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2019/05/02

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  • 私・井手純~二度目の東京オリンピック⑤~

    2020年二度目の”東京オリンピック”平成31年4月平成天皇は上皇となり新年号”令和”となった。昭和からの平成とは異なりお祝いムードで国民は沸き立っていた。昭和生まれの私にとっては何か異様な感じであった。しかし、平成天皇がお元気で上皇になられ、皇太子殿下が令和天皇になられたことは誠に喜ばしい事と思った。翌年には2度目の東京オリンピックを控え、何となくまた騒がしくなって来た。新しい国立競技場の建築、築地市場も何とか豊洲に移り、その近辺にはニョキニョキと高層マンションがたちならんだ。56年前の東京オリンピックの頃とは東京も全く様変わりしており、この半世紀以上の間には思い起こせば天災、人災と様々な悲劇が数え切れないほどあった。第2次世界大戦の敗北から20年で何とか立ち直った当時の東京オリンピックとは、全く違う感覚を感...私・井手純~二度目の東京オリンピック⑤~

  • 私・井手純~二度目の東京オリンピック④~

    10月9日に各地を回っていた4基の聖火は皇居前に到着した。そして遂に10月10日快晴の中開会式となった。①の記事にも記してあるがボーイスカウトのボランティアで私はこの日まで何回も当日の各国の国旗を揚げる練習をしていた。朝早く国立競技場に行き、先ずは観客の入場時に五輪のマークが描かれたアルミ製の筒型携帯灰皿を配った。この頃は喫煙が当たり前だった。その後自分の揚げる国旗を預かり競技場のポールの所にいた。あれ程国民に無関心であったオリンピックもいざ始まると日本中が一色に染まった。自衛隊のブルーインパルスによる5色の五輪の輪は大空にものの見事に成功した。後で知ったのだが、練習では一度も成功しなかったそうであった。その素晴らしさは今でも目に焼き付いている。競技場の上から見た観客の多さに驚いたことも良く覚えている。周りに合...私・井手純~二度目の東京オリンピック④~

  • 私・井手純~二度目の東京オリンピック③~

    オリンピックの年、1964年。東京でのオリンピックが決まり、あっという間に5年がたち東京は様変わりした。さあ、オリンピックの年と思ったが国民はほとんど関心が無く日々の生活におわれていた。6月は空梅雨で、8月には東京の水がめである小河内ダムは満水時の僅かに1・8%で、東京はついに12時間の断水になった。まさに東京砂漠!オリンピックどころの騒ぎではなかった。毎日毎日水を求めてそれはそれは大変であった。しかし8月末に突然大雨が降り、東京砂漠は解消された。この頃千住の有名な”お化け煙突”が取り壊され、佃大橋が開通し佃の渡し船も姿を消した。9月になると聖火が沖縄に到着し、この時期まだ本土復帰されていなかった為本来は日の丸を振ることはできなかったのだが、オリンピックという事で特別に許されたと後に聞いた。10月1日には新幹線...私・井手純~二度目の東京オリンピック③~

  • 私・井手純~二度目の東京オリンピック②~

    東京オリンピックが決まった途端に世界が一変した。開催日まで5年!この5年で今までの静かな東京は一気に騒がしく変わった。狭く、常に渋滞がひどかった一般道路に対応し、高速道路が次々にできた。時間が無い為用地買収も間に合わず、仕方なく”水の都東京”の川という川の中に柱を立てその上に道路を作って行った。日本橋の真上にも巨大な道路が覆いかぶさり、徳川慶喜の書いた”日本橋”の字も無惨に日の当たらない所に追いやられてしまった。しかし、その頃の東京の川などは”水の都”とはほど遠いひどいものだった。”水の都東京”は戦前の話でその時はまるで下水道であった。ごみは投げ捨てられ、その周りの道路は”ゴミを捨てるな”の立て札が埋もれるほどゴミの山だった。私は小学校中学年の”9歳”であった。申し訳ないが、ゴミの事には全くの無関心だったが、生...私・井手純~二度目の東京オリンピック②~

  • 私・井手純~二度目の東京オリンピック①~

    1964年10月10日日本初のオリンピックが東京で開催された。当時私は中学2年生であった。その当時、ボーイスカウトに入っていた私は、なんと開会式の国立競技場におり競技場を取り囲むように立てられた世界中の国旗を揚げるポールの一つの所に立っていた。残念ながらどこの国の国旗を担当したか記憶にないが、物凄い数の観衆に圧倒され、かなり緊張していた。合図と共に国旗を周りに合わせながら無事に揚げ、聖火入場を競技場の上から眺めていたのは、今でもはっきりと覚えている。東京にオリンピックが決まったのは1959年(昭和34年)だった。敗戦から何とか立ち直ってほんの少し国民が平和を感じることが出来るようになった頃であった。しかし、今の鉄筋コンクリートビルが立ち並ぶ東京ではなく、ほとんどが平屋のしかも木造住宅でごみごみしていた。私の子供...私・井手純~二度目の東京オリンピック①~

  • 私・井手純~手術⑨~

    私の担当の先生の事も色々そのご夫妻に教えて頂いたが、循環器専門医としてはかなり有名な先生だそうであった。”私もあなたもいい先生に診てもらうことができてラッキーでしたねぇ”と言われた。その時昔、父が言っていた話を思い出した。”白衣を着て医者の格好をしていても、初めてメスを人の身体に入れる先生に当たる事もある。仕方のないこととは言え、運もあるんだ。”医者としてはベテランになるまでは最初もある訳で本当にこう言った事は運なのかもしれない。とにかく現在は本当に良くなり楽に歩けるようになった。それでも元に戻っただけの事。本当に健康には日々気をつけねばと今更ながら思い知った。若さに任せて健康に変な自信があるとこんな事になると痛感した。主治医の先生は初めて診てもらった時は何か冷たい感じの人であったが、3度目の手術が終わり12月...私・井手純~手術⑨~

  • 私・井手純~手術⑧~

    三度目の手術11月25日病院に行った。どうか三度目の正直であってくれと思いながら、またその日の午後から手術は始まった。例のごとくブルーシートがかけられいつも道理の手順でスタート。突然顔の上のブルーシートに血しぶきが飛び散った。3センチぐらいの血が10位目の前にあった。焦った。身体が固くなった。ところが先生は淡々と見学の先生に話しながら手を進めていた。そのせいかなんか少し身体の力が抜けるのが分かった。その後は特に変化はなく無事終わった。今回の手術の後若い先生が動脈に入れた管を抜きにきたので”先生抜いた管みせてくれませんか?”と頼み見せてもらった。約20センチほどの棒状の細い管だった。この時はまだ麻酔がきいていたので痛みは無く何となく自分も余裕があった。術後の止血にはいつもどうり時間がかかったが、その時も特に痛みも...私・井手純~手術⑧~

  • 私・井手純~手術⑦~

    二度目の手術退院から2週間後の8月9日、入院しその日の午後から手術が始まった。前回の痛さや恐怖が冷めやらず気が重かった。今回は右足の動脈にステント(金属の筒)を入れる手術であった。ステントは一度入れたら生涯取り出せないそうである。その代わり血流が良くなるとの事だった。午後1時すぎには手術室にいた。前回と同じく顔の上にステンレスのアーチがかけられブルーシートが視界を遮った。局部麻酔が打たれ先生の指示とガチャガチャと器具の音が聞こえていた。今回はあまり痛みを感じない。”慣れたのかな”なんて勝手に考えているうちに手術は終わった。あっという間だった。前回の様に、また長い時間動けないのかなとも思った。しかし、思ったほど厳しくなく何か気が抜けてしまうほどであった。止血も短時間ですみありがたかった。と言うのも、今回の手術は左...私・井手純~手術⑦~

  • 私・井手純~手術⑥~

    先生は手際よく傷口を触り始めた。しかし、これからが地獄だった。何しろ6時間以上も時間が経っていたので、当然のこと麻酔は完全に切れており麻酔無しでの管抜きとなったのである。時間的にはほんの10分ぐらいだったのだが、管が抜かれるまでは恐ろしい痛さだった。しかし管が抜かれると噓のように痛みは無くなった。チラッとしか見れなかったが管は太さ2~3ミリで長さは約20センチぐらいであった。その後傷口を先生は親指で約20分体重をかけて抑えつずけた。これもかなりの苦痛を感じた。日をまたいでやっと終わった。その頃は痛みは噓のようになくなった。体が動かせる様になったのが本当にありがたかった。何よりもトイレに行けるようになったのが助かった。翌日リハビリをしたが、痛みは無く普通に歩けるようになった。明日退院できることになった。約2週間後...私・井手純~手術⑥~

  • 私・井手純~手術⑤~

    身体にメスをいれられたことの無い自分としては未知の異様な感覚だった。動脈硬化で細くなった血管を広げているのだろうと想像した。時間的にはよく分からなかったが長く感じた。20分ぐらいだったと思う。先生の動きが止まり、手術は終わった。ブルーシートとステンレスのアーチが取り払われ、いつの間にか運ばれて来た私のベッドに数人がかりで移動された。その後隣りの部屋に移された。そこで別の先生が約20分、管を差し込んだ所を親指でかなりの力で押さえ続けられた。先生に聞くとかなり前から血液がサラサラになる薬を飲んでいた為に血が止まるまで抑えなければならないと言う事だった。この時は先生の体重をかけて親指で押さえつけていたのでかなり痛かった。その後血が止まったのを確認され、ベッドに寝たまま自分の病室に運ばれた。病室に着くと先生からこれから...私・井手純~手術⑤~

  • 私・井手純~手術④~

    一度目の手術。手術着に着替えていた私は、看護師さんの言われるまま自力で手術台に横になった。天井を見ると以前の手術の跡か、血の跡らしきものが一つ目に入った。恐らく以前の患者さんのものと思われ、体が固くなった。周りでは助手の人や看護師さんたちがテキパキと動いていた。そのうち私の頭の上にアーチ状のステンレスの枠がかけられ、その上からブルーシートをかけられた。視界は目の前のブルーシートで完全に塞がれた。看護師さんから名前と生年月日を聞かれ、答えると担当の先生から”井手さんこれから(専門用語)の手術に入ります。”と言われ、手術が始まった。まず足のつけ根に局部麻酔を打たれた。とにかく、何も見えない状況で麻酔を打つ時の痛みと、麻酔が効き始めてからの先生の動きを想像するしか無かった。付け根部分からつま先への動脈に管らしきものが...私・井手純~手術④~

  • 私・井手純~手術③~

    7月22日に入院し手術は25日であった。とにかく私としては、手術台に上がることは、生まれてこのかた初めての事なので不安と期待でいっぱいだった。しかし足が痛くて20~30メートル休み休みでないと歩けなかったのが、治るという嬉しさの方が大きかった。手術日は決まっていたが、入院日は混んでいたので4日前であった。その間毎日検査ばかりで、尚且つ点滴のくだをつけられトイレに行くのも面倒だった。友人の見舞いに行ったときにその様な姿を見ていたことはあっても、いざ自分がそうなってしまうと情けなかった。いよいよ車椅子に乗り、手術室に着き、手術台に上がると緊張して動機が高まった。担当の先生は淡々とした口調でこれから行う手術の説明をしてくれた。ここまで来たら昔の人が言っていた”嫁にいった晩で相手の言い成り”の心境であった。私・井手純~手術③~

  • 私・井手純~手術②~

    市川にある循環器専門の病院に紹介状を書いてもらい、行くことになった。私の父は開業医だったので、子供の頃より他の病院に行くことがなかった。紹介を受けた病院は、家から20キロほど離れた最新の機器を揃えた病院とのことだった。車の運転には支障が無かったので1人で行った。手続きをして約2時間待ってやっと順番がきた。(勿論、予約を入れておいたのだが)周りを見ると、自分が若く感じるほど高齢者が多かった。先生に問診を受けて、その後4時間後にCTを撮って貰い、また2時間待ち、再度先生に話を聞くことが出来た。結局約8時間病院にいた。翌日、自分の足のレントゲン撮影を見ながら先生の説明を聞いた。結論は”足梗塞”という事で、すぐに手術が必要との事だった。原因は動脈硬化で、若い頃からの不摂生であった。すぐに入院という訳には行かず、2週間後...私・井手純~手術②~

  • 私・井手純~手術①~

    心筋梗塞・脳梗塞にならぶ足梗塞の怖さ。68歳にして人生初の入院と手術体験。日本で最近とくに注目されているのが足梗塞。原因として基本的には動脈硬化。動脈に血栓が詰まり血液が流れにくくなり、ひどくなるとかなりの痛みを伴いまったく歩けなくなる。上半身(心臓、脳)に血栓が飛べば、麻痺やひどいときは死に至る。下半身に血栓が詰まるとひどければ壊死を起こし切断に至ることもあると言う。私は68歳なかばにしてその足梗塞を体験をした。その時の実体験を書き残しておこうと思う。私は2019年6月ごろから足が痛くなり、最初は右足。買い物に出て20歩ほど歩くと脹脛が異様に痛くなり、休まないと進めなくなった。息切れもひどくなり休み休み歩いていた。今までに無かった状況に焦っていた。行きつけのクリニックで診てもらうと薬を出してくれた。すると幾ら...私・井手純~手術①~

  • 姪・山岸美喜~24年ぶりの再会⑤~

    姪の美喜からは晩年の慶朝のことを色々聞いた。慶朝の住んでいたひたちなか市の自宅にも案内された。慶朝が晩年お世話になったサザコーヒーの鈴木会長にもお会いし、そこでも色々な逸話を聞くことが出来た。”徳川慶朝”という重い名前を背負い現代の世界で生きてきた彼の苦悩は大変なものであったと思い知った。他にもたくさん徳川を名乗る方々はおられるが、それぞれにその名前の重さを痛感しているのだと感じている。私などは”井手”を名乗り(勿論、井手家も由緒ある家ではあるが、さすがに徳川家とはその重さは比較にならないもので)やりたい事をやりこちらから言わない限りは誰も気が付かないのであった。姪の美喜はまさに男勝りというか、とにかく行動力のある人で趣味も多彩で、料理、ゴルフ(シングルハンディ)、クラッシック音楽のプロデュース、また自分で幾つ...姪・山岸美喜~24年ぶりの再会⑤~

  • 姪・山岸美喜~24年ぶりの再会④~

    美喜のご主人はとても寛大なかたで、彼の援助の上に彼女の行動は成り立っているのだと思う。美喜と同じく慶喜公の血を受け継ぐものとしてはこれ程ありがたいことはないと感謝している。姪の美喜とは前にも述べたが、24年の空白があった。その間お互いにいろいろな事があり、特に私のことは彼女に言わせると”井手のおじちゃまには近づかないのがいい”と周りから言われており、再会した時もかなり警戒していたと言っていた。これについて私としては全く弁解の余地がなく、認めざるを得ないのである。60数年前には年末から年始にかけては毎年恒例行事が高輪の高松宮邸でおこなわれていた。40数年前からは姪の美喜も参加し毎年宮邸での同じ空気を感じさせて頂いた。その感覚は彼女と話していると次から次へと思い出が湧き出てきていつまでも会話がつきなかった。12月2...姪・山岸美喜~24年ぶりの再会④~

  • 姪・山岸美喜~24年ぶりの再会③~

    2019年6月29日国際仏教大学(文京区小石川にあり、慶喜公の終焉の地であり、私の母も生まれ育ったところ)にて毎年恒例の講演会があった。数年前に慶朝も私の母も講演させて頂いた。そこで24年ぶりに姪の美喜に偶然にも再会する事が出来た。その日を境に姪の美喜と何度も電話で話すようになり、慶朝のことを色々聞くことが出来た。2019年慶朝の二年祭の折参列させてもらった。後日慶喜公の弟である徳川昭武の住んでいた松戸市の戸定邸にて美喜と二人で婦人公論のインタビューを受けさせてもらった。(10月8日号)fujinkoron.jp/articles/-/963姪の美喜は慶朝から受け継いだ事をとても重く感じており、女の自分がこの後どのようにして動けばよいのか悩みぬいた。まして山岸家に嫁いだ身として徳川を名乗っていない自分がどこまで...姪・山岸美喜~24年ぶりの再会③~

  • 姪・山岸美喜~24年ぶりの再会②~

    私の母久美子は、私達にとても厳しかった。その調子で慶朝にもよく小言を言っていた。彼は私の母の事がとても嫌いだった。晩年の彼はほとんどの親族と接することを拒んだ。その中で姪の美喜には心を開き、食事をしたり、お酒を飲んでいた。慶朝が亡くなる前に遺言書を書いていた。彼の全ての財産と慶喜公の資料を山岸美喜に託すと・・・・よほど美喜には全幅の信頼を寄せていたのであろう。慶朝の葬儀は茨城の地元で行われ最後まで美喜が色々手配をした。私は高齢の母もいたため、葬儀には参列出来なかった。翌年の7月私の母が95歳で天寿を全うした。これで慶喜家の孫は全員居なくなった。徳川おてんば姫(東京キララ社)姪・山岸美喜~24年ぶりの再会②~

  • 姪・山岸美喜~24年ぶりの再会①~

    姪山岸美喜1968年東京生まれ祖父は徳川慶喜家3代目当主徳川慶光(私の母井手久美子の兄)母は慶光の長女安喜子(私の従姉妹)従兄弟、安喜子の弟(後の徳川慶喜家4代目当主となった慶朝)が2017年9月、67歳の若さで亡くなった。慶朝が体調を崩した頃から良く茨城の自宅へ名古屋から行き介護など面倒をみていた。(美喜は山岸家に嫁いでおり自宅は名古屋であった)慶朝が入院した時も月に何度も見舞いと自宅の掃除などをよくしていた。私は子供の頃毎日の様に慶朝の家に行きよく遊んだ。同じ中学・高校に通学していたが、その頃はほとんど話をすることなく過ごした。今にして顧みると慶朝は徳川の名前の重さをとても感じており、4代目当主として日々葛藤していた様に思えてならない。身内のものより説教されること、また、”あれをしなさい、これをしなさい”と...姪・山岸美喜~24年ぶりの再会①~

  • 写真館⑭~母の写真~

    母久美子の晩年の写真。写真館⑭~母の写真~

  • 写真館⑬~写真立て~

    高松宮両殿下成婚25年のお祝いに同期生の方々から贈られた銀製の写真立て。昭和30年2月4日。右上に殿下のお印の”若梅”左下には妃殿下のお印の”撫子”が刻まれている。写真は母の晩年のもの。写真館⑬~写真立て~

  • 写真館⑫~イラスト~

    私の母が亡くなる直前に出版できた”徳川おてんば姫”を読んで頂いた方から贈られた母のイラスト。写真館⑫~イラスト~

  • 写真館⑪~ふろしき②~

    私の母徳川久美子が父井手次郎と結婚する前から使っていた桔梗印のふろしき。写真館⑪~ふろしき②~

  • 写真館⑩~ふろしき~

    私の母徳川久美子が父井手次郎と結婚する以前から使っていた、桔梗印の葵のふろしき。写真館⑩~ふろしき~

  • 写真館⑨~徳川将軍珈琲~

    徳川慶喜家4代目当主故徳川慶朝が、生前にサザコーヒーで修行させて頂き作製した”徳川将軍珈琲”徳川おてんば姫(東京キララ社)写真館⑨~徳川将軍珈琲~

  • 写真館⑧~徳川慶朝の一年祭にて~

    慶喜家4代目当主徳川慶朝の一年祭の折、私の姪である山岸美喜が慶朝のお印の鶴をデザインし皆様にお配りしたものである。。写真館⑧~徳川慶朝の一年祭にて~

  • 写真館⑦~東照公遺訓の書~

    徳川慶喜公生誕100年の折、慶喜公直筆の東照公遺訓の書のレプリカを作り、関係者の方々にお配りした。写真館⑦~東照公遺訓の書~

  • 母・井手久美子~母のおもいで②~

    80歳の後半まで週末は自宅で同じ様に毎週麻雀をやり、私は毎回人集めに大変だった。二回ほどやっては少し休みまた起きてきて三回といった具合だった。そして皆さんと一緒に食事をしては、遅いときは夜10時ごろまでしていた。勿論、食事の支度は私に任されていた。でも本当に楽しんでやっていたので私もうれしかった。私が子供の頃、父は自宅で開業医だったので、朝・昼・晩と毎日食事作りにおわれていた。父は、胃潰瘍を患っていたので特に気を使っていた。毎日のように近くの魚屋が御用聞きに来ており、父には毎晩煮魚を出していたのをよく覚えている。父は、とにかく魚の食べ方が上手で子供心に驚いていたのを母といつも話していた。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子~母のおもいで②~

  • 母・井手久美子~母のおもいで①~

    母は子供の時から身体を動かすことが好きであったこともあり、晩年もスポーツ番組はよく見ていた。特に相撲は好きで、贔屓力士は白鵬と安美錦だった。白鵬が負けると、とてもガッカリしていた。テニスは自分も86歳までやっていたので、錦織圭選手は大のお気に入りだった。前にも記したが、麻雀は本当に好きだった。松平家に居た頃は無理矢理させられていたので、いやがっていたが、60歳の後半からはよくやっていた。同級生の、伊藤博文のお孫さんの自宅で月に一度は行っていた。その後は近所の人(皆さん男性)と朝から夜までやっていた。父が元気な頃は、父がヤキモチを焼くほどで”そんなにやりたければ俺が死んでからやれ!”と怒っていた。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子~母のおもいで①~

  • 母・井手久美子~賜物御礼②~

    元宮務官のお手配のお陰で無事賜物御礼ができたことは心より感謝で、声をかけていただけなければなしえなかったことだった。8月末の頃、携帯電話に記録のない番号から掛かってきた。出ると美智子皇后陛下の女官の方からだった。あまりに突然のことに驚いたが、なんと美智子皇后様が母の本を読まれて”とても懐かしく楽しく読ませて頂いた。”とのお言葉だった。ありがたいことと、畏れ多い事でなんと答えたかよく覚えていない。母の墓前にすぐに報告をした。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子~賜物御礼②~

  • 母・井手久美子~賜物御礼①~

    母の四十九日も済んだころ、元高松宮宮務官の方のお声掛けで、平成両陛下及び各皇族に賜物御礼の記帳のご手配をしていただけた。平成30年8月22日、元宮務官と一緒に皇居に入り平成天皇陛下、美智子皇后両陛下にそれぞれ記帳させて頂き、その後皇太子両殿下、秋篠宮殿下、常陸宮殿下、三笠宮家、高円宮家と記帳させて頂いた。その折、母の最初で最後の本”徳川おてんば姫”をお渡しできた。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子~賜物御礼①~

  • 母・井手久美子~おてんば姫のお別れの会②~

    外で母への焼香に来て頂いた方々のお世話をしてくれていた東京キララ社の中村社長は”住職のお経お経が始まると同時に、暗くなり本当に土砂降りでした。でも、ものの15分で快晴になって、嘘みたいに水たまりも元通りになりましたよ!驚きました。”と話してくれた。焼香がすみ、皆さんに喪主としてのご挨拶をさせて頂き、その後表に出ると相変わらず晴天であった。受付をして頂いたキララ社の中村社長から雨のことを聞き、初めて知った。周りには水たまりもなく、そんな大雨の影も無かった。最後まで母が、おてんば姫が,何を言いたかったのか・・・・遺骨を抱いて、まだ母の死の実感が無いなか、澄み渡る空を見上げて色々と考えてしまった。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子~おてんば姫のお別れの会②~

  • 母・井手久美子~おてんば姫のお別れの会①~

    7月10日千葉県君津市の圓明院で、お別れの会をした。午前10時すぎに平成天皇皇后両陛下、各皇族の方々より侍従の方がお花とお供物をお届け頂いた。本当に有難く、畏れ多いことで心よりお礼申し上げます。当日は猛烈な暑さで、晴天であったにもかかわらず、地元の方々、母の終の棲家であった住民の皆さんも来ていただいた。鈴木住職のお経が始まり我々は本堂にて焼香をした。ご住職のお経が始まったころ、外では一転にわかに掻き曇り本当にお寺の上空だけに雲がかかりバケツの底を抜いたようなもの凄い雨になった。お寺は見渡しの良い高台にあったので周りは良く見渡せたが、周囲は快晴であったという。わたしは本堂におりその大雨には全く気が付かなかった。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子~おてんば姫のお別れの会①~

  • 母・井手久美子~母の葬儀~

    7月1日午前7時半母は亡くなったが、当時はとても熱く家には遺体を置いておけず、葬儀社の安置所に運んでもらい、通夜も出来なかった。7月4日、母の火葬が決まり北海道から弟の嫁も来てくれた。安置所で東京キララ社の方達と7名程で最後の別れをして火葬場へ行くため霊柩車に乗せ焼き場へ向かった。国道16号線の途中で突然母の遺体を乗せた霊柩車が止まった。霊柩車には弟が私の代わりに喪主として乗っていた。なんと霊柩車がパンク・・・・・まるで母が”まだ焼かないで!!”と言っている様だった。弟の嫁も”お母さまらしいわ!”と言っていた。『おてんば姫』の最後はこれで終わらなかった。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子~母の葬儀~

  • 母・井手久美子~母の旅立ち④~

    翌朝、弟と息子の3人で交代で母の具合を見ていた。朝6時、私がティッシュで唇を濡らしてあげるとほんの少し口を動かした。それが最後だった。3人で泣いた・・”よく頑張ったね”と言って私は母の頭を何度もなでた。涙が止まらなかった・・・・・・・・皆、暫くは無言でいた。7時頃いつもの訪問診療の先生に連絡を取り来ていただき死亡を確認してもらった。診断書を書いて頂き、すぐに葬儀社に電話をした。こうしていまブログを書いていると当時のことが思い出されて、手が止まってしまう。ただその頃、西日本では大きな災害で多くの方々が苦しみながら亡くなっていた。亡くなった方々とご家族の方には心よりご冥福をお祈りいたします。母は、自宅で身内に見守られながら行けたのは幸せだったんだと自分に何度も言い聞かせた。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子~母の旅立ち④~

  • 母・井手久美子~母の旅立ち③~

    病院では点滴をしていたが、体調の具合も、年のせいもあり殆ど体内には吸収されず、先生はその辺を見て寿命が分かったのだと私は理解した。自宅につくと”よかった、嬉しいわ!”と何度も何度も言っていた。意識もしっかりしていたが、水も飲ませられない状況なので恐ろしく不安であった。この年、異常に熱く連日36~38度あった。家にはクーラーが無くきつかったが、母は昔から暑さには強かった。翌日、東京キララ社の中村社長とアエラ編集部(昔、女学生の頃、高輪の井手医院でアルバイトをしていた。)の方々が見舞いに来てくれた。母はもう、あまり声も出なかったが、嬉しそうに笑顔で答えていたが、見ているのも辛かった。3時間おきにティッシュに水を含ませて唇を湿らせていた。その都度口をとがらせてほしがった・・・・・徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子~母の旅立ち③~

  • 母・井手久美子~母の旅立ち②~

    本が出来上がったことで、興奮と共に緊張の糸が切れ体調を崩した気がする。約3週間入院となった。毎日会いに行ったが、熱も下がり元気になってきたのだが、入院2週間ぐらいたった頃より誤嚥性肺炎の疑いが出て来た。退院する三日ほど前に主治医より恐らく週末は越せないかもしれないと突然言われ、息子と相談し金曜日に慌てて退院させた。当日息子が”おばあちゃん、家に帰れるよ。”と言うと、顔をしわくちゃにして息子の手を掴み”嬉しい!”と大喜びしていた。息子と母は介護タクシーに乗った。後で聞くとタクシーの中で”病院の天井に虫がいたの!”とさかんに言っていたようだった。それが幻覚だったのかは分からないが、しっかりとした会話だったそうだ。母は昔よりとにかく虫と蛾が大嫌いであった。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子~母の旅立ち②~

  • 母・井手久美子~母の旅立ち①~

    2018年(平成30年)6月6日に長年の夢であった自叙伝が出来上がり、東京キララ社の中村社長が自宅に届けてくれた。その際デイリースポーツの記者も同席してくれて、インタビューを受けた。当時の記事母は本を手にして”夢のようだわ!嬉しい。”と、なにか子供のように本当に喜んでいた。インタビューにもキチンと答え元気だったのだが・・・翌7日、朝から何となく母の動作が緩慢なので、おかしいなと思い、おでこに手を当ててみると結構熱があった。すぐ測ってみると40度もあったのですぐ訪問診療の先生に来てもらい診てもらう。先生はすぐ入院と判断されたので救急で病院に入った。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子~母の旅立ち①~

  • 写真館⑦~詫間力平氏~

    自衛隊の巡洋艦上にて撮った写真。右から詫間力平氏、母・井手久美子、私、弟である。徳川おてんば姫(東京キララ社)写真館⑦~詫間力平氏~

  • 父・井手次郎~詫間力平(旧姓・猪口力平)氏との出会い②~

    昭和30年代の頃から私どもの自宅によく来られ父といろいろ話されていた。とても温和な方で、しかしながら命令とはいえ従わなければならなかった苦しみが父には感じられていた。昭和50年代に東京・高輪の自宅が7階建てのマンションになってからは、リビングルームからの眺めを「井手八景」と名付け自筆の書を下さった。当時はまだ高い建物も少なく、西には富士、南には新幹線、東京湾の船も見え、また夕暮れ時には泉岳寺の鐘の音も聞こえていた。のちに海上自衛隊幹部学校にて統師学の講義もされていた。その関係もあり、私どもを江田島の元海軍兵学校に連れていってくださったり、また自衛艦や潜水艦”うずしお”にも載せていただけた。詫間力平(旧姓猪口力平)氏の軍歴はウィキペディアに詳しく掲載されている。徳川おてんば姫(東京キララ社)父・井手次郎~詫間力平(旧姓・猪口力平)氏との出会い②~

  • 父・井手次郎~詫間力平(旧姓・猪口力平)氏との出会い①~

    父は終戦後、高松宮邸にて殿下より詫間力平元海軍大佐に会わせて頂く。詫間氏は戦時中、神風特別攻撃隊を命名され、零戦を主体とした世界で最強の航空隊を編成された。神風の由来は詫間氏の郷里の鳥取市の武道、神風(しんぷう)流からきている。終戦直前、敗戦の色濃くなったころ悲しくも神風特別攻撃隊の名は神風特攻隊に変わってしまった。物資不足のなか、航空隊の若い戦闘員に片道のガソリンしか積ませず自爆の戦闘機を幾百機も苦痛の命令の中で送り出した。徳川おてんば姫(東京キララ社)父・井手次郎~詫間力平(旧姓・猪口力平)氏との出会い①~

  • 父・井手次郎~父の戦記を記して思うこと②~

    今の時代、通信機器をはじめとして全てにおいて便利になったとはいえ、人として人間として本当に幸せなのか考えさせられてしまった。また、毎年6,7,8月頃になると何となく両親とも感慨深げに当時の話していた。母は、晩年戦記ものの番組をテレビでやっていると、辛い思いがよみがえるのか、そっとチャンネルをかえ時代劇か落語を見ていた。父は母と一緒になってから、縁というか運命とも言うべき高松宮宣仁親王殿下と直接会うことになる。殿下は終戦を迎えたときは海軍大佐であった。大佐といっても、とにかく昭和天皇の弟君。そんな方から終戦後直接自宅に招かれ、いち海軍軍医中尉としての現地での壮絶な戦いを事細かに問われたのである。父は戸惑いながらも殿下のご質問にすべてを、お伝えした。帰宅した父は、”これでサイパン島にて戦死された方々の事が少しでも殿...父・井手次郎~父の戦記を記して思うこと②~

  • 父・井手次郎~父の戦記を記して思うこと①~

    私は、このブログを書き始めて、父の書き残した戦記を初めて真剣に何度も読み、記している間幾度も涙が止まらなかった。今更ながら、戦争の過酷で悲惨な事実を肌で感じ、終戦後のあまりにも平和な生活に浸っていた自分が情けなく思えてならなかった。しかし、当時の日本人の忠誠心(無理矢理押し付けられたとは言え)と、技術力の高さには改めて驚かされた。こんな小国が、ギリギリまで超大国と戦い、負けたとはいえ今の日本が存在できていることに改めて感謝せざるを得ない。そして二度とこの様な悲劇は繰り返してはならないと思うのだが・・・・・。徳川おてんば姫(東京キララ社)父・井手次郎~父の戦記を記して思うこと①~

  • 写真館⑥~父・井手次郎~

    戦時中の父・井手次郎の写真である。井手医院のアルバイトの子たちとの写真である。左下が父・井手次郎、中央下が母・井手久美子。写真館⑥~父・井手次郎~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦⑥~

    昭和53年8月12日より3か月間、米国カルフォルニアの航空博物館に展示されていた零式戦闘機52型が、多数の方々の努力で日本の上空にそのかつての勇姿を現した。この戦闘機はまさに261空「虎」の戦闘機であった。零式戦闘機は周知のごとく、当時太平洋戦に確たる戦果をあげた、世界的に優秀な戦闘機であった。その華麗さと言える完璧な姿で、敵の心胆をさむからしめた零戦も、残念ながらサイパン戦も最後の頃には、アスリート飛行場付近の樹木の間に、迷彩網によって隠蔽されるのみで飛行することなく、アスリート占領と同時に米軍の捕獲することになり、米本国において充分に研究され、その優秀性は当時の米搭乗員が、恐るべきライバル機としてみとめ、それに対する新しい作戦に頭を悩ませたと聞いている。この零戦が私の隊、261空のものであったと知ったとき、...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦⑥~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦⑤~

    ちょうど私どもがサイパンを訪れる3ヶ月前に、私がいた洞窟より、さらに北のマッピ岬のウロト渓谷では、50数柱の日本軍の遺骨が発見され、厚生省の遺骨収集団が現地の人の協力で、丁重に内地に運んだそうである。私どもは現地の人の案内で、深さ50メートルくらいのウロト渓谷を訪れた。崖の上から見下ろすと、はるか底には海水が入り込み、なんとも形容しがたい碧さに透き通り、その周囲は、大小の岩が折り重なって底まで崖をなしている。私たちは収集団の使った綱とクサリにつかまりながら、岩づたいに降りた。底に着くと、まさに静寂そのもので、当時はここに退避した戦友たちは周囲の岩棚に身を寄せ合い、飢えと渇きに苦しみつつ、友軍の救援の手を待ち焦がれながら、絶望と無念の思いの中で死んで行ったのであろう。見回すと、岩のあちこちに、名前が刻まれていたの...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦⑤~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦④~

    私にとっては、総攻撃の二日前、北の洞窟より一キロほど離れたこの戦闘指揮所に連絡に行った思い出の場所であり、当時のことを思い出し、まさに感慨無量であった。最後の総攻撃の地点や、タナバク水上基地付近は、もう当時の跡形すらなく、ガラパンの街には現地の人の粗末な家屋が立ち並び、南洋興発会社跡には、製糖工場の煙突と、当時のサトウキビ運搬用の蒸気機関車、および同会社創立者の松江春治氏の銅像がそのまま残り、日本の委任統治地であった頃の面影を僅かに残している。バンザイクリフの下から見上げると、100メートルもある切り立った崖には、米軍の艦砲射撃による弾痕が生々しく残っている。米軍上陸地点のチャランカノアの海岸には、日本軍の砲撃で破壊された米軍の水陸両用戦車の残骸がその砲塔を紺碧の海上に現していたが、その付近を、当時のことを何も...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦④~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦③~

    最後に私事であるが、終戦後、毎年6、7月になると、サイパン島内の戦闘や玉砕当時のことが想い出され、一度はサイパン島を訪れて、戦死された方々への霊を慰めに行きたいと考えていたが、昭和44年8月、25年ぶりにその機会をえて妻・井手久美子と二人でサイパン島を訪れた。幸い当時、日本軍の二等兵として奮戦された、ビセンテ・サブラン市長とサイパン島で警察官として日本陸海軍に協力され、現在は実業家であるゲレロ氏の好意により、島内の261空のたどった道をすべて案内していただいた。アスリート飛行場、261空戦時治療所付近、高射砲陣地跡、防空トーチカおよびラウラウ湾の要塞砲台跡などを訪れ、さらにタポーチョ山を越え、上田猛虎261空司令が玉砕直前まで戦闘指揮をとられていた、コンクリートで固めた洞窟の戦闘指揮所も訪ねた。この戦闘指揮所の...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦③~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦②~

    私は、サイパン島における海軍の主力戦闘機隊である、261空の一軍医として、島内におけるわが医務隊の行動、およびその周辺の戦闘状況などについて日を追って記述したつもりであるが、何分にも前記のような苛烈なる戦闘中のことであり、また40数年前のことであるため、日時、場所などに多少の誤りがあるやも知れず、この点については何卒お許しいただきたい。また、戦死された方々の詳細なる状況をも充分に筆に尽くすことができず、誠に申し訳ない想いで一杯である。亡くなられた英霊に対し、また、もしこの小文をお読みくださるご遺族に対しても、この点深くお詫び申し上げる次第である。(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)徳川おてんば姫(東京キララ社)父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦②~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦①~

    私の着任した当時、サイパン島には風土病のデング熱、アメーバ赤痢、およびウィルス性の流行性肝炎が多発していた。これが戦力にもかなり影響があったように思われた。また、外相患者としては、ペリリュー島、メレヨン島上空ノ空中戦での搭乗員の銃弾創および熱傷の患者、その他、航空機整備中の事故による負傷の患者が主だった。米軍の上陸後は、銃砲弾、爆弾の破片による戦死および負傷者が大部分であった。文中、破傷風による戦傷者たちの悲惨な状態を書いたが、戦後、機会があってハワイを訪れた際、知人の外科医と太平洋戦争について話し合ったとき、彼の話によると、米国海軍医学雑誌の報告では、太平洋戦争中における米軍の戦傷者死の中で、破傷風による死亡はわずか6名であったと報告されたことを聞き、只々驚嘆するのみであった。米軍では、その頃すでに破傷風トキ...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦①~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑯・敗北の条件③~

    六、敵の上陸後は、アスリート飛行場攻略の米陸軍は、多数の重戦車を先頭にし、それらは砲身の長い75ミリ砲と13ミリ機銃を搭載し、多量の砲弾を打ち込みながら進撃してきた。これらに対し日本陸軍は、全島内の50数両のうち、軽戦車(35ミリ砲、7.7ミリ機銃搭載)で対抗しなければならず、しかも数回の夜襲でその大半を失ってしまった。また日本軍の砲撃で各座、破壊された米軍戦車は、戦車牽引車によりすみやかに後方に退避、修理後再び戦列に復帰していた。七、敵の進行があまりにも急なため、アスリート飛行場を死守していたわが陸海軍部隊は、「あ号作戦終了」と同時に、飛行場を撤退したが、その際、隠蔽していた航空機、燃料、弾薬などを爆破することなく、これらは敵の手中に落ちたのだが、この点については、司令部より爆破、焼却の命令はなかった。八、戦...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑯・敗北の条件③~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑯・敗北の条件②~

    この点について、私のような新任の一軍医中尉が、日本の陸海軍の戦略、戦術などについてのべる資格はないが、この島で米軍の空襲、艦砲射撃につぐ上陸、さらに総攻撃、玉砕までの戦闘経過の様相を自ら体験し、かつ感じたことを述べることが許されるならば、次のような点が”決定的な敗因”であったと思われるのである。一、昭和19年6月初旬、マーシャル群島のクエゼリン環礁内に、米機動部隊および、艦船部隊の大艦隊が集結している事をわが方の偵察機が確認しておりながら、「あ号作戦発動用意」で、基地航空隊の主力をハルマヘラ島方面に移動させたことである。したがってサイパン島のアスリート基地は、航空兵力は半減し、実戦経験の少ない若い搭乗員によって防備されていたのだった。これでは、敵の空母15隻、戦艦8隻を主とする艦隊や輸送船団に対して、基地航空隊...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑯・敗北の条件②~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑯・敗北の条件①~

    昭和18年の半ば過ぎまで死闘を続けたソロモン群島と、東部ニューギニアにおける日米両軍の戦線は、19年に入ってからは、マーシャル、カロリン群島および西部ニューギニアに移り、米軍は特に内南洋方面に加速度的な勢いで進撃を続けて来た。日本軍は、この不利な体勢を一挙に挽回すべく、陸軍は関東軍より抜粋された機甲部隊をともなった43師団、29師団などの精鋭部隊をマリアナ諸島に派遣して、堅固な防衛体勢をとりつつあった。一方、海軍は基地航空隊兵力として、一航艦の主力を、サイパン、テニアン、ロタ、グアムの各地に置き、最新鋭機750機を配備、攻勢に転じた米機動部隊、艦船部隊に対して徹底的な打撃をあたえるべき機会を伺っていたのだ。当時は日本陸海軍はもとより、一般の国民にも、サイパン島は難攻不落の要塞と信じられていたのだ。それが昭和19...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑯・敗北の条件①~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑮・ああ白昼夢④~

    2キロ近く前進して電信山を越える頃には、3人ともに疲労困憊のていで、体力の消耗は極度に達し、軍刀を杖にして歩いていても、その頃から精神状態さえもうろうとして来ていた。岡本軍医長と訣別してから二日目の午前11時頃、3人とも倒れ込むようにして、ジャングル内で仮眠中、なかば夢の中で英語で喋っている声が聞こえ、私がハッと気が付いて目を覚ますと、木立の間から50メートルほど先に軽機を腰だめにした、数名の迷彩服を着た米兵が近づいてくるのをみた。私は軍刀以外に武器もなく、反撃する余裕も気力もなかった。当然、その場で射殺されるものと思っていたが、撃つ様子もなく銃口を向けて、ジャングルから出ろと合図をする。3人は仕方なくジャングルの外のサトウキビ畑に、這うようにして出て、無抵抗のまま、米海兵隊員に捕らわれの身となってしまった。私...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑮・ああ白昼夢④~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑮・ああ白昼夢③~

    すでに水筒の水もほとんど空になり、のどの渇きはひどくなるばかり。そこで近くのサトウキビの茎を軍刀で伐採し、茎をかじり水分を吸うが、甘すぎるのと口内が荒れているためか、とてものこと渇きを癒すどころではなかった。夜明け前に、H兵曹がどこからか、あるいは破壊された民家の貯水槽の底にでも僅かに溜まっていたものであろうか、水を探し出してきて、私たちの水筒に満たしてくれた。もちろん、何枚も重ねたガーゼでこしても茶緑色をしていたが、食料は乾パンのみで、水がなくてはとうていのどを通ってくれない代物だ。この時の水のありがたさは、今以って忘れることが出来ない。ともかく、これでわずかながら飢えと渇きをしのぐことが出来たのであった。そのあと私たちは、暑い日中は熱帯樹林の中に身を隠し、日が沈むと再び東へ東へと敵占領域内深く侵入していった...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑮・ああ白昼夢③~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑮・ああ白昼夢①~

    夜になって敵は、日本軍の再突入を警戒してか、この未明に突入した地域付近に、またも機銃と照明弾、曲射砲弾を間断なく放ち続けていた。それでも夜半になると敵の砲撃もしだいに下火になってきたようだ。私は50メートルほど離れた、岡本軍医長のいる岩の陰にいて近づいていった。軍医長と衛生兵は健在だった。軍医長は「もう今となっては信ずべき指揮系統は全くなくなった。井手中尉はこれからどうするか。敵陣地に再突入するか、またもとの洞窟にもどるか考えよ。」と言われた。軍医長は「俺は洞窟にもどる」と言われた。軍医長は洞窟で重傷者と運命をともにする覚悟か・・・と私には思われた。岡本軍医長は、海浜のジャングルの中で偶然一緒になった、301空の軍医長・宮沢軍医少佐(転勤の途中でサイパンに寄られたのか?記憶がさだかでない。)と共に相談して決心さ...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑮・ああ白昼夢①~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑮・ああ白昼夢①~

    岡本軍医長と兵2名は無事であったが、他の衛生兵は行方がわからず、私はI少尉(予備学生出身)と、他隊のH主計兵曹と3人で岩陰に潜んでいたため、奇跡的に生き残った様である。私もいつの間に負傷したのか、右の脛(すね)がピリピリと痛む。見ればズボンが破れて、血がにじんでいる。どうやら、小指の先くらいの傷を負ったらしいが、歩行には支障がなかった。多分曲射砲の小さな破片によるものであろう。とにかく、自分で言うのもおかしなことだが、この時点まで生き残っていたとは、まさに奇跡的としか言いようがなかった。その頃は、もはや指揮系統は全くなく、流言飛語は乱れ飛び、命令らしきものも、疑心暗鬼で、誰かが何かを言うとみな、耳をそばだてて、取るに足らぬことであると、また、不信感が掻き立てられるといったありさまだった。すでに陸海軍最高司令部は...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑮・ああ白昼夢①~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑭・最後の総攻撃4~

    かくして、いよいよ突撃の行進がはじまった。医務隊は第32分隊ということで、総攻撃の後部近くで進撃に加わった。暗闇の中、ここ数日来の戦闘で倒れたわが陸軍部隊の屍がるいるいとしており、屍臭漂う中を私たちはひたすら押し進んで行った。午前3時30分ごろ、バナデル水上基地から2キロほど手前の敵陣地付近に、突如としてわぁーという喚声があがった。先鋒の第一分隊からの突入がはじまったのだ。米軍陣地では予想もしなかった、早期の日本軍の大規模な総攻撃をうけて、前線は混乱し、曳光弾や機銃弾が方向違いに飛び交う。30分もしたころ、攻撃部隊はそれまでかなりの速度で進行しつつあったが、隊列が急に止まったかと思うと、先に進んだ兵隊が戻ってくる。前方から退いてくるもの、後方から進むものとで、予期しない混乱がおこったが、これまでに、総攻撃部隊の...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑭・最後の総攻撃4~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑭・最後の総攻撃3~

    7月7日、午前1時ーーー主計長・藤原治主計大尉より、最後の盃を上げるための日本酒が配られ、飯盒のふたにそそいで、全員で乾杯をした。歩行不能の重傷者には、枕元に手榴弾と水がおかれ、我らゆくものはこれら残留者に対し、岡本軍医長の号令のもと全員の敬礼で無言の別れを告げたが、死を目前にひかえた厳粛な雰囲気の中では誰もが手を合わせ、あるいは祈りを捧げていたであろう。午前1時30分---入口に近い者より順じゅんに洞窟をでる。暗闇の中を4~5人ずつ、静かに集合地点に向かって進んで行ったが、途中、時折ちかくに砲弾が落下しては炸裂していた。午前3時ーーー総攻撃部隊全員が、指定された第二飛行場の滑走路に集合した。総攻撃指揮官上田猛虎中佐は、用意された壇上にのぼると、命令を下した。「これより総攻撃を敢行、突撃する。ここに、これまでの...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑭・最後の総攻撃3~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑭・最後の総攻撃2~

    翌7月6日午前10時頃、はやくも総攻撃の命令が下った・・・・『攻撃日時ーーー明7月7日午前3時攻撃地区ーーータナバク水上基地付近の米軍。合言葉は「星にたなばた」陸、海軍、その他で、約50人を一分隊とし、午前2時半にバナデル第二飛行場の北部に集結のこと』と決まり、総攻撃隊員は約2000名と考えられた。総指揮官は261空司令・上田猛虎海軍中佐であった。7月6日---この日は洞窟において終日、総攻撃準備のため全員とも、極めて多忙であった。工作隊は鉄棒を鋭く研磨して槍を製作して配り、ほかの者は機銃、歩兵銃などの兵器弾薬の整備、そしてまた、手榴弾の使用法の確認などであった。主計隊からは各人とも二日分の携帯食料(乾パン)と、水の配給をうけた。(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)徳川おてん...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑭・最後の総攻撃2~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑭・最後の総攻撃1~

    戦闘指揮所の入口の番兵に、261空司令に連絡に来たことを告げ、横の僅かな隙間から石の階段を十数段のぼると、左側に入口があり、その中には十数名の海軍上層部の主として、左官級の立ち姿が淡いロウソクの光を中心にして集まり、作戦会議中であった。上田司令が出てこられ、私たちに次の事をつたえられた。「戦況はわが軍にとって極めて不利である。米陸軍部隊、海兵隊はアスリート飛行場を完全に占領し、すでに軽飛行機の離着陸が可能な状況である。また米陸軍部隊は、戦車を先頭にタポーチョ山に進攻してきており、一方ガラパン市街は陥落、敵はタナバク水上基地北部にまで進出してきた。ここにおいて、日本軍の救援、逆上陸は、もはや望み得ない。従って数日以内に陸、海軍および軍属、民間人にも参加可能なる者は全員参加し、最後の総攻撃を敢行する。全員は総攻撃用...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑭・最後の総攻撃1~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑬・燃える燐光3~

    さて、ここでの私の仕事となると、一日中負傷者の診察と包帯交換、特にうじ虫の除去に追われ、大小便などもバケツの中にして外に捨てる状態であった。このころになると食糧は、もう握り飯などはなく、乾パンと缶詰と、僅かな飲料水が配られるのみであった。負傷者は次第に衰弱していく、また全員が栄養不良のため、憔悴の色がこく、そのうえ吹き出物や、シラミの発生にも悩まされた。特にビタミンの不足の結果、多くの者に視力の衰えが目立ち、夜盲症の状態であった。7月5日ごろからは、さらに陸軍部隊と民間人が相次いで洞窟に集まってきた。戦局と言えば、すでに島の北部方面にまで米陸軍の攻略は進んできていた。わが方はもう海軍も陸軍も、民間人も全く区別がなくなり、軍医長はひたすらに医務隊を指揮し、兵たちと一緒に治療に当たった。戦死者は夜のうちに洞窟の外に...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑬・燃える燐光3~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑬・燃える燐光2~

    ある夜間、敵の黄燐焼夷弾をうけた熱傷の幼児を抱きかかえた女性が、治療のため私たちの場所を探してやって来た。傷口を診ると、暗闇の中で紫色の燐光を発し、皮膚に燃え広がっていく。消毒液で清拭するが、燃え上がる黄燐はなかなか除去出来ず、傷口をヨードチンキで拭くと燐光はすぐ消滅したが、幼児は疼痛のため一段と泣き叫ぶ。母親は夢中で胸に抱きしめ、乳房を吸わせる・・・こうして、まさに文字通り、阿鼻叫喚の地獄谷となってきた。7月2日。地獄谷付近にも砲弾の落下が、いよいよ激しくなってくる。この日司令部から、「わが海軍機のパナデル第二飛行場への緊急着陸が行われるかも知れぬから、その時に備えるため、261空の全員は飛行場近くの洞窟に移動すべし」という命令がきて、深夜、負傷者と医務隊員はトラック3台に分乗、他の者は徒歩でひそかにその洞窟...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑬・燃える燐光2~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑬・燃える燐光1~

    4・5日がたったころ、この地獄谷にも敵の小型観測機が、低空で飛来してくるようになった。観測機が来ると、30分ほど後には必ず砲弾が落下してきた。また敵の背後の敵陣地からは、多数の迫撃砲による攻撃が加わった。ポン・ポン・ポンと十数発の曲射砲の発射音が聞こえると、咄嗟に私たちはみな、岩陰や地のへこみに身を伏せる。すると数秒後にシュル・シュル・シュルと異様な音を立てて弾丸が飛来し、一斉落下、炸裂する。そしてその都度負傷者が続出した。負傷者は小屋から近くの岩陰や、へこみに移し、上空より発見されないようにした。この頃から負傷者の中に、恐るべき破傷風の患者が多数発生してきた。治療用の血清も、もう全く使い果たし、僅かに鎮痛剤の投与と、包帯交換をする程度しか手立ては無かった。治療するにもすべがなく、また血のにじんだ傷口の包帯には...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑬・燃える燐光1~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑫・要塞砲吼ゆ3~

    タポーチョ山を超えるさいも、昼間は南洋樹のジャングルにひそみ、日没を待って数人ずつで目的地に向かい、三日がかりで島内唯一の水源地に程近い地獄谷にたっした。そこは名の示す通り、両側を崖に囲まれた谷で、谷底にはかつて島民の住んでいた、十数軒の草ぶきの小屋が点在していた。医務隊は全員で負傷者を、主計隊もまた全力をあげて食料と飲料水をその小屋に運び込んだ。負傷者の治療に当たる医務隊とは別に、主計隊は、主計長の藤原治主計大尉や、庶務主任の浜野主計中尉の指揮のもとに、近くの林の中で空襲の合間に飲料水の確保と炊飯に専念し、数日ぶりの握り飯と缶詰などを隊員に配給した。司令部からは伝令が、2~3時間ごとに戦闘状況を報告してきた。敵は次第にタポーチョ山の攻略に主力を注いできているらしい。6月25日からの三日間は敵に発見されることも...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑫・要塞砲吼ゆ3~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑫・要塞砲吼ゆ2~

    日没を待って全員が地下壕より脱出し、タポーチョ山を越え、三日がかりで5キロほど離れた集合地点の、地獄谷への大移動がこうして始まった。その夜半、約150名の261空の隊員が、ラウラウ湾の海岸線に沿って移動しているとき、突如として隊列の中央部に敵巡洋艦の砲弾が降ってきて炸裂し、数名の戦死者と十数名の負傷者が出てしまった。同時に負傷者のなかには炸裂音で鼓膜を破られ、全く耳が聞こえなくなった者もいた。恐るべき暗闇での初弾命中である。これも敵の電探による砲撃と考えられ、それ以降の夜間移動は、数名ずつに分散して移動することとなった。砲弾の炸裂音によって耳が聞こえなくなった者には、一名ないし二名の同僚に手を握らせて行動させることにしたが、それら聴力を失った兵隊は顔に表情がなく、行動を共にするには非常に困難をきたした。(父井手...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑫・要塞砲吼ゆ2~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑫・要塞砲吼ゆ1~

    6月19日の日没のことであった。米地上軍による飛行場攻撃はますます本格化し、すでに飛行場の一角には敵戦車群が突入せり、という報告まで飛び込んできた。そこで、我々はラウラウ湾を経てタポーチョ山北側の地獄谷方面に移動することになった。航空隊特有の革製の半長靴では、珊瑚礁や岩の上を歩くことが出来ないので、全員地下足袋に履き替え、それは最後まで使用された。昼間は、湿度100パーセント近い、熱帯樹のジャングルの中に負傷者と共にひそみ、日没後、夜陰に乗じて移動するのだ。二日がかりでようやく、ラウラウ湾に面する海軍警備隊の要塞砲台の地下壕に達した私たちは、そこで丸二日間、次の命令が出るまで待機することになった。医薬品、衛生材料は次第に乏しくなり、できるだけ節約するように命ぜられる。食料は一日二個の握り飯で、不足分は乾パンをか...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑫・要塞砲吼ゆ1~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑪・幻の連合艦隊4~

    ここにいたってはわが陸軍部隊は、これまで温存してきた数両の軽戦車、野砲、山砲を投入し、全力をあげて米軍に応戦したが、敵の圧倒的兵力と重装備の前には全く歯が立たず、なすすべもなく後退せざるを得なかった。たのみとする連合艦隊も、第一機動隊からの情報もきたらず、司令、軍医長の表情にも焦慮のかげりが見られ、全員の間にはだんだんと悲壮感がみなぎってきた。午後3時頃であったろうか、軍医長以下が弾薬庫の外に出て待機していたところ、はるかテニアン島南方洋上のロタ島上空と思われる付近に、黒点の集団が望見された。それを見たとき皆は、これこそわが空母より発進した友軍機の大編隊と胸を躍らせ、その後の成果をワクワクする思いで待っていた。しかし、10分、15分が経っても黒点の集団は近づいてこなかった。それはなんとも、不思議なことだった。の...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑪・幻の連合艦隊4~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑪・幻の連合艦隊3~

    しかしながら、サイパンの南端ナフタン岬沖2000メートル付近に数隻の駆逐艦が停泊し、日没より夜明けまでわが陣地および夜襲予想地域にたいし、一秒の間隔もおかず200メートルほど上空に、正確に吊光照明弾を打ち上げてくる。こうこうたる昼をあざむくような光の下で、私たちは命令書を読み取ることができるほどであった。このため夜襲攻撃隊は、前進はもとより、移動さえ出来ず、かつまた、歩兵陣地からの援護射撃も全くなく、静まり返っているばかりであった。一部右翼の部隊が突入態勢をとるために僅かに移動したところ、間髪を入れず、敵艦から速射砲弾を撃ち込まれるといった状態であった。これも敵の進歩した電探射撃によるものと考えられ、私たちは全くのところ釘付けにされたまま、一歩も動けなかった。そして夜11時頃になってついに、敵陣地への殴り込みは...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑪・幻の連合艦隊3~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑪・幻の連合艦隊2~

    明けて6月18日、この日も相変わらず敵機が飛来するが、きのうより機数がかなり減少している。ガラパン、チャランカノア、タポーチョ山麓の日本陸軍部隊の陣地方面には、おそらく米陸軍の重砲の爆撃音であろうか、いんいんと砲声が聞こえてくる。午後をまわったころ、私は外に出て、飛行場付近の戦況を見てまわった。なぜか、このころになると、急に空襲もなくなり、激しい艦砲砲撃もなくなってきた。あと一日頑張れば、6月19日になれば、わが連合艦隊がやってきて、米陸海軍に壊滅的打撃を与えてくれるものと、部隊の者は全員そう信じていた。ふと気ずくと、いつの間にか上空には一機の敵機も見えなくなっていた。それは全く一週間ぶりの6月11日の空襲以来はじめての平静な午後であった。そして夕刻になると、今まで島の周辺をうずめていた数百隻の米艦船がいずこか...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑪・幻の連合艦隊2~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑪・幻の連合艦隊1~

    すでにアスリート飛行場では、多数の航空機が地上において爆破され、乗るべき愛機を失った30数名の戦闘機の搭乗員たちは、なすすべもなく腕をぶしていた。第一航空艦隊司令部から、これら搭乗員を救出するための方策が示されたのも、丁度このころであった。それは、南部のナフタン岬沖か、北部のマッピ岬沖(どちらかは記憶はさだかでない。)に潜水艦が浮上する予定であるから、その地点に集結するように、と言う内容であった。そこで、搭乗員たちは勇躍先発して行き、浮上予定海域近くの海岸に向かったのであったが、しかし予定日時、予定海域にはついに、味方潜水艦の浮上はなく、搭乗員の救出は不成功に終わったのであった。サイパン島周辺の海域で米海軍は、非常に鋭敏な対潜水艦水中音波兵器を使用し、日本海軍の潜水艦の近接を極度に警戒していた。このため味方潜水...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑪・幻の連合艦隊1~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑩・悲しき訣別3~

    6月17日も夜に入ったころ、敵のアスリート飛行場奪取を策する進撃ぶりはいよいよ激しく、戦車の轟音は治療所の壕近くにまで聞こえてくるようになった。このままではわが医務隊のみが孤立し、本隊と遮断される恐れがある。そのためやむなく、夜間に乗じてこの戦時治療所を離れることに決したのであった。その準備として陸軍の、主として高射砲陣地からの負傷者は原隊に連絡を取り、原隊の衛生兵に引き渡しをすませる。一部、陸軍の負傷者と衛生隊はこの防空壕に残るという。ついで、261空の重傷者はトラックで、軽傷者は徒歩で、夜の暗闇に乗じて脱出することとし、医務隊全員は携帯可能な医療品を出来るだけ運び出し、アスリート飛行場近くの防空トーチカに移動したのであった。そのトーチカは、アスリート飛行場近くの至近距離にあり、耐砲弾・爆弾の鉄筋コンクリート...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑩・悲しき訣別3~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑩・悲しき訣別1~

    6月17日の午前。私と北川中尉は兵6名を連れて再び負傷者を収容するためアスリート飛行場へ向かった。昨日と同様に、艦上機が低空で飛来する間隙ををぬって、ようやくアスリート飛行場近くの宿舎に到着する。みれば、宿舎はまだ破壊されてはおらず、私は久しぶりに私室に入ることができた。これ幸いとばかり下着類の私物を探していた時、突然、敵巡洋艦からと思われる艦砲の一斉射撃をうけてしまった。とっさに周囲を見渡せば、すでに北川中尉は宿舎の基礎の幅50センチ、高さ80センチのコンクリート製の土台に身を寄せている。このとき、下士官の誰かが叫んだ。「井手中尉、こちらに入ってください!」その声に、私は十数メートル離れた深さ一メートル程の、一人用のタコツボと称する防空壕に飛び込んでいた。それは息を継ぐ間もない、約30分にわたる凄まじい連続射...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑩・悲しき訣別1~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑩・悲しき訣別2~

    艦砲砲撃が終わったのを見て、私がタコツボから出て、一部焼失した宿舎の方に行って見たところ、やはりコンクリートの土台に身を寄せていた北川中尉が倒れていた。駆けつけてみると、炸裂した砲弾の鋭い破片で中尉は、下顎部と背部を大きくえぐられ、出血も甚だしく、意識こそしっかりしていたが、すでに全く話もできない状態であった。ただちに近くのくぼ地に運んで、とりあえず止血などの応急処置と鎮痛剤の注射をし、その日の夕方近く、戦時治療所に担架で収容したのであった。さすがの軍医長も、悲痛な顔をされ、「北川中尉、北川中尉!がんばれ、たいした傷ではないぞ!!」と声を掛けたが、北川中尉はただうなずくだけであった。そのうち、視線はしだいに上を向いていき、おそらく意識が混濁してきたのであろう。その日の夕刻ごろ、ついに壮烈な戦死をとげたのであった...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑩・悲しき訣別2~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑨・地獄の海岸線4~

    小一時間がたったころ、ようやく全員が集合地点に集まることができ、早速行動にうつる。まず負傷者数名をコンクリート防空壕内で手当てをし、重傷者一名は、応急処置をほどこして担架に乗せ、夕刻近くになって戦時治療所へ引き返し収容したのであった。その夜、入った艦隊司令部の連絡によると、昨6月15日に「あ号作戦」は発動され、わが連合艦隊(第一機動艦隊)はすでに、フィリピン海域を離れ、マリアナ海域へ向かったといい、いよいよ米機動部隊と洋上大決戦が行われるとのことであった。また、同時に味方艦上機群の着陸に備えて、アスリート飛行場を整備、死守すべしとの命令が下った。この時飛行場には数日以来の艦砲砲撃下にあり、40、36センチ級の戦艦の主砲弾が、不発のまま多数転がっており、また滑走路には直径4・5メートルの穴があいていた。そこで、陸...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑨・地獄の海岸線4~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑨・地獄の海岸線3~

    6月16日、早朝より敵上陸部隊は、圧倒的な海空戦略の援護のもとに、上陸地点のチャランカノア一帯より水陸両用戦車、重戦車を先頭として、わが医務隊の所在するアスリート飛行場方面を攻略するため、すでに南下しつつある、との報告に接した。敵情を確かめるべく敵上陸地点の方向を見ようと、壕から身を乗り出すと、頭上には相変わらず敵艦上機がいて銃爆撃が激しく、また艦隊からは40センチ級の主砲をはじめとした艦砲射撃が依然として続き、もの凄い勢いで熱帯樹を吹き飛ばし、黒煙と土煙噴き上げる。午前10時頃だったろうか、岡本軍医長の命により私と北川中尉は部下5名を率いて、飛行場付近の負傷者を収容に行くことになった。集合地点を宿舎近くのコンクリート製の防火トーチカに決めて、まず私を先頭にして一名ずつが3・40メートルの間隔で、戦時治療所の防...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑨・地獄の海岸線3~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑨・地獄の海岸線2~

    6月15日・・・この日は未明より、チャランカノアの上陸予定地点周辺への艦砲射撃が約一時間あまり続き、午前7時頃になると、前日に掃海作業を行った海面上に、数十隻の上陸用舟艇が集結をはじめ、ついで水陸両用戦車を先頭にして、いよいよ上陸を開始してきた。わが陸軍の守備部隊および海軍の警備隊、特別陸戦隊は、これを向かい打って猛烈な砲火をあびせ、一時は敵の上陸部隊を海浜、水際に撃滅寸前まで追い込んだ。しかし2時間後には、体制を整えた米海兵隊は、海上からの艦砲射撃に加えて、空からの急降下重爆撃の援護のもとに、さらに強力なる多数の上陸用舟艇の増援により、第二次上陸を敢行してきて、たちまちにして大部隊と戦車、重砲など多数を揚陸したという報告に接した。その夜も私たちはいつものように、防空壕のなかで負傷者の治療に従事したのであったの...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑨・地獄の海岸線2~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑨・地獄の海岸線1~

    敵の機動部隊と主砲を武器とする水上艦隊は、すぐる2月にトラック諸島を攻撃した際と同じく、マリアナ地区の航空基地と陸上施設を徹底的に破壊し、ついでパラオ諸島を攻略するものと想定されていたが、その予想を覆して敵の攻撃、上陸の矛先は直接、サイパン島に向けられたのだ。この日の夕刻、東南の海域・・・サイパン・テニアン水道には数百隻にのぼる上陸用舟艇や輸送船が集結しているのが観測された。アスリート飛行場の戦闘指揮所にいる上田司令からは、戦況や今後の対象についての指示をもたらす伝令が、岡本軍医長のもとへやってくる。その夜私たちは、岡本軍医長を囲んで、敵が上陸してきたときのわが医務隊の対策と任務、および患者の処置などについて長時間にわたって協議をした。その結果、陸軍の負傷者はできるだけ、その所属部隊に治療を依頼し、敵上陸後は、...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑨・地獄の海岸線1~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑧・巨弾降る5~

    6月14日の朝は、サイパン島南東沖に接近した数十隻の敵艦隊による、前日にもましての激しい艦砲射撃で始まった。ガラパン市街、チャランカノアのわが陸軍の守備隊陣地に対し、空襲を加えると同時に、敵観測機が上空を旋回し始め、そのためか艦砲の着弾はますます正確になってきた。その様な艦砲の狙い撃ちにあって私たちは、午前中はほとんど防空壕から一歩も出ることが出来なかった。この時まで私たちは主計隊より、砲爆撃の間隙をぬって握り飯が配られ、副食は予め用意していた大和煮、サケ、福神漬けなどの缶詰で腹ごしらえをしていたのだが、ここにいたっては、握り飯のかわりに乾パンと缶詰と、水だけで空腹を凌ぐほかはなくなった。壕のある丘の上に登って東南の海上を見渡すと、テニアン島も艦砲射撃をうけているのか、数か所より中天高く黒煙を噴き上げているのが...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑧・巨弾降る5~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑧・巨弾降る4~

    夕刻になって、3時間余りも続いた猛烈な艦砲射撃がようやく終わりをつげ、敵の艦隊は東方海上に姿を消した。そこで医務隊は、壕に数名の衛生兵を残してひとまず、飛行場の医務室に集合することになった。防空壕から出て、飛行場に行く途中の情景は凄惨だった。陸海軍の食糧集積所や、弾薬庫はことごとく火災を起こし、弾薬庫からは砲弾や銃弾が誘爆するたびに、付近にブルブルと鈍い音を立てて破片が落下してくる。その間隙を縫うように一人ずつ十数メートルの間隔をおいて走り、医務室に集合したのであったが、来てみれば医務室の屋根は吹き飛び、ベットの破片、毛布やマットが飛散し、惨憺たる有様であった。その夜、戦時治療所の防空壕に戻った私は、いささかの疲労をおして数名の負傷者の治療に当たった。(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑧・巨弾降る4~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑧・巨弾降る3~

    6月13日の午前中は、前日にひきつずき上空は敵機の跳梁により、全く思いのままにされ、これに対する味方の対空砲火はほとんどなくなっていた。壕内の負傷者のうち陸軍の者は、原隊の衛生兵によって陸軍の医務隊に引き取られていった。午後2時頃サイパン、テニアン間の水道に戦艦8隻を主力とした、30数隻の米艦隊が進入して来て艦砲射撃が始まった。万雷のごとき轟音と共に、わが陸軍陣地、ガラパン市街、アスリート飛行場付近に40センチ、36センチ主砲弾やら焼夷性砲弾を猛烈に打ち込んでくる。敵艦上機による機銃掃射やロケット弾攻撃、それに爆撃などは、急降下の角度から外れていれば、やや安心して望見していられるが、艦砲射撃だけは砲弾がどこに落下命中して来るのかわからず、ただ炸裂した時をもってはじめて弾着を知る始末で、不気味なことおびただしい。...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑧・巨弾降る3~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑧・巨弾降る2~

    午後になるとさすがに、わが方の対空砲火はしだいに減少、散発的になってきた。この間にも敵機は追い打ちの手を休めることなく、超低空で樹木をかすめるようにして、ロケット弾を打ち込んでくる。司令部からの報告によると、この二日間にわたる十数波の敵の空襲は、おそらく空母十数隻より発進した500機以上にのぼる艦上機の攻撃によるものと考えられた。アスリート飛行場では、地上の多数のわが航空機が爆破炎上され、僅かに隠蔽されていた十数機が残るのみという。また滑走路は、爆撃により直径5メートルくらいの穴が多数あけられ、これらは陸海軍の兵により徹夜で補修された。治療所には陸海軍の負傷者が多数収容されていたが、うち3名が戦死し、遺体は近くの丘陵に戦友の手で手厚く埋葬された。徳川おてんば姫(東京キララ社)父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑧・巨弾降る2~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑧・巨弾降る1~

    翌12日の午前4時、まだ明けやらぬ空に赤色信号弾が撃ち上げられ、空襲警報が発令された。こうして、再び敵艦船上機による空襲が始まったのである。例のごとく壕の入り口で、岡本軍医長と共に上空を見ていると、昨日よりさらに数が多い。あかつきの空に地上からの対空砲、機銃の曳光弾が火の矢のように敵機に向かって撃ち上げられる。昨日と同じく、敵は紫白色の曳光機銃弾を射撃しながら、アスリート飛行場、水上基地および陸海軍の陣地付近に対して、凄まじい爆撃を加えてきた。午前中はほとんど間隔をおかず、十数波に及ぶ連続的な来襲であった。水上基地、ガラパン市街付近は昨日にもまして、物凄い黒煙を宙に噴き上げている。はるかナフタン岬の沖合で、20数機の敵、味方戦闘機の空中戦が望見されたが、零戦一機に対してグラマン2~3機が追尾する格闘戦で、最後に...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑧・巨弾降る1~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑦・大空中戦5~

    日没後、岡本軍医長と私は兵数名を連れて、戦時治療所の防空壕を出て飛行機の医務室におもむいた。屋根に大きく赤十字の標識をつけた医務室も、機銃掃射のため一部が破壊されていたが、残してある医薬品と薬品の大部分は完全で、私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)たちはこれらを出来るだけ多く搬出して防空壕に運び込んだ。アスリート飛行場の周辺では、かなりの戦死者や負傷者があったらしい。夜になって壕に帰る途中、丘陵地帯のサトウキビ畑が敵の焼夷弾による火災のため、数か所で野火のごとく赤い炎を上げて燃え広がるのが印象的であった。壕内の治療所では、負傷者十数名が激しい疼痛を訴え、そのため鎮痛剤や止血剤の投薬、注射などで誰もが一睡もしないで、応急処置に懸命であった。さらに夜半になってアスリート飛行...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑦・大空中戦5~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑦・大空中戦4~

    陸軍の高射砲陣地に数名の負傷者が出たらしく、治療所に運び込まれてきた。岡本軍医長の指揮のもとに、私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)と北川歯科中尉、川添衛生少尉らが衛生兵を指示して、先に決めた分担どうりに負傷者の傷の消毒、止血、応急処置、包帯と懸命に処理していく。長い約3時間にわたる空襲がやっとおさまり、敵機は東南の方向に飛び去っていった。しかし、アスリート飛行場を飛び立ったわが方の戦闘機、偵察機、爆撃機などは空中戦、あるいは敵艦船攻撃後に一部がグアム島、硫黄島、トラック島またはペリリュー島に着陸したらしく、アスリート飛行場に帰投したものは一機もなかった。近くのサトウキビ畑に墜落したグラマンF6Fの残がいを見に行くと、機体はプロペラをへし曲げ、発動機は畑に突き刺さり、尾...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑦・大空中戦4~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑦・大空中戦3~

    第一波の空襲は約一時間でようやく終了したが、30分後には第二波がグラマン、ダグラスなどの戦爆連合でやって来た。第一波より機数はさらに多く、前にもまして激しい攻撃を加えてきた。翼に搭載したロケット弾がシュッと鈍い音で発射されると、目標に対して白煙を引いて飛んでゆく。その黒い弾体は肉眼でもよく見え、地上の施設に命中するやドーンと炸裂し、爆煙とともに木片、トタンなどが吹き飛び、黒煙が舞い上がるさまが眼前に広がって見えた。《このブログを書いているまさにその時、国賓として来日したトランプ大統領が令和天皇皇后両陛下と皇居にて会見の中継があった。とても和やかな中で進行しているのを見て、時代と歴史の流れを本当に感じられた。今まで7人の米国大統領が国賓として来日しているが8人目の今回は、私が年を取った事もあり、たまたま父の事を書...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑦・大空中戦3~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑦・大空中戦2~

    もとより、わが陸、海軍の各陣地の対空機銃もこの敵機に対して、猛烈と射撃を開始する。上空からは紫白色の曳光機銃弾が雨あられと降り注ぎ、わが方の各陣地からも機銃弾が橙赤色の曳光をひき、敵機に向かって火の粉のように噴き上げていき、敵機に吸い込まれるように命中するのが手に取るように見える。戦時治療所の防空壕付近は、敵機の急降下の角度から外れていたので、医務隊は全員防空壕より出て、入口付近でこれら敵機の攻撃を展望していた。敵グラマンF6Fのなかには翼端を破壊され、海上方面に不安定な飛行で去ってゆくものや、尾部を吹き飛ばされ、目の前をきりもみの状態ですぐ近くの甘庶畑に撃墜されたもの、黒煙を引きながら低空でタポーチョ山の方に消えていくものなど、多数が目撃された。そのうち、ガラパン市街、タナバク水上基地、アスリート飛行場付近に...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑦・大空中戦2~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑦・大空中戦1~

    午前11時、いよいよ空襲警報が発令された。軍医長と北川中尉と私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)の3人は、壕の近くの丘の上に登ってみた。南と東方向の水平線上空を目を凝らして見つめるが、敵機らしきものは見当たらない。約一時間が過ぎた正午ごろ、遥か東の方向からかすかに、何とも表現し難いウォンウォンという、ひくい共鳴音のような爆音が聞こえてきた。さらに目を凝らすと、遥か東の水平線の上空にウンカのごとき三つの黒点の集団が、しだいにこちらに近づいてくる。まさしく、敵艦上機の大編隊であった。一編隊約50機、高度3~4000メートルで接近して来る。そして15分後にはサイパン島上空に達していた。すでに陸軍の高射砲陣地からは、対空砲火が猛烈に撃ち上げられ、上空の敵編隊の付近で炸裂し、黒い...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑦・大空中戦1~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜5~

    夕刻ごろ、彗星偵察機が敵機動部隊がグアム島東南200海里に接近し、攻撃陣型で北上しつつあり、と報告してくる。そこで明朝は空襲必至と判断した医務隊は、岡本軍医総指揮のもとに、さきに決定した戦時治療所の設営に汗みどろで取り組んだのである。はたせるかな翌6月11日午前3時、アスリート飛行場付近に数発の白色信号弾が打ち上げられた。これは以前より打ち合わせてあった信号で、白色信号弾は警戒警報、赤色信号弾は空襲警報であった。警戒警報発令と同時に、ただちに医務隊全員は戦時治療所に移動し、待機する。アスリート飛行場では、可動の戦闘機、偵察機、爆撃機その他が次々に発進、離陸してゆく。徳川おてんば姫(東京キララ社)父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜5~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜4~

    父井手次郎はこの手記を書き始めた頃(昭和51年頃)記載出来ない悲惨な出来事などを色々思い出し、よく私井手純に話してくれた。その一部を書いてみる。父は軍医であった為、直接戦闘には加わらず、つねに目を凝らして上空の戦闘機、地上軍の銃撃戦をみていた。訓練では何度も銃を打ったが、実戦では無かった。戦闘員が打たれると状況を確認しすぐに駆けつけ医務室に運び治療をする。ある時、上空の敵戦闘機が被弾しパイロットが脱出しパラシュートを開こうと試みるも開かず150メートルぐらいの所から滑走路の真ん中に叩き付けられたのを目撃。父と医務隊員2人の3人で大きなバケツとシャベルを持って駆け付けた。勿論即死だったが、その遺体は頭が畳半畳ぐらいにペシャンコになっており、仕方なくシャベルで何度もすくいバケツに入れる。体の骨は粉々でとても一人では...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜4~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜3~

    その日の夕刻、さらに彗星偵察機によりサイパン島東南、約300海里付近に北西に進路をとった敵機動部隊と多数の艦艇を発見せり、との報告に接した。ここに至って、敵のマリアナ諸島への来襲は決定的となったのである。わがアスリート飛行場周辺でも、目前に迫った空襲に備え、修理中の航空機および燃料などを迷彩網によって隠蔽し、対空砲、機銃の整備、爆弾、爆薬の分散をはかるなど、昼夜をわかたぬ対戦準備に忙殺された。あけて10日、わが医務隊では空襲、および艦砲射撃を受けた際の負傷者の処置、戦死者が出た場合はいかに処理するかなどについて、岡本軍医長を中心として私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)、北川歯科中尉、川添衛生少尉らが協議し、その分担任務についても具体的な割り当てがとりきめられた。戦死、...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜3~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜2~

    6月1日。「あ号作戦」発動準備のため第61航空戦隊は、その所有する航空機の約半数を6月12・13日までに、ハルマヘラ島のカウ基地方面に展開することになり、わが261空においても6月2日早朝、指宿大尉を指揮官として、20数機がこの作戦に参加すべく、暁雲をついて南方に飛び立っていった。6月2日医務室においても、石田軍医大尉が下士官兵2名をひきい、輸送機でサイパンを離れ、パラオ島を経由してハルマヘラ島へと向かった。同時に6月9日の午前、テニアン島を発進した長距離高速偵察機彩雲より、メジュロ環礁内に集結していた米機動隊および輸送船団が忽然として行方不明になり、捜索中であるとの報告が届いた。この一報により261空の士官室は、にわかに緊張した空気に包まれた。いよいよ一大決戦が目前に近づいたことは、誰の心にも確実に感じられた...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜2~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜1~

    6月7日・・・メジュロ環礁の機動部隊を主兵力とする米艦部隊は、輸送船団を加えて、さらにその勢力をましつつあり、これこそ数日中に決行される大作戦の集結である。と確認された。当時の米軍の進行状況から見ると地上軍はニューギニア、ビアク島を攻略、一方、海軍はパラオ諸島を空襲、艦砲射撃ののち上陸戦により攻略し、さらにフィリピン進攻の公算きわめて大なりと考えられていた。大本営からは中部太平洋艦隊(司令長官南雲忠一中将)に対し、最高機密の軍機作戦である「あ号作戦」の発動用意が指令された。そして、同時に中部太平洋艦隊の指揮下にある61航空戦隊は、「戦闘準備に万全を尽くして待機すべし」との命令をうけ、その旨を上田司令より指示されたのであった。「あ号作戦」とは、勢いに乗じて進撃。攻略を続ける米機動隊、水上部隊をパラオ諸島、フィリピ...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜1~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑤・米機現る3~

    こうして緊張した日々が続く間にも、飛行場では硫黄島、トラック、パラオ諸島をむすぶ零戦、偵察機、艦爆などの離着陸がさらに激しくなり、一方タナバク水上基地においても、二式や97大艇の動きがしだいに活発となっていった。士官室の私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)達も極秘電報の回覧によって、ニューギニア方面ビアク島の米上陸軍の攻勢が、いよいよ激しくなった事を知らされ、南太平洋方面の戦況も日ごとに重大な局面に達し、かつ一大洋上航空戦が近づいているのが肌に感じ取られた。6月5日ごろであったろうか、長距離偵察機彩雲が、マーシャル群島のメジュロ環礁附近に、米空母十数隻を中心とする機動部隊および艦艇多数が集結中、と言う報告をもたらせた。すでに医務隊としても、空襲や艦砲射撃、さらに最悪の事...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑤・米機現る3~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑤・米機現る2~

    5月も末に近くなったころ、米軍地上部隊のニューギニア方面への攻勢とあいまって、とうぜん活発化するであろうと思われる敵戦闘部隊と水上艦隊の動きがはっきりつかめないにしても、大規模攻略の準備中であることは間違いがなく、このマリアナ諸島にも近くかならず大空襲がある、と予想された。そのため飛行場一帯では対戦準備で大わらわとなった。もはや訓練より哨戒・偵察が主要任務となってきた。これまでの第二警戒配備は、まもなく第一警戒配備となり、私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)たちも午前3時の起床で、暗闇の中を医務室に行って待機することとなった。偵察機隊と戦闘機隊は、発動機の排気管より青白い光を出し、つぎつぎと爆音高く滑走路から急上昇して、東南の方向に飛び去って行く。医務室では交代で仮眠を...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑤・米機現る2~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑤・米機現る1~

    5月29日の午前10時頃、私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)はいつものように医務室で診療中であった。と、突然、ズシンズシンと腹にこたえるような地響きがすると同時に、十数発の落雷のような連続爆発音を聞いた。実戦の経験のある軍医長は、とっさに、「空襲だ、患者全員をつれて防空壕に入れ!」と矢継ぎ早に命令する。患者と医務隊員は大慌てで鉄カブトをかぶり、近くの防空壕へとむかう。上空を見ると、高高度に十数機からなる4発の米軍の重爆撃機B24の編隊が銀翼をつらね、南より北に向かっていた。飛行場ではすでに、戦闘機十数機が迎撃のために空中に舞い上がっていた。あとで司令より聞いたこの時の戦果は、2機撃墜、2機撃破とのこと。撃破された2機は海上に不時着したらしい。その日の夕刻、ゴムボートで...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑤・米機現る1~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも④・司令の質問2~

    上田司令は豪放磊落(らいらく)な武人であるが、一面、部下に対しては非常に細かく神経を使われ、指揮官としてはまことに人望のある方であった。下唇の下に少し髭をたくわえられ、時には私などにも質問をされる。例えばこうである。零戦が着陸寸前になって、発動機の排気管よりパンパンと銃声のような音を発することがある。すると司令は、すかさず、「井手中尉、あの音は何か?」とくる。「わかりません!」と答えると「零戦が着陸に失敗した際、火災発生を防ぐために電源を切る。その時、不燃性の生ガソリンの混合気体が、熱を持った排気管の中で爆発する、その音だ。」といった具合である。ある時、彗星艦爆兼偵察機が任務を終えて、アスリートに帰投した。ところが、脚に故障を生じたのか出ず、上空で不時着のための信号弾を投下し、地上員の指示で胴体着陸を行ったこと...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも④・司令の質問2~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも④・司令の質問1~

    さて、着任当時の私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)の日課といえば、朝食後、宿舎より500メートル離れた医務室に行き、午前中は外来診療、午後は入院患者の回診で、岡本軍医長の指導のもとで、外科系患者の治療に当たった。内科系外来は白崎軍医大尉が受け持って、歯科の治療は北川歯科医中尉が一人で、他の隊の者まで治療を引き受ける忙しさだった。患者の大部分は、そのころペリリュー島、メレヨン島上空の空中戦などで負傷した予科練出身の搭乗員や整備員などで、外傷の治療が主だった。なかには予科練乙二期で、海軍の至宝といわれた東山市郎中尉もいた。彼はペリリュー島上空の戦いで搭乗機が被弾し、炎につつまれ落下傘降下して九死に一生を得たものの顔面、両前腕に第三度の熱傷をうけて入室していた。まことに穏や...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも④・司令の質問1~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも③・頼もしき陣容3~

    これらのうち、私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)の配属された261空は、サイパン島における主力戦闘機隊で、定数72機、実動零戦52型45機を保有し、連日のように格闘戦、急降下、機銃発射、三号空中爆発焼夷弾の投下演習などの激しい訓練を行っていた。司令は上田猛虎中佐(海兵52期)で、飛行隊長・指宿正信大尉(海兵65期)、機関長・小橋実大尉、主計長・藤原治主計大尉という陣容。医務隊は、軍医長・岡本新一軍医大尉(昭和11年・桜士会組)、分隊長・石田桂太郎(旧姓白崎)軍医大尉(昭和17年・たて・よこ組)、分隊士・井手次郎軍医中尉(昭和18年10月・青島組)、分隊士・北川徹明歯科中尉(昭和17年9月・元山組)、看護長・川添慶知衛生少尉(佐世保鎮守府所属)、下士官兵35名(佐鎮所属...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも③・頼もしき陣容3~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも③・頼もしき陣容2~

    当時、サイパン島に所在する陸軍部隊としては、次のような部隊が数えられた。まず陸軍の守備部隊をあげる。第43師団(斉藤義次中将)を主とした三コ連隊(愛知、岐阜、三重にて編成)独立混成第47旅団、戦車第9連隊、独立山砲第3連隊、独立工兵第7連隊、約2万5千名の兵力が北部、中部および南部に配置され、戦闘準備態勢をとっていた。つぎに海軍部隊ーーー中部太平洋方面艦隊司令部(南雲忠一中将)、第6艦隊司令部(高木武雄中将)、第5根拠地隊(辻村武久中将)、第55警備隊(高島三治大佐)、横須賀第一特別陸戦隊(唐島辰男中佐)その他で約6千名が、ガラパン地区、タナバク水上基地およびアスリート飛行場付近に駐留していた。261空の所属する第一航空艦隊の第61航空戦隊は、当時マリアナ地区の基地航空隊として、定数750機、実働約370機を保...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも③・頼もしき陣容2~

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