能褒野神社の南西方向、バイクで10分余りの距離に忍山神社(おしやまじんじゃ)があります。駐車場には「天照大御神御鎮座跡」の碑が建っています。倭姫命(やまとひめのみこと:生没年不詳)が、天照大御神を祀るに相応しい場所を探すため、各地を巡っていた際に、当地に立
西国観音霊場、新西国霊場、薬師霊場、近畿不動尊、神仏霊場など関西の巡礼地及び洛陽観音霊場、京都十二薬師、都七福神などの京都市内の霊場を紹介します。
能褒野神社の南西方向、バイクで10分余りの距離に忍山神社(おしやまじんじゃ)があります。駐車場には「天照大御神御鎮座跡」の碑が建っています。倭姫命(やまとひめのみこと:生没年不詳)が、天照大御神を祀るに相応しい場所を探すため、各地を巡っていた際に、当地に立
加佐登神社から南西方向へ、バイクで5分余りの距離に伊勢国府政庁跡の駐車場があり、国府の説明板が建っています。(画像をクリックすると拡大図が表示されます)奈良時代(710~794)中頃から平安時代(794~1185)初めまで、伊勢国の政治の中心である国府があったことが、昭和3
加佐登神社は石薬師寺の西、バイクで約10分の距離にあり、JR関西本線の「加佐登」駅から徒歩約15分です。駐車場の脇に一の鳥居が建っています。社伝ではこの地が日本武尊(やまとたけるのみこと:82~111)の終焉の地とされ、日本武尊を祀ったのが加佐登神社の始まりとされて
石薬師寺はJR関西線「加佐登」または、「河曲」駅から徒歩約15分の距離にありますが、当日は自宅からバイクで向かいました。石薬師寺は山号を「高富山(たかとみざん)」、院号を「瑠璃光院(るりこういん)」と号する東寺真言宗の寺院で西国薬師四十九霊場の第33番札所です
北淡震災記念公園の北、バイクで5分余りの距離に貴船神社遺跡があります。古墳時代(3世紀中頃~7世紀)から奈良時代(710~794)にかけての製塩遺跡で、『日本書紀』に登場する「野嶋の海人(あま)」の活動拠点とされ、海人が生業とした土器製塩の様子がモニュメントで展示され
五斗長垣内遺跡の北、バイクで約15分の距離に野島断層保存館があります。平成7年(1995)の阪神・淡路大震災で出現した野島断層が保存・展示されている施設で、平成10年(1998)4月に開館され、入館料は730円で開館時間は9:00~17:00です。館内には長さ140mの地震断層が保存され
伊弉諾神宮から北へ進むと海岸沿いの「淡路サンセットライン」と称される県道31号線に合流します。伊弉諾神宮から約5分の距離に「緑の道しるべ郡家公園」がありました。公園の前は播磨灘で、左側に見えるのは四国と思われます。左側が四国だとすると、正面には小豆島があるは
先山千光寺の北、バイクで30分弱の距離に伊弉諾神宮があります。『古事記』・『日本書紀』には、国産み・神産みを果たされた伊弉諾命(いざなぎのみこと)が、最初に造られた淡路島多賀の地の幽宮(かくりのみや)に鎮まったとあります。幽宮に神陵が営まれ、そこに最古の神
土生港(はぶこう)から県道76号線をバイクで20分弱進んだ所に第47代・淳仁天皇(じゅんにんてんのう/在位:758~764)の淡路陵があります。淳仁天皇は、藤原仲麻呂(706~764)の推挙により、天平宝字2年(758)に第46代・孝謙天皇(在位:749~758)から譲位され、即位しました。
土生港(はぶこう)に到着し、7:00発の沼島汽船に乗船して沼島へ向かいます。往復乗船券(920円)を購入し、バイクは土生港に置いて乗船します。10分足らずで沼島港に到着しました。沼島港には厳島神社があり、弁財天が祀られ、海上安全、戦の武神、守護神として信仰されていま
南淡路市淡路人形浄瑠璃資料館と自凝島神社(おのころじまじんじゃ)
岩屋港に予定より1時間早く到着したことで、時間に余裕ができ、明日に予定していた南淡路市淡路人形浄瑠璃資料館と自凝島神社(おのころじまじんじゃ)へ向かうことにしました。諭鶴羽神社からはバイクで約30分余りを要しましたが、淡路人形浄瑠璃資料館の閉館時間には間に合
波切不動尊の岬から県道76号線を進み、県道535号線へ右折して標高607.95mの諭鶴羽山(ゆづるはやま)を登った標高500m付近に神社があります。淡路島南端部には、中央構造線系油谷断層が北北東~南南西に縦断しており、この断層隆起により諭鶴羽山脈が形成されました。灘山本
洲本城跡から南東方向、バイクで約10分の距離に由良湊神社があります。創祀された年代は不詳ですが、由良水門の守護神として古くから祀られ、延長5年(927)に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある式内社です。由良の地は、古来、紀州から紀淡海峡を渡り、淡路へ上陸した最
淡路文化史料館から三熊山ドライブウェイをバイクで10分弱の距離に洲本城跡があり、馬屋跡の駐車場に駐輪しました。グーグルマップでは「月見台跡」とも記されています。洲本城跡の縄張りは、麓の現・淡路文化史料館周辺の「下の城」を含め、東西約800m、南北約600mと広大な
伊勢久留麻神社から国道28号線を海岸線に沿って南へ進むと、約30分余りの距離に洲本市立淡路文化史料館があり、「史跡 洲本城跡」の碑が建っています。大永6年(1526)頃に背後の山頂に洲本城が築城されましたが、羽柴秀吉(1537~1598)の淡路攻めにより落城しました。天正13年(
岩屋港から国道28号線を南へ進んだ先、バイクで約15分の距離に伊勢久留麻神社があります。社伝では第30代・敏達天皇(びだつてんのう/在位:572~585)の御代に伊勢国奄藝郡の久留眞神社を勧請し、創祀されたとありますが、その根拠は定かではないとされています。現在の三重
自宅を5:00に発ち、8時前に淡路ジェノバラインの明石港に到着しました。8;00に小型船の「ジェノバⅠ」が出港しますが、こちらにはバイクが載せられないので、8:30発の「まりんあわじ」まで待ちます。8:10頃に「まりんあわじ」が入港してきました。平成27年(2015)に竣工した、
太陽公園から神姫バスに乗車し、終点の姫路駅北口の一つ手前のバス停で下車し、姫路城へ向かいました。大手前通を進むと貞享4年(1687)在銘の姫路城の旧鯱に倣って造られたものです。現在の姫路城の天守の鯱は、昭和34年(1959)からの昭和の大修理で、新しく製作された鯱と取り
散策路の池まで戻り、池を渡ると石貨神殿があります。ミクロネシア・ヤップ島で使用されていた石の貨幣が並べられています。しかし、現在では閉鎖されていました。中央に如来、その周囲を多くの仏像が取り囲む像があります。このような像の形式は初めて目にしました。鶏足寺
散策路を進むと、左側に兵馬俑坑の建物があります。「兵馬俑(へいばよう)」の「俑」とは、古代中国で死者を埋葬する際に、殉死者の代わりに副葬された人形のことで、秦の始皇帝(B.C.259~B.C.210)が死後の世界でも皇帝として君臨し続けるための「副葬用の軍隊」として造ら
「カバーのアーチ」マヤ文明は紀元前3世紀から16世紀にかけてメキシコ南東部のマヤ地域を中心に栄えた文明で、後古典期(1200~1697)に入ると、このようなアーチ型の遺跡が、メキシコのカバー地方で多く造られました。「カバー」は「強い手」を意味し、先古典期中期の後期(紀
太陽公園-2(石のエリア-その1・オルメカ文明~インカ文明)
「城のエリア」から北東方向へ、徒歩2~3分の距離に「石のエリア」があり、入口に中国・吉林省で造られた狛犬が安置されています。今から約200年前に吉林省の豪族より造立され、約100年後に豪族の子孫がアメリカへ移住した際、共に海を渡り、邸宅を守護していましたが、その1
JR姫路駅北口から10:15発神姫バスの43号系統「緑台」行に乗車し、約30分で「太陽公園北」のバス停に到着しました。太陽公園には「石のエリア」と「城のエリア」があって、バス停から「石のエリア」までは徒歩約10分ですが、更に5分ほど歩いた先に「城のエリア」があります。
大津曳山展示館から東へ、中央大通りを横断して次の四つ角を右折した先、徒歩約10分の距離に天孫神社があります。社伝では、延暦年間(782~806)に伊勢屋町北方の地(現・大津市中庄)で創建されたと伝えられています。大津祭の本祭では、この神社の南側に曳山が集合し、鬮(
京阪電車の浜大津駅から南へ、徒歩約10分の距離に大津宿本陣跡があります。宿場におかれた大名などの宿泊施設で、大津宿には二軒の本陣があり、この地はそのうちの大塚嘉右衛門宅でした。この八丁筋には旅籠などが多数軒を連ね、一軒の脇本陣もありました。大津は北国街道と
義仲寺の北東方向、徒歩10分余りの距離に大津市遊びの森SL公園があります。かって、この地には科学館があって、その敷地にC57-128号機が展示されていました。科学館が生涯学習センターへ移転したのを機に、平成3年(1991)にC57-128号機が残され、大津市遊びの森SL公園となりま
桃源寺から旧東海道を北西方向に、徒歩約10分の距離に義仲寺があります。山号を「朝日山」と号する天台宗系単立の寺院で、境内は国の史跡に指定されています。山門の手前右側に巴地蔵堂があります。源義仲 (みなもと の よしなか:1154~1184)の愛妾(あいしょう)だった巴
石坐神社の西、直ぐの所に桃源寺があります。山号を「吉田山」と号する臨済宗永源寺派の寺院で、元禄13年(1700)に創建され、当初は「浄居寺」と称されていました。山門を入ると左側に「東都醫官吉田桃源院法印永代常攝待(じょうしょうたい)」と刻まれた碑が建っています。
石坐神社(いわいじんじゃ)も旧東海道に面していますが、旧東海道は響忍寺(こうにんじ)から北上した先で左折し、大きくカーブするように進んだ先、響忍寺から徒歩約5分の距離にあります。石坐神社が創祀された年代は不明ですが、彦坐王(ひこいますおう)の第四世に当る治
和田神社から旧東海道を北西方向へ、徒歩で5分弱の距離に響忍寺(こうにんじ)があります。山号を「春台山(しゅんだいさん)」と号する浄土真宗大谷派の寺院で、元和年間(1615~1623)に僧・釋宗慶(しゃく そうけい)により開基されました。膳所城周辺で創建されましたが火
縁心寺から旧東海道を北へ、徒歩約2分の距離に和田神社があります。社伝では白鳳時代(645~710)の創祀とされ、この地の湖岸が「和田浜」と呼ばれていたことが社名の由来となりました。表門は文化5年(1808)に創建された膳所藩の藩校である遵義堂(じゅんぎどう)の門を移築した
膳所城跡公園から膳所神社まで戻り、神社前の四つ角を右折、更に次の丁字路を左折した先の北側に禾津頓宮跡(あわづとんぐうあと)がありますが、グーグルマップでは滋賀県立膳所高等学校の敷地内を示しているため、それらしき場所を校門の外から撮影しました。平成14年(2002
膳所神社の東、徒歩約5分の距離に膳所城跡公園がありますが、その手前の大津市生涯学習センターの建物は膳所城を意識したもののように思えます。膳所城跡公園の入口には勢多口総門を忠実に再現した模擬門が建てられています。門の手前の左右には当時の堀と思われる遺構が残さ
JR「膳所(ぜぜ)」駅の南出口を出て、国道1号線へ左折した直ぐ先に龍ヶ丘俳人墓地があります。墓地内には「丈艸佛幻庵址」の碑が建っています。内藤丈艸(ないとう じょうそう:1662~1704)は、奥の細道の旅から帰った松尾芭蕉(1644~1694)に出逢い、元禄6年(1693)に義仲寺
草津宿から南西方向へ、バイクで約15分の距離、矢橋通に面して鞭崎神社(むちざきじんじゃ)の鳥居が建っています。矢橋通は東海道の脇道で、500m程西へ進むと矢橋の渡し場があり、大津へ航路で時間を短縮出来ました。鞭崎神社の鳥居には旧社名の「鞭嵜八幡宮」の神額が掲げ
立木神社から旧東海道を北東方向へ進むと太田酒造の道灌蔵があり、二階が太田道灌(おおた どうかん:1432~1486)の資料館で自由に見学ができます。道灌は、現在の皇居である江戸城の前身を築城し、日枝神社(ひえじんじゃ)や平河天満宮など今に残る多くの神社を江戸城周辺
北東方向へ、バイクで約15分の距離に「野路の玉川古跡」がありますが、本来は南の旧東海道沿いにあったそうです。「玉川」は、聖徳太子(574~622)が仏法興隆のため、当地へ訪れ、馬に水を飲ませるために笏(しゃく)で萩原を穿つと清水が湧き出て玉川となったとの伝承が残さ
萱野神社から北東方向へ、バイクで10分弱の距離に治田神社(はるたじんじゃ)があります。鳥居をくぐると左側に鶏と猿の像が奉納され、その背後に高さが低い鳥居があります。以前の鳥居でしたが、現在の鳥居が寄進されたことにより、元の形を縮小して保存されています。右側
近江国庁跡から北東方向へ、JR瀬田駅の北側、バイクで約10分の距離に萱野神社(かやのじんじゃ)がありますが、当日は樹木の剪定工事中でした。彦坐王(ひこいますおう)の第四世に当る治田連(はるたのむらじ)が、淡海の国造としてこの地に居住して栗太地域を開拓し、雄略
保良宮址から瀬田川を渡った東側に瀬田廃寺跡があり、背後に見える壁は名神高速道路のものです。近江国庁の南、野郷原(のごはら)にあり、昭和34年(1959)の名神高速道路建設に伴う発掘調査で、南から門、塔、金堂、講堂が一直線に配された状態で見つかり、他に西僧房、西回
近津尾神社(ちかつおじんじゃ)は京阪石山寺駅から西へ、徒歩約30分の距離にありますが、当日は裏参道(車道)をバイクで向かいました。近津尾神社が国分山東側の中腹にあり、表参道には一の鳥居が建っています。一の鳥居の先に「太子堂」への案内板があり、そちらの方へ右
転法輪寺から北へ、バイクで約10分の山中に大澤寺があります。正式には「神福山 青竜院 瀬之堂 大澤寺」と号する高野山真言宗の寺院で、白鳳時代(645~710)に役行者(634~701)により開基されたと伝わり、令和2年(2020)には日本遺産「葛城修験」の構成資産になりました。駐
生蓮寺から南西方向、バイクで5分足らずの距離に転法輪寺があります。山号を「犬飼山」と号する高野山真言宗の寺院で、大和新西国八十八ヵ所霊場の第65番札所です。山門は鐘楼門で、鐘を自由に撞くことができます。山門を入ると左側に地蔵堂があります。昭和39年(1964)に開眼
史跡公園の南、バイクで5分弱の距離に新町松倉公園があり、公園内に松倉豊後守重政之碑が建っています。松倉家は代々、郡山筒井家の家老の家柄でしたが、筒井順慶(1549~1584)没後、養子の筒井定次(1562~1615)が伊賀に転封されました。松倉重政(1574?~1630)は大和に残り豊
榮山寺から西へバイクで10分弱の距離に櫻井寺があります。山号を「潤生山(じゅんせいざん)」と号する浄土宗の寺院で、天暦年間(947~957)に桜井康成により創建されたと伝わります。桜井康成は当地の城主でしたが、天慶5年(942)に身内間の所領争いで誤って母親を討ってしま
榮山寺は御霊神社本宮から北東方向へ、バイクで10分弱の距離にありますが、御霊神社本宮で日没近くになったため、日を改めて榮山寺から参拝しました。榮山寺は山号を「學晶山」と号する真言宗豊山派の寺院で、養老3年(719)に藤原不比等(659~720の長男・藤原武智麻呂(ふじわ
賀名生歴史民俗資料館から北西方向へ、バイクで約10分の距離に第49代・光仁天皇(在位:770~781)の皇后・井上内親王(いかみないしんのう:717~775)の宇智陵があります。井上内親王は、第45代・聖武天皇(在位:724~749)の第1皇女で、養老5年(721)、5歳の時に伊勢神宮の斎
天辻維新歴史公園から国道168号線まで戻り、バイクで約15分北上した所に常覚寺があります。山号を「壽命山」と号する高野山真言宗の寺院で大和新四国霊場の第38番札所です。山門前には「皇位は永遠である」との意味の「寶祥無窮(ほうそむきゅう)」と刻まれた碑が建ち、南朝
本来ならば、熊野本宮大社からの帰りに立ち寄るはずでしたが、当日が降雨のため、日を改めて谷瀬の吊橋から再スタートしました。国道168号線を五條市から熊野本宮大社の方へ向かってバイクで走り、谷瀬つり橋キャンプ場の方へ下って、谷瀬橋を渡りました。橋を渡って南へ進ん
古座川町の少女峰・滝の拝、カモシカ洞門・髑髏岩(どくろいわ)
九龍島が見える場所から国道42号線を進み、その先で県道38号線へと左折して古座川町へ入ります。県道38号線から県道228号線を進んだ先の川向いに標高約150mの少女峰(しょうじょほう)が見えます。以前の古座川町の記事で紹介した民話を再掲します。『当地、月野瀬には「おふ
橋杭岩はJR「串本」駅から北東方向へ、バイクで約5分の距離にあります。道の駅「くしもと橋杭岩」にバイクを置き、橋杭岩へ向かうと、手前には数多くの大小の岩が見られました。これらは宝永4年(1707)10月4日に発生した宝永地震の津波で運ばれたものと推定されています。宝永
三段壁の駐車場から南東方向へ、バイクで30分弱の距離に志原海岸があります。吉野熊野国立公園内にあって南紀熊野ジオパークのジオサイトにもなっています。志原海岸は、波に削られた平らな海岸で約1800~1500万年前の浅い海の底にたまった砂岩や泥岩のきれいな模様が見られ
救馬渓観音から南西方向へバイクで30分足らずの海に円月島があります。正式には「高嶋」と称される南北約130m、東西約35m、高さ25mの小島で、島の中央に円月形の穴があることから「円月島」とも呼ばれています。小石が集まって固まった礫岩ででき、穴は波の浸食によるもので
本堂から下り、中門を出て南へ下ると薬師如来が祀られ、そこから湧き出る水は「霊験薬師水」と称されています。寺伝では、救馬渓観音は小栗判官こと小栗助重により中興されたと伝えられています。小栗判官は各地に様々な伝説が残る人物で、救馬渓観音には下記のように伝承さ
奇絶峡から南へ、バイクで20分足らずの距離に救馬渓観音(すくまだにかんのん)の東参道第一駐車場があり、駐車場には照子姫が祀られています。照子姫は、救馬渓観音の中興の祖とされる小栗判官こと小栗小次郎助重の妻で、当寺の「霊験薬師水」で小栗判官の愛馬が救われ、判官
高野山・中の橋駐車場から国道371号線(高野龍神スカイライン)を南へ、バイクで40分足らずの距離に道の駅「ごまさんスカイタワー」があります。駐車場から、ごまさんスカイタワーの背後に見える、標高1,372mの護摩壇山は、かっては和歌山県下の最高峰とされていましたが、平
中の橋駐車場から西へ、バイクで5分足らずの距離に密巌院があり、「苅萱堂本坊」と記されています。密巌院は、長承元年(1132)に覚鑁上人(かくばんしょうにん:1095~1144)により創建されました。長承3年(1134)に金剛峯寺座主となった覚鑁上人は、当時堕落していた高野山の
一の橋の右側に「あゝ同期の桜供養塔」があります。その付近に「海軍第十四期飛行専修予備学生戦没者慰霊塔」があって、慰霊塔には下記のように記されています。『第二次世界大戦の戦局不利となり国家存亡の秋を迎え、大学・高等専門学校の文科系に在学する学生全員が徴兵さ
水野家墓所から参道へ戻り、南へ進むと小田原北条家墓所への登り口があります。それを登ると手前に加賀・前田利治の墓所があります。前田利治(1618~1660)は、加賀藩第3代藩主・前田利常(1594~1658)の三男で、寛永16年(1639)に利常が隠居する際に江沼郡を中心に7万石が分封
大師の腰かけ石から北へ登ると、上杉謙信廟があります。江戸時代前期の建立と推定され、「上杉謙信霊屋(たまや)」という名称で国の重要文化財に指定され、昭和41年(1966)に解体修理が行われて銅板葺きから檜皮葺へ復旧されました。上杉謙信(1530~1578)は、享禄3年(1530)に
明智光秀墓所は、参道に面して南側にあり、その前には「国家安全」と刻まれた碑が建っています。明智光秀(1516~1582)は、美濃国の土岐氏流明智氏の支流の出身で、明智城で生まれ、30年間をここで過ごしたとされています。弘治2年(1556)に叔父の明智光安(1500~1556)が城主だ
覚鑁坂(かくばんざか)を下る手前、左側の石段をを少し登ると密巌堂(みつごんどう)があります。密巌堂には覚鑁上人(1095~1144)が祀られ、坂の名の由来にもなっています。覚鑁上人は16歳で出家し、20歳で東大寺戒壇院で受戒して名を「覚鑁」と改めました。その後、高野山
備後福山・水野家墓所には、初代藩主・水野勝成とその側室・香源院が祀られています。水野勝成(1564~1651)の父は、徳川二十将の一人で、家康の叔父にあたる水野忠重(1541~1600)で、当初、親子は豊臣秀吉(1537~1598)に仕えていましたが、慶長3年(1598)に秀吉が没すると、豊
松平秀康及び同母霊屋から参道を南へ下った右側に法然上人墓所があります。浄土宗を開宗した法然上人(1133~1212)は、 建暦2年(1212)1月25日に現在の知恩院勢至堂付近にて80歳で亡くなられ、知恩院の法然廟に葬られました。しかし、念仏の教えが広まるにつれ、それを快く思わ
御廟橋から西へ入ると織田信長(1534~1582)の墓があります。天正10年(1582)の本能寺の変で、信長は寺に火を放ち自刃して果てましたが、遺骸は特定が不能となり、信長の三男・信孝(のぶたか/のぶのり:1558~1583)は、燼骨の収集を進め、本能寺の変から一か月後の7月3日に信
中の橋駐車場内のバイク駐輪場から参道を北へ進むと「みがわりはし」があります。奥之院の聖域へ入る橋で、身代大師のように、この橋を渡れば厄災から免れるのかもしれません。橋を渡り弘法大師御廟への参道に合流した先に与謝野晶子(1878~1942)の歌碑が建っています。「や
前回、高野山を参拝してから6年が経過してしまいました。当日、時間切れとなって奥之院への参拝ができなかったのですが、ようやく実現することができました。自宅からバイクで国道170号線から国道371号線へ入った先の国道脇に「織田秀信終焉の地」が建っています。それを登る
日本庭園を出た正面に「平和のバラ園」があります。12月に入ってもまだ、バラの花が残されていました。石段を上ると「月の世界」と名付けられたイサム・ノグチ(1904~1988)氏の作品が残されています。万博開催当時は「天の池」の中にあり、噴水の一部となっていました。バラ
摂津峡公園から万博記念公園までは少し距離がありますので、当日は京阪の「門真市」駅から大阪モノレールに乗り換えて向かいました。阪急ならば「南茨木」駅で乗り換えできます。駅前の像は、「サン・チャイルド」と名付けられ、東日本大震災と原発事故からの復興と再生への
芥川山城跡の上の口側入口から南西へ、バイクで直ぐの距離に慶住院があります。山号を「経王山」と号する日蓮宗の寺院で、淀川左岸に位置する南浜村(現・大阪市北区豊宮町)で創建されました。本堂慶住院に安置されている鬼子母神像は子宝・安産・夫婦和合・子どもの守護神
神服神社から北へ、バイクで5分余りの距離に原八景「河原の夕照(かわらのせきしょう)」があります。原八景は、中国の景勝地を詠んだ「瀟湘八景(しょうしょう はっけい)」にならって、明治時代(1868~1912)に神峯山寺の僧・近藤大道によって選ばれました。「河原の夕照」
霊山寺から南東方向へ、バイクで10分弱の距離に神服神社があります。正式には「かむはとりじんじゃ」で、現在では「しんぷくじんじゃ」とも呼ばれています。神服神社が創祀された年代は不詳ですが、服部連(はとりのむらじ)が「服部神」と呼ばれる祖神を祀ったのが始まりとさ
七寳寺から南東方向へ、バイクで30分余りの距離に安威川(あいがわ)ダムがあり、その手前のダム湖に歩行者専用として日本最長420mの吊橋が架けられ、「GODA BRIDGE(ゴウダブリッジ)」と名付けられています。令和7年(2025)3月17日に開業し、橋上からダム湖への「ブリッジバ
祖師堂から東へ進んだ先に大黒堂があり、その前に七福神の大黒天と布袋尊が祀られています。右側には水不動明王が祀られています。また、薬慈観音を中心に七福神の五尊が祀られています。薬慈観音は、病気平癒にご利益がある観音菩薩とされ、この像は六臂(ろっぴ)の像で、
長尾護国寺から南西方向へ、バイクで約15分の距離に大原観音寺の駐車場があります。駐車場の手前にある惣門は一間一戸の薬医門で、18世紀中頃の建立と考えられ、国の重要文化財に指定されています。大原観音寺は正確には「伊富貴山観音護国寺」と号し、仁寿年間(851~854)に
歌垣神社の横を北へ登ると左側に七寳寺の寺号標と観音菩薩像が造立されています。七寶(宝)寺は山号を「釈迦ケ嶽七面山」と号する日蓮宗の寺院で、元は真言宗「龍泉寺(現在の涌泉寺)」の行場でした。明暦元年(1655)に能勢頼春(生没年不詳)が歌垣神社の岩神の旧址(きゅうし
清普寺の北、バイクで10分足らずの距離に涌泉寺の駐車場があり、その東端に日蓮聖人(1222~1282)の像が祀られています。西端には「契り塚」とその背後に「清流龍神」が祀られています。「契り塚」には「清流龍神」の王子とその妃が祀られています。「契り塚」には「妙法石」
真如寺から西へ下り、国道477号線を横断した先に清普寺(せいふじ)があり、その北東側に丸山城跡があります。また、国道に面して丸山城跡の碑が建っています。長元年間(1028~1036)にこの地へ入部した源頼国(?~1058?)が丸山城を築き、「能勢氏」と名乗って代々の居城とし
野間神社の北東、バイクで3分の距離に地黄陣屋跡(じおうじんやあと)があります。豊臣秀吉(1537~1598)の没後、能勢頼次(1562~1626)は徳川家康(1543~1616)に仕えるようになり、慶長5年(1600)9月15日の関ケ原の戦いで軍功を上げたことから、旧領の他、数十か所の村からなる
元妙見から西の国道477号線を北上した先の西側に野間の大けやきがあります。樹高27.37m、幹周り13.01m、樹齢千年以上と伝わり、けやきとして大阪府下で1番、全国的にも4番目の巨樹で、国の天然記念物に指定されています。また、里人らは春先に出る新芽の出具合によって、その
能勢妙見山から本瀧寺の方へ下ると、途中に妙見山しおき場があります。拝殿のようにも見える建物の奥の左右に「南無妙法蓮華経法界」と刻まれた石碑が建っています。「法界」とは日蓮宗の布教地であることを示し、「しおき」には処罰の他に取り仕切るとの意味があり、妙見山
茨木市から府道109号線で能勢妙見山へ向かうと、入口に鳥居が建ち、「妙見山」の扁額が掲げられています。鳥居をくぐり、進んだ先は駐車場で、ゲートのある入口から先に二輪車の専用入口があります。駐車場から右へ進むと参道の石段があります。能勢妙見山は、これから下山し
大観望の駐車場から10分足らずで寒霞渓(かんかけい)の駐車場に到着しましたが、ここには屋根付きの二輪専用の駐車スペースがあります。大正12年(1923)に「神懸山(かんかけやま)」として国の名勝に指定され、昭和9年(1934)には、日本初の国立公園として指定された瀬戸内海
オリーブ公園から西へ、バイクで約15分の距離に土渕(どふち)海峡があります。全長約2.5kmで、最狭部9.93m、最大幅は約400m、小豆島本島部(渕崎地区)と前島(土庄地区)を隔てる世界で一番狭い海峡で、ギネス世界記録に認定されています。その南側に迷路の町があります。
鬼ヶ崎から西へ、バイクで約2分の距離に道の駅・オリーブ公園があります。園内図です。(画像をクリックすると拡大図が表示されます)イベント広場から田浦半島を望みました。こちらのオリーブビーチから二十四の瞳映画村へ渡し船が出ています。広場にはオリーブ色に塗られた
二十四の瞳映画村から来た道を戻ると、正面に岩山が見えてきます。他にも小豆島には岩山が多く、江戸時代(1603~1868)には第2代将軍・徳川秀忠(在職:1605~1623)による大坂城築城の際に小豆島から多くの石が切り出されました。何故小豆島に岩山が多いのか?考えてみました。
二十四の瞳館映画村は、昭和62年(1987)に『二十四の瞳』が田中裕子主演により映画化され、その際使用された大正から昭和初期の民家、男先生の家、漁師の家、茶屋、土産物屋など14棟のオープンセットが、映画村として公開されています。映画村の受付を入ると、左側の浪漫屋は
小豆島の坂手港(さかてこう)の北、バイクで約2分の距離に坂手加茂明神神社があります。創祀された年代等は不詳ですが、上賀茂神社から勧請されたと推測され、賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)が祀られています。社叢(しゃそう)はシンバクの巨樹に囲まれ、小豆島町の
自宅を5時に出て、予定より1時間も早く神戸港のジャンボフェリー乗り場に到着しました。乗船する「あおい」は既に着岸しています。令和4年(2022)10月22日に就航し、碧い海・蒼い空・青い風といった瀬戸内の色彩をイメージして名付けられました。全長約132m、最大幅21m、旅客
大悲山峰定寺から府道38号線(鞍馬街道)まで戻り、北上して能見川の合流点から右折して能見川沿いに北上した先に金刀比羅神社があります。創祀された年代は不明で、農業・殖産・医薬・海上守護の神とされる大物主命が祀られていますが、背後の大きな岩を御神体とした磐座信
山国神社から「塔」の信号まで戻り、左折して北上した先で国道162号線に合流します。国道を北上し、由良川に架かる橋を渡った先で右折し、北東方向へ進んだ先に美山かやぶきの里があります。山国神社からはバイクで30分余りの距離で、所在地は京都府南丹市美山町北ですが、カ
山国護国神社の南、バイクで5分足らずの距離に山国神社への参道があります。山国神社の創祀は宝亀年間(770~781)とされ、延暦13年(794)に平安京へ遷都された際、大内裏造営の木材を山国郷から供出されたことから、この郷は御杣料地(みそまりょうち)と定められ、大工寮修理
常照皇寺から南西方向へ、バイクで約7分の距離に山国護国神社があり、鳥居の脇に「官祭山国隊招魂社」の碑が建っています。山国郷は延暦13年(794)の平安京遷都の際し、その造営の木材を供給したことから以来、大嘗祭(だいじようさい)の悠紀主基(ゆきすき)の御殿造営の用
八光洞から西へバイクで10分足らずの距離に常照皇寺があり、その手前には「丸山しだれ桜」が植栽されています。「丸山」は当地の地名「右京区京北井戸町丸山」によるものと思われ、京都市内で桜が散った頃、当地は桜の見頃となります。北へ進むと正面に参道の石段があり、そ
貴船神社の奥宮から北へ、標高680mの芹生峠を越えた先、奥宮からバイクで10分足らずの距離に「芹生の里」の碑が建っています。芹生の里は、上桂川支流・灰屋川(はいやがわ)の上流にあって、灰屋川に芹(せり)が自生していたことが地名の由来とされています。かっては、林
杉坂の船水の先を左折して北へ進むと「古道 若狭街道」と記されています。若狭街道は朽木を経由するものなど幾筋かのルートがあります。その直ぐ先に「氷室分れ」の標識があり、左折して北への坂道を登り、その先で下りとなって、標識からバイクで5分余りの距離に氷室神社が
北山台杉の畑の先で鷹峯街道は、直進する府道107号線と分かれ、右折して南下し、その先に地蔵院があります。山号を「桃源山」と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院ですが、創建に関する詳細は不明で、平安時代(794~1185)には真言宗の寺院であったと伝わります。明治20年(1887)
国道162号線を北上して、バイクで中川へ向かいました。平成10年(1998)に延長1,582mの中川トンネルが竣工し、現在での国道は集落を迂回しているため、集落内は閑散としています。日本人初のノーベル文学受賞者・川端康成(1899~1972)の小説『古都』の舞台となった所でもありま
東雲寺から東へ、バイクで20分余りの距離に四所神社(ししょじんじゃ)があります。所在地は京都市右京区ですが、カテゴリーは「京都府亀岡市~福知山市・綾部市」に含めます。天文21年(1552)に愛宕山白雲寺福寿院の幸海(こうかい)僧正が、清滝四所明神を原村の「かぶとの
清源寺の南西方向、バイクで約5分の距離に巴塚があります。源義仲 (みなもと の よしなか:1154~1184)の愛妾(あいしょう)・巴御前(ともえごぜん:生没年不詳)を祀る供養塔があります。寿永2年(1183)5月11日の倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)で大勝し、
能褒野神社の南西方向、バイクで10分余りの距離に忍山神社(おしやまじんじゃ)があります。駐車場には「天照大御神御鎮座跡」の碑が建っています。倭姫命(やまとひめのみこと:生没年不詳)が、天照大御神を祀るに相応しい場所を探すため、各地を巡っていた際に、当地に立
加佐登神社から南西方向へ、バイクで5分余りの距離に伊勢国府政庁跡の駐車場があり、国府の説明板が建っています。(画像をクリックすると拡大図が表示されます)奈良時代(710~794)中頃から平安時代(794~1185)初めまで、伊勢国の政治の中心である国府があったことが、昭和3
加佐登神社は石薬師寺の西、バイクで約10分の距離にあり、JR関西本線の「加佐登」駅から徒歩約15分です。駐車場の脇に一の鳥居が建っています。社伝ではこの地が日本武尊(やまとたけるのみこと:82~111)の終焉の地とされ、日本武尊を祀ったのが加佐登神社の始まりとされて
石薬師寺はJR関西線「加佐登」または、「河曲」駅から徒歩約15分の距離にありますが、当日は自宅からバイクで向かいました。石薬師寺は山号を「高富山(たかとみざん)」、院号を「瑠璃光院(るりこういん)」と号する東寺真言宗の寺院で西国薬師四十九霊場の第33番札所です
北淡震災記念公園の北、バイクで5分余りの距離に貴船神社遺跡があります。古墳時代(3世紀中頃~7世紀)から奈良時代(710~794)にかけての製塩遺跡で、『日本書紀』に登場する「野嶋の海人(あま)」の活動拠点とされ、海人が生業とした土器製塩の様子がモニュメントで展示され
五斗長垣内遺跡の北、バイクで約15分の距離に野島断層保存館があります。平成7年(1995)の阪神・淡路大震災で出現した野島断層が保存・展示されている施設で、平成10年(1998)4月に開館され、入館料は730円で開館時間は9:00~17:00です。館内には長さ140mの地震断層が保存され
伊弉諾神宮から北へ進むと海岸沿いの「淡路サンセットライン」と称される県道31号線に合流します。伊弉諾神宮から約5分の距離に「緑の道しるべ郡家公園」がありました。公園の前は播磨灘で、左側に見えるのは四国と思われます。左側が四国だとすると、正面には小豆島があるは
先山千光寺の北、バイクで30分弱の距離に伊弉諾神宮があります。『古事記』・『日本書紀』には、国産み・神産みを果たされた伊弉諾命(いざなぎのみこと)が、最初に造られた淡路島多賀の地の幽宮(かくりのみや)に鎮まったとあります。幽宮に神陵が営まれ、そこに最古の神
土生港(はぶこう)から県道76号線をバイクで20分弱進んだ所に第47代・淳仁天皇(じゅんにんてんのう/在位:758~764)の淡路陵があります。淳仁天皇は、藤原仲麻呂(706~764)の推挙により、天平宝字2年(758)に第46代・孝謙天皇(在位:749~758)から譲位され、即位しました。
土生港(はぶこう)に到着し、7:00発の沼島汽船に乗船して沼島へ向かいます。往復乗船券(920円)を購入し、バイクは土生港に置いて乗船します。10分足らずで沼島港に到着しました。沼島港には厳島神社があり、弁財天が祀られ、海上安全、戦の武神、守護神として信仰されていま
岩屋港に予定より1時間早く到着したことで、時間に余裕ができ、明日に予定していた南淡路市淡路人形浄瑠璃資料館と自凝島神社(おのころじまじんじゃ)へ向かうことにしました。諭鶴羽神社からはバイクで約30分余りを要しましたが、淡路人形浄瑠璃資料館の閉館時間には間に合
波切不動尊の岬から県道76号線を進み、県道535号線へ右折して標高607.95mの諭鶴羽山(ゆづるはやま)を登った標高500m付近に神社があります。淡路島南端部には、中央構造線系油谷断層が北北東~南南西に縦断しており、この断層隆起により諭鶴羽山脈が形成されました。灘山本
洲本城跡から南東方向、バイクで約10分の距離に由良湊神社があります。創祀された年代は不詳ですが、由良水門の守護神として古くから祀られ、延長5年(927)に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある式内社です。由良の地は、古来、紀州から紀淡海峡を渡り、淡路へ上陸した最
淡路文化史料館から三熊山ドライブウェイをバイクで10分弱の距離に洲本城跡があり、馬屋跡の駐車場に駐輪しました。グーグルマップでは「月見台跡」とも記されています。洲本城跡の縄張りは、麓の現・淡路文化史料館周辺の「下の城」を含め、東西約800m、南北約600mと広大な
伊勢久留麻神社から国道28号線を海岸線に沿って南へ進むと、約30分余りの距離に洲本市立淡路文化史料館があり、「史跡 洲本城跡」の碑が建っています。大永6年(1526)頃に背後の山頂に洲本城が築城されましたが、羽柴秀吉(1537~1598)の淡路攻めにより落城しました。天正13年(
岩屋港から国道28号線を南へ進んだ先、バイクで約15分の距離に伊勢久留麻神社があります。社伝では第30代・敏達天皇(びだつてんのう/在位:572~585)の御代に伊勢国奄藝郡の久留眞神社を勧請し、創祀されたとありますが、その根拠は定かではないとされています。現在の三重
自宅を5:00に発ち、8時前に淡路ジェノバラインの明石港に到着しました。8;00に小型船の「ジェノバⅠ」が出港しますが、こちらにはバイクが載せられないので、8:30発の「まりんあわじ」まで待ちます。8:10頃に「まりんあわじ」が入港してきました。平成27年(2015)に竣工した、
太陽公園から神姫バスに乗車し、終点の姫路駅北口の一つ手前のバス停で下車し、姫路城へ向かいました。大手前通を進むと貞享4年(1687)在銘の姫路城の旧鯱に倣って造られたものです。現在の姫路城の天守の鯱は、昭和34年(1959)からの昭和の大修理で、新しく製作された鯱と取り
散策路の池まで戻り、池を渡ると石貨神殿があります。ミクロネシア・ヤップ島で使用されていた石の貨幣が並べられています。しかし、現在では閉鎖されていました。中央に如来、その周囲を多くの仏像が取り囲む像があります。このような像の形式は初めて目にしました。鶏足寺
散策路を進むと、左側に兵馬俑坑の建物があります。「兵馬俑(へいばよう)」の「俑」とは、古代中国で死者を埋葬する際に、殉死者の代わりに副葬された人形のことで、秦の始皇帝(B.C.259~B.C.210)が死後の世界でも皇帝として君臨し続けるための「副葬用の軍隊」として造ら
貴船神社の奥宮から北へ、標高680mの芹生峠を越えた先、奥宮からバイクで10分足らずの距離に「芹生の里」の碑が建っています。芹生の里は、上桂川支流・灰屋川(はいやがわ)の上流にあって、灰屋川に芹(せり)が自生していたことが地名の由来とされています。かっては、林
杉坂の船水の先を左折して北へ進むと「古道 若狭街道」と記されています。若狭街道は朽木を経由するものなど幾筋かのルートがあります。その直ぐ先に「氷室分れ」の標識があり、左折して北への坂道を登り、その先で下りとなって、標識からバイクで5分余りの距離に氷室神社が
北山台杉の畑の先で鷹峯街道は、直進する府道107号線と分かれ、右折して南下し、その先に地蔵院があります。山号を「桃源山」と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院ですが、創建に関する詳細は不明で、平安時代(794~1185)には真言宗の寺院であったと伝わります。明治20年(1887)
国道162号線を北上して、バイクで中川へ向かいました。平成10年(1998)に延長1,582mの中川トンネルが竣工し、現在での国道は集落を迂回しているため、集落内は閑散としています。日本人初のノーベル文学受賞者・川端康成(1899~1972)の小説『古都』の舞台となった所でもありま
東雲寺から東へ、バイクで20分余りの距離に四所神社(ししょじんじゃ)があります。所在地は京都市右京区ですが、カテゴリーは「京都府亀岡市~福知山市・綾部市」に含めます。天文21年(1552)に愛宕山白雲寺福寿院の幸海(こうかい)僧正が、清滝四所明神を原村の「かぶとの
清源寺の南西方向、バイクで約5分の距離に巴塚があります。源義仲 (みなもと の よしなか:1154~1184)の愛妾(あいしょう)・巴御前(ともえごぜん:生没年不詳)を祀る供養塔があります。寿永2年(1183)5月11日の倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)で大勝し、
京都帝釈天の駐車場から南へ、バイクで5分足らずの距離に文覚池があります。神護寺中興の祖である文覚上人(もんがくしょうにん:1139~1203)が治承年間(1177~1181)に当地へ訪れ、この地を適地と村人を指導し、村人が掘削した溜池で、周囲850m、面積4.22haの大きさです。当
京都帝釈天の駐車場から南西方向へ、バイクで5分余りの距離に西光寺があります。山号を「飯森山」と号する真言宗の寺院で、山門は龍宮造の鐘楼門です。勝宝8年(756)に良弁大僧正(ろうべん/りょうべんだいそうじょう:689~774)により創建されたと伝えられています。その後、
日吉ダムの南、バイクで約10分の距離に福寿寺の駐車場があり、その先から帝釈天参道の登りとなります。参道には「願いの鐘」が設置されています。本堂石段下までの約700mに108の鐘が設置され、願いを込めて左手で叩いていけば、帝釈天に届くと記されています。また、「庚申塔
生身天満宮から北東方向へ、バイクで約15分の距離に日吉ダムがあり、ダムの手前の橋を渡り、上桂川の北側の道路を川に沿って登ればダム管理所前の駐車場へと続きますが、こちらは上桂川の南側の道路からの画像です。こちらは管理所側で、石垣に見える目印は平成25年(2013)9月
九品寺の東、バイクで10分足らずの距離に「園部城址」の碑が建っています。元和5年(1619)12月に但馬国出石藩主であった小出吉親(1590~1668)が移封され、園部藩が誕生して園部陣屋が築かれました。小麦山南東の丘陵に方形居館、武家屋敷を構え、周囲には外郭線を築いた本格的
摩氣神社から北東方向へバイクで5分余りの距離に九品寺があります。参道を入ると「天宗」と刻まれ、その奥に大日堂があります。天宗は昭和29年(1954)に開かれ、真言宗の流れを汲み、大日如来を本尊としています。東京都日野市にある日仏寺聖殿が総本山とされています。堂内に
摩氣神社(まけじんじゃ)は、JR山陰本線「園部」駅の西にあって、徒歩だと2時間近くを要しますので、当日はバイクで向かいました。園部川に架かる「摩氣橋」の畔に御神燈が建ち、徒歩ならばこの橋を渡って神社へ向かうと思われますが、現在は工事中で「この先通行止」となっ
伊夫岐神社から北へ、バイクで10分足らずの距離に長尾護国寺があります。本坊・惣持寺の近くとその下にも駐車場があり、下の方の駐車場にバイクを置きました。本坊への登り口に「長尾寺大門跡」があります。この辺りは「大門坂」と呼ばれ、長尾寺の山門が建っていた所と伝え
悉地院から南西方向へ、バイクで10分足らずの距離に太平観音堂があります。伊吹四大寺の一つ、太平護国寺が廃寺となり、当地に太平観音堂が建立され、遊行僧・円空(1632~1695)が造立した十一面観世音菩薩立像が安置されました。円空は太平寺の中之坊を拠点に伊吹山で修行を
伊富岐神社から西へ、バイクで約20分の距離に悉地院(しっちいん)があります。伊吹山は滋賀県と岐阜県の県境にあって、標高1,377mで滋賀県の最高峰です。日本武尊(やまとたけるのみこと:82~111)が伊吹の神に退けられたとの物語があって、古来から霊峰とされていました。
南宮大社の北西方向、バイクで約10分の距離に伊富岐神社(いぶきじんじゃ)があり、入口には石造りの太鼓橋が架けられています。神社付近には石器時代の遺跡や古墳なども多く、古代から豪族が住んでいたことが明かで、伊富岐神社は古代、伊富岐山麓に勢力を張っていた伊福氏
養老の滝入口駐車場から北へ、バイクで約20分の距離に南宮大社があります。第10代・崇神天皇(在位:BC97~BC30)の御代に創建され、古くは「仲山金山彦神社」と称されていましたが、美濃国府が現在の岐阜県不破郡垂井町府中に置かれたことにより、その国府の南に位置する宮と
関ケ原古戦場の「徳川家康最初陣跡」から南東方向の養老の滝へ向かうと、養老の滝への入口の手前の大菩薩寺の境内に「日本武尊史跡 当芸野(たぎの)」の碑が建っています。日本武尊(やまとたけるのみこと:82~111)が東国を平定して尾張国へ戻ると、伊吹山に悪い神がいる
名古屋城から西へ、バイクで30分余りの距離に名鉄「勝幡(しょばた)」駅があります。駅前には織田信秀(1511~1552)と土田御前(どたごぜん:?~1594)に抱かれた幼少期の織田信長(1534~1582)の像が造立されています。また、勝幡城の推定復元模型が展示されています。(画