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徳川おてんば姫
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2019/05/02

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  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑯・敗北の条件③~

    六、敵の上陸後は、アスリート飛行場攻略の米陸軍は、多数の重戦車を先頭にし、それらは砲身の長い75ミリ砲と13ミリ機銃を搭載し、多量の砲弾を打ち込みながら進撃してきた。これらに対し日本陸軍は、全島内の50数両のうち、軽戦車(35ミリ砲、7.7ミリ機銃搭載)で対抗しなければならず、しかも数回の夜襲でその大半を失ってしまった。また日本軍の砲撃で各座、破壊された米軍戦車は、戦車牽引車によりすみやかに後方に退避、修理後再び戦列に復帰していた。七、敵の進行があまりにも急なため、アスリート飛行場を死守していたわが陸海軍部隊は、「あ号作戦終了」と同時に、飛行場を撤退したが、その際、隠蔽していた航空機、燃料、弾薬などを爆破することなく、これらは敵の手中に落ちたのだが、この点については、司令部より爆破、焼却の命令はなかった。八、戦...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑯・敗北の条件③~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑯・敗北の条件②~

    この点について、私のような新任の一軍医中尉が、日本の陸海軍の戦略、戦術などについてのべる資格はないが、この島で米軍の空襲、艦砲射撃につぐ上陸、さらに総攻撃、玉砕までの戦闘経過の様相を自ら体験し、かつ感じたことを述べることが許されるならば、次のような点が”決定的な敗因”であったと思われるのである。一、昭和19年6月初旬、マーシャル群島のクエゼリン環礁内に、米機動部隊および、艦船部隊の大艦隊が集結している事をわが方の偵察機が確認しておりながら、「あ号作戦発動用意」で、基地航空隊の主力をハルマヘラ島方面に移動させたことである。したがってサイパン島のアスリート基地は、航空兵力は半減し、実戦経験の少ない若い搭乗員によって防備されていたのだった。これでは、敵の空母15隻、戦艦8隻を主とする艦隊や輸送船団に対して、基地航空隊...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑯・敗北の条件②~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑯・敗北の条件①~

    昭和18年の半ば過ぎまで死闘を続けたソロモン群島と、東部ニューギニアにおける日米両軍の戦線は、19年に入ってからは、マーシャル、カロリン群島および西部ニューギニアに移り、米軍は特に内南洋方面に加速度的な勢いで進撃を続けて来た。日本軍は、この不利な体勢を一挙に挽回すべく、陸軍は関東軍より抜粋された機甲部隊をともなった43師団、29師団などの精鋭部隊をマリアナ諸島に派遣して、堅固な防衛体勢をとりつつあった。一方、海軍は基地航空隊兵力として、一航艦の主力を、サイパン、テニアン、ロタ、グアムの各地に置き、最新鋭機750機を配備、攻勢に転じた米機動部隊、艦船部隊に対して徹底的な打撃をあたえるべき機会を伺っていたのだ。当時は日本陸海軍はもとより、一般の国民にも、サイパン島は難攻不落の要塞と信じられていたのだ。それが昭和19...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑯・敗北の条件①~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑮・ああ白昼夢④~

    2キロ近く前進して電信山を越える頃には、3人ともに疲労困憊のていで、体力の消耗は極度に達し、軍刀を杖にして歩いていても、その頃から精神状態さえもうろうとして来ていた。岡本軍医長と訣別してから二日目の午前11時頃、3人とも倒れ込むようにして、ジャングル内で仮眠中、なかば夢の中で英語で喋っている声が聞こえ、私がハッと気が付いて目を覚ますと、木立の間から50メートルほど先に軽機を腰だめにした、数名の迷彩服を着た米兵が近づいてくるのをみた。私は軍刀以外に武器もなく、反撃する余裕も気力もなかった。当然、その場で射殺されるものと思っていたが、撃つ様子もなく銃口を向けて、ジャングルから出ろと合図をする。3人は仕方なくジャングルの外のサトウキビ畑に、這うようにして出て、無抵抗のまま、米海兵隊員に捕らわれの身となってしまった。私...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑮・ああ白昼夢④~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑮・ああ白昼夢③~

    すでに水筒の水もほとんど空になり、のどの渇きはひどくなるばかり。そこで近くのサトウキビの茎を軍刀で伐採し、茎をかじり水分を吸うが、甘すぎるのと口内が荒れているためか、とてものこと渇きを癒すどころではなかった。夜明け前に、H兵曹がどこからか、あるいは破壊された民家の貯水槽の底にでも僅かに溜まっていたものであろうか、水を探し出してきて、私たちの水筒に満たしてくれた。もちろん、何枚も重ねたガーゼでこしても茶緑色をしていたが、食料は乾パンのみで、水がなくてはとうていのどを通ってくれない代物だ。この時の水のありがたさは、今以って忘れることが出来ない。ともかく、これでわずかながら飢えと渇きをしのぐことが出来たのであった。そのあと私たちは、暑い日中は熱帯樹林の中に身を隠し、日が沈むと再び東へ東へと敵占領域内深く侵入していった...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑮・ああ白昼夢③~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑮・ああ白昼夢①~

    夜になって敵は、日本軍の再突入を警戒してか、この未明に突入した地域付近に、またも機銃と照明弾、曲射砲弾を間断なく放ち続けていた。それでも夜半になると敵の砲撃もしだいに下火になってきたようだ。私は50メートルほど離れた、岡本軍医長のいる岩の陰にいて近づいていった。軍医長と衛生兵は健在だった。軍医長は「もう今となっては信ずべき指揮系統は全くなくなった。井手中尉はこれからどうするか。敵陣地に再突入するか、またもとの洞窟にもどるか考えよ。」と言われた。軍医長は「俺は洞窟にもどる」と言われた。軍医長は洞窟で重傷者と運命をともにする覚悟か・・・と私には思われた。岡本軍医長は、海浜のジャングルの中で偶然一緒になった、301空の軍医長・宮沢軍医少佐(転勤の途中でサイパンに寄られたのか?記憶がさだかでない。)と共に相談して決心さ...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑮・ああ白昼夢①~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑮・ああ白昼夢①~

    岡本軍医長と兵2名は無事であったが、他の衛生兵は行方がわからず、私はI少尉(予備学生出身)と、他隊のH主計兵曹と3人で岩陰に潜んでいたため、奇跡的に生き残った様である。私もいつの間に負傷したのか、右の脛(すね)がピリピリと痛む。見ればズボンが破れて、血がにじんでいる。どうやら、小指の先くらいの傷を負ったらしいが、歩行には支障がなかった。多分曲射砲の小さな破片によるものであろう。とにかく、自分で言うのもおかしなことだが、この時点まで生き残っていたとは、まさに奇跡的としか言いようがなかった。その頃は、もはや指揮系統は全くなく、流言飛語は乱れ飛び、命令らしきものも、疑心暗鬼で、誰かが何かを言うとみな、耳をそばだてて、取るに足らぬことであると、また、不信感が掻き立てられるといったありさまだった。すでに陸海軍最高司令部は...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑮・ああ白昼夢①~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑭・最後の総攻撃4~

    かくして、いよいよ突撃の行進がはじまった。医務隊は第32分隊ということで、総攻撃の後部近くで進撃に加わった。暗闇の中、ここ数日来の戦闘で倒れたわが陸軍部隊の屍がるいるいとしており、屍臭漂う中を私たちはひたすら押し進んで行った。午前3時30分ごろ、バナデル水上基地から2キロほど手前の敵陣地付近に、突如としてわぁーという喚声があがった。先鋒の第一分隊からの突入がはじまったのだ。米軍陣地では予想もしなかった、早期の日本軍の大規模な総攻撃をうけて、前線は混乱し、曳光弾や機銃弾が方向違いに飛び交う。30分もしたころ、攻撃部隊はそれまでかなりの速度で進行しつつあったが、隊列が急に止まったかと思うと、先に進んだ兵隊が戻ってくる。前方から退いてくるもの、後方から進むものとで、予期しない混乱がおこったが、これまでに、総攻撃部隊の...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑭・最後の総攻撃4~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑭・最後の総攻撃3~

    7月7日、午前1時ーーー主計長・藤原治主計大尉より、最後の盃を上げるための日本酒が配られ、飯盒のふたにそそいで、全員で乾杯をした。歩行不能の重傷者には、枕元に手榴弾と水がおかれ、我らゆくものはこれら残留者に対し、岡本軍医長の号令のもと全員の敬礼で無言の別れを告げたが、死を目前にひかえた厳粛な雰囲気の中では誰もが手を合わせ、あるいは祈りを捧げていたであろう。午前1時30分---入口に近い者より順じゅんに洞窟をでる。暗闇の中を4~5人ずつ、静かに集合地点に向かって進んで行ったが、途中、時折ちかくに砲弾が落下しては炸裂していた。午前3時ーーー総攻撃部隊全員が、指定された第二飛行場の滑走路に集合した。総攻撃指揮官上田猛虎中佐は、用意された壇上にのぼると、命令を下した。「これより総攻撃を敢行、突撃する。ここに、これまでの...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑭・最後の総攻撃3~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑭・最後の総攻撃2~

    翌7月6日午前10時頃、はやくも総攻撃の命令が下った・・・・『攻撃日時ーーー明7月7日午前3時攻撃地区ーーータナバク水上基地付近の米軍。合言葉は「星にたなばた」陸、海軍、その他で、約50人を一分隊とし、午前2時半にバナデル第二飛行場の北部に集結のこと』と決まり、総攻撃隊員は約2000名と考えられた。総指揮官は261空司令・上田猛虎海軍中佐であった。7月6日---この日は洞窟において終日、総攻撃準備のため全員とも、極めて多忙であった。工作隊は鉄棒を鋭く研磨して槍を製作して配り、ほかの者は機銃、歩兵銃などの兵器弾薬の整備、そしてまた、手榴弾の使用法の確認などであった。主計隊からは各人とも二日分の携帯食料(乾パン)と、水の配給をうけた。(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)徳川おてん...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑭・最後の総攻撃2~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑭・最後の総攻撃1~

    戦闘指揮所の入口の番兵に、261空司令に連絡に来たことを告げ、横の僅かな隙間から石の階段を十数段のぼると、左側に入口があり、その中には十数名の海軍上層部の主として、左官級の立ち姿が淡いロウソクの光を中心にして集まり、作戦会議中であった。上田司令が出てこられ、私たちに次の事をつたえられた。「戦況はわが軍にとって極めて不利である。米陸軍部隊、海兵隊はアスリート飛行場を完全に占領し、すでに軽飛行機の離着陸が可能な状況である。また米陸軍部隊は、戦車を先頭にタポーチョ山に進攻してきており、一方ガラパン市街は陥落、敵はタナバク水上基地北部にまで進出してきた。ここにおいて、日本軍の救援、逆上陸は、もはや望み得ない。従って数日以内に陸、海軍および軍属、民間人にも参加可能なる者は全員参加し、最後の総攻撃を敢行する。全員は総攻撃用...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑭・最後の総攻撃1~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑬・燃える燐光3~

    さて、ここでの私の仕事となると、一日中負傷者の診察と包帯交換、特にうじ虫の除去に追われ、大小便などもバケツの中にして外に捨てる状態であった。このころになると食糧は、もう握り飯などはなく、乾パンと缶詰と、僅かな飲料水が配られるのみであった。負傷者は次第に衰弱していく、また全員が栄養不良のため、憔悴の色がこく、そのうえ吹き出物や、シラミの発生にも悩まされた。特にビタミンの不足の結果、多くの者に視力の衰えが目立ち、夜盲症の状態であった。7月5日ごろからは、さらに陸軍部隊と民間人が相次いで洞窟に集まってきた。戦局と言えば、すでに島の北部方面にまで米陸軍の攻略は進んできていた。わが方はもう海軍も陸軍も、民間人も全く区別がなくなり、軍医長はひたすらに医務隊を指揮し、兵たちと一緒に治療に当たった。戦死者は夜のうちに洞窟の外に...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑬・燃える燐光3~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑬・燃える燐光2~

    ある夜間、敵の黄燐焼夷弾をうけた熱傷の幼児を抱きかかえた女性が、治療のため私たちの場所を探してやって来た。傷口を診ると、暗闇の中で紫色の燐光を発し、皮膚に燃え広がっていく。消毒液で清拭するが、燃え上がる黄燐はなかなか除去出来ず、傷口をヨードチンキで拭くと燐光はすぐ消滅したが、幼児は疼痛のため一段と泣き叫ぶ。母親は夢中で胸に抱きしめ、乳房を吸わせる・・・こうして、まさに文字通り、阿鼻叫喚の地獄谷となってきた。7月2日。地獄谷付近にも砲弾の落下が、いよいよ激しくなってくる。この日司令部から、「わが海軍機のパナデル第二飛行場への緊急着陸が行われるかも知れぬから、その時に備えるため、261空の全員は飛行場近くの洞窟に移動すべし」という命令がきて、深夜、負傷者と医務隊員はトラック3台に分乗、他の者は徒歩でひそかにその洞窟...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑬・燃える燐光2~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑬・燃える燐光1~

    4・5日がたったころ、この地獄谷にも敵の小型観測機が、低空で飛来してくるようになった。観測機が来ると、30分ほど後には必ず砲弾が落下してきた。また敵の背後の敵陣地からは、多数の迫撃砲による攻撃が加わった。ポン・ポン・ポンと十数発の曲射砲の発射音が聞こえると、咄嗟に私たちはみな、岩陰や地のへこみに身を伏せる。すると数秒後にシュル・シュル・シュルと異様な音を立てて弾丸が飛来し、一斉落下、炸裂する。そしてその都度負傷者が続出した。負傷者は小屋から近くの岩陰や、へこみに移し、上空より発見されないようにした。この頃から負傷者の中に、恐るべき破傷風の患者が多数発生してきた。治療用の血清も、もう全く使い果たし、僅かに鎮痛剤の投与と、包帯交換をする程度しか手立ては無かった。治療するにもすべがなく、また血のにじんだ傷口の包帯には...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑬・燃える燐光1~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑫・要塞砲吼ゆ3~

    タポーチョ山を超えるさいも、昼間は南洋樹のジャングルにひそみ、日没を待って数人ずつで目的地に向かい、三日がかりで島内唯一の水源地に程近い地獄谷にたっした。そこは名の示す通り、両側を崖に囲まれた谷で、谷底にはかつて島民の住んでいた、十数軒の草ぶきの小屋が点在していた。医務隊は全員で負傷者を、主計隊もまた全力をあげて食料と飲料水をその小屋に運び込んだ。負傷者の治療に当たる医務隊とは別に、主計隊は、主計長の藤原治主計大尉や、庶務主任の浜野主計中尉の指揮のもとに、近くの林の中で空襲の合間に飲料水の確保と炊飯に専念し、数日ぶりの握り飯と缶詰などを隊員に配給した。司令部からは伝令が、2~3時間ごとに戦闘状況を報告してきた。敵は次第にタポーチョ山の攻略に主力を注いできているらしい。6月25日からの三日間は敵に発見されることも...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑫・要塞砲吼ゆ3~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑫・要塞砲吼ゆ2~

    日没を待って全員が地下壕より脱出し、タポーチョ山を越え、三日がかりで5キロほど離れた集合地点の、地獄谷への大移動がこうして始まった。その夜半、約150名の261空の隊員が、ラウラウ湾の海岸線に沿って移動しているとき、突如として隊列の中央部に敵巡洋艦の砲弾が降ってきて炸裂し、数名の戦死者と十数名の負傷者が出てしまった。同時に負傷者のなかには炸裂音で鼓膜を破られ、全く耳が聞こえなくなった者もいた。恐るべき暗闇での初弾命中である。これも敵の電探による砲撃と考えられ、それ以降の夜間移動は、数名ずつに分散して移動することとなった。砲弾の炸裂音によって耳が聞こえなくなった者には、一名ないし二名の同僚に手を握らせて行動させることにしたが、それら聴力を失った兵隊は顔に表情がなく、行動を共にするには非常に困難をきたした。(父井手...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑫・要塞砲吼ゆ2~

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