最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。
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日の丸の旗が街々を埋め尽くしたころ 私は 日の丸の赤を疑問視していたが 死ぬ寸前の朝 それは冬の太陽光線である事を悟った 日の丸国は 冬の王国であったのだ 亜熱帯の冬の太陽光線に限って 暁光は赤色を示す
『…あなたは一回も鬼をやらずに鬼ごっこを終えるみたいね』
運というものの理解が、個人運が上がる→必然的に周囲の人や生き物にもいい影響を与える…という理解になれば、昨今のようながめつい守銭奴的な意味での幸運から解き放たれ、もっと『地球全体の運気』が良くなる気がするのだが…。
それを聞いた者のうちの一人がさっと飛び出て、すぐさま、こん棒でガラスランプを叩き割った 彼ははっきりと言った 『その通りだ!俺は狂っている!狂っているからこれが本物の魔物だとは到底思えんのだ!』
人生…もっと早くから『全然大丈夫だった』と気付いていればよかった。
そんな後悔もあって、幸福を気付かせてくれた花壇制作には入れ込んでいる。お金の一番の使い道はやはり共感、共鳴の地点の追求にある…これは実に幸せな浪費である。それ以外の浪費は正直、ただの浪費かもしれない。だから決して、博打につぎ込んでいるわけではない…!!と強がっているあたりが、やはりやや少し泥沼型であることは否めない…。
心配するなよ、俺は相変わらず 仏頂面の頑固者で イエスマンの真逆だ ただ愛を知っただけ 許すって事を、小規模なビッグバンで無理やり知らされただけだ
久しぶりにお手紙を書きます。船の中でお会いした時、貴方は私が以前とは随分変わったとしきりに言っていましたね、それほど私は変わったでしょうか?ただ、今渡ろうとする海峡では、元来30年で成される浄化が3年で行われようとしているのです…これは凄まじい速度です。
青年は問いを振られたが答えなかった…答えられなかった。この堂々たる老婆に、まさか廊下で従弟たちと話したように、裸になって一晩外で過ごしたらどうか?等とは言えなかった。第一にこの老令嬢にはそれを受け止めるべき紳士のお相手も当然居ないのだ。さらに孤独になれとは到底言えなかった。
救い難い我らは 二千年以上前から 天国の一歩手前で足踏みをしている
『君は我々の世界にイエスキリストが居なかったと思うか?それとも居たと思うか?あるいは…まだイエスキリストは生まれてさえ、存在さえしておらず、これから生まれてくると思うか?』
私もそうやって死ぬのだ、誰だってそうやって死に導かれてゆくのだ、何もおぞましい事ではない。私は花咲いた株を手で包み込む…やはり花咲くのは体力が要るのか、凄まじい体力が要るのか?辛いのか?苦しいのか?それともすべてをやり終えて微笑んでいるのか?
この失敗談が活かされることを祈っている。ただ、庭に安定して緑がある状態にもってくるまでに、土調整を含めて大体丸5年かかっているので、おそらく花壇をコンスタントに回せるようになるまで5年くらいは、密かな失敗が続くのだと覚悟はしている。
かくしてすっかり好々爺と化した花どろぼうは羊雲を背に、ペダルを漕ぎ漕ぎ、一陣の風となって過ぎ去っていったのだった。
どのようになっても、何の分け隔ても無く人間同士は付き合えるものなのだという確信が芽生えてきた。
社畜だろうが奴隷根性だろうが構わない。俺はそれでいいんだ、これでいいし、これが俺の生き方なんだ。これが俺なりに出来る世界の支え方なんだ。俺は胸に熱いものがこみ上げてくる中、地震でぶっ壊れたインフラ網の修繕係と成るべく、終電間近の電車に乗って湾岸部まで…嬉々として赴いたのだった。
「夢の中でわたし、蝙蝠になって飛んでいたの、でも殺されそうになって…あのまま殺されていたら…」
土のもたらすミネラル分が川に溶け込むと考えると多少は、川というモノが姿を変えるのも自然な事であり、従って土手を抉られるのも致し方の無い事なのかもしれないが…人類には、それを漫然と傍観していられる時間は、あまり無いような気がしている。
ついに彼女は主観的時間の中へ消え失せたのだった…。老婆は瞬間的に孫を失い、村を守る役目が「ふたたび」自分に回ってきたことを本能的に訝しみつつも静かに呪術を行った。その日の晩、月の無い暗い夜に村はずれで一人の男が死んだ。老婆は内側の光の中で…究極の主観的時間の中で、何やらよく見知った女と、男とが仲睦まじく暮らしている光景を漫然と見つめていた。
その後何が起こったのかは誰にもわからない…ただ一つ言えるのは、男が、ついに絵筆を折ろうと決意したその日の朝、輝くような秋晴れの陽光を受けながら、全く唐突にアマチュア画家老人が住宅街とドブ川の暗渠の間の椅子から立ち上がり、男に微笑みかけ、完成した絵を見せたのだった。
「どうか明日は、次の朝目覚める時、あるいは次の朝子孫が目覚める時には、約束の地にたどり着けますように」 およそ全ての生き物がこの、祈りとも願いともつかぬ欲求を抱いて一生を終えるのを、小さな虫である彼は無意識のうちに悟ったのだった。
1955年版口語訳旧約聖書、雅歌の朗読をYouTubeにアップしました。
人が互いを許し合う事、それはイエスマンになるって事じゃないよ むしろ真逆で、嫌な事は嫌と言う 自分の振る舞いは自分で決める でも心は いつでも開いておくんだ 心は 誰にでも開いておく覚悟をするんだ、それが強さってものだ そうすればそこは新しいエルサレムになる
その瞬間ようやく…聖典と呼ばれる膨大な言葉の羅列が未だに現存し、仰々しい儀式が古来そのまま実行されている意味を、図らずも悟ったのだった。
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最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。
『玉藻の前』のすべての録音編集を終えたとき、登場人物たちが…まるで映画のロケが終わった時のように、内輪で歓声をあげて、それから一人ひとりが素の顔に戻って、そしてどこかへ帰ってしまう…そんな感じがして、今となっては少し寂しいような気もします。
全く個人的に、男の人って挫折した経験のある人特有の色気みたいなものがあるなあと感じたりもする…
色で例えるなら千枝松(主人公)の声は枯草色、みくずの声は珊瑚の明度をさらに上げたような色、陶物のおばあはスグリの実の色みたいな感じ、全員一応、和の色でまとまって一枚の絵になるようなイメージ。
ただ、私は思うのですよ、日本の古来からの『おはなし』というのは、元来かなり音域幅の広いものなのではないか?
この『玉藻の前』を制作するにあたって一番感じたのは…プロの声優の方とかも確かに凄いが、沢山の声をひとつの作品に仕上げているプロの編集の方って、本当に凄腕!という事です。
以上、春先の怪談?でした。
まりもちゃん(キラキラネーム庶民)→みくずさん(中産階級へ)→玉藻さん(クズと付くので改名、上流階級)→玉藻女史(玉藻の前、特権階級)
恋と暴力だけは無くならないような気がしますね。
それにしても人間って色んな声が出るもんだな~と、我ながら面白く思って編集してます。
妲己についても、これ見よがしな悪女なところが却って、ビミョーな良妻賢母キャラよりも好感を抱いてしまう。
この朗読音源はデジタル呪物に該当するのではないか?と危ぶまれる気持ちもあるが…
唄を歌うという行為自体が40年生きてて人生初。
手術中は七転八倒した
有り余るほどの時間を悩んで過ごして、よくよく考えると自分の保身(善悪、善人でありたい、被害者気質)の為如きにしか時間を使ってこなかった
となるとひと針ひと針の重要性は否応にも増す…ので、そのひと針の間に、職人の胸中に種々の想いが逡巡する場合も多々あろう…。
次の一着は、私を何処へ連れて行ってくれるのだろうか…。
この歳で言うのもなんだけど、時間が長い!
地図でいうと若洲、駅名で言えば新木場近辺である。
無論、袖や裾は小さめになるけど横幅は同じであるので、いわゆるSサイズ…ではない。
「宇宙は試してくるなあ」とぼやいたら、『誰でもいつでも試されているよ』と知人に言われてなんとなくハッとする。
ホントは世界の全部の聖典読みたいんですけどね、言語的にもさすがにそれは無理というものなので、和訳されている聖典に着手しているわけです。
ミシンをかけている時なんかも独特の疾走感があって心地よい、国道でも突っ走っているみたいだ。(まだ高速には乗れない感覚が洋裁にはある)
これほど美しいものが漫然と存在していることにただ感動する。
たまに、首都高が見たくてその近辺に連れて行ってもらう
1984年生まれの(しかも足の弱い)39歳でこの作品を朗読出来て、とても嬉しく思う。
『青少年反セックス連盟』の緋色の帯は、みんな身に着けているのです。
帰りの小型飛行機で本土、もとい我が関東平野が見えたとき、江の島が見えたとき、横浜が見えたとき、首都高やら都内のビル群が見えたとき、遠く千葉までもが手の上に収まるように見えたとき、私は思いましたよ。
『1984年』の第二部を処理していたらPCがぶっ壊れた。
つまり私は、ある程度、この作品を本当の事として読んだわけです。
1984年生まれの日本人に宛てた皮肉とも応援ともつかないメッセージを感じずにはいられないのですよ。
つまり、個人が幸福になるには、全体が各々幸福で居た方がいいのだ。
だから声劇の雰囲気もちょっと付け加えて、これは一人芝居なのだという感覚で聴いていただければ幸いです。
やりたいことの優先順位を…難易度が高くても…『自分が感動する要素の大きい順』(他人ではなく自分が感動するかどうか)でやっていかないとならないわけです。
当時の柳田國男と同年代のうちに朗読出来て、良い経験になった。
『パッケージや表題=真実』と仮定(妄信)することへの疑問を強く感じる。