ちょっと用事があって、神奈川からほぼ日帰りで京都・伏見へ。時間が余ったので、せっかくだから近くにある城へ、2025年初の城巡り。近鉄丹波橋から坂を15分ほど上って訪れたのが、<strong class=
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中津城 続日本100名城 No.191 大分県中津市二ノ丁本丸 豊臣秀吉より豊前国を与えられた黒田孝高(官兵衛、如水)が1588年に築城を開始した平城。周防灘に臨む中津川河口の地に位置し、石垣は近世城郭のものとしては九州最古のものであり、堀には海水が引き込まれ、今治城・高松城とともに日本三大水城の
福岡県と県境を接する佐賀県の鳥栖駅を11時すぎに出発。青春18きっぷを利用してJR鹿児島本線で西小倉へ、更に日豊線に乗り継いで福岡県を一気に飛び越えて、こちらも福岡と県境を接する、大分県の中津市で下車。予約していた駅前の宿に荷物を預けて中津の街巡りへ。寺町と呼ばれる、その名の通り寺院が建ち並ぶ通りを
佐賀県鳥栖市の鳥栖駅前の宿で夜を明かし、早朝からもう1つ、前回の九州北部の城巡りで「忘れ物」をした城を目指す。鳥栖駅からJR鹿児島本線で北へ2駅の基山駅で下車し、目指したのは佐賀県基山町の基山に鎮座する山城・基肄城(続100名城No.184)。これもまた、昨日訪れた大野城や水城同様、7世紀の白村江の
午前9時20分頃、羽田からの全日空便が福岡空港に到着。STAR★WARSの黄色いラッピングを施した機体だった。今回の城巡りのメーンは大分だったが、にもかかわらず旅の始めの地に福岡を選んだのは、前回福岡の城巡りをした時にやり残しがあり、その時の「忘れ物」をまず回収しようと考えたためだった。なお、大分の
ちょっと用事があって、神奈川からほぼ日帰りで京都・伏見へ。時間が余ったので、せっかくだから近くにある城へ、2025年初の城巡り。近鉄丹波橋から坂を15分ほど上って訪れたのが、<strong class=
赤木城 続日本100名城 No.155 三重県熊野市紀和町赤木 安土桃山時代、豊臣秀吉による紀州攻めの後、熊野地方の木材の確保と、奥熊野の地侍が蜂起した「北山一揆」への対応のため、当時の紀伊国主・豊臣秀長の家臣だった築城の名手・藤堂高虎が築いた初めての城。現在城山と呼ばれる山の尾根沿いに郭が設けられ
三重県のJR紀勢本線阿田和駅近くからバスに乗車して、海辺から山間部へと向かう。45分ほど経ったところで、道の駅熊野・板屋九郎兵衛の里に到着。ここが次に目指す城のスタンプ設置場所なのだが、ここでは下車せずに、バスに身を委ねて更に山奥へと進む。というのも、目指す城最寄へ行くバスは1日2本しか無かったから
新宮城 続日本100名城 No.167 和歌山県新宮市丹鶴 和歌山県新宮市の、熊野川河口近くの丘の上に築かれた総石垣の城。関ヶ原の合戦後、紀州藩主となった浅野幸長の重臣・浅野忠吉が築城を開始したのが始まり。一国一城令で一度廃城になるも忠吉が再築し、大・小の天守や二ノ丸(鐘ノ丸)が設けられる。浅野氏が
午前7時半、前日午後11時に横浜を出発した夜行バスが和歌山県東南の新宮市に到着。この日はここを拠点に南紀の続100名城の2城を目指す。新宮駅前のコンビニエンスストアで朝食を頂き、この日泊まる宿に荷物を預けて早速、1つ目の名城・新宮城(続100名城 No.167)へ歩いて向かう。新宮城は、関ヶ原の合戦
一宮城 続日本100名城 No.176 徳島県徳島市一宮町西丁 徳島の東竜王山の北東枝尾根に築かれた、北は鮎喰川、東は船戸川、園瀬川を天然の濠とし、背後に四国山脈をひかえる天険を利用した山城。南北朝時代、阿波国守護である小笠原長房(南朝方)の四男小笠原長宗が一宮宗成を滅ぼし、1338年にこの地に築城
まだ夜も明けやらぬ早朝、徳島市で取った宿のすぐ近くにある徳島城の城山周囲を3周ほど回る形で6㎞のジョギング。走っている間に夜が明け、朝の陽光に照らし出される城も風情があっていい。宿の朝食を頂いた後、徳島市南部にある名城を目指し、徳島駅からバスに乗車する。一の宮札所前バス停で下車してすぐの場所に登城口
引田城 続日本100名城 No.177 香川県東かがわ市引田 瀬戸内海に面した「城山」と言われる山に築かれた平山城。築城主は定かではないが、室町時代末期、四宮右近の居城になり、1570年、三好氏に攻められてその支配下となる。その後三好氏一族の十河氏と長宗我部元親が争う中、1583年、羽柴秀吉の命で仙
勝瑞城を探訪した後、次の城へ向かう鈍行列車まで空き時間ができたので、勝瑞駅から1つ先の板東駅から歩いて回ることができる、鳴門市の第1番札所・霊山寺と第2番札所・極楽寺をお遍路。特に霊山寺は最初の札所であり、折しも日曜日だったこともあって、参詣客で大いに賑わっていた。霊山寺から最寄りの阿波川端駅に到着
勝瑞城 続日本100名城 No.175 徳島県板野郡藍住町勝瑞 旧吉野川南岸の自然堤防上に築かれた三好氏の平城及び居館。初めて築城された年代については承久の乱(1221年)の後、阿波守護になった小笠原長清が守護所を設置したという説がある。室町時代後半、阿波守護細川氏は、はじめ阿波市秋月に守護所を置い
徳島城 日本100名城 No.76 徳島県徳島市徳島町城内 吉野川河口付近の、新野川と助任川に囲まれた中洲に築かれた、標高61mの城山上の山城と城山の周囲の平城からなる、連郭式の平山城。元は阿波の国の支配者であった三好氏の拠点で、三好長慶が城主としてその地位を築くが、戦国時代に入ると阿波の国は群雄
徳島市で迎えた朝。宿は徳島城(100名城 No.76)のすぐ近く。宿の朝食を頂いた後、早速、24時間開放されている城址公園を探訪する。徳島城は、元は阿波の国の支配者であった三好氏の拠点で、戦国時代の群雄割拠・土佐の長宗我部氏の支配の後、1585年の豊臣秀吉による四国平定で阿波の国を賜った蜂須賀家政が
「木彫りの熊」に案内されるようにして高取城本丸上部への坂道を上る。最後の門と虎口を通過して到着した場所が、広さ4500平方mにもなる本丸広場だ。北西隅に、先ほど下から見上げた天守台がある。往時には連立式3重3階地下1階の天守閣が築かれたという。高取城と同じく日本三大山城の1つに数えられる備中松山城の
高取城 日本100名城 No.61 奈良県高市郡高取町高取 標高584mの高取山の頂に築かれた山城。岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城に並ぶ日本三大山城の一つに数えられ、麓から本丸までの高低差(比高)は390mと日本一である。南北朝時代、南朝方の越智邦澄が築城したのが始まり。戦国時代、証如軍(一向一
11時10分、飛鳥駅から近鉄吉野線で1つ南の壺阪山駅へ。次に向かう城は、高取城(100名城 No.61)。岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城に並ぶ日本三大山城の一つに数えられる、標高584mの高取山の山頂に築かれた山城だ。麓から本丸までの高低差(比高)は390mと日本一である。戦国時代、織田信長の死
大和郡山城 続日本100名城 No.165 奈良県大和郡山市城内町 鎌倉時代の1162年に郡山衆が雁陣之城を築いたというのが最も古い記録として残る。戦国時代には織田信長に臣従した筒井順慶軍の拠点となり、1580年に信長から大和国では一城のみとする破城令が発せられたことから、順慶は従来の本城だった筒井
午前6時20分すぎ、前日23時すぎに横浜を出発した夜行バスがJR奈良駅に到着。今回はここから、奈良県、大阪府南部、和歌山県北部の100名城、続100名城を巡る旅を始める。その前に、せっかく9年ぶりに奈良市に来たことなので、朝の短い時間を利用して興福寺と東大寺の大仏だけ訪れる。到着時は生憎の雨で、奈良
2024年2月24日2月下旬。早咲きの河津桜の季節だ。神奈川県西部の富士山に近い松田町では、河津桜の向こうに富士山を見ることができるスポットがあるという。天気のいい休日に出掛けてみた。 小田急線の新松...
三重での城巡り・マラソン大会参加を終えて、帰途に就く。近鉄名古屋線で名古屋着。ここから新幹線で関東へ――と、その前に、2020年に訪れた尾張の城の中で、写真撮影に満足していないものがあったので、撮影のやり直しのために再訪することにした。名鉄名古屋本線に乗って、岩倉駅で下車。バスに乗り換えて向かったの
田丸城 続日本100名城 No.154 三重県度会郡玉城町田丸 南北朝時代に南朝方の北畠親房、北畠顕信によって築かれた平山城。北朝方の足利尊氏に落とされた後、室町時代に北畠氏により再建され、のち北畠氏庶流の北畠顕晴が入り、田丸氏を名乗る。戦国時代、織田信長の伊勢侵攻の際、北畠具教の養嗣子となった信長
松阪城 日本100名城 No.48 三重県松阪市殿町 豊臣秀吉によって南伊勢に移封された蒲生氏郷が、松ヶ島城に入った後、それに代わる拠点として1588年に築いた平山城。3重5階の天守も築かれる。氏郷は旧領の近江商人を呼び寄せて楽市楽座を設け、更に湊町に伊勢大湊の豪商角屋氏を呼び寄せ、商都松阪の礎を築
伊賀上野城の登城を終えて、来た道を逆に辿る形で、伊賀鉄道の「忍者列車」で上野市駅から伊賀神戸駅、近鉄に乗り換えて伊賀神戸駅から伊勢中川駅、更に乗り継いで、みえ松阪マラソンの会場最寄りの松阪駅に戻る。この街にも名城がある。松阪城(100名城 No.48)だ。豊臣秀吉によって南伊勢に移封された蒲生氏郷が
伊賀上野城 日本100名城 No.47 三重県伊賀市上野丸之内 平楽寺、薬師寺のあった上野台地に、伊賀の守護大名・仁木氏が築いた仁木氏館が起源。1585年、筒井順慶の養子で、郡山から伊賀に移封された筒井定次が改修。3層の天守を建てる。関ヶ原の戦いの際、一時西軍の新庄氏に奪われるがすぐ奪還する(上野城
津城 続日本100名城 No.152 三重県津市丸之内 戦国時代に津を支配していた長野氏の一族の細野藤光が築いた安濃津城が起源。北は安濃川、南は岩田川に挟まれ、これを天然の外堀としていた。1568年、織田信長に侵攻され、1569年、信長の弟・織田信包が入城。信包は城郭を拡充。石垣、堀を築き、本丸・二
先月の東北・みやぎ復興マラソンに続き、今回はみえ松阪マラソンに出場するために、三重へ向かう。三重の100名城・続100名城はいずれもまだ訪れていない。今回もマラソンついでに訪れることにした。横浜から夜行バスに乗り、午前7時半、津駅に到着。朝食をとった後、8時15分発の近鉄で一駅南の津新町駅へ移動する
多賀城 日本100名城 No.7 宮城県多賀城市市川 奈良時代、大和朝廷が蝦夷支配のため、大野東人に命じて現在の宮城県多賀城市に築かせた古代城柵。奈良時代から平安時代にかけて、役所である陸奥国府や軍事拠点である鎮守府が置かれ、11世紀中頃まで東北地方の政治・軍事・文化の中心地となる。9世紀初め、征夷
2日前に宮城入りして白石城、仙台城を訪れて、1日前は今回の遠征のメーンイベントである東北・みやぎ復興マラソンに参戦。目標としていた4時間30分以内は達成できず、4時間46分45秒でのフィニッシュとなった。もう1個所、残していた名城があったので、仙台でもう1泊してこの日、マラソンでボロボロになった両脚
仙台城 日本100名城 No.8 宮城県仙台市青葉区川内 1601年、伊達政宗が新たな居城として青葉山の上に築いた城。以後幕末まで伊達氏の居城・仙台藩の政庁となる。巨大な石垣の上に250m四方の本丸を誇るが、天守は築かれなかった。1639年、伊達忠宗が現在の東北大学川内キャンパスがある場所に二の丸を
白石城 続日本100名城 No.105 宮城県白石市益岡町 鎌倉時代に白石氏(刈田氏)の居館として建てられ、戦国時代、伊達氏が刈田郡を勢力下とするも、1591年、豊臣秀吉の奥州仕置により蒲生氏郷の所領となり、1598年に上杉景勝が会津入りするとその家臣の甘糟景継が城主となる。1600年、徳川家康の上