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徳川おてんば姫
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2019/05/02

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  • 私・井手純 〜徳川家とのおつきあい⑥~

    森村学園中等科・高等科すべて一学年一クラスの少人数制であった。女子校のほうが人数も多く一般には女子校と思われていた。校風としては、のびのびとした学園であった。50人弱の教室で、私だけ違う制服を着て後ろの席にいると最初の授業が始まった。先生が来られるまではほとんどの生徒は席につかずとにかく、ガヤガヤしていた。先生が入って来られてやっと静かになった。こんなことはいままでは無かったので驚いた。先生は出席を取り始めた、と、その時突然私の方を見て「なんだ!一人変な奴がいるな!ちょっと前にこい!」と言われた。驚いたの何の、オドオドしながら前に出ていくとその先生は私の肩を抱き「今日からうちの生徒になった。自己紹介をしなさい。」よく覚えていないが、自分の名前だけ言って席に戻った。あまりにも先生の態度が今までと違うのには面食らっ...私・井手純〜徳川家とのおつきあい⑥~

  • 私・井手純 〜徳川家とのおつきあい⑤~

    一方、いとこの慶朝は、初等科から私立森村学園に行っておりそのまま中等科へ進んでいた。慶朝は2月生まれ、私は12月生まれのため学年は私が一つ下だった。私が中等科一年の3学期が始まったばかりの時にある事件が起きた。それは2学期の頃より、体育の時間の時に起きていた。皆制服から体操服に着替えた。私の席の周りの生徒は皆舶来の万年筆を持っていた。それが、次々に盗難にあっていた。私は国産の普通の物しか持っていなかったので被害にあわなかった。それで疑われたのか、ある日母が学校に呼び出しを受け事情を聴かれた。ようするに、犯人扱いされたのだ。一方的な話に母は激怒してその日の夕刻、すぐに森村学園長に話をした。学園長の森村義行氏とは面識もあり、慶朝も通っていたので話はしやすかったのだと思う。学園長は話を聞いて「明日から来させなさい」と...私・井手純〜徳川家とのおつきあい⑤~

  • 私・井手純 〜徳川家とのおつきあい④~

    (前回記事の続き)水泳教室と言ってもかなり厳しいもので、ほとんど毎日試験があり、8級~1級まであった。特に自信があったわけではないのだが、毎回の試験は次々に合格していった。試験は、遠泳10㎞・潜水75m・順華(3mの高さから海面に垂直に飛び下り頭を潜らないようにする救助の一つ)試験の名前は忘れたが、3~4mのところに沈めた石を拾い上げ、立ち泳ぎでその石を手首から上に持ち上げて小舟の周りを一周するもの。とキツイ試験ばかりであった。ほとんどが、救助のための試験だった。まだ他にもあったと思うが記憶にない。夏休みが終わり2学期が始まった時、最初の授業でほとんど口を聴いたことの無い担任から私を名指しで前に呼び出された。その担任はニコニコしながら、みんなの前で「井手君は見事に1級の試験に合格した。」と、褒められた。学年で2...私・井手純〜徳川家とのおつきあい④~

  • 私・井手純 〜徳川家とのおつきあい③~

    私は学習院初等科を卒業後、目白の中等科に進んだ。初等科は男女共学だったが中・高等科は男子校である。校内の雰囲気はガラッと変った。特に私の組の担当教員は常に制服を着ており、昼食時も生徒と一緒に食事をした。ほかの組は自由に動き回りながら食べていたのがとても羨ましく思えた。我々の組は特別だったようだった。担当の先生は成績の悪い生徒とは、ほとんど口を聞いてくれなかった。夏休み期間に沼津にて毎年恒例の水泳教室があった。当時は皆赤ふん(赤のふんどし)をしめるのが通例であり、まずはふんどしの〆方から教わった。勿論ふんどしなど初めてのことで恥ずかしいより、珍しい気持ちの方が強かった。徳川おてんば姫(東京キララ社)私・井手純〜徳川家とのおつきあい③~

  • 私・井手純 〜徳川家とのおつきあい②~

    当時、ご主人の(母の兄慶光)は、私が物心ついたころ、ある事情でブラジルへ行っていたので”ともちゃん”にはお父さんが居ないのだと思っていた。5月のこどもの日には庭に5~6メートルの柱を立て鯉のぼりが作られた。それがとても羨ましかった。後に分かったのだが慶光の姉である喜久子妃殿下が父親の居ない慶朝の為に作られたものであったことを知った。ともちゃんは、あまり活発な子では無かった。私と弟は夏休みのほとんどは宮家のプールで過ごしたが、誘いに行っても三度に二回は断られたように記憶する。ある秋の日、3人で近くの高松中学校に潜り込み、もいだ柿をかじりながら校庭の周りの山の上を散策していた。そこは木々に囲まれており、その木々の間から校庭で体操の授業をしている生徒たちが見おろせた。悪ガキの私は、食べかけの柿をその校庭に向かって投げ...私・井手純〜徳川家とのおつきあい②~

  • 私・井手純 〜徳川家とのおつきあい①~

    ここで、徳川家との話も軽く触れておこう。母の兄、徳川慶光家とは、高輪に越してから密接にお付き合いすることになった。と、言うのも、私の住んでいた一軒家のとなりに元々住んでいたからだ。会津松平家より嫁、和子を迎え3人のこどもがいた。二人の娘と、長男の私と同い年の慶朝である。小学生の頃は休みの日には、ほとんど徳川家に弟と遊びに行き、3人で遊んだ。慶朝の母、和子様のことは”おたあちゃま”と呼んでいた。とても優しい方で静かな方だった。庭で”缶蹴り”をしたり縁の下に穴を掘って潜ったり、庭の木の上に小屋を作ったりしてよく遊んだ。慶朝の事は”ともちゃん”と呼んでいた。夏場は、おやつにいつも近くの団小屋から、かき氷の出前を取ってくれた。徳川おてんば姫(東京キララ社)私・井手純〜徳川家とのおつきあい①~

  • 私・井手純 〜宮家とのおつきあい③~

    ~宮家とのおつきあい①~で記事に書いた、品川の料亭にて両殿下をご招待した際の写真。向かって前列の左から二人目が三笠宮寛仁殿下である。前列中央に写っているのが、母・井手久美子である。徳川おてんば姫(東京キララ社)私・井手純〜宮家とのおつきあい③~

  • 私・井手純〜宮家とのおつきあい②~

    ある日、休みの早朝に芝にあったゴルフ練習場に行くと練習場の真ん中に4~5人の人がいた。(朝から熱心な人たちだな)と思いながら少し離れたところで私も練習を始めた。少し気になったので、飲み物を買いに行く時に近くで見ると、なんと寛仁殿下であった。周りにいる人はSP2人と練習場の支配人であった。後ろで見ていると殿下も気にされ、私を見られ「なんだ、お前か。朝から熱心だな!」と言われたので「そのお言葉そのままお返しいたします。」と言うと殿下は少し笑われていた。寛仁殿下は、叔父にあたる高松宮宣仁殿下を大変頼っておられ、よく高輪の御殿に来られていた。また、スキーの大会などは御一緒に参加されていた。宣仁殿下が薨去されたおりは、「お舟入り」のときに宣仁殿下が使われていた愛用のスキーの板をお棺の中にお入れになっておられるのを私は見さ...私・井手純〜宮家とのおつきあい②~

  • 私・井手純〜宮家とのおつきあい① ~

    大人になってからも宮家とのつきあいは当然続いている。ある時、母が高松宮宣仁殿下に、中華のデザートであるもち米で中にあんこを入れて外側にドライフルーツを飾った物をお届けした。殿下は大変お気に入りになられ、母に「昭和天皇も甘いものがお好きなので是非作って欲しい」と言って頂き、母も畏れ多い事とうれしさでとても喜んでいた。早速作りお届けした。三笠宮寛仁殿下とも母はよく話をされており、一度品川にある料亭に寛仁殿下妃殿下をお招きしたことがあった。その料亭は帝国ホテルにも入っていたので、段取りは全て私にまかされた。あくまでもプライベートであったので、ホテルには何も報告はしなかった。メニューはすべてお任せであった。当日は、料亭の女将、料理長もご挨拶にきた。懐石料理なのだが料理長の説明があり、一品ごとに3~4種類あり、その都度一...私・井手純〜宮家とのおつきあい①~

  • 私・井手純〜帝国ホテル時代2-番外編⑤〜

    「大荒れの婚礼」(続き)新郎の父の肩書は精肉会社の社長であったが、もう一つの肩書があり、反社会的勢力の関係者でもあったようだ。後に色々と解ったのだが、私は胸ぐらをつかまれた時に見た刺青ではっきりした。朝からの接客で、何となく感じてはいたのだが・・・そして、新郎と母親の会話がよみがえった。新郎の父はとにかく酒癖が悪く、何か事あるごとに暴れることが多かったそうで、その都度、警察に呼ばれ問題のある人物であった。新郎の危惧していたことが起こってしまったのだ。新郎は壁を叩いて涙を流していた。私は、とにかく破かれたシャツを着替えに地下のロッカーへ行った。その後すぐに戻ると現場にはホテルのマネージャー、予約を断った副支配人、それに宴会部の課長の3人が新郎の父と向かい合い、新郎の父は、椅子に座り、なにか大声で怒鳴っていた。3人...私・井手純〜帝国ホテル時代2-番外編⑤〜

  • 私・井手純〜帝国ホテル時代2-番外編④〜

    「大荒れの婚礼」(続き)宴会場の後かたずけをしていると「井手さん、上のラウンジから連絡があり、すぐ来てくれと言っていました。」すぐに17階へ行くと、ラウンジの入り口にある高さ140センチの花瓶は割れて倒れ、花が飛び散って凄いことになっていた。何が起きたかわからないまま、横のソファーを見るとなんと、先ほどの新郎の父が数人の身内の人に押さえつけられていた。私も驚いてそばに行くと、私を見て「井手!この野郎!」と言っていきなり私の胸ぐらをもの凄い力で掴んだ。その勢いでシャツは破れ蝶ネクタイは吹っ飛んだ。そして、チョウパン(頭突き)をされそうになったとき、押さえていた若い人が手のひらを私の額に当てて、防いでくれた。その時、私の胸ぐらをつかんでいた腕のシャツがまくりあがりそこには手首までの刺青がみえた。何故、こんなことが起...私・井手純〜帝国ホテル時代2-番外編④〜

  • 私・井手純〜帝国ホテル時代2-番外編③〜

    「大荒れの婚礼」(続き)式が始まると、私は介添えと簡単な打ち合わせをする。特別のことが無ければ10分程で打ち合わせは済む。この日も特に問題なく式が済むのを待ち、スムーズに進行していった。その後披露宴会場に皆様を案内する。会場の前室にはすでに多くの来賓が来られており、ご両親はその対応に大忙しとなる。披露宴開始の30分前には新郎新婦、両家のご両親に並んでいただき、来賓の方々の入場となる。昼の披露宴は一応3時間で済ませなければならない。何故なら、その後夜の披露宴が控えているからである。我々はせかすことなく、そして滞る事の無いように淡々と進めていかなければならないのである。祝辞が長かったり、新婦のお色直しに時間がかかったりと、問題は限りなくあった。披露宴は大変盛り上がり皆様に祝福されながら終盤を迎えた。スケジュールも時...私・井手純〜帝国ホテル時代2-番外編③〜

  • 私・井手純〜帝国ホテル時代2-番外編②〜

    「大荒れの婚礼」(続き)ある日の週末、約300名の披露宴の担当になった。先ずは、両家のご両親にご挨拶をするため、宴会場4階の小部屋に向かった。小部屋の前に行った時、何かいつもと違う異様な雰囲気を感じた。入口には、まるで番人のような強面の人が立っており、昼の披露宴にもかかわらず中では母親らしき人が親族に焼酎の水割りを作って配っている。式が10時、披露宴は12時からなので、まだ9時過ぎのことであった。(通常は桜湯を出すのである。)朝から皆さんよくお飲みになるなと、思いながら一礼をして室内に入った。窓際の中央のソファーにご新郎の父親らしき方がおられたので、前に行き「本日担当責任者の井手でございます。」と挨拶をすると、父親は私の手を突然握り「おお!よろしく・よろしく頼むよ。慣れて無いから何にもわからないんだ。とにかく、...私・井手純〜帝国ホテル時代2-番外編②〜

  • 私・井手純〜帝国ホテル時代2-番外編①〜

    「大荒れの婚礼」ちょっと今では言えないような話なので、話半分で聞いて頂きたいエピソードがある。帝国ホテルでの婚礼披露宴は年間1000件は超えていた。土日祝日、平日も含めとにかく多かった。披露宴の予約、宴会場の押さえ、等々は殆ど宴会予約課で行う。私共現場の者は、当日初めて御家族の方々とお会いする。当然、新郎新婦ともその日に対面し、ご挨拶をする。特に、それぞれのご両親への最初のご挨拶は一番気を使った。変な言い方だが、全てのご家族が喜んでいるわけではないからである。ご家族内の事は分からないが、挨拶をした段階である程度感じることもある。いずれにしても、我々にとっては毎週担当しているとはいえご両家の緊張は相当なもので、その緊張をいかにほぐすかが大事だった。丁寧過ぎても、馴れ馴れしい態度でも、勿論駄目である。御家族にとって...私・井手純〜帝国ホテル時代2-番外編①〜

  • 私・井手純〜帝国ホテル時代2-④〜

    数日間の大宴会(トヨタ世界大会)も無事終了した。翌日朝一でトヨタ東京本社秘書室から呼び出しがかかった。秘書室に行くと早速「あの時、ご夫妻に何を言ったのか?」当然そのことを聞かれた。私としては只々軽率な態度をお詫びしたが、秘書課長から「とにかく、事情を説明して欲しい。」と改めて言われた。変な誤解を招いてもまずいと思い全て話をした。秘書課長は全て聞いた後「よくわかりました。しかし我々秘書課は分刻みで全て社長の動きを把握することが絶対なので、今後その様な事情があれば私に言って下さい。必ずお会い出来るように取り計らいます。」と言って下さった。トヨタの秘書課長と直接アポイントメントを取ることは大変な事なのである。母との繋がりがあったことで、この様な事が起こったのだが、そのお陰でホテル側には何の報告もお咎めも無かった。少し...私・井手純〜帝国ホテル時代2-④〜

  • 私・井手純〜帝国ホテル時代2-③〜

    (前回記事で書いた父母との会話から)数か月後、トヨタ自動車本社主催の『トヨタ世界大会』と言う途轍もなく大きな宴会が帝国ホテルで開催された。何しろ世界中のトヨタのトップリーダーがあの有名なクイーンエリザベスで日本に寄港し、パーティーをするというもので尋常な宴会では無かった。勿論宴会場は全て貸切だった。当然、社長ご夫妻も出席、VIPの入り口から入って来られた。担当の私もお出迎えした。数人の秘書の方々と入って来られた時、初めて奥様にお会いする事と、今度いつお会いできるか分からない事が相まって、思わず奥様に近づいて「奥様、高輪の井手で御座います。」と小声でご挨拶してしまった。すると奥様は「あなた、高輪の井手さまの息子さんよ!」と社長の章一郎さんに言われた。社長は突然足を止め振り返って私に頭を下げられた。私も驚いたが周り...私・井手純〜帝国ホテル時代2-③〜

  • 私・井手純〜帝国ホテル時代2-②〜

    営業部に在籍している折、トヨタ自動車東京本社の担当もさせて頂いていた時のことである。今でも日本の経済界のトップであるが、当時のトヨタは物凄い勢いであった。豊田章一郎社長は社内では天皇であった。勿論私など遠くからお顔を拝見するぐらいで、常に秘書の方が数人取り囲んでいた。雲の上の方だった。ある日家に帰って食卓の上に豊田章一郎氏の名刺があったので、驚いて父にその名刺の事を聞くと「娘さんのお子さんが患者なんだよ。章一郎さんのお孫さんを看ているんだ。良くなったのでお礼が名刺と一緒に届いたんだ」と。すると母が「章一郎さんの奥様は私の後輩なのよ。お電話で何度かお話したわ」と。”へー、世の中驚きが一杯あるもんだな”と思い、母に「トヨタ自動車を担当してるんだ」と言うと、母は「奥様にお会いしたら宜しくお伝えしておいて。」と言ってい...私・井手純〜帝国ホテル時代2-②〜

  • 私・井手純〜帝国ホテル時代2-①〜

    帰国後、今度は宴会部に配属となった。数年宴会部におり、その後営業部に行った。そして最後は辞めるまで宴会部で、数多くの婚礼、会社の創立記念、ディナーショー、テーブルマナー講演、新車の発表会と色々担当させてもらった。特に婚礼に関しては政治家、芸能人、トップ企業のご家族の結婚式も多かった。規模にもよるが、数百万~数千万円になることもあるので、毎回言葉遣い、仕草、体調、体臭、口臭等々には気を配り、大袈裟で無く命懸けでやった。私はタバコを結構吸うけれども、婚礼の日は朝から完全にお開きになるまでは一切吸わなかった。徳川おてんば姫(東京キララ社)私・井手純〜帝国ホテル時代2-①〜

  • 私・井手純〜カナダ公邸出向⑧〜

    ある時、大使ご夫妻が約三週間帰国された。その間は我々は休暇となった。料理人の北崎さんとゴルフバッグを車に積み込み、ボストンへ行き一週間ゴルフ三昧だった。その後、車でニューヨークまで行った。丁度その時、やはり帝国ホテルから領事館に出向していた料理人に合うこともでき、ニューヨークを案内してもらった。自由の女神、エンパイアステートビル、セントラルパーク等々を満喫した。約3年でカナダでの勤務が終わった。大使ご夫妻と帝国ホテルの私を推薦して下さった方々に、一生に一度の本当に貴重な体験をさせて頂いた事を、心より感謝している。帰国前に一人でヨーロッパ各地を回り、無事に成田についた。弟が迎えに来てくれたのだが、その時成田空港が何処にあるのかも知らず、弟がリムジンバスに乗ろうとしたとき「タクシーで行こうよ」と言うと弟に怒られた。...私・井手純〜カナダ公邸出向⑧〜

  • 私・井手純〜カナダ公邸出向⑦〜

    在職中、モントリオールでオリンピックが開催された。大使の奥様とご令嬢と一緒に私が運転手として観に行った。開催前には、公邸にバレーボールの選手団一行が来られた。徳川おてんば姫(東京キララ社)私・井手純〜カナダ公邸出向⑦〜

  • 私・井手純〜カナダ公邸出向⑥〜

    カナダ公邸出向中、忘れもしないショッキングな事があった。その日は20名の夕食会であった。各国の大使ご夫妻をお呼びしてのフレンチのフルコースに和食も出すメニューだった。大使ご夫妻のランチが済み、かたずけが済んでから、夕食会のセッティングにかかった。まずテーブルを組みテーブルクロスをひく。真っ白なリネンの糊がきいたクロスを広げてテーブルにひくのだが二人でやれば僅か5分で引ける。だが一人でやるとなると、20分はかかる。ショウプレートを置き、シルバー(ナイフフォーク)をセット、グラスは一人5つ。それも一つずつ湯煎で磨く。銀のキャンドル建てを(キャンドル各3本)3台置きナフキンを20人分折る。今日はメニューに和食も有るので箸置きに箸をセットし、そして最後に醬油差しを5台置いて終了となるのだが、最後の一台を置くときに手を滑...私・井手純〜カナダ公邸出向⑥〜

  • 私・井手純〜カナダ公邸出向⑤〜

    カナダの首都オタワは完璧な政治都市で、清潔で治安もよく夜に女性が子供連れで、散歩ができるほどであった。しかし、若かった我々にとっては女遊びが出来るところが全くなく、それが一番辛かった。まあ、その分仕事に専念できたとも言えた。徳川おてんば姫(東京キララ社)私・井手純〜カナダ公邸出向⑤〜

  • 私・井手純〜カナダ公邸出向④〜

    忙しい日々を癒してくれたのが、犬の”ごんべい”だった。料理人の北崎さんがもらい受けて飼っていた。私も無類の犬好きだったので毎日会話をした。食後は運動のために真冬でも大使は散歩に連れて行かれていた。皆に愛されていた”ごんべい”。一時期、海外でテロがあり、公邸に24時間体制で警備が付いたが”ごんべい”は警備員とも仲良くなった。徳川おてんば姫(東京キララ社)私・井手純〜カナダ公邸出向④〜

  • 私・井手純〜カナダ公邸出向③〜

    大使は大変ゴルフがお好きで、私も勧められ始めた。カナダでのゴルフは日本とは桁違いに安く、丸一日プレーしても¥1000ぐらいで出来た。私もすっかりハマってしまい、休みの日は料理人の北崎さんと、サンドイッチを二食持って朝5時から夜8時まで、ボールが見えなくなるまで3ラウンドハーフやった。その内、いつも行くコースのメンバーになってしまった。雪が解けてから降るまでやり放題で年間3万円ぐらいだった。公邸のすぐそばにそのコースがあったので平日も北崎さんと交代で昼休みにハーフをやった。大使館員の方々と大使主催のコンペも数回行われた。雪が降ると今度はスキーだった。私は自慢する訳ではないが、日本でスキーのバッジテスト1級を持っていた。とにかくカナダの雪はパウダースノーで最高であった。わざわざヨーロッパから来る人も沢山いた。そんな...私・井手純〜カナダ公邸出向③〜

  • 私・井手純〜カナダ公邸出向②〜

    カナダ公邸に到着した翌日、公邸のメンバーに紹介されてカナダの勤務がスタートした。公邸での主な仕事は、大使ご夫妻の食事のお世話、大使主催のランチ、夕食会のセッティングと食事のサービス、食後の葉巻とアフタードリンクのサービス、そして皆様お帰りのお見送り、その後の後かたずけであった。遅いときは、午前二時頃になる時もあった。大使の朝食は毎朝六時と決まっており、たまに電話で起こされることもあった。大使は大変語学が堪能(当たり前のことなのだが)で他国の大使と会話中に先方が日本人と話していることを思わず忘れて”ジャップ”と言い、その他国の大使が謝った事があったのだが、朝食の時に何か嬉しそうに私に話してくださった。4月29日の(昭和)天皇誕生日には、在日日本人の方々を約200人程公邸の庭に呼ばれてパーティーをされた。とても賑や...私・井手純〜カナダ公邸出向②〜

  • 私・井手純〜カナダ公邸出向①〜

    レストラン部にて幾つかの部署を経験し3年が経った頃カナダ公邸への出向の話が突然来た。出発の二日前までレストラン部から宴会部に配属されテーブルセッティングなどを教え込まれた。1975年2月、羽田空港より(当時はまだ成田空港は出来ていなかった。)一路カナダに向けて出発した。トロントにて一泊し翌日首都のオタワに到着した。かなり雪も積もっており極寒の地であった。空港から大使館員の方の車で公邸へ送って頂いた。到着したのは、夜の8時頃だったので周りの景色は全く解らなかった。徳川おてんば姫(東京キララ社)私・井手純〜カナダ公邸出向①〜

  • 私・井手純〜大学から帝国ホテル時代⑦〜

    その後、何年か経ち、営業部に配属された。そこにいた部長が、前回の記事で書いた、厚生課長だった。「くそ!厄介なことにならなきゃいいけどな。」と、思いながらも仕事は頑張った。与えられた仕事は、さすがに帝国ホテルで、相手の企業は年商一兆円を超える大会社が多く(当時帝国ホテルは年商500億円)簡単にはアポイントメントが取れなかったのだが、ホテル業界の御三家でもあったのでその点では余り苦労は無かった。そんな折、今は亡き高円宮憲仁親王殿下にお子様が誕生された。殿下とは何度もお会いしており、数年前に私がカナダ大使館に出向していた時、カナダの大学に留学をされていた。その時、大使公邸に二晩お泊り頂き、お世話をさせて頂いた。殿下は私がいたことにとても喜んで下さり、大変気を遣って下さった。その様な事もあり、部長に「お子様がお生まれに...私・井手純〜大学から帝国ホテル時代⑦〜

  • 私・井手純〜大学から帝国ホテル時代⑥〜

    こんなこともあった。私の結婚後、暫くは高輪に両親と同居していたが、父の勧めで近くの所にマンションを購入することになった。帝国ホテルの厚生課に頭金の借用を申請した。必要な書類を揃えて提出し順番を待ち、当日厚生課長の面接を受けた。個室に入り書類を渡すとろくに目を通すこと無く、いきなり「井手は駄目だ!」と言われた。はじめは、何を言っているのか理解できず、冗談だと思い半分笑いながら聞いていると厚生課長は「オヤジが金持ちなんだから出してもらえ。他に困っている連中が沢山いるんだ。」と、真面目な顔で言われた。私も若く短気でもあったので、彼の良く無い、いわゆる上から目線の話し方につい「俺はあんたから借りるんじゃない。きちんと手順通り権利としてきているんだ!ふざけるな!」と言い残し、椅子を蹴飛ばして部屋を出てしまった。結局会社か...私・井手純〜大学から帝国ホテル時代⑥〜

  • 私・井手純〜大学から帝国ホテル時代⑤〜

    家に帰って、夜父にそのこと(帝国ホテルから宴会場を孔雀の間に変更して欲しいと懇願されたこと)を話すと、父は激怒した。「両殿下も富士の間はとても良いと喜んで頂いたのに、今更変更できるか!ふざけるな!もう案内状も出してあるのにそんな非常識なことは許せん!」とにかく取り付く島もない程であった。翌朝父は母と二人で「仕方ない。ここで断れば今後のお前のためにならないかも知れない。まるでお前が人質にとられている気分だ!」前の晩に母から説得されたようだった。何も出来ない自分にイラついたが、出社して部長室へ行き承諾した旨を伝えた。二人の部長は大喜びであった。しかし、しかし、しかし、その三日後また両部長に呼び出された。なんと千代の富士の人気が凄くとても富士の間では入りきれなくなったというのだ。結局また元に戻らされたのだ。父はもう呆...私・井手純〜大学から帝国ホテル時代⑤〜

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