新潟地震 昭和39年(1964年)震度7.5 死26 地盤液状化による被害顯著 津波発生 日向灘地震 昭和43年(1968年)震度7.5 死1 傷15 津波発生 日向灘地震では最大級 北丹後地震 昭和2年 (1927年)震度7.3 死2925...
奈良薬師寺南門から徒歩5分にある多くの本ある小さな喫茶店
奈良の歴史 社寺仏閣の本 写真集 随筆集等など 専門家の方からお子様まで読んで頂けるもの揃えました。飲物とスイーツで一息出来る喫茶店初めました
新潟地震 昭和39年(1964年)震度7.5 死26 地盤液状化による被害顯著 津波発生 日向灘地震 昭和43年(1968年)震度7.5 死1 傷15 津波発生 日向灘地震では最大級 北丹後地震 昭和2年 (1927年)震度7.3 死2925...
三陸沖地震 昭和8年(1933年)震度8.1 大津波発生 死3008 地震動による死者なし 南海道地震 昭和21年 (1946年)震度8.0 死不明1432 和歌山県、四国湾岸大津波 東南海地震 昭和19年 (1944年)震度7.9 死9...
♯奈良県に被害を与えた地震 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
1948年6月15日 (昭和23年)日高川地震(和歌山県中部) 震度6.7 和歌山県・奈良県南部で小被害。全体で死者2人(十津川署管内)、 家屋倒壊60 地すべり・崖崩れなど。 奈良市では被害はなかったが、春日大社などの石燈籠...
♯奈良県に被害を与えた地震 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
1944年12月7日 (昭和19) 地震名 東南海地震 (南海トラフ) 震度7.9 戦争末期に起こった巨大地震。東海地方で軍用機工場ほぼ全滅などの大 被害。近畿地方にも被害及ぶ。全体で死者998人、全壊6130。 奈良県...
♯奈良県に被害を与えた地震 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
1891年1028日 (明治24年) 地震名 濃美地震(岐阜県南西部) 震度8.0 日本内陸で起こった地震としては最大級。岐阜・愛知県で大被害 根尾谷を通る大断層を生じた。全体で死者72763人、全壊14万。 奈良県では死1人...
奈良県に被害を与えた地震 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
1707年10月28日 (宝永 4年10月4日) 地震名 宝永地震〔南海トラフ〕 震度8.4 我国地震史上最大級の地震の一つ。 震害と津波の被害は東海道から九州に及び、全体で死者4900人 潰家29,000 大和国では死...
奈良県に被害を与えた地震 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
1596年9月5日(文禄5年 〈慶長1〉7月13日) 地震名 伏見桃の地震 (京都および畿内) 震度7.9 三条より伏見の間被害最も多く、伏見城天守大破、約600人圧死 諸寺民家の倒壊死傷多し。堺で死者600人 奈良では...
奈良県に被害を与えた地震 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
1494年6月19日 (明応3年5月7日) 地震名奈良 震度6.4 東大寺・興福寺・藥師寺・法花寺・西大寺破損。矢田庄(郡山の西) の民家多く破損。余震翌年に及ぶ。5月中は連日余震。 1498年9月20日 (明応7年8月25日) 地震名 ...
奈良県に被害を与えた地震 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
1361年8月1日 (天平16年6月22日) 地震名 畿内諸国 震度ー この月の18日より、京都付近に地震多く、この日の地震で、法隆寺の 築地多少崩れる。次の地震の前震か。 1361年8月3日 (正平16年6月24日) 地震名 畿内・土佐・阿...
奈良県は地震に安全か 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
1099年2月22日 (承徳3〈康和1〉1月24日) 地震名 南海道〔南海トラフ〕震度 8.0 興福寺西金剛小破、大門と廻廊が倒れた、摂津天王寺に被害。土佐で田千 余町海に沈む 1177年11月26日 (治承 1年10月2...
奈良県に被害を与えた地震 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
1070年12月1日 (延久2年10月20日) 地震名 山城 大和 震度6.4 東大寺の巨鐘の鈕切れ落つ。京都では、家々の築垣を損ず。 諸国の寺塔も被害を受ける。 1091年9月28日 (寛治5年8月7日)地震名 山城 大和 震度6.2 ...
奈良に被害を与えた地震 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
855年6月26日(斉衛2年5月5日) 地震名 奈良 震度不明 東大寺大仏の頭落つ。ただし これは地震によるものかどうか疑わしい点がある。 887年8月26日 (仁和3年7月30日) 地震名 五畿七道 (南海トラフ)震度8.6 京...
地震 カミナリ 火事 親父 という諺がある様に 地震は前触れがなくやってくる その地震の 奈良県下に起こったものを紹介していく。 古いところから 各日3件づつでブログにする。 599年 (推古7年 4月27日)地震名 大和 M7.0 倒壊家屋を生...
81年間 奈良の天気 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
気象用語 晴れのち曇り 予報した前半晴 後半曇り 曇り一時雨 予報した時間の4分の1未満が雨の時 曇り時々雨 予報した期間の4分の1以上 2分の1未満が雨のとき 朝のうち 日の出から9時ごろまで 夕方 日没前後それぞれ1時間ぐらい 夜半 0時前後 週...
81年間 奈良の天気 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
地震用語のうち 震度 はその人がその場で感じる揺れの強さを表すものである。 奈良は地震による大きな被害が ない と言われる方も少なくはないが 近い将来起こると考えられている 南海トラフトは10回 天武天皇の時代から起こっている。この地震による被害も大きいものであった。 有名...
81年間 奈良の天気 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
不快指数の算出法 不快指数=0.72×(気温+湿球温度)+40.6 68〜69 最も快適 70〜74 不快感を持つ人も出始める 75〜79 半数以上の人が不快感を持つ 80〜84 全員不快 86〜 もう我慢できない ※湿球温度とは、温度計の球部にガーゼを巻き湿らせて測っ...
81年間 奈良の気象 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
冷房デグリーデは冷房に要するエネルギーを見積もるための指数である。家庭冷房では 梅雨の終わりを冷房開始日とすること考えられる。 梅雨の間は、雲が多く日照が少ないので除湿は必要であるが、梅雨明けとともに強い日差しが加わり、急に気温が上昇する。大阪を例にとると過去の梅雨明け前5...
気象用語 ♯気圧の谷 本州を挟んで太平洋側と中国大陸の気圧は高く 日本海北部から朝鮮海峡 更に東シナ海にかけて気圧は低くなっています。一方、東経120度から140度にかけて北緯35度線を輪に切ると図のようになります。中央部で低く前線に沿って谷の帯が北東から南西に流れています...
♯益田池 碑の代石 弘法大師の築造の益田池は現在は存在しない。 昭和36年(1961年)にその樋と思われるものが掘り出された。 「和州旧跡幽考」益田池碑銘の条に 碑銘はなくなりて 台と見えし石あろい。俗に岩船といh。東西三丈二 三尺(約3.8㍍)高さ二丈五、六尺もありけむ。...
橿原市 益田池 外部資料 中世の大和における興福寺や東大寺など寺院の強大な権力を持っていいた。;その時代も仏教界に革命的な変革をもたらしたのは、最澄と弘法大師空海であった。とくに大和においては弘法大師空海だった。南都と密接な関係を持ちながら、空海が開いた、真言宗を広めていっ...
今月のお薦めの本 5月の営業日 3日(土)4日(日)5日(月) 9日(金)10日(土)11日(日) 16日(金)17日(土)18日(日) 22日(木)24日(土)25日(日) 30日(金)31日(土)6月1日(日) 26日(土)27日(日)は臨時休業いたします ...
平安京と長谷寺 外部資料 平安時代において 藤原家の力が優勢のいなり その力の御蔭で春日大社 興福寺の勢力が大きくなった。かすがは摂政につぐ大荘園領主となった。 寛弘4年(1007年)時の関白藤原道長は京都から大和路に入り、大安寺 軽寺 壷阪寺 などに泊まり 金峰山に着き埋...
外部資料 中世の大和で圧倒的な勢力を持ったのは興福寺であった。平安時代から次第にその勢力を増大し、大和一国の支配につながる。その基盤となったのは、この寺を氏寺とする藤原氏の政治権力と経済力があった。藤原氏の保護で寺領も拡大していた。 大化改新で大きな業績を残したことで、藤原...
♯藤原京 2 外部資料 持統 文武 元明と三代16年にわたって栄えた藤原京だったが、都が平城に移ってからは衰退の一途をたどることになった。は平城遷都の翌年には大官大寺とともに消失。甍を並べていた都の建物もやがて崩れ落ちて土中に埋まり、中世 近世 現在 へと、千三百年という長...
♯藤原京の年表 飛鳥村の天武持統両天皇陵 外部資料 わが国で初めて造営された本格的都城・藤原京。中国唐の長安を模して都造り。わずか16年で奈良平城京へ遷都した。その間には女帝持統天皇の崩御 そして孫の文武天皇の崩御があった。また海外との交流も盛んで、遣唐使や朝鮮半島の新...
♯藤原京 ① 外部資料 畝傍 耳成 香久山の大和三山に囲まれた地に、わが国初の本格的な都・藤原京があったことを疑う人は今でこそいないが、それが確定するまでは時間がかかった。 藤原京は和銅三年(710)廃都となり、まもなく周り一帯はあ田園となった。そして時とともに忘れ去られて...
古都の都 ♯万葉集 外部資料 日本初の歌集「万葉集」には、仁徳天皇の后から平城京の歌人まで約4516首の歌を収めている。万葉集は全20巻の構成で、4つの時期に分けられる。一期は大化の改新から壬申の乱まで。二期は元明天皇の奈良遷都まで。三期は聖武天皇 天平9年(737)が孝謙...
古都の都 ⑱ 大宝律令№2 外部資料 この律令は文武天皇の時代に発布され、藤原京の朝堂院で盛大な儀式が営まれた。この律令の公布で、以来こんにちまで元号が制定され、貴族の位階も、この時の規定が近世まで長くつかわれた。後世に与えた影響は、誠に大きなものがあるとはいえ、すべての規...
古都の都 ⑰ 大宝律令 外部資料 律令の令は政治機構についての規定がある。 二官八省 の制度である。天皇のもとで、天皇のもとに神祇官 と太政官を設置した 太政官の下に 八省のもとに業務を担当する多くの宮司が置かれた。 この二官八省が行政の組織、機構とすると それとは別に統治...
古都の都⑯ 大宝律令 不kじゃさ 外部資料 律令の撰定にあたったのは、天皇の皇子にあたる刑部(おさかべ)親王をはじめ、藤原不比等ら19人。遣唐使として渡り、その学識の深さが唐の正史にも記録された当代の学者・栗田真人(まひと)もいた。天皇はこの法典に先立って飛鳥浄御原令も画し...
古都の都 ⑯ 大宝律令 外部資料 藤原京は建都からわずか16年で奈良の平城京に移転した。天武天皇が中国の律令制度に基づいた国造りを決意し、その新しい国にふさわしい都として藤原京の造営を考えたが、新都は天武天皇のきさきだった、持統天皇をはじめ文武 元明の三代の天皇の間、存続し...
古都の都 ⑯ ♯藤原京 大管大寺 外部資料 外部資料 藤原京には左京には大官大寺が建立された。 創建については、日本書記の天武二年に「小柴美濃王 小錦下紀巨詞多麻呂をもって、高市大寺造る司に拝す。今の大官大寺、是なり」とあるが、文武朝(697〜707)と考えられている。また...
古都の都 ⑭ ♯藤原京紀寺 藤原京には平城の紀寺の前身になる寺で、現在地は明日香村小山にあった。創建は藤原京が造営される前の7世紀後半。寺地の周辺には築地大垣があったとみられ、東西 南北の一辺の長さが約226㍍に及ぶ。本藥師寺と同じ程度の規模と考えられている。 伽藍が南から...
古都の都 ⑬ 橿原市 藤原京の時代には 大きな寺が建立された 本藥師寺 大官大寺 紀寺など今は建物は残ってないが、平城京に建立された官寺に四敵する立派な寺だった。 本藥師寺 建立は天武天皇が皇后の病気平癒を祈って創建した。国営の官寺である。しかしながら工事は天武天皇が亡くな...
古都の都 ⑫ 藤原京 外部資料 藤原京において疫病が流行った。 日本書記などには、文武2年(698)から諸国では疫病の発生したことが多く記されている。 これは国家が疫病対策を事業として取り上げたことのほか、藤原京の建設で疫病が流行りやすい場が作られたためとしている。そのため...
古都の都 ⑪ 藤原京市場 外部資料 諸国から集まった食料や、生活用品を販売した場が管設市場として、東市と西市の二つがあり 食料品や繊維製品 手工業製品などを売っていた。これらを監督する 市司 がおかれた。この市場については 扶桑略記 に記されている。平城京に遷都する三年前の...
古都の都 ⑩橿原市♯藤原京人々の暮らし 外部資料 庶民の食事 外部資料 下級貴族 外部資料 高級貴族 藤原京時代の人口は2〜3万人。 平城京になると、人口は約20万人 当時としては 世界でも有数の都市になったが、その全身の藤原京も、日本では初めて多くの人々が集まった都市にな...
古都の都 ⑨ ♯橿原市 外部資料 藤原京は朱雀大路によって 西の右京と東の左京に分かれている。南北路は、このほか右京 左京双方に、一坊、二坊 三坊の各大路が走る。東西路は北から一条 二条 三条と続いて、十一条大路まである。その東西 南北の間にはそれぞれ小路が1本づ通り、大...
古都の都 ⑧ ♯橿原市 藤原資料館のジノラマから 天の香久山近くにあります。 藤原京の条坊が東西八坊、南北十二条だったことは、大宝令の規模定から知ることができる。天皇が住んだ内裏がある藤原宮の周囲には、貴族、役人、庶民の家が並んでいた。京の規模は東西2.1㌖、南北3.2㌖...
古代の都 ♯橿原市藤原京 外部資料 藤原京の 大極殿 朝堂院など主な建築物の周囲には役人たちが執務した建物があり、下級官吏数千人が働いていたとされている。そこに 舎人官 陶官 民部省 馬寮 左右馬寮 大膳職 内膳司 膳職 弾正台 造酒司 など二十八種を挙げている。 役人の勤...
古都の都 ⑥ ♯橿原市 外部資料 朝堂院を北へ行くと大極殿がある。天皇が政治や儀式を行った建物であ、間口が約45㍍ 奥行が約21㍍ 高さ25㍍ 藤原京内最大の建物で当時の日本でも最大の大きな建物であった。 現在藤原京の跡地の木の茂った小高い場所が大極殿の基壇がある。 大宮基...
古都の都 ⑤ 橿原市 ♯藤原京 朝堂院 外部資料 宮の玄関 朱雀門から中に入ると 回廊に取り囲まれた朝堂院がある。そして朝堂院を中にして、北に大極殿、南には控えの場である朝集殿を配している。朝堂院は儀式のとき、貴族や役人たちが集まった所で、官庁街にあたる地区。この東西側にそ...
古都の都 ④ 橿原市 外部資料 外部資料 日本で初めて造営された本格的な都 藤原京の中心は藤原宮。この宮で文武天皇 元明天皇が即位している。そしてここには天皇が住んだ内裏と、それを取り巻く官庁の建物があった。天皇が儀式を行った建物は大極殿と呼ばれ、高さは3階建てのビルに相当...
古都の都 ③ ♯橿原市 外部資料 天武天皇の遺志を継いだ 持統天皇が橿原市で藤原京を造営したと考えられるが、日本書記では、持統天皇5年の記事で藤原京を 新益京(あらましのみやこ)と呼んでいる。これは当然、天皇が住んでいた飛鳥の都に対し新たに造営される都のこと考えられる。 藤...
古代の都 ♯橿原市 ② 外部資料 天武天皇は即位(673)後 都を移す計画を立てたが、実現せず、律令体制の整備と中国との通交が頻繁になるにつれて 都かあった飛鳥では狭く、新たに中国式の大規模な都が必要になり、難波遷都に着手した。が飛鳥地方の人々の反対で中止せざるを得なかった...
古代の都 ♯橿原市 ① 以前 生活し学校に通い友人と遊び 橿原市 懐かしく 地である。 その橿原市は歴史の宝庫 今になって知りえることである。 外部資料 橿原市の中心部に七世紀の末日本で初めて本格的な都城・藤原京が出来た。存続したのは平城京に都が遷るまでの 16年 しかし...
♯前部重厚 歴史を感じる大木 その間に芝と鹿 その東には山並み 寺社仏閣が見渡せる風景は他に類を見ないものである。 ♯奈良公園がほぼ現在の姿になったのは、明治の末 日本の古美術研究家として知られている アメリカのフェノロサが、九鬼隆一男爵の案内で奈良公園を散策 その日一日中...
♯野神行事 外部資料 雨を期待する農家の人々が今もって素朴な信仰のもと「蛇」を祭っている野神行事がある。 奈良県平野部は米の産地にもかかわらず生育に必要な水の確保は難しい。このため「お田植えまつり」や「おんだ祭」また「砂掛け祭」も豊作につながる水への願いを込めて祈念の祭りが...
水を支配する竜蛇 竜穴神社 外部資料 大和の国の「気象」と「民族」のかかわりを調べると、農業が主な産業であった古代から近代まで、稲が必要とする「水」の量は、空から降ってくる雨だけでは半分にも満たず農家の人たちは水を確保するため、水路を開き、井戸を掘り、池を築くなど、あらゆる...
悲劇の3大流れ ♯十津川流れ 明治22年(1889)8月18日 19日両日十津川を村を中心にした壊滅的な水害を「十津川流れ」という 和歌山県水災史には、その年は春から梅雨期にかけて曇雨天の日が続き、梅雨どきもアワセの着物が必要で7月8月は陰晴定まらず蒸し暑い不順な天候だった...
悲劇の三大流れ ♯初瀬流れ 外部資料 御所流れから71年後の文化8年6月15日(1811年8月3日)今流にいえば短時間の集中雨である。この年は、5月下旬に雨降りの空模様が続いた後、6月21日から26日にかけて長雨となり、三輪では三軒が流れ、寺川では堤防決壊で問屋の土蔵三棟が...
今月 お薦め ならら は奈良の情報が記載されています。 今月は、天理大学の特集 個人的に関心の強いモノが 天理大学付属天理参考館には 世界各国から30万点以上集めた生活資料 考古資料などの展示されています。 4月の営業日 5日(土)6日(日) 12日(土)13日(日)...
大和の悲劇3大流れ1 ♯御所流れ 外部資料 大和の国には 「日焼け一番 水つき一番」という言葉がある。飛鳥の頃から江戸末期まで千二百七十年間の干害は約110回 洪水の回数も85回である。明治時代に入ってからもそれぞれ回数を重ねている。 元文5年閏七月十七日(1740年9月...
山口神社 丹生川上神社 中社 額 外部資料 外部資料 耳成山口神社 大和には山口神社は大和に14社あって、もともとは、皇室の御料林山であった。宮殿造営のため材木伐採・運搬という危険な仕事のため、山の神に対し入り口で祭典祈願していたと解釈されている。が「三代実録」の貞観元年(...
♯水不足に悩んだ大和 ① 外部資料 古代から開けた大和平野とその周辺では、多くの人が住み付き、大量の穀物を必要とした。そして稲が生育する暖候期間に降る雨は必要量の半分にみ満たない土地柄だけに、農民たちは、天から恵み、適雨を渇望した。水の神が水をくれないから干害が起きると考え...
外部資料 外部資料 ♯天理 楢神社の実益井 実益井は、四角な花崗岩で井戸枠が組まれている。 古来、子供を授かり知恵を益し、万病に効ある霊水と伝えられてきた。 この井戸枠には、もう一つ江戸人のしゃれっ気が加わって、話題を提供している。歌舞伎界の名門 市川家の定紋、三枡に通うこ...
♯飛鳥井 外部資料 飛鳥井に 宿りはすべし やおけ 陰もよし お水も寒し 御秣もよし 催馬楽 飛鳥で休憩だよ ヤ オケ 木陰も涼しいよ。水も冷たいよ。馬のえさもたっぷりあるよ 飛鳥の水というとき 古代歌謡「催馬楽」に歌われた「飛鳥井」飛鳥坐神社の鳥居わきに 歌碑が立っ...
♯稲渕・栢森の岩清水 外部資料 飛鳥川をさかのぼる稲渕・栢森への道から芋峠 竜在峠に発する飛鳥川本流(稲渕川)と多武峰から流れて来る冬野川の合流するのが石舞台に近い祝戸。その集落の中・専祢寺観音堂の黒い石仏弥勒菩薩の微笑をながめ 大化の改新の功労者南渕請安を祀る稲渕の小社を...
♯奈良県五條市大澤寺 目洗池 外部資料 外部資料 外部資料 庭園の半ばを占める青竜の池がある。その左側の琵琶池 南北二つの泉で眼病に効くお香水がわき、男性は北池 女性は南池の水をいただいて 目を洗う。古くから「目洗池」と呼ばれてきた池である。 水源はお寺の裏山である。五条市...
吉野 六田の名水 外部資料 弓絃葉の井は、天武天皇の皇子 弓削皇子が額田女王に昔をしのんで、吉野の離宮から贈った歌で知られている。その名を伝える井戸が今も残っている。 いにしえに恋ふる鳥かも 弓絃葉の御井(みゐ)の上より鳴く渡り行く 万葉集二の一一二 吉野の宮人が歌に詠...
外部資料 外部資料 吉野への道途中に弘法大師さんが開いた弘法井戸である お大師さん(弘法大師空海)は、平安初期、高野山に道場を開くために、室生からの途中この村に立ち寄って休憩した。 食事を差し上げるなどして親切に接待世間話の中で村人の多くが疫病で苦しんでいることを訴えたとこ...
外部資料 霊水は門をくぐってすぐ左側にある。 風情のある井戸屋形 水量は豊かでどんな日照りにも枯れることない。 底は深い井戸である。 お薬師さん信仰と水は深く結びついている。水が清浄であるごとく心も清浄であらねばならぬし、病をいやすにも心を清浄に保つことが大切だから、お参り...
閼伽井 外部資料 弘仁寺は虚空蔵山の南山腹に建っている。 虚空蔵さんの水は本堂背後の一部を井戸枠にしてわく。時にポトリ ポトリと上から滴がおいて波紋を描く。虚空蔵山からしみ出る水が集まるので、枯れない。ヒノキの香がする水とも 飲む森林浴というひともいる。 山門を出て細道を下...
外部資料 茶筅で有名な 高山 そこに 高山八幡宮がある。生駒山高山の里である。参道かた本殿への高い石段があり古風な佇まい。茶の湯に良い水で 昔は西大寺の大茶盛にも使われたとか しかし記録はない。居間は安産の井戸として知られている。安産の御祈祷を受け ご神水の御利益を頂こうと...
外部資料 大神神社にお参り そして 山之辺の道に行かれる方や 大神神社 のご神体登山 そしてこの三輪山から湧き出る霊水を頂きに来る人々が多くいる。 狭井神社の拝殿左奥にあるのが、薬井戸で、古くから万病に効くといわれている。そこで頂きに来る人が絶え間なくいる。土地の醸造家はこ...
外部資料 外部資料 春日山の台地から湧き出た水の一部は万葉集にも詠まれている 能登川となり、伏水流となり地中を流れているものもある。その水脈上に清水通である。古くは湧き出る清水を求めて人馬が喉を潤したとある。 春日大社の社家の出で、奈良の銘酒「春鹿」の醸造元である今西家は、...
外部資料 81年間の奈良の天気 は少しお休みして 春休みなどにお出かけされるにも参考にして頂きたい所をブログします。 美しい名前 瑠璃井 古くから人々のあこがれてきた財宝の一つ、その瑠璃 を名前にしている井戸 どんなに大切にされてきたかが偲ばれる。 飛鳥の岡寺 西国三十三か...
今日は お彼岸 日中の時間が長くなってくる日 天候も良く 外へ出る機会も増えてくる季節 奈良と大阪の間のハイキングコースを紹介 人も歩けば 水に当たる。 暗峠の石畳は大阪から奈良へと生駒を越える暗峠へ奈良街道である。 山越えの道と、尾根筋を走る信貴生駒スカイラインとが立体...
81年間の奈良の天気 二つの雨宝山② 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
田原本町 楽田寺 外部資料 十輪院と もう一つの雨山寺は田原本町の堺町にある。この町は、県平野部のヘソ ともいわれ、雨宝山という山号を持つ楽田寺は、田原本寺ともいわれてきた。町発行の楽田寺資料の雨乞いに絞って紹介すると、元亨2年(1322)雨乞いを祈念、効きめがあったので、...
81年間の奈良の天気 二つの雨宝山 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
十輪院 外部資料 大和の国では稲作期間中、稲の生育に必要な雨が少なく降雨を祈る神様や行事、順雨願う仏様への民間信仰が実に多い。 十輪院 吉備真備の長男 朝野魚養(なかい)によって霊亀年間(715〜717)に元興寺の一院として創建されたと伝えられている十輪院は、藤原貴族の邸宅...
81年間の奈良の天気 カミナリ三日 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
外部資料 雷三日 雷は真夏の午後、巨大な積乱雲が崩れ、まっ黒になった空から一陣の風とともに大粒の雨が降って,とどろき光り、雷鳴が近づいて稲妻が走る。時には大雷雨となっておののき、決して気持ちの良いものではない。さて、昨日も夕立に出会ったが、今日も雷が鳴った。この分だと、明日...
81年間の奈良の天気 かみなり石 秋篠寺 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
「伎芸天」で有名な秋篠寺は、カミナリが落ちない寺として知られている。 千余年前の昔、秋篠の地によく雷が落ちた。そこで、大元師修法の開祖 常暁律師は一案を立てて待っていると、大雷鳴の後、一雷獣が境内をさまよっているのを発見。捕らえて戒めのため、そのヘソを取り地中に埋めて石で封...
81年間の奈良の天気 法隆寺五重塔 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
外部資料 外部資料 法隆寺の五重の塔には、落雷の難をのがれるために、塔の九輪の根元から4本の大きな鎌が突き出ている。これはカミナリが天から太鼓を背負って落ちてくると、トラの皮のパンツもろとも、この鎌で切り裂くぞと 「雷脅しの鎌」と言い伝えられている。それでも鎌倉時代に三重目...
81年間の奈良の天気 雷のヘソ 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
外部資料 昔東明寺の境内に一際高い松の木があった。ある夏の午後、トラの皮のパンツをはいて頭に角を生やしたカミナリが、あまりの暑さに耐えかねて入道雲の上から、この松の根元に下りて来て、昼寝ときめこんだ。たまたま庭に出た坊さんが、これを見つけた。 かねてから カミナリがなにより...
81年間の奈良の天気 神縄に引っ掛かった雷 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
外部資料 天の神様たちの中で、雷が一番お酒飲みだった。酒に酔うと、裸になって赤いふんどし一つで、太鼓をたたいて踊った。ハ百万の神様から、地上に下りて人間のヘソを取って来いと命じられた。 落ちそこなって、しゃわら 入口にある魔除けの縄に引っ掛かた。宙ぶらりんになって、苦しんで...
81年間の奈良の天気 神様に縛られた雷 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
外部資料 備前町の天皇神社へ昔 雷が落ちた 神様の怒りに触れて縛られてしまった。それから一度も、この神社へは雷が落ちたことがないという。 これと同じ伝説が、岩屋町の春日神社にもあると。雷が境内におちたので、明神さまがタスキで縛ったという。 ■ 住所 630-8053 奈良県...
81年間の奈良の天気 雷の落ちない所 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
金ダライで捕らえた雷 外部資料 神楽に八頭神社があった。これは後に勝手神社に合併してしまた。合併するまでの昔のことだが、この付近に雷が落ちた。村人たちが金ダライをさげて遠巻きにして囲んだ。そして金ダライで雷を押さえた。 雷は「再びここには落ちない」と誓ったので、村人は相談の...
81年間の奈良の天気 井戸に落ちた雷 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
外部資料 昔 奥田の善教寺の井戸に雷が落ちた時、そばで水をくんでいた人が井戸にフタをして雷を閉じ込めてしまった。困り果てた雷が「もう ここへは落ちないからフタを開けてくれ」と頼んだので、フタを取ってやると、雷は「ここへは落ちるまい」と約束して天に上がったという。そこで、この...
81年間の奈良の天気 不快指数 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
外部資料 外部資料 不快指数の算出法 不快指数 = 0.72×(気温+湿球温度)+40.6 68-69 最も快適 70-74 不快感を持つ人も出始める 75-79 半数以上の人が不快感を持つ 80-84 全員不快 86〜 もう我慢ができない ※湿球温度とは、湿度計の球部にガ...
81年間の奈良の天気 雷の経験談 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
生駒山での落雷 外部資料 外部資料 昭和22年(1947)の夏近鉄生駒駅を発車した電車が被雷し、トンネル内で燃え上がる惨事が起きた。当時生駒山山頂から天文台にかけて尾根に沿って、文字では表現が難しい〝ビシビシ”というようなそれでいて尾根全体が唸っているような、不気味な音が...
81年間の奈良の天気 桑原桑原 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
大阪府和泉市桑原に西福寺に桑原井がある。 この井戸に雷が落ちて村人に捕られた。そこで これからは絶対この村には落ちないと、雷は村人に約束して、許して貰った。今も雷が鳴ると「桑原 桑原」と唱えるのは、このためというのである。 落雷の難から逃れるこの呪文は桑原地区だけでなくても...
81年間の奈良の天気 蚊帳の中は安全 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
もうだいぶ前のこと 北葛城郡広陵町で起きた話。 まだ馬見という地名が生きていたころの夏、お寺にお参りに来ていた氏子の人々が突然の雷雨を避けてお堂に逃げ込んだ。農家の男性3人 主婦1人。 男性はお堂の真中でアグラを組んで一服。一人の主婦は、ぬれた野良着をふきお堂の隅の柱にもた...
81年間の奈良の天気 梅雨明け10日 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
外部資料 梅雨が明けると一気に真夏 頑強に停滞していた梅雨前線を日本海に押し上げ、日本海中部から更に沿海州北部に追いやった太平洋高気圧は、その縁辺が東シナ海から黄海、朝鮮半島を経て日本海中部にまで押し上げて広い範囲で根強く広がり、この状況は下層から上層までも包み込んでしまう...
81年間の奈良の天気 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
7月の天気 外部資料 月初めは雨の日が多く、梅雨明け平年日ごろまで傘が手放せない。月も半ばを過ぎると、雨降りが少なくなっている。この傾向は曇り一時雨、晴れ一時雨となってくる。 そして 焼けつくような真夏到来となってくる。 ■ 住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目1...
81年間の奈良の天気 amidase観測データーの流れ 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
外部資料 全国に約1300ヵ所の観測所で常時、観測装置により自動的に観測している。観測所には、この観測装置とともに、符号送信機が設置されている。 毎0分になると、東京の地域気象観測センターの電算機から,各観測所に呼び出しを掛ける。 呼び出しを受けた符号信号機は、観測装置...
81年間の奈良の天気 アメダス 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
外部資料 梅雨前線や秋雨前線、雷雨に伴う集中豪雨は、局地的な山崩れ、鉄砲水や河川の氾濫などにより、人的、物的損害が出てくる。また台風や発達した低気圧、季節風の吹き出しなどによる暴風雨や大雨は、かなり広い地域にわたって大きな災害をもたらす。これらの気象災害を防ぎ軽減するため、...
ちょっと レア 私たちの知っている奈良には、まだ、気づいていない「宝もの」が潜んでいるかもしれません。 もし、ほんの少しだけ奥にはいったら、思いもないモノやコトに出会えるとしたら 旅は、次の自分を作ってくれるモノと、私達は考えます。 遥かな時間の堆積の隙間から、ふと、感じる...
81年間の奈良の天気 雷が鳴ると梅雨明け? 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
外部資料 梅雨前線の雲の帯で、前線の北側200〜300kの幅を持ち東西に長々と延びて前線上を低気圧が次々と東へ移動し、その都度各所で雨を降らしていきます。ちょうど、本州を土俵にして四つに組んだ大気の塊が雨を流し合っている。押されたり 押し返したりするうちに大量の汗(雨)が出...
81年間の奈良の天気 梅雨の開け 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
外部資料 外部資料 日本列島に沿って長々と延びていた梅雨前線は、太平洋高気圧の勢力が強くなるにつれて日本海側押し上げられ、遠のいて梅雨明けとなる。基本的にはこの様に梅雨はあけるが、これは、10年6回ぐらい。一度日本海側に上がった前線が舞い戻ってきて、太平洋で消滅するのが、2...
81年間の奈良の天気 梅雨 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
外部資料 梅雨という言葉を聞くと6月上旬から雨の続く時期を思いうかべられることと思います。 日本は四季の変化が顕著に表れることで有名である。4つの季節の他に、「梅雨期」「秋霖期」を加えたい。秋霖期は梅雨期ほどハッキリしない年もあるが、梅雨期は春から夏へ移行する通過儀礼。 立...
81年間の奈良の天気 甘雨を祈る神々 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
都祁村南之庄 国津神社の 雨請願満 のお礼に奉納された御手洗 雨乞いでまず挙げ荒れるのは、都祁村白石の雄神(おが)神社だろう。この社は中白石の東方・深江川を隔てて600㍍余りの所にある。神殿はなく雄雅山を神体山とした大神神社と同じ形態をとっていて、土地の人達から「三輪さんの...
81年間の奈良の天気 田植え始まる 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
古い写真です 田植えの終わった都祁村の水田 ゴールデンウイークあたりの奈良市都祁村と奈良市平野部との気温差は3度程低い。高度差は約350㍍都祁村が高い。 都祁村は平野部に比べ、東山中であって冷涼いな地域である。しかし、ゴールデンウイークをまちかねたように田植えが始まる。そ...
81年間の奈良の天気 鯉のぼりを揚げ得る日 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
外部資料 鯉のぼり 早いですが 5月5日は子供の日 晴上がった空に泳ぐ鯉のぼりを見上げると 喜びが満ち溢れてくる。 それを、揚げるのは、天気を気にしながらである。 その天気を昭和54年(1979年)から10年間昭和63年(1988年)までの4月16日から5月31日までの奈良...
81年間の奈良の天気 五月晴れ 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
5月晴れ 急に5月の天候と思われる方がいらっしゃると思う。 5月は抜けるような青空の続くこともあれば、肌寒い雨の日が続くこともる。梅雨のはしりの顕著な年は月末に近づくと、うっとうしい日の続くことになる。 81年間調べてみると、 晴 快晴の日の数は9日 少しでも雨の降るひは4...
81年間の奈良の天気 ツバメが低く飛ぶと 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
南の国から、はるばる飛んで来たツバメは、地面や田んぼの水面すれすれに飛び交うのを見かける時がある。低気圧が近づいてくると、気温や湿度が高くなり、昆虫の発生も増してくる。発生したばかりの虫たちは、低い所を低迷しているため、ツバメはここぞとばかり、これをとびながら捕らえ、ひなの...
81年間の奈良の天気 花粉症 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
杉花粉に絞って 外部資料 花粉症は季節性アレルギー性鼻炎 と呼ばれている。二ホンスギのかふんが体に入ることで抗体ができ、その抗体が新たに入ってくる花粉などの抗原にたいして反応を起こす 抗原抗体反応の一つといわれている。 花粉症は戦前はあまり見られなかったが、戦後の食事はタン...
81年間の奈良の天気 黄砂 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
外部資料 モンゴル地方も含め黄土地帯は降水量が少ないため土地が乾燥し 砂やチリが舞い上がりやすい。加えて季節が進むにつれて、太陽の日射が次第に強くなり、地面の温度が上昇すると、大気の対流が起こりやすくなる。この様な時 砂やチリは大量に吹き上げられ大量の砂塵が空中高く舞い上が...
81年間の奈良の天気 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
雨にこだわって 傘を必要とした日数 昭和37年(1962年)から平成3年(1991年)4月で、出勤時刻を朝7時から9時 帰宅時間を夕5時から7時までのそれぞれ2時間と仮定し傘を必要とする0.5㍉以上雨の降った回数を調べると、どちらも114回 朝 雨が降ってなかったが、夕刻に...
81年間の奈良の天気 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
4月の雨 時刻と雨 外部資料 雨のよく降るのは、1日の内で何時ごろが多いか?傘を必要とする回数は?と調べた 天気予報に降水確率を導入する前、街角で雨具の使用状況を観察した結果はレンコートの襟を立てるだけで我慢して出掛けたが、用心深い人は、時間雨量が0.5㍉以上になると傘を差...
81年間の奈良の天気 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
4月の天気 外部資料 佐保川沿いの桜 本格的に春を感じ 学校では新学期が始まり 花に誘われて外出の機会も多くなる。4月は快晴の日が多い。 昭和26年1951年)から昭和53(1978年)までの4月の降水量で最も多いのが下北村 前鬼で353㍉ 最も少なかったのが橿原市八木で1...
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新潟地震 昭和39年(1964年)震度7.5 死26 地盤液状化による被害顯著 津波発生 日向灘地震 昭和43年(1968年)震度7.5 死1 傷15 津波発生 日向灘地震では最大級 北丹後地震 昭和2年 (1927年)震度7.3 死2925...
三陸沖地震 昭和8年(1933年)震度8.1 大津波発生 死3008 地震動による死者なし 南海道地震 昭和21年 (1946年)震度8.0 死不明1432 和歌山県、四国湾岸大津波 東南海地震 昭和19年 (1944年)震度7.9 死9...
1948年6月15日 (昭和23年)日高川地震(和歌山県中部) 震度6.7 和歌山県・奈良県南部で小被害。全体で死者2人(十津川署管内)、 家屋倒壊60 地すべり・崖崩れなど。 奈良市では被害はなかったが、春日大社などの石燈籠...
1944年12月7日 (昭和19) 地震名 東南海地震 (南海トラフ) 震度7.9 戦争末期に起こった巨大地震。東海地方で軍用機工場ほぼ全滅などの大 被害。近畿地方にも被害及ぶ。全体で死者998人、全壊6130。 奈良県...
1891年1028日 (明治24年) 地震名 濃美地震(岐阜県南西部) 震度8.0 日本内陸で起こった地震としては最大級。岐阜・愛知県で大被害 根尾谷を通る大断層を生じた。全体で死者72763人、全壊14万。 奈良県では死1人...
1707年10月28日 (宝永 4年10月4日) 地震名 宝永地震〔南海トラフ〕 震度8.4 我国地震史上最大級の地震の一つ。 震害と津波の被害は東海道から九州に及び、全体で死者4900人 潰家29,000 大和国では死...
1596年9月5日(文禄5年 〈慶長1〉7月13日) 地震名 伏見桃の地震 (京都および畿内) 震度7.9 三条より伏見の間被害最も多く、伏見城天守大破、約600人圧死 諸寺民家の倒壊死傷多し。堺で死者600人 奈良では...
1494年6月19日 (明応3年5月7日) 地震名奈良 震度6.4 東大寺・興福寺・藥師寺・法花寺・西大寺破損。矢田庄(郡山の西) の民家多く破損。余震翌年に及ぶ。5月中は連日余震。 1498年9月20日 (明応7年8月25日) 地震名 ...
1361年8月1日 (天平16年6月22日) 地震名 畿内諸国 震度ー この月の18日より、京都付近に地震多く、この日の地震で、法隆寺の 築地多少崩れる。次の地震の前震か。 1361年8月3日 (正平16年6月24日) 地震名 畿内・土佐・阿...
1099年2月22日 (承徳3〈康和1〉1月24日) 地震名 南海道〔南海トラフ〕震度 8.0 興福寺西金剛小破、大門と廻廊が倒れた、摂津天王寺に被害。土佐で田千 余町海に沈む 1177年11月26日 (治承 1年10月2...
1070年12月1日 (延久2年10月20日) 地震名 山城 大和 震度6.4 東大寺の巨鐘の鈕切れ落つ。京都では、家々の築垣を損ず。 諸国の寺塔も被害を受ける。 1091年9月28日 (寛治5年8月7日)地震名 山城 大和 震度6.2 ...
855年6月26日(斉衛2年5月5日) 地震名 奈良 震度不明 東大寺大仏の頭落つ。ただし これは地震によるものかどうか疑わしい点がある。 887年8月26日 (仁和3年7月30日) 地震名 五畿七道 (南海トラフ)震度8.6 京...
地震 カミナリ 火事 親父 という諺がある様に 地震は前触れがなくやってくる その地震の 奈良県下に起こったものを紹介していく。 古いところから 各日3件づつでブログにする。 599年 (推古7年 4月27日)地震名 大和 M7.0 倒壊家屋を生...
気象用語 晴れのち曇り 予報した前半晴 後半曇り 曇り一時雨 予報した時間の4分の1未満が雨の時 曇り時々雨 予報した期間の4分の1以上 2分の1未満が雨のとき 朝のうち 日の出から9時ごろまで 夕方 日没前後それぞれ1時間ぐらい 夜半 0時前後 週...
地震用語のうち 震度 はその人がその場で感じる揺れの強さを表すものである。 奈良は地震による大きな被害が ない と言われる方も少なくはないが 近い将来起こると考えられている 南海トラフトは10回 天武天皇の時代から起こっている。この地震による被害も大きいものであった。 有名...
不快指数の算出法 不快指数=0.72×(気温+湿球温度)+40.6 68〜69 最も快適 70〜74 不快感を持つ人も出始める 75〜79 半数以上の人が不快感を持つ 80〜84 全員不快 86〜 もう我慢できない ※湿球温度とは、温度計の球部にガーゼを巻き湿らせて測っ...
冷房デグリーデは冷房に要するエネルギーを見積もるための指数である。家庭冷房では 梅雨の終わりを冷房開始日とすること考えられる。 梅雨の間は、雲が多く日照が少ないので除湿は必要であるが、梅雨明けとともに強い日差しが加わり、急に気温が上昇する。大阪を例にとると過去の梅雨明け前5...
気象用語 ♯気圧の谷 本州を挟んで太平洋側と中国大陸の気圧は高く 日本海北部から朝鮮海峡 更に東シナ海にかけて気圧は低くなっています。一方、東経120度から140度にかけて北緯35度線を輪に切ると図のようになります。中央部で低く前線に沿って谷の帯が北東から南西に流れています...
♯益田池 碑の代石 弘法大師の築造の益田池は現在は存在しない。 昭和36年(1961年)にその樋と思われるものが掘り出された。 「和州旧跡幽考」益田池碑銘の条に 碑銘はなくなりて 台と見えし石あろい。俗に岩船といh。東西三丈二 三尺(約3.8㍍)高さ二丈五、六尺もありけむ。...
橿原市 益田池 外部資料 中世の大和における興福寺や東大寺など寺院の強大な権力を持っていいた。;その時代も仏教界に革命的な変革をもたらしたのは、最澄と弘法大師空海であった。とくに大和においては弘法大師空海だった。南都と密接な関係を持ちながら、空海が開いた、真言宗を広めていっ...
百夜月(ももよづき) 竹筒の少し北山河の対岸に、百夜月(三重県紀和町)という村がある。そこに、光月山紅梅寺(こうげつさんこうばい)という古い寺があった。寺の庭には紅梅があり、はるにはたいへん美しい花をさかせ、よい香りをあたりに漂わせていた。 外部資料 この地図右下 169号...
麦のふんどし 十津川 那知合(なちあい)のお話 弘法大師は、唐で修行を終え、日本に帰ることになりました。 いよいよ日本へ帰るという日、ある家の前に来ると、この家の犬が大師に吠えつき、なかなかそこを通そうとしないのでした。 この様子を見ていた飼主が、大師のそばに寄ってきて、 ...
笠成島(かさなりじま)のごうら 外部資料 折立 は十津川温泉右側にあります。 ずいぶん昔のことである。ある夏の土用時分に、良い天気が続いていた。川の水はうんと少なくなり、川水がくさってきた。(藻がついてきた)どうやらごうらが住みついたらしいと、村人が言いだした。 もともと、...
椋之助(むくのすけ)のとんち 昔、あるところに、庭に一本、大きな椋の木が立っている家があった。 この家には椋之助という息子がおった。 また、その隣には、きりょうよしの娘がいて、よい婿はいないかと探しておった。 椋之助は少々変わ者じゃったので、隣の娘にはまったく相手にしてもら...
栄宝院慈観法師(えいほういんじかんほうし) 外部資料 外部資料 上湯川、大井谷の野地(家名)の近くに、栄宝院慈観法師のお墓がある。 およそ4百年余りの昔、どこからか一人の落武者がやってきて、このあたりを拓いて住みついた。耳の不自由な人であったが、学問もあり、大変かしこい、や...
和田渕のゴウタロウ 外部資料 外部資料 外部資料 平谷あたりでしょうか 明治22年の大洪水までに奥里に(大字内原)下平(しもだいら)という家があった。家族が山へ出掛けてしまうとばあさん一人になってしまうんじゃ。すると、どう...
河童と唾 頃は明治の中頃 所は大字旭 外部資料 外部資料 初夏のある日のできごとです。 村の桝谷のおじさんは、いつものように牛を連れて草を食べさせに、下の川原へやって来ました。 お日さまがさんさんと照る川原には、青々と草が茂り、まるで緑色のじゅうたんを敷きつめたようです。 ...
長池の川太郎 むかし むかし、この湯之原と小井との間に長池というて、それはそれは長い大きな渕があったそうな。 そして、この長池には川太郎が棲んでWおったということじゃた。 あるとき、この長池の上の道を通りかかったひとりのばあさんが、なにげなしにひょっと下の方を見てやったら、...
源治渕(げんじぶち) もう百年余りも昔、この近くのむらに源治という働き者の若者がいた。そして、その隣のむらには、ヨシノというきりょうよしの娘がいた。 二人は、ある年の盆踊りの晩に知り合い、いつしか想い想われる仲となり、やがて夫婦(めおと)になろうと固く契り合うほどになった。...
一本だたら 外部資料 一本だたら 外部資料 玉置神社 あるとき、一人の猟師が玉置神社にお参りして、横峯を歩いておった。 突然、大きな音がしたかと思うと、山の上から何者かがおりて来て、道をふさいでしもうた。見ると、なんとそれは身の丈一丈(三メートル)はあろうか、足は一本、目は...
虫おくり 湯之原のお話 外部資料 昔は、6月土用(旧暦)のころになると、どこの在所でも。虫おくりをしたものじゃ。 闇夜の晩に、在所の衆は、わら人形を先頭に押し立て、めいめいあかあかとたいまつを明かし、 「実盛殿の御通り」 と叫び、チン、チン、チン、ドン、ドン、ドン、鉦を打...
弓の兄弟 十津川 小森のお話 むかし、むかし。朝から晩まで弓と矢を持って遊んでばかりいる兄弟がいた。 あるとき、父親がたまりかねて、 「お前ら、それほど弓矢で遊びたいなら、粟畑におやってくる雀でも射てみろ。」 と、言いつけた。 兄と弟は、粟畑にいき、群がる雀めがけて、しきり...
天狗の止まり木 武蔵地区のお話 外部資料 外部資料 外部資料 昔、あるじいさんが裏の山で大きい木を切っておった。大小の幹はきっちり切れているのに倒れない。じいさんは、いっしょうけんめい押したり引いたりが倒れない。日も暮れてきたので、仕方なくそのまんまにして山を下ることにし...
朝の蜘蛛はなぜ福なのか 昔、吉備の国の大臣が、中国へ渡ったときのことである。おおぜいの前で、何やらむずかしい書き物を読まなければならなった。もともと、中国は漢字漢文の国なので、これはえらいことになったと、たいへん心配したのである。 いよいよ、その朝がきた。大臣は中国の偉い人...
松之助のこと 外部資料 湯之原の川向こうの山の中に、栃谷という谷川が流れている。 あの明治の大水害の前には、この谷川のほとりには田畑もあったし、何軒か家もあったそうじゃ。 この栃谷に今から百五十年ほど昔、松之助という者が住んでいたそうじゃ。松之助は、いつごろからかこの土地に...
娘に化けたこんにゃくいも 十津川 那知合の話 外部資料 外部資料 ずいぶん昔じゃよ。少しの田畑を耕しながら、じいさんとばあさんが暮らしおったと。 ある日のこと、この家にかわいい娘さんがやってきた。二人は、この娘さんを招き入れ、楽しいひとときをすごしたのじゃ。しばらくして、風...
だまされかけたおじさん 昔々。川津のある百姓家のおじさんは、日がな一日、田をすいたそうな。 そのうちにだんだんと日が暮れてきた。 「牛よ。今日一日ご苦労じゃったのら。さあ帰って休もうか。」 牛から鞍をおろし、犂(すき)もはずして、畦道に置いた。おじさんも綱をもって、牛に引か...
天狗の鼻擦り石 山手から椋尾(むくりょう)に登る途中に、きじの森というところがある。そこに天狗の鼻擦り石があったんじゃよ。 むかしむかし、椋尾の天狗は、この石で鼻をこすって磨いたんじゃと。わしも見たことはあるが、子どもの背丈ほどの石で、その面には、のみで刻んだような溝が幾本...
猫又の主 折立から玉置へ登る途中にそれは美しい猫又の滝があるがのう。そこにまつわる話じゃが。 ある日のこと、中前のおばさんが筏をかく(組む)藤かずらを猫又の滝近くまで切りに行ったそうな。いいかずらが、何本も何本もみえるので心はずませて滝の脇をよじ登ったそうな。足元は岩だらけ...