和歌山城 日本100名城 No.62 和歌山県和歌山市一番丁 安土桃山時代、織田信長と羽柴秀吉が紀州征伐を行い、副将軍として参陣した秀吉の弟・豊臣秀長は紀州平定後に紀伊・和泉を加増され、秀吉の命により紀の川畔の「若山」と呼ばれた地(のち「和歌山」)にある虎伏山の山頂に、藤堂高虎らに普請させて1年で築
和歌山城 日本100名城 No.62 和歌山県和歌山市一番丁 安土桃山時代、織田信長と羽柴秀吉が紀州征伐を行い、副将軍として参陣した秀吉の弟・豊臣秀長は紀州平定後に紀伊・和泉を加増され、秀吉の命により紀の川畔の「若山」と呼ばれた地(のち「和歌山」)にある虎伏山の山頂に、藤堂高虎らに普請させて1年で築
岸和田城 続日本100名城 No.161 大阪府岸和田市岸城町 南朝方の武将・楠木正成の部下である和田高家が「岸」に城を築いたのが「岸和田」の始まりとされる。15世紀後半に現在の場所から約500m南東に山城が築城され(岸和田古城)、のち現在の場所に移築される。1585年、羽柴秀吉の紀州根来寺討滅の後
大阪南部の千早城攻城を果たし、次を目指す。奈良市からここまではずっと近鉄線だったが、この先は南海電鉄利用。河内長野駅から大阪市の天下茶屋駅まで北上し、南海本線に乗り換え和歌山方面へ向かう。その途中にあるのが、岸和田城(続100名城 No.161)。当初の予定ではこの日の閉園時間に間に合わず翌日に回す
千早城 日本100名城 No.55 大阪府南河内郡千早赤阪村千早 鎌倉時代末期、のちに南朝方につく楠木正成が赤坂城の詰めの城として金剛山中腹に築いた山城。四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇った。1333年、後醍醐天皇による倒幕計画に呼応した正成は鎌倉幕府軍に包囲されるがこれを迎え撃つ(千早城の戦い)。こ
宇陀松山城 続日本100名城 No.166 奈良県宇陀市大宇陀拾生 宇陀の国人(宇陀三将)の秋山氏が標高473mの古城山に築いた山城(阿紀山城/秋山城、神楽岡の城)が始まり。南北朝時代には構えられていたとされる。1585年、豊臣秀長の大和郡山入部に伴い秋山氏は宇陀から退去。加藤氏、多賀氏などの城主の
奈良県桜井市の宿で1泊し、朝食を頂いてすぐにこの日1つ目の名城に向かう。近鉄大阪線に乗って東へ。桜の名所・長谷寺を通過し、榛原駅で下車。大宇陀行きのバスに乗り換えて宇陀松山城(続100名城 No.166)に向かう。宇陀松山城は宇陀の国人(宇陀三将)の秋山氏が標高473mの古城山に築いた山城だ。戦国時
「木彫りの熊」に案内されるようにして高取城本丸上部への坂道を上る。最後の門と虎口を通過して到着した場所が、広さ4500平方mにもなる本丸広場だ。北西隅に、先ほど下から見上げた天守台がある。往時には連立式3重3階地下1階の天守閣が築かれたという。高取城と同じく日本三大山城の1つに数えられる備中松山城の
高取城 日本100名城 No.61 奈良県高市郡高取町高取 標高584mの高取山の頂に築かれた山城。岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城に並ぶ日本三大山城の一つに数えられ、麓から本丸までの高低差(比高)は390mと日本一である。南北朝時代、南朝方の越智邦澄が築城したのが始まり。戦国時代、証如軍(一向一
11時10分、飛鳥駅から近鉄吉野線で1つ南の壺阪山駅へ。次に向かう城は、高取城(100名城 No.61)。岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城に並ぶ日本三大山城の一つに数えられる、標高584mの高取山の山頂に築かれた山城だ。麓から本丸までの高低差(比高)は390mと日本一である。戦国時代、織田信長の死
大和郡山城 続日本100名城 No.165 奈良県大和郡山市城内町 鎌倉時代の1162年に郡山衆が雁陣之城を築いたというのが最も古い記録として残る。戦国時代には織田信長に臣従した筒井順慶軍の拠点となり、1580年に信長から大和国では一城のみとする破城令が発せられたことから、順慶は従来の本城だった筒井
午前6時20分すぎ、前日23時すぎに横浜を出発した夜行バスがJR奈良駅に到着。今回はここから、奈良県、大阪府南部、和歌山県北部の100名城、続100名城を巡る旅を始める。その前に、せっかく9年ぶりに奈良市に来たことなので、朝の短い時間を利用して興福寺と東大寺の大仏だけ訪れる。到着時は生憎の雨で、奈良
2024年2月24日2月下旬。早咲きの河津桜の季節だ。神奈川県西部の富士山に近い松田町では、河津桜の向こうに富士山を見ることができるスポットがあるという。天気のいい休日に出掛けてみた。 小田急線の新松...
三重での城巡り・マラソン大会参加を終えて、帰途に就く。近鉄名古屋線で名古屋着。ここから新幹線で関東へ――と、その前に、2020年に訪れた尾張の城の中で、写真撮影に満足していないものがあったので、撮影のやり直しのために再訪することにした。名鉄名古屋本線に乗って、岩倉駅で下車。バスに乗り換えて向かったの
田丸城 続日本100名城 No.154 三重県度会郡玉城町田丸 南北朝時代に南朝方の北畠親房、北畠顕信によって築かれた平山城。北朝方の足利尊氏に落とされた後、室町時代に北畠氏により再建され、のち北畠氏庶流の北畠顕晴が入り、田丸氏を名乗る。戦国時代、織田信長の伊勢侵攻の際、北畠具教の養嗣子となった信長
松阪城 日本100名城 No.48 三重県松阪市殿町 豊臣秀吉によって南伊勢に移封された蒲生氏郷が、松ヶ島城に入った後、それに代わる拠点として1588年に築いた平山城。3重5階の天守も築かれる。氏郷は旧領の近江商人を呼び寄せて楽市楽座を設け、更に湊町に伊勢大湊の豪商角屋氏を呼び寄せ、商都松阪の礎を築
伊賀上野城の登城を終えて、来た道を逆に辿る形で、伊賀鉄道の「忍者列車」で上野市駅から伊賀神戸駅、近鉄に乗り換えて伊賀神戸駅から伊勢中川駅、更に乗り継いで、みえ松阪マラソンの会場最寄りの松阪駅に戻る。この街にも名城がある。松阪城(100名城 No.48)だ。豊臣秀吉によって南伊勢に移封された蒲生氏郷が
伊賀上野城 日本100名城 No.47 三重県伊賀市上野丸之内 平楽寺、薬師寺のあった上野台地に、伊賀の守護大名・仁木氏が築いた仁木氏館が起源。1585年、筒井順慶の養子で、郡山から伊賀に移封された筒井定次が改修。3層の天守を建てる。関ヶ原の戦いの際、一時西軍の新庄氏に奪われるがすぐ奪還する(上野城
平戸城 日本100名城 No.90 豊臣秀吉の九州平定に加わって肥前国松浦郡を安堵された松浦鎮信(法印)が1599年、平戸港を見下ろす海辺の丘陵上に築城を開始。しかし完成間近の1613年、火災により焼失。豊臣氏と親交が厚かったことから江戸幕府からの嫌疑を避けるために鎮信自らが火を放ったともいわれる。
名護屋城 日本100名城 No.87 佐賀県唐津市鎮西町名護屋 16世紀末、明国征服という誇大妄想に冒された豊臣秀吉が朝鮮出兵という暴挙に出た際に、その前線基地として肥前国松浦郡名護屋の波戸岬の、日本海を望む丘陵上に築いた城。17万平方メートルに及ぶ敷地に五重天守や御殿が建てられ、城下町も形成され
唐津城 続日本100名城 No.185 佐賀県唐津市東城内 松浦川が唐津湾に注ぐ河口の高台(満島山)に築かれた、平山城であると同時に海城でもある城。関ヶ原の戦いで東軍についた寺沢広高が肥後国天草郡4万石を加増され、1602~1608年にかけて築城。その際には、松浦川の流路を変えたり、当時廃城となって
佐賀城 日本100名城 No.89 佐賀県佐賀市城内 肥前国佐賀の、龍造寺氏の拠点だった村上城を前身とし、龍造寺隆信の死後実権を握った鍋島氏が改修・拡張して築いた城。1608年、佐賀城総普請が始まり、1611年に完成して鍋島勝茂が本丸に入る。1726に火災で天守閣をはじめ本丸・二の丸・三の丸が消失。
吉野ヶ里 日本100名城 No.88 佐賀県吉野ヶ里町、佐賀県神埼市 九州・佐賀平野に築かれた、全長2.5kmの壕に囲まれた古代の環濠集落。弥生時代前期の紀元前5~前2世紀、分散的に「ムラ」が誕生。やがてそれは「クニ」へと発展し、弥生時代中期(紀元前2~紀元1世紀)には大きな外環壕が掘られる。この頃
久留米城 続日本100名城 No.183 福岡県久留米市篠山町 筑後国の、筑後川と宝満川の合流地点の丘陵上に建てられた城。16世紀前半にこの地の土豪が篠原城と称して建てた砦が始まりといわれる。豊臣秀吉の九州平定後の1587年、毛利秀包(小早川秀包)が筑後久留米に封じられ、秀包により堀・石垣・天守を設
基肄城 続日本100名城 No.184 福岡県筑紫野市、佐賀県基山町 7世紀に唐・新羅連合軍と白村江の戦を争って敗れた倭(日本)が、太宰府を中心とする九州北部各地で防備の増強を迫られ、665年、大野城とともに、百済からの渡来人の指導により、有明海方面の有事に備えて太宰府背後に建てさせた朝鮮式山城。基
水城 続日本100名城 No.182 福岡県太宰府市~福岡県大野城市~福岡県春日市 7世紀に唐・新羅連合軍と白村江の戦を争って敗れた倭(日本)が、太宰府を中心とする九州北部各地で防備の増強を迫られ、664年、太宰府を博多湾・福岡平野から守る形で、翌年大野城も建てられた国分の丘陵と吉松丘陵を塞ぐように
大野城 日本100名城 No.86 福岡県糟屋郡宇美町四王寺 7世紀に唐・新羅連合軍と白村江の戦を争って敗れた倭(日本)が、太宰府を中心とする九州北部各地で防備の増強を迫られ、665年に太宰府北側の四王寺山(大城山)の尾根上に、百済からの渡来人の指導により建てさせた、東西約1.5㎞、南北約3㎞、外周
リベンジ3:吉田うどん 前回も富士吉田を訪れたのなら吉田うどんを絶対食べようと思っていたのだが、吉田うどんの店は11~14時の昼営業だけの店が殆どで、タイミングが合わず食べることができなかった。今回は浅間公園~富士宮本町商店街~富士山駅と巡っていたら、富士山駅近くにあるお気に入りの吉田うどん ふじや
3月30日に富士山の写真を求めて河口湖、新倉山公園を訪れたが、雲といい桜といい、残念な結果に終わってしまった、リベンジの機会は来年以降になるかな?と当初は思っていたが、4月8日、9日の土日も天気予報は良好だった。どちらかと言うと9日の方が天気は良さそうだったのだが、7日に関東地方が雨風に見舞われたこ
金田城 続日本100名城 No.186 長崎県対馬市美津島町黒瀬 金田城(かなたのき)は、7世紀に唐・新羅連合軍と白村江の戦を争って敗れた倭(日本)が、太宰府を中心とする九州北部各地で防備の増強を迫られ、その最前線的な砦として対馬中部の城山上に築いた城。急峻な自然地形を利用して築かれ、約2.6kmに
福岡城 日本100名城 No.85 福岡県福岡市中央区城内 関ヶ原の戦いの功で黒田孝高(官兵衛・如水)・黒田長政親子が筑前に封ぜられ、1601~07年、長政が警固村福崎の丘陵地に築城。以後明治まで福岡藩黒田氏の居城となり、歴代藩主によって改築が行われて24万平方mもの縄張りに50もの櫓が建てられた。
小倉城 続日本100名城 No.181 福岡県北九州市小倉北区城内 1569年、中国地方の毛利氏が城を築いたことから始まり、高橋鑑種や毛利勝信が居城した。関ヶ原の戦いで西軍についた毛利氏に代わり封ぜられた細川忠興が1602年から7年かけて改築。唐造の天守を建設。最上層の入母屋破風以外に破風が無いのが
2023年3月30日 昨年秋訪れた新倉山公園。あの時は富士山・五重塔・紅葉桜のコラボ写真を撮ることができたが、春には赤い葉がピンクの花に置き換わったまた違う彩の景色を楽しむことができる。この風景はまだ...
龍岡城 続日本100名城 No.129 長野県佐久市田口下町 江戸時代末期に龍岡(田野口)藩主・松平乗謨が藩庁の移転先として建築。北海道函館の五稜郭と同じ、フランスの築城方式による星型の稜堡式城郭で、函館のものと並び日本で2つしかない「五稜郭」である。1866年に石垣と土塁が、1867年には城郭内に
小諸城 日本100名城 No.28 長野県小諸市丁 小諸、佐久一帯を制圧した武田信玄が1554年、山本勘助と馬場信房に命じて築城。城下町より低い場所に建てられたことから「穴城」とも呼ばれ、本丸が一番低い場所にあった。千曲川を天然の堀とする防備を誇った。武田氏滅亡後は織田家臣の滝川一益、佐久郡の国衆・
上田城 日本100名城 No.27 長野県上田市二の丸 上田の真田氏館に居住していた真田昌幸が1583年、「上杉軍から徳川を守る」という口実で千曲川畔近くに築城。その後昌幸は上杉方に寝返り、上田城は家康軍に攻められるが撃退(第1次上田合戦)。関ヶ原の戦いの折は西軍について徳川秀忠軍に攻められるも防い
松代城 日本100名城 No.26 長野県長野市松代町松代 川中島の戦いで上杉謙信と争った武田信玄が川中島地域の拠点城郭として、千曲川を外堀として築いた海津城が始まり。武田氏滅亡後は森氏、上杉氏、田丸氏が城主に。関ヶ原の戦いの後、再び森氏が、次いで松平氏が城主となり、その間に「待城」「松城」と改称さ
今治城 日本100名城 No.79 愛媛県今治市通町 関ヶ原の戦いで戦功のあった宇和島城主・藤堂高虎が今治を加増されて移住し、1602年、築城を開始、1604年、完成。瀬戸内海に接し、堀は海に連結していて当時は船が直接乗り入れし、平城であると同時に海城でもあった。天守は当時最新鋭の層塔型が建設された