最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。
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水に浸っている部分の茎から根が出ていたのである…!!
アオサギである灰色は、こんな事を考えている人間などを完全無視して一羽寝入っている。
現実的に、手をかけると何故か植物が元気になる法則が在り、それに則っている、それだけなのである。
こっちが沈みに沈んでいる時、それでもやらなきゃならないことをやっている時に限って、そのやっていることを促すような言葉かけをしてもらえる現象が起こるので、そのやっている事が宇宙的に(大規模という意味ではなく)必要なのだと私は悟る。
蛙よまたおいで、お前が飽きなければまたこの庭においで。生きるのに飽きなければ。
人間の分類スキルはどんなに頭脳明晰者であれ、根源的には割り切れる数止まり、つまり自分と他者…それ以外に無い。無論これは私の悩みというよりも、人類共通の不都合さである。
丸くなりはじめの十日の月よ 田の神を 山まで見送り給え 田の神を 山まで見送り給え…
現実では何処にも共感してくれる相手を探し出せないので長々と書くが、白鯨コーヒー店、あの忌まわしい、正式名称白鯨副長採掘山珈琲店が我らがバルミューダとコラボレーションしたというニュース程、俺を悲しませたニュースは無い。
つまり人間の魂は、とても軽いのである。
ゴミ拾いをしているとたまにこういった不可思議なシロモノに出会う。
散文詩【それでも我々奇術師は、トマトを投げ返してはいけないんだ】
いいかい?だからよく聞いてくれ、それでも我々奇術師は、トマトを投げ返してはいけないんだ。辛い事だが、表現者はやり返してはいけないんだ、我々の目的はただ一つ、この世に、感覚的変化をもたらす事、喜びを出現させることなんだから。
運というものの理解が、個人運が上がる→必然的に周囲の人や生き物にもいい影響を与える…という理解になれば、昨今のようながめつい守銭奴的な意味での幸運から解き放たれ、もっと『地球全体の運気』が良くなる気がするのだが…。
君は酸化しているのか 果たして酸化とは老化なのだろうか 僕は土に語りかける
『あたし間違ってないよね?だって正しい事をしたんだから。』
いつもの夢の最中のように初めのうちは『たった一つ』だと思い込んでいるが、たぶんいくつかある。おそらく七つくらい、七の七十倍くらいの手ごたえのある夢を、僕は今見ている、全ての湖は地下深くで繋がっている。
古今東西…果てしない昔から、人間という種族が何故発語によるコミュニケーションを主体としてきたのかを私は今になってようやく理解している。そして良い人、普通の人でなければいけないという縛りが無いために、不思議なほどフラストレーションを感じていない。あんなに喋るのが苦手だった自分がこのように変化したのが本当に面白い。
そしてやはり最も苦しいのは、自分自身が、関与するという行為自体が少数派過ぎるために奇異な目で見られたり完全に無視されたりする事である。綺麗な場所では、関与という事に関して心を開いている人が必然的に多く集まるせいか、この種の孤独を感じたことはあまり無いが、苦しみの道ではその事について考えないようにして淡々と拾い続けてはいても、ゴミは一向に減らないし、無視の連鎖が続いているのを感じている。そのような時には、自分がたった一匹だけで枯れ葉の中で息を殺しているような気持ちになる。どうか私に力を下さいと、祈っている。
砂を水で湿らせると砂汁としか表現できないようなカフェオレ色の液体が生じる。はじめのうちこれについて半信半疑に『衛生的に大丈夫か?』と感じていたが、特にアネモネたちはこの砂汁をカフェオレの如く飲み、見事に発根しているので、おそらくは砂に含まれる何かの成分が、ミイラ化して休眠する球根類によく効くのだと思われる。
このような瞬間を潜在的に追っている、私はそういう人間だ
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最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。
『玉藻の前』のすべての録音編集を終えたとき、登場人物たちが…まるで映画のロケが終わった時のように、内輪で歓声をあげて、それから一人ひとりが素の顔に戻って、そしてどこかへ帰ってしまう…そんな感じがして、今となっては少し寂しいような気もします。
全く個人的に、男の人って挫折した経験のある人特有の色気みたいなものがあるなあと感じたりもする…
色で例えるなら千枝松(主人公)の声は枯草色、みくずの声は珊瑚の明度をさらに上げたような色、陶物のおばあはスグリの実の色みたいな感じ、全員一応、和の色でまとまって一枚の絵になるようなイメージ。
ただ、私は思うのですよ、日本の古来からの『おはなし』というのは、元来かなり音域幅の広いものなのではないか?
この『玉藻の前』を制作するにあたって一番感じたのは…プロの声優の方とかも確かに凄いが、沢山の声をひとつの作品に仕上げているプロの編集の方って、本当に凄腕!という事です。
以上、春先の怪談?でした。
まりもちゃん(キラキラネーム庶民)→みくずさん(中産階級へ)→玉藻さん(クズと付くので改名、上流階級)→玉藻女史(玉藻の前、特権階級)
恋と暴力だけは無くならないような気がしますね。
それにしても人間って色んな声が出るもんだな~と、我ながら面白く思って編集してます。
妲己についても、これ見よがしな悪女なところが却って、ビミョーな良妻賢母キャラよりも好感を抱いてしまう。
この朗読音源はデジタル呪物に該当するのではないか?と危ぶまれる気持ちもあるが…
唄を歌うという行為自体が40年生きてて人生初。
手術中は七転八倒した
有り余るほどの時間を悩んで過ごして、よくよく考えると自分の保身(善悪、善人でありたい、被害者気質)の為如きにしか時間を使ってこなかった
となるとひと針ひと針の重要性は否応にも増す…ので、そのひと針の間に、職人の胸中に種々の想いが逡巡する場合も多々あろう…。
次の一着は、私を何処へ連れて行ってくれるのだろうか…。
この歳で言うのもなんだけど、時間が長い!
地図でいうと若洲、駅名で言えば新木場近辺である。
無論、袖や裾は小さめになるけど横幅は同じであるので、いわゆるSサイズ…ではない。
「宇宙は試してくるなあ」とぼやいたら、『誰でもいつでも試されているよ』と知人に言われてなんとなくハッとする。
ホントは世界の全部の聖典読みたいんですけどね、言語的にもさすがにそれは無理というものなので、和訳されている聖典に着手しているわけです。
ミシンをかけている時なんかも独特の疾走感があって心地よい、国道でも突っ走っているみたいだ。(まだ高速には乗れない感覚が洋裁にはある)
これほど美しいものが漫然と存在していることにただ感動する。
たまに、首都高が見たくてその近辺に連れて行ってもらう
1984年生まれの(しかも足の弱い)39歳でこの作品を朗読出来て、とても嬉しく思う。
『青少年反セックス連盟』の緋色の帯は、みんな身に着けているのです。
帰りの小型飛行機で本土、もとい我が関東平野が見えたとき、江の島が見えたとき、横浜が見えたとき、首都高やら都内のビル群が見えたとき、遠く千葉までもが手の上に収まるように見えたとき、私は思いましたよ。
『1984年』の第二部を処理していたらPCがぶっ壊れた。
つまり私は、ある程度、この作品を本当の事として読んだわけです。
1984年生まれの日本人に宛てた皮肉とも応援ともつかないメッセージを感じずにはいられないのですよ。
つまり、個人が幸福になるには、全体が各々幸福で居た方がいいのだ。
だから声劇の雰囲気もちょっと付け加えて、これは一人芝居なのだという感覚で聴いていただければ幸いです。
やりたいことの優先順位を…難易度が高くても…『自分が感動する要素の大きい順』(他人ではなく自分が感動するかどうか)でやっていかないとならないわけです。
当時の柳田國男と同年代のうちに朗読出来て、良い経験になった。
『パッケージや表題=真実』と仮定(妄信)することへの疑問を強く感じる。