最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。
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学生だった頃の話なんだけど、クラスに全く喋らない女の子が居たのね。喋らないと言うよりも喋れない子、あたしも無口な方だけどそんなの比較にならないほど言葉はおろか発声というものをしない子がいた。
健康とはおそらくこのような事を指すのだ、循環の中に幸福を感じられる物事を指すのだ、自然と人工との融合を指すのだ…自然と人工の融合空間、その最たるものが庭だ、だから私は庭が好きだ、おそらく人生で一番必要不可欠なものが庭である。
すれ違いざまの侮蔑行為に対してどう反応すればこの種の行為は減らせるか?
すれ違いざまに嘲笑してくる人及び現象について
「誕生日!」と言って僕は透明なアクリル樹脂の立方体に包まれたエメラルドの原石を渡した。君はそれを窓から差し込む陽光にかざして見せて呟いた『まるで地球みたい、宇宙に浮かぶ地球みたい』
聖女よあなたの言う通り 神のみにて足りる
川の中に入るとよくわかる、今年は水量が少ない、その水量の少なさに相まってヘドロが大量に発生している。しかもこのヘドロには、数多の人工物…例えば固形洗剤と思しきものが固まったようなものや、ボロボロに風化したゴミが含まれる…これで水量が少ないのだからこれは最早川というよりもドブである。水量が多かったらまだしもしのげただろうが、そこらじゅうにいた目視可能な魚も姿を消している、沢蟹も元来もっと沢山いた。
だから生きてるってことは…究極的には助け合いなんじゃないかと、夢見がちな欠落品たる俺は信じてしまうわけだ。
女は霊魂となって『今』でも森の中、様々の時間の一点に向かって語り掛けているのだ、よって森は今でも続いている、焚火は今も尚燃えている…森の人の時代は今でも続いている。
手荷物をひったくり、武者震いのようになっている手で風呂敷を解いて一口煽った。 …頭の奥深くに光る酒が染み込んでゆくのがわかる…! 斧が目の前に落ちてようやく自分が酔っ払っている事に気付くと彼は酒と斧とだけを持って小屋に引き返した。
翌週から爆撃が開始され、病院は…この看護修道女の隠しておいた骸骨の聖母の素描もろとも跡形もなく焼き払われた。
老婆は中年の孫を見て微笑んだ。男が黙っているのを見ると独り言のように呟いた『街の中心広場がごみ溜めじゃあこの街は遠からず終わる、今よりもっと腐敗するよ、勿体ないね、せっかく聖者様が信じる者たちを連れてきて住まわせたのがここの始まりなのに…本当は誰かが何とかしなくちゃいけない、でも見て見ぬふりさ、あたしだってそう』 南米イメージ小説。
男は生まれた時から粉を吹いているような子供だった。両親は乾燥して皺だらけの老人めいた赤ん坊の有様におののき、数時間おきに祈りながら保湿クリームを塗って神に赦しを請うた。外界との境目の薄いこの子供の心はまだ天国に在るようで、痒さに泣く一方で人工的な皮膜を作られるのを酷く厭うて癇癪を起した。 ※アトピー経験者、そして常に身体が痛む者として、生と死と苦しみと喜びに実は境目は無いという自戒を込めて書いた自殺ほう助短編小説。 作者としてはこの小説をとても気に入っています。 また、作中差別的な表現や批判的表現がありますが、思想的な思い入れは皆無です、ご了承ください。
一体の浄瑠璃人形に心を奪われた米屋の若旦那、冷ややかなその妻、人形と人間の織り成す江戸時代イメージ小説。
鬼子母神の涙は塩辛い、やや子をたらふく喰らっていたからやや子の分まで塩辛いそうじゃないそうじゃない鬼子母神の涙は糖蜜のように甘くて甘くて乳のように温かいやや子をたらふく喰らっていたから肥えているやや子をたらふく喰らっていたから飢えているやや
紺碧の空を行く旅人は大きな荷物を抱えていたが疲れのせいかその鞄の紐が緩んでいた。あっ…と思ったときにはこれから名付けるべき名前たちが小さな銀の鈴の音を立てながら雪のように鞄から舞い落ちてしまった。
恥の中にも種類があって、ただ気恥ずかしいとか恥をかいたという意味での恥ではなく、自分と対峙した相手がとても尊いので恥じ入るような気持ちになるような意味での恥を私は『聖なる恥』と呼んでいる。
人々は魚の群れみたいに渦を巻いて移動している、私はその渦をこちら側から見ているだけ。 何かが決定的に変わってしまった、これでもぎりぎりまで粘って粘って、そのざまがこれだ。
わかっていて人を殺しました、何かに招かれるように庭に出たら野原一面に赤い光が漏れていました。 ロザリオの鎖を組む仕事の手を休め、夕暮れの空気を、赤い光とともに吸い込みました。
私も杖をつくまでは『冷ややかな嘲笑的態度』よりも『怒り』のほうがマシだとは実感出来なかった、そのほうが対等だという感覚が無かった。
神の子が地上で磔刑に処されてから幾百年、牧草地を横切り、荒野を彷徨い歩きながら素裸の佯狂者の男は両手を世界へ向けて広げた。全ては神の恩寵に包まれていた。
『俺は地上に居るべきじゃない、地中を泳ぎたいんだ』この発言から彼のあだ名はモグラ男となった、かくしてモグラ男は地中を泳ぐ事となった。 ほのかなSF短編小説。
ここ一年余り『コロナに負けるな』という印刷文字と共にラミネートされたガンダムの手書きイラストが近隣の公園掲示板の片隅に貼られていて、俺も気になってはいた。
「世界を一度破滅させなきゃいけないんだ、わかるかい、これは聖戦、君ならわかるはずだ、今支配しているこの思想体系に於いて異端である君ならばわかるはずだ、魂に問いかけるまでもない、君は悩んでいる、しかしその悩みは辿っていくと社会に結びついていることを多くのものは認めようとすらしない。」
この背比べの根源は【自分だけが損をしている】という強い欠乏感と欲求である。
LEDのロウソクランプを見ていたら唐突に母の母乳の味が口いっぱいに広がった。その次には妹の為に暖められた粉ミルク入りの哺乳瓶を親の見ていない隙に盗み飲みし、フフフ意外と旨いと一人ほくそ笑みながら残りを妹にくれてやった事を思い出す。
メイドイン神になりたいのあたしは 神に造られたものとして生きていたいのいつだってそう
すべての黄色人種及び黄色人種の血を近く継いでいる人々は、それでも自分たちに対して何処か自罰的で、ヨーロッパの街並みにアジア人観光客が溢れているのを『マイナス』評価し、日本の京都や白川郷なんかに白人様や白人の振る舞いをする黒人殿たちが観光にいらしてるのは『プラス』評価もプラス評価、なあ、僕らは潜在的に白人を崇めているのか?
女は意識が遠のいてからの日数を覚えておらず、気がついたらこの空港へ来ていた。 自分の肉体が、あの趣味の良い静かな家の中で腐敗し、破裂し、どこからともなく小さな虫たちが湧き出でて、彼等の新たな王国の苗床になっていることなど女にとってはもう些末な事柄だった。
モデムの音はもうしないけれど、あのときの赤い音もきっとまだ呼応している。
僕は夜の浜辺で電話帳を燃やしていた、バイクは道路の脇に停めてある、地元の浜辺には今、僕一人しか居ない、夏場はここに幽霊が出るという理由で人が探索しに来たりもするけど冷え冷えとした夜には幽霊を含めて誰も来ない。
ステージの中央に立つアカペラ少年はにこやかに唄っていた、たった一人の男子中学生に大勢の拍手が浴びせられる、アカペラ少年は妙に場慣れした様子でお辞儀をした。 奥様方、ご静聴ありがとうございます、とでも言いたげに優雅に礼をした。 制服のスカートがきつい、どういうわけだか胸を締め付ける構造の紺色のベストもきつい、この沸き立つ空気も…私が吸うには色彩が明るすぎる…少女はそう思い身を固くした。
褐色の肌をした老婆は道路へと一歩また一歩と踏み出していた、売春宿へと続く干からびた道を老婆はよたよたと歩き、一つ一つ、投げ捨てられたゴミを丁寧に拾っては袋へと入れていた、その袋からは拾ったゴミがぽろぽろとこぼれ落ち、再び路上へ転がっていった。
四半世紀前の何の役にも立たない瑪瑙の風鈴だとか修復済みの蓄音機、とある殺人鬼愛用のソファー、人間の生皮で作られた鹿のはく製をかたどったもの、本物のオニキスで出来た石の貞操帯やら、かの高尚な修道士が悪魔祓いに使ったベネディクトの黒い十字架、悪名高い娼婦の使い古しの下着…もっともこれを履いていたのはそのお客である殿方らしいが…まあこういう事も含めて嬉しがる客と言うのが居るんだ。
真夜中二時の美術大学に僕は今、忍び込んでいる。
「貴方は綺麗だから」って言われるのが実は俺は大嫌いなんだ、でも昔から言われるんだ俺は、貴方は綺麗だからって何度も何度も、幾人もに言われ続けてるんだ。
五十音順を一語ずつ感覚的に紐解く。 あ…赤い色、○に近いかたち、現在 い…紅の強い糸、時間は無い、軸 う…地面の方へと引きずる引力、地面へと引き込む強い引力、沼のような力、過去、紫色…
悪魔ロベルトを悪魔にしたのは誰のせい? 贖罪の血を飲んでしまったの 購いの血を飲んでしまったの
だから私は投網する 夜空に投網するのだ
首都高速の高架下、コンクリート色の、大きな川辺のすぐそばにあの木は植えられていた、高架下と交差するように架けられた橋の片隅に、人よりも人らしい、おしゃべりな一本の木が居ることを、緑色の夜の光を見た私は、知っているのだ。
ここは古代海だったというので、この空想もあながち間違ってはいないだろうと、私は一人わだつみの神のおわします海の底の神殿で、汚れを掻き出して美を奉納しているのだと勝手に想像しながら、私は働くのです。
植物の持つ光をアクリル絵画で表現してみました。
日本神話のオオゲツヒメをモノクロイラストで表現してみました。
日本神話のアメノサグメをモノクロイラストで描いたものです。
サンタムエルテ、サンタムエルテ、汝殺すなかれと言うなかれ
いつか金銭的な罪悪や、環境や経済状況に左右されずに日々自己表現してゆける社会が到来しないかなと切に願っている。
音圧戦争勃発から、まるで爆発音を模倣したような振動音を聴いて育った哀れな人々。 彼等はこぞって自分の声音を機械信号変換音に圧縮して野放図にたれ流そうと躍起になっている。
あー、これはちょっと話しにくい事だから名前は伏せさせてくれない?…って言ってもまあ、ゲーム実況者が実況中に死亡、しかもゲーム内でもバットエンドが流れたその時に脳梗塞起こしてぶっ倒れてそのまま数時間放置の後、母親が部屋に入ってきて昏睡してる俺を見て取り乱すまでの全部の音声、救急隊員が二階の自室まで上がってきて死後硬直しはじめてる俺を運び出すまでの全部がネットで実況中継されてしまったわけだから、そんなものは実況者、発作、バットエンドで検索すればすぐ出てきちゃうんだけど、俺もこれでも恥ずかしいからあんま検索してほしくないわけ。
ゴミ拾いの最中に手に取ったのは妊娠初期のエコー写真。 ポラロイドみたいな即席写真は女の手のひらに収まるくらいの小さな紙切れ、このような命の切れ端が早朝の大通りの片隅に隠れるように落ちている。
本当にこのような感じで他人様のお古の芥子色のワンピースを貰ったことがあるのです…。
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最近(ここ一年)唄うようになって、どうも頭の具合が変化したように思えます、だからこんな不可思議な夢を見たのだろうと思う、ぼちぼちやっていきます。
『玉藻の前』のすべての録音編集を終えたとき、登場人物たちが…まるで映画のロケが終わった時のように、内輪で歓声をあげて、それから一人ひとりが素の顔に戻って、そしてどこかへ帰ってしまう…そんな感じがして、今となっては少し寂しいような気もします。
全く個人的に、男の人って挫折した経験のある人特有の色気みたいなものがあるなあと感じたりもする…
色で例えるなら千枝松(主人公)の声は枯草色、みくずの声は珊瑚の明度をさらに上げたような色、陶物のおばあはスグリの実の色みたいな感じ、全員一応、和の色でまとまって一枚の絵になるようなイメージ。
ただ、私は思うのですよ、日本の古来からの『おはなし』というのは、元来かなり音域幅の広いものなのではないか?
この『玉藻の前』を制作するにあたって一番感じたのは…プロの声優の方とかも確かに凄いが、沢山の声をひとつの作品に仕上げているプロの編集の方って、本当に凄腕!という事です。
以上、春先の怪談?でした。
まりもちゃん(キラキラネーム庶民)→みくずさん(中産階級へ)→玉藻さん(クズと付くので改名、上流階級)→玉藻女史(玉藻の前、特権階級)
恋と暴力だけは無くならないような気がしますね。
それにしても人間って色んな声が出るもんだな~と、我ながら面白く思って編集してます。
妲己についても、これ見よがしな悪女なところが却って、ビミョーな良妻賢母キャラよりも好感を抱いてしまう。
この朗読音源はデジタル呪物に該当するのではないか?と危ぶまれる気持ちもあるが…
唄を歌うという行為自体が40年生きてて人生初。
手術中は七転八倒した
有り余るほどの時間を悩んで過ごして、よくよく考えると自分の保身(善悪、善人でありたい、被害者気質)の為如きにしか時間を使ってこなかった
となるとひと針ひと針の重要性は否応にも増す…ので、そのひと針の間に、職人の胸中に種々の想いが逡巡する場合も多々あろう…。
次の一着は、私を何処へ連れて行ってくれるのだろうか…。
この歳で言うのもなんだけど、時間が長い!
地図でいうと若洲、駅名で言えば新木場近辺である。
無論、袖や裾は小さめになるけど横幅は同じであるので、いわゆるSサイズ…ではない。
「宇宙は試してくるなあ」とぼやいたら、『誰でもいつでも試されているよ』と知人に言われてなんとなくハッとする。
ホントは世界の全部の聖典読みたいんですけどね、言語的にもさすがにそれは無理というものなので、和訳されている聖典に着手しているわけです。
ミシンをかけている時なんかも独特の疾走感があって心地よい、国道でも突っ走っているみたいだ。(まだ高速には乗れない感覚が洋裁にはある)
これほど美しいものが漫然と存在していることにただ感動する。
たまに、首都高が見たくてその近辺に連れて行ってもらう
1984年生まれの(しかも足の弱い)39歳でこの作品を朗読出来て、とても嬉しく思う。
『青少年反セックス連盟』の緋色の帯は、みんな身に着けているのです。
帰りの小型飛行機で本土、もとい我が関東平野が見えたとき、江の島が見えたとき、横浜が見えたとき、首都高やら都内のビル群が見えたとき、遠く千葉までもが手の上に収まるように見えたとき、私は思いましたよ。
『1984年』の第二部を処理していたらPCがぶっ壊れた。
つまり私は、ある程度、この作品を本当の事として読んだわけです。
1984年生まれの日本人に宛てた皮肉とも応援ともつかないメッセージを感じずにはいられないのですよ。
つまり、個人が幸福になるには、全体が各々幸福で居た方がいいのだ。
だから声劇の雰囲気もちょっと付け加えて、これは一人芝居なのだという感覚で聴いていただければ幸いです。
やりたいことの優先順位を…難易度が高くても…『自分が感動する要素の大きい順』(他人ではなく自分が感動するかどうか)でやっていかないとならないわけです。
当時の柳田國男と同年代のうちに朗読出来て、良い経験になった。
『パッケージや表題=真実』と仮定(妄信)することへの疑問を強く感じる。