和歌山城 日本100名城 No.62 和歌山県和歌山市一番丁 安土桃山時代、織田信長と羽柴秀吉が紀州征伐を行い、副将軍として参陣した秀吉の弟・豊臣秀長は紀州平定後に紀伊・和泉を加増され、秀吉の命により紀の川畔の「若山」と呼ばれた地(のち「和歌山」)にある虎伏山の山頂に、藤堂高虎らに普請させて1年で築
平戸城 日本100名城 No.90 豊臣秀吉の九州平定に加わって肥前国松浦郡を安堵された松浦鎮信(法印)が1599年、平戸港を見下ろす海辺の丘陵上に築城を開始。しかし完成間近の1613年、火災により焼失。豊臣氏と親交が厚かったことから江戸幕府からの嫌疑を避けるために鎮信自らが火を放ったともいわれる。
名護屋城 日本100名城 No.87 佐賀県唐津市鎮西町名護屋 16世紀末、明国征服という誇大妄想に冒された豊臣秀吉が朝鮮出兵という暴挙に出た際に、その前線基地として肥前国松浦郡名護屋の波戸岬の、日本海を望む丘陵上に築いた城。17万平方メートルに及ぶ敷地に五重天守や御殿が建てられ、城下町も形成され
唐津城 続日本100名城 No.185 佐賀県唐津市東城内 松浦川が唐津湾に注ぐ河口の高台(満島山)に築かれた、平山城であると同時に海城でもある城。関ヶ原の戦いで東軍についた寺沢広高が肥後国天草郡4万石を加増され、1602~1608年にかけて築城。その際には、松浦川の流路を変えたり、当時廃城となって
佐賀城 日本100名城 No.89 佐賀県佐賀市城内 肥前国佐賀の、龍造寺氏の拠点だった村上城を前身とし、龍造寺隆信の死後実権を握った鍋島氏が改修・拡張して築いた城。1608年、佐賀城総普請が始まり、1611年に完成して鍋島勝茂が本丸に入る。1726に火災で天守閣をはじめ本丸・二の丸・三の丸が消失。
吉野ヶ里 日本100名城 No.88 佐賀県吉野ヶ里町、佐賀県神埼市 九州・佐賀平野に築かれた、全長2.5kmの壕に囲まれた古代の環濠集落。弥生時代前期の紀元前5~前2世紀、分散的に「ムラ」が誕生。やがてそれは「クニ」へと発展し、弥生時代中期(紀元前2~紀元1世紀)には大きな外環壕が掘られる。この頃
久留米城 続日本100名城 No.183 福岡県久留米市篠山町 筑後国の、筑後川と宝満川の合流地点の丘陵上に建てられた城。16世紀前半にこの地の土豪が篠原城と称して建てた砦が始まりといわれる。豊臣秀吉の九州平定後の1587年、毛利秀包(小早川秀包)が筑後久留米に封じられ、秀包により堀・石垣・天守を設
基肄城 続日本100名城 No.184 福岡県筑紫野市、佐賀県基山町 7世紀に唐・新羅連合軍と白村江の戦を争って敗れた倭(日本)が、太宰府を中心とする九州北部各地で防備の増強を迫られ、665年、大野城とともに、百済からの渡来人の指導により、有明海方面の有事に備えて太宰府背後に建てさせた朝鮮式山城。基
水城 続日本100名城 No.182 福岡県太宰府市~福岡県大野城市~福岡県春日市 7世紀に唐・新羅連合軍と白村江の戦を争って敗れた倭(日本)が、太宰府を中心とする九州北部各地で防備の増強を迫られ、664年、太宰府を博多湾・福岡平野から守る形で、翌年大野城も建てられた国分の丘陵と吉松丘陵を塞ぐように
大野城 日本100名城 No.86 福岡県糟屋郡宇美町四王寺 7世紀に唐・新羅連合軍と白村江の戦を争って敗れた倭(日本)が、太宰府を中心とする九州北部各地で防備の増強を迫られ、665年に太宰府北側の四王寺山(大城山)の尾根上に、百済からの渡来人の指導により建てさせた、東西約1.5㎞、南北約3㎞、外周
河口湖、新倉山公園(2023年春、リベンジ編・2) - 富士山
リベンジ3:吉田うどん 前回も富士吉田を訪れたのなら吉田うどんを絶対食べようと思っていたのだが、吉田うどんの店は11~14時の昼営業だけの店が殆どで、タイミングが合わず食べることができなかった。今回は浅間公園~富士宮本町商店街~富士山駅と巡っていたら、富士山駅近くにあるお気に入りの吉田うどん ふじや
河口湖、新倉山公園(2023年春、リベンジ編・1) - 富士山
3月30日に富士山の写真を求めて河口湖、新倉山公園を訪れたが、雲といい桜といい、残念な結果に終わってしまった、リベンジの機会は来年以降になるかな?と当初は思っていたが、4月8日、9日の土日も天気予報は良好だった。どちらかと言うと9日の方が天気は良さそうだったのだが、7日に関東地方が雨風に見舞われたこ
金田城 続日本100名城 No.186 長崎県対馬市美津島町黒瀬 金田城(かなたのき)は、7世紀に唐・新羅連合軍と白村江の戦を争って敗れた倭(日本)が、太宰府を中心とする九州北部各地で防備の増強を迫られ、その最前線的な砦として対馬中部の城山上に築いた城。急峻な自然地形を利用して築かれ、約2.6kmに
福岡城 日本100名城 No.85 福岡県福岡市中央区城内 関ヶ原の戦いの功で黒田孝高(官兵衛・如水)・黒田長政親子が筑前に封ぜられ、1601~07年、長政が警固村福崎の丘陵地に築城。以後明治まで福岡藩黒田氏の居城となり、歴代藩主によって改築が行われて24万平方mもの縄張りに50もの櫓が建てられた。
小倉城 続日本100名城 No.181 福岡県北九州市小倉北区城内 1569年、中国地方の毛利氏が城を築いたことから始まり、高橋鑑種や毛利勝信が居城した。関ヶ原の戦いで西軍についた毛利氏に代わり封ぜられた細川忠興が1602年から7年かけて改築。唐造の天守を建設。最上層の入母屋破風以外に破風が無いのが
2023年3月30日 昨年秋訪れた新倉山公園。あの時は富士山・五重塔・紅葉桜のコラボ写真を撮ることができたが、春には赤い葉がピンクの花に置き換わったまた違う彩の景色を楽しむことができる。この風景はまだ...
龍岡城 続日本100名城 No.129 長野県佐久市田口下町 江戸時代末期に龍岡(田野口)藩主・松平乗謨が藩庁の移転先として建築。北海道函館の五稜郭と同じ、フランスの築城方式による星型の稜堡式城郭で、函館のものと並び日本で2つしかない「五稜郭」である。1866年に石垣と土塁が、1867年には城郭内に
小諸城 日本100名城 No.28 長野県小諸市丁 小諸、佐久一帯を制圧した武田信玄が1554年、山本勘助と馬場信房に命じて築城。城下町より低い場所に建てられたことから「穴城」とも呼ばれ、本丸が一番低い場所にあった。千曲川を天然の堀とする防備を誇った。武田氏滅亡後は織田家臣の滝川一益、佐久郡の国衆・
上田城 日本100名城 No.27 長野県上田市二の丸 上田の真田氏館に居住していた真田昌幸が1583年、「上杉軍から徳川を守る」という口実で千曲川畔近くに築城。その後昌幸は上杉方に寝返り、上田城は家康軍に攻められるが撃退(第1次上田合戦)。関ヶ原の戦いの折は西軍について徳川秀忠軍に攻められるも防い
松代城 日本100名城 No.26 長野県長野市松代町松代 川中島の戦いで上杉謙信と争った武田信玄が川中島地域の拠点城郭として、千曲川を外堀として築いた海津城が始まり。武田氏滅亡後は森氏、上杉氏、田丸氏が城主に。関ヶ原の戦いの後、再び森氏が、次いで松平氏が城主となり、その間に「待城」「松城」と改称さ
今治城 日本100名城 No.79 愛媛県今治市通町 関ヶ原の戦いで戦功のあった宇和島城主・藤堂高虎が今治を加増されて移住し、1602年、築城を開始、1604年、完成。瀬戸内海に接し、堀は海に連結していて当時は船が直接乗り入れし、平城であると同時に海城でもあった。天守は当時最新鋭の層塔型が建設された
能島城 続日本100名城 No.178 愛媛県今治市能島 室町時代にこの海域で活動した水軍・村上海賊の一派能島村上氏が、愛媛の瀬戸内海上、大島北東の400mほど沖に浮かぶ能島に築いた海城。村上氏はこの城を拠点に、毛利氏などの大名に加担しつつ、潮流が速く難所といわれたこの海域の制海権を掌握していた。や
土浦城、水戸城と巡って、青春18きっぷでの茨城100名城巡りは、最後の一つへ。JR常磐線、水戸線を乗り継いで笠間駅で下車。目的地まではバスがあればよかったが、ちょうどいい時間のものが無く、約1.6㎞の距離を時々走って徒歩で向かった。※後で気が付いたのだが、駅前の観光案内所でレンタサイクルを借りること
先日は青春18きっぷを利用して静岡・山梨を富士山詣でしてきた。まだきっぷが残っているので、この日は100名城巡りをすることにした。目指すは、茨城県の3名城。鈍行列車でちょうど日帰りできる配置だ。東海道線から常磐線に乗り継いで、まずは霞ケ浦北西端に位置する土浦市へ。マラソン大会参戦で2度来たことがある
大洲城 日本100名城 No.82 愛媛県大洲市大洲 鎌倉時代末期の守護・宇都宮豊房が地蔵ヶ嶽に築城したのが起源とされる。伊予宇都宮氏は戦国時代にこの地から追われ、のち1585年、豊臣秀吉の四国攻めで小早川隆景が伊予に入封。1595年に藤堂高虎が入城すると近世の城郭として整備され、淡路の洲本から転封
宇和島城 日本100名城 No.83 愛媛県宇和島市丸之内 平安時代に建てられた砦(のちの板島丸串城)を起源とし、鎌倉時代からは西園寺氏が居住。1585年、豊臣秀吉の四国討伐の後、伊予は小早川隆景の所領となり、隆景転封の後は戸田氏が城主となる。その後宇和郡を拝領した藤堂高虎により、1596年、築城が
河後森城 続日本100名城 No.179 愛媛県北宇和郡松野町富岡 高知県との境近くにある、四万十川の3支流に囲まれた丘陵の上に築城された山城。築城時期は不明だが、16世紀後半(戦国時代)に機能していた。土佐一条氏の一門である、川原淵殿と呼ばれた渡辺氏が居城としていたが、1580年ごろ、渡辺教忠の家
2023年3月11日4年ぶりの青春18きっぷの旅。自宅のある川崎を出発して東海道線沿線でまだ写真を撮ったことの無いアングルの富士山を撮ってきました。 静岡県沼津市の千本松原にて。 静岡県富士市、東田子...
湯築城 日本100名城 No.80 愛媛県松山市道後公園 室町時代初頭(14世紀前半)、伊予国守護の河野通盛の代に、道後温泉近くの高台に築城され、以後河野氏の居城となる。1585年、羽柴秀吉の四国征伐で小早川隆景らの軍が伊予に侵攻。河野氏は籠城するも降伏し、隆景が湯築城に入城する。1587年、隆景が
松山城 日本100名城 No.81 愛媛県松山市丸之内 関ヶ原の戦いで功のあった伊予の国の加藤嘉明が1602年から勝山山頂に築城を開始。1603年、嘉明が本拠をこの地に移し、地名を「松山」に改める。1627年に嘉明が会津に転封になった後も築城は進む。天守は当初五重だったが、1642年に松平定行によっ
名古屋城 日本100名城 No.44 愛知県名古屋市中区本丸 1609年、徳川家康が九男義直の尾張藩の居城として、天下普請で西国諸大名を使役して築城を開始。1612年、天守が完成(名古屋城のシンボルである金鯱もこの時造られる)、1615年、本丸御殿が完成する。以後、尾張徳川家の居城となる。明治の廃城
岐阜城 日本100名城 No.39 岐阜県岐阜市金華山天守閣 1201年に二階堂行政が長良川畔の金華山山頂に築いた砦が起源とされる。その後稲葉氏が支配したことから「稲葉山城」と称された。1302年に二階堂行藤が没した後、廃城。15世紀中頃に美濃守護代・斎藤利永が、この城を修復して居城とする。16世紀
犬山城 日本100名城 No.43 愛知県犬山市犬山北古券 1537年、織田信長の叔父・織田信康が、かつて岩倉織田氏の砦があった木曽川畔の高台に築城。居城の木ノ下城を廃してこちらに移る。現存の天守が築かれたのもこの頃とされる。1564年、信康の子・信清が信長に敗れて逃れた後は信長家臣の池田恒興や織田
小牧山城 続日本100名城 No.149 愛知県小牧市堀の内 1563年、織田信長が美濃攻めの本拠地として、小牧山の山頂に築城。信長が美濃を平定すると1567年、廃城となる。のち1584年、羽柴秀吉と徳川家康の間で争われた小牧・長久手の戦いでは家康が小牧山に本陣を敷いたことが家康の勝利の一因となった
小田原城 日本100名城 No.23 神奈川県小田原市城内 15世紀前半に相模国・伊豆国方面に勢力を広げた大森氏が城郭を建築。15世紀末に北条早雲がこれを奪い、旧構を拡張。以後、後北条氏の拠点となる。上杉勢、武田勢の侵攻を退け、「難攻不落の城」と称される。1580年、初代の天守が建造される。のち豊臣
石垣山城 続日本100名城 No.126 神奈川県小田原市早川 豊臣秀吉が、小田原攻めの際に小田原城を見下ろす笠懸山山頂に秘密裏に建て、突如その姿を見せて北条方の士気を失わせた、「一夜城」の異名を持つ城。総石垣の本格的な近世城郭で、天守があったかは不明だが天守台跡も残る。小田原攻めの際には秀吉と伊達
小机城 続日本100名城 No.125 神奈川県横浜市港北区小机町 15世紀に関東管領上杉氏が築いた城。長尾景春の乱の際に攻城戦の舞台となった。景春が敗れて落城した後、いったん廃城となるが、北条氏の統治下で北条氏綱により再建された。豊臣秀吉の小田原征伐で、無傷のまま落城。徳川家康の関東入府の際に再び
江戸城 日本100名城 No.21 東京都千代田区千代田 15世紀に扇谷上杉氏家臣の太田道灌が築城し、道灌の死後は上杉氏、次いで北条氏の支配下となった。小田原征伐後は関東に移封された徳川家康が駿府から移り入城し、家康が将軍になってからは徳川幕府、ひいては日本の政治・経済の中心地となる。江戸幕府成立後
武田氏館 日本100名城 No.24 山梨県甲府市古府中町 信虎、信玄、勝頼の甲斐武田氏3代が本拠とした、「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」の名で知られる城。武田氏は元は川田館を拠点としていたが、信虎が1519年にこの地へ移転した。信玄の代に領土が大きく拡張された後にも一貫して武田氏の本拠であり続
要害山城 続日本100名城 No.128 山梨県甲府市上積翠寺町 武田信玄の父・信虎が本拠地・躑躅ヶ崎館(武田氏館)の詰城として甲府北部の要害山の上に築城。今川勢の攻撃からこの城に避難した信虎の妻がここで後の信玄を生み、「武田信玄誕生の地」として知られる。武田氏滅亡後は徳川氏が甲斐国を支配し、家康が
滝山城 続日本100名城 No.123 東京都八王子市高月町 奥多摩の加住丘陵上に建てられた山城。山内上杉氏家臣で武蔵国の守護代・大石定重が築城して高月城から移ったとされる。1546年の河越城の戦いの後、大石定久が北条氏照を娘婿に迎え、北条勢の軍門に下る。のち氏照により大改修が行われる。1569年に
新府城 続日本100名城 No.127 山梨県韮崎市中田町中条字城山 甲府盆地西部の七里岩台地に、長篠の戦いに敗れた武田勝頼が穴山梅雪の進言で建てた城。石垣を用いず、土塁と堀により築城された。1581年、勝頼が躑躅ヶ崎館(武田氏館)からここに居を移すも、翌1582年、織田軍の侵攻から退く際に勝頼によ
八王子城 日本100名城 No.22 東京都八王子市元八王子町 多摩の深沢山に建てられた、後北条氏の小田原城の支城。滝山城を拠点としていた北条氏照が、武田勢の攻勢を受けてより強固な拠点を求め、築き移った城。それだけに3km四方にも及ぶ巨大な縄張りとなった。1590年、豊臣秀吉の小田原征伐の際に上杉景
甲府城 日本100名城 No.25 山梨県甲府市丸の内 甲斐を支配していた武田氏滅亡後、豊臣秀吉から甲斐を拝領した加藤光泰が16世紀末に築城(その前に甲斐を支配した徳川家康が関東転封前に着手したという説もあり)、次の浅野長政・幸長時代にも継続して築城される。元々は秀吉が関東の家康を牽制するために築城
浜松城 続日本100名城 No.148 静岡県浜松市中区元城町 三方原台地の斜面に造られた平山城。15世紀頃に築城された、今川勢の飯尾氏などを城主とする曳馬城が前身。のち徳川軍に攻め落とされ、1570年に徳川家康が入城し、浜松城と改称。城郭の拡張・改修と城下町の形成が進む。家康が武田軍に大敗を喫した
掛川城 日本100名城 No.42 静岡県掛川市掛川 今川家の朝比奈泰煕により、15世紀半ばに築城され(掛川古城)、のち1517年に400mほど南西の現在の地に改めて築城される。1568年、武田・徳川軍に攻められた今川氏真が掛川城に逃れたことから徳川軍に包囲され、翌1569年に開城。徳川家の支配下と
高天神城 続日本100名城 No.147 静岡県掛川市上土方・下土方 掛川市南部の土方地区に位置する山城。別名「鶴舞城」。築城時期は不明。石垣はなく土塁で構築されている。「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた難攻不落の名城。戦国時代、今川氏の支城となり、家臣の福嶋氏、国衆の小笠原氏が城主とし
諏訪原城 続日本100名城 No.146 静岡県島田市菊川 1573年、東海道そばの牧之原台地先端部分に、徳川家康が領する遠江の攻略のために武田勝頼が馬場信春らに命じて造らせたとされる山城。1575年に長篠の戦いで武田軍が織田・徳川軍に敗れた後、徳川軍に攻略され、牧野城と改称される。1590年、廃城
駿府城 日本100名城 No.41 静岡県静岡市葵区駿府城公園 駿府を支配していた武田氏が1582年に滅びた後に駿府を拝領した徳川家康が築城。1590年の小田原征伐後に家康が関東に移封されて以降は中村一氏が城主となる。征夷大将軍となった家康が将軍職を秀忠に将軍職を譲った後は家康の隠居城となる。その時
興国寺城 続日本100名城 No.145 静岡県沼津市根古屋
山中城 日本100名城 No.40 静岡県田方郡函南町桑原 1560年代に北条氏康によって築城された、小田原城の支城。箱根十城の1つに数えられる。石垣は無く、土造りの城で、枡のような窪みが並んだ障子堀が特徴的。1590年、豊臣秀吉の小田原征伐で攻撃を受け、6万8千の軍勢を3千の軍勢で迎え撃つが半日で
品川台場跡 続日本100名城 No.124 東京都港区台場 1853年のペリー来航を受け、次の来航に備えて江戸幕府が建造した、砲台を備えた要塞。高輪の八ツ山、御殿山から土を切り崩して、品川沖に五角形や六角形の人工島を造り、洋式の大砲を配置した。第一~第三、第五~第六台場が造られ、のち第四台場が完成す
二条城 日本100名城 No.53徳川家康が1603年に京都の宿館として築城。天守は廃城となった大和国の郡山城から移された。1611年には家康と豊臣秀頼との会見場所となった(二条城会見)。徳川家光が将軍になった1624年に拡張工事が行われ、2代目天守として廃城となった伏見城の天守が移築される。163
福知山城 続日本100名城 No.158 京都府福知山市内記 織田信長の命で丹波を平定した明智光秀が1579年、塩見氏の横山城を改築する形で築城。女婿・明智秀満を城主とした。明智の「智」の字を借りて「福智山」と名付けたといわれる。その僅か3年後に光秀が山崎の合戦で敗死した後は城主が何度も入れ替わるが
福井城 続日本100名城 No.137 福井県福井市大手 織田信長軍が朝倉氏を滅ぼした後、越前国北ノ庄を与えられた柴田勝家が1575年に「北ノ庄城」を築城。7層の巨大な天守があったとされる。1583年の北ノ庄城の戦いに勝家が敗死した際、焼失。関ヶ原の戦い後、徳川家康の次男・結城秀康が北ノ庄を拝領し、
鳥越城 続日本100名城 No.136 石川県白山市三坂町 1573年頃、加賀の一向一揆のリーダー・鈴木出羽守によって、門徒集団・山内衆の拠点として城山山頂に建てられた山城。1580年、一揆の鎮圧を目指していた織田信長方の柴田勝家によって落城。対岸の二曲城とともに国の史跡に指定され、門や石垣が復元さ
金沢城 日本100名城 No.34 加賀一向一揆の拠点となった尾山御坊を、織田信長の家臣・佐久間盛政が攻め落とし、金沢城と改称。信長死後の賤ヶ岳の戦いの後、前田利家が城主となり、高山右近に命じて大改修を行う。その後前田利長によって再び改修。しかし、1602年に落雷で天守閣が焼失し、代わりに三階櫓が建
7時30分、富士宮ルート頂上から下山開始。朝方の山頂こそ寒さがあったが、この時の富士山には日光が降り注いでいた。日が高くなるにつれ、標高が下がるにつれ、どんどん暖かくなってくる。9合目で私はレインウェアを、ダウンジャケットを脱いで長袖Tシャツの上に半袖Tシャツという最軽装のいでたちで、左手に宝永火口
午前5時32分、頂上富士館前を出発。時計回りで富士山頂を一周するお鉢巡りに繰り出す。すぐに富士山最高点・剣ヶ峰へと至る急登・馬の背が待ち受ける。初めてここを登った時は悪戦苦闘したものだったが、富士山を何度も登った今では何の苦も無く踏破することができた。この馬の背は、ちょうど富士山頂の西面に差し掛かる
午前2時すぎ。まだ夜中だというのに山小屋の中がざわついてきた。山頂での御来光を目指す登山客たちがこの日の行動を始めたのである。富士山頂での御来光を既に2度経験している私は、そこまでこだわりは無かったが、目が覚めてしまったのでつられて動き始めてしまった。取りあえず身支度をして表に出てみると、すっきりと
15時16分、九合目を出発。天気が回復し、九合目からの登山は至極快適だった。酸素が薄いので多少息は上がるが、特に高山病の兆候も無い。ただ、先ほどの九合目では一面の青空だった山頂方面の空は、次第に青空半分、雲半分という感じになってきた。次の目的地、と言うよりこの日の目的地は、九合目と山頂のちょうど中間
山中湖でダイヤモンド富士を撮影して、1泊。夜明けとともに湖畔に出て、山中湖一周のランニングに出掛けた。午前6時、「浅間茶屋」近くからスタート。反時計回りに山中湖畔を走るが、走りっ放しではなく、時々足を止めて写真撮影をするという休み休みのランニングとなった。暫く幹線道路を走って東岸に差し掛かったところ
秋。 あの写真を久々に撮ろうと、久々に山中湖へ。 東京・新宿発の山中湖行き高速バスで、山中湖ホテルマウント富士バス停で下車。山中湖」北岸を30分ほど歩いて、長池親水公園からもう500mほど東へ行った場...
2022年8月5日 雨足が弱まるのを待って、12時50分、意を決して元祖七合目を出発。先程までの土砂降りよりは見通しが良くなったが、次の目標の八合目山小屋は霞の中に隠れている。 元祖七合目~八合目の山...
13分の休憩をとって、11時30分、富士宮ルート新七合目を出発。出発してすぐの山道こそ踏み固められた土の足場で歩きやすかったが、一つ折り返すとすぐにそれは終わり、岩場とガレ場(比較的小さな石の路面)とザレ場(砂礫の路面)が入り交じったルートになる。富士宮ルートの岩場は斜度は余りなく、両手両足を使って
10時16分、六合目を出発。富士登山道は大体、五合目~六合目は序の口(吉田ルートに至っては七合目までも序の口)。ここからは斜度の急な岩場が待ち受けている。岩場だけではない。滑りやすい細かい砂利敷きの道、段差のある階段など、様々なタイプの難路が登山者たちを苦しめる。変化があるのは登山道の状態だけではな
2022年8月5日 8時すぎ、静岡県富士宮市のJR見延線富士宮駅に到着。 数日前から天気予報に一喜一憂していたが、駅の北口に出た先に見えた空は、青空が少し見える程度の曇り。目標としている富士山こそ雲に...
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和歌山城 日本100名城 No.62 和歌山県和歌山市一番丁 安土桃山時代、織田信長と羽柴秀吉が紀州征伐を行い、副将軍として参陣した秀吉の弟・豊臣秀長は紀州平定後に紀伊・和泉を加増され、秀吉の命により紀の川畔の「若山」と呼ばれた地(のち「和歌山」)にある虎伏山の山頂に、藤堂高虎らに普請させて1年で築
岸和田城 続日本100名城 No.161 大阪府岸和田市岸城町 南朝方の武将・楠木正成の部下である和田高家が「岸」に城を築いたのが「岸和田」の始まりとされる。15世紀後半に現在の場所から約500m南東に山城が築城され(岸和田古城)、のち現在の場所に移築される。1585年、羽柴秀吉の紀州根来寺討滅の後
大阪南部の千早城攻城を果たし、次を目指す。奈良市からここまではずっと近鉄線だったが、この先は南海電鉄利用。河内長野駅から大阪市の天下茶屋駅まで北上し、南海本線に乗り換え和歌山方面へ向かう。その途中にあるのが、岸和田城(続100名城 No.161)。当初の予定ではこの日の閉園時間に間に合わず翌日に回す
千早城 日本100名城 No.55 大阪府南河内郡千早赤阪村千早 鎌倉時代末期、のちに南朝方につく楠木正成が赤坂城の詰めの城として金剛山中腹に築いた山城。四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇った。1333年、後醍醐天皇による倒幕計画に呼応した正成は鎌倉幕府軍に包囲されるがこれを迎え撃つ(千早城の戦い)。こ
宇陀松山城 続日本100名城 No.166 奈良県宇陀市大宇陀拾生 宇陀の国人(宇陀三将)の秋山氏が標高473mの古城山に築いた山城(阿紀山城/秋山城、神楽岡の城)が始まり。南北朝時代には構えられていたとされる。1585年、豊臣秀長の大和郡山入部に伴い秋山氏は宇陀から退去。加藤氏、多賀氏などの城主の
奈良県桜井市の宿で1泊し、朝食を頂いてすぐにこの日1つ目の名城に向かう。近鉄大阪線に乗って東へ。桜の名所・長谷寺を通過し、榛原駅で下車。大宇陀行きのバスに乗り換えて宇陀松山城(続100名城 No.166)に向かう。宇陀松山城は宇陀の国人(宇陀三将)の秋山氏が標高473mの古城山に築いた山城だ。戦国時
「木彫りの熊」に案内されるようにして高取城本丸上部への坂道を上る。最後の門と虎口を通過して到着した場所が、広さ4500平方mにもなる本丸広場だ。北西隅に、先ほど下から見上げた天守台がある。往時には連立式3重3階地下1階の天守閣が築かれたという。高取城と同じく日本三大山城の1つに数えられる備中松山城の
高取城 日本100名城 No.61 奈良県高市郡高取町高取 標高584mの高取山の頂に築かれた山城。岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城に並ぶ日本三大山城の一つに数えられ、麓から本丸までの高低差(比高)は390mと日本一である。南北朝時代、南朝方の越智邦澄が築城したのが始まり。戦国時代、証如軍(一向一
11時10分、飛鳥駅から近鉄吉野線で1つ南の壺阪山駅へ。次に向かう城は、高取城(100名城 No.61)。岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城に並ぶ日本三大山城の一つに数えられる、標高584mの高取山の山頂に築かれた山城だ。麓から本丸までの高低差(比高)は390mと日本一である。戦国時代、織田信長の死
大和郡山城 続日本100名城 No.165 奈良県大和郡山市城内町 鎌倉時代の1162年に郡山衆が雁陣之城を築いたというのが最も古い記録として残る。戦国時代には織田信長に臣従した筒井順慶軍の拠点となり、1580年に信長から大和国では一城のみとする破城令が発せられたことから、順慶は従来の本城だった筒井
午前6時20分すぎ、前日23時すぎに横浜を出発した夜行バスがJR奈良駅に到着。今回はここから、奈良県、大阪府南部、和歌山県北部の100名城、続100名城を巡る旅を始める。その前に、せっかく9年ぶりに奈良市に来たことなので、朝の短い時間を利用して興福寺と東大寺の大仏だけ訪れる。到着時は生憎の雨で、奈良
2024年2月24日2月下旬。早咲きの河津桜の季節だ。神奈川県西部の富士山に近い松田町では、河津桜の向こうに富士山を見ることができるスポットがあるという。天気のいい休日に出掛けてみた。 小田急線の新松...
三重での城巡り・マラソン大会参加を終えて、帰途に就く。近鉄名古屋線で名古屋着。ここから新幹線で関東へ――と、その前に、2020年に訪れた尾張の城の中で、写真撮影に満足していないものがあったので、撮影のやり直しのために再訪することにした。名鉄名古屋本線に乗って、岩倉駅で下車。バスに乗り換えて向かったの
田丸城 続日本100名城 No.154 三重県度会郡玉城町田丸 南北朝時代に南朝方の北畠親房、北畠顕信によって築かれた平山城。北朝方の足利尊氏に落とされた後、室町時代に北畠氏により再建され、のち北畠氏庶流の北畠顕晴が入り、田丸氏を名乗る。戦国時代、織田信長の伊勢侵攻の際、北畠具教の養嗣子となった信長
松阪城 日本100名城 No.48 三重県松阪市殿町 豊臣秀吉によって南伊勢に移封された蒲生氏郷が、松ヶ島城に入った後、それに代わる拠点として1588年に築いた平山城。3重5階の天守も築かれる。氏郷は旧領の近江商人を呼び寄せて楽市楽座を設け、更に湊町に伊勢大湊の豪商角屋氏を呼び寄せ、商都松阪の礎を築
伊賀上野城の登城を終えて、来た道を逆に辿る形で、伊賀鉄道の「忍者列車」で上野市駅から伊賀神戸駅、近鉄に乗り換えて伊賀神戸駅から伊勢中川駅、更に乗り継いで、みえ松阪マラソンの会場最寄りの松阪駅に戻る。この街にも名城がある。松阪城(100名城 No.48)だ。豊臣秀吉によって南伊勢に移封された蒲生氏郷が
伊賀上野城 日本100名城 No.47 三重県伊賀市上野丸之内 平楽寺、薬師寺のあった上野台地に、伊賀の守護大名・仁木氏が築いた仁木氏館が起源。1585年、筒井順慶の養子で、郡山から伊賀に移封された筒井定次が改修。3層の天守を建てる。関ヶ原の戦いの際、一時西軍の新庄氏に奪われるがすぐ奪還する(上野城
平戸城 日本100名城 No.90 豊臣秀吉の九州平定に加わって肥前国松浦郡を安堵された松浦鎮信(法印)が1599年、平戸港を見下ろす海辺の丘陵上に築城を開始。しかし完成間近の1613年、火災により焼失。豊臣氏と親交が厚かったことから江戸幕府からの嫌疑を避けるために鎮信自らが火を放ったともいわれる。
名護屋城 日本100名城 No.87 佐賀県唐津市鎮西町名護屋 16世紀末、明国征服という誇大妄想に冒された豊臣秀吉が朝鮮出兵という暴挙に出た際に、その前線基地として肥前国松浦郡名護屋の波戸岬の、日本海を望む丘陵上に築いた城。17万平方メートルに及ぶ敷地に五重天守や御殿が建てられ、城下町も形成され
唐津城 続日本100名城 No.185 佐賀県唐津市東城内 松浦川が唐津湾に注ぐ河口の高台(満島山)に築かれた、平山城であると同時に海城でもある城。関ヶ原の戦いで東軍についた寺沢広高が肥後国天草郡4万石を加増され、1602~1608年にかけて築城。その際には、松浦川の流路を変えたり、当時廃城となって
佐賀城 日本100名城 No.89 佐賀県佐賀市城内 肥前国佐賀の、龍造寺氏の拠点だった村上城を前身とし、龍造寺隆信の死後実権を握った鍋島氏が改修・拡張して築いた城。1608年、佐賀城総普請が始まり、1611年に完成して鍋島勝茂が本丸に入る。1726に火災で天守閣をはじめ本丸・二の丸・三の丸が消失。
吉野ヶ里 日本100名城 No.88 佐賀県吉野ヶ里町、佐賀県神埼市 九州・佐賀平野に築かれた、全長2.5kmの壕に囲まれた古代の環濠集落。弥生時代前期の紀元前5~前2世紀、分散的に「ムラ」が誕生。やがてそれは「クニ」へと発展し、弥生時代中期(紀元前2~紀元1世紀)には大きな外環壕が掘られる。この頃
久留米城 続日本100名城 No.183 福岡県久留米市篠山町 筑後国の、筑後川と宝満川の合流地点の丘陵上に建てられた城。16世紀前半にこの地の土豪が篠原城と称して建てた砦が始まりといわれる。豊臣秀吉の九州平定後の1587年、毛利秀包(小早川秀包)が筑後久留米に封じられ、秀包により堀・石垣・天守を設
基肄城 続日本100名城 No.184 福岡県筑紫野市、佐賀県基山町 7世紀に唐・新羅連合軍と白村江の戦を争って敗れた倭(日本)が、太宰府を中心とする九州北部各地で防備の増強を迫られ、665年、大野城とともに、百済からの渡来人の指導により、有明海方面の有事に備えて太宰府背後に建てさせた朝鮮式山城。基
水城 続日本100名城 No.182 福岡県太宰府市~福岡県大野城市~福岡県春日市 7世紀に唐・新羅連合軍と白村江の戦を争って敗れた倭(日本)が、太宰府を中心とする九州北部各地で防備の増強を迫られ、664年、太宰府を博多湾・福岡平野から守る形で、翌年大野城も建てられた国分の丘陵と吉松丘陵を塞ぐように
大野城 日本100名城 No.86 福岡県糟屋郡宇美町四王寺 7世紀に唐・新羅連合軍と白村江の戦を争って敗れた倭(日本)が、太宰府を中心とする九州北部各地で防備の増強を迫られ、665年に太宰府北側の四王寺山(大城山)の尾根上に、百済からの渡来人の指導により建てさせた、東西約1.5㎞、南北約3㎞、外周
リベンジ3:吉田うどん 前回も富士吉田を訪れたのなら吉田うどんを絶対食べようと思っていたのだが、吉田うどんの店は11~14時の昼営業だけの店が殆どで、タイミングが合わず食べることができなかった。今回は浅間公園~富士宮本町商店街~富士山駅と巡っていたら、富士山駅近くにあるお気に入りの吉田うどん ふじや
3月30日に富士山の写真を求めて河口湖、新倉山公園を訪れたが、雲といい桜といい、残念な結果に終わってしまった、リベンジの機会は来年以降になるかな?と当初は思っていたが、4月8日、9日の土日も天気予報は良好だった。どちらかと言うと9日の方が天気は良さそうだったのだが、7日に関東地方が雨風に見舞われたこ
金田城 続日本100名城 No.186 長崎県対馬市美津島町黒瀬 金田城(かなたのき)は、7世紀に唐・新羅連合軍と白村江の戦を争って敗れた倭(日本)が、太宰府を中心とする九州北部各地で防備の増強を迫られ、その最前線的な砦として対馬中部の城山上に築いた城。急峻な自然地形を利用して築かれ、約2.6kmに
福岡城 日本100名城 No.85 福岡県福岡市中央区城内 関ヶ原の戦いの功で黒田孝高(官兵衛・如水)・黒田長政親子が筑前に封ぜられ、1601~07年、長政が警固村福崎の丘陵地に築城。以後明治まで福岡藩黒田氏の居城となり、歴代藩主によって改築が行われて24万平方mもの縄張りに50もの櫓が建てられた。
小倉城 続日本100名城 No.181 福岡県北九州市小倉北区城内 1569年、中国地方の毛利氏が城を築いたことから始まり、高橋鑑種や毛利勝信が居城した。関ヶ原の戦いで西軍についた毛利氏に代わり封ぜられた細川忠興が1602年から7年かけて改築。唐造の天守を建設。最上層の入母屋破風以外に破風が無いのが
2023年3月30日 昨年秋訪れた新倉山公園。あの時は富士山・五重塔・紅葉桜のコラボ写真を撮ることができたが、春には赤い葉がピンクの花に置き換わったまた違う彩の景色を楽しむことができる。この風景はまだ...
龍岡城 続日本100名城 No.129 長野県佐久市田口下町 江戸時代末期に龍岡(田野口)藩主・松平乗謨が藩庁の移転先として建築。北海道函館の五稜郭と同じ、フランスの築城方式による星型の稜堡式城郭で、函館のものと並び日本で2つしかない「五稜郭」である。1866年に石垣と土塁が、1867年には城郭内に
小諸城 日本100名城 No.28 長野県小諸市丁 小諸、佐久一帯を制圧した武田信玄が1554年、山本勘助と馬場信房に命じて築城。城下町より低い場所に建てられたことから「穴城」とも呼ばれ、本丸が一番低い場所にあった。千曲川を天然の堀とする防備を誇った。武田氏滅亡後は織田家臣の滝川一益、佐久郡の国衆・
上田城 日本100名城 No.27 長野県上田市二の丸 上田の真田氏館に居住していた真田昌幸が1583年、「上杉軍から徳川を守る」という口実で千曲川畔近くに築城。その後昌幸は上杉方に寝返り、上田城は家康軍に攻められるが撃退(第1次上田合戦)。関ヶ原の戦いの折は西軍について徳川秀忠軍に攻められるも防い
松代城 日本100名城 No.26 長野県長野市松代町松代 川中島の戦いで上杉謙信と争った武田信玄が川中島地域の拠点城郭として、千曲川を外堀として築いた海津城が始まり。武田氏滅亡後は森氏、上杉氏、田丸氏が城主に。関ヶ原の戦いの後、再び森氏が、次いで松平氏が城主となり、その間に「待城」「松城」と改称さ
今治城 日本100名城 No.79 愛媛県今治市通町 関ヶ原の戦いで戦功のあった宇和島城主・藤堂高虎が今治を加増されて移住し、1602年、築城を開始、1604年、完成。瀬戸内海に接し、堀は海に連結していて当時は船が直接乗り入れし、平城であると同時に海城でもあった。天守は当時最新鋭の層塔型が建設された