臼杵城 続日本100名城 No.192 大分県臼杵市臼杵丹生島 戦国時代、豊後の王と称されたキリシタン大名・大友宗麟により、北、南、東を海に囲まれ、西は干潮時に現れる干潟で繋がるのみという天然の要害・丹生島(にうじま)に築かれた「丹生島城」が始まり。大友氏は毛利氏との戦いに敗れて1562年に府内大友
多気北畠氏城館 続日本100名城 No.153 三重県津市美杉町上多気 南北朝時代、南朝方だった伊勢国司の北畠顕能(田丸城を築いた北畠親房の三男)によって築かれた居館(多気御所)。西背後の霧山の上に築かれた詰城・霧山城と併せて「多気城」を構成する。跡地の北畠神社には国の名勝に指定されている庭園や「中
三重100名城・2024年―多気北畠氏城館、田丸城 - 日本100名城
前日東京から乗車した夜行バスで朝の6時半頃、三重県・松阪駅に到着。松阪には前年12月に松阪城などの城巡りとみえ松阪マラソン出場のため既に訪れていたが、その時はマラソンの前後に訪れるには厳しい山城への登城を見送っていたので、今回はその時の「忘れ物」を回収しに来た格好だ。駅近くで朝食後、7時32分、JR
唐沢山城 続日本100名城 No.114 栃木県佐野市富士町 平安時代の927年、のちに平将門の乱を鎮撫する藤原秀郷が下野国押領使を叙任し関東に下向して唐沢山に城を築いたのが始まりとされる。その後一時廃城となるが、1180年、秀郷より数えて9代の俊綱の弟・成俊が再びここに城を再興し、城は鎌倉時代に亘
北関東100名城(5)―佐野城、唐沢山城 - 日本100名城
栃木の名城もあと1つ。13時43分、JR両毛線に乗車して足利を出発。13分で佐野駅に到着し、下車。次の目的駅にコインロッカーが無いため、ここでコインロッカーに荷物を預ける。そのまま乗り換えようと東武線の改札に向かうと、「城山公園口」と書かれた案内板が目に入った。「城山」ということは、ここにも城があっ
金山城 日本100名城 No.17 群馬県太田市金山町 1469年、新田一族であった岩松家純により築城された山城。四方に延びる尾根を中心に金山を利用して曲輪とし、これを堀切・土塁・石垣や石敷きなどで固く守る難攻不落の名城だった。1528年頃に横瀬泰繁・成繁(のち由良に改姓)親子が城主の岩松昌純を殺害
足利氏館 日本100名城 No.15 栃木県足利市家富町 平安時代末期に、後の足利尊氏ら足利氏の祖・源義康が築いた居館。鎌倉時代初期、足利義兼が持仏堂、堀内御堂を建立して以降、真言宗大日派の本山であり、足利氏の氏寺である鑁阿寺(ばんなじ)として整備される。現在も館の名残である土塁や水堀が巡らされてい
北関東100名城(4)―足利氏館、金山城 - 日本100名城
群馬の名城を巡って前夜、県境を少し越えて栃木・足利駅前の宿で一泊。今回の名城巡り最終日は、栃木と、群馬で昨日行き切れなかった名城を巡る。早朝。まずは足利市内にある足利氏館(日本100名城 No.15)を訪れる。足利氏館は平安時代末期に、後の足利尊氏に始まり室町幕府の将軍を歴任した足利氏の祖・源義康が
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臼杵城 続日本100名城 No.192 大分県臼杵市臼杵丹生島 戦国時代、豊後の王と称されたキリシタン大名・大友宗麟により、北、南、東を海に囲まれ、西は干潮時に現れる干潟で繋がるのみという天然の要害・丹生島(にうじま)に築かれた「丹生島城」が始まり。大友氏は毛利氏との戦いに敗れて1562年に府内大友
佐伯城の攻城を終えて、来た道を大分方面へ戻るが、その途中にも未訪の名城がある。途中で下車して臼杵市の海の程近くにある臼杵城(続100名城No.193)を訪れた。臼杵城は大分駅に銅像も立っている、戦国時代にこの地に一大勢力を築いた「豊後の王」大友宗麟が拠点とした城だ。今は埋め立てが行われて海から少し離
佐伯城 続日本100名城 No.194 大分県佐伯市字城山 江戸時代初期、関ヶ原の戦いで徳川方(東軍)に与し海部郡に2万石を与えられた毛利高政により、標高144mの八幡山山頂一体に築かれた連郭式山城。山頂部に石垣造りの本丸、本丸外曲輪、二の丸、西出丸、北出丸を配置。6年の歳月をかけて1606年にほぼ
この日は朝から大分駅から青春18きっぷでJR日豊線を南下して、1時間20分ほどで大分県南部の佐伯駅に到着。当初は駅前の観光案内所で自転車を借りるつもりだったが、営業開始まで30分ほどあり、ここから目指す城の麓までは歩いても30分。それなら歩こうかということになって、河童伝説の残る川や、武家屋敷通りの
中津城 続日本100名城 No.191 大分県中津市二ノ丁本丸 豊臣秀吉より豊前国を与えられた黒田孝高(官兵衛、如水)が1588年に築城を開始した平城。周防灘に臨む中津川河口の地に位置し、石垣は近世城郭のものとしては九州最古のものであり、堀には海水が引き込まれ、今治城・高松城とともに日本三大水城の
福岡県と県境を接する佐賀県の鳥栖駅を11時すぎに出発。青春18きっぷを利用してJR鹿児島本線で西小倉へ、更に日豊線に乗り継いで福岡県を一気に飛び越えて、こちらも福岡と県境を接する、大分県の中津市で下車。予約していた駅前の宿に荷物を預けて中津の街巡りへ。寺町と呼ばれる、その名の通り寺院が建ち並ぶ通りを
佐賀県鳥栖市の鳥栖駅前の宿で夜を明かし、早朝からもう1つ、前回の九州北部の城巡りで「忘れ物」をした城を目指す。鳥栖駅からJR鹿児島本線で北へ2駅の基山駅で下車し、目指したのは佐賀県基山町の基山に鎮座する山城・基肄城(続100名城No.184)。これもまた、昨日訪れた大野城や水城同様、7世紀の白村江の
午前9時20分頃、羽田からの全日空便が福岡空港に到着。STAR★WARSの黄色いラッピングを施した機体だった。今回の城巡りのメーンは大分だったが、にもかかわらず旅の始めの地に福岡を選んだのは、前回福岡の城巡りをした時にやり残しがあり、その時の「忘れ物」をまず回収しようと考えたためだった。なお、大分の
ちょっと用事があって、神奈川からほぼ日帰りで京都・伏見へ。時間が余ったので、せっかくだから近くにある城へ、2025年初の城巡り。近鉄丹波橋から坂を15分ほど上って訪れたのが、<strong class=
赤木城 続日本100名城 No.155 三重県熊野市紀和町赤木 安土桃山時代、豊臣秀吉による紀州攻めの後、熊野地方の木材の確保と、奥熊野の地侍が蜂起した「北山一揆」への対応のため、当時の紀伊国主・豊臣秀長の家臣だった築城の名手・藤堂高虎が築いた初めての城。現在城山と呼ばれる山の尾根沿いに郭が設けられ
三重県のJR紀勢本線阿田和駅近くからバスに乗車して、海辺から山間部へと向かう。45分ほど経ったところで、道の駅熊野・板屋九郎兵衛の里に到着。ここが次に目指す城のスタンプ設置場所なのだが、ここでは下車せずに、バスに身を委ねて更に山奥へと進む。というのも、目指す城最寄へ行くバスは1日2本しか無かったから
新宮城 続日本100名城 No.167 和歌山県新宮市丹鶴 和歌山県新宮市の、熊野川河口近くの丘の上に築かれた総石垣の城。関ヶ原の合戦後、紀州藩主となった浅野幸長の重臣・浅野忠吉が築城を開始したのが始まり。一国一城令で一度廃城になるも忠吉が再築し、大・小の天守や二ノ丸(鐘ノ丸)が設けられる。浅野氏が
午前7時半、前日午後11時に横浜を出発した夜行バスが和歌山県東南の新宮市に到着。この日はここを拠点に南紀の続100名城の2城を目指す。新宮駅前のコンビニエンスストアで朝食を頂き、この日泊まる宿に荷物を預けて早速、1つ目の名城・新宮城(続100名城 No.167)へ歩いて向かう。新宮城は、関ヶ原の合戦
一宮城 続日本100名城 No.176 徳島県徳島市一宮町西丁 徳島の東竜王山の北東枝尾根に築かれた、北は鮎喰川、東は船戸川、園瀬川を天然の濠とし、背後に四国山脈をひかえる天険を利用した山城。南北朝時代、阿波国守護である小笠原長房(南朝方)の四男小笠原長宗が一宮宗成を滅ぼし、1338年にこの地に築城
まだ夜も明けやらぬ早朝、徳島市で取った宿のすぐ近くにある徳島城の城山周囲を3周ほど回る形で6㎞のジョギング。走っている間に夜が明け、朝の陽光に照らし出される城も風情があっていい。宿の朝食を頂いた後、徳島市南部にある名城を目指し、徳島駅からバスに乗車する。一の宮札所前バス停で下車してすぐの場所に登城口
引田城 続日本100名城 No.177 香川県東かがわ市引田 瀬戸内海に面した「城山」と言われる山に築かれた平山城。築城主は定かではないが、室町時代末期、四宮右近の居城になり、1570年、三好氏に攻められてその支配下となる。その後三好氏一族の十河氏と長宗我部元親が争う中、1583年、羽柴秀吉の命で仙
和歌山城 日本100名城 No.62 和歌山県和歌山市一番丁 安土桃山時代、織田信長と羽柴秀吉が紀州征伐を行い、副将軍として参陣した秀吉の弟・豊臣秀長は紀州平定後に紀伊・和泉を加増され、秀吉の命により紀の川畔の「若山」と呼ばれた地(のち「和歌山」)にある虎伏山の山頂に、藤堂高虎らに普請させて1年で築
岸和田城 続日本100名城 No.161 大阪府岸和田市岸城町 南朝方の武将・楠木正成の部下である和田高家が「岸」に城を築いたのが「岸和田」の始まりとされる。15世紀後半に現在の場所から約500m南東に山城が築城され(岸和田古城)、のち現在の場所に移築される。1585年、羽柴秀吉の紀州根来寺討滅の後
大阪南部の千早城攻城を果たし、次を目指す。奈良市からここまではずっと近鉄線だったが、この先は南海電鉄利用。河内長野駅から大阪市の天下茶屋駅まで北上し、南海本線に乗り換え和歌山方面へ向かう。その途中にあるのが、岸和田城(続100名城 No.161)。当初の予定ではこの日の閉園時間に間に合わず翌日に回す
千早城 日本100名城 No.55 大阪府南河内郡千早赤阪村千早 鎌倉時代末期、のちに南朝方につく楠木正成が赤坂城の詰めの城として金剛山中腹に築いた山城。四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇った。1333年、後醍醐天皇による倒幕計画に呼応した正成は鎌倉幕府軍に包囲されるがこれを迎え撃つ(千早城の戦い)。こ
宇陀松山城 続日本100名城 No.166 奈良県宇陀市大宇陀拾生 宇陀の国人(宇陀三将)の秋山氏が標高473mの古城山に築いた山城(阿紀山城/秋山城、神楽岡の城)が始まり。南北朝時代には構えられていたとされる。1585年、豊臣秀長の大和郡山入部に伴い秋山氏は宇陀から退去。加藤氏、多賀氏などの城主の
奈良県桜井市の宿で1泊し、朝食を頂いてすぐにこの日1つ目の名城に向かう。近鉄大阪線に乗って東へ。桜の名所・長谷寺を通過し、榛原駅で下車。大宇陀行きのバスに乗り換えて宇陀松山城(続100名城 No.166)に向かう。宇陀松山城は宇陀の国人(宇陀三将)の秋山氏が標高473mの古城山に築いた山城だ。戦国時
「木彫りの熊」に案内されるようにして高取城本丸上部への坂道を上る。最後の門と虎口を通過して到着した場所が、広さ4500平方mにもなる本丸広場だ。北西隅に、先ほど下から見上げた天守台がある。往時には連立式3重3階地下1階の天守閣が築かれたという。高取城と同じく日本三大山城の1つに数えられる備中松山城の
高取城 日本100名城 No.61 奈良県高市郡高取町高取 標高584mの高取山の頂に築かれた山城。岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城に並ぶ日本三大山城の一つに数えられ、麓から本丸までの高低差(比高)は390mと日本一である。南北朝時代、南朝方の越智邦澄が築城したのが始まり。戦国時代、証如軍(一向一
11時10分、飛鳥駅から近鉄吉野線で1つ南の壺阪山駅へ。次に向かう城は、高取城(100名城 No.61)。岡山の備中松山城、岐阜の美濃岩村城に並ぶ日本三大山城の一つに数えられる、標高584mの高取山の山頂に築かれた山城だ。麓から本丸までの高低差(比高)は390mと日本一である。戦国時代、織田信長の死
大和郡山城 続日本100名城 No.165 奈良県大和郡山市城内町 鎌倉時代の1162年に郡山衆が雁陣之城を築いたというのが最も古い記録として残る。戦国時代には織田信長に臣従した筒井順慶軍の拠点となり、1580年に信長から大和国では一城のみとする破城令が発せられたことから、順慶は従来の本城だった筒井
午前6時20分すぎ、前日23時すぎに横浜を出発した夜行バスがJR奈良駅に到着。今回はここから、奈良県、大阪府南部、和歌山県北部の100名城、続100名城を巡る旅を始める。その前に、せっかく9年ぶりに奈良市に来たことなので、朝の短い時間を利用して興福寺と東大寺の大仏だけ訪れる。到着時は生憎の雨で、奈良
2024年2月24日2月下旬。早咲きの河津桜の季節だ。神奈川県西部の富士山に近い松田町では、河津桜の向こうに富士山を見ることができるスポットがあるという。天気のいい休日に出掛けてみた。 小田急線の新松...
三重での城巡り・マラソン大会参加を終えて、帰途に就く。近鉄名古屋線で名古屋着。ここから新幹線で関東へ――と、その前に、2020年に訪れた尾張の城の中で、写真撮影に満足していないものがあったので、撮影のやり直しのために再訪することにした。名鉄名古屋本線に乗って、岩倉駅で下車。バスに乗り換えて向かったの
田丸城 続日本100名城 No.154 三重県度会郡玉城町田丸 南北朝時代に南朝方の北畠親房、北畠顕信によって築かれた平山城。北朝方の足利尊氏に落とされた後、室町時代に北畠氏により再建され、のち北畠氏庶流の北畠顕晴が入り、田丸氏を名乗る。戦国時代、織田信長の伊勢侵攻の際、北畠具教の養嗣子となった信長
松阪城 日本100名城 No.48 三重県松阪市殿町 豊臣秀吉によって南伊勢に移封された蒲生氏郷が、松ヶ島城に入った後、それに代わる拠点として1588年に築いた平山城。3重5階の天守も築かれる。氏郷は旧領の近江商人を呼び寄せて楽市楽座を設け、更に湊町に伊勢大湊の豪商角屋氏を呼び寄せ、商都松阪の礎を築
伊賀上野城の登城を終えて、来た道を逆に辿る形で、伊賀鉄道の「忍者列車」で上野市駅から伊賀神戸駅、近鉄に乗り換えて伊賀神戸駅から伊勢中川駅、更に乗り継いで、みえ松阪マラソンの会場最寄りの松阪駅に戻る。この街にも名城がある。松阪城(100名城 No.48)だ。豊臣秀吉によって南伊勢に移封された蒲生氏郷が
伊賀上野城 日本100名城 No.47 三重県伊賀市上野丸之内 平楽寺、薬師寺のあった上野台地に、伊賀の守護大名・仁木氏が築いた仁木氏館が起源。1585年、筒井順慶の養子で、郡山から伊賀に移封された筒井定次が改修。3層の天守を建てる。関ヶ原の戦いの際、一時西軍の新庄氏に奪われるがすぐ奪還する(上野城