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徳川おてんば姫
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2019/05/02

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  • 母・井手久美子~母のおもいで①~

    母は子供の時から身体を動かすことが好きであったこともあり、晩年もスポーツ番組はよく見ていた。特に相撲は好きで、贔屓力士は白鵬と安美錦だった。白鵬が負けると、とてもガッカリしていた。テニスは自分も86歳までやっていたので、錦織圭選手は大のお気に入りだった。前にも記したが、麻雀は本当に好きだった。松平家に居た頃は無理矢理させられていたので、いやがっていたが、60歳の後半からはよくやっていた。同級生の、伊藤博文のお孫さんの自宅で月に一度は行っていた。その後は近所の人(皆さん男性)と朝から夜までやっていた。父が元気な頃は、父がヤキモチを焼くほどで”そんなにやりたければ俺が死んでからやれ!”と怒っていた。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子~母のおもいで①~

  • 母・井手久美子~賜物御礼②~

    元宮務官のお手配のお陰で無事賜物御礼ができたことは心より感謝で、声をかけていただけなければなしえなかったことだった。8月末の頃、携帯電話に記録のない番号から掛かってきた。出ると美智子皇后陛下の女官の方からだった。あまりに突然のことに驚いたが、なんと美智子皇后様が母の本を読まれて”とても懐かしく楽しく読ませて頂いた。”とのお言葉だった。ありがたいことと、畏れ多い事でなんと答えたかよく覚えていない。母の墓前にすぐに報告をした。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子~賜物御礼②~

  • 母・井手久美子~賜物御礼①~

    母の四十九日も済んだころ、元高松宮宮務官の方のお声掛けで、平成両陛下及び各皇族に賜物御礼の記帳のご手配をしていただけた。平成30年8月22日、元宮務官と一緒に皇居に入り平成天皇陛下、美智子皇后両陛下にそれぞれ記帳させて頂き、その後皇太子両殿下、秋篠宮殿下、常陸宮殿下、三笠宮家、高円宮家と記帳させて頂いた。その折、母の最初で最後の本”徳川おてんば姫”をお渡しできた。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子~賜物御礼①~

  • 母・井手久美子~おてんば姫のお別れの会②~

    外で母への焼香に来て頂いた方々のお世話をしてくれていた東京キララ社の中村社長は”住職のお経お経が始まると同時に、暗くなり本当に土砂降りでした。でも、ものの15分で快晴になって、嘘みたいに水たまりも元通りになりましたよ!驚きました。”と話してくれた。焼香がすみ、皆さんに喪主としてのご挨拶をさせて頂き、その後表に出ると相変わらず晴天であった。受付をして頂いたキララ社の中村社長から雨のことを聞き、初めて知った。周りには水たまりもなく、そんな大雨の影も無かった。最後まで母が、おてんば姫が,何を言いたかったのか・・・・遺骨を抱いて、まだ母の死の実感が無いなか、澄み渡る空を見上げて色々と考えてしまった。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子~おてんば姫のお別れの会②~

  • 母・井手久美子~おてんば姫のお別れの会①~

    7月10日千葉県君津市の圓明院で、お別れの会をした。午前10時すぎに平成天皇皇后両陛下、各皇族の方々より侍従の方がお花とお供物をお届け頂いた。本当に有難く、畏れ多いことで心よりお礼申し上げます。当日は猛烈な暑さで、晴天であったにもかかわらず、地元の方々、母の終の棲家であった住民の皆さんも来ていただいた。鈴木住職のお経が始まり我々は本堂にて焼香をした。ご住職のお経が始まったころ、外では一転にわかに掻き曇り本当にお寺の上空だけに雲がかかりバケツの底を抜いたようなもの凄い雨になった。お寺は見渡しの良い高台にあったので周りは良く見渡せたが、周囲は快晴であったという。わたしは本堂におりその大雨には全く気が付かなかった。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子~おてんば姫のお別れの会①~

  • 母・井手久美子~母の葬儀~

    7月1日午前7時半母は亡くなったが、当時はとても熱く家には遺体を置いておけず、葬儀社の安置所に運んでもらい、通夜も出来なかった。7月4日、母の火葬が決まり北海道から弟の嫁も来てくれた。安置所で東京キララ社の方達と7名程で最後の別れをして火葬場へ行くため霊柩車に乗せ焼き場へ向かった。国道16号線の途中で突然母の遺体を乗せた霊柩車が止まった。霊柩車には弟が私の代わりに喪主として乗っていた。なんと霊柩車がパンク・・・・・まるで母が”まだ焼かないで!!”と言っている様だった。弟の嫁も”お母さまらしいわ!”と言っていた。『おてんば姫』の最後はこれで終わらなかった。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子~母の葬儀~

  • 母・井手久美子~母の旅立ち④~

    翌朝、弟と息子の3人で交代で母の具合を見ていた。朝6時、私がティッシュで唇を濡らしてあげるとほんの少し口を動かした。それが最後だった。3人で泣いた・・”よく頑張ったね”と言って私は母の頭を何度もなでた。涙が止まらなかった・・・・・・・・皆、暫くは無言でいた。7時頃いつもの訪問診療の先生に連絡を取り来ていただき死亡を確認してもらった。診断書を書いて頂き、すぐに葬儀社に電話をした。こうしていまブログを書いていると当時のことが思い出されて、手が止まってしまう。ただその頃、西日本では大きな災害で多くの方々が苦しみながら亡くなっていた。亡くなった方々とご家族の方には心よりご冥福をお祈りいたします。母は、自宅で身内に見守られながら行けたのは幸せだったんだと自分に何度も言い聞かせた。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子~母の旅立ち④~

  • 母・井手久美子~母の旅立ち③~

    病院では点滴をしていたが、体調の具合も、年のせいもあり殆ど体内には吸収されず、先生はその辺を見て寿命が分かったのだと私は理解した。自宅につくと”よかった、嬉しいわ!”と何度も何度も言っていた。意識もしっかりしていたが、水も飲ませられない状況なので恐ろしく不安であった。この年、異常に熱く連日36~38度あった。家にはクーラーが無くきつかったが、母は昔から暑さには強かった。翌日、東京キララ社の中村社長とアエラ編集部(昔、女学生の頃、高輪の井手医院でアルバイトをしていた。)の方々が見舞いに来てくれた。母はもう、あまり声も出なかったが、嬉しそうに笑顔で答えていたが、見ているのも辛かった。3時間おきにティッシュに水を含ませて唇を湿らせていた。その都度口をとがらせてほしがった・・・・・徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子~母の旅立ち③~

  • 母・井手久美子~母の旅立ち②~

    本が出来上がったことで、興奮と共に緊張の糸が切れ体調を崩した気がする。約3週間入院となった。毎日会いに行ったが、熱も下がり元気になってきたのだが、入院2週間ぐらいたった頃より誤嚥性肺炎の疑いが出て来た。退院する三日ほど前に主治医より恐らく週末は越せないかもしれないと突然言われ、息子と相談し金曜日に慌てて退院させた。当日息子が”おばあちゃん、家に帰れるよ。”と言うと、顔をしわくちゃにして息子の手を掴み”嬉しい!”と大喜びしていた。息子と母は介護タクシーに乗った。後で聞くとタクシーの中で”病院の天井に虫がいたの!”とさかんに言っていたようだった。それが幻覚だったのかは分からないが、しっかりとした会話だったそうだ。母は昔よりとにかく虫と蛾が大嫌いであった。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子~母の旅立ち②~

  • 母・井手久美子~母の旅立ち①~

    2018年(平成30年)6月6日に長年の夢であった自叙伝が出来上がり、東京キララ社の中村社長が自宅に届けてくれた。その際デイリースポーツの記者も同席してくれて、インタビューを受けた。当時の記事母は本を手にして”夢のようだわ!嬉しい。”と、なにか子供のように本当に喜んでいた。インタビューにもキチンと答え元気だったのだが・・・翌7日、朝から何となく母の動作が緩慢なので、おかしいなと思い、おでこに手を当ててみると結構熱があった。すぐ測ってみると40度もあったのですぐ訪問診療の先生に来てもらい診てもらう。先生はすぐ入院と判断されたので救急で病院に入った。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子~母の旅立ち①~

  • 写真館⑦~詫間力平氏~

    自衛隊の巡洋艦上にて撮った写真。右から詫間力平氏、母・井手久美子、私、弟である。徳川おてんば姫(東京キララ社)写真館⑦~詫間力平氏~

  • 父・井手次郎~詫間力平(旧姓・猪口力平)氏との出会い②~

    昭和30年代の頃から私どもの自宅によく来られ父といろいろ話されていた。とても温和な方で、しかしながら命令とはいえ従わなければならなかった苦しみが父には感じられていた。昭和50年代に東京・高輪の自宅が7階建てのマンションになってからは、リビングルームからの眺めを「井手八景」と名付け自筆の書を下さった。当時はまだ高い建物も少なく、西には富士、南には新幹線、東京湾の船も見え、また夕暮れ時には泉岳寺の鐘の音も聞こえていた。のちに海上自衛隊幹部学校にて統師学の講義もされていた。その関係もあり、私どもを江田島の元海軍兵学校に連れていってくださったり、また自衛艦や潜水艦”うずしお”にも載せていただけた。詫間力平(旧姓猪口力平)氏の軍歴はウィキペディアに詳しく掲載されている。徳川おてんば姫(東京キララ社)父・井手次郎~詫間力平(旧姓・猪口力平)氏との出会い②~

  • 父・井手次郎~詫間力平(旧姓・猪口力平)氏との出会い①~

    父は終戦後、高松宮邸にて殿下より詫間力平元海軍大佐に会わせて頂く。詫間氏は戦時中、神風特別攻撃隊を命名され、零戦を主体とした世界で最強の航空隊を編成された。神風の由来は詫間氏の郷里の鳥取市の武道、神風(しんぷう)流からきている。終戦直前、敗戦の色濃くなったころ悲しくも神風特別攻撃隊の名は神風特攻隊に変わってしまった。物資不足のなか、航空隊の若い戦闘員に片道のガソリンしか積ませず自爆の戦闘機を幾百機も苦痛の命令の中で送り出した。徳川おてんば姫(東京キララ社)父・井手次郎~詫間力平(旧姓・猪口力平)氏との出会い①~

  • 父・井手次郎~父の戦記を記して思うこと②~

    今の時代、通信機器をはじめとして全てにおいて便利になったとはいえ、人として人間として本当に幸せなのか考えさせられてしまった。また、毎年6,7,8月頃になると何となく両親とも感慨深げに当時の話していた。母は、晩年戦記ものの番組をテレビでやっていると、辛い思いがよみがえるのか、そっとチャンネルをかえ時代劇か落語を見ていた。父は母と一緒になってから、縁というか運命とも言うべき高松宮宣仁親王殿下と直接会うことになる。殿下は終戦を迎えたときは海軍大佐であった。大佐といっても、とにかく昭和天皇の弟君。そんな方から終戦後直接自宅に招かれ、いち海軍軍医中尉としての現地での壮絶な戦いを事細かに問われたのである。父は戸惑いながらも殿下のご質問にすべてを、お伝えした。帰宅した父は、”これでサイパン島にて戦死された方々の事が少しでも殿...父・井手次郎~父の戦記を記して思うこと②~

  • 父・井手次郎~父の戦記を記して思うこと①~

    私は、このブログを書き始めて、父の書き残した戦記を初めて真剣に何度も読み、記している間幾度も涙が止まらなかった。今更ながら、戦争の過酷で悲惨な事実を肌で感じ、終戦後のあまりにも平和な生活に浸っていた自分が情けなく思えてならなかった。しかし、当時の日本人の忠誠心(無理矢理押し付けられたとは言え)と、技術力の高さには改めて驚かされた。こんな小国が、ギリギリまで超大国と戦い、負けたとはいえ今の日本が存在できていることに改めて感謝せざるを得ない。そして二度とこの様な悲劇は繰り返してはならないと思うのだが・・・・・。徳川おてんば姫(東京キララ社)父・井手次郎~父の戦記を記して思うこと①~

  • 写真館⑥~父・井手次郎~

    戦時中の父・井手次郎の写真である。井手医院のアルバイトの子たちとの写真である。左下が父・井手次郎、中央下が母・井手久美子。写真館⑥~父・井手次郎~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦⑥~

    昭和53年8月12日より3か月間、米国カルフォルニアの航空博物館に展示されていた零式戦闘機52型が、多数の方々の努力で日本の上空にそのかつての勇姿を現した。この戦闘機はまさに261空「虎」の戦闘機であった。零式戦闘機は周知のごとく、当時太平洋戦に確たる戦果をあげた、世界的に優秀な戦闘機であった。その華麗さと言える完璧な姿で、敵の心胆をさむからしめた零戦も、残念ながらサイパン戦も最後の頃には、アスリート飛行場付近の樹木の間に、迷彩網によって隠蔽されるのみで飛行することなく、アスリート占領と同時に米軍の捕獲することになり、米本国において充分に研究され、その優秀性は当時の米搭乗員が、恐るべきライバル機としてみとめ、それに対する新しい作戦に頭を悩ませたと聞いている。この零戦が私の隊、261空のものであったと知ったとき、...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦⑥~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦⑤~

    ちょうど私どもがサイパンを訪れる3ヶ月前に、私がいた洞窟より、さらに北のマッピ岬のウロト渓谷では、50数柱の日本軍の遺骨が発見され、厚生省の遺骨収集団が現地の人の協力で、丁重に内地に運んだそうである。私どもは現地の人の案内で、深さ50メートルくらいのウロト渓谷を訪れた。崖の上から見下ろすと、はるか底には海水が入り込み、なんとも形容しがたい碧さに透き通り、その周囲は、大小の岩が折り重なって底まで崖をなしている。私たちは収集団の使った綱とクサリにつかまりながら、岩づたいに降りた。底に着くと、まさに静寂そのもので、当時はここに退避した戦友たちは周囲の岩棚に身を寄せ合い、飢えと渇きに苦しみつつ、友軍の救援の手を待ち焦がれながら、絶望と無念の思いの中で死んで行ったのであろう。見回すと、岩のあちこちに、名前が刻まれていたの...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦⑤~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦④~

    私にとっては、総攻撃の二日前、北の洞窟より一キロほど離れたこの戦闘指揮所に連絡に行った思い出の場所であり、当時のことを思い出し、まさに感慨無量であった。最後の総攻撃の地点や、タナバク水上基地付近は、もう当時の跡形すらなく、ガラパンの街には現地の人の粗末な家屋が立ち並び、南洋興発会社跡には、製糖工場の煙突と、当時のサトウキビ運搬用の蒸気機関車、および同会社創立者の松江春治氏の銅像がそのまま残り、日本の委任統治地であった頃の面影を僅かに残している。バンザイクリフの下から見上げると、100メートルもある切り立った崖には、米軍の艦砲射撃による弾痕が生々しく残っている。米軍上陸地点のチャランカノアの海岸には、日本軍の砲撃で破壊された米軍の水陸両用戦車の残骸がその砲塔を紺碧の海上に現していたが、その付近を、当時のことを何も...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦④~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦③~

    最後に私事であるが、終戦後、毎年6、7月になると、サイパン島内の戦闘や玉砕当時のことが想い出され、一度はサイパン島を訪れて、戦死された方々への霊を慰めに行きたいと考えていたが、昭和44年8月、25年ぶりにその機会をえて妻・井手久美子と二人でサイパン島を訪れた。幸い当時、日本軍の二等兵として奮戦された、ビセンテ・サブラン市長とサイパン島で警察官として日本陸海軍に協力され、現在は実業家であるゲレロ氏の好意により、島内の261空のたどった道をすべて案内していただいた。アスリート飛行場、261空戦時治療所付近、高射砲陣地跡、防空トーチカおよびラウラウ湾の要塞砲台跡などを訪れ、さらにタポーチョ山を越え、上田猛虎261空司令が玉砕直前まで戦闘指揮をとられていた、コンクリートで固めた洞窟の戦闘指揮所も訪ねた。この戦闘指揮所の...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦③~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦②~

    私は、サイパン島における海軍の主力戦闘機隊である、261空の一軍医として、島内におけるわが医務隊の行動、およびその周辺の戦闘状況などについて日を追って記述したつもりであるが、何分にも前記のような苛烈なる戦闘中のことであり、また40数年前のことであるため、日時、場所などに多少の誤りがあるやも知れず、この点については何卒お許しいただきたい。また、戦死された方々の詳細なる状況をも充分に筆に尽くすことができず、誠に申し訳ない想いで一杯である。亡くなられた英霊に対し、また、もしこの小文をお読みくださるご遺族に対しても、この点深くお詫び申し上げる次第である。(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)徳川おてんば姫(東京キララ社)父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦②~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦①~

    私の着任した当時、サイパン島には風土病のデング熱、アメーバ赤痢、およびウィルス性の流行性肝炎が多発していた。これが戦力にもかなり影響があったように思われた。また、外相患者としては、ペリリュー島、メレヨン島上空ノ空中戦での搭乗員の銃弾創および熱傷の患者、その他、航空機整備中の事故による負傷の患者が主だった。米軍の上陸後は、銃砲弾、爆弾の破片による戦死および負傷者が大部分であった。文中、破傷風による戦傷者たちの悲惨な状態を書いたが、戦後、機会があってハワイを訪れた際、知人の外科医と太平洋戦争について話し合ったとき、彼の話によると、米国海軍医学雑誌の報告では、太平洋戦争中における米軍の戦傷者死の中で、破傷風による死亡はわずか6名であったと報告されたことを聞き、只々驚嘆するのみであった。米軍では、その頃すでに破傷風トキ...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦①~

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