河内大和地震 昭11年(1936年)震度6.4 死9 傷5 全半壊148 大阪府下被害多い 鳥取県中部 昭和58年(1983年)震度6.2 倉吉、三朝周辺で地割れ 家屋損傷 軽傷5 和歌山県中部 昭和48年(1973年)震度5.9 ...
奈良薬師寺南門から徒歩5分にある多くの本ある小さな喫茶店
奈良の歴史 社寺仏閣の本 写真集 随筆集等など 専門家の方からお子様まで読んで頂けるもの揃えました。飲物とスイーツで一息出来る喫茶店初めました
外部資料 猿沢池の北東に興福寺へのぼる石段 五十二段と呼ばれている。五十二というのは仏門にはいる修行の階段といわれ善財童子が五十二人の知識人を尋ねまわったという故事にならってこの石段がつくられたのであろう。 この石段を登ると三条大路で興福寺の南門につながり古くは興福寺の参道...
外部資料 奈良町 もとは大乗院に仕えた福智院家の建物であり大正13年に今西家の所有になった。室町時代の様式をよく伝える書院造りの建物で、中世の住宅の名残をよく伝えており 国の重要文化財に指定されている。 ■ 住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-14 ■ ℡ ...
十輪院 外部資料 十輪院もと元興寺の一院であったともいわれる鎌倉時代の南門と優美な本堂があり珍しい石造りの石龕がある。 外部資料 本尊地蔵菩薩 ■住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-14 ■℡ 0742-43-8152
外部資料 昭和43年(1968)6月 奈良市大和田町追分2223での梅林造成工事中に多くの古瓦・凝灰岩片・小苔薩形の塑像頭部片などが検出された。 橿原考古学研究所関係者によって調査されたが遺構の大部分はすでに破壊されていて基壇などもわからなかった。 軒瓦や平瓦は興福寺のもの...
王竜寺のヤマモモの巨樹 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
海竜山王竜寺 以前にブログしたお寺です。 そこにある巨樹です。 客殿の庭にヤマモモの巨樹がある。 雌株で 高さ10㍍ 主幹は内部が空洞になっているが、目通り260㎝ある。 側幹は、3本あってその最大幹は目通り140㎝ 樹齢約250年とされている。 外部資料 ■ 住所 630...
外部資料 西の京丘陵の西部、富雄川と生駒盆地にはさまれた南北約16㌖に及ぶ細長い丘陵で、奈良市の西境をなす。 高さは南部が高く(南端松尾山316.4㍍)北部は低く250㍍前後 また、その巾も南部が広く約4㌖ 北部は1㌖余りとせくなっている。丘陵地は、一般に分水嶺の東斜面、南...
外部資料コ 佐紀丘陵の南側には、古墳時代前期後半から中期、後期にかけて大小多くの古墳がならんでいる。五神社(神功皇后陵)・佐紀石塚山(成務天皇陵)・佐紀高塚(称徳天皇陵)・佐紀陵山(日葉酢媛命陵)・市庭(平城天皇陵)・ヒシアゲ(盤之媛命陵)・コナベ・ウワナベなど、天皇、大王...
外部資料 奈良市西部を南北に走る矢田・西の京両丘陵の間にはさまれた細長い谷を富雄谷と呼び、この谷を流れるのが富雄川である。 地形は概して、川の東側は、西の京丘陵が迫っているので、急な斜面になっており、西側は、矢田丘陵の麓がなだらかに広がっているので、水田も開けている。 また...
外部資料 佐保川 平城山 那羅山 奈良山 平山 乃楽山など 奈良市北方の丘陵地帯、大和(奈良盆地)と山背(山城盆地)と分ける海抜100㍍前後のゆるやかな丘陵地、国道24号バイパスのあたりで、東部と西部に大きく二分されている。 東部を佐保丘陵、西部を佐紀丘陵と呼ぶ。 古くから...
奈良県の葛城の国(里) 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
外部資料 奈良県と大阪府の県境にそびえている葛城山系は三輪山とともに、古くから「神の坐す山」として知られ、その東山麓一帯は、早くから文化のひらけた土地であった。 「日本書記」によると、この土地には、身が短く手足の長い蜘蛛がすんでいたのを、神武天皇の軍がカツラの網をかぶせて捕...
外部資料 「日本書紀」の崇神天皇の条に 大彦命と彦国葺の軍が武埴安彦の軍を迎え撃つためナラ山に陣をしいたとき、兵士たちが草木をふみならしたので、その山を 那羅(ナラ)山といった。 という伝説がのせられている。 奈良のつく地名は地名は大和をはじめ全国各地に分布しているし、平(...
佐紀盾列古墳群 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記 日葉酢媛命陵
日葉酢媛命陵 外部資料 平城天皇陵の西約800㍍にある。陵名は狭木之寺間陵で、日葉酢媛命は垂仁天皇の皇后。全長207㍍の前方後円墳。 日葉酢媛命が亡くなった時、古来の習慣によると殉死の悲惨さをさけるために、野見宿禰の発案で、埴輪を作って墳墓の周囲に埋めた。これが埴輪の起こり...
芸亭跡(うんていあと) 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
外部資料 不退寺の南西、JR関西本線と国道24号線を隔てた一条高校の東側に「芸亭顕彰碑」が建っている。この地がわが国最初の公開図書館芸亭のあったことを記念して建てられたもの。 この地は、大納言石上宅嗣(いそのかみやかつぐ)(729〜81)が天平宝字5年(761)ころ、私宅を...
宇和奈辺・小奈辺古墳 外部資料 宇和奈辺 古墳 法華寺の400㍍ほど北にある。東が宇和奈辺、西が小奈辺古墳で、いずれも周囲に塀を巡らせた典型的な前方後円墳、宇和奈辺は全長255㍍、高さ19.6㍍。小奈辺は全長204㍍高さは全方部17.5㍍、後円部20㍍。ともに生い茂る松にお...
佐紀縦列古墳群 瓢箪山古墳 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
瓢箪山古墳 外部資料 外部資料 平城宮跡の北約1㌖のところにある、前方後円墳で全長85㍍、前方部の幅47㍍ 後円部径38㍍ 高さ5〜8㍍で南面である。周辺から埴輪円筒や石製品なども出土しており、周辺の大型古墳と同じく、古墳時代前期から中期初頭ころの築造と推定されている。 緑...
外部資料 西大寺古墳群のなかでも一番目立つ古墳 孝謙天皇 称徳天皇陵 前方後円墳であるが 形はややくずれている。こうけんは聖武天皇の第二皇女で、母親は光明皇后 孝謙天皇は749年に即位し、758年に淳仁天皇に譲位したが、764年に再度天皇に即位称徳天皇となった。 ■ 住所 ...
狭城盾列池之陵 外部資料 近鉄平城駅の北側約500㍍に古墳群が存在している。全長275㍍におよぶ巨大な前方後円墳.陵名は狭城盾列池之陵。神功皇后は第4代仲哀天皇の皇后で、仲哀天皇の急死後、朝鮮に出兵して新羅を討ち、百済・高句麗を帰服させたと「日本書紀」にしるされているが伝説...
富雄川沿いの 霊山寺 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
外部資料 天平8年(736)聖武天皇の勅願により婆羅門僧正(菩提遷那)と行基が開いたといえあれる真言宗の寺。 広い境内には鎌倉時代の本堂(国宝)三重塔(重要文化財)室町時代の鐘楼8重要文化財)など古建築と、昭和36年(1961)完成の白金殿などが建ち、古代現代両方面の芸術文...
富雄川沿い 海竜山王竜寺 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
外部資料 遣唐使 遣随使 が旅に出る時安全祈願をする寺からこの名前になった といわれている。 寺伝によると、聖武天皇の勅願により創建されたと伝えられる古刹。古くは正月堂と称し、僧坊1,000余を数えたというが、中世には衰退し、慶長20年(1615)の大阪夏の陣で大阪勢に堂宇...
富雄川沿いの杵築神社 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
富雄川は 現在交野市のくろんど池から天の川 が流れ 富雄川もそこから流れていたと考えられる。 その天の川は淀川に通じ大阪湾に繋がる その淀川には 大陸から人 モノが入ってきて 天の川 くろんど池 富雄川 を通じて 大和の都に渡来人が来たと考えられる。 外部資料 明治43年...
明治22年、市町村制が実施された時に、富雄川沿いの二・三碓・中・大和田・石木の五箇村が合併して、富雄村が誕生した。 富雄の地名の起源は、神武天皇を救った金鵄から、鵄邑・登美・鳥見・迹見・富雄といった漢字があてられていたところからと考えられる。 富雄川は今は生駒町高山辺りから...
外部資料 山上通リを西へ 奈良―大阪間を最短距離で結ぶ街道として盛んに利用された。 「大阪へ8里、なら下三条口よりいづる。尼ヶ辻・平松村・小瀬・はぎはら村・ふじ村・にしはたとうげ・・・(中略)大阪玉つくりへ人、これを「くらがりとうげこえ」という。 暗峠は 奈良⁻大阪間8里の...
外部資料 奈良県と大阪府の県境にそびえている葛城山系は、三輪山とともに、古くから「神の坐す山」として知られ、その東山麓一帯は、早くから文化のひらけた土地であった。 「日本書記」によると、この地には、身が短く手足の長い土蜘蛛が住んでいたのを、神武天皇の軍がカツラの網をかぶせて...
外部資料 赤人墓の北東約1kmの山中にある。聖徳太子の創建と伝える古刹だか、寺歴は明らかではない。現在の本堂・庫裏などは、幕末の元治元年(1864)の再建。 鐘楼門にかかる梵鐘は、池の間の四面に十ニ神将を鋳出した珍しいもの。正応4年(1291)の銘があり、国指定の重要文化財...
外部資料 近鉄大阪線 榛原駅の北東約3.5km 国道165号線から1kmほど北西に入った、額井岳東麓の東海自然歩道沿いの雑木林のなかにある。 山部赤人は奈良時代初期の宮廷歌人。万葉巻3の「田児の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ 不尽の高嶺に雪は零ける。」の歌が有名である。このほ...
大和富士(額井岳) 外部資料 大和富士とよばれる 県内で唯一の「富士」という名称がつく山。旧火山 宇陀市の額井崋山郡の主峰を従えた端正なピラミッド形で樹木は少なく展望も美しい。 東海道自然歩道は、南麓を東西に通っており、秋の紅葉はことのほか絶景。眺めは大王方面からが最もよい...
先日から 清澄の里の 寺々をかいた。 この辺りの地形は春日断層の下に発達した台地や尾根の地になる。 菩提山と呼ばれる古くから仏教聖地とされ、現在も ゲンジ蛍が飛び交う山里である。 これからは紅葉の名所として 錦の里 とも言われている。 これらの地域には、弥生式文化(中期〜後...
お薦めの本 外部資料 紀伊山地 日本の歴史古代には欠かせない所。そして今も人々は吸い寄せられている。 そのお話が記載されている。 今月の 本のある喫茶店 うのん の予定 営業時間 9:00am 〜 4:30pm 営業時間変更日 勉強会の為 9:00am 〜 12:00p...
外部資料 円照寺から南で1.5KM 寺伝によると弘仁5年(814)嵯峨天皇の勅願で 弘法大師空海を開山とし、小野たかむら が伽藍を造営し、大師が自刻の虚空蔵大菩薩を本尊として安置したのが起こりと伝えられている。もと寺号は「虚空蔵」と称し、現在の地名もこれによるという。室町時...
外部資料 奈良市南の端に 円照寺は位置する。 俗に「山村御殿」とよばれ、中宮寺 法華寺とならぶ大和三問跡の一つである。開山の大通文智大師は後水尾天皇の第一皇女の文智内親王、寛永18年(1641)大和の八島に移り、さらに寛文9年(1669)今の場所に移った。 境内に円通殿とよ...
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河内大和地震 昭11年(1936年)震度6.4 死9 傷5 全半壊148 大阪府下被害多い 鳥取県中部 昭和58年(1983年)震度6.2 倉吉、三朝周辺で地割れ 家屋損傷 軽傷5 和歌山県中部 昭和48年(1973年)震度5.9 ...
長野県西部地震 昭和59年(1984年)震度6.9 死不明29 全壊13 御岳山山腹大崩壊 吉野地震 昭和27年 (1952年)震度6.8 60㌖のやや深い地震、死9 傷139 全壊20 但馬地震 大正14年(1925年) 震度6...
新潟地震 昭和39年(1964年)震度7.5 死26 地盤液状化による被害顯著 津波発生 日向灘地震 昭和43年(1968年)震度7.5 死1 傷15 津波発生 日向灘地震では最大級 北丹後地震 昭和2年 (1927年)震度7.3 死2925...
三陸沖地震 昭和8年(1933年)震度8.1 大津波発生 死3008 地震動による死者なし 南海道地震 昭和21年 (1946年)震度8.0 死不明1432 和歌山県、四国湾岸大津波 東南海地震 昭和19年 (1944年)震度7.9 死9...
1948年6月15日 (昭和23年)日高川地震(和歌山県中部) 震度6.7 和歌山県・奈良県南部で小被害。全体で死者2人(十津川署管内)、 家屋倒壊60 地すべり・崖崩れなど。 奈良市では被害はなかったが、春日大社などの石燈籠...
1944年12月7日 (昭和19) 地震名 東南海地震 (南海トラフ) 震度7.9 戦争末期に起こった巨大地震。東海地方で軍用機工場ほぼ全滅などの大 被害。近畿地方にも被害及ぶ。全体で死者998人、全壊6130。 奈良県...
1891年1028日 (明治24年) 地震名 濃美地震(岐阜県南西部) 震度8.0 日本内陸で起こった地震としては最大級。岐阜・愛知県で大被害 根尾谷を通る大断層を生じた。全体で死者72763人、全壊14万。 奈良県では死1人...
1707年10月28日 (宝永 4年10月4日) 地震名 宝永地震〔南海トラフ〕 震度8.4 我国地震史上最大級の地震の一つ。 震害と津波の被害は東海道から九州に及び、全体で死者4900人 潰家29,000 大和国では死...
1596年9月5日(文禄5年 〈慶長1〉7月13日) 地震名 伏見桃の地震 (京都および畿内) 震度7.9 三条より伏見の間被害最も多く、伏見城天守大破、約600人圧死 諸寺民家の倒壊死傷多し。堺で死者600人 奈良では...
1494年6月19日 (明応3年5月7日) 地震名奈良 震度6.4 東大寺・興福寺・藥師寺・法花寺・西大寺破損。矢田庄(郡山の西) の民家多く破損。余震翌年に及ぶ。5月中は連日余震。 1498年9月20日 (明応7年8月25日) 地震名 ...
1361年8月1日 (天平16年6月22日) 地震名 畿内諸国 震度ー この月の18日より、京都付近に地震多く、この日の地震で、法隆寺の 築地多少崩れる。次の地震の前震か。 1361年8月3日 (正平16年6月24日) 地震名 畿内・土佐・阿...
1099年2月22日 (承徳3〈康和1〉1月24日) 地震名 南海道〔南海トラフ〕震度 8.0 興福寺西金剛小破、大門と廻廊が倒れた、摂津天王寺に被害。土佐で田千 余町海に沈む 1177年11月26日 (治承 1年10月2...
1070年12月1日 (延久2年10月20日) 地震名 山城 大和 震度6.4 東大寺の巨鐘の鈕切れ落つ。京都では、家々の築垣を損ず。 諸国の寺塔も被害を受ける。 1091年9月28日 (寛治5年8月7日)地震名 山城 大和 震度6.2 ...
855年6月26日(斉衛2年5月5日) 地震名 奈良 震度不明 東大寺大仏の頭落つ。ただし これは地震によるものかどうか疑わしい点がある。 887年8月26日 (仁和3年7月30日) 地震名 五畿七道 (南海トラフ)震度8.6 京...
地震 カミナリ 火事 親父 という諺がある様に 地震は前触れがなくやってくる その地震の 奈良県下に起こったものを紹介していく。 古いところから 各日3件づつでブログにする。 599年 (推古7年 4月27日)地震名 大和 M7.0 倒壊家屋を生...
気象用語 晴れのち曇り 予報した前半晴 後半曇り 曇り一時雨 予報した時間の4分の1未満が雨の時 曇り時々雨 予報した期間の4分の1以上 2分の1未満が雨のとき 朝のうち 日の出から9時ごろまで 夕方 日没前後それぞれ1時間ぐらい 夜半 0時前後 週...
地震用語のうち 震度 はその人がその場で感じる揺れの強さを表すものである。 奈良は地震による大きな被害が ない と言われる方も少なくはないが 近い将来起こると考えられている 南海トラフトは10回 天武天皇の時代から起こっている。この地震による被害も大きいものであった。 有名...
不快指数の算出法 不快指数=0.72×(気温+湿球温度)+40.6 68〜69 最も快適 70〜74 不快感を持つ人も出始める 75〜79 半数以上の人が不快感を持つ 80〜84 全員不快 86〜 もう我慢できない ※湿球温度とは、温度計の球部にガーゼを巻き湿らせて測っ...
冷房デグリーデは冷房に要するエネルギーを見積もるための指数である。家庭冷房では 梅雨の終わりを冷房開始日とすること考えられる。 梅雨の間は、雲が多く日照が少ないので除湿は必要であるが、梅雨明けとともに強い日差しが加わり、急に気温が上昇する。大阪を例にとると過去の梅雨明け前5...
気象用語 ♯気圧の谷 本州を挟んで太平洋側と中国大陸の気圧は高く 日本海北部から朝鮮海峡 更に東シナ海にかけて気圧は低くなっています。一方、東経120度から140度にかけて北緯35度線を輪に切ると図のようになります。中央部で低く前線に沿って谷の帯が北東から南西に流れています...
今月おすすめの本 ならら 6月号です 毎月奈良の情報として お薦めしてます 今村勤三氏 恥ずかしながら初めて名を知りました。 奈良県生駒郡安堵町(現在)に1892年に生まれた 地方行政に尽力をそそいだ。 廃藩置県により 奈良県が誕生するが、財政難を理由に堺県に編入されたりし...
おおかみの恩返し 昨日に続き狼の話です ずっと、ずっと昔のことじゃった。 小原に肝っ玉の太い男がおった。男はあるとき、玉置越えして、南紀州へ旅をした。男が滝峠を越えて、高滝を過ぎ、玉置山の横峯にさしかかった時じゃった。 ひょいと見ると、行く手の切り株に大きなけものがうずくま...
送り狼 十津川武蔵の話 外部資料 二つの地図から山崎は役場から北なると思います。 わしら子供の時分は、病人がでると、医者を頼みに小原から小森へ登り、山越えして山崎まで走ったものじゃ。 あるとき、となりの人が腹痛を起こして苦しみだした。わしの父が医者を連れに行くことになった。...
百夜月(ももよづき) 竹筒の少し北山河の対岸に、百夜月(三重県紀和町)という村がある。そこに、光月山紅梅寺(こうげつさんこうばい)という古い寺があった。寺の庭には紅梅があり、はるにはたいへん美しい花をさかせ、よい香りをあたりに漂わせていた。 外部資料 この地図右下 169号...
麦のふんどし 十津川 那知合(なちあい)のお話 弘法大師は、唐で修行を終え、日本に帰ることになりました。 いよいよ日本へ帰るという日、ある家の前に来ると、この家の犬が大師に吠えつき、なかなかそこを通そうとしないのでした。 この様子を見ていた飼主が、大師のそばに寄ってきて、 ...
笠成島(かさなりじま)のごうら 外部資料 折立 は十津川温泉右側にあります。 ずいぶん昔のことである。ある夏の土用時分に、良い天気が続いていた。川の水はうんと少なくなり、川水がくさってきた。(藻がついてきた)どうやらごうらが住みついたらしいと、村人が言いだした。 もともと、...
椋之助(むくのすけ)のとんち 昔、あるところに、庭に一本、大きな椋の木が立っている家があった。 この家には椋之助という息子がおった。 また、その隣には、きりょうよしの娘がいて、よい婿はいないかと探しておった。 椋之助は少々変わ者じゃったので、隣の娘にはまったく相手にしてもら...
栄宝院慈観法師(えいほういんじかんほうし) 外部資料 外部資料 上湯川、大井谷の野地(家名)の近くに、栄宝院慈観法師のお墓がある。 およそ4百年余りの昔、どこからか一人の落武者がやってきて、このあたりを拓いて住みついた。耳の不自由な人であったが、学問もあり、大変かしこい、や...
和田渕のゴウタロウ 外部資料 外部資料 外部資料 平谷あたりでしょうか 明治22年の大洪水までに奥里に(大字内原)下平(しもだいら)という家があった。家族が山へ出掛けてしまうとばあさん一人になってしまうんじゃ。すると、どう...
河童と唾 頃は明治の中頃 所は大字旭 外部資料 外部資料 初夏のある日のできごとです。 村の桝谷のおじさんは、いつものように牛を連れて草を食べさせに、下の川原へやって来ました。 お日さまがさんさんと照る川原には、青々と草が茂り、まるで緑色のじゅうたんを敷きつめたようです。 ...
長池の川太郎 むかし むかし、この湯之原と小井との間に長池というて、それはそれは長い大きな渕があったそうな。 そして、この長池には川太郎が棲んでWおったということじゃた。 あるとき、この長池の上の道を通りかかったひとりのばあさんが、なにげなしにひょっと下の方を見てやったら、...
源治渕(げんじぶち) もう百年余りも昔、この近くのむらに源治という働き者の若者がいた。そして、その隣のむらには、ヨシノというきりょうよしの娘がいた。 二人は、ある年の盆踊りの晩に知り合い、いつしか想い想われる仲となり、やがて夫婦(めおと)になろうと固く契り合うほどになった。...
一本だたら 外部資料 一本だたら 外部資料 玉置神社 あるとき、一人の猟師が玉置神社にお参りして、横峯を歩いておった。 突然、大きな音がしたかと思うと、山の上から何者かがおりて来て、道をふさいでしもうた。見ると、なんとそれは身の丈一丈(三メートル)はあろうか、足は一本、目は...
虫おくり 湯之原のお話 外部資料 昔は、6月土用(旧暦)のころになると、どこの在所でも。虫おくりをしたものじゃ。 闇夜の晩に、在所の衆は、わら人形を先頭に押し立て、めいめいあかあかとたいまつを明かし、 「実盛殿の御通り」 と叫び、チン、チン、チン、ドン、ドン、ドン、鉦を打...
弓の兄弟 十津川 小森のお話 むかし、むかし。朝から晩まで弓と矢を持って遊んでばかりいる兄弟がいた。 あるとき、父親がたまりかねて、 「お前ら、それほど弓矢で遊びたいなら、粟畑におやってくる雀でも射てみろ。」 と、言いつけた。 兄と弟は、粟畑にいき、群がる雀めがけて、しきり...
天狗の止まり木 武蔵地区のお話 外部資料 外部資料 外部資料 昔、あるじいさんが裏の山で大きい木を切っておった。大小の幹はきっちり切れているのに倒れない。じいさんは、いっしょうけんめい押したり引いたりが倒れない。日も暮れてきたので、仕方なくそのまんまにして山を下ることにし...
朝の蜘蛛はなぜ福なのか 昔、吉備の国の大臣が、中国へ渡ったときのことである。おおぜいの前で、何やらむずかしい書き物を読まなければならなった。もともと、中国は漢字漢文の国なので、これはえらいことになったと、たいへん心配したのである。 いよいよ、その朝がきた。大臣は中国の偉い人...
松之助のこと 外部資料 湯之原の川向こうの山の中に、栃谷という谷川が流れている。 あの明治の大水害の前には、この谷川のほとりには田畑もあったし、何軒か家もあったそうじゃ。 この栃谷に今から百五十年ほど昔、松之助という者が住んでいたそうじゃ。松之助は、いつごろからかこの土地に...
娘に化けたこんにゃくいも 十津川 那知合の話 外部資料 外部資料 ずいぶん昔じゃよ。少しの田畑を耕しながら、じいさんとばあさんが暮らしおったと。 ある日のこと、この家にかわいい娘さんがやってきた。二人は、この娘さんを招き入れ、楽しいひとときをすごしたのじゃ。しばらくして、風...