2024年11月1日 この日の城巡りは高知城と岡豊城で終了だったが、今回の四国旅...
2024年11月1日 この日の城巡りは高知城と岡豊城で終了だったが、今回の四国旅...
岡豊城 続日本100名城 No.180 高知県南国市岡豊町 信濃から土佐へ移住した長宗我部氏が13~14世紀に、国分川畔の岡豊山(標高97m)の上に築いた山城。戦国時代、長宗我部氏を含む「土佐七雄」が抗争を繰り返し、岡豊城は一度落城するが、1518年に長宗我部国親が復帰する。国親の子・元親の時代に長
高知城 日本100名城 No.84 高知県高知市丸ノ内 高知平野中心の大高坂山に築かれた平山城。南北朝時代に築かれた大高坂山城が基とされ、戦国時代には岡豊城の長曾我部氏が本拠をここに移そうと計画したこともあった。長宗我部氏が関ヶ原の戦いで敗軍の将となって改易され、代わって土佐に入って土佐藩を立てた山
3連休に有給休暇1日をプラスして4連休にして、四国へ。四国は伊予(愛媛)の100名城・続100名城は2021年に制覇していたが、その他の3県の名城はまだスタンプを1つも頂けていない。今回はその3件の名城制覇が目標だ。ただ、随分前から予定していた旅だったが、直前になって台風が日本をかすめる気配となり、
多気北畠氏城館 続日本100名城 No.153 三重県津市美杉町上多気 南北朝時代、南朝方だった伊勢国司の北畠顕能(田丸城を築いた北畠親房の三男)によって築かれた居館(多気御所)。西背後の霧山の上に築かれた詰城・霧山城と併せて「多気城」を構成する。跡地の北畠神社には国の名勝に指定されている庭園や「中
三重100名城・2024年―多気北畠氏城館、田丸城 - 日本100名城
前日東京から乗車した夜行バスで朝の6時半頃、三重県・松阪駅に到着。松阪には前年12月に松阪城などの城巡りとみえ松阪マラソン出場のため既に訪れていたが、その時はマラソンの前後に訪れるには厳しい山城への登城を見送っていたので、今回はその時の「忘れ物」を回収しに来た格好だ。駅近くで朝食後、7時32分、JR
唐沢山城 続日本100名城 No.114 栃木県佐野市富士町 平安時代の927年、のちに平将門の乱を鎮撫する藤原秀郷が下野国押領使を叙任し関東に下向して唐沢山に城を築いたのが始まりとされる。その後一時廃城となるが、1180年、秀郷より数えて9代の俊綱の弟・成俊が再びここに城を再興し、城は鎌倉時代に亘
北関東100名城(5)―佐野城、唐沢山城 - 日本100名城
栃木の名城もあと1つ。13時43分、JR両毛線に乗車して足利を出発。13分で佐野駅に到着し、下車。次の目的駅にコインロッカーが無いため、ここでコインロッカーに荷物を預ける。そのまま乗り換えようと東武線の改札に向かうと、「城山公園口」と書かれた案内板が目に入った。「城山」ということは、ここにも城があっ
金山城 日本100名城 No.17 群馬県太田市金山町 1469年、新田一族であった岩松家純により築城された山城。四方に延びる尾根を中心に金山を利用して曲輪とし、これを堀切・土塁・石垣や石敷きなどで固く守る難攻不落の名城だった。1528年頃に横瀬泰繁・成繁(のち由良に改姓)親子が城主の岩松昌純を殺害
足利氏館 日本100名城 No.15 栃木県足利市家富町 平安時代末期に、後の足利尊氏ら足利氏の祖・源義康が築いた居館。鎌倉時代初期、足利義兼が持仏堂、堀内御堂を建立して以降、真言宗大日派の本山であり、足利氏の氏寺である鑁阿寺(ばんなじ)として整備される。現在も館の名残である土塁や水堀が巡らされてい
北関東100名城(4)―足利氏館、金山城 - 日本100名城
群馬の名城を巡って前夜、県境を少し越えて栃木・足利駅前の宿で一泊。今回の名城巡り最終日は、栃木と、群馬で昨日行き切れなかった名城を巡る。早朝。まずは足利市内にある足利氏館(日本100名城 No.15)を訪れる。足利氏館は平安時代末期に、後の足利尊氏に始まり室町幕府の将軍を歴任した足利氏の祖・源義康が
沼田城 続日本100名城 No.116 群馬県沼田市西倉内町 利根川と薄根川の合流点東の台地上に1532年、沼田顕泰により沼田氏の拠点として築城された丘城。1560年、長尾景虎(上杉謙信)に落とされ、以後軍事上の重要拠点として上杉氏・後北条氏・武田氏の間で争奪戦が行われる。1580年、沼田城は武田方
名胡桃城 続日本100名城 No.115 群馬県利根郡みなかみ町下津 利根川と赤谷川の合流近くの断崖部に築かれた山城。1492年に沼田城の支城として上野沼田氏によって名胡桃館が築かれたのが最初とされる。1579年、武田勝頼が家臣の真田昌幸に命じて、後北条氏から沼田領を奪取するための前線基地として、昌
北関東100名城(3)―名胡桃城、沼田城 - 日本100名城
群馬・渋川から西方向の岩櫃城探訪を終えてJR吾妻線で、一旦渋川に帰還。渋川駅前の店で昼食を頂いた後、今度は上越線に乗車して北へと向かう。午後から目指したのは、名胡桃城(続100名城No.115)と沼田城(続100名城No.116)。いずれも岩櫃城同様、真田氏ゆかりの城で、後北条氏などの度重なる侵攻に
岩櫃城 続日本100名城 No.117 群馬県吾妻郡東吾妻町原町 群馬県吾妻川北岸の岩櫃山中腹に築かれた山城。伝説では、この地を鎌倉時代に治めた吾妻太郎助亮が築城したと伝わる。戦国時代に吾妻氏の子孫と称する斉藤憲次が岩櫃城を奪い、その子である斉藤憲広は上杉氏に属し、岩櫃城を拠点として吾妻郡一帯の地侍
群馬・渋川駅に隣接している宿で朝を迎える。予定の列車は6時50分発だが、宿の朝食は6時30分から。カレーライスに玉子焼き2切れを大急ぎで書き込んで駅へと向かう。 乗った路線は、西へ向かう吾妻線。40分ほどで到着した郷原駅で下車すると、北の空の下に奇岩をむき出しにした岩櫃山が屹立している。今回目指す名
箕輪城 日本100名城 No.16 群馬県高崎市箕郷町東明屋 戦国時代中期の16世紀前半、上野国西部を支配していた長野氏により榛名白川河畔の丘陵地に築かれた平山城。東西約500m、南北約1100m、面積約47haに及ぶ。長野氏は上杉氏(謙信)の後ろ盾を得て箕輪衆と呼ばれる在郷武士団を束ね、度々繰り返
忍城 続日本100名城 No.118 埼玉県行田市本丸 1478年ごろ、地元の豪族・成田正等・顕泰父子がこの地を支配していた扇谷上杉家に属する忍一族を滅ぼし、築城したといわれる。広大な沼地に島や自然堤防を巧みに利用して建造され、難攻不落の名城と呼ばれる。1479年、扇谷上杉家に忍城を攻められるも同家
夏。特に2024年の夏は「観測史上最高の暑さ」と言われた。そんな夏真っ盛りのこの日、私が下り立った駅はよりによって「日本一暑い街」ともいわれる埼玉の熊谷駅だった。なぜ一番暑い夏の一番暑い街に来てしまったのか...それは、これから始めようとしている北関東の群馬・栃木の城巡りはJRの在来線を多用すること
9時41分、御殿場ルート頂上から下山開始。吉田ルートしか下ったことが無ければ「下りは楽」と考えてしまうだろうが、それ以外のルートでは「下りだから楽」ということは無い。確かに息は楽だが、岩がち且つ砂がちで勾配のある御殿場ルートでは、下りで足を踏み外したり滑らせたりしてしまうリスクがある。下りだからこそ
富士山登山道の山小屋で迎える早朝。山頂での御来光にこだわる人々は午前3時前に出発するが、私はもうこだわっていないので、4時半ごろにゆっくりと起床する。ここ七合五勺でも御来光は問題なく見ることができる。4時50分、眼下に広がる雲海の「雲平線」の東に小さな赤い点が現れたかと思うと、みるみる大きくなり、見
2024年8月2日 すっかり雲も晴れた宝永山頂上から暫く、宝永火口や富士山頂の景色を楽しむ――いや、この景色に「楽しむ」という言葉は相応しくない。自然の力強さ、と言うよりは「凶暴さ」と言ってしまっても...
ここ数年で、8月の第1金~土曜日は私にとってすっかり富士登山の日となってしまっていた。登りを平日に当てることで混雑を回避できるし、あとこれは偶然ではあるのだが、不思議と天気に恵まれるのである。ということで、今年も8月の第1金曜日のこの日、富士登山に出掛けることにした。JR東海道線で静岡・三島駅まで行
長野100名城・2024年(2)―松本城、小諸城 - 日本100名城
長野・松本駅前の宿で朝を迎え、6時前から早朝ジョギング。無論、国宝・松本城を絡めて4㎞走る。しかしこの時間はまだ100名城のスタンプが頂けない。宿に戻って朝食・チェックアウトの後、もう一度松本城を目指す。その前に、松本城の北にある旧開智学校を訪れる。明治時代に築かれた小学校の校舎で、現在では教育博物
松本城 日本100名城 No.29 長野県松本市丸の内 戦国時代、信濃守護家の小笠原貞朝が林城の支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれる。小笠原氏は武田氏の侵攻により一時失地するが、武田氏の滅亡で再び奪還。深志城を松本城と改名する。豊臣秀吉の天下統一後、小笠原氏は徳川家康と共に関東に移
高遠城 日本100名城 No.30 長野県伊那市高遠町東高遠 長野県伊那市の三峰川と藤沢川が合流する間に建てられた平山城。戦国時代、諏訪氏一門の高遠頼継が居城とし、諏訪氏当主の頼重と反目し武田晴信(信玄)の諏訪攻略に協力するが、諏訪の領有を巡り武田氏と対立し1545年、武田氏に攻め落とされる。以後高
高島城 続日本100名城 No.130 長野県諏訪市高島 長野県諏訪湖の南岸に、豊臣秀吉家臣の日根野高吉によって1592~1598年にかけて築かれた「織豊系城郭」。総石垣造りで望楼型3重5階の天守も築かれる。1601年以降は諏訪氏が封ぜられ、以後明治維新まで諏訪氏が城主を務める。当時は諏訪湖に突き出
長野100名城・2024年(1)―高島城、春日城、高遠城、松本城 - 日本100名城
2024年7月20日 今年も青春18きっぷの夏が来た。 18きっぷ期間最初の土日...
延岡城 続日本100名城 No.195 宮崎県延岡市東本小路 天下を統一した豊臣秀吉の命で延岡の地に赴任した高橋元種が1603年、 五ヶ瀬川と大瀬川の中州にある延岡山に築城した平山城。元種が改易された後は有馬氏、三浦氏、牧野氏が城主を務める。有馬氏の代の改修で1655年、天守代用の三階櫓が築かれるが
宮崎・延岡駅前で一夜を明かし、今回の城巡りの旅の最終日を迎える。最後に巡る城は、延岡城(続100名城 No.195)。天下を統一した豊臣秀吉の命で延岡の地に赴任した高橋元種が1603年に築城し、その後有馬氏、三浦氏、牧野氏、内藤氏の居城となった城だ。延岡駅から延岡城へは、歩いても20分強。朝の8時前
佐土原城 続日本100名城 No.196 宮崎県宮崎市佐土原町上田島 14世紀半ば頃、伊東氏の一族田島休助により田島城として建てられる。戦国時代、本家筋の伊東氏が田島氏を滅ぼして入城する。1536年、田島城は焼失し、1543年、跡地に新しく鶴松城として建てられる。その当時の城主・伊東義祐は飫肥の島津
宮崎県日南市飫肥からの列車で12時16分、宮崎駅に到着。次の城へのアクセス方法は幾つかあったが、天気が朝の飫肥から続く比較的強い雨だったことがあって、私は大きなボストンバッグを抱えてウロウロしないで済むよう、宮崎駅のコインロッカーに荷物を預けて宮崎駅⇔城をバスで往復する方法を採った。宮崎駅西口から2
飫肥城 日本100名城 No.96 宮崎県日南市飫肥 南北朝時代に土持氏が築城したのが始まりとされる。戦国時代、島津氏と伊東氏との間で飫肥を巡り80年にわたる争奪戦が繰り広げられ、1567年、伊東義祐が一度は飫肥城を手に入れて子の伊東祐兵に飫肥の地を与えるが、1572年、伊東氏は木崎原の戦いに敗れて
夕方6時前、鹿児島・志布志から乗車したJR日南線の列車が宮崎・日南市の飫肥駅に到着。駅から歩いて街中に向かうと、川の手前で「是より飫肥城城下町」という石碑が出迎えた。そう。この街で目指す城は飫肥城(100名城 No.96)だ。ここ飫肥の地は戦国時代、島津氏と伊東氏との間で争奪戦が繰り広げられ、一時は
志布志城 続日本100名城 No.197 鹿児島県志布志市志布志町帖 鹿児島県東部の志布志湾に面した志布志の山に築かれた内城・松尾城・高城・新城の4つの城郭の総称。築城年代は不明だが、南北朝時代には内城と松尾城が存在していた。12世紀から救仁院氏、楡井氏、畠山氏、新納氏、肝付氏が入れ代わり立ち代わり
鹿児島市から次の名城がある志布志へ。同じ鹿児島県とはいえ、鹿児島は薩摩半島、志布志は大隅半島の太平洋側と結構離れている。しかもこの区間は1987年に国鉄志布志線が廃線となって以降、鉄道でアクセスしようとすると宮崎県南部の都城、宮崎、日南を経由とかなりの遠回りになってしまう。従ってバスでの移動というこ
鹿児島・宮崎100名城(2)―鹿児島城(城山) - 日本100名城
前日に鹿児島城を滑り込みセーフで訪れてスタンプを頂き、下の城は一応巡ったが、上の城、即ち城山は訪れていない。鹿児島中央駅前の宿で一夜を明かし、この日の朝一番で巡ることにした。城山は、元は上山氏の居城であった上山城が建てられていた山だ。上山城は上山氏が島津氏に押されて退去すると廃城となるが、島津氏によ
鹿児島城 日本100名城 No.97 鹿児島県鹿児島市城山町 元は上山氏の居城であった上山城跡である、鹿児島湾と桜島を望む城山の麓に、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康の脅威に対抗する手段として、それまでの居城だった内城に代えて、1601年より島津忠恒(家久)により築城される。以後明治の廃藩置県まで、島
知覧城 続日本100名城 No.198 鹿児島県南九州市知覧町永里 平安時代末にこの地の郡司・知覧忠信が城を構えたのが始まりとされる。室町時代、足利尊氏の下文により島津忠宗の三男・佐多忠光が領主となり、伊集院氏の配下となった一時期を除き佐多氏が代々治める。標高170mのシラス台地上に築かれた広大な山
鹿児島・宮崎100名城(1)―知覧城、鹿児島城 - 日本100名城
午前10時少し前、羽田からの日本航空便が鹿児島空港に到着。今回は鹿児島と宮崎の100名城・続100名城を巡る。空港から鹿児島中央駅に移動してこの日の宿に荷物を預け、バスで薩摩半島南部にある南九州市知覧へ向かう。これから向かう城へは中郡バス停で下りるのが最短だが、せっかくなので1つ手前の武家屋敷入口バ
川越城 日本100名城 No.19 埼玉県川越市郭町 室町時代、関東管領・上杉氏と古河公方の対立の中、1457年に扇谷上杉氏の上杉持朝が家宰の太田道真、太田道灌父子に築かせた城。「道灌がかり」と呼ばれる連郭式縄張りで築かれた。16世紀には後北条氏に攻められ、1537年、後北条氏に奪取される。その後は
鉢形城 日本100名城 No.18 埼玉県大里郡寄居町鉢形 荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁上の天然の要害に1476年、関東管領・山内上杉氏の家臣・長尾景春によって築かれた城。1564年、小田原の後北条氏の北条氏邦が入城。氏邦により整備拡張され、後北条氏の上野国支配の拠点となる。その強固さゆえに武田信
埼玉・嵐山町の菅谷館、杉山城を訪れた後、東武東上線で更に北上。寄居駅で下車して少し歩く。やがて大きな川に行き着く。荒川だ。南岸は切り立った断崖になっている。この断崖の上に建つのが鉢形城(100名城 No.18)だ。鉢形城は戦国時代に山内上杉氏の家臣・長尾景春によって築かれ、のちに入城した小田原の後北
杉山城 続日本100名城 No.119 埼玉県比企郡嵐山町杉山 鎌倉街道を見下ろす丘陵の尾根上に10の郭を配置して築かれた城。郭とそれに伴う堀や土塁のほか井戸跡などの遺構が残る。城主や築城年代についての記録は無く、後北条氏の時代のものと推測されてきたが、21世紀に入ってからの発掘調査により、戦国時代
菅谷館 続日本100名城 No.120 埼玉県比企郡嵐山町菅谷 比企丘陵中央の都幾川の畔に築かれた、鎌倉幕府の有力御家人・畠山重忠の館だったとされる城址。その後15世紀後半に至るまでの変遷は記録に無く、戦国時代に入り1488年、菅谷原で山内上杉家と扇谷上杉家が争い(須賀谷原合戦)、その前後に山内上杉
2024年ゴールデンウィークの前半最終日。終日自由に使えたので、日帰りで埼玉の名城を巡りに出かけた。埼玉は戦国時代に山内上杉・扇谷上杉・古河公方が三つ巴の争いを行うが、最終的には小田原の北条氏(後北条氏)が関東を平定した――という歴史背景を予め知っておくと、この後が分かり易い。東京・池袋駅から東武東
和歌山城すぐ横のホテルで一夜を明かして、早朝、和歌山城周回のジョギング。1周ちょうど2㎞あるところを2周した。追廻門、不明御門、南東から北側に延びる堀、一の橋と大手門、御橋廊下など、いろいろな角度からの和歌山城の気色を楽しみながら走る。満開ではないものの、桜もちらほら見ることができた。ランニングの後
和歌山城 日本100名城 No.62 和歌山県和歌山市一番丁 安土桃山時代、織田信長と羽柴秀吉が紀州征伐を行い、副将軍として参陣した秀吉の弟・豊臣秀長は紀州平定後に紀伊・和泉を加増され、秀吉の命により紀の川畔の「若山」と呼ばれた地(のち「和歌山」)にある虎伏山の山頂に、藤堂高虎らに普請させて1年で築
岸和田城 続日本100名城 No.161 大阪府岸和田市岸城町 南朝方の武将・楠木正成の部下である和田高家が「岸」に城を築いたのが「岸和田」の始まりとされる。15世紀後半に現在の場所から約500m南東に山城が築城され(岸和田古城)、のち現在の場所に移築される。1585年、羽柴秀吉の紀州根来寺討滅の後
関西中部100名城(5)―岸和田城、和歌山城 - 日本100名城
大阪南部の千早城攻城を果たし、次を目指す。奈良市からここまではずっと近鉄線だったが、この先は南海電鉄利用。河内長野駅から大阪市の天下茶屋駅まで北上し、南海本線に乗り換え和歌山方面へ向かう。その途中にあるのが、岸和田城(続100名城 No.161)。当初の予定ではこの日の閉園時間に間に合わず翌日に回す
千早城 日本100名城 No.55 大阪府南河内郡千早赤阪村千早 鎌倉時代末期、のちに南朝方につく楠木正成が赤坂城の詰めの城として金剛山中腹に築いた山城。四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇った。1333年、後醍醐天皇による倒幕計画に呼応した正成は鎌倉幕府軍に包囲されるがこれを迎え撃つ(千早城の戦い)。こ
宇陀松山城 続日本100名城 No.166 奈良県宇陀市大宇陀拾生 宇陀の国人(宇陀三将)の秋山氏が標高473mの古城山に築いた山城(阿紀山城/秋山城、神楽岡の城)が始まり。南北朝時代には構えられていたとされる。1585年、豊臣秀長の大和郡山入部に伴い秋山氏は宇陀から退去。加藤氏、多賀氏などの城主の
関西中部100名城(4)―宇陀松山城、千早城 - 日本100名城
奈良県桜井市の宿で1泊し、朝食を頂いてすぐにこの日1つ目の名城に向かう。近鉄大阪線に乗って東へ。桜の名所・長谷寺を通過し、榛原駅で下車。大宇陀行きのバスに乗り換えて宇陀松山城(続100名城 No.166)に向かう。宇陀松山城は宇陀の国人(宇陀三将)の秋山氏が標高473mの古城山に築いた山城だ。戦国時
関西中部100名城(3)―高取城ほか・2 - 日本100名城
「木彫りの熊」に案内されるようにして高取城本丸上部への坂道を上る。最後の門と虎口を通過して到着した場所が、広さ4500平方mにもなる本丸広場だ。北西隅に、先ほど下から見上げた天守台がある。往時には連立式3重3階地下1階の天守閣が築かれたという。高取城と同じく日本三大山城の1つに数えられる備中松山城の
高取城 日本100名城 No.61 奈良県高市郡高取町高取 標高584mの高取山の頂に築かれた山城。岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城に並ぶ日本三大山城の一つに数えられ、麓から本丸までの高低差(比高)は390mと日本一である。南北朝時代、南朝方の越智邦澄が築城したのが始まり。戦国時代、証如軍(一向一
関西中部100名城(2)―高取城ほか・1 - 日本100名城
11時10分、飛鳥駅から近鉄吉野線で1つ南の壺阪山駅へ。次に向かう城は、高取城(100名城 No.61)。岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城に並ぶ日本三大山城の一つに数えられる、標高584mの高取山の山頂に築かれた山城だ。麓から本丸までの高低差(比高)は390mと日本一である。戦国時代、織田信長の死
大和郡山城 続日本100名城 No.165 奈良県大和郡山市城内町 鎌倉時代の1162年に郡山衆が雁陣之城を築いたというのが最も古い記録として残る。戦国時代には織田信長に臣従した筒井順慶軍の拠点となり、1580年に信長から大和国では一城のみとする破城令が発せられたことから、順慶は従来の本城だった筒井
関西中部100名城(1)―大和郡山城ほか - 日本100名城
午前6時20分すぎ、前日23時すぎに横浜を出発した夜行バスがJR奈良駅に到着。今回はここから、奈良県、大阪府南部、和歌山県北部の100名城、続100名城を巡る旅を始める。その前に、せっかく9年ぶりに奈良市に来たことなので、朝の短い時間を利用して興福寺と東大寺の大仏だけ訪れる。到着時は生憎の雨で、奈良
2024年2月24日2月下旬。早咲きの河津桜の季節だ。神奈川県西部の富士山に近い松田町では、河津桜の向こうに富士山を見ることができるスポットがあるという。天気のいい休日に出掛けてみた。 小田急線の新松...
尾張100名城―小牧山城、犬山城(写真撮影のみ) - 日本100名城
三重での城巡り・マラソン大会参加を終えて、帰途に就く。近鉄名古屋線で名古屋着。ここから新幹線で関東へ――と、その前に、2020年に訪れた尾張の城の中で、写真撮影に満足していないものがあったので、撮影のやり直しのために再訪することにした。名鉄名古屋本線に乗って、岩倉駅で下車。バスに乗り換えて向かったの
田丸城 続日本100名城 No.154 三重県度会郡玉城町田丸 南北朝時代に南朝方の北畠親房、北畠顕信によって築かれた平山城。北朝方の足利尊氏に落とされた後、室町時代に北畠氏により再建され、のち北畠氏庶流の北畠顕晴が入り、田丸氏を名乗る。戦国時代、織田信長の伊勢侵攻の際、北畠具教の養嗣子となった信長
松阪城 日本100名城 No.48 三重県松阪市殿町 豊臣秀吉によって南伊勢に移封された蒲生氏郷が、松ヶ島城に入った後、それに代わる拠点として1588年に築いた平山城。3重5階の天守も築かれる。氏郷は旧領の近江商人を呼び寄せて楽市楽座を設け、更に湊町に伊勢大湊の豪商角屋氏を呼び寄せ、商都松阪の礎を築
伊賀上野城の登城を終えて、来た道を逆に辿る形で、伊賀鉄道の「忍者列車」で上野市駅から伊賀神戸駅、近鉄に乗り換えて伊賀神戸駅から伊勢中川駅、更に乗り継いで、みえ松阪マラソンの会場最寄りの松阪駅に戻る。この街にも名城がある。松阪城(100名城 No.48)だ。豊臣秀吉によって南伊勢に移封された蒲生氏郷が
伊賀上野城 日本100名城 No.47 三重県伊賀市上野丸之内 平楽寺、薬師寺のあった上野台地に、伊賀の守護大名・仁木氏が築いた仁木氏館が起源。1585年、筒井順慶の養子で、郡山から伊賀に移封された筒井定次が改修。3層の天守を建てる。関ヶ原の戦いの際、一時西軍の新庄氏に奪われるがすぐ奪還する(上野城
津城 続日本100名城 No.152 三重県津市丸之内 戦国時代に津を支配していた長野氏の一族の細野藤光が築いた安濃津城が起源。北は安濃川、南は岩田川に挟まれ、これを天然の外堀としていた。1568年、織田信長に侵攻され、1569年、信長の弟・織田信包が入城。信包は城郭を拡充。石垣、堀を築き、本丸・二
先月の東北・みやぎ復興マラソンに続き、今回はみえ松阪マラソンに出場するために、三重へ向かう。三重の100名城・続100名城はいずれもまだ訪れていない。今回もマラソンついでに訪れることにした。横浜から夜行バスに乗り、午前7時半、津駅に到着。朝食をとった後、8時15分発の近鉄で一駅南の津新町駅へ移動する
多賀城 日本100名城 No.7 宮城県多賀城市市川 奈良時代、大和朝廷が蝦夷支配のため、大野東人に命じて現在の宮城県多賀城市に築かせた古代城柵。奈良時代から平安時代にかけて、役所である陸奥国府や軍事拠点である鎮守府が置かれ、11世紀中頃まで東北地方の政治・軍事・文化の中心地となる。9世紀初め、征夷
2日前に宮城入りして白石城、仙台城を訪れて、1日前は今回の遠征のメーンイベントである東北・みやぎ復興マラソンに参戦。目標としていた4時間30分以内は達成できず、4時間46分45秒でのフィニッシュとなった。もう1個所、残していた名城があったので、仙台でもう1泊してこの日、マラソンでボロボロになった両脚
仙台城 日本100名城 No.8 宮城県仙台市青葉区川内 1601年、伊達政宗が新たな居城として青葉山の上に築いた城。以後幕末まで伊達氏の居城・仙台藩の政庁となる。巨大な石垣の上に250m四方の本丸を誇るが、天守は築かれなかった。1639年、伊達忠宗が現在の東北大学川内キャンパスがある場所に二の丸を
白石城 続日本100名城 No.105 宮城県白石市益岡町 鎌倉時代に白石氏(刈田氏)の居館として建てられ、戦国時代、伊達氏が刈田郡を勢力下とするも、1591年、豊臣秀吉の奥州仕置により蒲生氏郷の所領となり、1598年に上杉景勝が会津入りするとその家臣の甘糟景継が城主となる。1600年、徳川家康の上
東北・みやぎ復興マラソンに出場するために、仙台へ。今回の遠征の主目的はマラソンだが、宮城の100名城・続100名城はいずれも未登城だ。全部で3つと数も多くないので、ついでに訪れることにした。往路。東京駅から東北新幹線に乗車するが、仙台までは行かずに福島で新幹線を下車。東北本線に乗り換え更に北上し、白
2023年10月38日 江戸城には100名城巡りを始めた2019年に訪れて100...
新高山城 続日本100名城 No.173 広島県三原市本郷町本郷 鎌倉時代に、現在の広島県三原市本郷の沼田川東岸に建てられた小早川氏の居城・高山城の副塁として、対岸(西岸)の山に建てられた山城。戦国時代、毛利元就の息子・小早川隆景が小早川家を継いで、新高山城を拡張して本拠とする。1596年、隆景は本
三原城 続日本100名城 No.172 広島県三原市城町 戦国時代、毛利元就の子・小早川隆景が現在の広島県三原市の沼田川河口エリアに築いた水軍施設が始まり。織田信長の中国攻めの際は毛利輝元がここに本陣を置く。豊臣秀吉に服従後、隆景は福岡に封ぜられるが、子の秀秋に家督を譲って三原城を隠居城とする。隆景
福山城 日本100名城 No.71 広島県福山市丸之内 江戸時代初期、現在の広島県福山市に封ぜられた譜代大名・水野勝成が西国外様大名への牽制に築いた城。層塔型5重6階の天守が建てられ、一国一城令発布後に築かれた最後の大規模近世城郭となる。水野氏の後も松平氏、阿部氏と譜代大名が治めた。明治の戊辰戦争で
東広島100名城―福山城、三原城、新高山城 - 日本100名城
岡山3日目。岡山の100名城・続100名城は前日までに制覇していたが、岡山には、広島県東部の三原まで4200円で3日間列車乗り放題の「岡山ワイドパス」というお得な切符があり、初日、2日目と、この切符で城巡りをしてきた。東広島にもこの切符で行くことができる城があるので、この日はそちらを目指すことにする
鬼ノ城 日本100名城 No.69 岡山県総社市奥坂、黒尾 岡山県総社市の、標高400mの鬼城山(きのじょうさん)に、大和朝廷によって7世紀後半に築かれた古代山城。倭(日本)の防衛のために築かれた施設の1つだが、史書に記載が一切無く具体的な歴史は不明。周囲を土塁で囲み、要所に石垣(特に屏風折れの石垣
備中高松城登城を達成し、備中高松駅から吉備線(桃太郎線)で1つ総社駅寄りの服部駅に移動する。小さな無人駅を出るとすぐ、次に目指す鬼ノ城(100名城 No.69)を確かに見ることができた。(直線距離で)4㎞先の鬼城山の上に...しかも服部駅からの標高差は350m。中間地点の砂川公園までは平坦に近いが、
備中高松城 続日本100名城 No.171 岡山県岡山市北区高松 備中松山城を本拠に備中を治めていた戦国大名・三村氏の命で石川氏が築いた城。1575年の備中兵乱で石川氏が三村氏とともに毛利氏に滅ぼされた後は、三村氏から毛利氏に臣従した清水宗治が城主となる。1582年、織田信長の家臣・羽柴秀吉の中国攻
備中松山城 日本100名城 No.68 岡山県高梁市内山下 岡山・高梁の臥牛山(松山)の山頂近くに秋庭氏が鎌倉時代に建てた城をベースに、戦国時代、三村氏が拡張する形で築いた山城。江戸時代初期、水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の天守の姿になる。戦に備えて築かれた「詰の城」で常用はされず、江戸時
岡山100名城(2)―備中松山城、備中高松城 - 日本100名城
朝一番の7時半前に伯備線の列車に乗り込んで岡山駅を出発。武家屋敷で有名な倉敷を経由(既に過去に2度訪れていたこともあり今回は通過)して、8時18分、備中高梁駅に到着。時間によっては登城口までバスもあるのだが、この時間帯は生憎バスが無く、2㎞弱の道を歩いて向かう。駅を出発して程なくして、目指す備中松山
津山城 日本100名城 No.67 岡山県津山市山下 室町時代中期に山名忠政が築いた鶴山城が原型。一度廃城となるが、1603年に津山藩主に封ぜられた森忠政(織田信長家臣・森可成の六男)が、13年の歳月をかけて今の形に築いた城。4重5階地下1階の層塔型天守のほか、櫓、城門などを合わせ80余棟が建ち並ぶ
岡山城 日本100名城 No.70 岡山県岡山市北区丸の内 戦国時代に岡山の地を支配した宇喜多直家が居城とし、息子の秀家が継ぐが関ケ原の戦いで西軍につき敗れて八丈島に流され、その後を関ケ原の戦いで西軍を寝返り東軍を勝利に導いた小早川秀秋が入る。しかし秀秋が死去し小早川家が断絶したため池田輝政の次男忠
午前10時前、羽田空港からのJAL便で岡山に到着。今回の城巡りは岡山と、東広島の8城を目指す。リムジンバスで岡山駅へ。駅近くの宿に大きな荷物を預け、岡山市コミュニティサイクル「ももちゃり」を活用して早速、1つ目の城・岡山城(100名城 No.70)へと向かう。岡山城は戦国時代、宇喜多直家・秀家親子、
大垣城 続日本100名城 No.140 岐阜県大垣市郭町 美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、1535年に創建されたと伝えられる。戦略上重要な地点であったため、戦国時代には争奪戦が繰り返され、織田氏、斎藤氏、織田氏と支配権が移り変わる。賤ヶ岳の戦いの後は羽柴秀吉配下となり、池田恒興・輝政親
玄蕃尾城 続日本100名城 No.140 福井県敦賀市刀根、滋賀県長浜市余呉町柳ケ瀬 福井県と滋賀県境の柳ヶ瀬山の尾根上に築かれた山城。織田信長の死後、羽柴秀吉と柴田勝家が争った賤ヶ岳の戦い(1583年)において、柴田勝家の本陣が置かれた。曲輪・櫓台・土塁・虎口・空堀・土橋など保存状態が良好で、当時
佐柿国吉城 続日本100名城 No.139 福井県三方郡美浜町佐柿 戦国時代、若狭国と敦賀国の国境の「城山」に、武田氏重臣の粟屋勝久が築いた山城。越前国の朝倉氏の度重なる来襲を退け、「難攻不落の城」として称えられた。1570年、朝倉攻めに向かう織田信長率いる3万の軍勢を迎え入れ、木下藤吉郎、徳川家康
琵琶湖周辺100名城(5)―佐柿国吉城、玄蕃尾城、大垣城 - 日本100名城
小谷城登城を達成し、河毛駅に戻って北陸本線で更に北へ向かう。近江塩津で列車を乗り継ぎ、滋賀県を越えて福井県へ。敦賀で小浜線に乗り換え、今度は西へ進む。美浜駅で下車。駅に併設された観光案内所でレンタサイクルを借りて、線路沿いに東へ20分進む。次に目指すは、佐柿国吉城(続100名城 No.139)。戦国
小谷城 日本100名城 No.49 滋賀県長浜市湖北町伊部 16世紀前半、北近江の国人・浅井亮政が小谷山(伊部山)上の尾根に建てた山城。以後浅井3代の居城となり、3代目の長政は織田信長の妹・市を妻に迎え、茶々、初、江の3姉妹を産んだ。しかし1570年、信長が越前朝倉家を攻めた際、長政は信長に反旗を翻
彦根城 日本100名城 No.50 滋賀県彦根市金亀町 徳川家康の重臣・井伊直政が関ヶ原の戦いの後、石田三成の旧領・近江国佐和山に封じられ、その死後に家督を継いだ井伊直継の下、琵琶湖に面した彦根山(金亀山)に、1603~1622年にかけて築かれた城。以後多くの大老(井伊直弼など)を輩出した譜代大名・
琵琶湖周辺100名城(4)―佐和山城、彦根城、小谷城 - 日本100名城
米原で一夜を明かし、早朝から2日目の琵琶湖周辺100名城巡りに繰り出す。まずは、昨日時間が無くスキップした、東海道線で西へ1駅の彦根へ。彦根と言えば――の名城の前に、彦根駅の近くにもう一つ、100名城にも続100名城にも数えられていないが、戦国の名将ゆかりの名前の通った城があるので、まずそちらに行く
観音寺城 日本100名城 No.52 滋賀県近江八幡市安土町石寺 戦国時代に近江国守護佐々木六角氏が拠点とした繖山(きぬがさやま)上の山城。応仁の乱の際には六角氏が西軍に属したため同族の京極氏に攻められ、3度の攻防戦が繰り広げられる。その後、家臣の伊庭氏が背くなどして度々戦闘の舞台となる。1568年
安土城の次に目指すは、JR東海道線を挟んでそのすぐ隣にある繖山(きぬがさやま)上の観音寺城(100名城 No.52)。織田信長が安土城を築く前に近江国守護としてこの地を支配していた佐々木六角氏の居城だ。総石垣造りで、「日本五大山城」の1つにも数えられる巨大さを誇った山城である。応仁の乱の際には3度に
安土城 日本100名城 No.51 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦 足利幕府を滅亡させて「天下布武」の道を進む織田信長が、京都にほど近い琵琶湖畔の安土山の上に1576年から3年かけて築いた山城。日本初の近世城郭とされ、大手道の急峻な石階段の上に築かれた天守は5重6階地下1階の大きさで、最上層は金色、
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2024年11月1日 この日の城巡りは高知城と岡豊城で終了だったが、今回の四国旅...
岡豊城 続日本100名城 No.180 高知県南国市岡豊町 信濃から土佐へ移住した長宗我部氏が13~14世紀に、国分川畔の岡豊山(標高97m)の上に築いた山城。戦国時代、長宗我部氏を含む「土佐七雄」が抗争を繰り返し、岡豊城は一度落城するが、1518年に長宗我部国親が復帰する。国親の子・元親の時代に長
高知城 日本100名城 No.84 高知県高知市丸ノ内 高知平野中心の大高坂山に築かれた平山城。南北朝時代に築かれた大高坂山城が基とされ、戦国時代には岡豊城の長曾我部氏が本拠をここに移そうと計画したこともあった。長宗我部氏が関ヶ原の戦いで敗軍の将となって改易され、代わって土佐に入って土佐藩を立てた山
3連休に有給休暇1日をプラスして4連休にして、四国へ。四国は伊予(愛媛)の100名城・続100名城は2021年に制覇していたが、その他の3県の名城はまだスタンプを1つも頂けていない。今回はその3件の名城制覇が目標だ。ただ、随分前から予定していた旅だったが、直前になって台風が日本をかすめる気配となり、
多気北畠氏城館 続日本100名城 No.153 三重県津市美杉町上多気 南北朝時代、南朝方だった伊勢国司の北畠顕能(田丸城を築いた北畠親房の三男)によって築かれた居館(多気御所)。西背後の霧山の上に築かれた詰城・霧山城と併せて「多気城」を構成する。跡地の北畠神社には国の名勝に指定されている庭園や「中
前日東京から乗車した夜行バスで朝の6時半頃、三重県・松阪駅に到着。松阪には前年12月に松阪城などの城巡りとみえ松阪マラソン出場のため既に訪れていたが、その時はマラソンの前後に訪れるには厳しい山城への登城を見送っていたので、今回はその時の「忘れ物」を回収しに来た格好だ。駅近くで朝食後、7時32分、JR
唐沢山城 続日本100名城 No.114 栃木県佐野市富士町 平安時代の927年、のちに平将門の乱を鎮撫する藤原秀郷が下野国押領使を叙任し関東に下向して唐沢山に城を築いたのが始まりとされる。その後一時廃城となるが、1180年、秀郷より数えて9代の俊綱の弟・成俊が再びここに城を再興し、城は鎌倉時代に亘
栃木の名城もあと1つ。13時43分、JR両毛線に乗車して足利を出発。13分で佐野駅に到着し、下車。次の目的駅にコインロッカーが無いため、ここでコインロッカーに荷物を預ける。そのまま乗り換えようと東武線の改札に向かうと、「城山公園口」と書かれた案内板が目に入った。「城山」ということは、ここにも城があっ
金山城 日本100名城 No.17 群馬県太田市金山町 1469年、新田一族であった岩松家純により築城された山城。四方に延びる尾根を中心に金山を利用して曲輪とし、これを堀切・土塁・石垣や石敷きなどで固く守る難攻不落の名城だった。1528年頃に横瀬泰繁・成繁(のち由良に改姓)親子が城主の岩松昌純を殺害
足利氏館 日本100名城 No.15 栃木県足利市家富町 平安時代末期に、後の足利尊氏ら足利氏の祖・源義康が築いた居館。鎌倉時代初期、足利義兼が持仏堂、堀内御堂を建立して以降、真言宗大日派の本山であり、足利氏の氏寺である鑁阿寺(ばんなじ)として整備される。現在も館の名残である土塁や水堀が巡らされてい
群馬の名城を巡って前夜、県境を少し越えて栃木・足利駅前の宿で一泊。今回の名城巡り最終日は、栃木と、群馬で昨日行き切れなかった名城を巡る。早朝。まずは足利市内にある足利氏館(日本100名城 No.15)を訪れる。足利氏館は平安時代末期に、後の足利尊氏に始まり室町幕府の将軍を歴任した足利氏の祖・源義康が
沼田城 続日本100名城 No.116 群馬県沼田市西倉内町 利根川と薄根川の合流点東の台地上に1532年、沼田顕泰により沼田氏の拠点として築城された丘城。1560年、長尾景虎(上杉謙信)に落とされ、以後軍事上の重要拠点として上杉氏・後北条氏・武田氏の間で争奪戦が行われる。1580年、沼田城は武田方
名胡桃城 続日本100名城 No.115 群馬県利根郡みなかみ町下津 利根川と赤谷川の合流近くの断崖部に築かれた山城。1492年に沼田城の支城として上野沼田氏によって名胡桃館が築かれたのが最初とされる。1579年、武田勝頼が家臣の真田昌幸に命じて、後北条氏から沼田領を奪取するための前線基地として、昌
群馬・渋川から西方向の岩櫃城探訪を終えてJR吾妻線で、一旦渋川に帰還。渋川駅前の店で昼食を頂いた後、今度は上越線に乗車して北へと向かう。午後から目指したのは、名胡桃城(続100名城No.115)と沼田城(続100名城No.116)。いずれも岩櫃城同様、真田氏ゆかりの城で、後北条氏などの度重なる侵攻に
岩櫃城 続日本100名城 No.117 群馬県吾妻郡東吾妻町原町 群馬県吾妻川北岸の岩櫃山中腹に築かれた山城。伝説では、この地を鎌倉時代に治めた吾妻太郎助亮が築城したと伝わる。戦国時代に吾妻氏の子孫と称する斉藤憲次が岩櫃城を奪い、その子である斉藤憲広は上杉氏に属し、岩櫃城を拠点として吾妻郡一帯の地侍
群馬・渋川駅に隣接している宿で朝を迎える。予定の列車は6時50分発だが、宿の朝食は6時30分から。カレーライスに玉子焼き2切れを大急ぎで書き込んで駅へと向かう。 乗った路線は、西へ向かう吾妻線。40分ほどで到着した郷原駅で下車すると、北の空の下に奇岩をむき出しにした岩櫃山が屹立している。今回目指す名
箕輪城 日本100名城 No.16 群馬県高崎市箕郷町東明屋 戦国時代中期の16世紀前半、上野国西部を支配していた長野氏により榛名白川河畔の丘陵地に築かれた平山城。東西約500m、南北約1100m、面積約47haに及ぶ。長野氏は上杉氏(謙信)の後ろ盾を得て箕輪衆と呼ばれる在郷武士団を束ね、度々繰り返
忍城 続日本100名城 No.118 埼玉県行田市本丸 1478年ごろ、地元の豪族・成田正等・顕泰父子がこの地を支配していた扇谷上杉家に属する忍一族を滅ぼし、築城したといわれる。広大な沼地に島や自然堤防を巧みに利用して建造され、難攻不落の名城と呼ばれる。1479年、扇谷上杉家に忍城を攻められるも同家
夏。特に2024年の夏は「観測史上最高の暑さ」と言われた。そんな夏真っ盛りのこの日、私が下り立った駅はよりによって「日本一暑い街」ともいわれる埼玉の熊谷駅だった。なぜ一番暑い夏の一番暑い街に来てしまったのか...それは、これから始めようとしている北関東の群馬・栃木の城巡りはJRの在来線を多用すること
9時41分、御殿場ルート頂上から下山開始。吉田ルートしか下ったことが無ければ「下りは楽」と考えてしまうだろうが、それ以外のルートでは「下りだから楽」ということは無い。確かに息は楽だが、岩がち且つ砂がちで勾配のある御殿場ルートでは、下りで足を踏み外したり滑らせたりしてしまうリスクがある。下りだからこそ
仙台城 日本100名城 No.8 宮城県仙台市青葉区川内 1601年、伊達政宗が新たな居城として青葉山の上に築いた城。以後幕末まで伊達氏の居城・仙台藩の政庁となる。巨大な石垣の上に250m四方の本丸を誇るが、天守は築かれなかった。1639年、伊達忠宗が現在の東北大学川内キャンパスがある場所に二の丸を
白石城 続日本100名城 No.105 宮城県白石市益岡町 鎌倉時代に白石氏(刈田氏)の居館として建てられ、戦国時代、伊達氏が刈田郡を勢力下とするも、1591年、豊臣秀吉の奥州仕置により蒲生氏郷の所領となり、1598年に上杉景勝が会津入りするとその家臣の甘糟景継が城主となる。1600年、徳川家康の上
東北・みやぎ復興マラソンに出場するために、仙台へ。今回の遠征の主目的はマラソンだが、宮城の100名城・続100名城はいずれも未登城だ。全部で3つと数も多くないので、ついでに訪れることにした。往路。東京駅から東北新幹線に乗車するが、仙台までは行かずに福島で新幹線を下車。東北本線に乗り換え更に北上し、白
2023年10月38日 江戸城には100名城巡りを始めた2019年に訪れて100...
新高山城 続日本100名城 No.173 広島県三原市本郷町本郷 鎌倉時代に、現在の広島県三原市本郷の沼田川東岸に建てられた小早川氏の居城・高山城の副塁として、対岸(西岸)の山に建てられた山城。戦国時代、毛利元就の息子・小早川隆景が小早川家を継いで、新高山城を拡張して本拠とする。1596年、隆景は本
三原城 続日本100名城 No.172 広島県三原市城町 戦国時代、毛利元就の子・小早川隆景が現在の広島県三原市の沼田川河口エリアに築いた水軍施設が始まり。織田信長の中国攻めの際は毛利輝元がここに本陣を置く。豊臣秀吉に服従後、隆景は福岡に封ぜられるが、子の秀秋に家督を譲って三原城を隠居城とする。隆景
福山城 日本100名城 No.71 広島県福山市丸之内 江戸時代初期、現在の広島県福山市に封ぜられた譜代大名・水野勝成が西国外様大名への牽制に築いた城。層塔型5重6階の天守が建てられ、一国一城令発布後に築かれた最後の大規模近世城郭となる。水野氏の後も松平氏、阿部氏と譜代大名が治めた。明治の戊辰戦争で
岡山3日目。岡山の100名城・続100名城は前日までに制覇していたが、岡山には、広島県東部の三原まで4200円で3日間列車乗り放題の「岡山ワイドパス」というお得な切符があり、初日、2日目と、この切符で城巡りをしてきた。東広島にもこの切符で行くことができる城があるので、この日はそちらを目指すことにする
鬼ノ城 日本100名城 No.69 岡山県総社市奥坂、黒尾 岡山県総社市の、標高400mの鬼城山(きのじょうさん)に、大和朝廷によって7世紀後半に築かれた古代山城。倭(日本)の防衛のために築かれた施設の1つだが、史書に記載が一切無く具体的な歴史は不明。周囲を土塁で囲み、要所に石垣(特に屏風折れの石垣
備中高松城登城を達成し、備中高松駅から吉備線(桃太郎線)で1つ総社駅寄りの服部駅に移動する。小さな無人駅を出るとすぐ、次に目指す鬼ノ城(100名城 No.69)を確かに見ることができた。(直線距離で)4㎞先の鬼城山の上に...しかも服部駅からの標高差は350m。中間地点の砂川公園までは平坦に近いが、
備中高松城 続日本100名城 No.171 岡山県岡山市北区高松 備中松山城を本拠に備中を治めていた戦国大名・三村氏の命で石川氏が築いた城。1575年の備中兵乱で石川氏が三村氏とともに毛利氏に滅ぼされた後は、三村氏から毛利氏に臣従した清水宗治が城主となる。1582年、織田信長の家臣・羽柴秀吉の中国攻
備中松山城 日本100名城 No.68 岡山県高梁市内山下 岡山・高梁の臥牛山(松山)の山頂近くに秋庭氏が鎌倉時代に建てた城をベースに、戦国時代、三村氏が拡張する形で築いた山城。江戸時代初期、水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の天守の姿になる。戦に備えて築かれた「詰の城」で常用はされず、江戸時
朝一番の7時半前に伯備線の列車に乗り込んで岡山駅を出発。武家屋敷で有名な倉敷を経由(既に過去に2度訪れていたこともあり今回は通過)して、8時18分、備中高梁駅に到着。時間によっては登城口までバスもあるのだが、この時間帯は生憎バスが無く、2㎞弱の道を歩いて向かう。駅を出発して程なくして、目指す備中松山
津山城 日本100名城 No.67 岡山県津山市山下 室町時代中期に山名忠政が築いた鶴山城が原型。一度廃城となるが、1603年に津山藩主に封ぜられた森忠政(織田信長家臣・森可成の六男)が、13年の歳月をかけて今の形に築いた城。4重5階地下1階の層塔型天守のほか、櫓、城門などを合わせ80余棟が建ち並ぶ
岡山城 日本100名城 No.70 岡山県岡山市北区丸の内 戦国時代に岡山の地を支配した宇喜多直家が居城とし、息子の秀家が継ぐが関ケ原の戦いで西軍につき敗れて八丈島に流され、その後を関ケ原の戦いで西軍を寝返り東軍を勝利に導いた小早川秀秋が入る。しかし秀秋が死去し小早川家が断絶したため池田輝政の次男忠
午前10時前、羽田空港からのJAL便で岡山に到着。今回の城巡りは岡山と、東広島の8城を目指す。リムジンバスで岡山駅へ。駅近くの宿に大きな荷物を預け、岡山市コミュニティサイクル「ももちゃり」を活用して早速、1つ目の城・岡山城(100名城 No.70)へと向かう。岡山城は戦国時代、宇喜多直家・秀家親子、
大垣城 続日本100名城 No.140 岐阜県大垣市郭町 美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、1535年に創建されたと伝えられる。戦略上重要な地点であったため、戦国時代には争奪戦が繰り返され、織田氏、斎藤氏、織田氏と支配権が移り変わる。賤ヶ岳の戦いの後は羽柴秀吉配下となり、池田恒興・輝政親
玄蕃尾城 続日本100名城 No.140 福井県敦賀市刀根、滋賀県長浜市余呉町柳ケ瀬 福井県と滋賀県境の柳ヶ瀬山の尾根上に築かれた山城。織田信長の死後、羽柴秀吉と柴田勝家が争った賤ヶ岳の戦い(1583年)において、柴田勝家の本陣が置かれた。曲輪・櫓台・土塁・虎口・空堀・土橋など保存状態が良好で、当時
佐柿国吉城 続日本100名城 No.139 福井県三方郡美浜町佐柿 戦国時代、若狭国と敦賀国の国境の「城山」に、武田氏重臣の粟屋勝久が築いた山城。越前国の朝倉氏の度重なる来襲を退け、「難攻不落の城」として称えられた。1570年、朝倉攻めに向かう織田信長率いる3万の軍勢を迎え入れ、木下藤吉郎、徳川家康
小谷城登城を達成し、河毛駅に戻って北陸本線で更に北へ向かう。近江塩津で列車を乗り継ぎ、滋賀県を越えて福井県へ。敦賀で小浜線に乗り換え、今度は西へ進む。美浜駅で下車。駅に併設された観光案内所でレンタサイクルを借りて、線路沿いに東へ20分進む。次に目指すは、佐柿国吉城(続100名城 No.139)。戦国