和歌山城 日本100名城 No.62 和歌山県和歌山市一番丁 安土桃山時代、織田信長と羽柴秀吉が紀州征伐を行い、副将軍として参陣した秀吉の弟・豊臣秀長は紀州平定後に紀伊・和泉を加増され、秀吉の命により紀の川畔の「若山」と呼ばれた地(のち「和歌山」)にある虎伏山の山頂に、藤堂高虎らに普請させて1年で築
和歌山城 日本100名城 No.62 和歌山県和歌山市一番丁 安土桃山時代、織田信長と羽柴秀吉が紀州征伐を行い、副将軍として参陣した秀吉の弟・豊臣秀長は紀州平定後に紀伊・和泉を加増され、秀吉の命により紀の川畔の「若山」と呼ばれた地(のち「和歌山」)にある虎伏山の山頂に、藤堂高虎らに普請させて1年で築
岸和田城 続日本100名城 No.161 大阪府岸和田市岸城町 南朝方の武将・楠木正成の部下である和田高家が「岸」に城を築いたのが「岸和田」の始まりとされる。15世紀後半に現在の場所から約500m南東に山城が築城され(岸和田古城)、のち現在の場所に移築される。1585年、羽柴秀吉の紀州根来寺討滅の後
関西中部100名城(5)―岸和田城、和歌山城 - 日本100名城
大阪南部の千早城攻城を果たし、次を目指す。奈良市からここまではずっと近鉄線だったが、この先は南海電鉄利用。河内長野駅から大阪市の天下茶屋駅まで北上し、南海本線に乗り換え和歌山方面へ向かう。その途中にあるのが、岸和田城(続100名城 No.161)。当初の予定ではこの日の閉園時間に間に合わず翌日に回す
千早城 日本100名城 No.55 大阪府南河内郡千早赤阪村千早 鎌倉時代末期、のちに南朝方につく楠木正成が赤坂城の詰めの城として金剛山中腹に築いた山城。四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇った。1333年、後醍醐天皇による倒幕計画に呼応した正成は鎌倉幕府軍に包囲されるがこれを迎え撃つ(千早城の戦い)。こ
宇陀松山城 続日本100名城 No.166 奈良県宇陀市大宇陀拾生 宇陀の国人(宇陀三将)の秋山氏が標高473mの古城山に築いた山城(阿紀山城/秋山城、神楽岡の城)が始まり。南北朝時代には構えられていたとされる。1585年、豊臣秀長の大和郡山入部に伴い秋山氏は宇陀から退去。加藤氏、多賀氏などの城主の
関西中部100名城(4)―宇陀松山城、千早城 - 日本100名城
奈良県桜井市の宿で1泊し、朝食を頂いてすぐにこの日1つ目の名城に向かう。近鉄大阪線に乗って東へ。桜の名所・長谷寺を通過し、榛原駅で下車。大宇陀行きのバスに乗り換えて宇陀松山城(続100名城 No.166)に向かう。宇陀松山城は宇陀の国人(宇陀三将)の秋山氏が標高473mの古城山に築いた山城だ。戦国時
関西中部100名城(3)―高取城ほか・2 - 日本100名城
「木彫りの熊」に案内されるようにして高取城本丸上部への坂道を上る。最後の門と虎口を通過して到着した場所が、広さ4500平方mにもなる本丸広場だ。北西隅に、先ほど下から見上げた天守台がある。往時には連立式3重3階地下1階の天守閣が築かれたという。高取城と同じく日本三大山城の1つに数えられる備中松山城の
高取城 日本100名城 No.61 奈良県高市郡高取町高取 標高584mの高取山の頂に築かれた山城。岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城に並ぶ日本三大山城の一つに数えられ、麓から本丸までの高低差(比高)は390mと日本一である。南北朝時代、南朝方の越智邦澄が築城したのが始まり。戦国時代、証如軍(一向一
関西中部100名城(2)―高取城ほか・1 - 日本100名城
11時10分、飛鳥駅から近鉄吉野線で1つ南の壺阪山駅へ。次に向かう城は、高取城(100名城 No.61)。岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城に並ぶ日本三大山城の一つに数えられる、標高584mの高取山の山頂に築かれた山城だ。麓から本丸までの高低差(比高)は390mと日本一である。戦国時代、織田信長の死
大和郡山城 続日本100名城 No.165 奈良県大和郡山市城内町 鎌倉時代の1162年に郡山衆が雁陣之城を築いたというのが最も古い記録として残る。戦国時代には織田信長に臣従した筒井順慶軍の拠点となり、1580年に信長から大和国では一城のみとする破城令が発せられたことから、順慶は従来の本城だった筒井
関西中部100名城(1)―大和郡山城ほか - 日本100名城
午前6時20分すぎ、前日23時すぎに横浜を出発した夜行バスがJR奈良駅に到着。今回はここから、奈良県、大阪府南部、和歌山県北部の100名城、続100名城を巡る旅を始める。その前に、せっかく9年ぶりに奈良市に来たことなので、朝の短い時間を利用して興福寺と東大寺の大仏だけ訪れる。到着時は生憎の雨で、奈良
2024年2月24日2月下旬。早咲きの河津桜の季節だ。神奈川県西部の富士山に近い松田町では、河津桜の向こうに富士山を見ることができるスポットがあるという。天気のいい休日に出掛けてみた。 小田急線の新松...
尾張100名城―小牧山城、犬山城(写真撮影のみ) - 日本100名城
三重での城巡り・マラソン大会参加を終えて、帰途に就く。近鉄名古屋線で名古屋着。ここから新幹線で関東へ――と、その前に、2020年に訪れた尾張の城の中で、写真撮影に満足していないものがあったので、撮影のやり直しのために再訪することにした。名鉄名古屋本線に乗って、岩倉駅で下車。バスに乗り換えて向かったの
田丸城 続日本100名城 No.154 三重県度会郡玉城町田丸 南北朝時代に南朝方の北畠親房、北畠顕信によって築かれた平山城。北朝方の足利尊氏に落とされた後、室町時代に北畠氏により再建され、のち北畠氏庶流の北畠顕晴が入り、田丸氏を名乗る。戦国時代、織田信長の伊勢侵攻の際、北畠具教の養嗣子となった信長
松阪城 日本100名城 No.48 三重県松阪市殿町 豊臣秀吉によって南伊勢に移封された蒲生氏郷が、松ヶ島城に入った後、それに代わる拠点として1588年に築いた平山城。3重5階の天守も築かれる。氏郷は旧領の近江商人を呼び寄せて楽市楽座を設け、更に湊町に伊勢大湊の豪商角屋氏を呼び寄せ、商都松阪の礎を築
伊賀上野城の登城を終えて、来た道を逆に辿る形で、伊賀鉄道の「忍者列車」で上野市駅から伊賀神戸駅、近鉄に乗り換えて伊賀神戸駅から伊勢中川駅、更に乗り継いで、みえ松阪マラソンの会場最寄りの松阪駅に戻る。この街にも名城がある。松阪城(100名城 No.48)だ。豊臣秀吉によって南伊勢に移封された蒲生氏郷が
伊賀上野城 日本100名城 No.47 三重県伊賀市上野丸之内 平楽寺、薬師寺のあった上野台地に、伊賀の守護大名・仁木氏が築いた仁木氏館が起源。1585年、筒井順慶の養子で、郡山から伊賀に移封された筒井定次が改修。3層の天守を建てる。関ヶ原の戦いの際、一時西軍の新庄氏に奪われるがすぐ奪還する(上野城
津城 続日本100名城 No.152 三重県津市丸之内 戦国時代に津を支配していた長野氏の一族の細野藤光が築いた安濃津城が起源。北は安濃川、南は岩田川に挟まれ、これを天然の外堀としていた。1568年、織田信長に侵攻され、1569年、信長の弟・織田信包が入城。信包は城郭を拡充。石垣、堀を築き、本丸・二
先月の東北・みやぎ復興マラソンに続き、今回はみえ松阪マラソンに出場するために、三重へ向かう。三重の100名城・続100名城はいずれもまだ訪れていない。今回もマラソンついでに訪れることにした。横浜から夜行バスに乗り、午前7時半、津駅に到着。朝食をとった後、8時15分発の近鉄で一駅南の津新町駅へ移動する
多賀城 日本100名城 No.7 宮城県多賀城市市川 奈良時代、大和朝廷が蝦夷支配のため、大野東人に命じて現在の宮城県多賀城市に築かせた古代城柵。奈良時代から平安時代にかけて、役所である陸奥国府や軍事拠点である鎮守府が置かれ、11世紀中頃まで東北地方の政治・軍事・文化の中心地となる。9世紀初め、征夷
2日前に宮城入りして白石城、仙台城を訪れて、1日前は今回の遠征のメーンイベントである東北・みやぎ復興マラソンに参戦。目標としていた4時間30分以内は達成できず、4時間46分45秒でのフィニッシュとなった。もう1個所、残していた名城があったので、仙台でもう1泊してこの日、マラソンでボロボロになった両脚
仙台城 日本100名城 No.8 宮城県仙台市青葉区川内 1601年、伊達政宗が新たな居城として青葉山の上に築いた城。以後幕末まで伊達氏の居城・仙台藩の政庁となる。巨大な石垣の上に250m四方の本丸を誇るが、天守は築かれなかった。1639年、伊達忠宗が現在の東北大学川内キャンパスがある場所に二の丸を
白石城 続日本100名城 No.105 宮城県白石市益岡町 鎌倉時代に白石氏(刈田氏)の居館として建てられ、戦国時代、伊達氏が刈田郡を勢力下とするも、1591年、豊臣秀吉の奥州仕置により蒲生氏郷の所領となり、1598年に上杉景勝が会津入りするとその家臣の甘糟景継が城主となる。1600年、徳川家康の上
東北・みやぎ復興マラソンに出場するために、仙台へ。今回の遠征の主目的はマラソンだが、宮城の100名城・続100名城はいずれも未登城だ。全部で3つと数も多くないので、ついでに訪れることにした。往路。東京駅から東北新幹線に乗車するが、仙台までは行かずに福島で新幹線を下車。東北本線に乗り換え更に北上し、白
2023年10月38日 江戸城には100名城巡りを始めた2019年に訪れて100...
新高山城 続日本100名城 No.173 広島県三原市本郷町本郷 鎌倉時代に、現在の広島県三原市本郷の沼田川東岸に建てられた小早川氏の居城・高山城の副塁として、対岸(西岸)の山に建てられた山城。戦国時代、毛利元就の息子・小早川隆景が小早川家を継いで、新高山城を拡張して本拠とする。1596年、隆景は本
三原城 続日本100名城 No.172 広島県三原市城町 戦国時代、毛利元就の子・小早川隆景が現在の広島県三原市の沼田川河口エリアに築いた水軍施設が始まり。織田信長の中国攻めの際は毛利輝元がここに本陣を置く。豊臣秀吉に服従後、隆景は福岡に封ぜられるが、子の秀秋に家督を譲って三原城を隠居城とする。隆景
福山城 日本100名城 No.71 広島県福山市丸之内 江戸時代初期、現在の広島県福山市に封ぜられた譜代大名・水野勝成が西国外様大名への牽制に築いた城。層塔型5重6階の天守が建てられ、一国一城令発布後に築かれた最後の大規模近世城郭となる。水野氏の後も松平氏、阿部氏と譜代大名が治めた。明治の戊辰戦争で
東広島100名城―福山城、三原城、新高山城 - 日本100名城
岡山3日目。岡山の100名城・続100名城は前日までに制覇していたが、岡山には、広島県東部の三原まで4200円で3日間列車乗り放題の「岡山ワイドパス」というお得な切符があり、初日、2日目と、この切符で城巡りをしてきた。東広島にもこの切符で行くことができる城があるので、この日はそちらを目指すことにする
鬼ノ城 日本100名城 No.69 岡山県総社市奥坂、黒尾 岡山県総社市の、標高400mの鬼城山(きのじょうさん)に、大和朝廷によって7世紀後半に築かれた古代山城。倭(日本)の防衛のために築かれた施設の1つだが、史書に記載が一切無く具体的な歴史は不明。周囲を土塁で囲み、要所に石垣(特に屏風折れの石垣
備中高松城登城を達成し、備中高松駅から吉備線(桃太郎線)で1つ総社駅寄りの服部駅に移動する。小さな無人駅を出るとすぐ、次に目指す鬼ノ城(100名城 No.69)を確かに見ることができた。(直線距離で)4㎞先の鬼城山の上に...しかも服部駅からの標高差は350m。中間地点の砂川公園までは平坦に近いが、
備中高松城 続日本100名城 No.171 岡山県岡山市北区高松 備中松山城を本拠に備中を治めていた戦国大名・三村氏の命で石川氏が築いた城。1575年の備中兵乱で石川氏が三村氏とともに毛利氏に滅ぼされた後は、三村氏から毛利氏に臣従した清水宗治が城主となる。1582年、織田信長の家臣・羽柴秀吉の中国攻
備中松山城 日本100名城 No.68 岡山県高梁市内山下 岡山・高梁の臥牛山(松山)の山頂近くに秋庭氏が鎌倉時代に建てた城をベースに、戦国時代、三村氏が拡張する形で築いた山城。江戸時代初期、水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の天守の姿になる。戦に備えて築かれた「詰の城」で常用はされず、江戸時
岡山100名城(2)―備中松山城、備中高松城 - 日本100名城
朝一番の7時半前に伯備線の列車に乗り込んで岡山駅を出発。武家屋敷で有名な倉敷を経由(既に過去に2度訪れていたこともあり今回は通過)して、8時18分、備中高梁駅に到着。時間によっては登城口までバスもあるのだが、この時間帯は生憎バスが無く、2㎞弱の道を歩いて向かう。駅を出発して程なくして、目指す備中松山
津山城 日本100名城 No.67 岡山県津山市山下 室町時代中期に山名忠政が築いた鶴山城が原型。一度廃城となるが、1603年に津山藩主に封ぜられた森忠政(織田信長家臣・森可成の六男)が、13年の歳月をかけて今の形に築いた城。4重5階地下1階の層塔型天守のほか、櫓、城門などを合わせ80余棟が建ち並ぶ
岡山城 日本100名城 No.70 岡山県岡山市北区丸の内 戦国時代に岡山の地を支配した宇喜多直家が居城とし、息子の秀家が継ぐが関ケ原の戦いで西軍につき敗れて八丈島に流され、その後を関ケ原の戦いで西軍を寝返り東軍を勝利に導いた小早川秀秋が入る。しかし秀秋が死去し小早川家が断絶したため池田輝政の次男忠
午前10時前、羽田空港からのJAL便で岡山に到着。今回の城巡りは岡山と、東広島の8城を目指す。リムジンバスで岡山駅へ。駅近くの宿に大きな荷物を預け、岡山市コミュニティサイクル「ももちゃり」を活用して早速、1つ目の城・岡山城(100名城 No.70)へと向かう。岡山城は戦国時代、宇喜多直家・秀家親子、
大垣城 続日本100名城 No.140 岐阜県大垣市郭町 美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、1535年に創建されたと伝えられる。戦略上重要な地点であったため、戦国時代には争奪戦が繰り返され、織田氏、斎藤氏、織田氏と支配権が移り変わる。賤ヶ岳の戦いの後は羽柴秀吉配下となり、池田恒興・輝政親
玄蕃尾城 続日本100名城 No.140 福井県敦賀市刀根、滋賀県長浜市余呉町柳ケ瀬 福井県と滋賀県境の柳ヶ瀬山の尾根上に築かれた山城。織田信長の死後、羽柴秀吉と柴田勝家が争った賤ヶ岳の戦い(1583年)において、柴田勝家の本陣が置かれた。曲輪・櫓台・土塁・虎口・空堀・土橋など保存状態が良好で、当時
佐柿国吉城 続日本100名城 No.139 福井県三方郡美浜町佐柿 戦国時代、若狭国と敦賀国の国境の「城山」に、武田氏重臣の粟屋勝久が築いた山城。越前国の朝倉氏の度重なる来襲を退け、「難攻不落の城」として称えられた。1570年、朝倉攻めに向かう織田信長率いる3万の軍勢を迎え入れ、木下藤吉郎、徳川家康
琵琶湖周辺100名城(5)―佐柿国吉城、玄蕃尾城、大垣城 - 日本100名城
小谷城登城を達成し、河毛駅に戻って北陸本線で更に北へ向かう。近江塩津で列車を乗り継ぎ、滋賀県を越えて福井県へ。敦賀で小浜線に乗り換え、今度は西へ進む。美浜駅で下車。駅に併設された観光案内所でレンタサイクルを借りて、線路沿いに東へ20分進む。次に目指すは、佐柿国吉城(続100名城 No.139)。戦国
小谷城 日本100名城 No.49 滋賀県長浜市湖北町伊部 16世紀前半、北近江の国人・浅井亮政が小谷山(伊部山)上の尾根に建てた山城。以後浅井3代の居城となり、3代目の長政は織田信長の妹・市を妻に迎え、茶々、初、江の3姉妹を産んだ。しかし1570年、信長が越前朝倉家を攻めた際、長政は信長に反旗を翻
彦根城 日本100名城 No.50 滋賀県彦根市金亀町 徳川家康の重臣・井伊直政が関ヶ原の戦いの後、石田三成の旧領・近江国佐和山に封じられ、その死後に家督を継いだ井伊直継の下、琵琶湖に面した彦根山(金亀山)に、1603~1622年にかけて築かれた城。以後多くの大老(井伊直弼など)を輩出した譜代大名・
琵琶湖周辺100名城(4)―佐和山城、彦根城、小谷城 - 日本100名城
米原で一夜を明かし、早朝から2日目の琵琶湖周辺100名城巡りに繰り出す。まずは、昨日時間が無くスキップした、東海道線で西へ1駅の彦根へ。彦根と言えば――の名城の前に、彦根駅の近くにもう一つ、100名城にも続100名城にも数えられていないが、戦国の名将ゆかりの名前の通った城があるので、まずそちらに行く
観音寺城 日本100名城 No.52 滋賀県近江八幡市安土町石寺 戦国時代に近江国守護佐々木六角氏が拠点とした繖山(きぬがさやま)上の山城。応仁の乱の際には六角氏が西軍に属したため同族の京極氏に攻められ、3度の攻防戦が繰り広げられる。その後、家臣の伊庭氏が背くなどして度々戦闘の舞台となる。1568年
安土城の次に目指すは、JR東海道線を挟んでそのすぐ隣にある繖山(きぬがさやま)上の観音寺城(100名城 No.52)。織田信長が安土城を築く前に近江国守護としてこの地を支配していた佐々木六角氏の居城だ。総石垣造りで、「日本五大山城」の1つにも数えられる巨大さを誇った山城である。応仁の乱の際には3度に
安土城 日本100名城 No.51 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦 足利幕府を滅亡させて「天下布武」の道を進む織田信長が、京都にほど近い琵琶湖畔の安土山の上に1576年から3年かけて築いた山城。日本初の近世城郭とされ、大手道の急峻な石階段の上に築かれた天守は5重6階地下1階の大きさで、最上層は金色、
八幡山城の登城を果たした私は、東海道線の各駅停車で東へ1駅だけ移動する。到着したのは、安土駅。まずは南口に出て、安土城郭資料館へ。これから訪れる城の模型などを見たほか、これから訪れる2つの名城のスタンプを先に頂いた。その後、地下道をくぐって反対側の北口へ。この地を語るには欠かせない、織田信長の銅像が
八幡山城 続日本100名城 No.157 滋賀県近江八幡市宮内町 織田信長の死後、羽柴秀吉が力を得る中で、秀吉の甥・羽柴秀次が近江八幡を与えられ、琵琶湖畔の鶴翼山(八幡山)の上に築いた居城。当時、焼失した織田信長の居城・安土城の再興が検討されていたが、安土の城下町は安土城に隣接する地に築かれた八幡山
鎌刃城 続日本100名城 No.156 滋賀県米原市番場 湖北と湖南をつなぐ要衝だった滋賀・米原の中山道の宿場町・番場を見下ろす山の上に、戦国時代にここを所領とした堀氏が築いた湖北最大級の山城。北近江の京極氏・浅井氏と南近江の六角氏がこの地の領有をめぐって度々争った。1570年、浅井長政が織田信長に
琵琶湖周辺100名城(1)―鎌刃城、八幡山城 - 日本100名城
午前5時すぎ。日付が変わったばかりの時間に横浜を出発した夜行バスが、名古屋駅近くに到着した。今回の目的地はもう少し先。私は早朝営業をしている牛丼店で朝食を済ませると、名古屋駅から米原行きのJR東海道線の列車に乗り込んで、西へと向かった。途中、岐阜県を通過。既に登城・100名城スタンプ獲得済みである岐
二本松城 日本100名城 No.11 福島県二本松市郭内 室町中期に畠山氏7代当主・二本松満泰が「白旗が峰」に築城した山城が始まり。伊達政宗が畠山氏を滅ぼしてこれを領したが、豊臣秀吉の奥州仕置で没収され、蒲生氏郷、上杉景勝などを経て江戸時代、丹羽光重が領主となり、大改修を行って山上の本丸の石垣や3重
福島100名城(3)―会津若松城、二本松城 - 日本100名城
会津若松城(鶴ヶ城)の訪問を終えて、市内巡回バスに乗る。福島にもう一つある名城をこの日のうちに訪れておきたかったので、前回会津若松を訪れた時に来たことのある会津武家屋敷はパス。しかしもう一つ、前回訪れていたものの、素通りせずにきっちり訪れたかった場所があり、その場所でバスを下りた。そこにあったのは、
会津若松城 日本100名城 No.12福島県会津若松市追手町 室町初期に蘆名氏が館を築いたのが始まりとされ、黒川城と呼ばれていた戦国時代に伊達政宗が蘆名氏を滅ぼし城を手にしたが、豊臣秀吉の奥州仕置で没収され、代わって入った蒲生氏郷により天守建造など大改修が行われ、「鶴ヶ城」と改められる。上杉景勝や加
向羽黒山城 続日本100名城 No.111 福島県大沼郡会津美里町船場 戦国時代に蘆名盛氏が、会津若松のすぐ南の白鳳三山の上に築いた山城。蘆名氏滅亡後も伊達政宗や上杉景勝により詰めの城として存続した、50haに及ぶ東北最大級の天然の要害。関ヶ原の戦いで上杉景勝が西軍に加担したことから戦後転封されたの
福島100名城(2)―向羽黒山城、会津若松城 - 日本100名城
会津若松駅前の宿で朝を迎え、まず向かったのは、街中にあるあの名城ではなく、もう1つ、会津若松市の南に隣接する会津美里町にある山城だった。会津若松駅から登城口まで直通のバスもあったが、今回は青春18きっぷの旅だったので、それを有効活用しようとJRで最寄りの駅まで行ってそこから歩く選択肢を採った。会津若
三春城 日本100名城 No.110 福島県田村郡三春町大町 室町中期に田村義顕が丘陵の上に築いた城。豊臣秀吉の奥州仕置によって田村氏が改易されて以降は伊達氏(片倉景綱)、蒲生氏、加藤氏、松下氏が城主となり、松下氏時代に、本丸下段(それまで二の丸)に三階櫓が建てられるなどの改修がされて、山城から近世
白河小峰城 日本100名城 No.13 福島県白河市郭内 南北朝期、小峰ヶ岡という丘陵上に結城親朝が築城したのが始まりで、戦国時代に白河結城家の本城となった。豊臣秀吉の奥州仕置により結城氏が改易され、城が没収された後は会津の一部として蒲生家や上杉家が治め、江戸時代に初代白河藩主の丹羽長重により大改修
福島100名城(1)―白河小峰城、三春城 - 日本100名城
夏。青春18きっぷの季節だ。今年は5日分買って使い切るのは難しそうだったが、2日で福島あたりの城巡りをするのは可能だ(最初は新幹線を使っての日帰りを考えていたのだが、青春18きっぷで1泊する方が遥かに安上がりだった)。オークションサイトで出品されていた2日分の青春18きっぷを落札した私は、いざ、最寄
剣ヶ峰に登り登頂を達成した後は、山頂火口を1周するお鉢巡り続行。大沢崩れを経てまずは反対側の吉田ルート頂上へ向かう。「お鉢」時折霧に包まれ、あたかも噴煙を上げているかのように見えた。9時54分、御殿場ルート頂上に戻ってきた。ここから後は下るばかりだが、見下ろしてみるとごつごつした岩場の向こうはもう霞
午前4時。雑魚寝の山小屋の中で、誰かの携帯電話のアラームが鳴った。普通なら迷惑行為だが、誰も文句を言う者は無く、それに便乗して皆、起床した。入り口に近い寝床は既に空になっている。夜中のうちに山頂での御来光を求めて山小屋を後にしたようだったが、居残り組ときっちり分けてくれていたお陰で、叩き起こされずに
新六合目の半蔵坊(標高2590m)で一休み。ちょうどお昼時で、ここでは月見うどんや豚汁定食を頂けるという情報がありそれを当てにしていたのだが、この時は豚汁かカップラーメン(900円)しか提供しておらず、やむなくカップラーメンで済ませた。高地でお湯が100℃に達しないため、4分待って頂いた。ここではた
2023年8月4日 午前9時、御殿場ルート登山口から10分ほどの大石茶屋(標高1500m)を出発。ここから山の上に延びる道は左右2つにあるが、左がつづら折りの登山ルート、右が一直線の下山ルートだ――し...
今年も8月第1金曜日となった。ここ数年(コロナ禍で登山道が閉ざされた2020年を除いて)、富士登山挑戦日にしている日である。これまで6回、いろいろなルートを歩いて毎回登頂に成功している。そんな中、まだチャレンジしていないルートが1つだけあった。富士登山ルートの中で、歩行距離・標高差とも最大である最難
根室半島チャシ跡群(3)―ポンモイチャシ - 日本100名城
根室半島チャシ跡群で一番有名なのは、先ほど訪れた、納沙布岬から西へ2.5㎞の場所にあるヲンネモトチャシだが、実は、納沙布岬のすぐ近くにもう一つチャシ跡がある。灯台のある岬北側とは逆の南側に突き出ているポンモイチャシだ。離れた場所から見た後、チャシのたもとまで来てみたが、標識は見えるものの生い茂った草
根室半島チャシ跡群(2)―ヲンネモトチャシ - 日本100名城
根室駅近くの宿で、日本で一番早い朝を迎えると、根室の空は昨日の夕方のどんより曇天とは打って変わって青く晴れ渡っていた。朝の散歩でオホーツク海に最接近し、宿の朝食を頂いた後、午前8時前、根室駅へ。乗り継ぎ時間の都合で宿ではなく駅のコインロッカーに荷物を預けて、隣接する駅前バスターミナルに移動する。同じ
根室半島チャシ跡群(1)―アツケシエト2号チャシ - 日本100名城
1か月前に東北・北海道の100名城巡りをしてきたばかりだが、早くも次の城巡りへといざなうことになった。きっかけは、JALの国内線一律6600円キャンペーン。初回は回線がパンクするというトラブルに見舞われたが、5月12日の深夜0時から行われた6月前半分の第4弾は実にスムーズにアクセスすることができ、狙
根室半島チャシ跡群 日本100名城 No.1 北海道根室市 「チャシ」とはアイヌ人によって16~18世紀に北海道道南・道東に500か所以上築かれた施設の総称で、アイヌ語で「砦」「柵囲い」といった意味。チャシ跡は「チャシコツ」とも呼ばれる。特に根室市内に多く見られ、その中でも代表的な、主に海辺にある2
笠間城 続日本100名城 No.112 茨城県笠間市笠間 鎌倉時代、僧兵たちと争っていた笠間氏が佐白山に築城した山城。豊臣秀吉の小田原征伐に際して宗家の宇都宮氏に攻められて笠間氏が滅亡。一時宇都宮氏が支配した後、蒲生郷成が入城し、改修された。関ヶ原の戦い後、様々な城主を経て1747年、牧野貞通が城主
水戸城 日本100名城 No.14 茨城県水戸市三の丸 鎌倉時代初期に馬場氏によって築城された、北を那珂川、南を千波湖に挟まれた城。その後、馬場氏を追いやった江戸氏が居城とする。1590年、小田原征伐で功のあった佐竹氏が水戸城を強襲して江戸氏は滅亡。佐竹氏は本拠を太田城から水戸城に移し、佐竹氏の時
土浦城 続日本100名城 No.113 茨城県土浦市中央 15世紀(室町時代)に小田氏の若泉三郎によって築城された城。戦国時代には小田氏の菅谷氏が居城とし、のち上杉氏や佐竹に圧迫された小田氏治が小田城を逃れて土浦城に入る。豊臣秀吉の小田原攻めで小田氏が滅びた後は徳川家康の子・結城秀康や藤井松平氏など
大阪城 日本100名城 No.54 大阪府大阪市中央区大阪城 天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の権勢を象徴する「太閤はんのお城」1583年、大阪・淀川畔の石山本願寺の跡地に秀吉が築城を開始。黒田孝高(官兵衛)により縄張が造られる。1585年、連結式望楼型5重6階の天守が完成。秀吉の死後、息子の秀頼が城主
飯盛城 続日本100名城 No.160 大阪府四條畷市南野、大阪府大東市北條 大阪の生駒山脈の北西部・飯盛山山頂に築かれた山城。鎌倉幕府滅亡後の南北朝時代、南北朝両軍が四条畷で衝突し、楠木正成の子・楠木正行ら南朝方が戦死した四條畷の戦いがあり、飯盛山山頂にも南朝方の拠点が置かれたという。現在、山頂に
芥川山城 続日本100名城 No.159 大阪府高槻市原大字大字原 戦国時代に、大阪・高槻の三方を芥川で囲まれた標高182.6mの三好山に、細川高国によって築城された山城。のち細川高国を滅ぼした細川春元が1533年入城するが、1539年、春元を京都から追放した三好長慶の支配下となり、のち長慶はここを
篠山城 日本100名城 No.57 兵庫県丹波篠山市北新町 関ヶ原の戦いの後の江戸時代初期、豊臣氏や西国の外様大名に対する備えに、徳川家康が池田輝政や藤堂高虎らに僅か6か月で築かせた城。東南隅に天守台はあるものの、余りに強固に出来すぎたために不要ということになり、天守は築かれなかったといわれ(諸説あ
黒井城 続日本100名城 No.162 兵庫県丹波市春日町黒井 14世紀前半に北朝・室町幕府方の守護大名赤松貞範によって城山(標高356m)の山頂を削平して築城された山城。北から本丸・二の丸・三の丸が、石垣で囲まれて段階状に配置された。戦国時代には赤松直正(荻野悪右衛門直正)が荻野氏の城主を倒して城
出石城・有子山城 続日本100名城 No.162 兵庫県豊岡市出石町 羽柴秀吉の攻撃を受け此隅山城を失った但馬国守護・山名祐豊が1574年、有子山城を築城。有子山の上に詰城を、山麓に居館と郭(但馬守護所)を設ける。しかし1580年、再び秀吉の攻撃を受け、落城。以後は羽柴長秀らが城主となる。1604年
竹田城 日本100名城 No.56 兵庫県朝来市和田山町竹田古城山 1443年、後に応仁の乱の西軍総大将となる但馬守護・山名宗全(持豊)によって、古城山(標高357m)山頂に築かれた山城。配下の大田垣氏が城主となるが、その後1580年に羽柴秀吉によって落とされて羽柴秀長などが城主となり、赤松広秀が城
姫路城 日本100名城 No.59 兵庫県姫路市本町 1346年、室町幕府の赤松貞範が初めて築城したとされる。1576年に織田信長の中国攻めで羽柴秀吉が播磨に進攻すると、毛利氏に与していた小寺氏は没落するがその家臣だった黒田孝高(官兵衛)は秀吉に仕え、本丸を秀吉に譲り自身は二の丸に移る。この頃から城
赤穂城 日本100名城 No.60 兵庫県赤穂市上仮屋 関ヶ原の戦いの後、池田長政が建てた加里屋城が前身。1645年、池田輝興が刃傷沙汰を起こして池田家が改易となった(正保赤穂事件)際、浅野長直が赤穂へ赴いてそのまま藩主となり、築城願を幕府に出して赤穂城を築城する。1661年完成。当時はこの城まで海
木古内から道南いさりび鉄道で函館に戻る。この日で函館から羽田に戻り、旅は終わりになる予定だが、まだ時間は割と残っている。せっかくなので函館の元町あたりをぶらり散策。15時30分、函館駅からリムジンバスに乗り込み、15時50分、函館空港に到着。このまま飛行機に乗って、今回の旅は終了。――ではない。実は
志苔館 続日本100名城 No.101 北海道函館市志海苔町 中世に和人の領主である小林氏によって現在の函館市の海間際の丘に築かれた、空壕と土塁に囲まれた館で、松前藩の歴史を記した「新羅之記録」に記述のある「道南十二館」の1つ。同書には、1457年に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起・コシャマインの
東北・西北海道100名城(8)―上之国勝山館 - 日本100名城
6時19分、朝一番のバスで木古内駅を出発。北へと針路をとる。1時間15分ほど経ったところで、大留バス停で下車。木古内と同じ海辺のエリアだが、木古内の海は津軽海峡、ここは江差に近い上ノ国町で海は日本海だ。道南の渡島半島をイタリア同様に長靴に見立てると、足の裏から足の甲に移動してきた格好になる。大留から
上之国勝山館 続日本100名城 No.102 北海道檜山郡上ノ国町勝山 15世紀後半、若狭武田氏から出奔してきた、後の松前氏の祖である武田(蠣崎)信広が日本海に面する夷王山の上に築城。蠣崎氏の政治・軍事・交易における本拠となった。信広の子・蠣崎光広が本拠を松前の徳山館(のちの松前城)に移して以降も蠣
五稜郭登城・100名城スタンプ獲得を達成し、次の名城を目指す私が函館駅から乗り込んだのは、道南いさりび鉄道。渡島半島の沿岸を函館から南西の木古内まで結ぶ(正確には、道南いさりび鉄道の区間は五稜郭~木古内で、函館~五稜郭の区間はJR函館本線に乗り入れている形だ)、北海道新幹線の開通でJRが廃線とした江
松前城 日本100名城 No.3 北海道函館市松前城町 江戸時代末期、北方の海防強化を迫られた江戸幕府が松前藩に命じて北海道・渡島半島の沿岸の高台に築かせた城。松前氏の居城であった福山館を拡張する形で築城され、1855年に完成。正式名称は「福山城」だが、備後の福山城と区別するため「松前城」の通称で呼
朝から函館駅の周りを散歩した後、函館の名城であり屈指の名所である五稜郭(100名城 No.2)へと向かう。五稜郭は江戸時代末期に築城された、100名城の中でも最後に建てられた城だ。元々箱館奉行所の移転先として築かれたが、築城間もなく大政奉還→明治維新となって1868年、新政府の箱館府庁となるが、その
五稜郭 日本100名城 No.2 北海道函館市五稜郭町 1854年の日米和親条約締結により箱館が開港し、江戸幕府は函館奉行を函館山麓の基坂(現在の元町公園)に再配置するが、より防御に適したより内陸の柳野に移転。四方に土塁を築いてその中央に箱館奉行所を配置した。1866年、近世ヨーロッパ式の「稜堡」が
続日本100名城 No.103 場所 青森県青森市浪岡大字浪岡五所...
東北・西北海道100名城(5)―弘前城、浪岡城 - 日本100名城
弘前駅前の宿で一夜を明かし、朝一番で朝食を頂いて7時前、昨夜も訪れた弘前城へ向かう。昨夜は大雨だったが、今朝はすっきりとした青空だ。築城主である津軽為信の銅像のある広場から外堀を渡る。7年前に訪れた時はここに桜の花筏ができていたものだが、今年は桜が散るのが早かったせいか、水面に花びらは殆ど無かった。
弘前城 日本100名城 No.4 青森県弘前市下白銀町 南部氏に臣従していた津軽(大浦)為信は豊臣秀吉から南部氏に先駆けて領土を安堵され、関ヶ原の戦いでは東軍について弘前藩の藩主となる。1603年、為信が鷹岡に築城を開始し、子の信枚に引き継がれて1611年にほぼ完成。以後、弘前藩津軽氏の居城となる。
根城 日本100名城 No.5 青森県八戸市根城 南北朝時代の1334年、陸奥国司として陸奥国に下向した南朝方の武将・北畠顕家と共にこの地に来た甲斐国の南部師行が築いた城。南朝方の根本となる城という願いから「根城」と名付けたといわれる。以降、北奥羽の地で南部氏が勢力を築く契機となる。南朝が劣勢になる
東北・西北海道100名城(4)―根城、弘前城 - 日本100名城
岩手県・二戸駅を出発したいわて銀河鉄道の列車は、県境を越えて青森県に入ったすぐ先の目時駅から、青い森鉄道へと乗り入れる。目時から30分弱で、列車は終点駅の八戸に到着した。八戸は、以前青森巡りをした時には列車の乗り継ぎのみだったので、街に出るのはこれが初めてとなる。八戸駅からバスで向かった城が、根城(
九戸城 岩手県二戸市福岡城ノ内 戦国時代に南部氏の一族である九戸氏が三方を河川に囲まれた要害の地に築城し、居城とした、総面積34haの広大な城。1590年、家督争いのあった南部家の当主・南部信直と奥州仕置を行う豊臣政権に対して九戸政実が反旗を翻し、九戸城に籠もり戦うが鎮圧されるという、「豊臣秀吉によ
盛岡城 日本100名城 No.6 岩手県盛岡市内丸 16世紀末、南部氏がこの地に拠点を移して築いた、盛岡藩の藩庁となった城。東北では珍しい総石垣で築かれる。江戸幕府への遠慮から天守は築かれず、天守台に御三階櫓が建造され代用とされたが、1842年に12代利済により「天守」に改称された。1871年、 廃
東北・西北海道100名城(3)―盛岡城、九戸城 - 日本100名城
岩手県盛岡市の盛岡駅前で一夜を明かし、早朝から早速、盛岡城(100名城 No.6)を目指す。随分前に訪れたことがある城だが、100名城スタンプはまだだ。途中、北上川に架かる開運橋を渡る。ここからは天気がよければ岩手山を見渡すことができるのだが、残念ながら山の頂は雲に覆われていた。盛岡城へは盛岡駅から
秋田城 続日本100名城 No.107 秋田県秋田市寺内大畑 奈良時代に築城され、平安時代にかけて大和朝廷の出羽国における拠点となった古代城柵で、渤海国との外交や北海道・津軽地域の蝦夷(えみし)との交流などの機能を担ったという。804年の秋田郡設置・河辺府移転に伴い停廃されるが、その後も878年の元
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和歌山城 日本100名城 No.62 和歌山県和歌山市一番丁 安土桃山時代、織田信長と羽柴秀吉が紀州征伐を行い、副将軍として参陣した秀吉の弟・豊臣秀長は紀州平定後に紀伊・和泉を加増され、秀吉の命により紀の川畔の「若山」と呼ばれた地(のち「和歌山」)にある虎伏山の山頂に、藤堂高虎らに普請させて1年で築
岸和田城 続日本100名城 No.161 大阪府岸和田市岸城町 南朝方の武将・楠木正成の部下である和田高家が「岸」に城を築いたのが「岸和田」の始まりとされる。15世紀後半に現在の場所から約500m南東に山城が築城され(岸和田古城)、のち現在の場所に移築される。1585年、羽柴秀吉の紀州根来寺討滅の後
大阪南部の千早城攻城を果たし、次を目指す。奈良市からここまではずっと近鉄線だったが、この先は南海電鉄利用。河内長野駅から大阪市の天下茶屋駅まで北上し、南海本線に乗り換え和歌山方面へ向かう。その途中にあるのが、岸和田城(続100名城 No.161)。当初の予定ではこの日の閉園時間に間に合わず翌日に回す
千早城 日本100名城 No.55 大阪府南河内郡千早赤阪村千早 鎌倉時代末期、のちに南朝方につく楠木正成が赤坂城の詰めの城として金剛山中腹に築いた山城。四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇った。1333年、後醍醐天皇による倒幕計画に呼応した正成は鎌倉幕府軍に包囲されるがこれを迎え撃つ(千早城の戦い)。こ
宇陀松山城 続日本100名城 No.166 奈良県宇陀市大宇陀拾生 宇陀の国人(宇陀三将)の秋山氏が標高473mの古城山に築いた山城(阿紀山城/秋山城、神楽岡の城)が始まり。南北朝時代には構えられていたとされる。1585年、豊臣秀長の大和郡山入部に伴い秋山氏は宇陀から退去。加藤氏、多賀氏などの城主の
奈良県桜井市の宿で1泊し、朝食を頂いてすぐにこの日1つ目の名城に向かう。近鉄大阪線に乗って東へ。桜の名所・長谷寺を通過し、榛原駅で下車。大宇陀行きのバスに乗り換えて宇陀松山城(続100名城 No.166)に向かう。宇陀松山城は宇陀の国人(宇陀三将)の秋山氏が標高473mの古城山に築いた山城だ。戦国時
「木彫りの熊」に案内されるようにして高取城本丸上部への坂道を上る。最後の門と虎口を通過して到着した場所が、広さ4500平方mにもなる本丸広場だ。北西隅に、先ほど下から見上げた天守台がある。往時には連立式3重3階地下1階の天守閣が築かれたという。高取城と同じく日本三大山城の1つに数えられる備中松山城の
高取城 日本100名城 No.61 奈良県高市郡高取町高取 標高584mの高取山の頂に築かれた山城。岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城に並ぶ日本三大山城の一つに数えられ、麓から本丸までの高低差(比高)は390mと日本一である。南北朝時代、南朝方の越智邦澄が築城したのが始まり。戦国時代、証如軍(一向一
11時10分、飛鳥駅から近鉄吉野線で1つ南の壺阪山駅へ。次に向かう城は、高取城(100名城 No.61)。岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城に並ぶ日本三大山城の一つに数えられる、標高584mの高取山の山頂に築かれた山城だ。麓から本丸までの高低差(比高)は390mと日本一である。戦国時代、織田信長の死
大和郡山城 続日本100名城 No.165 奈良県大和郡山市城内町 鎌倉時代の1162年に郡山衆が雁陣之城を築いたというのが最も古い記録として残る。戦国時代には織田信長に臣従した筒井順慶軍の拠点となり、1580年に信長から大和国では一城のみとする破城令が発せられたことから、順慶は従来の本城だった筒井
午前6時20分すぎ、前日23時すぎに横浜を出発した夜行バスがJR奈良駅に到着。今回はここから、奈良県、大阪府南部、和歌山県北部の100名城、続100名城を巡る旅を始める。その前に、せっかく9年ぶりに奈良市に来たことなので、朝の短い時間を利用して興福寺と東大寺の大仏だけ訪れる。到着時は生憎の雨で、奈良
2024年2月24日2月下旬。早咲きの河津桜の季節だ。神奈川県西部の富士山に近い松田町では、河津桜の向こうに富士山を見ることができるスポットがあるという。天気のいい休日に出掛けてみた。 小田急線の新松...
三重での城巡り・マラソン大会参加を終えて、帰途に就く。近鉄名古屋線で名古屋着。ここから新幹線で関東へ――と、その前に、2020年に訪れた尾張の城の中で、写真撮影に満足していないものがあったので、撮影のやり直しのために再訪することにした。名鉄名古屋本線に乗って、岩倉駅で下車。バスに乗り換えて向かったの
田丸城 続日本100名城 No.154 三重県度会郡玉城町田丸 南北朝時代に南朝方の北畠親房、北畠顕信によって築かれた平山城。北朝方の足利尊氏に落とされた後、室町時代に北畠氏により再建され、のち北畠氏庶流の北畠顕晴が入り、田丸氏を名乗る。戦国時代、織田信長の伊勢侵攻の際、北畠具教の養嗣子となった信長
松阪城 日本100名城 No.48 三重県松阪市殿町 豊臣秀吉によって南伊勢に移封された蒲生氏郷が、松ヶ島城に入った後、それに代わる拠点として1588年に築いた平山城。3重5階の天守も築かれる。氏郷は旧領の近江商人を呼び寄せて楽市楽座を設け、更に湊町に伊勢大湊の豪商角屋氏を呼び寄せ、商都松阪の礎を築
伊賀上野城の登城を終えて、来た道を逆に辿る形で、伊賀鉄道の「忍者列車」で上野市駅から伊賀神戸駅、近鉄に乗り換えて伊賀神戸駅から伊勢中川駅、更に乗り継いで、みえ松阪マラソンの会場最寄りの松阪駅に戻る。この街にも名城がある。松阪城(100名城 No.48)だ。豊臣秀吉によって南伊勢に移封された蒲生氏郷が
伊賀上野城 日本100名城 No.47 三重県伊賀市上野丸之内 平楽寺、薬師寺のあった上野台地に、伊賀の守護大名・仁木氏が築いた仁木氏館が起源。1585年、筒井順慶の養子で、郡山から伊賀に移封された筒井定次が改修。3層の天守を建てる。関ヶ原の戦いの際、一時西軍の新庄氏に奪われるがすぐ奪還する(上野城
平戸城 日本100名城 No.90 豊臣秀吉の九州平定に加わって肥前国松浦郡を安堵された松浦鎮信(法印)が1599年、平戸港を見下ろす海辺の丘陵上に築城を開始。しかし完成間近の1613年、火災により焼失。豊臣氏と親交が厚かったことから江戸幕府からの嫌疑を避けるために鎮信自らが火を放ったともいわれる。
名護屋城 日本100名城 No.87 佐賀県唐津市鎮西町名護屋 16世紀末、明国征服という誇大妄想に冒された豊臣秀吉が朝鮮出兵という暴挙に出た際に、その前線基地として肥前国松浦郡名護屋の波戸岬の、日本海を望む丘陵上に築いた城。17万平方メートルに及ぶ敷地に五重天守や御殿が建てられ、城下町も形成され
唐津城 続日本100名城 No.185 佐賀県唐津市東城内 松浦川が唐津湾に注ぐ河口の高台(満島山)に築かれた、平山城であると同時に海城でもある城。関ヶ原の戦いで東軍についた寺沢広高が肥後国天草郡4万石を加増され、1602~1608年にかけて築城。その際には、松浦川の流路を変えたり、当時廃城となって
佐賀城 日本100名城 No.89 佐賀県佐賀市城内 肥前国佐賀の、龍造寺氏の拠点だった村上城を前身とし、龍造寺隆信の死後実権を握った鍋島氏が改修・拡張して築いた城。1608年、佐賀城総普請が始まり、1611年に完成して鍋島勝茂が本丸に入る。1726に火災で天守閣をはじめ本丸・二の丸・三の丸が消失。
吉野ヶ里 日本100名城 No.88 佐賀県吉野ヶ里町、佐賀県神埼市 九州・佐賀平野に築かれた、全長2.5kmの壕に囲まれた古代の環濠集落。弥生時代前期の紀元前5~前2世紀、分散的に「ムラ」が誕生。やがてそれは「クニ」へと発展し、弥生時代中期(紀元前2~紀元1世紀)には大きな外環壕が掘られる。この頃
久留米城 続日本100名城 No.183 福岡県久留米市篠山町 筑後国の、筑後川と宝満川の合流地点の丘陵上に建てられた城。16世紀前半にこの地の土豪が篠原城と称して建てた砦が始まりといわれる。豊臣秀吉の九州平定後の1587年、毛利秀包(小早川秀包)が筑後久留米に封じられ、秀包により堀・石垣・天守を設
基肄城 続日本100名城 No.184 福岡県筑紫野市、佐賀県基山町 7世紀に唐・新羅連合軍と白村江の戦を争って敗れた倭(日本)が、太宰府を中心とする九州北部各地で防備の増強を迫られ、665年、大野城とともに、百済からの渡来人の指導により、有明海方面の有事に備えて太宰府背後に建てさせた朝鮮式山城。基
水城 続日本100名城 No.182 福岡県太宰府市~福岡県大野城市~福岡県春日市 7世紀に唐・新羅連合軍と白村江の戦を争って敗れた倭(日本)が、太宰府を中心とする九州北部各地で防備の増強を迫られ、664年、太宰府を博多湾・福岡平野から守る形で、翌年大野城も建てられた国分の丘陵と吉松丘陵を塞ぐように
大野城 日本100名城 No.86 福岡県糟屋郡宇美町四王寺 7世紀に唐・新羅連合軍と白村江の戦を争って敗れた倭(日本)が、太宰府を中心とする九州北部各地で防備の増強を迫られ、665年に太宰府北側の四王寺山(大城山)の尾根上に、百済からの渡来人の指導により建てさせた、東西約1.5㎞、南北約3㎞、外周
リベンジ3:吉田うどん 前回も富士吉田を訪れたのなら吉田うどんを絶対食べようと思っていたのだが、吉田うどんの店は11~14時の昼営業だけの店が殆どで、タイミングが合わず食べることができなかった。今回は浅間公園~富士宮本町商店街~富士山駅と巡っていたら、富士山駅近くにあるお気に入りの吉田うどん ふじや
3月30日に富士山の写真を求めて河口湖、新倉山公園を訪れたが、雲といい桜といい、残念な結果に終わってしまった、リベンジの機会は来年以降になるかな?と当初は思っていたが、4月8日、9日の土日も天気予報は良好だった。どちらかと言うと9日の方が天気は良さそうだったのだが、7日に関東地方が雨風に見舞われたこ
金田城 続日本100名城 No.186 長崎県対馬市美津島町黒瀬 金田城(かなたのき)は、7世紀に唐・新羅連合軍と白村江の戦を争って敗れた倭(日本)が、太宰府を中心とする九州北部各地で防備の増強を迫られ、その最前線的な砦として対馬中部の城山上に築いた城。急峻な自然地形を利用して築かれ、約2.6kmに
福岡城 日本100名城 No.85 福岡県福岡市中央区城内 関ヶ原の戦いの功で黒田孝高(官兵衛・如水)・黒田長政親子が筑前に封ぜられ、1601~07年、長政が警固村福崎の丘陵地に築城。以後明治まで福岡藩黒田氏の居城となり、歴代藩主によって改築が行われて24万平方mもの縄張りに50もの櫓が建てられた。
小倉城 続日本100名城 No.181 福岡県北九州市小倉北区城内 1569年、中国地方の毛利氏が城を築いたことから始まり、高橋鑑種や毛利勝信が居城した。関ヶ原の戦いで西軍についた毛利氏に代わり封ぜられた細川忠興が1602年から7年かけて改築。唐造の天守を建設。最上層の入母屋破風以外に破風が無いのが
2023年3月30日 昨年秋訪れた新倉山公園。あの時は富士山・五重塔・紅葉桜のコラボ写真を撮ることができたが、春には赤い葉がピンクの花に置き換わったまた違う彩の景色を楽しむことができる。この風景はまだ...
龍岡城 続日本100名城 No.129 長野県佐久市田口下町 江戸時代末期に龍岡(田野口)藩主・松平乗謨が藩庁の移転先として建築。北海道函館の五稜郭と同じ、フランスの築城方式による星型の稜堡式城郭で、函館のものと並び日本で2つしかない「五稜郭」である。1866年に石垣と土塁が、1867年には城郭内に
小諸城 日本100名城 No.28 長野県小諸市丁 小諸、佐久一帯を制圧した武田信玄が1554年、山本勘助と馬場信房に命じて築城。城下町より低い場所に建てられたことから「穴城」とも呼ばれ、本丸が一番低い場所にあった。千曲川を天然の堀とする防備を誇った。武田氏滅亡後は織田家臣の滝川一益、佐久郡の国衆・
上田城 日本100名城 No.27 長野県上田市二の丸 上田の真田氏館に居住していた真田昌幸が1583年、「上杉軍から徳川を守る」という口実で千曲川畔近くに築城。その後昌幸は上杉方に寝返り、上田城は家康軍に攻められるが撃退(第1次上田合戦)。関ヶ原の戦いの折は西軍について徳川秀忠軍に攻められるも防い
松代城 日本100名城 No.26 長野県長野市松代町松代 川中島の戦いで上杉謙信と争った武田信玄が川中島地域の拠点城郭として、千曲川を外堀として築いた海津城が始まり。武田氏滅亡後は森氏、上杉氏、田丸氏が城主に。関ヶ原の戦いの後、再び森氏が、次いで松平氏が城主となり、その間に「待城」「松城」と改称さ
今治城 日本100名城 No.79 愛媛県今治市通町 関ヶ原の戦いで戦功のあった宇和島城主・藤堂高虎が今治を加増されて移住し、1602年、築城を開始、1604年、完成。瀬戸内海に接し、堀は海に連結していて当時は船が直接乗り入れし、平城であると同時に海城でもあった。天守は当時最新鋭の層塔型が建設された