赤木城 続日本100名城 No.155 三重県熊野市紀和町赤木 安土桃山時代、豊臣秀吉による紀州攻めの後、熊野地方の木材の確保と、奥熊野の地侍が蜂起した「北山一揆」への対応のため、当時の紀伊国主・豊臣秀長の家臣だった築城の名手・藤堂高虎が築いた初めての城。現在城山と呼ばれる山の尾根沿いに郭が設けられ
勝瑞城 続日本100名城 No.175 徳島県板野郡藍住町勝瑞 旧吉野川南岸の自然堤防上に築かれた三好氏の平城及び居館。初めて築城された年代については承久の乱(1221年)の後、阿波守護になった小笠原長清が守護所を設置したという説がある。室町時代後半、阿波守護細川氏は、はじめ阿波市秋月に守護所を置い
徳島城 日本100名城 No.76 徳島県徳島市徳島町城内 吉野川河口付近の、新野川と助任川に囲まれた中洲に築かれた、標高61mの城山上の山城と城山の周囲の平城からなる、連郭式の平山城。元は阿波の国の支配者であった三好氏の拠点で、三好長慶が城主としてその地位を築くが、戦国時代に入ると阿波の国は群雄
徳島市で迎えた朝。宿は徳島城(100名城 No.76)のすぐ近く。宿の朝食を頂いた後、早速、24時間開放されている城址公園を探訪する。徳島城は、元は阿波の国の支配者であった三好氏の拠点で、戦国時代の群雄割拠・土佐の長宗我部氏の支配の後、1585年の豊臣秀吉による四国平定で阿波の国を賜った蜂須賀家政が
高松城 日本100名城 No.77 香川県高松市玉藻町 豊臣秀吉の四国制圧の後、1587年に讃岐国に封ぜられた生駒親正が、引田城、聖通寺城に居した後、1588~90年にかけて藻浦の港町に築いた城。瀬戸内海の海水を堀に引き込んだ海城で、愛媛県の今治城や大分県の中津城と並び「日本三大海城」と呼ばれる。
丸亀城 日本100名城 No.78 香川県丸亀市一番丁 日本海から至近距離の亀山(標高66m)に室町時代初期、管領・細川頼之重臣の奈良元安によって築かれた砦を起源とし、豊臣政権時代、讃岐17万石を与えられた生駒親正が高松城の支城として1597~1602年にかけて築いた平山城。亀山の上に3重・4重の石
土佐(高知県)の高知市から乗車した南風10号は、正午に讃岐(香川)の丸亀市に到着。しかし、この日の朝土佐では曇り空ではあったものの雨はそれ程強くなかったのが、この時間の丸亀市の天気予報は1時間の降水量15㎜越え。厳しい城巡りになりそうだ。丸亀駅から城への途中まではアーケード街を東へ南へと歩いて雨を避
2024年11月1日 この日の城巡りは高知城と岡豊城で終了だったが、今回の四国旅...
岡豊城 続日本100名城 No.180 高知県南国市岡豊町 信濃から土佐へ移住した長宗我部氏が13~14世紀に、国分川畔の岡豊山(標高97m)の上に築いた山城。戦国時代、長宗我部氏を含む「土佐七雄」が抗争を繰り返し、岡豊城は一度落城するが、1518年に長宗我部国親が復帰する。国親の子・元親の時代に長
高知城 日本100名城 No.84 高知県高知市丸ノ内 高知平野中心の大高坂山に築かれた平山城。南北朝時代に築かれた大高坂山城が基とされ、戦国時代には岡豊城の長曾我部氏が本拠をここに移そうと計画したこともあった。長宗我部氏が関ヶ原の戦いで敗軍の将となって改易され、代わって土佐に入って土佐藩を立てた山
3連休に有給休暇1日をプラスして4連休にして、四国へ。四国は伊予(愛媛)の100名城・続100名城は2021年に制覇していたが、その他の3県の名城はまだスタンプを1つも頂けていない。今回はその3件の名城制覇が目標だ。ただ、随分前から予定していた旅だったが、直前になって台風が日本をかすめる気配となり、
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赤木城 続日本100名城 No.155 三重県熊野市紀和町赤木 安土桃山時代、豊臣秀吉による紀州攻めの後、熊野地方の木材の確保と、奥熊野の地侍が蜂起した「北山一揆」への対応のため、当時の紀伊国主・豊臣秀長の家臣だった築城の名手・藤堂高虎が築いた初めての城。現在城山と呼ばれる山の尾根沿いに郭が設けられ
三重県のJR紀勢本線阿田和駅近くからバスに乗車して、海辺から山間部へと向かう。45分ほど経ったところで、道の駅熊野・板屋九郎兵衛の里に到着。ここが次に目指す城のスタンプ設置場所なのだが、ここでは下車せずに、バスに身を委ねて更に山奥へと進む。というのも、目指す城最寄へ行くバスは1日2本しか無かったから
新宮城 続日本100名城 No.167 和歌山県新宮市丹鶴 和歌山県新宮市の、熊野川河口近くの丘の上に築かれた総石垣の城。関ヶ原の合戦後、紀州藩主となった浅野幸長の重臣・浅野忠吉が築城を開始したのが始まり。一国一城令で一度廃城になるも忠吉が再築し、大・小の天守や二ノ丸(鐘ノ丸)が設けられる。浅野氏が
午前7時半、前日午後11時に横浜を出発した夜行バスが和歌山県東南の新宮市に到着。この日はここを拠点に南紀の続100名城の2城を目指す。新宮駅前のコンビニエンスストアで朝食を頂き、この日泊まる宿に荷物を預けて早速、1つ目の名城・新宮城(続100名城 No.167)へ歩いて向かう。新宮城は、関ヶ原の合戦
一宮城 続日本100名城 No.176 徳島県徳島市一宮町西丁 徳島の東竜王山の北東枝尾根に築かれた、北は鮎喰川、東は船戸川、園瀬川を天然の濠とし、背後に四国山脈をひかえる天険を利用した山城。南北朝時代、阿波国守護である小笠原長房(南朝方)の四男小笠原長宗が一宮宗成を滅ぼし、1338年にこの地に築城
まだ夜も明けやらぬ早朝、徳島市で取った宿のすぐ近くにある徳島城の城山周囲を3周ほど回る形で6㎞のジョギング。走っている間に夜が明け、朝の陽光に照らし出される城も風情があっていい。宿の朝食を頂いた後、徳島市南部にある名城を目指し、徳島駅からバスに乗車する。一の宮札所前バス停で下車してすぐの場所に登城口
引田城 続日本100名城 No.177 香川県東かがわ市引田 瀬戸内海に面した「城山」と言われる山に築かれた平山城。築城主は定かではないが、室町時代末期、四宮右近の居城になり、1570年、三好氏に攻められてその支配下となる。その後三好氏一族の十河氏と長宗我部元親が争う中、1583年、羽柴秀吉の命で仙
勝瑞城を探訪した後、次の城へ向かう鈍行列車まで空き時間ができたので、勝瑞駅から1つ先の板東駅から歩いて回ることができる、鳴門市の第1番札所・霊山寺と第2番札所・極楽寺をお遍路。特に霊山寺は最初の札所であり、折しも日曜日だったこともあって、参詣客で大いに賑わっていた。霊山寺から最寄りの阿波川端駅に到着
勝瑞城 続日本100名城 No.175 徳島県板野郡藍住町勝瑞 旧吉野川南岸の自然堤防上に築かれた三好氏の平城及び居館。初めて築城された年代については承久の乱(1221年)の後、阿波守護になった小笠原長清が守護所を設置したという説がある。室町時代後半、阿波守護細川氏は、はじめ阿波市秋月に守護所を置い
徳島城 日本100名城 No.76 徳島県徳島市徳島町城内 吉野川河口付近の、新野川と助任川に囲まれた中洲に築かれた、標高61mの城山上の山城と城山の周囲の平城からなる、連郭式の平山城。元は阿波の国の支配者であった三好氏の拠点で、三好長慶が城主としてその地位を築くが、戦国時代に入ると阿波の国は群雄
徳島市で迎えた朝。宿は徳島城(100名城 No.76)のすぐ近く。宿の朝食を頂いた後、早速、24時間開放されている城址公園を探訪する。徳島城は、元は阿波の国の支配者であった三好氏の拠点で、戦国時代の群雄割拠・土佐の長宗我部氏の支配の後、1585年の豊臣秀吉による四国平定で阿波の国を賜った蜂須賀家政が
高松城 日本100名城 No.77 香川県高松市玉藻町 豊臣秀吉の四国制圧の後、1587年に讃岐国に封ぜられた生駒親正が、引田城、聖通寺城に居した後、1588~90年にかけて藻浦の港町に築いた城。瀬戸内海の海水を堀に引き込んだ海城で、愛媛県の今治城や大分県の中津城と並び「日本三大海城」と呼ばれる。
丸亀城 日本100名城 No.78 香川県丸亀市一番丁 日本海から至近距離の亀山(標高66m)に室町時代初期、管領・細川頼之重臣の奈良元安によって築かれた砦を起源とし、豊臣政権時代、讃岐17万石を与えられた生駒親正が高松城の支城として1597~1602年にかけて築いた平山城。亀山の上に3重・4重の石
土佐(高知県)の高知市から乗車した南風10号は、正午に讃岐(香川)の丸亀市に到着。しかし、この日の朝土佐では曇り空ではあったものの雨はそれ程強くなかったのが、この時間の丸亀市の天気予報は1時間の降水量15㎜越え。厳しい城巡りになりそうだ。丸亀駅から城への途中まではアーケード街を東へ南へと歩いて雨を避
2024年11月1日 この日の城巡りは高知城と岡豊城で終了だったが、今回の四国旅...
岡豊城 続日本100名城 No.180 高知県南国市岡豊町 信濃から土佐へ移住した長宗我部氏が13~14世紀に、国分川畔の岡豊山(標高97m)の上に築いた山城。戦国時代、長宗我部氏を含む「土佐七雄」が抗争を繰り返し、岡豊城は一度落城するが、1518年に長宗我部国親が復帰する。国親の子・元親の時代に長
高知城 日本100名城 No.84 高知県高知市丸ノ内 高知平野中心の大高坂山に築かれた平山城。南北朝時代に築かれた大高坂山城が基とされ、戦国時代には岡豊城の長曾我部氏が本拠をここに移そうと計画したこともあった。長宗我部氏が関ヶ原の戦いで敗軍の将となって改易され、代わって土佐に入って土佐藩を立てた山
3連休に有給休暇1日をプラスして4連休にして、四国へ。四国は伊予(愛媛)の100名城・続100名城は2021年に制覇していたが、その他の3県の名城はまだスタンプを1つも頂けていない。今回はその3件の名城制覇が目標だ。ただ、随分前から予定していた旅だったが、直前になって台風が日本をかすめる気配となり、
多気北畠氏城館 続日本100名城 No.153 三重県津市美杉町上多気 南北朝時代、南朝方だった伊勢国司の北畠顕能(田丸城を築いた北畠親房の三男)によって築かれた居館(多気御所)。西背後の霧山の上に築かれた詰城・霧山城と併せて「多気城」を構成する。跡地の北畠神社には国の名勝に指定されている庭園や「中
前日東京から乗車した夜行バスで朝の6時半頃、三重県・松阪駅に到着。松阪には前年12月に松阪城などの城巡りとみえ松阪マラソン出場のため既に訪れていたが、その時はマラソンの前後に訪れるには厳しい山城への登城を見送っていたので、今回はその時の「忘れ物」を回収しに来た格好だ。駅近くで朝食後、7時32分、JR
多賀城 日本100名城 No.7 宮城県多賀城市市川 奈良時代、大和朝廷が蝦夷支配のため、大野東人に命じて現在の宮城県多賀城市に築かせた古代城柵。奈良時代から平安時代にかけて、役所である陸奥国府や軍事拠点である鎮守府が置かれ、11世紀中頃まで東北地方の政治・軍事・文化の中心地となる。9世紀初め、征夷
2日前に宮城入りして白石城、仙台城を訪れて、1日前は今回の遠征のメーンイベントである東北・みやぎ復興マラソンに参戦。目標としていた4時間30分以内は達成できず、4時間46分45秒でのフィニッシュとなった。もう1個所、残していた名城があったので、仙台でもう1泊してこの日、マラソンでボロボロになった両脚
仙台城 日本100名城 No.8 宮城県仙台市青葉区川内 1601年、伊達政宗が新たな居城として青葉山の上に築いた城。以後幕末まで伊達氏の居城・仙台藩の政庁となる。巨大な石垣の上に250m四方の本丸を誇るが、天守は築かれなかった。1639年、伊達忠宗が現在の東北大学川内キャンパスがある場所に二の丸を
白石城 続日本100名城 No.105 宮城県白石市益岡町 鎌倉時代に白石氏(刈田氏)の居館として建てられ、戦国時代、伊達氏が刈田郡を勢力下とするも、1591年、豊臣秀吉の奥州仕置により蒲生氏郷の所領となり、1598年に上杉景勝が会津入りするとその家臣の甘糟景継が城主となる。1600年、徳川家康の上
東北・みやぎ復興マラソンに出場するために、仙台へ。今回の遠征の主目的はマラソンだが、宮城の100名城・続100名城はいずれも未登城だ。全部で3つと数も多くないので、ついでに訪れることにした。往路。東京駅から東北新幹線に乗車するが、仙台までは行かずに福島で新幹線を下車。東北本線に乗り換え更に北上し、白
2023年10月38日 江戸城には100名城巡りを始めた2019年に訪れて100...
新高山城 続日本100名城 No.173 広島県三原市本郷町本郷 鎌倉時代に、現在の広島県三原市本郷の沼田川東岸に建てられた小早川氏の居城・高山城の副塁として、対岸(西岸)の山に建てられた山城。戦国時代、毛利元就の息子・小早川隆景が小早川家を継いで、新高山城を拡張して本拠とする。1596年、隆景は本
三原城 続日本100名城 No.172 広島県三原市城町 戦国時代、毛利元就の子・小早川隆景が現在の広島県三原市の沼田川河口エリアに築いた水軍施設が始まり。織田信長の中国攻めの際は毛利輝元がここに本陣を置く。豊臣秀吉に服従後、隆景は福岡に封ぜられるが、子の秀秋に家督を譲って三原城を隠居城とする。隆景
福山城 日本100名城 No.71 広島県福山市丸之内 江戸時代初期、現在の広島県福山市に封ぜられた譜代大名・水野勝成が西国外様大名への牽制に築いた城。層塔型5重6階の天守が建てられ、一国一城令発布後に築かれた最後の大規模近世城郭となる。水野氏の後も松平氏、阿部氏と譜代大名が治めた。明治の戊辰戦争で
岡山3日目。岡山の100名城・続100名城は前日までに制覇していたが、岡山には、広島県東部の三原まで4200円で3日間列車乗り放題の「岡山ワイドパス」というお得な切符があり、初日、2日目と、この切符で城巡りをしてきた。東広島にもこの切符で行くことができる城があるので、この日はそちらを目指すことにする
鬼ノ城 日本100名城 No.69 岡山県総社市奥坂、黒尾 岡山県総社市の、標高400mの鬼城山(きのじょうさん)に、大和朝廷によって7世紀後半に築かれた古代山城。倭(日本)の防衛のために築かれた施設の1つだが、史書に記載が一切無く具体的な歴史は不明。周囲を土塁で囲み、要所に石垣(特に屏風折れの石垣
備中高松城登城を達成し、備中高松駅から吉備線(桃太郎線)で1つ総社駅寄りの服部駅に移動する。小さな無人駅を出るとすぐ、次に目指す鬼ノ城(100名城 No.69)を確かに見ることができた。(直線距離で)4㎞先の鬼城山の上に...しかも服部駅からの標高差は350m。中間地点の砂川公園までは平坦に近いが、
備中高松城 続日本100名城 No.171 岡山県岡山市北区高松 備中松山城を本拠に備中を治めていた戦国大名・三村氏の命で石川氏が築いた城。1575年の備中兵乱で石川氏が三村氏とともに毛利氏に滅ぼされた後は、三村氏から毛利氏に臣従した清水宗治が城主となる。1582年、織田信長の家臣・羽柴秀吉の中国攻
備中松山城 日本100名城 No.68 岡山県高梁市内山下 岡山・高梁の臥牛山(松山)の山頂近くに秋庭氏が鎌倉時代に建てた城をベースに、戦国時代、三村氏が拡張する形で築いた山城。江戸時代初期、水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の天守の姿になる。戦に備えて築かれた「詰の城」で常用はされず、江戸時
朝一番の7時半前に伯備線の列車に乗り込んで岡山駅を出発。武家屋敷で有名な倉敷を経由(既に過去に2度訪れていたこともあり今回は通過)して、8時18分、備中高梁駅に到着。時間によっては登城口までバスもあるのだが、この時間帯は生憎バスが無く、2㎞弱の道を歩いて向かう。駅を出発して程なくして、目指す備中松山
津山城 日本100名城 No.67 岡山県津山市山下 室町時代中期に山名忠政が築いた鶴山城が原型。一度廃城となるが、1603年に津山藩主に封ぜられた森忠政(織田信長家臣・森可成の六男)が、13年の歳月をかけて今の形に築いた城。4重5階地下1階の層塔型天守のほか、櫓、城門などを合わせ80余棟が建ち並ぶ
岡山城 日本100名城 No.70 岡山県岡山市北区丸の内 戦国時代に岡山の地を支配した宇喜多直家が居城とし、息子の秀家が継ぐが関ケ原の戦いで西軍につき敗れて八丈島に流され、その後を関ケ原の戦いで西軍を寝返り東軍を勝利に導いた小早川秀秋が入る。しかし秀秋が死去し小早川家が断絶したため池田輝政の次男忠
午前10時前、羽田空港からのJAL便で岡山に到着。今回の城巡りは岡山と、東広島の8城を目指す。リムジンバスで岡山駅へ。駅近くの宿に大きな荷物を預け、岡山市コミュニティサイクル「ももちゃり」を活用して早速、1つ目の城・岡山城(100名城 No.70)へと向かう。岡山城は戦国時代、宇喜多直家・秀家親子、
大垣城 続日本100名城 No.140 岐阜県大垣市郭町 美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、1535年に創建されたと伝えられる。戦略上重要な地点であったため、戦国時代には争奪戦が繰り返され、織田氏、斎藤氏、織田氏と支配権が移り変わる。賤ヶ岳の戦いの後は羽柴秀吉配下となり、池田恒興・輝政親
玄蕃尾城 続日本100名城 No.140 福井県敦賀市刀根、滋賀県長浜市余呉町柳ケ瀬 福井県と滋賀県境の柳ヶ瀬山の尾根上に築かれた山城。織田信長の死後、羽柴秀吉と柴田勝家が争った賤ヶ岳の戦い(1583年)において、柴田勝家の本陣が置かれた。曲輪・櫓台・土塁・虎口・空堀・土橋など保存状態が良好で、当時