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徳川おてんば姫
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2019/05/02

徳川おてんば姫さんの人気ランキング

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  • 私・井手純~二度目の東京オリンピック⑤~

    私・井手純~二度目の東京オリンピック⑤~

    2020年二度目の”東京オリンピック”平成31年4月平成天皇は上皇となり新年号”令和”となった。昭和からの平成とは異なりお祝いムードで国民は沸き立っていた。昭和生まれの私にとっては何か異様な感じであった。しかし、平成天皇がお元気で上皇になられ、皇太子殿下が令和天皇になられたことは誠に喜ばしい事と思った。翌年には2度目の東京オリンピックを控え、何となくまた騒がしくなって来た。新しい国立競技場の建築、築地市場も何とか豊洲に移り、その近辺にはニョキニョキと高層マンションがたちならんだ。56年前の東京オリンピックの頃とは東京も全く様変わりしており、この半世紀以上の間には思い起こせば天災、人災と様々な悲劇が数え切れないほどあった。第2次世界大戦の敗北から20年で何とか立ち直った当時の東京オリンピックとは、全く違う感覚を感...私・井手純~二度目の東京オリンピック⑤~

  • 私・井手純~二度目の東京オリンピック④~

    私・井手純~二度目の東京オリンピック④~

    10月9日に各地を回っていた4基の聖火は皇居前に到着した。そして遂に10月10日快晴の中開会式となった。①の記事にも記してあるがボーイスカウトのボランティアで私はこの日まで何回も当日の各国の国旗を揚げる練習をしていた。朝早く国立競技場に行き、先ずは観客の入場時に五輪のマークが描かれたアルミ製の筒型携帯灰皿を配った。この頃は喫煙が当たり前だった。その後自分の揚げる国旗を預かり競技場のポールの所にいた。あれ程国民に無関心であったオリンピックもいざ始まると日本中が一色に染まった。自衛隊のブルーインパルスによる5色の五輪の輪は大空にものの見事に成功した。後で知ったのだが、練習では一度も成功しなかったそうであった。その素晴らしさは今でも目に焼き付いている。競技場の上から見た観客の多さに驚いたことも良く覚えている。周りに合...私・井手純~二度目の東京オリンピック④~

  • 私・井手純~二度目の東京オリンピック③~

    私・井手純~二度目の東京オリンピック③~

    オリンピックの年、1964年。東京でのオリンピックが決まり、あっという間に5年がたち東京は様変わりした。さあ、オリンピックの年と思ったが国民はほとんど関心が無く日々の生活におわれていた。6月は空梅雨で、8月には東京の水がめである小河内ダムは満水時の僅かに1・8%で、東京はついに12時間の断水になった。まさに東京砂漠!オリンピックどころの騒ぎではなかった。毎日毎日水を求めてそれはそれは大変であった。しかし8月末に突然大雨が降り、東京砂漠は解消された。この頃千住の有名な”お化け煙突”が取り壊され、佃大橋が開通し佃の渡し船も姿を消した。9月になると聖火が沖縄に到着し、この時期まだ本土復帰されていなかった為本来は日の丸を振ることはできなかったのだが、オリンピックという事で特別に許されたと後に聞いた。10月1日には新幹線...私・井手純~二度目の東京オリンピック③~

  • 私・井手純~二度目の東京オリンピック②~

    私・井手純~二度目の東京オリンピック②~

    東京オリンピックが決まった途端に世界が一変した。開催日まで5年!この5年で今までの静かな東京は一気に騒がしく変わった。狭く、常に渋滞がひどかった一般道路に対応し、高速道路が次々にできた。時間が無い為用地買収も間に合わず、仕方なく”水の都東京”の川という川の中に柱を立てその上に道路を作って行った。日本橋の真上にも巨大な道路が覆いかぶさり、徳川慶喜の書いた”日本橋”の字も無惨に日の当たらない所に追いやられてしまった。しかし、その頃の東京の川などは”水の都”とはほど遠いひどいものだった。”水の都東京”は戦前の話でその時はまるで下水道であった。ごみは投げ捨てられ、その周りの道路は”ゴミを捨てるな”の立て札が埋もれるほどゴミの山だった。私は小学校中学年の”9歳”であった。申し訳ないが、ゴミの事には全くの無関心だったが、生...私・井手純~二度目の東京オリンピック②~

  • 私・井手純~二度目の東京オリンピック①~

    私・井手純~二度目の東京オリンピック①~

    1964年10月10日日本初のオリンピックが東京で開催された。当時私は中学2年生であった。その当時、ボーイスカウトに入っていた私は、なんと開会式の国立競技場におり競技場を取り囲むように立てられた世界中の国旗を揚げるポールの一つの所に立っていた。残念ながらどこの国の国旗を担当したか記憶にないが、物凄い数の観衆に圧倒され、かなり緊張していた。合図と共に国旗を周りに合わせながら無事に揚げ、聖火入場を競技場の上から眺めていたのは、今でもはっきりと覚えている。東京にオリンピックが決まったのは1959年(昭和34年)だった。敗戦から何とか立ち直ってほんの少し国民が平和を感じることが出来るようになった頃であった。しかし、今の鉄筋コンクリートビルが立ち並ぶ東京ではなく、ほとんどが平屋のしかも木造住宅でごみごみしていた。私の子供...私・井手純~二度目の東京オリンピック①~

  • 私・井手純~手術⑨~

    私・井手純~手術⑨~

    私の担当の先生の事も色々そのご夫妻に教えて頂いたが、循環器専門医としてはかなり有名な先生だそうであった。”私もあなたもいい先生に診てもらうことができてラッキーでしたねぇ”と言われた。その時昔、父が言っていた話を思い出した。”白衣を着て医者の格好をしていても、初めてメスを人の身体に入れる先生に当たる事もある。仕方のないこととは言え、運もあるんだ。”医者としてはベテランになるまでは最初もある訳で本当にこう言った事は運なのかもしれない。とにかく現在は本当に良くなり楽に歩けるようになった。それでも元に戻っただけの事。本当に健康には日々気をつけねばと今更ながら思い知った。若さに任せて健康に変な自信があるとこんな事になると痛感した。主治医の先生は初めて診てもらった時は何か冷たい感じの人であったが、3度目の手術が終わり12月...私・井手純~手術⑨~

  • 私・井手純~手術⑧~

    私・井手純~手術⑧~

    三度目の手術11月25日病院に行った。どうか三度目の正直であってくれと思いながら、またその日の午後から手術は始まった。例のごとくブルーシートがかけられいつも道理の手順でスタート。突然顔の上のブルーシートに血しぶきが飛び散った。3センチぐらいの血が10位目の前にあった。焦った。身体が固くなった。ところが先生は淡々と見学の先生に話しながら手を進めていた。そのせいかなんか少し身体の力が抜けるのが分かった。その後は特に変化はなく無事終わった。今回の手術の後若い先生が動脈に入れた管を抜きにきたので”先生抜いた管みせてくれませんか?”と頼み見せてもらった。約20センチほどの棒状の細い管だった。この時はまだ麻酔がきいていたので痛みは無く何となく自分も余裕があった。術後の止血にはいつもどうり時間がかかったが、その時も特に痛みも...私・井手純~手術⑧~

  • 私・井手純~手術⑦~

    私・井手純~手術⑦~

    二度目の手術退院から2週間後の8月9日、入院しその日の午後から手術が始まった。前回の痛さや恐怖が冷めやらず気が重かった。今回は右足の動脈にステント(金属の筒)を入れる手術であった。ステントは一度入れたら生涯取り出せないそうである。その代わり血流が良くなるとの事だった。午後1時すぎには手術室にいた。前回と同じく顔の上にステンレスのアーチがかけられブルーシートが視界を遮った。局部麻酔が打たれ先生の指示とガチャガチャと器具の音が聞こえていた。今回はあまり痛みを感じない。”慣れたのかな”なんて勝手に考えているうちに手術は終わった。あっという間だった。前回の様に、また長い時間動けないのかなとも思った。しかし、思ったほど厳しくなく何か気が抜けてしまうほどであった。止血も短時間ですみありがたかった。と言うのも、今回の手術は左...私・井手純~手術⑦~

  • 私・井手純~手術⑥~

    私・井手純~手術⑥~

    先生は手際よく傷口を触り始めた。しかし、これからが地獄だった。何しろ6時間以上も時間が経っていたので、当然のこと麻酔は完全に切れており麻酔無しでの管抜きとなったのである。時間的にはほんの10分ぐらいだったのだが、管が抜かれるまでは恐ろしい痛さだった。しかし管が抜かれると噓のように痛みは無くなった。チラッとしか見れなかったが管は太さ2~3ミリで長さは約20センチぐらいであった。その後傷口を先生は親指で約20分体重をかけて抑えつずけた。これもかなりの苦痛を感じた。日をまたいでやっと終わった。その頃は痛みは噓のようになくなった。体が動かせる様になったのが本当にありがたかった。何よりもトイレに行けるようになったのが助かった。翌日リハビリをしたが、痛みは無く普通に歩けるようになった。明日退院できることになった。約2週間後...私・井手純~手術⑥~

  • 私・井手純~手術⑤~

    私・井手純~手術⑤~

    身体にメスをいれられたことの無い自分としては未知の異様な感覚だった。動脈硬化で細くなった血管を広げているのだろうと想像した。時間的にはよく分からなかったが長く感じた。20分ぐらいだったと思う。先生の動きが止まり、手術は終わった。ブルーシートとステンレスのアーチが取り払われ、いつの間にか運ばれて来た私のベッドに数人がかりで移動された。その後隣りの部屋に移された。そこで別の先生が約20分、管を差し込んだ所を親指でかなりの力で押さえ続けられた。先生に聞くとかなり前から血液がサラサラになる薬を飲んでいた為に血が止まるまで抑えなければならないと言う事だった。この時は先生の体重をかけて親指で押さえつけていたのでかなり痛かった。その後血が止まったのを確認され、ベッドに寝たまま自分の病室に運ばれた。病室に着くと先生からこれから...私・井手純~手術⑤~

  • 私・井手純~手術④~

    私・井手純~手術④~

    一度目の手術。手術着に着替えていた私は、看護師さんの言われるまま自力で手術台に横になった。天井を見ると以前の手術の跡か、血の跡らしきものが一つ目に入った。恐らく以前の患者さんのものと思われ、体が固くなった。周りでは助手の人や看護師さんたちがテキパキと動いていた。そのうち私の頭の上にアーチ状のステンレスの枠がかけられ、その上からブルーシートをかけられた。視界は目の前のブルーシートで完全に塞がれた。看護師さんから名前と生年月日を聞かれ、答えると担当の先生から”井手さんこれから(専門用語)の手術に入ります。”と言われ、手術が始まった。まず足のつけ根に局部麻酔を打たれた。とにかく、何も見えない状況で麻酔を打つ時の痛みと、麻酔が効き始めてからの先生の動きを想像するしか無かった。付け根部分からつま先への動脈に管らしきものが...私・井手純~手術④~

  • 私・井手純~手術③~

    私・井手純~手術③~

    7月22日に入院し手術は25日であった。とにかく私としては、手術台に上がることは、生まれてこのかた初めての事なので不安と期待でいっぱいだった。しかし足が痛くて20~30メートル休み休みでないと歩けなかったのが、治るという嬉しさの方が大きかった。手術日は決まっていたが、入院日は混んでいたので4日前であった。その間毎日検査ばかりで、尚且つ点滴のくだをつけられトイレに行くのも面倒だった。友人の見舞いに行ったときにその様な姿を見ていたことはあっても、いざ自分がそうなってしまうと情けなかった。いよいよ車椅子に乗り、手術室に着き、手術台に上がると緊張して動機が高まった。担当の先生は淡々とした口調でこれから行う手術の説明をしてくれた。ここまで来たら昔の人が言っていた”嫁にいった晩で相手の言い成り”の心境であった。私・井手純~手術③~

  • 私・井手純~手術②~

    私・井手純~手術②~

    市川にある循環器専門の病院に紹介状を書いてもらい、行くことになった。私の父は開業医だったので、子供の頃より他の病院に行くことがなかった。紹介を受けた病院は、家から20キロほど離れた最新の機器を揃えた病院とのことだった。車の運転には支障が無かったので1人で行った。手続きをして約2時間待ってやっと順番がきた。(勿論、予約を入れておいたのだが)周りを見ると、自分が若く感じるほど高齢者が多かった。先生に問診を受けて、その後4時間後にCTを撮って貰い、また2時間待ち、再度先生に話を聞くことが出来た。結局約8時間病院にいた。翌日、自分の足のレントゲン撮影を見ながら先生の説明を聞いた。結論は”足梗塞”という事で、すぐに手術が必要との事だった。原因は動脈硬化で、若い頃からの不摂生であった。すぐに入院という訳には行かず、2週間後...私・井手純~手術②~

  • 私・井手純~手術①~

    私・井手純~手術①~

    心筋梗塞・脳梗塞にならぶ足梗塞の怖さ。68歳にして人生初の入院と手術体験。日本で最近とくに注目されているのが足梗塞。原因として基本的には動脈硬化。動脈に血栓が詰まり血液が流れにくくなり、ひどくなるとかなりの痛みを伴いまったく歩けなくなる。上半身(心臓、脳)に血栓が飛べば、麻痺やひどいときは死に至る。下半身に血栓が詰まるとひどければ壊死を起こし切断に至ることもあると言う。私は68歳なかばにしてその足梗塞を体験をした。その時の実体験を書き残しておこうと思う。私は2019年6月ごろから足が痛くなり、最初は右足。買い物に出て20歩ほど歩くと脹脛が異様に痛くなり、休まないと進めなくなった。息切れもひどくなり休み休み歩いていた。今までに無かった状況に焦っていた。行きつけのクリニックで診てもらうと薬を出してくれた。すると幾ら...私・井手純~手術①~

  • 姪・山岸美喜~24年ぶりの再会⑤~

    姪・山岸美喜~24年ぶりの再会⑤~

    姪の美喜からは晩年の慶朝のことを色々聞いた。慶朝の住んでいたひたちなか市の自宅にも案内された。慶朝が晩年お世話になったサザコーヒーの鈴木会長にもお会いし、そこでも色々な逸話を聞くことが出来た。”徳川慶朝”という重い名前を背負い現代の世界で生きてきた彼の苦悩は大変なものであったと思い知った。他にもたくさん徳川を名乗る方々はおられるが、それぞれにその名前の重さを痛感しているのだと感じている。私などは”井手”を名乗り(勿論、井手家も由緒ある家ではあるが、さすがに徳川家とはその重さは比較にならないもので)やりたい事をやりこちらから言わない限りは誰も気が付かないのであった。姪の美喜はまさに男勝りというか、とにかく行動力のある人で趣味も多彩で、料理、ゴルフ(シングルハンディ)、クラッシック音楽のプロデュース、また自分で幾つ...姪・山岸美喜~24年ぶりの再会⑤~

  • 姪・山岸美喜~24年ぶりの再会④~

    姪・山岸美喜~24年ぶりの再会④~

    美喜のご主人はとても寛大なかたで、彼の援助の上に彼女の行動は成り立っているのだと思う。美喜と同じく慶喜公の血を受け継ぐものとしてはこれ程ありがたいことはないと感謝している。姪の美喜とは前にも述べたが、24年の空白があった。その間お互いにいろいろな事があり、特に私のことは彼女に言わせると”井手のおじちゃまには近づかないのがいい”と周りから言われており、再会した時もかなり警戒していたと言っていた。これについて私としては全く弁解の余地がなく、認めざるを得ないのである。60数年前には年末から年始にかけては毎年恒例行事が高輪の高松宮邸でおこなわれていた。40数年前からは姪の美喜も参加し毎年宮邸での同じ空気を感じさせて頂いた。その感覚は彼女と話していると次から次へと思い出が湧き出てきていつまでも会話がつきなかった。12月2...姪・山岸美喜~24年ぶりの再会④~

  • 姪・山岸美喜~24年ぶりの再会③~

    姪・山岸美喜~24年ぶりの再会③~

    2019年6月29日国際仏教大学(文京区小石川にあり、慶喜公の終焉の地であり、私の母も生まれ育ったところ)にて毎年恒例の講演会があった。数年前に慶朝も私の母も講演させて頂いた。そこで24年ぶりに姪の美喜に偶然にも再会する事が出来た。その日を境に姪の美喜と何度も電話で話すようになり、慶朝のことを色々聞くことが出来た。2019年慶朝の二年祭の折参列させてもらった。後日慶喜公の弟である徳川昭武の住んでいた松戸市の戸定邸にて美喜と二人で婦人公論のインタビューを受けさせてもらった。(10月8日号)fujinkoron.jp/articles/-/963姪の美喜は慶朝から受け継いだ事をとても重く感じており、女の自分がこの後どのようにして動けばよいのか悩みぬいた。まして山岸家に嫁いだ身として徳川を名乗っていない自分がどこまで...姪・山岸美喜~24年ぶりの再会③~

  • 姪・山岸美喜~24年ぶりの再会②~

    姪・山岸美喜~24年ぶりの再会②~

    私の母久美子は、私達にとても厳しかった。その調子で慶朝にもよく小言を言っていた。彼は私の母の事がとても嫌いだった。晩年の彼はほとんどの親族と接することを拒んだ。その中で姪の美喜には心を開き、食事をしたり、お酒を飲んでいた。慶朝が亡くなる前に遺言書を書いていた。彼の全ての財産と慶喜公の資料を山岸美喜に託すと・・・・よほど美喜には全幅の信頼を寄せていたのであろう。慶朝の葬儀は茨城の地元で行われ最後まで美喜が色々手配をした。私は高齢の母もいたため、葬儀には参列出来なかった。翌年の7月私の母が95歳で天寿を全うした。これで慶喜家の孫は全員居なくなった。徳川おてんば姫(東京キララ社)姪・山岸美喜~24年ぶりの再会②~

  • 姪・山岸美喜~24年ぶりの再会①~

    姪・山岸美喜~24年ぶりの再会①~

    姪山岸美喜1968年東京生まれ祖父は徳川慶喜家3代目当主徳川慶光(私の母井手久美子の兄)母は慶光の長女安喜子(私の従姉妹)従兄弟、安喜子の弟(後の徳川慶喜家4代目当主となった慶朝)が2017年9月、67歳の若さで亡くなった。慶朝が体調を崩した頃から良く茨城の自宅へ名古屋から行き介護など面倒をみていた。(美喜は山岸家に嫁いでおり自宅は名古屋であった)慶朝が入院した時も月に何度も見舞いと自宅の掃除などをよくしていた。私は子供の頃毎日の様に慶朝の家に行きよく遊んだ。同じ中学・高校に通学していたが、その頃はほとんど話をすることなく過ごした。今にして顧みると慶朝は徳川の名前の重さをとても感じており、4代目当主として日々葛藤していた様に思えてならない。身内のものより説教されること、また、”あれをしなさい、これをしなさい”と...姪・山岸美喜~24年ぶりの再会①~

  • 写真館⑭~母の写真~

    写真館⑭~母の写真~

    母久美子の晩年の写真。写真館⑭~母の写真~

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