仏たちの家のすみごこち ① 「奈良の仏さんたちは一体どんな住み心地の家に住んでいらしゃるのであろう?」お堂の中の気象を調べ始めた。 三月堂、戒壇院、新薬師寺、法隆寺、藥師寺、唐招提寺など調べた。仏さんは夏の日差しをさえぎるのに十分でしかも風通しが非常によい。仏さんたちの家は...
奈良薬師寺南門から徒歩5分にある多くの本ある小さな喫茶店
奈良の歴史 社寺仏閣の本 写真集 随筆集等など 専門家の方からお子様まで読んで頂けるもの揃えました。飲物とスイーツで一息出来る喫茶店初めました
汽笛がよく聞こえれば雨が降る。 空気が湿ってくると、音の電波は乾いたときよりも良くなる。 外部資料 ■ 住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-14 ■ ℡ 0742-43-8152
外部資料 生駒山の、もやが北をむいたら雨 南をむいたら晴になる。 奈良から西の方を眺めると生駒山が望まれる。温かくて湿っている南風が吹くと山に笠雲となってかかり、やがて雨となる。北よりの風は高気圧の到来を予告し空模様は回復に向かう。 ■ 住所 630-8053 奈良県奈良市...
大仏さんが汗をかくと雨 外部資料 大仏さんが汗をかいたり 柱石が濡れるということは青銅製の大仏さん 大寺の柱石共に外界の刺激についてゆくのが遅く、自己の体温と比べ、低気圧の接近に伴なう温かく湿った空気中の水蒸気が青銅製の大仏や柱石に結露することを表現している。当然天気は悪く...
外部資料 夕方西空明るければ明日は天気 秋の夕焼け鎌を研げ 一般に天気は西から東へ移る。現在、雲の多い空も西の方に高気圧がやってくると空は明るく鮮明に淡い夕焼けは晴天の明日がやってくる。 ■住所 630-8053奈良県奈良市七条1丁目11-14 ■℡ 0742-43-8152
外部資料 「雷丘」地名のおこり 小子部栖軽は雄略天皇に親しく仕えた者である。 天皇が磐余の宮(奈良県桜井市阿部付近)におられた時のこと。皇后と大極殿に寝ておられた。 栖軽はそれにきづかず、入っていった。大極殿で寝ていた天皇は心に恥じて止められた。その時空に雷鳴がしたので、天...
外部資料 大正2年8月、西吉野村一帯は日照りが続き、各地で旱魃による大被害が発生した。その内池のかかる水田、湧水のみに頼る水田の大半は、枯死状態になり農民はカンカン照りの空を見上げるばかり。何等手の施しようもありませんでした。 そこで、あちらこちらお寺や、お宮さんに 雨乞い...
大和側が勝訴の原因 大和側と河内側との勝訴となったのは、村民一同の一致団結の力は大きいもであった。 水争いをした元禄より、はるか以前に水越の水が大和に流れ落ちていた事実が京都の譣使奉行に認められたことであった。 この水争いの約80年前に 金剛山の水は大和側落ちている そして...
大和側の勝訴 京都から現地へ検使派遣が決定して、検使奉行によって現地検証が行われた。その結果金剛山は大和領は大和側であり、水越峠の水は勿論元禄の遥か以前より大和へ流れ落ちておった事実が証明され、全村民生命を掛けた水論、境論も、元禄14年(1701)12月21日大和側の勝訴と...
水越河大事件 外部資料 角之進が亡くなって 80年程後 元禄13年(1700年)6月27日河内の農民の手によって井出を切って、水を河内に流されたが、名柄庄屋高橋佐助の奔走により、大和側の主張が正しく和解となったが、一か月後の元禄14年(1701年)5月6日万字ケ滝 古瀬口の...
角之進 殺される 角之進は大和に水を引く事業を成功させた。さらに、水源保存のために、鎌取石 というものを設け森林の濫伐を禁じ また吉野川分水工事によって、水不足になやむ大和の国一円を救済せんと、膨大な計画を持っていた。 この事を知った村人は、角之進の知恵才覚を恐れをなし、将...
大願成就 外部資料 角乃進は苦心惨憺、身命を惜しまず不退の努力を続け、万字ケ滝 古背口の両水を大和へ引くことに成功し、遂に大願の成就を見た。 満ち溢れた水は古背口の切通しを突き破り大和に流れ落ちたのである。吐田郷の農民達は、目の前に滔々と流れる水を見て歓喜勇踊である。長年の...
上田角之進 外部資料 古背口 森平乃進は息子 定乃進に事業の後事を託したが、京都で楽舞の指南をしており そこから丹波亀山の城主から能楽の大夫として召し抱えられた。そこで 娘 つよ の夫である 後の上田角乃進に事業を引き継ぐことを託す。 角之進は教と表具師柳瀬本阿弥の弟であっ...
水越川の開拓者 森平乃進 外部資料 大和吐田郷関屋に森平之進という河内博多の浪人が閑居して居った.彼は天正10年(1582)正月吐田越前守遠秀と筒井順慶との争いに吐田に加勢したが、吐田の敗北となったので、やむなく浪人として関谷に留まった。 当時吐田郷は水利悪しく、植付け、耕...
外部資料 外部資料 明日香村(上記写真は別場所)稲渕の村の入口飛鳥川の上に しめ縄がかけられている。この縄を カンジョウナワ という。奈良県下各地で麦藁で巨大な蛇体を作り川に漬け あるいは かつぎ廻り蛇体の原形は都祁村箇生ほか今も残っている。 巨大な二筋のナワを村の入口にか...
竜 大和における自然神は「竜」を避けて通ることは出来ない。 辰は竜のこと。十二支の一つであるが、他の十一が現実の動物であるのに反して辰のみが仮想の動物とは不思議である。鳴滝神社等「いかずちの神は水徳の霊 水の旺んに湧き出づる状を形容する神である。水と雷 水と龍とは同じことで...
再度龍田大社のお話です。 台風シーズン到来のこの季節 大和を守神様である。 祈雨 止雨の神様や仏様は奈良県内に見ても多くある。風の神様は全国的に見ても数は少ない。歴史の古い大和には、三郷町立野の丘にある。神様は二神で、風水害を防ぎ、 雨の恵みを授ける風神である。 外部資料 ...
飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社 藥師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
何と長い名前の神社 14文字の神社である。 飛鳥の石舞台などから東にある。 外部資料 雨乞いの神社である。 日本書記によると 天皇 南渕川上に幸して跪きて四方を拝む。天仰ぎて祈ひたまふ。即ち雷なりて大雨ふる。遂に雨降ること五日 薄く天下を潤す 皇極天皇二年(642)三月四月...
馬を殺して諸の社の神を祀る。あるいは頻に市を移す。あるいは河伯を禱る。既に祈効無、といふ。続いてさらに礼仏読経して雨を祈らせたが思わしい効がないので最後に八月一日には、天皇親から「南渕の河上に幸して跪きて四方を拝む。天を仰ぎて祈ひたまふ。即ち雷なりて大雨ふる。遂に雨ふること...
外部資料 金剛山南東大字鳴滝と東佐味との間にある標高280㍍の峠旧路絶頂に「風の森」があり孤長津彦、級長戸辺を祀る小祀 支那都比古神社がある。俗に「風の森竜田大社が大和の西北の悪風を防ぐのに対し支那都比古神社は南西の平穏を祈念した風神である。風の祈祷としては八朔の行事として...
水分(みくまり)神社 藥師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
大和の稲作を行うには雨量が少なく 古来から雨乞いの行事が多くある。 それを祈る場として 水分神社が4社ある東西南北にある。 東 都祁水分神社 西 葛城水分神社 南 吉野水分神社 北 宇陀水分神社 とある 崇神天皇創建といわれている。金剛山の麓に 建水分神社 がある。これも...
外部資料 伝竜田本宮御座峰は大阪府との境付近にあって崇神期に初めて竜田風神が降臨したという。金山彦少し離れて金山姫を祀る神社があり共に金山=製鉄技術の神で古代製鉄に関係のある風神を祀ったと思われる ご座峰が伝承されている。製鉄に必要な適量の風が吹くところ自然の ふいご の役...
外部資料 記憶が確かであれば 昭和22年(1947年)夏 近鉄奈良線(大阪と奈良を結ぶ大動脈)の 当時上本町行急行が生駒駅を発車してトンネルに入るまえ落雷に逢い、トンネル内数百メートルのところで、避雷による列車火災が起きた。生駒山での雷の観測では、低い山ではあるが、山での雷...
雷怖い桑原 桑原 桑原 藥師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
外部資料 和泉名所絵図 桑原井の話は以前にもブログいたしました。 その元のモノがあり再々ど紹介する。 俊乗坊重源墓(しゅんじょうぼうちょうげんかはか) 桑原村西福寺といふ所あり。此地にて入寂し給ふか。実記なし。桑原は水仙花の名産也。初冬より出る。 桑原井 此所にあり。土人...
わらべ歌 雨たんもれ 雨たんもれ たんもれや 雲に汁けがないいんか 雨たんもれ たんもれや 春日大社の裏山の香山さんへ、雨乞いの神参りをして帰り神殿の池はほとりで、村中から麦藁を持ち込んでこれを燃やして雨雲をよぶ。 外部資料 ■住所 630-8053奈良県奈良市七条1丁目1...
外部資料 茶屋の娘が旅の飛脚に懸想し、思いかなわぬことを知った娘は、大蛇となり渕に身を沈めた。嫉妬に狂った大蛇は、嫁入り行列が通ると大雨を降らせ人々が騒ぐ間に花嫁を渕に引きづりこむという。「嫁取り橋」が珊瑚珠川にかかっていて、これまで人が足を踏みいれたことがない八条が渕があ...
外部資料 古来魔境の山地として恐れらえていた 宝永五年の北山郷由緒著には慶長十一年湛西登山の記事が初見その後天保五年木ノ本代官仁井田長詳が登山「登大台山記」を著し古い言い伝えを次の様に、記している。日本の原の西を巴嶽という。吉野川熊野川宮川の川棟なり 世に伝ふる歌に 大台や...
金魚がこわい夜明けの風 藥師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
外部資料 金魚にとって夜明けに吹く風は一番こわいのです。夜更けから太陽が昇るまで池水は酸素が不足する時間帯。特に夜明方 金魚は鼻を上げしている。その時風が吹くと風下へ吹き寄せられおしあいへしあい死んでしまう。台風の直撃もこわい。大雨を池面のせり上がり川へ流されるのも痛手であ...
三輪素麵 外部資料 三輪素麺の歴史は古く 七夕に宮中で珍重されたり、家斉のころには播州に技術を出していた。11の製造工程を踏むが木枯らしの吹き始める12月頃から農閑期を利用した副業としてまことにふさわしい副業であった。冬にむけ寒中寒いほど良い素麺が出来るものであった。 ■住...
雷除けのナギの木 外部資料 春日大社の東側御葢山を中心に飛火野の奥に至るまで極めて旺盛に茂っている。このナギの木は雷除けになると言われている。ナギの木は大木で水を引き付けやすいことからこの木は火除け 雷除けになるといわれてきた。神社の献木に使われた理由の一つだとも云われてい...
大安寺「推古さん」 外部資料 大安寺「推古さん」の側にある井戸の水は石清水といい、その年の干魃をどうか占うので村の人はこの井戸を大切にしている。神社は明沺帖」には大安寺村大安寺小字とヒラキ高巃神社祭神善女竜王とあり石間から湧出する霊水は冬にも渇れず霖にも増えないと。 ■住所...
西来寺 外部資料 今から250年ほど前 下市の西来寺に端嶺という高僧がいた。日照り続きで百姓が和尚に雨乞いを頼 んだ。初の降劔神社でお経をあげたが、霊験が現れず、次に仏が峰の地蔵堂でお灸をあげた。終わって衣に墨をべっとり塗り衣の裾をあけるとおおきい蛇が和尚の躯に巻き付いてい...
天から降って来た大日さん 藥師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
大淀町大岩の氏神 八幡神社入口の堂内もは大小2つの大日如来様が祀られてている。小さな大日如来様は天から降って来たと云われている。日照りが続くとこの大日如来様を、水たまりに連れて行き鉦や太鼓を鳴らして雨乞いをした。そうしてそこの坭を取って帰り大堂の屋根になすりつけると必ず雨が...
夢殿正面坊主の坐る正方形の板にまつわる話。 外部資料 旧1月12日修正会のお勤めの日 この板を日光に当てると汗のように水分が出るという。この行事を 夢殿のお水取り と呼んでいる。 この水の多い少ないで豊凶が分かる(梅雨期の雨)という。 ■住所 630-8053奈良県奈良市七...
今月お薦めの本 なららの8月号です 再来年 NHK大河ドラマで 豊臣兄弟 豊臣秀長 が主役 郡山城主です。 奈良がどの様に描かれるのか 楽しみです。 8月のお休み予定 5日(月)6日(火) 12日(月)13日(火) 18日(日)19日(月)20日(火) 26日(月)27日(...
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仏たちの家のすみごこち ① 「奈良の仏さんたちは一体どんな住み心地の家に住んでいらしゃるのであろう?」お堂の中の気象を調べ始めた。 三月堂、戒壇院、新薬師寺、法隆寺、藥師寺、唐招提寺など調べた。仏さんは夏の日差しをさえぎるのに十分でしかも風通しが非常によい。仏さんたちの家は...
昭和31年の夏と翌年の冬京都大学の協力を得て、三月堂の前の校倉をくわしく観察した。昼夜ぶっ続けの連続観測を行った。校倉の内外の温度や湿度の変化、中の空気の動きなどを特別の機械で測定した。そして校倉の特徴、いわば秘密がだいぶ明らかになった。 校倉は壁に隙間を生じない実に巧妙な...
正倉院の宝庫と聖護蔵について、次の実測を試みた。 宝庫の屋根の上、一番上の校木一番下の校木 こんなところにそれぞれはっきりした目標を定め、これらの高さが変化するかどうか調べるのである。今一つは、聖護蔵の校木に目標を定めて、百分の一㍉まで読める顕微鏡で同じく校木の伸び縮を測定...
校倉の秘密 だれが言いだいたのかしらないが、「校倉は積重ねてあるので三角の校木(あぜき)が空気の乾いている時はちじんで校木の間にスキ間ができ、外の乾いた空気をいれる。ところがそとが湿っぽい時は校木がふくれてスキ間がなくなり、外の湿っぽい空気を入れない。このようにして校倉の中...
大和国はj9位滑りで各所に被害が生じている。その主なものは昭和7年(1932年)の王寺町藤井部落の浸水騒ぎである。これは大和川の右岸で大阪堅上の峠で地すべりを起こし、ところどころき裂を生じ部落の民家を倒し、トンネルを倒し最後は対岸の道路も大和川の川床をも隆起させて流水をせき...
火災は奈良県には大都市がないので大火災というほどのものはない。奈良市では慶長17年3月6月と元和5年4月13日 12月2日の3回の大火災が記録に残ている。幸いにもこれらの大火災はそれ以降どこにも生じていない。これは前述のように人口密集地の少ないためだが、その集落や部落自体か...
水害 風害 干害 の他にあげられる諸災害のうちで、おもなものは雷災 雪才 火災 地震などである。 雷災は古文書にも相当残っておりかつ伝説も多いところからかんがえると、昔の人々は雷にかなりいためつけられたらしい。寺院ガランなどが落雷にあい、しかもこれらの機関は当時の文化の中...
大台の豪雨の原因 ② 山上岳の大峰山系は年中強い西風をうけているころで、樹木の枝葉は完全に東になびいて育っている。このためか山上ヶ岳は大台ヶ原よりも気温年変化の較差が大である。大峰山系北部一帯は西風のもたらした気候によって降る雨で、西風気流の山岳による強制上昇気流に変わるさ...
大台豪雨の原因① 大台ケ原で土砂降りになるためには、強烈な上昇気流がなければならない。一般に、大台の雨は局所的であって、ごくせまい範囲に集中している。しかも天気図上から台風の出現に限定されているようで、季節風や梅雨や少々の不連続線がひっかかたぐらいでは集中豪雨にはならない。...
大台ケ原観測所(大正13年1月〜昭和34年4月) 現在西大台 大教会 の一部が気象観測所 大台ケ原山をふくむ台高山脈系および山上ヶ岳から南下する大峰山脈系はいずれも南北に走っていて、縦断しているために両者の降雨機構は違っている。さらに西方和歌山県境にある荒神岳一帯は山塊をな...
長期の戦争による国土の荒廃ははなはだしく、わずかの豪雨や強風によってさえも相当な気象災害を起し、気象予報の重要性が認識された。いたずらに手をこまねいて傍観している状態であった。昭和28年(1953年)ようやく国力の回復によって、気象業務の最大目標は災害防止ありと呼ばれるよう...
主として1日午前十時一回の観測で、気温「最高最低を含む)降水量およそ天気を十日ごとにまとめて測候所へ報告する任務をもったものである。その後観測の必要にせまられて、明治44年に下淵、明治45年に内牧、大正4年に柳生、大正9年に前鬼、榛原、岡、大正10年に荒神岳 昭和2年に曽爾...
明治30年1月、現在の橿原市八木町に、奈良県八木測候所が設立されたのは、当時の気象業務の主体が農業気象の確立にあったので、大和平野の中央位置で気象観測をしようという意味が多分にふくまれていたのであろう。測候所の設立と同時に玉置山・小森・南日裏・寺垣内・河合・上市・五条・御所...
奈良県の河川は近畿の南北の水源地となり、いずれも四囲の府県に流出しているのが特色で全く近畿の屋根である。奈良盆地では初瀬川を初め多くの川は奈良盆地をうるおし、中央で集まり大和川となって大阪平野に出て西方大阪湾に注いでいる。宇陀山地の水は宇陀川、名張川となり、さらに大和高原の...
奈良県南半の吉野山地は、県内の60%を占める山勝ちの地域である。南西に走る。南西に走る槢曲山脈で主として水成岩からできている。地形は壮年期で、起伏が著しく、急な山、深いV字字形の谷が至ちころに発達している。標高1500㍍を越える高山がそびえ「近畿の屋根」と称されている。中腹...
奈良県の北半の奈良盆地は瀬戸内陥没地帯の東端をなし 地質時代に断層により土地が落ち込んで出来た「地溝」である。当時は湖をなしていたが、沖積層が積もって早く干上がって人々の生活の場となった。南北約30㌔東西約16㌔ 面積約3百平方万㌔、海抜40〜100㍍の平らな盆地である。奈...
奈良県は地形上南北で非常に差異がある。北半は奈良盆地(大和盆地)を中心に、それを囲む青垣山をなす山地や高原からなっている。これは大阪平野・京都平野・京都盆地などともに、近畿地方の中央低地帯の一部をなすものである。この地域はわれの祖先が早く住みつき、古くから文化が開け、わが国...
一昨日からのまとめになるが、多武峰を中心とする地域 榛原 長谷の特別地、曽爾 御杖区域 都祁区域 北倭区域 月ヶ瀬方面 あるいは五条市を中心とする区域、さらに上北山西原や高見山」ろく地など、みな特殊の気候状態を示している。気候資源という言葉があるとしたら、我々はあまりにも温...
奈良 南の庄 寺垣内の3地の気温変化をみると、案外奥吉野の気温の高いことがわかる。都祁 宇陀方面の丘陵抗原地の気温は低く、ことに冬季は季節風のため風も予想外に強い。大和平野各地はだいたい奈良に似たようなものである。県内各地とも8月がもっとも暑く、最寒月は1月2月のうちいずれ...
気温の年変化型は理想的な内陸性変化を示しているが数字から得られる気温統計だけでは、県内の気温分布の実相を知ることはできない。大和平野および北東丘陵地は、西部生駒金剛山越気流の影響を受けて、気温年変化を起こすが、吉野山間部とくに東吉野区域はこれら一般気流の影響を受けるというよ...
春日杉・吉野杉 外部資料 春日山に生ずる杉の大木を春日杉と呼び、林業上は銘木として秋田杉 屋久杉 神代杉などと同様、全国的に知られている。春日杉の銘木としての価値は年を経て大木であり、その材のもつあざやかな赤紫色は次第に含まれる樹脂の変色に伴い渋い黒紫色になる点、加えて年輪...
杉 外部資料 森中で林業上から見た場合に何といっても杉はその王者であって他にこれにまさる樹種はない。このことは杉の植物としての持ち味に由来するものである。 その一つとして 杉は東洋原産で日本の風土に適した樹種であること。 そのニとして そして成長が早いこと。幹形が通直で ...
扇状地と横井戸カンガイ まんぼ 外部資料 横井戸は「まんぼ」と呼ばれていた。三重県鈴鹿市 淡路島の一部 富士山麓などにみられる。奈良県においては御所市(旧葛城村)に最も多い。この土地は深谷川、伏見川 南太田川 三宅川 など多くの河川によって作られた合成扇状...
奈良盆地の稲作には河川 ため池 地下水などが利用されている。地下水か河川やため池用水の不足する地方や、地質上、湧水に富んでいる地域に多く見られる。 奈良盆地の湧水カンガイの発達しているのは葛城川の上流右岸一帯である。 地下水の湧水を利用したものではなく、井戸を掘ってカンガイ...
猿谷ダム 壮年期地形のV字谷として、山高く谷深い十津川の本流に設られた猿谷ダムmは、その規模高さ74㍍ 長さ170㍍ 体積17.4万㎥に達している。こうしたダムの建設によって大きな利益が多数の人々たちに与えられるが、一方犠牲になった人々も少なくない。十津川吉野川の総合開発で...
極端な大滝から宮滝 外部資料 吉野川上流から中流に移るところ、川上村大滝から吉野町(旧中壮村)宮滝の間は特に 極端に穿入曲線をなしている。上市から吉野川をさかのぼり、川上村から北山川の流域に出て木の本に通じる東熊野街道(現169号線)は以前から宮滝から五社峠(476号線)を...
吉野山地 外部資料 壮年期の地姿をなして起伏している吉野山地から流出する河川はいずれも深谷を作り、急流をなしているのが特色である。吉野川 十津川 北山川 さらにその深谷はいずれも地形学上「穿入(せんにゅう)曲流」と称する蛇行地形をなしている。穿入曲流は山地をS字形に下刻して...
上市 上市 下市間は明らかに二段の段丘からなっている。現在の町や交通路はいずれも下段に多く発達し、昔の伊勢街道 近鉄吉野線の電車も狭い段丘上を走っている。上市は下段丘に発達した集落で、上段が丘陵となり迫ってくるので極端に狭くなり標準的な街 村となり 川岸にかけ出した家はいず...
吉野川の川岸段丘 外部資料 吉野川の上流ではV字形の谷が発達し川岸には殆ど平地を見ないが、中流以下では次第に川幅が広くなって川岸の左右に小平地面ができ耕地も開け人家もこの面に建っているのを以前から見かけた。この平地面の地形を 川岸段丘 という。 川が上流から運び 土砂によっ...
外部資料 外部資料 春日山断層線に沿った瀑布線に発達した水車群のうち、盆地の東南大三輪町巻向川の水車は特に数も多く機能にも特色があった。その分布は巻向山の辻領から箸中・穴師・巻野内など上下4キロにおよび、江戸時代の延享元年(1744年)の地図に主流のみで22個を数え幕末から...
瀑布線と水車 外部資料 奈良盆地は地質時代に陥落により出来た地溝盆地である。周りは断層線や構造線で限られている。周りの山々か流出する河川がいずれも上流部は急流をなし浸食をたくましくし、ひとたび盆地へ出ると削り取ってきた土砂の堆積を始める。盆地の水を集めて亀の瀬渓谷から大阪平...
大和の天井川 外部資料 陥落によってできた奈良盆地は地質時代には湖水となっていたと考えられるが、盆地の四周から流出する諸用が、上流部で、激しく浸蝕してきた土砂を盆地に出て傾斜がゆるくなるとともに「複合扇状地」を作り、さらに盆地底に流出するや運んできた、土砂を全部堆積した。そ...
亀の瀬 外部資料 外部資料 外部資料 先日 地すべりについて テレビのニュースで説明があった。 その話の中で、亀の瀬渓谷の被害とその後の対策により安全に今は通行が出来る話をしていた。 奈良盆地の水を全て集めた大和川は亀の瀬渓谷を作り、生駒金剛山脈を横断して、大阪平野に流れ出...
山上ヶ岳 山上ヶ岳の一部大峰山系は年中強い風を受けているところで、樹木の枝葉は完全に横になびいて育っている。このためか、山上ヶ岳は大台ケ原よりよりも気温の変化は大きい。大峰山系北部一帯は西風のもたらした気流によって雨が降る。西風気流の山岳による強制上昇気流に変わるさの雨と考...
吉野郡山 大台ケ原山の降雨機構 外部資料 大台ヶ原山を含む台高山脈および山上ヶ岳から南下する大峰山系はいずれも南北に走っていて、縦断しているために両者の降雨機構は違っている。さらに西方和歌山県境にある荒神岳一帯は山魂をなしているために、前二者とまた異なる雨の降り方をする。 ...
お薦めの本 毎月 奈良を知るために お薦めしている 「ならら」です 正倉院 東大寺 はあまりにも有名です。その「大仏さん」を創建した天皇の紹介です。 7月のお休み予定 1日(月)2日(火) 8日(月)9日(火)10日(水) 15日(月)16日(火) 21日(日)22日(月)...
大台ケ原の大雨が精神治療? 昭和7年8月4日 フィリピン東方に発生した台風は、北上を続け、11日九州南東海上に達し、ここで15日まで迷走をつづけ、16日紀伊半島沖を北東に進んだ。大台ケ原山では9日か豪雨となり、12日の雨量431粍を最多として15日までに1900粍を観測した...
大台ケ原山 雨で女学生立ち往生 外部資料 大大教会 外部資料 昭和21年(1946年)7月27日田原本高等女学校の生徒が約50名が大台ケ原山の頂上まで登った。台風は四国はるか南方洋上を西進し、本土に向かうようにはおもえない。しかし、大台ケ原では、すでに雨が降りだしていた。2...
大台ケ原の大雨 大台にて気象観測を長年行っていた方からの話 昔は大台ケ原は魔の山といわれ、古くから宗教的に開発された大峰山とは、対照的に、登る人も少ない未踏の山で全くその様子が分からなかった。 大台には大きな池があって東風の時はその水があふれ、西風の時は宮川へ、北風になれば...
大和の水害 雨量の少ない北部にはなはだしさは起こっていた。 これは、大和川をはじめ各河川の河床が高く、破堤という災害現象が起こるからである。災害に関しては、流域雨量と水位の関係を知ること望ましい。河床の傾斜 河川の曲折などがあって 河川の巾も大きくなく 土壌の流入などにより...