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2019/05/02

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  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜4~

    父井手次郎はこの手記を書き始めた頃(昭和51年頃)記載出来ない悲惨な出来事などを色々思い出し、よく私井手純に話してくれた。その一部を書いてみる。父は軍医であった為、直接戦闘には加わらず、つねに目を凝らして上空の戦闘機、地上軍の銃撃戦をみていた。訓練では何度も銃を打ったが、実戦では無かった。戦闘員が打たれると状況を確認しすぐに駆けつけ医務室に運び治療をする。ある時、上空の敵戦闘機が被弾しパイロットが脱出しパラシュートを開こうと試みるも開かず150メートルぐらいの所から滑走路の真ん中に叩き付けられたのを目撃。父と医務隊員2人の3人で大きなバケツとシャベルを持って駆け付けた。勿論即死だったが、その遺体は頭が畳半畳ぐらいにペシャンコになっており、仕方なくシャベルで何度もすくいバケツに入れる。体の骨は粉々でとても一人では...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜4~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜3~

    その日の夕刻、さらに彗星偵察機によりサイパン島東南、約300海里付近に北西に進路をとった敵機動部隊と多数の艦艇を発見せり、との報告に接した。ここに至って、敵のマリアナ諸島への来襲は決定的となったのである。わがアスリート飛行場周辺でも、目前に迫った空襲に備え、修理中の航空機および燃料などを迷彩網によって隠蔽し、対空砲、機銃の整備、爆弾、爆薬の分散をはかるなど、昼夜をわかたぬ対戦準備に忙殺された。あけて10日、わが医務隊では空襲、および艦砲射撃を受けた際の負傷者の処置、戦死者が出た場合はいかに処理するかなどについて、岡本軍医長を中心として私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)、北川歯科中尉、川添衛生少尉らが協議し、その分担任務についても具体的な割り当てがとりきめられた。戦死、...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜3~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜2~

    6月1日。「あ号作戦」発動準備のため第61航空戦隊は、その所有する航空機の約半数を6月12・13日までに、ハルマヘラ島のカウ基地方面に展開することになり、わが261空においても6月2日早朝、指宿大尉を指揮官として、20数機がこの作戦に参加すべく、暁雲をついて南方に飛び立っていった。6月2日医務室においても、石田軍医大尉が下士官兵2名をひきい、輸送機でサイパンを離れ、パラオ島を経由してハルマヘラ島へと向かった。同時に6月9日の午前、テニアン島を発進した長距離高速偵察機彩雲より、メジュロ環礁内に集結していた米機動隊および輸送船団が忽然として行方不明になり、捜索中であるとの報告が届いた。この一報により261空の士官室は、にわかに緊張した空気に包まれた。いよいよ一大決戦が目前に近づいたことは、誰の心にも確実に感じられた...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜2~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜1~

    6月7日・・・メジュロ環礁の機動部隊を主兵力とする米艦部隊は、輸送船団を加えて、さらにその勢力をましつつあり、これこそ数日中に決行される大作戦の集結である。と確認された。当時の米軍の進行状況から見ると地上軍はニューギニア、ビアク島を攻略、一方、海軍はパラオ諸島を空襲、艦砲射撃ののち上陸戦により攻略し、さらにフィリピン進攻の公算きわめて大なりと考えられていた。大本営からは中部太平洋艦隊(司令長官南雲忠一中将)に対し、最高機密の軍機作戦である「あ号作戦」の発動用意が指令された。そして、同時に中部太平洋艦隊の指揮下にある61航空戦隊は、「戦闘準備に万全を尽くして待機すべし」との命令をうけ、その旨を上田司令より指示されたのであった。「あ号作戦」とは、勢いに乗じて進撃。攻略を続ける米機動隊、水上部隊をパラオ諸島、フィリピ...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑥・決戦の前夜1~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑤・米機現る3~

    こうして緊張した日々が続く間にも、飛行場では硫黄島、トラック、パラオ諸島をむすぶ零戦、偵察機、艦爆などの離着陸がさらに激しくなり、一方タナバク水上基地においても、二式や97大艇の動きがしだいに活発となっていった。士官室の私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)達も極秘電報の回覧によって、ニューギニア方面ビアク島の米上陸軍の攻勢が、いよいよ激しくなった事を知らされ、南太平洋方面の戦況も日ごとに重大な局面に達し、かつ一大洋上航空戦が近づいているのが肌に感じ取られた。6月5日ごろであったろうか、長距離偵察機彩雲が、マーシャル群島のメジュロ環礁附近に、米空母十数隻を中心とする機動部隊および艦艇多数が集結中、と言う報告をもたらせた。すでに医務隊としても、空襲や艦砲射撃、さらに最悪の事...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑤・米機現る3~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑤・米機現る2~

    5月も末に近くなったころ、米軍地上部隊のニューギニア方面への攻勢とあいまって、とうぜん活発化するであろうと思われる敵戦闘部隊と水上艦隊の動きがはっきりつかめないにしても、大規模攻略の準備中であることは間違いがなく、このマリアナ諸島にも近くかならず大空襲がある、と予想された。そのため飛行場一帯では対戦準備で大わらわとなった。もはや訓練より哨戒・偵察が主要任務となってきた。これまでの第二警戒配備は、まもなく第一警戒配備となり、私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)たちも午前3時の起床で、暗闇の中を医務室に行って待機することとなった。偵察機隊と戦闘機隊は、発動機の排気管より青白い光を出し、つぎつぎと爆音高く滑走路から急上昇して、東南の方向に飛び去って行く。医務室では交代で仮眠を...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑤・米機現る2~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑤・米機現る1~

    5月29日の午前10時頃、私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)はいつものように医務室で診療中であった。と、突然、ズシンズシンと腹にこたえるような地響きがすると同時に、十数発の落雷のような連続爆発音を聞いた。実戦の経験のある軍医長は、とっさに、「空襲だ、患者全員をつれて防空壕に入れ!」と矢継ぎ早に命令する。患者と医務隊員は大慌てで鉄カブトをかぶり、近くの防空壕へとむかう。上空を見ると、高高度に十数機からなる4発の米軍の重爆撃機B24の編隊が銀翼をつらね、南より北に向かっていた。飛行場ではすでに、戦闘機十数機が迎撃のために空中に舞い上がっていた。あとで司令より聞いたこの時の戦果は、2機撃墜、2機撃破とのこと。撃破された2機は海上に不時着したらしい。その日の夕刻、ゴムボートで...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑤・米機現る1~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも④・司令の質問2~

    上田司令は豪放磊落(らいらく)な武人であるが、一面、部下に対しては非常に細かく神経を使われ、指揮官としてはまことに人望のある方であった。下唇の下に少し髭をたくわえられ、時には私などにも質問をされる。例えばこうである。零戦が着陸寸前になって、発動機の排気管よりパンパンと銃声のような音を発することがある。すると司令は、すかさず、「井手中尉、あの音は何か?」とくる。「わかりません!」と答えると「零戦が着陸に失敗した際、火災発生を防ぐために電源を切る。その時、不燃性の生ガソリンの混合気体が、熱を持った排気管の中で爆発する、その音だ。」といった具合である。ある時、彗星艦爆兼偵察機が任務を終えて、アスリートに帰投した。ところが、脚に故障を生じたのか出ず、上空で不時着のための信号弾を投下し、地上員の指示で胴体着陸を行ったこと...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも④・司令の質問2~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも④・司令の質問1~

    さて、着任当時の私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)の日課といえば、朝食後、宿舎より500メートル離れた医務室に行き、午前中は外来診療、午後は入院患者の回診で、岡本軍医長の指導のもとで、外科系患者の治療に当たった。内科系外来は白崎軍医大尉が受け持って、歯科の治療は北川歯科医中尉が一人で、他の隊の者まで治療を引き受ける忙しさだった。患者の大部分は、そのころペリリュー島、メレヨン島上空の空中戦などで負傷した予科練出身の搭乗員や整備員などで、外傷の治療が主だった。なかには予科練乙二期で、海軍の至宝といわれた東山市郎中尉もいた。彼はペリリュー島上空の戦いで搭乗機が被弾し、炎につつまれ落下傘降下して九死に一生を得たものの顔面、両前腕に第三度の熱傷をうけて入室していた。まことに穏や...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも④・司令の質問1~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも③・頼もしき陣容3~

    これらのうち、私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)の配属された261空は、サイパン島における主力戦闘機隊で、定数72機、実動零戦52型45機を保有し、連日のように格闘戦、急降下、機銃発射、三号空中爆発焼夷弾の投下演習などの激しい訓練を行っていた。司令は上田猛虎中佐(海兵52期)で、飛行隊長・指宿正信大尉(海兵65期)、機関長・小橋実大尉、主計長・藤原治主計大尉という陣容。医務隊は、軍医長・岡本新一軍医大尉(昭和11年・桜士会組)、分隊長・石田桂太郎(旧姓白崎)軍医大尉(昭和17年・たて・よこ組)、分隊士・井手次郎軍医中尉(昭和18年10月・青島組)、分隊士・北川徹明歯科中尉(昭和17年9月・元山組)、看護長・川添慶知衛生少尉(佐世保鎮守府所属)、下士官兵35名(佐鎮所属...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも③・頼もしき陣容3~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも③・頼もしき陣容2~

    当時、サイパン島に所在する陸軍部隊としては、次のような部隊が数えられた。まず陸軍の守備部隊をあげる。第43師団(斉藤義次中将)を主とした三コ連隊(愛知、岐阜、三重にて編成)独立混成第47旅団、戦車第9連隊、独立山砲第3連隊、独立工兵第7連隊、約2万5千名の兵力が北部、中部および南部に配置され、戦闘準備態勢をとっていた。つぎに海軍部隊ーーー中部太平洋方面艦隊司令部(南雲忠一中将)、第6艦隊司令部(高木武雄中将)、第5根拠地隊(辻村武久中将)、第55警備隊(高島三治大佐)、横須賀第一特別陸戦隊(唐島辰男中佐)その他で約6千名が、ガラパン地区、タナバク水上基地およびアスリート飛行場付近に駐留していた。261空の所属する第一航空艦隊の第61航空戦隊は、当時マリアナ地区の基地航空隊として、定数750機、実働約370機を保...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも③・頼もしき陣容2~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも③・頼もしき陣容1~

    サイパン島は、東京より南南東2400キロ、北緯16度、東経145度の地点にあり、マリアナ諸島の中でグアム島についで大きな島である。南北23.2キロ、東西10.4キロ、面積119平方キロメートル。島の中央にタポーチョ山(標高490メートル)があり、周辺は丘陵地帯が多い。海辺は、東側は砂浜と一部に断崖、西側は珊瑚礁に囲まれた砂浜に熱帯樹のジャングルになっており、南端には、東西に滑走路を持つアスリート飛行場がある。北端は険しい断崖で、そこから約500メートルの所にバナデル第二飛行場が設営中で、約80%出来上がっていた。当時丘陵地と平地の大部分は、南洋開発株式会社の甘蔗畑(サトウキビ)となっていて緑が多く、西岸中央のガラパン市には、南洋市庁と南陽興発の製糖工場があり、民間人およびチャモロ系ミクロネシア島民(4000人)...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも③・頼もしき陣容1~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも②・猛虎の俊翼2~

    私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)と同じ日の午前に着任した北川歯科中尉は、私より一期前の昭和17年卒の元山組で現役の海軍士官であった。やや小柄ながら、言動がはっきりした活発な人だった。歯科医といえども、応急の場合の負傷者にたいする救急医療は心得ておくべきであるとの信念で、彼は応急処置の本をよく読んでいた。当日飛行場には、機種様々の最新鋭機数十機が翼をつらね、激しい訓練を重ねていた。次から次へと発進離陸する機体と、遠くの空から編隊をといて一機また一機と着陸するものとが相重なり、目まぐるしいまでであった。以前からサイパン島には、海軍航空隊の基地があり、また陸軍も、堅固なる要塞、陣地をきずき、関東軍より選抜された強力なる守備隊が、配属されていることはしっていた。また、それ故...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも②・猛虎の俊翼2~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも②・猛虎の俊翼1~

    4月24日の朝、船はようやくサイパン島ガラパンに入港した。私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)は同期生10名とともに内火艇に乗り移り、港の岸壁に接岸し島に上陸した。亜熱帯ではあるが、空は一点の雲もなくすみわたり、海底の珊瑚礁は緑翠色の透明な水をとうしてきらめいている。半袖、半ズボンの防暑服を着用している私に、微風が実に心地よかった。島の上空では、零戦、彗星、銀河、月光などの最新鋭機がさかんに訓練飛行を行っている。私は港の岸壁で、261空の軍医長である岡本新一軍医大尉に迎えられ、乗用車で島の南端にあるアスリート飛行場近くの宿舎に入った。岡本新一軍医長は、身長170センチ、体重70キロ位の恰幅のいい人で、濃いモダンなサングラスをかけ、鼻下にコールマン髭をたくわえられ、戦闘帽...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも②・猛虎の俊翼1~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも①・氷川丸船上その3~

    4月22日、出港後二日目。私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)は氷川丸の外科主任、寺沢軍医少佐の室に呼ばれて、「261空は、マリアナ諸島方面の61航空戦隊の基地戦闘部隊であるから、サイパン島で下船するように」と指示を受けた。やはり内南洋群島のサイパン島であったか。これまでの任地に対する不安定な心理が一気に霧散し、はればれとした気持ちになった。その夜、私たちは全員防暑服に着替えた。船はマリアナ諸島最北端の活火山、ウラカス島の赤く染まった噴煙を左舷に見て、一路南下する。椰子と南洋熱帯植物におおわれた、大小数個の島々に沿って、さらに航海は二日続いた。《先日たまたまテレビで横浜にて行われたトライアスロン競技を見ていたが、はじめの水泳の時に画面に氷川丸が映っていた。ああ・・・父が...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも①・氷川丸船上その3~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも①・氷川丸船上その2~

    4月20日午後2時---私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)をはじめ南方各地に配属されて赴任する同期生約50名は、横須賀軍港内に停泊中の病院船氷川丸に乗船した。船は純白で、煙突に赤十字の標識を付けている。私は4人の同期生と共に、指定された船室を使用することになった。午後4時抜錨。氷川丸は小雨ふり暮れなずむ横須賀軍港をしずかに出港した。港内には空母をはじめ巡洋艦、駆逐艦など数隻が錨泊していたが、どの艦も、南方での激烈なる海空戦で敵弾をうけており、その傷跡のものすごい姿が、目の前を過ぎ去っていく。それは、これから先の航海の多難を象徴するもののように見え、身の引き締まるおもいであった。だが、東京湾を出てからの氷川丸は、灯火の管制もなくゆうゆうと南方に針路をとって進んだ。灯火管...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも①・氷川丸船上その2~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも①・氷川丸船上その1~

    私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下私の記載は父井手次郎を指す。)が築地(東京)の海軍軍医学校の二か月余りにわたる教育を終了し、実施部隊に配属されることになったのは、昭和19年4月中旬の事である。私自身は昭和17年9月に名古屋大学医学部を卒業し、丸一年間、母校の桐原外科教室で、教授はじめ諸先輩より応急処置、臨床、手術などをみっちり教え込まれる機会をえられたので第一線部隊に出ても外科的治療には、それほど当惑することはないだろうと自負していた。その日、私は第八分隊監事、和田武雄軍医大尉の室に呼ばれた。そして「貴様のこれから赴任する実施部隊は、第261航空隊(以下261空と略す)である。4月20日横須賀軍港に停泊中の病院船氷川丸に乗船すべし。なお航空隊所在地については、出港後に指示されるからそのつもりでいるよ...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも①・氷川丸船上その1~

  • 父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも・はじめに~

    はじめに、これは私の父井手次郎が太平洋戦争でサイパンに於ける壮絶な体験と数多くの戦友の御霊に捧げる手記である。終戦後、何とかして書き残したいと思っていた矢先、戦記物を扱っていた”丸”(潮書房)より依頼があった。1982年(昭和57年)3月頃に書き上げた物を改めて私のブログで書きとどめたいと思い父の原稿を元に記していく。執筆に当たっては母も父の語りを書き留めたりしては、二人で深夜まで作成していた。母としては、前夫のフィリピン沖での戦死のこともあり、少しでも現地の事を知りたかったのではないかと思う。二人共、お互いに辛い思いで作成していたと思う。しかし父は上官、戦友の死を執念にも似た思いで書き上げた。私もこのブログで書いているうちに、何か戦地にいるような感覚に陥っていた。書けば書くほど、二度と二度と戦争は繰り返しては...父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも・はじめに~

  • 写真館⑤~般若心経①~②・松竹梅の貝~

    平成2年5月に完成した、母の自慢の大作の一つの書である。金箔をかなり使って漆に溶いて、約半年かけて書き上げたもの。お嫁に行く前からよく、貝に金箔を塗り絵を描いていたそうである。今回のこれは80代後半に作成したもの。徳川おてんば姫(東京キララ社)写真館⑤~般若心経①~②・松竹梅の貝~

  • 写真館④~亡くなる2月前に書き残したもの・井手医院アルバイト生達と~

    母が亡くなった後、いつも食事をしていたテーブルを片付けると、おぼんの下から出てきたもので、いつの間にか書いていたものである。内容は「人はみな死ぬるものとは知りながら明日や今日とは思はざりけり」父が高輪で医院を開業していた頃に明治学園の学生のアルバイトを頼んでおり、年に数回食事会をしていた時の写真である。徳川おてんば姫(東京キララ社)写真館④~亡くなる2月前に書き残したもの・井手医院アルバイト生達と~

  • 写真館③~自治会作品展への出品・ポチ袋の帯・兄慶光が亡くなった際に作ったもの~

    平成27年、引っ越し先の自治会で開催した展示会に出品したもの母がポチ袋を作った際の帯の原画兄慶光が亡くなった時に母が書いて輪島で作らせ、皆さんにお配りしたもの徳川おてんば姫(東京キララ社)写真館③~自治会作品展への出品・ポチ袋の帯・兄慶光が亡くなった際に作ったもの~

  • 写真館②~カナディアンナショナルのランチョンマット①~③~

    昭和50年、父母がカナダ旅行をした時、列車で食事をした際のランチョンマットを持ち帰り、それを刺繍にしたものである。徳川おてんば姫(東京キララ社)写真館②~カナディアンナショナルのランチョンマット①~③~

  • Yahoo!ニュース(デイリーさん記事)に掲載されました

    ブログ開設より60日、井手久美子1周忌の様子やインタビューがデイリーニュースに掲載されました。Yahoo!ニュースにも取り上げて頂き、とても大きな反響をいただきありがとうございます。記事はこちらコメントなどもいただき、ありがとうございます。順次お返ししていきます。なお、取材・報道関係のご連絡はコメント欄よりお願いいたします。Yahoo!ニュース(デイリーさん記事)に掲載されました

  • 写真館①~桜と紅葉と桔梗①~③~

    母が昭和60年代、色々な作品を作ったが、その時に描いた屏風である。写真館①~桜と紅葉と桔梗①~③~

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