早朝7時すぎ、前日午後10時に東京・新宿を出発した夜行バスが富山、金沢を経由して石川県の七尾駅前に到着。6年前に訪れて以来の再訪――今回はここを起点として主に福井の名城を巡る旅になる。この街で目指す城の登城口近くまで行ってくれるバスまで1時間ほどあったので、駅近くのコンビニエンスストアでパンを買って
沼田城 続日本100名城 No.116 群馬県沼田市西倉内町 利根川と薄根川の合流点東の台地上に1532年、沼田顕泰により沼田氏の拠点として築城された丘城。1560年、長尾景虎(上杉謙信)に落とされ、以後軍事上の重要拠点として上杉氏・後北条氏・武田氏の間で争奪戦が行われる。1580年、沼田城は武田方
名胡桃城 続日本100名城 No.115 群馬県利根郡みなかみ町下津 利根川と赤谷川の合流近くの断崖部に築かれた山城。1492年に沼田城の支城として上野沼田氏によって名胡桃館が築かれたのが最初とされる。1579年、武田勝頼が家臣の真田昌幸に命じて、後北条氏から沼田領を奪取するための前線基地として、昌
北関東100名城(3)―名胡桃城、沼田城 - 日本100名城
群馬・渋川から西方向の岩櫃城探訪を終えてJR吾妻線で、一旦渋川に帰還。渋川駅前の店で昼食を頂いた後、今度は上越線に乗車して北へと向かう。午後から目指したのは、名胡桃城(続100名城No.115)と沼田城(続100名城No.116)。いずれも岩櫃城同様、真田氏ゆかりの城で、後北条氏などの度重なる侵攻に
岩櫃城 続日本100名城 No.117 群馬県吾妻郡東吾妻町原町 群馬県吾妻川北岸の岩櫃山中腹に築かれた山城。伝説では、この地を鎌倉時代に治めた吾妻太郎助亮が築城したと伝わる。戦国時代に吾妻氏の子孫と称する斉藤憲次が岩櫃城を奪い、その子である斉藤憲広は上杉氏に属し、岩櫃城を拠点として吾妻郡一帯の地侍
群馬・渋川駅に隣接している宿で朝を迎える。予定の列車は6時50分発だが、宿の朝食は6時30分から。カレーライスに玉子焼き2切れを大急ぎで書き込んで駅へと向かう。 乗った路線は、西へ向かう吾妻線。40分ほどで到着した郷原駅で下車すると、北の空の下に奇岩をむき出しにした岩櫃山が屹立している。今回目指す名
箕輪城 日本100名城 No.16 群馬県高崎市箕郷町東明屋 戦国時代中期の16世紀前半、上野国西部を支配していた長野氏により榛名白川河畔の丘陵地に築かれた平山城。東西約500m、南北約1100m、面積約47haに及ぶ。長野氏は上杉氏(謙信)の後ろ盾を得て箕輪衆と呼ばれる在郷武士団を束ね、度々繰り返
忍城 続日本100名城 No.118 埼玉県行田市本丸 1478年ごろ、地元の豪族・成田正等・顕泰父子がこの地を支配していた扇谷上杉家に属する忍一族を滅ぼし、築城したといわれる。広大な沼地に島や自然堤防を巧みに利用して建造され、難攻不落の名城と呼ばれる。1479年、扇谷上杉家に忍城を攻められるも同家
夏。特に2024年の夏は「観測史上最高の暑さ」と言われた。そんな夏真っ盛りのこの日、私が下り立った駅はよりによって「日本一暑い街」ともいわれる埼玉の熊谷駅だった。なぜ一番暑い夏の一番暑い街に来てしまったのか...それは、これから始めようとしている北関東の群馬・栃木の城巡りはJRの在来線を多用すること
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早朝7時すぎ、前日午後10時に東京・新宿を出発した夜行バスが富山、金沢を経由して石川県の七尾駅前に到着。6年前に訪れて以来の再訪――今回はここを起点として主に福井の名城を巡る旅になる。この街で目指す城の登城口近くまで行ってくれるバスまで1時間ほどあったので、駅近くのコンビニエンスストアでパンを買って
米子城 続日本100名城 No.169 鳥取県米子市久米町 15世紀に山名宗之によって米子の中海に近い飯山に築かれた砦が始まりとされる。1591年、豊臣政権下で西伯耆の領主となった吉川広家が中海の良港に隣接した湊山に築城を開始し、四重天守を築く。関ヶ原の戦いの後に広家が岩国に国替えとなった後は中村
松江城 日本100名城 No.64 島根県松江市殿町 関ヶ原の戦いで東軍に与し戦功のあった堀尾忠氏が、隠岐・出雲を得て松江藩が成立。当初は月山富田城に入城したが、山城で交通の便が良くなかったため、1607年に末次城のあった宍道湖畔の亀田山に松江城を築き始め、1611年に完成。現存する天守もこの時築
今回の名城巡りの旅も最終日。松江駅近くの宿で1泊して、朝一番でこの街の名城を目指す。その途中、この街が誇る城の前に、この街が誇る湖のわきを通る。隣接する日本海から海水が混ざり込む汽水湖・宍道湖だ。ここで育つシジミや白魚などが島根の名物になっている。宍道湖から大橋川に湖水が流れ込む地点に架かる宍道湖大
月山富田城 日本100名城 No.66 島根県安来市広瀬町富田 鎌倉幕府の御家人である佐々木義清が築城し、その子で富田を名乗った義泰ら富田氏が本拠とした、現在の島根県安来市の月山(標高184m)上の山城で、日本五大山城の一つとされることもある。戦国時代には戦国大名・尼子氏の本拠地となり、天然の地形を
浜田城 続日本100名城 No.170 島根県浜田市殿町 島根・浜田の標高68mの独立式丘陵に築城された平山城。北部を松原湾、東部を浅井川、南部・西部を浜田川に囲まれ、天然の堀としている。大坂の陣の功績により浜田に入封した古田重治により1620~1623年にかけて築かれ、浜田藩の藩庁が置かれる。古田
島根県浜田氏の浜田駅近くの宿で一夜を明かし、朝一番で徒歩圏内にある名城を訪れる。浜田城(続100名城No.170)は江戸時代、大坂の陣の功績により浜田に入封した古田重治により1620~1623年にかけて築かれた。浜田川と松原浦に囲まれた、標高68mの独立式丘陵・亀山に築城された平山城である。浜田城資
津和野城 日本100名城 No.66 島根県鹿足郡津和野町後田 津和野盆地の南西部に横たわる標高367mの霊亀山に築かれた山城。鎌倉時代の元寇の後、沿岸防備のためこの地に赴任した吉見頼行が築いた三本松城が始まり。戦国時代、大寧寺の変で大内義隆を滅ぼした陶晴賢に対して吉見氏が挙兵。三本松城で1554年
萩で迎えた早朝。もう一度城下町を散策した後、萩バスセンターを8時42分に発つ高速バスで新山口駅へ移動する。次は山口県を出てすぐの島根県津和野が目的地だが、事前にスケジュールを組んでいた時、ちょうどいいタイミングでいい列車が出ていることに気づき、予約が取れる初日にすぐ挑んだのだが、ゴールデンウィーク(
萩城 日本100名城 No.75 山口県萩市堀内 関ヶ原の戦いで西軍の総大将に就いて敗軍の将となり、周防国・長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が、広島城に代わる居城として1604年に築いた城。指月山の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と指月山山頂にある山城(詰丸)で構成されている。堀に面して望楼型
予定より1本早いバスで、山口市から日本海沿岸の萩へ向かう。元の予定のバスで行った場合、次の城へは萩の旧城下町内を歩くかシェアサイクルを使うかだったのだが、萩へのバスが1本早くなったことで次の城まで行ってくれる萩市内のコミュニティバスの時間にちょうどよくなった。小ぶりなバスに身を委ねて悠々と、萩城(1
大内氏館・高嶺城 山口県山口市 続日本100名城 No.174 大内氏館は、室町時代に建造された、周防国・長門国を本拠とした大内氏の居館。領土の拡大とともに増築が繰り返され、空堀と土塁により守りが固められた。高嶺城は毛利軍の進軍に備え、大内義長が大内氏館の詰めの城として1556年、標高338mの鴻ノ
山口駅から次の城へ700mほど近づいた場所にある宿で一夜を明かし、朝一番で城攻めに出掛ける。今回目指すは、大内氏館・高嶺城(続100名城No.174)。室町時代、周防国・長門国を本拠とした室町幕府の重臣・大内氏の平地と山の拠点である。まずは標高338mの鴻ノ峰に1556年、大内義長により築城が開始さ
岩国城 日本100名城 No.74 山口県岩国市横山 山口一帯を支配していた毛利氏は関ヶ原の戦いで西軍に与して敗軍の将となり、徳川家康に内通していた毛利一門の吉川広家は毛利氏の存続に奔走する。広家はその後岩国領の領主に3万石で封ぜられ、領内の横山に岩国城を築く。麓に平時の居館となる「土居」と、標高2
広島城の攻城を終えた私は、昼前にJR山陽本線の普通列車に乗り込んで西へ向かい、広島・山口の県境を超えて2つ目の岩国駅で下車。岩国市内を流れる錦川までバスで移動して、江戸時代に創建された5連の木造アーチ橋・錦帯橋に行き着く。その錦帯橋の背後に聳える、標高216mの横山の山頂に天守閣が見える。あれが今回
広島駅近くの宿で1夜を明かして、この日も早朝から広島城(100名城No.73)を目指す。前日は北西からアプローチしたが、今回は南東からアプローチ。ここから反時計回りで裏御門跡などを経由して堀(かつての内堀)の周りをぐるりと1周して、この日も表御門から入城して、昨日じっくり見られなかった場所を見て回る
広島城 日本100名城 No.73 広島県広島市中区基町 戦国時代に広島を支配下に置いた毛利氏は、それまでの山間部の居城・吉田郡山城から瀬戸内海沿岸への移転を決め、1589年、毛利輝元は太田川下流域の五箇村に広島城の築城を開始し、1591年に入城。1592年に天守が建てられ、1599年に完成するが、
郡山城の攻城を終えて、バスとJRを可部駅で乗り継いで、広島市内に戻る。新白鳥駅で下車して、歩いて15分ほどで、堀に囲まれた広島城(100名城No.73)が見えてきた。広島城は、山城で交通面の不便さがあった郡山城から毛利輝元が移転先として広島の平地に建てた平城だ。しかし輝元は築城後すぐに関ヶ原の戦いで
郡山城 広島県安芸高田市吉田町吉田 日本100名城 No.72 安芸の国の戦国大名・毛利氏が拠点とした、吉田盆地北の郡山に築かれた山城。1540~41年の吉田郡山城の戦いでは尼子詮久(後の尼子晴久)率いる3万の大軍を撃退する。その後、毛利元就が勢力を拡大するとともに拡張され、吉田盆地の北に位置する郡
羽田発の早朝便で、広島へ。2025年のゴールデンウィーク(GW)は広島を起点に、山陽から山陰にかけての名城を巡る。広島県東部の福山城、三原城、新高山城は以前、岡山の名城と同じタイミングで訪れていたので、今回は残る広島西部の名城2つを目指した。まずは広島駅からJR可部線とバスを乗り継いで(広島バスセン
佐土原城 続日本100名城 No.196 宮崎県宮崎市佐土原町上田島 14世紀半ば頃、伊東氏の一族田島休助により田島城として建てられる。戦国時代、本家筋の伊東氏が田島氏を滅ぼして入城する。1536年、田島城は焼失し、1543年、跡地に新しく鶴松城として建てられる。その当時の城主・伊東義祐は飫肥の島津
宮崎県日南市飫肥からの列車で12時16分、宮崎駅に到着。次の城へのアクセス方法は幾つかあったが、天気が朝の飫肥から続く比較的強い雨だったことがあって、私は大きなボストンバッグを抱えてウロウロしないで済むよう、宮崎駅のコインロッカーに荷物を預けて宮崎駅⇔城をバスで往復する方法を採った。宮崎駅西口から2
飫肥城 日本100名城 No.96 宮崎県日南市飫肥 南北朝時代に土持氏が築城したのが始まりとされる。戦国時代、島津氏と伊東氏との間で飫肥を巡り80年にわたる争奪戦が繰り広げられ、1567年、伊東義祐が一度は飫肥城を手に入れて子の伊東祐兵に飫肥の地を与えるが、1572年、伊東氏は木崎原の戦いに敗れて
夕方6時前、鹿児島・志布志から乗車したJR日南線の列車が宮崎・日南市の飫肥駅に到着。駅から歩いて街中に向かうと、川の手前で「是より飫肥城城下町」という石碑が出迎えた。そう。この街で目指す城は飫肥城(100名城 No.96)だ。ここ飫肥の地は戦国時代、島津氏と伊東氏との間で争奪戦が繰り広げられ、一時は
志布志城 続日本100名城 No.197 鹿児島県志布志市志布志町帖 鹿児島県東部の志布志湾に面した志布志の山に築かれた内城・松尾城・高城・新城の4つの城郭の総称。築城年代は不明だが、南北朝時代には内城と松尾城が存在していた。12世紀から救仁院氏、楡井氏、畠山氏、新納氏、肝付氏が入れ代わり立ち代わり
鹿児島市から次の名城がある志布志へ。同じ鹿児島県とはいえ、鹿児島は薩摩半島、志布志は大隅半島の太平洋側と結構離れている。しかもこの区間は1987年に国鉄志布志線が廃線となって以降、鉄道でアクセスしようとすると宮崎県南部の都城、宮崎、日南を経由とかなりの遠回りになってしまう。従ってバスでの移動というこ
前日に鹿児島城を滑り込みセーフで訪れてスタンプを頂き、下の城は一応巡ったが、上の城、即ち城山は訪れていない。鹿児島中央駅前の宿で一夜を明かし、この日の朝一番で巡ることにした。城山は、元は上山氏の居城であった上山城が建てられていた山だ。上山城は上山氏が島津氏に押されて退去すると廃城となるが、島津氏によ
鹿児島城 日本100名城 No.97 鹿児島県鹿児島市城山町 元は上山氏の居城であった上山城跡である、鹿児島湾と桜島を望む城山の麓に、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康の脅威に対抗する手段として、それまでの居城だった内城に代えて、1601年より島津忠恒(家久)により築城される。以後明治の廃藩置県まで、島
知覧城 続日本100名城 No.198 鹿児島県南九州市知覧町永里 平安時代末にこの地の郡司・知覧忠信が城を構えたのが始まりとされる。室町時代、足利尊氏の下文により島津忠宗の三男・佐多忠光が領主となり、伊集院氏の配下となった一時期を除き佐多氏が代々治める。標高170mのシラス台地上に築かれた広大な山
午前10時少し前、羽田からの日本航空便が鹿児島空港に到着。今回は鹿児島と宮崎の100名城・続100名城を巡る。空港から鹿児島中央駅に移動してこの日の宿に荷物を預け、バスで薩摩半島南部にある南九州市知覧へ向かう。これから向かう城へは中郡バス停で下りるのが最短だが、せっかくなので1つ手前の武家屋敷入口バ
川越城 日本100名城 No.19 埼玉県川越市郭町 室町時代、関東管領・上杉氏と古河公方の対立の中、1457年に扇谷上杉氏の上杉持朝が家宰の太田道真、太田道灌父子に築かせた城。「道灌がかり」と呼ばれる連郭式縄張りで築かれた。16世紀には後北条氏に攻められ、1537年、後北条氏に奪取される。その後は
鉢形城 日本100名城 No.18 埼玉県大里郡寄居町鉢形 荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁上の天然の要害に1476年、関東管領・山内上杉氏の家臣・長尾景春によって築かれた城。1564年、小田原の後北条氏の北条氏邦が入城。氏邦により整備拡張され、後北条氏の上野国支配の拠点となる。その強固さゆえに武田信
埼玉・嵐山町の菅谷館、杉山城を訪れた後、東武東上線で更に北上。寄居駅で下車して少し歩く。やがて大きな川に行き着く。荒川だ。南岸は切り立った断崖になっている。この断崖の上に建つのが鉢形城(100名城 No.18)だ。鉢形城は戦国時代に山内上杉氏の家臣・長尾景春によって築かれ、のちに入城した小田原の後北
杉山城 続日本100名城 No.119 埼玉県比企郡嵐山町杉山 鎌倉街道を見下ろす丘陵の尾根上に10の郭を配置して築かれた城。郭とそれに伴う堀や土塁のほか井戸跡などの遺構が残る。城主や築城年代についての記録は無く、後北条氏の時代のものと推測されてきたが、21世紀に入ってからの発掘調査により、戦国時代
菅谷館 続日本100名城 No.120 埼玉県比企郡嵐山町菅谷 比企丘陵中央の都幾川の畔に築かれた、鎌倉幕府の有力御家人・畠山重忠の館だったとされる城址。その後15世紀後半に至るまでの変遷は記録に無く、戦国時代に入り1488年、菅谷原で山内上杉家と扇谷上杉家が争い(須賀谷原合戦)、その前後に山内上杉
2024年ゴールデンウィークの前半最終日。終日自由に使えたので、日帰りで埼玉の名城を巡りに出かけた。埼玉は戦国時代に山内上杉・扇谷上杉・古河公方が三つ巴の争いを行うが、最終的には小田原の北条氏(後北条氏)が関東を平定した――という歴史背景を予め知っておくと、この後が分かり易い。東京・池袋駅から東武東
和歌山城すぐ横のホテルで一夜を明かして、早朝、和歌山城周回のジョギング。1周ちょうど2㎞あるところを2周した。追廻門、不明御門、南東から北側に延びる堀、一の橋と大手門、御橋廊下など、いろいろな角度からの和歌山城の気色を楽しみながら走る。満開ではないものの、桜もちらほら見ることができた。ランニングの後
和歌山城 日本100名城 No.62 和歌山県和歌山市一番丁 安土桃山時代、織田信長と羽柴秀吉が紀州征伐を行い、副将軍として参陣した秀吉の弟・豊臣秀長は紀州平定後に紀伊・和泉を加増され、秀吉の命により紀の川畔の「若山」と呼ばれた地(のち「和歌山」)にある虎伏山の山頂に、藤堂高虎らに普請させて1年で築
岸和田城 続日本100名城 No.161 大阪府岸和田市岸城町 南朝方の武将・楠木正成の部下である和田高家が「岸」に城を築いたのが「岸和田」の始まりとされる。15世紀後半に現在の場所から約500m南東に山城が築城され(岸和田古城)、のち現在の場所に移築される。1585年、羽柴秀吉の紀州根来寺討滅の後