしまう…そんな感じがして、今となっては少し寂しいような気もします。
全く個人的に、男の人って挫折した経験のある人特有の色気みたいなものがあるなあと感じたりもする…
色で例えるなら千枝松(主人公)の声は枯草色、みくずの声は珊瑚の明度をさらに上げたような色、陶物のおばあはスグリの実の色みたいな感じ、全員一応、和の色でまとまって一枚の絵になるようなイメージ。
ただ、私は思うのですよ、日本の古来からの『おはなし』というのは、元来かなり音域幅の広いものなのではないか?
この『玉藻の前』を制作するにあたって一番感じたのは…プロの声優の方とかも確かに凄いが、沢山の声をひとつの作品に仕上げているプロの編集の方って、本当に凄腕!という事です。
以上、春先の怪談?でした。
まりもちゃん(キラキラネーム庶民)→みくずさん(中産階級へ)→玉藻さん(クズと付くので改名、上流階級)→玉藻女史(玉藻の前、特権階級)
恋と暴力だけは無くならないような気がしますね。
それにしても人間って色んな声が出るもんだな~と、我ながら面白く思って編集してます。
妲己についても、これ見よがしな悪女なところが却って、ビミョーな良妻賢母キャラよりも好感を抱いてしまう。
この朗読音源はデジタル呪物に該当するのではないか?と危ぶまれる気持ちもあるが…
唄を歌うという行為自体が40年生きてて人生初。
手術中は七転八倒した
有り余るほどの時間を悩んで過ごして、よくよく考えると自分の保身(善悪、善人でありたい、被害者気質)の為如きにしか時間を使ってこなかった
となるとひと針ひと針の重要性は否応にも増す…ので、そのひと針の間に、職人の胸中に種々の想いが逡巡する場合も多々あろう…。
次の一着は、私を何処へ連れて行ってくれるのだろうか…。
この歳で言うのもなんだけど、時間が長い!
地図でいうと若洲、駅名で言えば新木場近辺である。
無論、袖や裾は小さめになるけど横幅は同じであるので、いわゆるSサイズ…ではない。
ホントは世界の全部の聖典読みたいんですけどね、言語的にもさすがにそれは無理というものなので、和訳されている聖典に着手しているわけです。
ミシンをかけている時なんかも独特の疾走感があって心地よい、国道でも突っ走っているみたいだ。(まだ高速には乗れない感覚が洋裁にはある)
これほど美しいものが漫然と存在していることにただ感動する。
たまに、首都高が見たくてその近辺に連れて行ってもらう
1984年生まれの(しかも足の弱い)39歳でこの作品を朗読出来て、とても嬉しく思う。
『青少年反セックス連盟』の緋色の帯は、みんな身に着けているのです。
帰りの小型飛行機で本土、もとい我が関東平野が見えたとき、江の島が見えたとき、横浜が見えたとき、首都高やら都内のビル群が見えたとき、遠く千葉までもが手の上に収まるように見えたとき、私は思いましたよ。
『1984年』の第二部を処理していたらPCがぶっ壊れた。
つまり私は、ある程度、この作品を本当の事として読んだわけです。
1984年生まれの日本人に宛てた皮肉とも応援ともつかないメッセージを感じずにはいられないのですよ。
つまり、個人が幸福になるには、全体が各々幸福で居た方がいいのだ。
だから声劇の雰囲気もちょっと付け加えて、これは一人芝居なのだという感覚で聴いていただければ幸いです。
やりたいことの優先順位を…難易度が高くても…『自分が感動する要素の大きい順』(他人ではなく自分が感動するかどうか)でやっていかないとならないわけです。
当時の柳田國男と同年代のうちに朗読出来て、良い経験になった。
『パッケージや表題=真実』と仮定(妄信)することへの疑問を強く感じる。