仏たちの家のすみごこち ① 「奈良の仏さんたちは一体どんな住み心地の家に住んでいらしゃるのであろう?」お堂の中の気象を調べ始めた。 三月堂、戒壇院、新薬師寺、法隆寺、藥師寺、唐招提寺など調べた。仏さんは夏の日差しをさえぎるのに十分でしかも風通しが非常によい。仏さんたちの家は...
奈良薬師寺南門から徒歩5分にある多くの本ある小さな喫茶店
奈良の歴史 社寺仏閣の本 写真集 随筆集等など 専門家の方からお子様まで読んで頂けるもの揃えました。飲物とスイーツで一息出来る喫茶店初めました
餅飯殿商店街は 奈良と吉野熊野との結びつきがあり 年末のお祭り おん祭りには重要な場所である。おん祭りのお渡り式がハイライトでるが、その前に行われる 行事もご覧頂きたい。12月におん祭りについてはブログに書く予定です。 外部資料 正暦寺 奈良市南端方面に位置する。菩提山竜華...
お宿所 おん祭りは 1136年関白藤原忠通が五穀豊穣 国民安寧を願って始めたお祭りである。 おん祭りの無事執行を祈願する。お宿所前庭にて御湯立や懸物が行われる。大宿所は昔、おん祭りに参勤する大和士がお祭りに先立ってここに泊まりこみ精進清斎した所である。その際当日の行列に必要...
古記によると、延喜年中によると、聖宝尊師が大峰山上再開の時、蕗の畠郷の人が餅飯の供膳を聖宝尊師に法施し奉った。そこで当町の俗士が聖宝尊師に追随して金峰山に供奉して三上大峰に詣でた。(三上大峰=山上大峰)これは行者以外の人が大峰に入った最初である。そこで、聖宝尊師は人々の信仰...
外部資料 餅飯殿 といえば 近鉄奈良駅から南へ300㍍ 猿沢池の近くの商店街を描かれること多いと思う。 旧名は蕗畠郷(ふきのはた)と呼ぶ。 一説によれば、弘仁年中に餅飯の供膳を蕗の弁財天宮(興福寺境内南西)に献じたので餅飯殿と呼ばれるようになった。そこで当郷でも、七か所の弁...
外部資料 奈良の鹿の歴史は奈良公園の馴化された鹿は約九百年前から存在していると考えられる。時には権力者に利用されて保護された時代もある。藤原氏一族は興福寺を氏寺とし、春日大社を氏神としていたので、神鹿を庶民の上に位置づけた。このため、庶民にとって受難の時代が続いた。当時は、...
奈良公園史から 外部資料 明治25年9月 鹿を(当時は神鹿)夜間のみ収容する木柵の鹿園が建設された。位置は春日参道北の春日野森の通称「北山」の地で周囲240間(約3,000坪)出入口は三か所を開いた。これに要する材木は県から公園花山林の間伐材が交付された。 奈良公園史 p1...
奈良公園 張り子の鹿 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
明治中期 外部資料 張り子の鹿は徳川時代よりの名産で、奈良詣の旅は何物をおいても 張り子の鹿を 家宝として求めたのである。その製法は、鹿の形をした木型を造り、その型の上を反古紙を以って張るので、耳は古表紙で、造った。明治14年15年頃より古葉書を用いるようになった。表面はベ...
天平時代の奈良の人々と鹿 外部資料 古代の奈良市周辺に多くの鹿が棲息していた。付近の貝塚から出土する角や骨から見ても推定される。併せて七百年代に始まる、平城宮造営 東大寺及び興福寺の創建。俄に脚光を浴びたこの地に。常住者 推定七万から二十万近い人口増が如何なる混乱が起こった...
外部資料 奈良公園における鹿と人との付き合いは古くからで、古代から現在にいたるまで奈良公園で自然に存在している。 奈良公園を代表する風景に 東大寺大仏殿 興福寺五重塔 その中に自然に溶け込むように人に慣れた鹿がいてる。世界で珍しく街の中を闊歩する大型哺乳類である、この鹿は単...
宮大工 仏像保存 の匠たちと現在の正倉院での修理 復元に携わってきた匠たちとの対話によって天平時代の匠たちとの技の秘密を解き明かそうとしている。 正倉院はペルシャから中国最盛期にいたる全アジアの最も美しい時代の姿を残しているのは正倉院の宝物である とも言われている。この宝物...
正倉院には六枚の笏が伝存しているが一方が平で、一方が丸い 笏の上下はどちらか? 天下の名香 欄樹帯は いつだれによって切とられたか? 難しい宝物名の読み方はなどなど 正倉院にまつわる話を実証的に書かれている。大正期に正倉院の最高責任者であった 森鴎外の秘話も貴重である。 森...
正倉院の宝物には 多彩な色使いである。 日本古来の色の成り立ち 意味と共に、正倉院の宝物の修理などの 色 の部分を担当された 故吉岡幸雄先生の本です。 正倉院展の素晴らしい宝物の 色使いには 意味があり それを感じながら 展示されている品々をご覧になられると楽しみが増えるか...
観測から見えたもの 外部資料 観測結果の一覧表である。 これらの宝庫に共通した最も著しい特徴は 湿度の変化が小さいことである。それも変化の周期が短くなるほど著しい。こrは、宝庫に多量に使用している木材の恒湿作用によるものと思われる。木箱や木造庫内の湿度は外気とは直接関係はな...
唐びつ内 の気象 「唐びつ」は唐櫃 辛櫃 韓櫃 などと書き、いずれもカラビツと読む 杉また檜材の白木の前で冠せ蓋がついている。天平時代のものやもつ新しい時代のものがある。脚のあるものとないものがある。 正倉院の宝物はとうびつにすべて収納されていると伝えられている。そこで昭和...
正倉院新宝庫の気象 昭和28年(1953)新宝庫が竣工 そこで 庫内の気象観測を開始した。 観測方法はでは設置して記録した。 宝庫と新あ宝庫の気温差を、昭和30年12月から31年9月までの平均すると、宝庫0.41℃新宝庫0.26℃で、新宝庫の方が気温変化が小さい。宝庫は木造...
気温 湿度の日変化 朝夕 昼夜 の変化が外気と比較してかなり小さいであろうことは、聖語蔵 博物館収蔵庫の観測からも推定される。日々の気温較差 湿度日変化は、気温は外気の約9分の1湿度は10分の1にであった。宝庫と外気の気温差 湿度差は殆ど変わらない。 外部資料 ■住所 63...
宝庫内の気象観測 宝庫内の気象観測は曝涼といって10月から11月にかけて21日ないし31日ほど開封され、点検 手入れ 展観などが行われるほか、1年中の大部分は閉鎖されている。それゆえ気象観測も無人で行うため特別の工夫が必要である。遠隔操作 長期捲き自記器の二つの方法が考えっ...
外部資料 内部の気象観測 正倉院宝庫では人が立ち入って実験観測をすることは許されない。それで、同じ校倉造りの聖語蔵について宮内庁の許可を得て昭和25年(1950)6月5日から8月5日までの期間に実験観測を行った。この期間中は庫内数か所に週捲きの自動温度計 湿度計を配置し、6...
宝物 上図2の宝庫には、用途から見れば、(1)袈裟 樂装束などの衣類 (2)皿 鉢 匙 などの食器類 (3)鏡 屏風 厨子 床などの調度の品々 (4)琴 琵琶 尺八 鼓面などの楽器 器具 (5)柄香炉 幡 などの仏具 (6)筆 墨 硯 紙 などの文具類(7)弓箭 刀 鉾 ...
外部資料 勅封と曝涼 宝庫がいつから勅封となったかはさだかではない。宝庫の開封は当初から頗る厳重であって、勅許を必要とし、事実は勅封である。 都が平安京に遷る頃から宝庫の開検、つまり通風と点検が始められたが、その都度勅使が立っていられる。宝庫の品々は櫃に納めて伝世せられ、幕...
正倉院の配置 古い冊子からであるので 現在は変更されているであろう。 正倉院は奈良市雑司町 東大寺大仏殿の北西(北緯34.4東経135°51)にあり宮内庁に属する。これを管理しているのは正倉院事務所である。正倉院についての解説書は数えきれないほどある。そのなかで昭和23年’...
今月のお薦めの本 今月は奈良で大きなイベント 正倉院展です。 宝物の写真が多く掲載されてます。 今月のお休み予定 1日(火)9日(水)14日(月) 19日(日)20日(月) 28日(月) 貸切 7日(月)12日(土) 5日(土)16日(水)19日(土) 23日(水)26日(...
正倉院 宝庫内の気象を観測するために、大阪管区気象台 奈良地方気象台の職員は四百日捲き自記温湿度計を設計作成し、宝庫内の湿度変化が小さいことを理由づける関係者はあらゆる努力をした。 ■ 住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-14 ■ ℡ 0742-43-8152
昭和35年発行 正倉院御物の文化財的としての価値は世界的に有名である。それが1,200余年地上の倉庫に中で無事に保存し続けて来たことも世界的な業績である。天災 兵火などを免れたこと御物を収納してある木造の雄大な宝庫が保存に適した環境であったことも疑えない事実である。その宝庫...
昨日のブログで書いた献物帳 奈良の秋のイベント 正倉院展が今月26日から来月11日まで国立奈良博物館にて開催される。今年は聖武天皇即位1300年にあたり どの様な品々があ出品されるか期待している。 紹介の書物は当店のものである。その品々調査内容 結果などがまとめられている。...
正倉院展 外部資料 8世紀の中頃奈良時代の天平8年(756)6月21日聖武天皇の七七忌の忌日にあたり光明皇后は天皇の御冥福を祈願にて御遺愛品 永く保存せられることとなった。これが正倉院の起こりである。その二百年ばかり後の平安時代中頃の天暦4年(950)に大仏開眼会をはじめ重...
外部資料 佐保川に架かる法蓮橋を渡ると 右側に聖武天皇陵少し奥まった右側に 光明皇后陵があり。奈良時代を元明天王和銅二年三月(709)から七十余年文化の栄えた天平時代となった。往古天皇は即位するとそれぞれ自らの陵を計画し、実行に移した。天平の華を展した聖武帝は東大寺その他を...
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仏たちの家のすみごこち ① 「奈良の仏さんたちは一体どんな住み心地の家に住んでいらしゃるのであろう?」お堂の中の気象を調べ始めた。 三月堂、戒壇院、新薬師寺、法隆寺、藥師寺、唐招提寺など調べた。仏さんは夏の日差しをさえぎるのに十分でしかも風通しが非常によい。仏さんたちの家は...
昭和31年の夏と翌年の冬京都大学の協力を得て、三月堂の前の校倉をくわしく観察した。昼夜ぶっ続けの連続観測を行った。校倉の内外の温度や湿度の変化、中の空気の動きなどを特別の機械で測定した。そして校倉の特徴、いわば秘密がだいぶ明らかになった。 校倉は壁に隙間を生じない実に巧妙な...
正倉院の宝庫と聖護蔵について、次の実測を試みた。 宝庫の屋根の上、一番上の校木一番下の校木 こんなところにそれぞれはっきりした目標を定め、これらの高さが変化するかどうか調べるのである。今一つは、聖護蔵の校木に目標を定めて、百分の一㍉まで読める顕微鏡で同じく校木の伸び縮を測定...
校倉の秘密 だれが言いだいたのかしらないが、「校倉は積重ねてあるので三角の校木(あぜき)が空気の乾いている時はちじんで校木の間にスキ間ができ、外の乾いた空気をいれる。ところがそとが湿っぽい時は校木がふくれてスキ間がなくなり、外の湿っぽい空気を入れない。このようにして校倉の中...
大和国はj9位滑りで各所に被害が生じている。その主なものは昭和7年(1932年)の王寺町藤井部落の浸水騒ぎである。これは大和川の右岸で大阪堅上の峠で地すべりを起こし、ところどころき裂を生じ部落の民家を倒し、トンネルを倒し最後は対岸の道路も大和川の川床をも隆起させて流水をせき...
火災は奈良県には大都市がないので大火災というほどのものはない。奈良市では慶長17年3月6月と元和5年4月13日 12月2日の3回の大火災が記録に残ている。幸いにもこれらの大火災はそれ以降どこにも生じていない。これは前述のように人口密集地の少ないためだが、その集落や部落自体か...
水害 風害 干害 の他にあげられる諸災害のうちで、おもなものは雷災 雪才 火災 地震などである。 雷災は古文書にも相当残っておりかつ伝説も多いところからかんがえると、昔の人々は雷にかなりいためつけられたらしい。寺院ガランなどが落雷にあい、しかもこれらの機関は当時の文化の中...
大台の豪雨の原因 ② 山上岳の大峰山系は年中強い西風をうけているころで、樹木の枝葉は完全に東になびいて育っている。このためか山上ヶ岳は大台ヶ原よりも気温年変化の較差が大である。大峰山系北部一帯は西風のもたらした気候によって降る雨で、西風気流の山岳による強制上昇気流に変わるさ...
大台豪雨の原因① 大台ケ原で土砂降りになるためには、強烈な上昇気流がなければならない。一般に、大台の雨は局所的であって、ごくせまい範囲に集中している。しかも天気図上から台風の出現に限定されているようで、季節風や梅雨や少々の不連続線がひっかかたぐらいでは集中豪雨にはならない。...
大台ケ原観測所(大正13年1月〜昭和34年4月) 現在西大台 大教会 の一部が気象観測所 大台ケ原山をふくむ台高山脈系および山上ヶ岳から南下する大峰山脈系はいずれも南北に走っていて、縦断しているために両者の降雨機構は違っている。さらに西方和歌山県境にある荒神岳一帯は山塊をな...
長期の戦争による国土の荒廃ははなはだしく、わずかの豪雨や強風によってさえも相当な気象災害を起し、気象予報の重要性が認識された。いたずらに手をこまねいて傍観している状態であった。昭和28年(1953年)ようやく国力の回復によって、気象業務の最大目標は災害防止ありと呼ばれるよう...
主として1日午前十時一回の観測で、気温「最高最低を含む)降水量およそ天気を十日ごとにまとめて測候所へ報告する任務をもったものである。その後観測の必要にせまられて、明治44年に下淵、明治45年に内牧、大正4年に柳生、大正9年に前鬼、榛原、岡、大正10年に荒神岳 昭和2年に曽爾...
明治30年1月、現在の橿原市八木町に、奈良県八木測候所が設立されたのは、当時の気象業務の主体が農業気象の確立にあったので、大和平野の中央位置で気象観測をしようという意味が多分にふくまれていたのであろう。測候所の設立と同時に玉置山・小森・南日裏・寺垣内・河合・上市・五条・御所...
奈良県の河川は近畿の南北の水源地となり、いずれも四囲の府県に流出しているのが特色で全く近畿の屋根である。奈良盆地では初瀬川を初め多くの川は奈良盆地をうるおし、中央で集まり大和川となって大阪平野に出て西方大阪湾に注いでいる。宇陀山地の水は宇陀川、名張川となり、さらに大和高原の...
奈良県南半の吉野山地は、県内の60%を占める山勝ちの地域である。南西に走る。南西に走る槢曲山脈で主として水成岩からできている。地形は壮年期で、起伏が著しく、急な山、深いV字字形の谷が至ちころに発達している。標高1500㍍を越える高山がそびえ「近畿の屋根」と称されている。中腹...
奈良県の北半の奈良盆地は瀬戸内陥没地帯の東端をなし 地質時代に断層により土地が落ち込んで出来た「地溝」である。当時は湖をなしていたが、沖積層が積もって早く干上がって人々の生活の場となった。南北約30㌔東西約16㌔ 面積約3百平方万㌔、海抜40〜100㍍の平らな盆地である。奈...
奈良県は地形上南北で非常に差異がある。北半は奈良盆地(大和盆地)を中心に、それを囲む青垣山をなす山地や高原からなっている。これは大阪平野・京都平野・京都盆地などともに、近畿地方の中央低地帯の一部をなすものである。この地域はわれの祖先が早く住みつき、古くから文化が開け、わが国...
一昨日からのまとめになるが、多武峰を中心とする地域 榛原 長谷の特別地、曽爾 御杖区域 都祁区域 北倭区域 月ヶ瀬方面 あるいは五条市を中心とする区域、さらに上北山西原や高見山」ろく地など、みな特殊の気候状態を示している。気候資源という言葉があるとしたら、我々はあまりにも温...
奈良 南の庄 寺垣内の3地の気温変化をみると、案外奥吉野の気温の高いことがわかる。都祁 宇陀方面の丘陵抗原地の気温は低く、ことに冬季は季節風のため風も予想外に強い。大和平野各地はだいたい奈良に似たようなものである。県内各地とも8月がもっとも暑く、最寒月は1月2月のうちいずれ...
気温の年変化型は理想的な内陸性変化を示しているが数字から得られる気温統計だけでは、県内の気温分布の実相を知ることはできない。大和平野および北東丘陵地は、西部生駒金剛山越気流の影響を受けて、気温年変化を起こすが、吉野山間部とくに東吉野区域はこれら一般気流の影響を受けるというよ...
春日杉・吉野杉 外部資料 春日山に生ずる杉の大木を春日杉と呼び、林業上は銘木として秋田杉 屋久杉 神代杉などと同様、全国的に知られている。春日杉の銘木としての価値は年を経て大木であり、その材のもつあざやかな赤紫色は次第に含まれる樹脂の変色に伴い渋い黒紫色になる点、加えて年輪...
杉 外部資料 森中で林業上から見た場合に何といっても杉はその王者であって他にこれにまさる樹種はない。このことは杉の植物としての持ち味に由来するものである。 その一つとして 杉は東洋原産で日本の風土に適した樹種であること。 そのニとして そして成長が早いこと。幹形が通直で ...
扇状地と横井戸カンガイ まんぼ 外部資料 横井戸は「まんぼ」と呼ばれていた。三重県鈴鹿市 淡路島の一部 富士山麓などにみられる。奈良県においては御所市(旧葛城村)に最も多い。この土地は深谷川、伏見川 南太田川 三宅川 など多くの河川によって作られた合成扇状...
奈良盆地の稲作には河川 ため池 地下水などが利用されている。地下水か河川やため池用水の不足する地方や、地質上、湧水に富んでいる地域に多く見られる。 奈良盆地の湧水カンガイの発達しているのは葛城川の上流右岸一帯である。 地下水の湧水を利用したものではなく、井戸を掘ってカンガイ...
猿谷ダム 壮年期地形のV字谷として、山高く谷深い十津川の本流に設られた猿谷ダムmは、その規模高さ74㍍ 長さ170㍍ 体積17.4万㎥に達している。こうしたダムの建設によって大きな利益が多数の人々たちに与えられるが、一方犠牲になった人々も少なくない。十津川吉野川の総合開発で...
極端な大滝から宮滝 外部資料 吉野川上流から中流に移るところ、川上村大滝から吉野町(旧中壮村)宮滝の間は特に 極端に穿入曲線をなしている。上市から吉野川をさかのぼり、川上村から北山川の流域に出て木の本に通じる東熊野街道(現169号線)は以前から宮滝から五社峠(476号線)を...
吉野山地 外部資料 壮年期の地姿をなして起伏している吉野山地から流出する河川はいずれも深谷を作り、急流をなしているのが特色である。吉野川 十津川 北山川 さらにその深谷はいずれも地形学上「穿入(せんにゅう)曲流」と称する蛇行地形をなしている。穿入曲流は山地をS字形に下刻して...
上市 上市 下市間は明らかに二段の段丘からなっている。現在の町や交通路はいずれも下段に多く発達し、昔の伊勢街道 近鉄吉野線の電車も狭い段丘上を走っている。上市は下段丘に発達した集落で、上段が丘陵となり迫ってくるので極端に狭くなり標準的な街 村となり 川岸にかけ出した家はいず...
吉野川の川岸段丘 外部資料 吉野川の上流ではV字形の谷が発達し川岸には殆ど平地を見ないが、中流以下では次第に川幅が広くなって川岸の左右に小平地面ができ耕地も開け人家もこの面に建っているのを以前から見かけた。この平地面の地形を 川岸段丘 という。 川が上流から運び 土砂によっ...
外部資料 外部資料 春日山断層線に沿った瀑布線に発達した水車群のうち、盆地の東南大三輪町巻向川の水車は特に数も多く機能にも特色があった。その分布は巻向山の辻領から箸中・穴師・巻野内など上下4キロにおよび、江戸時代の延享元年(1744年)の地図に主流のみで22個を数え幕末から...
瀑布線と水車 外部資料 奈良盆地は地質時代に陥落により出来た地溝盆地である。周りは断層線や構造線で限られている。周りの山々か流出する河川がいずれも上流部は急流をなし浸食をたくましくし、ひとたび盆地へ出ると削り取ってきた土砂の堆積を始める。盆地の水を集めて亀の瀬渓谷から大阪平...
大和の天井川 外部資料 陥落によってできた奈良盆地は地質時代には湖水となっていたと考えられるが、盆地の四周から流出する諸用が、上流部で、激しく浸蝕してきた土砂を盆地に出て傾斜がゆるくなるとともに「複合扇状地」を作り、さらに盆地底に流出するや運んできた、土砂を全部堆積した。そ...
亀の瀬 外部資料 外部資料 外部資料 先日 地すべりについて テレビのニュースで説明があった。 その話の中で、亀の瀬渓谷の被害とその後の対策により安全に今は通行が出来る話をしていた。 奈良盆地の水を全て集めた大和川は亀の瀬渓谷を作り、生駒金剛山脈を横断して、大阪平野に流れ出...
山上ヶ岳 山上ヶ岳の一部大峰山系は年中強い風を受けているところで、樹木の枝葉は完全に横になびいて育っている。このためか、山上ヶ岳は大台ケ原よりよりも気温の変化は大きい。大峰山系北部一帯は西風のもたらした気流によって雨が降る。西風気流の山岳による強制上昇気流に変わるさの雨と考...
吉野郡山 大台ケ原山の降雨機構 外部資料 大台ヶ原山を含む台高山脈および山上ヶ岳から南下する大峰山系はいずれも南北に走っていて、縦断しているために両者の降雨機構は違っている。さらに西方和歌山県境にある荒神岳一帯は山魂をなしているために、前二者とまた異なる雨の降り方をする。 ...
お薦めの本 毎月 奈良を知るために お薦めしている 「ならら」です 正倉院 東大寺 はあまりにも有名です。その「大仏さん」を創建した天皇の紹介です。 7月のお休み予定 1日(月)2日(火) 8日(月)9日(火)10日(水) 15日(月)16日(火) 21日(日)22日(月)...
大台ケ原の大雨が精神治療? 昭和7年8月4日 フィリピン東方に発生した台風は、北上を続け、11日九州南東海上に達し、ここで15日まで迷走をつづけ、16日紀伊半島沖を北東に進んだ。大台ケ原山では9日か豪雨となり、12日の雨量431粍を最多として15日までに1900粍を観測した...
大台ケ原山 雨で女学生立ち往生 外部資料 大大教会 外部資料 昭和21年(1946年)7月27日田原本高等女学校の生徒が約50名が大台ケ原山の頂上まで登った。台風は四国はるか南方洋上を西進し、本土に向かうようにはおもえない。しかし、大台ケ原では、すでに雨が降りだしていた。2...
大台ケ原の大雨 大台にて気象観測を長年行っていた方からの話 昔は大台ケ原は魔の山といわれ、古くから宗教的に開発された大峰山とは、対照的に、登る人も少ない未踏の山で全くその様子が分からなかった。 大台には大きな池があって東風の時はその水があふれ、西風の時は宮川へ、北風になれば...
大和の水害 雨量の少ない北部にはなはだしさは起こっていた。 これは、大和川をはじめ各河川の河床が高く、破堤という災害現象が起こるからである。災害に関しては、流域雨量と水位の関係を知ること望ましい。河床の傾斜 河川の曲折などがあって 河川の巾も大きくなく 土壌の流入などにより...