広島駅近くの宿で1夜を明かして、この日も早朝から広島城(100名城No.73)を目指す。前日は北西からアプローチしたが、今回は南東からアプローチ。ここから反時計回りで裏御門跡などを経由して堀(かつての内堀)の周りをぐるりと1周して、この日も表御門から入城して、昨日じっくり見られなかった場所を見て回る
ちょっと用事があって、神奈川からほぼ日帰りで京都・伏見へ。時間が余ったので、せっかくだから近くにある城へ、2025年初の城巡り。近鉄丹波橋から坂を15分ほど上って訪れたのが、<strong class=
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広島駅近くの宿で1夜を明かして、この日も早朝から広島城(100名城No.73)を目指す。前日は北西からアプローチしたが、今回は南東からアプローチ。ここから反時計回りで裏御門跡などを経由して堀(かつての内堀)の周りをぐるりと1周して、この日も表御門から入城して、昨日じっくり見られなかった場所を見て回る
広島城 日本100名城 No.73 広島県広島市中区基町 戦国時代に広島を支配下に置いた毛利氏は、それまでの山間部の居城・吉田郡山城から瀬戸内海沿岸への移転を決め、1589年、毛利輝元は太田川下流域の五箇村に広島城の築城を開始し、1591年に入城。1592年に天守が建てられ、1599年に完成するが、
郡山城の攻城を終えて、バスとJRを可部駅で乗り継いで、広島市内に戻る。新白鳥駅で下車して、歩いて15分ほどで、堀に囲まれた広島城(100名城No.73)が見えてきた。広島城は、山城で交通面の不便さがあった郡山城から毛利輝元が移転先として広島の平地に建てた平城だ。しかし輝元は築城後すぐに関ヶ原の戦いで
郡山城 広島県安芸高田市吉田町吉田 日本100名城 No.72 安芸の国の戦国大名・毛利氏が拠点とした、吉田盆地北の郡山に築かれた山城。1540~41年の吉田郡山城の戦いでは尼子詮久(後の尼子晴久)率いる3万の大軍を撃退する。その後、毛利元就が勢力を拡大するとともに拡張され、吉田盆地の北に位置する郡
羽田発の早朝便で、広島へ。2025年のゴールデンウィーク(GW)は広島を起点に、山陽から山陰にかけての名城を巡る。広島県東部の福山城、三原城、新高山城は以前、岡山の名城と同じタイミングで訪れていたので、今回は残る広島西部の名城2つを目指した。まずは広島駅からJR可部線とバスを乗り継いで(広島バスセン
2025年のゴールデンウィーク(GW)の城巡りの旅は、広島から入って山口、島根と回って最後は鳥取西部の米子で締めくくるというプランで巡ることにした。旅に出る前にこれらの地域の城について、特に戦国時代について予習してみると、驚くほど同じ人物、同じ大名の名前が出てくることに気づく。そこで今回はまず、この
岡城西の丸を30分以上かけて一巡りして、いよいよ核心部である主郭を目指す。大手門から北東へ向けて歩いていくと、石垣組みの主郭の全体図が見えてきた。幅が広いとは言えない山頂の上に、連郭式に郭を並べているのが分かる。そして石垣に最接近したところで左側を覗き込むと――岡城最大の見どころと言っていい、三の丸
岡城 日本100名城 No.95 大分県竹田市竹田 稲葉川と白滝川に挟まれた舌状台地上に築かれた山城で「難攻不落」と言われた天然の要塞。1185年に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりとされる。南北朝時代の1334年に後醍醐天皇の指示を受けた大友氏一族の志賀貞朝により
大分の城巡りの旅最終日。この日は大分市から南西35km程の場所にある豊後竹田を目指し、朝から青春18きっぷ利用の鈍行列車に1時間半ほど乗る。竹田市は日本を代表する作曲家・滝廉太郎ゆかりの地である。街中には廉太郎がが12歳から14歳までを過ごした居宅跡に記念館(城巡りの後に訪問)が建てられ、今回目指す
臼杵城 続日本100名城 No.192 大分県臼杵市臼杵丹生島 戦国時代、豊後の王と称されたキリシタン大名・大友宗麟により、北、南、東を海に囲まれ、西は干潮時に現れる干潟で繋がるのみという天然の要害・丹生島(にうじま)に築かれた「丹生島城」が始まり。大友氏は毛利氏との戦いに敗れて1562年に府内大友
佐伯城の攻城を終えて、来た道を大分方面へ戻るが、その途中にも未訪の名城がある。途中で下車して臼杵市の海の程近くにある臼杵城(続100名城No.193)を訪れた。臼杵城は大分駅に銅像も立っている、戦国時代にこの地に一大勢力を築いた「豊後の王」大友宗麟が拠点とした城だ。今は埋め立てが行われて海から少し離
佐伯城 続日本100名城 No.194 大分県佐伯市字城山 江戸時代初期、関ヶ原の戦いで徳川方(東軍)に与し海部郡に2万石を与えられた毛利高政により、標高144mの八幡山山頂一体に築かれた連郭式山城。山頂部に石垣造りの本丸、本丸外曲輪、二の丸、西出丸、北出丸を配置。6年の歳月をかけて1606年にほぼ
この日は朝から大分駅から青春18きっぷでJR日豊線を南下して、1時間20分ほどで大分県南部の佐伯駅に到着。当初は駅前の観光案内所で自転車を借りるつもりだったが、営業開始まで30分ほどあり、ここから目指す城の麓までは歩いても30分。それなら歩こうかということになって、河童伝説の残る川や、武家屋敷通りの
中津城 続日本100名城 No.191 大分県中津市二ノ丁本丸 豊臣秀吉より豊前国を与えられた黒田孝高(官兵衛、如水)が1588年に築城を開始した平城。周防灘に臨む中津川河口の地に位置し、石垣は近世城郭のものとしては九州最古のものであり、堀には海水が引き込まれ、今治城・高松城とともに日本三大水城の
福岡県と県境を接する佐賀県の鳥栖駅を11時すぎに出発。青春18きっぷを利用してJR鹿児島本線で西小倉へ、更に日豊線に乗り継いで福岡県を一気に飛び越えて、こちらも福岡と県境を接する、大分県の中津市で下車。予約していた駅前の宿に荷物を預けて中津の街巡りへ。寺町と呼ばれる、その名の通り寺院が建ち並ぶ通りを
佐賀県鳥栖市の鳥栖駅前の宿で夜を明かし、早朝からもう1つ、前回の九州北部の城巡りで「忘れ物」をした城を目指す。鳥栖駅からJR鹿児島本線で北へ2駅の基山駅で下車し、目指したのは佐賀県基山町の基山に鎮座する山城・基肄城(続100名城No.184)。これもまた、昨日訪れた大野城や水城同様、7世紀の白村江の
前日に鹿児島城を滑り込みセーフで訪れてスタンプを頂き、下の城は一応巡ったが、上の城、即ち城山は訪れていない。鹿児島中央駅前の宿で一夜を明かし、この日の朝一番で巡ることにした。城山は、元は上山氏の居城であった上山城が建てられていた山だ。上山城は上山氏が島津氏に押されて退去すると廃城となるが、島津氏によ
鹿児島城 日本100名城 No.97 鹿児島県鹿児島市城山町 元は上山氏の居城であった上山城跡である、鹿児島湾と桜島を望む城山の麓に、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康の脅威に対抗する手段として、それまでの居城だった内城に代えて、1601年より島津忠恒(家久)により築城される。以後明治の廃藩置県まで、島
知覧城 続日本100名城 No.198 鹿児島県南九州市知覧町永里 平安時代末にこの地の郡司・知覧忠信が城を構えたのが始まりとされる。室町時代、足利尊氏の下文により島津忠宗の三男・佐多忠光が領主となり、伊集院氏の配下となった一時期を除き佐多氏が代々治める。標高170mのシラス台地上に築かれた広大な山
午前10時少し前、羽田からの日本航空便が鹿児島空港に到着。今回は鹿児島と宮崎の100名城・続100名城を巡る。空港から鹿児島中央駅に移動してこの日の宿に荷物を預け、バスで薩摩半島南部にある南九州市知覧へ向かう。これから向かう城へは中郡バス停で下りるのが最短だが、せっかくなので1つ手前の武家屋敷入口バ
川越城 日本100名城 No.19 埼玉県川越市郭町 室町時代、関東管領・上杉氏と古河公方の対立の中、1457年に扇谷上杉氏の上杉持朝が家宰の太田道真、太田道灌父子に築かせた城。「道灌がかり」と呼ばれる連郭式縄張りで築かれた。16世紀には後北条氏に攻められ、1537年、後北条氏に奪取される。その後は
鉢形城 日本100名城 No.18 埼玉県大里郡寄居町鉢形 荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁上の天然の要害に1476年、関東管領・山内上杉氏の家臣・長尾景春によって築かれた城。1564年、小田原の後北条氏の北条氏邦が入城。氏邦により整備拡張され、後北条氏の上野国支配の拠点となる。その強固さゆえに武田信
埼玉・嵐山町の菅谷館、杉山城を訪れた後、東武東上線で更に北上。寄居駅で下車して少し歩く。やがて大きな川に行き着く。荒川だ。南岸は切り立った断崖になっている。この断崖の上に建つのが鉢形城(100名城 No.18)だ。鉢形城は戦国時代に山内上杉氏の家臣・長尾景春によって築かれ、のちに入城した小田原の後北
杉山城 続日本100名城 No.119 埼玉県比企郡嵐山町杉山 鎌倉街道を見下ろす丘陵の尾根上に10の郭を配置して築かれた城。郭とそれに伴う堀や土塁のほか井戸跡などの遺構が残る。城主や築城年代についての記録は無く、後北条氏の時代のものと推測されてきたが、21世紀に入ってからの発掘調査により、戦国時代
菅谷館 続日本100名城 No.120 埼玉県比企郡嵐山町菅谷 比企丘陵中央の都幾川の畔に築かれた、鎌倉幕府の有力御家人・畠山重忠の館だったとされる城址。その後15世紀後半に至るまでの変遷は記録に無く、戦国時代に入り1488年、菅谷原で山内上杉家と扇谷上杉家が争い(須賀谷原合戦)、その前後に山内上杉
2024年ゴールデンウィークの前半最終日。終日自由に使えたので、日帰りで埼玉の名城を巡りに出かけた。埼玉は戦国時代に山内上杉・扇谷上杉・古河公方が三つ巴の争いを行うが、最終的には小田原の北条氏(後北条氏)が関東を平定した――という歴史背景を予め知っておくと、この後が分かり易い。東京・池袋駅から東武東
和歌山城すぐ横のホテルで一夜を明かして、早朝、和歌山城周回のジョギング。1周ちょうど2㎞あるところを2周した。追廻門、不明御門、南東から北側に延びる堀、一の橋と大手門、御橋廊下など、いろいろな角度からの和歌山城の気色を楽しみながら走る。満開ではないものの、桜もちらほら見ることができた。ランニングの後
和歌山城 日本100名城 No.62 和歌山県和歌山市一番丁 安土桃山時代、織田信長と羽柴秀吉が紀州征伐を行い、副将軍として参陣した秀吉の弟・豊臣秀長は紀州平定後に紀伊・和泉を加増され、秀吉の命により紀の川畔の「若山」と呼ばれた地(のち「和歌山」)にある虎伏山の山頂に、藤堂高虎らに普請させて1年で築
岸和田城 続日本100名城 No.161 大阪府岸和田市岸城町 南朝方の武将・楠木正成の部下である和田高家が「岸」に城を築いたのが「岸和田」の始まりとされる。15世紀後半に現在の場所から約500m南東に山城が築城され(岸和田古城)、のち現在の場所に移築される。1585年、羽柴秀吉の紀州根来寺討滅の後
大阪南部の千早城攻城を果たし、次を目指す。奈良市からここまではずっと近鉄線だったが、この先は南海電鉄利用。河内長野駅から大阪市の天下茶屋駅まで北上し、南海本線に乗り換え和歌山方面へ向かう。その途中にあるのが、岸和田城(続100名城 No.161)。当初の予定ではこの日の閉園時間に間に合わず翌日に回す
千早城 日本100名城 No.55 大阪府南河内郡千早赤阪村千早 鎌倉時代末期、のちに南朝方につく楠木正成が赤坂城の詰めの城として金剛山中腹に築いた山城。四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇った。1333年、後醍醐天皇による倒幕計画に呼応した正成は鎌倉幕府軍に包囲されるがこれを迎え撃つ(千早城の戦い)。こ
宇陀松山城 続日本100名城 No.166 奈良県宇陀市大宇陀拾生 宇陀の国人(宇陀三将)の秋山氏が標高473mの古城山に築いた山城(阿紀山城/秋山城、神楽岡の城)が始まり。南北朝時代には構えられていたとされる。1585年、豊臣秀長の大和郡山入部に伴い秋山氏は宇陀から退去。加藤氏、多賀氏などの城主の
奈良県桜井市の宿で1泊し、朝食を頂いてすぐにこの日1つ目の名城に向かう。近鉄大阪線に乗って東へ。桜の名所・長谷寺を通過し、榛原駅で下車。大宇陀行きのバスに乗り換えて宇陀松山城(続100名城 No.166)に向かう。宇陀松山城は宇陀の国人(宇陀三将)の秋山氏が標高473mの古城山に築いた山城だ。戦国時
「木彫りの熊」に案内されるようにして高取城本丸上部への坂道を上る。最後の門と虎口を通過して到着した場所が、広さ4500平方mにもなる本丸広場だ。北西隅に、先ほど下から見上げた天守台がある。往時には連立式3重3階地下1階の天守閣が築かれたという。高取城と同じく日本三大山城の1つに数えられる備中松山城の
高取城 日本100名城 No.61 奈良県高市郡高取町高取 標高584mの高取山の頂に築かれた山城。岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城に並ぶ日本三大山城の一つに数えられ、麓から本丸までの高低差(比高)は390mと日本一である。南北朝時代、南朝方の越智邦澄が築城したのが始まり。戦国時代、証如軍(一向一
11時10分、飛鳥駅から近鉄吉野線で1つ南の壺阪山駅へ。次に向かう城は、高取城(100名城 No.61)。岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城に並ぶ日本三大山城の一つに数えられる、標高584mの高取山の山頂に築かれた山城だ。麓から本丸までの高低差(比高)は390mと日本一である。戦国時代、織田信長の死