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徳川おてんば姫
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2019/05/02

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  • 私・井手純〜大学から帝国ホテル時代④〜

    父が医者であった為に、歯医者以外は病院へ行く事はまず無かった。ある時、体調不良で休んだ時父に診断書を書いてもらい労務課に出すと「これはお父様に書いてもらったものなので適用出来ません。」と言われた。結果は適用されたのだが一時期、組合問題にまでなった。私がまだレストラン部に在籍中に、全日空に勤務していた弟の結婚式が帝国ホテルで行われることになった。帝国ホテルで二番目に大きな宴会場“富士の間”に決まり両殿下も御出席頂くことになった。案内状発送も終わり、両親と弟は両殿下にご挨拶に伺ったところ殿下から「富士の間はいいね!」とおっしゃって頂き皆喜んでいた。そんな矢先突然宴会部長から私に呼び出しがかかった。部長室に行くとレストラン部長も同席してしており、「井手君、大変申し訳ないが当日の宴会場を変更してくれないか?」と言われた...私・井手純〜大学から帝国ホテル時代④〜

  • 私・井手純〜大学から帝国ホテル時代③〜

    ホテル時代、仕事も一生懸命やったが遊ぶ方でも、それこそ寝る暇を惜しんで頑張った。飲む・打つ・買う何でも頑張った。しかし、飲む方は体質にあまり会わずほどほどであった。ある時色々付き合っていたが体に変調をきたした。トイレに行くとたまらない痛みを感じたのである。「やばい、淋病?」そう思うと流石に親父に言えず、新橋の雑居ビルにあった性病科に飛び込んだ。先生に相談すると「覚えがあるんなら間違いないね。」と簡単に言われて尿を取らされた。たいして検査もせずに薬を出され、「3日ほど飲んだらまた来なさい」と言われた。「実は父が泌尿器科の開業医で高輪にいるんですが流石に言えなくて」と言うと、先生は突然言葉遣いまで変わり「ちょっと待って・・・こっちの方がいいかな?」と言い「これを1週間飲めば大丈夫ですから。」と別の薬に替えられた。数...私・井手純〜大学から帝国ホテル時代③〜

  • 私・井手純〜大学時代の思い出・サイパン②〜

    浜辺で中年の夫妻と一緒に片言の英語で仲良くなった。ご主人はグアムのアメリカ軍の大佐であり、父のことを話すと帰りグアムに着いたら連絡しておいでと言ってくれた。サイパン島に4泊しグアムに着き、大佐に連絡すると迎えに来てくれた。そして基地の中に連れていってくれた。基地にはB52の大きな尾翼が見えた。写真を撮ろうとしたら、それだけはダメだと言われた。その後将校クラブで凄い見たこともない大きなステーキ(多分5~600g)をご馳走になった。二人共あっという間に平らげたのを見て大佐は大笑いしていた。覚えているのは、そのことだけで基地のことは殆ど記憶にない。お世話になった大佐の名前すら覚えていない。情けない事である。しかし、父の意には沿わなかったかも知れないが本当にいい経験をさせてもらった。一緒に行った親友はその旅行がきっかけ...私・井手純〜大学時代の思い出・サイパン②〜

  • 私・井手純〜大学時代の思い出・サイパン①〜

    大学2年の時に父から”一度俺が戦ってきた所をみてこないか?”と言ってくれた。勿論サイパン島の事である。ラグビー部の親友と二人で生かせてもらうことになった。その当時、二人共海外旅行はもちろんのこと、飛行機に乗るのも初めてであり夢のようなことだった。当時はサイパンへの直行便はまだなくグアム経由であった。数年前に父と母でサイパンに戦友の慰霊に行っていた。パスポートを取り準備万端当日を迎えた。飛行機に搭乗した時と離陸した時の高揚感は今でも鮮明に覚えている。何しろ今から50年も前の事で、グアム島もサイパン島も今のように観光地として整備されていなかった。サイパン島では父の関係の薬屋の駐在員が迎えてくれ、当時では一流のホテルだった。海辺には当時の日本軍の戦車や砲台の後もまだまだ生々しさを残していた。日本人の観光客も殆ど見当た...私・井手純〜大学時代の思い出・サイパン①〜

  • 私・井手純〜大学から帝国ホテル時代②〜

    帝国ホテル入社後、レストラン部に配属になった。ホテル内には直営レストランが幾つもあった。まず客室に料理を運ぶルームサービス部に配属となった。部屋の中まで運ぶこともままあり、結構有名人と出くわす事もあった。一番の思い出は、夜中1時頃スイートルームからの注文を運んだ時のこと。部屋に入ると外人が数人で葉巻を吸いながらトランプをしていた。中のひとりが伝票にサインをしてくれ簡単な英語でトランプを買って来てくれないかと言われた。「こんな時間に無理」と思いながら奥の大柄な男性と目があった。なんと当時米国映画界のトップスターの”ジョン・ウェイン”だった。そして私に向かってウインクをしたのだ。思わず「イエッサー」と言っていた。10ドル受け取って部屋を出てホテルの外へ出た。までは良かったけど、どこで売っているのかわからず焦った。今...私・井手純〜大学から帝国ホテル時代②〜

  • 私・井手純〜大学から帝国ホテル時代①〜

    大学入学後、以前からやっていたアイスホッケーをやりたかったのだが、大学の運動部の中には無かったので取りあえずと安易な気持ちでラグビー部に入部した。しかし東海大学のラグビー部はかなり伝統もあり、高校の頃よりやっていたメンバーが殆どで、とてもレギュラーなどになれるわけもなく連日革のラグビーボールに唾で磨き続けた。結局部活は長続き出来ず2年で退部した。帝国ホテルに入社してからのことはあまりにも色々な事があったので少しずつ書いて行きたいと思っている。まず、帝国ホテルとの徳川、井手家の何か不思議な縁みたいなものから書くことにする。母の最初の結婚式は旧帝国(ライト館)の孔雀の間であった。また、前に戻るが帝国ホテル創業に当たり慶喜公の家臣であった、渋沢栄一氏が関わっていた事。後に井手家に母が嫁ぎ私が生まれ、小学校の頃祖父の井...私・井手純〜大学から帝国ホテル時代①〜

  • 私・井手純〜叔母・高松宮妃殿下との思い出②〜

    妃殿下が車の免許を取られたとき御殿の車寄せで、週末早朝よく練習をされていたのを知っていた私と弟は時間を見図り、恐れ多くも待ち伏せをしたのである。我々に気が付いた妃殿下は悪ガキ兄弟を車に乗せ、御殿で朝ご飯をご馳走して下さった。母はちゃんと食事を作ってくれていたが、当時御殿で頂く朝食はとても一般的な家庭で食べられる物とは全く違っていた。何も知らない悪ガキ二人は朝からキャビアやら見たこともないフルーツをガツガツと食べた。妃殿下は恐らく楽しんでご覧になっておられたんだと思う。今思うと冷や汗ものである。徳川おてんば姫(東京キララ社)私・井手純〜叔母・高松宮妃殿下との思い出②〜

  • 私・井手純〜叔母・高松宮妃殿下との思い出①〜

    叔母の喜久子妃殿下にはお子様がおられなかった。怒られるられるかもしれないが、私と弟が子供の頃、叔母、甥ではなくて、孫のように思っていただいていたのではないかと、今思うと感じてならない。私の母とは11歳も離れていたからである。母自身も幼い頃母を亡くしていたので、姉というよりも母親の感覚だったようだ。また、父親の顔を(母の父、慶久は母が生まれる半年前に亡くなった)知らない母にとっては高松宮殿下が同じく父親のようであった。徳川おてんば姫(東京キララ社)私・井手純〜叔母・高松宮妃殿下との思い出①〜

  • 私・井手純〜こども時代②〜

    初等科1年の頃、父が吸っていた両切りのピース(煙草)を一箱持ち出し、弟と従兄弟の徳川慶朝と3人で隠れて外で吸った。弟と慶朝はむせて吸えずすぐやめた。私はプカプカ吸込み調子に乗っていた。そのうち、当然のこと気持ち悪くなり、家に帰って横になっていた。母は夕食の時いつも飛んでくるのにおかしいと思い、顔を近づけると煙草の匂いで驚いて父に言った。父は特に驚かず診察室に連れて行き、おしりに太い注射器で多分ブドウ糖だと思うが打たれた。怖い顔をしていたが、今思うと半分わらっていたようだ。徳川おてんば姫(東京キララ社)私・井手純〜こども時代②〜

  • 私・井手純〜こども時代①〜

    昭和31年に学習院初等科に入学。毎日都電(田町九丁目)で四谷見付行き、3番線に乗り終点の一つ手前、若葉町まで登校する。三年後、弟と二人で通うようになった。当時は都電の運転手、車掌さんと仲良くなり、よく話しながら結構楽しい時間だった。その頃丁度東京タワーの建設が始まっており、日に日に高くなっていくのを本当に驚きながら見ていた。映画「三丁目の夕日」と、まさしく同じ時代である。学習院初等科の制服は、多分今も同じだと思うが、私は一年中制服の下はランニングシャツで靴は母が選んでくれた編み上げブーツだった。朝礼の時は毎日上着をぬいでラジオ体操をした。真冬でもそうしていた。6年間無遅刻無欠席で表彰された。そのくらいしか自慢出来ることはない。成績は5段階で殆ど3と2であった。しかし体育だけは4か5であった。両親のお陰で体だけは...私・井手純〜こども時代①〜

  • 著書・徳川おてんば姫〜本の内容〜

    戦前、母が生まれて嫁ぐまでの夢のような世界から地獄の戦争を経て、戦後夫の戦死。そして再婚の話により最愛の娘との別れ。徳川家に生まれ、家が背負った重さを子供の頃から教育されており、本人も充分分かって居ても、さすがに娘との別れは母親としてまた女として生涯で特別辛いことであった。再婚の話は周囲が、本人にはその気がなくとも進められた。色々話しはあったのだが夫の親友であった人を選び新しい未知の世界に進んで行く。母の父親慶久は母が生まれる半年まえに脳溢血で37歳の若さに亡くなった。また母親も42歳で癌で亡くなる。頼る肉親としては11歳年上の姉であった。まるで姉ではなく、母親の様な存在であった。しかし、その姉は高松宮家に嫁いでおり、そう簡単に相談することも憚れた。再婚の相手は井手次郎。私の父である。父は戦中海軍軍医であった。...著書・徳川おてんば姫〜本の内容〜

  • 著書・徳川おてんば姫〜出版の経緯〜

    平成18年母のところに文芸春秋と産経新聞のトップライターの二人の方より突然徳川慶喜公の孫娘としての本を書かないかと言う話が来る。母はとても喜び、承諾し以降十数回インタビューを受けて、慶喜公の祀られている谷中にも行き、また小石川の生まれ育ったところにも足を運んだ。しかし、執筆中に四回も腰の骨を折ってその都度入院、手術をしその間執筆は中断となり結果頓挫してしまう。母はとても残念がっていた。平成27年、たまたま私が東京キララ社の中村代表に紹介されて本の話をしたことから急速に執筆活動が再開となった。キララ社も何度も自宅、谷中、小石川、と動いてくれて約二年で出版に至った。平成30年6月6日に初版本を自宅に届けてくれ、その折デイリースポーツの記者も同行してくれた。母には最初で最後のインタビューとなった。平成30年(2018...著書・徳川おてんば姫〜出版の経緯〜

  • 父・井手次郎〜高輪での開業〜

    高輪での半世紀以上の開業中には本当に色々な事があった。ここでは外科の看板は出さず皮膚科の専門医としてやっていた。治療の助手には殆ど母が手伝っていた。とは言え母は特別資格を持っていたわけでは無かった。あくまでも、包帯交換や器具の洗浄をやっていた。当時は包帯の使いまわしや注射針の煮沸消毒後の再利用は当たり前のことであった。庭には洗った包帯が毎日50本位干してあったのをよく覚えている。父は昔から手先が器用で、外科の特に細かい手術は本当に得意であった。皮膚科の専門医としては付帯医療として泌尿器科、性病科がつく。と言う事で、淋病、梅毒、パイプカット等々の患者が多く訪れることになる。勿論、火傷、アトピー性皮膚炎と分野は広かった。私の勤務先のホテルでの同僚も、結構父に世話になっていた。父は腕も良かったが、医者としての感も大変...父・井手次郎〜高輪での開業〜

  • 父・井手次郎〜結婚〜

    昭和22年12月、明治記念館にて結婚式を挙げる。母が父を選んだ理由としては、とてもスポーツマンで誠実な、また前のご主人の紹介もあり、顔見知りの事もあった。また同じ激戦を闘った人として、色々知りたかった事もあった。更に、父本人は勿論の事、私の祖父である井手徳一がとても喜んでいた事が一番の理由であった。結婚後は暫く、目白の自宅にて25人の大家族で生活する事になる。その後父は横浜に移り住み医院を開院した。昭和25年12月、私が生まれた。そのあと一年たつ前に東京港区高輪に移り住み、井手医院を開院し、約半世紀開業医として医業に携わる。徳川おてんば姫(東京キララ社)父・井手次郎〜結婚〜

  • 父・井手次郎〜親友の死〜

    帰国後、父は親友の松平氏の戦死を知り、千駄ヶ谷の家に焼香に行った。松平家では井手の戦死は戦中に知らされていたので、皆さん驚きと共にとても喜んでいたが、複雑な気持ちであったと思う。徳川おてんば姫(東京キララ社)父・井手次郎〜親友の死〜

  • 父・井手次郎〜帰国〜

    昭和21年、奇跡の帰国を遂げることとなった。目白の自宅に戻った時、妹が玄関迎えに出て、思わず足元を見たそうであった。幽霊かと思ったそうである。それ程突然の帰還であった。とにかく軍部より終戦前に戦死の通報を受けており、位牌まで作ってあったのだから。徳川おてんば姫(東京キララ社)父・井手次郎〜帰国〜

  • 父・井手次郎〜終戦〜

    捕虜になった父は広大なアメリカのテキサスの捕虜収容所にいた。そこで日本の敗戦を知る事となる。テキサスの収容所では軍医として捕虜の治療にあたっていた。米軍の捕虜に対する配慮は(すべてそうだったとは思わないが)大変紳士的であった。三度の食事もキチンと出された。おかげで戦前の時よりも太ったと言っていた。徳川おてんば姫(東京キララ社)父・井手次郎〜終戦〜

  • 父・井手次郎〜サイパン玉砕〜

    昭和18年7月7日「星に七夕」を合図に動ける兵士だけで午前一時最後の盃を上げ、総攻撃にかかった。とは言っても、軍医の父の持っている武器は軍刀のみであった。父は二名の兵士と丸二日ジャングルの中を水も食料もなく徘徊し、精魂尽き果て仮眠した所を米兵に取り囲まれてしまった。捕虜になった父たちに米兵が最初に差し出した物は水の缶詰であった。米軍はこんなものを装備していたことを知り、完全に負けたとその時実感したそうである。徳川おてんば姫(東京キララ社)父・井手次郎〜サイパン玉砕〜

  • 父・井手次郎〜サイパン島での激戦〜

    サイパン島での日本軍の闘いは言葉にできない壮絶なものであった。海からの艦砲射撃は恐ろしく強烈で正確であった。連日物凄い勢いで、本当に島の形が変わった程であったと言う。米軍は高性能金属感知器レーダーを使い、いくらジャングルの中に隠れていても的確に爆撃されたと言う。また、父は終戦後、戦記物の雑誌「丸」の「精強261;虎部隊;サイパンに死すとも」と言う長編記に、米軍の凄さと圧倒的な物量の凄さを詳しく書いている。その中で軍医としての驚きを語っていた一説がある。爆撃にて戦死した者は勿論多数を占めたが、次に多かったのが破傷風、風土病で死んで行った兵士の多さであった。戦後、父は米軍の破傷風で死んだ兵士は僅か6人であった事を知り驚嘆した。米軍では、そのころすでに破傷風トキソイドと、ペニシリンおよび乾燥血清を多量に使用し、その予...父・井手次郎〜サイパン島での激戦〜

  • 父・井手次郎〜地獄の三丁目への出港〜

    その日、父は第八分隊監事、和田軍医大尉の部屋に呼ばれた。そして「貴様のこれから赴任する実施部隊は第261航空隊である。4月20日横須賀軍港に停泊中の病院船氷川丸に乗船すべし。なお航空隊所在地については、出港後に指示されるからそのつもりでいるように・・・・」と伝えられた。行き先も分からないまま横須賀軍港へ向かった。その頃母の夫、父の高校時代一緒にアイスホッケーをやっていた父の親友松平氏は「井手君の行き先はサイパン島だ。恐らく彼は戻ってこれないだろう。残念だ。」と言っていたそうである。そう、父の行き先は、地獄の三丁目といわれていた。徳川おてんば姫(東京キララ社)父・井手次郎〜地獄の三丁目への出港〜

  • 父・井手次郎

    父、井手次郎は大正6年3月井手徳一の十一人兄弟の次男として九州佐賀に生まれる。高校の時、東京に家族全員で目白に移り住む。成城高校では当時では珍しかったと思うがアイスホッケーをやっていた。卒業後、名古屋医大に入学。医師としての修行を4年間習得する。昭和16年12月戦争が始まった。昭和17年9月に卒業後、丸一年間母校の桐原外科教室で、教授はじめ諸先輩より応急処置、臨床、手術などをみっちり教え込まれる機会を得られたので、第一線部隊に出ても外科的治療にはそれ程当惑することはないだろうと自負していた。徳川おてんば姫(東京キララ社)父・井手次郎

  • 母・井手久美子〜絵と字③〜

    今回の写真は、高松宮喜久子妃殿下がお茶会に招かれたお礼として書く短冊であったが、風邪を召されて母に代筆を頼んだものである。母は子供の頃より、妃殿下に有栖川流を直接教わっていた。妃殿下も母の字はお好きだったので、母に頼んで書かせたのである。約50枚の短冊を書いた。妃殿下は大変お気に召したようであったが、後に改めて自分でお書きになってお渡ししたそうである。母・井手久美子〜絵と字③〜

  • 母・井手久美子〜再婚と家の重さ〜

    暫く経つと、母もまだ若かった事もあり、周囲が母の再婚の話で動きだした。候補は幾つかあった。母にはその気持ちがなくとも、周りが動けば逆らうことは当時はできなかった。しかしそこで大きな問題があった。最愛の娘との別れであった。母も徳川家で育った人間として、家が背負った歴史の重みは十分心得ていた。しかし、やはり母親としての感情の方が家よりも勝るのが女の性である。渋る母を、徳川家と松平家で説得され娘は松平家に残り、母だけが離籍する事となった。母が身を引くことで、連綿と続く松平家の「葵の御紋」を後世に残していくことが出来たと考える事にした。昭和22年12月母は、成城高校の同級生の井手次郎と再婚する事となった。当時の日本の状況下では盛大にとはいかず、ささやかな結婚式を挙げた。約2年間、目白の自宅で25人で共同生活をしたのち、...母・井手久美子〜再婚と家の重さ〜

  • 母・井手久美子〜終戦〜

    昭和20年8月15日、遂に終戦となる。母もラジオから聞こえてくる玉音放送を聞き負けた悔しさ、悲しさよりこれで終わったと何かホッとした気持ちがあったと言っていた。これでまた夫と娘と暮らせる気持ちの方が強かった。東京の原宿の家は焼けてしまい、千駄ヶ谷の家に義父母と暮らす事となる。そこで只々夫の帰還を待ち続ける毎日になった。しかし母の元に届いたのは夫の戦死の通知であった。届いたのは翌年のことであった。しかし母は、遺体を見た訳でも無く、とても信じる事はできなかった。だが、時間がたつにつれ、母も「今は日本中がこの様な事になっている。自分だけ受け入れないことではいけない。」と思うようになった。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子〜終戦〜

  • 母・井手久美子〜空襲と疎開〜

    開戦後、半年もたつと東京にも空襲が始まり、義父の知り合いがいる八王子へ疎開する事になった。荷物を運び出しているときに母の嫁入り道具をつんだトラックは焼けてしまった。八王子の大きな農家では、姑と年あけに産まれた娘と三人の生活がはじまった。母は毎日リヤカーを引き、20キロのジャガイモをリュックサックにつめて運んだそうだ。リヤカーも最初のうちは腰がふらついて若い兵隊たちに笑われたそうであった。「笑ってないであなた達も引きなさいよ」と心の中で言って、頑張った。毎日、毎日その繰り返しで、手は豆だらけ、背中はジャガイモのおかげであざだらけになった。薪を割り、風呂を沸かし食事を作った。今までやってもらっていたことすべて一人でやった。晩年、母は「あの時は皆がそうだったのよ」と簡単に言っていた。終戦が近くなった頃八王子にも空襲が...母・井手久美子〜空襲と疎開〜

  • 母・井手久美子〜結婚と第二次大戦〜

    女子学習院を卒業後すぐに結婚の話が出て来た。「男女七歳にして席をおなじゅうせず」の言葉どおり同じ年代の男性と言えば、精々従兄弟たちであった。その従兄弟よりプロポーズされた事もあったそうだが、母は「子供の頃一緒に木登り、凧揚げした人と結婚なんてちゃんちゃら可笑しくて」と言っていた。昭和16年7月、旧福井藩当主であった松平春嶽の孫の松平康愛との結婚が決まる。その年の9月14日旧帝国ホテルの孔雀の間にて盛大な披露宴が行われた。式と披露宴には高松宮両殿下も御出席頂いた。何人の方をお招きしたのかは覚えていないが、同級生はすべてお呼びしたと言っていた。数日後、福井のご主人の地元へご挨拶に伺う。福井の駅を降りると駅前には子供たちが大勢おり旗を振り大歓迎で何かとても恥ずかしかったと言っていた。三日間滞在し連日大宴会だったそうだ...母・井手久美子〜結婚と第二次大戦〜

  • 母・井手久美子〜絵と字②〜

    もう一枚。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子〜絵と字②〜

  • 母・井手久美子〜絵と字①〜

    7歳の頃より絵は当時日本画の巨匠であった邨田丹陵先生に小石川の自宅に来て頂き直接習っていた。先生の代表作としては「大政奉還の図」であった。のちに先生より「秀花」の銘を頂く。終生書き残したものは百点をこえる。60代のころ個展を開いた事もあった。字に関しては姉の喜久子妃殿下より有栖川流と言う特別の流派を直接教わっていた。晩年母は妃殿下の代筆もさせて頂いた事もあった。現在有栖川流派を継承されている方は数名しかおられない。やはり60代の頃毎日書道展の先生より「司香」の銘を頂く。亡くなる年まで好きで書いていたのは家康公の「東照公遺訓」であった。この遺訓は生涯1000枚程書いていた。徳川おてんば姫(東京キララ社)母・井手久美子〜絵と字①〜

  • 母・井手久美子②

    屋敷には常時50人程、人が住んで居た。慶喜家に生まれ、幼少期より自宅の庭にさえ一人で出ることは出来なかった。「世が世ならお姫様」としておしとやかな生活をしなければならなかったのでしょうが、かなりのおてんばだったようであった。勿論慶喜家としての厳しい教育と躾はとことん教えこまれていた。母はとにかく外での活動が好きで暇さえあれば、庭にでて木登り、凧揚げ、自転車、を常にしていた。学生時代は乗馬、テニス、そして水泳が特に好きであった。自宅の庭にテニスコートを作って貰った。(凄いことだ)晩年は85歳までテニスと車の運転をしていた。平成最後の年に突然紙幣の変更が発表され、一万円札に渋澤栄一氏が決まった事を知り驚いたと共にとても嬉しく思った。と言うのも渋澤栄一氏のお孫さんと母は女子学習院にて同級生であった。現在は鮫島純子さん...母・井手久美子②

  • 母・井手久美子①

    私の母は大正11年9月22日に15代将軍徳川慶喜家最後の孫娘として文京区小石川第六天町で生まれる。22日と言う日は慶喜家にとってとても良くない日であった。と言うのも慶喜公の命日が11月22日、そして父親慶久の命日もこれまた22日であった為に母親がそれを大変に気にして翌日の23日に出生届を役所に出した。第六天の屋敷は敷地面積3400坪、建坪1300坪あった。どれだけの広さだったかは何度も母から聞かされても想像出来なかった。母は一男四女、5人兄弟の末娘であった。長女は産まれて2日で早世。次女喜久子とは11歳離れていた。兄慶光とも9歳年の差があった。三女喜佐子とは年子でまるで双子のようにお互い嫁ぐまで朝から晩まで一緒に暮らしていた。母・井手久美子①

  • 自己紹介

    皆様、初めまして。井手純(いで・じゅん)と申します。昭和25年(1950年)生まれ、68歳になりました。こんなじいさんのブログを読んで頂きありがとうございます。正直、このブログを執筆すべきか、かなり悩みました。しかし、この度元号が平成から令和に代わる事、平成最後の年に母の書いていた本が出来上がりその直後に最愛の母を見送った色々な事が重なった事で、何かしなければならないと思い決心しました。私の生きてきた半生は、徳川家の最後の将軍・徳川慶喜の孫としての母・井手久美子の華麗で壮絶な人生と大きく関わっております。それはすなわち、戦前から戦後日本の徳川家および関連する一族の方々、そして様々な偶然と血縁から高松宮殿下のご一家と親族となったことで、日本の皇室の歴史の一部分を垣間見ることになったからです。母の人生については、著...自己紹介

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