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  • 佐々木楓菜の作詞作曲プロジェクト

    #ラフラフ #佐々木楓菜 さん ( @sasaki_fuuna )

  • 善光寺横穴墓群 常陸太田市松栄町

    現地説明会の合間に善光寺横穴墓群を見学。 市指定 史跡 善光寺横穴群 平成五年四月二十三日指定 七世紀から八世紀前半の横穴墓と推定される。 平成三年十二月十一日、遺跡が発見され、古代の横穴墓七基を確認した。その後平成四年二月に発掘調査が行われ、本横穴群からは武器類及び装身具が発見された。 おもな出土品としては 武器類 刀子及び鉄鏃 装身具 金環 メノウ製勾玉 ガラス製小玉 琥碧製棗玉 管理者 常陸太田市教育委員会 右から1,2基目 右から1基目 2基目 右から3,4,5基目 3基目 4基目 5基目 香仙寺、大わらじ 【#集中曝涼2024】〈香仙寺(19日のみ)〉#阿弥陀三尊仏 が奥壁に彫られた…

  • 島の百穴 常陸太田市島町

    梵天山古墳群で墳活の続き。 島の百穴(島横穴墓群) 島の百穴(ひゃくけつ) 昭和二十八年七月九日 県指定 百穴は、古墳時代後期(西暦600年〜700年頃)に岩の崖面に横穴を掘り込んで造られた横穴墓 で、横穴古墳ともいわれる。 横穴は後期古墳にみ横穴式石室をまね、玄室(墓室)、羨道(せんどう)、羨門(せんもん)からなる。玄室の平面は長方形や台形で、断面はカマボコ型、ドーム型、屋根型、台形等があり、中には棺座を設けたものもある。通常は羨門を石等で閉鎖しておき、家族墓として使用された。百穴は江戸時代にはすでに知られ、「水府志料」によると昔は40〜50基くらいあたとされ、 居住性のよいことから穴居跡と…

  • 梵天山12号墳・13号墳 常陸太田市島町

    梵天山古墳群で墳活の続き。 梵天山12号墳 梵天山13号墳(円墳) 茨城県常陸太田市島町 梵天山古墳(再訪) 古墳探訪記 茨城県常陸太田市島町 梵天山古墳群 古墳探訪記 にほんブログ村

  • 梵天山7〜10号墳 常陸太田市島町

    梵天山古墳群で墳活の続き。 瓢塚古墳(梵天山7号墳、前方後円墳) 天神塚(梵天山8号墳) 南天塚(梵天山10号墳) 塚越山(梵天山11号墳)は行き忘れた。 フセギ? 茨城県常陸太田市島町 梵天山古墳群 古墳探訪記 にほんブログ村

  • 宝蔵塚と富士山塚(梵天山5号墳・6号墳) 常陸太田市島町

    梵天山古墳群で墳活の続きに戻って。 宝蔵塚(梵天山5号墳) 富士山塚(梵天山6号墳) 茨城県常陸太田市島町 梵天山古墳群 古墳探訪記 にほんブログ村

  • 装飾古墳の世界2 ひたちなか市埋蔵文化財調査センター

    ひたちなか市埋蔵文化財調査センターで開催中の 第21回企画展「装飾古墳の世界2-虎塚古墳国指定50周年記念-」を鑑賞した。本店は、虎塚古墳国指定史跡50周年記念関連事業として当時の調査日誌や図面を公開する。装飾古墳について写真パネルや顔料を展示するほか,宮城県山元町の合戦原横穴墓群で新たに見つかった線刻壁画のほぼ原寸大の実測写真と併せて茨城県内の線刻壁画のほぼ原寸大の実測写真なども掲示。また,虎塚古墳国指定史跡50周年記念関連事業として当時の調査日誌や図面を公開する。 令和7年2月8日(土)~5月11日(日)第21回企画展「装飾古墳の世界2-虎塚古墳国指定50周年記念-」 ひたちなか市埋蔵…

  • 十五郎穴 (再訪) ひたちなか市中根

    虎塚古墳の横穴式石室の壁画を見学後に史跡に指定された十五郎穴横穴群を散策。7年半前に訪れた時のルートは立ち入り禁止で迂回路を通ったので指渋(さしぶ)支群も見学できた。 十五郎穴横穴墓群指渋(さしぶ)支群 十五郎穴横穴墓群館出(たてだし)支群 国指定史跡 十五郎穴横穴群 指定日 令和6年2月21日 所在地 茨城県ひたちなか市中根3490-イほか 十五郎穴横穴群は、古墳時代末から平安時代(今から1200〜1400年前)に築かれたお墓です。十五郎穴横穴群のように台地の崖に横から穴を堀り、作られている墓を横穴墓といい、群集していることが多くあります。横穴墓は玄室・羨道・前庭部などから構成されており、古…

  • 虎塚古墳 (再訪) ひたちなか市中根

    春の虎塚古墳壁画公開の前半初日に虎塚古墳を訪れた。2017年秋以来、7年半ぶりの訪問。 国指定史跡 虎塚古墳(とらづか こふん) 虎塚古墳は、大字中根指渋(さしぶ)に位置し、本郷川右岸台地上に築かれています。全長56.5メートルの前方後円墳で、後円部は直径32.5メートル、高さ5.7メートルで前方部は幅38.5メートル、高さ5.2メートルを測ります。前方部が発達した後期古墳の特徴を持っています。 昭和48年(1973)の発掘調査により、後円部南側に凝灰岩製の横穴式石室が発見され、 石室内には、東日本でも珍しい保存状態が良好な彩色壁画が見られました。壁画は、凝灰岩の表面に白色粘土を塗り、ベンガラ…

  • 高山塚古墳と西天塚(梵天山3号墳・4号墳) 常陸太田市島町

    梵天山古墳群で墳活の続き。 高山塚古墳(梵天山3号墳、円墳、径100m) 西天塚(梵天山4号墳、円墳、径30m) 【集中曝涼】中野冨士山古墳・星神社古墳・梵天山古墳群 常陸太田市公式ホームページ 茨城県常陸太田市島町 梵天山古墳群 古墳探訪記 常陸太田市:梵天山古墳群: 怠け者の散歩道2 梵天山古墳群【茨城県常陸太田市】全長151mの前方後円墳である梵天山古墳の周辺にも複数の古墳が分布しています。中でも1枚目の高山塚古墳は径90mとも100mともいわれる全国有数の巨大円墳です。ここも是非調査してほしい...。他にも山林などに数基の古墳が残されておりなかなか魅力ある古墳群です。 pic.…

  • 阿弥陀塚古墳(梵天山2号墳) 常陸太田市島町

    現地説明会の合間に梵天山古墳群で墳活。梵天山古墳群は、久慈川と山田川に挟まれた標高20~25m前後の台地上にあり、前方後円墳2基、円墳8基と、「島の百穴」と呼ばれる横穴墓群からなる。 阿弥陀塚古墳(梵天山2号墳) 梵天山古墳群 – 茨城県教育委員会 【集中曝涼】中野冨士山古墳・星神社古墳・梵天山古墳群 常陸太田市公式ホームページ 茨城県常陸太田市島町 梵天山古墳群 古墳探訪記 にほんブログ村

  • 中野冨士山古墳 常陸太田市中野町

    現地説明会の合間に中野冨士山古墳で墳活。 中野冨士山古墳 古墳は、常陸太田市中野町字冨士山511番地ほかに所在する。 小独立丘陵頂部(標高49m)の自然地形を巧みに利用し、久慈川方向からの視線を強く意識して築 造されている。 墳形は前方部の短小な前方後円墳で、主軸方向は北西〜南東である。主体部は不明であるが、墳丘の遺存状況から未盗掘とみられる。測量・清掃時に多量底部穿孔壷片(壷形埴輪)が採集されており、壷形埴輪の樹立が想定される。 古墳の築造時期は、古墳時代前期後葉頃とみられる。測量調査により判明した墳丘規模は以下のとおりである。 中野冨士山古墳の規模 墳丘長 約70m 後円部径・高 径48m…

  • 星神社古墳 発掘調査成果 現地説明会 (3/1) 常陸太田市島町

    3月1日に開催された梵天山古墳・星神社古墳の発掘調査成果を公開する現地説明会に参加した。星神社古墳は久慈川左岸支流、山田川と浅川の2つの小河川に挟まれた標高13m前後の沖積地上、周囲を水田に囲まれた場所に位置している。全長100mの前方後円墳で、古墳時代前期の築造と考えられている。 県指定史跡 星神社古墳(諏訪山古墳) 周囲を水田に囲まれた全長100mの前方後円墳で、後円部の頂上には星宮神社が祀られていることからこの名がついた。江戸時代に鴨志田家が水戸藩から拝領したことから、拝領山といわれ、諏訪山古墳とも呼ばれている。 後円部に比べ前方部が未発達であることから、古墳時代前期に造られたものと考え…

  • 梵天山古墳 発掘調査成果 現地説明会 (3/1) 常陸太田市島町

    3月1日に開催された梵天山古墳・星神社古墳の発掘調査成果を公開する現地説明会に参加した。梵天山古墳は、久慈川支流の山田川右岸に接する独立丘陵上標高20〜25mに位置する全長151mの前方後円墳。茨城県では石岡市の舟塚山古墳(全長186m)に次いで県内第2位の大きさ。古墳時代前期の築造とされ、この時代の古墳では東日本最大級。令和3年に第1次発掘調査を実施、それを踏まえ、今年度に2度目の調査を実施。 前方部墳頂から後円部 Pトレンチ Oトレンチ Hトレンチ Dトレンチ Nトレンチ 後円部の推定される葺石の範囲 Cトレンチ くびれ部の墳丘上から後円部 後円部の墳丘上から前方部 後円部墳頂 梵天山古墳…

  • 西原大塚遺跡 志木市幸町

    志木市埋蔵文化財保管センターで西原大塚遺跡の出土品も見学したので現地を訪れた。 西原大塚遺跡は、市内最大規模の遺跡で、旧石器時代から近世にかけての複合遺跡。文献[1]によれば「西原大塚遺跡では(弥生時代)後期末葉から古墳時代前期にかけての住居跡が約600軒確認されており、市内最大の集落跡であることが判明している。特に、122号住居跡からは全国的にも稀な「イヌ」を象ったと思われる動物形土製品が出土している。平成24(2012)年に発掘調査が実施された第179地点からは、遺存状態は良好ではないが、市内初の銅釧が出土している。」「市内で最も多く方形周溝墓が検出されている西原大塚遺跡では、10号方形周…

  • 塚の山古墳 (再訪) 志木市幸町

    塚の山古墳を再訪した。 大塚延命地蔵尊の由来 当延命地蔵尊は正德五年(1715)九月、三十四人の施主により大塚三〇六九番地の角地、通称大塚の辻に造立された露仏であった。安政六年(1859)雨屋根が施され、更に慶応二年(1866)屋根替、明治三十年(1897)には、堂宇建替と地蔵尊の一部が再建された。 発願人綱島助次郎、世話人大野伊三郎、尾崎市郎三、綱島元一郎、他四十五人と台座に刻記されている。大正九年( 1920)と昭和三十年(1955)にも堂宇を改修し安置してきたのであったが、昭和四十二年九月八日遷座の運びとなった。当時人口急増により志木市立第二小学校を館耕地に建設することとなり、堂宇の牧地…

  • 城山貝塚と柏の城跡 志木市柏町

    志木市埋蔵文化財保管センターの近くを散策。 山城貝塚 城山貝塚 この貝塚は、柳瀬川低地を臨む台地の突端に位置し、標高約十メートル、柳瀬川低地との比高差は約四メートルあります。周辺からは、縄文時代前期(約五千年前)の諸磯(もろいそ)式期の住居跡が発見されており、この貝塚も、同時代のものと推定されます。 縄文時代前期頃は、気候が大変温暖な時代で現在に比べ平均気温が二度程高く、これにより極池の水がとけ海水面が平均三メートル程上昇していました。そのため海は内陸深くに浸入してお り、今よりずっと近くにせまっていたようです。 貝塚は、縄文人たちが貝殼等を捨てたいわばゴ三捨て場のようなものですが、当時の食文…

  • 中道遺跡第101地点 展示 志木市埋蔵文化財保管センター

    志木市埋蔵文化財保管センターで中道遺跡第101地点で発見された市内最古・国内最古級の石器群を展示期間の最終日に鑑賞した。立川ローム第Ⅹ層から出土した後期旧石器時代初頭(約3万6千年前)のものと考えられる石器群(28点)。 国内最古級の石器群を発見! - 志木市 (2025/1/10) 埋蔵文化財保管センター - 志木市教育委員会 中道遺跡第101地点 【発掘速報】Nk101-№1先日より、柏町の中道遺跡で発掘調査が始まりました!約半年間に及ぶ大きな調査です。まずは重機による表土剥ぎと遺構検出作業を行っています。今回の発掘調査では、どのような発見があるでしょうか?✨随時、情報を更新していきますの…

  • 保渡田薬師塚古墳 高崎市保渡田町

    保渡田八幡塚古墳から徒歩4分の保渡田薬師塚古墳を見学。 国指定史跡 保渡田薬師塚古墳 指定年月日 昭和60年9月3日 国指定重要文化財 上野国保渡田薬師塚古墳出土品 指定年月日 昭和14年9月8日 この古墳は前方後円墳でかなり変形をうけているが、発掘調査の結果では三段に築かれ、斜面には石垣をふき平坦面には円筒埴輪を巡らすことが判明した。全長105m、高さ6mで、周囲は二重に堀を巡らし、堀を含めた全長は約165mを測る。保渡田古墳群のなかで最後に造られ、五世紀末〜六世紀初頭の年代が推定される。 後円部頂上には凝灰岩をくりぬいた舟形石棺があり、出土品は江戸時代にこの中から発見された伝承がある。出土…

  • 保渡田八幡塚古墳 (その2) 高崎市保渡田町

    保渡田八幡塚古墳の続き。 後円部には、埋葬施設が見学できる見学用の内部空間がある。埋葬施設は、本来、土を盛って封じ込められたので、このような空間はなかった。後円部に上がってすぐの左右が埋葬施設への階段になっている。 後円部墳頂からの景色(東から順番に) 中島 この古墳の内堀の中には4カ所の中島が造られた。 内堀を掘った時に島の部分だけ残し、若干の盛り土をして2段に整えられた。回りには円筒埴輪が巡らされ、椀などの土器が多量に出土した。 中島の性格は、①古墳における祭祀の場 ②近親者や従者の埋葬施設(陪塚) などが考えられるが、いまだ明らかになっていない。 史跡保渡田古墳群 八幡塚古墳 八幡塚古墳…

  • 保渡田八幡塚古墳 (その1) 高崎市保渡田町

    かみつけの里博物館の北側の保渡田八幡塚古墳を見学。 史跡保渡田古墳群 八幡塚古墳 国指定史跡保渡田古墳群とは 榛名山東南の麓、群馬県群馬町保渡田・井出にある 3つの前方後円墳の総称。いずれも墳丘の長さ100m級の大型古墳である。5世紀後半に、二子山古墳→八幡塚古墳→薬師塚古墳の順で相次いで造られ、この地に有力な豪族がいたことを示している。 八幡塚古墳の復元整備 かつて、この古墳は大きく削られていた。そのため史跡公園の全体計画にあたり、この古墳に限って、造られた時の姿に復元し、活用することが決定された。 5カ年にわたる発掘調査結果を基に、古墳に保存用の土を厚く盛って、築造時の姿に復元整備した。 …

  • 井出二子山古墳 高崎市井出町

    かみつけの里博物館の西側の井出二子山古墳を見学。 史跡保渡田古墳群 二子山古墳 保渡田古墳群とは 保渡田古墳群は、榛名山東南麓の井野川上流域にある3基の前方後円墳の総称である。 それらは、5世紀後半から6世紀初頭にかけて、二子山古墳(本古墳)→八幡塚古墳(墳丘長96m)→薬師塚古墳(同105m)の順で造られた。当時の東日本において、きわめて優勢であった豪族たちの墓所として国史跡に指定されている。 二子山古墳の概要 ■規模と構造 本古墳群で最初に造られた二子山古墳は、墳丘長108mの前方後円墳で、まわりに内堀と外堀を巡らしている。外堀まで含めた総長は213mあり、墓域の面積は約30,000㎡と …

  • 戸場口山古墳跡 行田市渡柳

    渡柳の3古墳(戸場口山古墳、中の山古墳・奥の山古墳)の一基、埼玉古墳群の戸場口山古墳は、大正時代ごろに土取りされ、周辺の沼の埋め立てに用いられたという。この土取り工事中に畳2〜3枚ほどの石が掘り出されたという話が伝わる。さきたま資料館が昭和61年度から実施した県内主要古墳の調査として、昭和63年度(1次)、平成元年度(2次)、平成2年度(3次)に、戸場口山古墳・中の山古墳の間の2本のトレンチを含む、6本のトレンチを戸場口山古墳に入れ調査した。文献[2]によれば「一辺42mで二重周堀を有するやや大型の方墳である可能性が強まった。」「中の山古墳の外堀が戸場口山古墳外堀を壊して造成されていたらしいこ…

  • さきたま古墳公園(再訪 その8) 行田市埼玉

    今年2月、愛宕山古墳発掘調査の現地見学会に参加した日の早朝、見学会の受付までの時間、さきたま古墳公園を散策した。 中の山古墳 浅間塚古墳の裏手 鉄砲山古墳 愛宕山古墳 瓦塚古墳 にほんブログ村

  • 常世岐姫神社 行田市渡柳

    さきたま古墳公園に隣接する旧渡柳村の鎮守の常世岐姫神社が、埼玉古墳群に属する古墳の上に建立されているとの風説を知り、現地を訪れた。ちなみに行田市遺跡地図では、遺跡番号180「埼玉古墳群」の範囲からは外れている。 常世岐姫神社(とこよぎひめじんじゃ) 渡柳常世岐姫神社。行田市渡柳の神社 常世岐姫神社(埼玉県吹上駅)の投稿(1回目)。今回、行田に来た目的の一つがここ。 日本に4社…[ホトカミ] 渡柳常世岐姫神社 - 森の中の恍惚 にほんブログ村

  • ボッチ山(跡)、他 行田市埼玉

    昨年、埼玉古墳群のボッチ山をブログで取り上げたが、「ボッチ山の跡地?」としてあげた写真は場所が違っているとの指摘をいただいた。確かに、将軍山古墳の西側の並木の手前なので、埼玉6号墳の跡地と思われる。そこで再チャレンジ。今度は合っているかな? 埼玉6号墳の跡地? 埼玉5号墳の跡地? 埼玉3号墳と埼玉4号墳の跡地? 埼玉2号墳(梅塚古墳)と埼玉3号墳の跡地? ボッチ山の跡地? 文献 埼玉県教育委員会 1994「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」 埼玉県教育委員会 2018「史跡埼玉古墳群 総括報告書I」 にほんブログ村

  • さきたま古墳公園(再訪 その7) 行田市埼玉

    今年1月、さきたま史跡の博物館でほるたま展2024「古墳時代の祈り」を鑑賞した日の早朝、開館までの時間、さきたま古墳公園を散策した。 二子山古墳 将軍山古墳 稲荷山古墳 前方部の先に富士山 後円部墳頂から男体山(日光) 丸墓山古墳 墳頂から富士山 将軍山古墳、手前に埼玉2号墳跡、埼玉3号墳跡、埼玉4号墳跡 稲荷山古墳 赤城山 忍城 にほんブログ村

  • 石神貝塚 茂原市石神

    茂原市の石神貝塚を訪れた。学生の頃の鳥居龍蔵博士が調査したとか。 茂原市指定史跡・有形文化財 石神貝塚(いしかみかいづか) 所在地 茂原市石神422、昭和48年1月10日指定 石神貝塚は石神神社の境内で、社の表参道の途中と建物の東南隅などが主な場所です。 明治25年夏、鳥居龍蔵博士が学生であったころ付近の寺社を調査し、石神神社の境内で土器の破片を発見、これを雑誌に発表し、学会から注目されました。 昭和37年夏、地元石神地区、市教育委員会後援によって県立東金高等学校考古学クラブ員により発掘調査され、多数の出土物があります。ハマグリ、シジミ、カキなどの貝殻が多く、その中にスズキ、クロダイ、シカ、イ…

  • 草刈33号墳 市原市ちはら台南

    ちはら台の「まきぞの自然公園」に保存されている草刈33号墳を訪ねた。 まきぞの自然公園の遺跡 草刈33号墳 ちはら台にはおよそ180基の古墳があり、前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳によって構成されています。草刈33号墳は3基しかない前方後円墳の1基で全長が約42mあります。墳丘測量と確認調査を行ったところ、墳丘にテラス状の段があり、埴輪が列を成して立てられていることがわかりました。筒状の円筒埴輪のほか馬形埴輪などの形象埴輪も立てられています。ちはら台で埴輪をもつ古墳はこの33号墳に限られ、その特徴から6世紀後半の下総地域の埴輪に似ていることがわかりました。 川焼瓦窯跡(かわやきがようせき) …

  • 大覚寺山古墳 千葉市中央区生実町

    千葉市埋蔵文化財調査センターのそばの大覚寺山古墳で墳活。 大覚寺山古墳 千葉県指定史跡 千葉市生実町 全長約66mのこの前方後円墳は小さな丘陵上に占地する。会堀未調査で内部構造は不詳であるが墳丘形態立地条件等によく古式古墳の様相を残し、西暦5世紀代に築造されたと推定される。 昭和45年史跡として保存された。 昭和49年1月31日建立 千葉県教育委員会 千葉市教育委員会 大覚寺山古墳 千葉県指定史跡、指定日 1971年3月26日 大覚寺山古墳は、市内最大・最古の前方後円墳です。1696年に宅地造成のために山林を伐採した際に、初めて前方後円墳であることが明らかになりました。後円部の直径が前方部の最…

  • 米満横穴墓群Ⅵ支群 長南町米満

    米満横穴墓群の探索の続き。 米満横穴墓群Ⅵ支群の1基、1基だけ孤立している この日は、これでお終い。これまでの探索で、米満横穴墓群の真ん中を南北に貫く切り通しの西側(Ⅲ-6〜10,Ⅳ支群)は網羅した。残るは東側のⅢ-4〜1,Ⅱ,Ⅰ支群。 これまでに確認した横穴墓は下記の54基。 Ⅲ-2支群:8基、Ⅲ-6支群:3基、Ⅲ-7支群:6基、Ⅲ-8支群:2基、Ⅲ-9支群:1基、Ⅲ-10支群:3基、Ⅲ-11支群:2基(小計25基) Ⅳ-1支群:2基、Ⅳ-2支群:3基、Ⅳ-3支群:1基、Ⅳ-4支群:1基、Ⅳ-5支群:3基(小計10基) Ⅴ-1支群:2基、Ⅴ-2支群:1基、Ⅴ-3支群:3基、Ⅴ-4支群:7基、…

  • 米満横穴墓群Ⅳ-5支群 長南町米満

    米満横穴墓群の探索の続き。 尾根上を西に移動。 米満横穴墓群Ⅳ-5支群の1基目 米満横穴墓群Ⅳ-5支群の2基目 米満横穴墓群Ⅳ-5支群の3基目 にほんブログ村

  • 米満横穴墓群Ⅳ-3,4支群 長南町米満

    米満横穴墓群の探索の続き。 米満横穴墓群Ⅳ-3支群の1基 尾根上を西に移動 米満横穴墓群Ⅳ-4支群の1基 米満横穴墓群第Ⅳ支群【千葉県長南町】3~5小支群を大探索。こちらも激烈な薮や急斜面に阻まれ、かなりハードな古墳巡りでした(帰りに滑落した)。高壇式や家形の玄室を持つなど、何だか長柄横穴墓群に似たような印象。横穴は素晴らしかったですが、道中険しすぎるのでもう行きたくはないですね... pic.twitter.com/DIANqwlAxv — ぺん@古墳巡り (@pen_kofun) 2025年2月9日 にほんブログ村

  • 米満横穴墓群Ⅴ-1支群 長南町米満

    米満横穴墓群の探索の続き。 ここで下山して、昨年末にトライしたけど果たせなかったⅤ-1支群にチャレンジ。イノシシ避けの電流柵を地元の方に許可をいただき跨いだ。 米満横穴墓群Ⅴ-1支群の2基、足場がなく近寄れず ここで午前の部はお終いにして近くで昼食 おまけで豊栄小学校跡 にほんブログ村

  • 米満横穴墓群Ⅴ-5支群 (その2) 長南町米満

    米満横穴墓群の探索の続き。 米満横穴墓群Ⅴ-5支群の4基目(東側の4基のうちの右から三番目) 米満横穴墓群Ⅴ-5支群の5基目(東側の4基のうちの右から四番目) ここで一度下山。 にほんブログ村

  • 米満横穴墓群Ⅴ-5支群 (その1) 長南町米満

    今年2回目(昨年も含めれば4回目)の墳友との米満横穴墓群探索。米満横穴墓群は、太平洋に注ぐ一宮川水系三途川北岸の丘陵斜面に展開する県内最大規模の横穴墓群。ちば情報マップでは「7群140基。平成9年に町道改良工事に伴う発掘調査を実施、横穴墓10基・塚10基を調査。」 米満横穴墓群の南西端、精華学園高等学校長南茂原校付近からⅤ-5支群にアプローチ。精華学園高等学校は、山口県が本校がある広域通信制・単位制の高等学校で、全国約50箇所に校舎を設置、本校に通わなくても単位認定が可能、週1〜5日登校の通学コースと、年間10〜15日程度の登校の通信コースがある。失礼ながらなんでこんなところにと思ったけど納得…

  • 貝と人 千葉市埋蔵文化財調査センター

    千葉市埋蔵文化財調査センターで開催中の特別展「貝と人」を鑑賞した。テーマは「縄文時代から続く貝と人とのかかわりを探る」、房総半島は周囲を海に囲まれ、縄文時代から現在にいたるまで、人々は多くの海産資源を利用してた。なかでも貝類は縄文時代以来、盛んに人に利用され、そのかかわりは現在でも続いている。本展では、貝を「身」と「殻」に分け、長年続く人とのかかわりについて、様々な角度から展示する。京都大学総合博物館から1世紀ぶりに里帰した加曽利貝塚出土の彩色貝製品とアワビ製貝鏃の2点は必見。蒐集家上羽貞幸氏のコレクション。千葉市内初公開。他にも、長倉Ⅰ遺跡・岩手県軽米町教育委員会所のイモガイとオオツタノハ製…

  • 子持勾玉-群馬県内出土品を集めてわかったこと- かみつけの里博物館

    かみつけの里博物館で開催中の第32回特別展「子持勾玉-群馬県内出土品を集めてわかったこと-」を鑑賞した。子持勾玉は現在のところ全国で約700点確認されている。群馬県内では、約70例の存在が知られ、この数は、都道府県単位で全国一。本展では、群馬県内出土の子持勾玉を集め、発掘調査による出土例をベースに、その共伴遺物から設定した年代から、子持勾玉の変遷を試みる。また、出土場所として、豪族居館から出土した三ツ寺Ⅰ遺跡(3例)、原之城(1例)、囲い状遺構から出土した金井下新田遺跡(1例)と竪穴建物から出土した18例について考察する。なお、図録によれば、群馬県内出土子持勾玉71例のうち、58例について実資…

  • 愛宕山古墳発掘調査見学会 (2/15) 行田市埼玉

    2月15日に開催された特別史跡埼玉古墳群の愛宕山古墳発掘調査の現地見学会に参加した。愛宕山古墳は昭和56年度(1981)に南側の内堀、中堤、外堀の一部と東側の道路の部分が発掘調査された。また、令和3年度(2021)からの調査で、西側の内堀等は大きく撹乱されていることがわかっている。今年度は昨年、発掘調査した前方部の主軸線上の調査区の東隣に調査区(1トレンチ)を設けて、外堀の外側の立ち上がりが確認できた。また、くびれ部東側、主軸線と垂直に調査区(2トレンチ)を設け、古墳構造の立体的な情報(墳丘の墳長から墳裾まで高さや傾斜、中堀・中堤・外堀の深さ・幅・傾斜)を得るとともに、多くの須恵器片と埴輪片を…

  • 砧中学校3,4号墳 世田谷区成城

    砧中学校の校内に保存されている2基の古墳を見学したくて中学校を訪れたが、見学は事前許可どりが必要とのことだったので、校外から見学した。 砧中学校3号墳、文献[1]では「①台地、②学校、③一部遺存、④円墳(径25m)、⑧墳丘の痕跡をわずかに残す。」 砧中学校4号墳(区史跡)、文献[1]では「①台地上、②学校、③遺存、④円墳(径32m)、⑧砧中学校の片隅に墳丘の一部を残す。」 砧中学校古墳群4号墳 世田谷区公式ホームページ 砧中学校古墳群 砧中学校3号墳-4号墳【東京都世田谷区】 - ぺんの古墳探訪記 文献 東京都教育委員会 1985『都心部の遺跡 -貝塚・古墳・江戸- 東京都心部遺跡分布調査…

  • 殿山古墳群 世田谷区大蔵

    殿山横穴墓群になかなか近寄れなかったので、その間に、殿山古墳群を探索。 殿山1号墳、文献[1]では「①台地上、②畑、③湮滅、④円墳?、⑤土師器片、金環、刀子、鉄鏃、玉類(勾玉、ガラス玉、棗玉)、顔料」 殿山2号墳、文献[1]では「①台地上、②東名高速道路、③湮滅、④円墳(径7m)、⑤横穴式石室、⑥土師器、鉄片」 殿山3号墳、文献[1]では「①台地上、②神社、③一部遺存、④円墳、⑤土師器、⑧第六天神社境内北側に数10cm程度の高まりとして観察できる。墳丘北側は東名高速道路工事の際に削られたと思われる。」 殿山4号墳、文献[1]では「①台地上、②宅地、③湮滅、④不明」、写真は丹沢山系の眺望 殿山5…

  • 殿山横穴墓群 世田谷区大蔵

    大蔵遺跡の見学会の後で、2015年(平成27年)9月に現地見学会が開催された殿山横穴墓群の現状を確認できないかと探索した。1時間半ほど探索した結果、現地は、東名ジャンクションのHランプとGランプの工事中でフェンスに阻まれ近づくことはできない、かつ、殿山横穴墓群に関する説明板等は設置されていなかった。 直土地区画整理事業完成記念碑 田直土地区画整理組合の施行区域は、東京の西南に位置し国分寺崖線のハケ下の小地域である。ここの土質は主として ローム層から成っているが地表面は風化して黒土と言われる農耕に適した土地であった。 世田谷区社育委員会の調盗で、この付近の旧石器縄文時代の遺跡や古墳等が発掘され、…

  • 大蔵遺跡 見学会 (2/5) 世田谷区大蔵

    2月5日に開催された世田谷区の大蔵遺跡(おおくらいせき)の遺跡見学会に参加(見学)した。大蔵遺跡は世田谷区の遺跡番号No.30の遺跡で、標高約40mの武蔵野台地の縁辺部に立地し、遺跡の西側が国分寺崖線で、崖下を仙川が蛇行しながら南流する。過去に13次の発掘調査が行われ、主に縄文時代中期前葉〜後葉の集落遺跡として知られている。今回は、大蔵住宅第2期建て替え工事に伴い東京都住宅供給公社からの委託で東京都埋蔵文化財センターが発掘調査を実施している。調査範囲の西半は昭和30年代の大倉団地の造成に伴い立川ロームⅢ〜Ⅳ層上面まで削平され、縄文時代以降の遺物包含層は失われていたが、調査範囲の北西の崖線沿いの…

  • 「墓・ムラ・縄文人ー縄文後期前葉の集落様相ー」 (2/1) 県民共済みらいホール

    2月1日に横浜市の県民共済みらいホールで開催された令和6年度 東京・神奈川・埼玉埋蔵文化財関係財団普及事業公開セミナー「墓・ムラ・縄文人ー縄文後期前葉の集落様相ー」に参加(聴講)した。本公開セミナーは、神奈川県・埼玉県・東京都の埋蔵文化財関係財団による普及連携事業として、平成20年度から毎年、各都県が持ち回りで開催、今回が17回目。今回は縄文時代後期前葉がテーマ。縄文時代中期と後期後半をつなぐ転換期で、墓地とそれに近接する住居はこの時期を象徴する存在。三都県のそれぞれの特徴的な様相を明らかにするとともに、群馬県や最近の調査事例を交え成果を発表。基調報告は「神奈川県の様相-墓に一番近い住居-」「…

  • 『長竹遺跡-地中に埋もれた巨大遺跡-』 (1/26) パストラルかぞ

    1月26日に加須市の「パストラルかぞ」で開催された 令和6年度ほるたま考古学セミナー『長竹遺跡-地中に埋もれた巨大遺跡-』に参加(聴講)した。加須市の長竹遺跡は、利根川右岸の堤防強化対策事業に伴って平成22年10月から平成27年3月まで発掘調査が行われた。その後、令和6年3月まで発掘成果をまとめる整理報告書の作成作業が行われ、6集(15分冊)の報告書が刊行された。細長い調査区からは、弧を描く縄文時代後・晩期の「環状盛土遺構(かんじょうもりつちいこう)」と、その上層からは古墳〜平安時代の竪穴住居跡と畠跡、中近世の畠跡や利根川堤防に関連する遺構が見つかった。セミナーでは、基調報告として、地元の加須…

  • 講安寺 (再訪) 文京区湯島

    5年前に旧岩崎邸庭園の煉瓦塀のブログ記事で講安寺の寺門と説明板の写真を掲載した。その時は気が付かなかったが、講安寺にも煉瓦塀が残っているとのことで、再訪したところ、講安寺の庫裏・客殿一部解体/修繕・修復工事及び新庫裏新築工事・外構工事中だった。工期は令和7年1月から令和9年3月末まで。設計監理/監修は隈研吾建築都市設計事務所。 講安寺本堂と庫裏(裡) 区指定有形文化財 本堂は、社寺建築でありながら土蔵造である。寺伝にいう宝永五年(1708)から、かりに寛政元年(1789)頃にさがっての建立であったとしても、江戸の町で普及した土蔵造という防火建築が、多くの災害にあい、また、建て替えられるという歴…

  • 煉瓦塀 文京区湯島

    文京区教育センターの企画展に行くときに、たまたま見つけた煉瓦塀。 にほんブログ村

  • 玉村町15号墳石室 玉村町歴史資料館

    群馬県玉村町の古墳巡りのラストは玉村町歴史資料館に移設された玉村町15号墳石室。 玉村町15号墳(綜覧古墳番号玉村町15)、番号191[現状:×、墳形:円墳、径約18m、埋葬施設:袖無型横穴式石室]、石室を移築保存 『上毛古墳綜覧』玉村町第15号墳の移築石室 古墳名 『上毛古墳綜覧』玉村町第15号 古墳原位置 玉村町大字角淵2762 発掘調査年月日 昭和41(1966)年12月19日〜29日 復旧施工期間 昭和42年(1967)年10月8日~16日 調查復元指導 群馬大学教育学部史学第2研究所 玉村町に古墳が出現したのは古墳時代前期で、今から1600年以上昔です。軍配山古墳や三角縁神獣鏡が出土…

  • 梨ノ木山古墳・殿台山古墳 玉村町下茂木

    群馬県玉村町の古墳巡りの続き。 浅間山 梨ノ木山古墳(綜覧古墳番号芝根村3)、町史跡、番号173 [現状:△、墳形:前方後円墳、規模不明、埋葬施設:竪穴系(不明)] 梨ノ木山古墳 ▪️現状・南北42m、東西45m、高さ7mの伏鉢状の円墳 ▪️石室の型式・竪穴式石室と推定される ▪️出土品・刀子滑石製模造品、円筒埴輪片、土師器杯破片若干 ▪️築造年代・5世紀〜6世紀と推定される 所在地・群馬県佐波郡玉村町大字下茂1027番地 玉村町教育委員会 町史跡 玉村町 群馬県佐波郡玉村町下茂木 梨ノ木山古墳 古墳探訪記 梨ノ木山古墳【群馬県玉村町】 - ぺんの古墳探訪記 殿台山古墳(綜覧古墳番号芝…

  • 玉村町19号墳 玉村町角渕

    群馬県玉村町の古墳巡りの続き。 玉村町19号墳(綜覧古墳番号玉村町19)、番号205[現状:×、墳形:円墳、径21.2m、埋葬施設:不明(未調査)]、 墳丘上に王子稲荷神社を祀る。 玉村町No.350遺跡(玉村町第19号墳) – 埼群古墳館_改 玉村町19号墳-22号墳-23号墳【群馬県玉村町】 - ぺんの古墳探訪記 文献 群馬県教育委員会 2018「群馬県古墳総覧2017(第2版)」 にほんブログ村

  • 玉村町26,27号墳 玉村町角渕

    群馬県玉村町の古墳巡りの続き。 玉村町27号墳(綜覧古墳番号玉村町27)、番号211 [現状:×、墳形:円墳、径20.0m、埋葬施設:不明(削平)] 玉村町26号墳(綜覧古墳番号玉村町26)、番号210 [現状:○、墳形:円墳、径25.5m、埋葬施設:不明(未調査)] 群馬県佐波郡玉村町角淵 玉村町26号墳・玉村町27号墳・角淵六地蔵・道祖神 古墳探訪記 玉村町26号墳-27号墳【群馬県玉村町】 - ぺんの古墳探訪記 文献 群馬県教育委員会 2018「群馬県古墳総覧2017(第2版)」 にほんブログ村

  • 上之手薬師前古墳・玉村町No.238遺跡無名古墳・ショウデンヤマ古墳 玉村町上之手

    群馬県玉村町の古墳巡りの続き。 上之手薬師前古墳、番号239 [現状:○、墳形:円墳、径31.2m、埋葬施設:不明(未調査)] 玉村町No.238遺跡無名古墳、番号252 [現状:△、墳形:円墳、規模不明、埋葬施設:不明(未調査)] ショウデンヤマ古墳、番号261 [現状:△、墳形:円墳、規模不明、埋葬施設:不明(未調査)] 群馬県高崎市新町 於菊稲荷神社・群馬県佐波郡玉村町 上之手薬師前古墳・玉村町237遺跡無名古墳 古墳探訪記 群馬県佐波郡玉村町宇貫 ショウデンヤマ古墳 古墳探訪記 上之手薬師前古墳-玉村町No.238遺跡-ショウデンヤマ古墳【群馬県玉村町】 - ぺんの古墳探訪記 …

  • 若王子古墳 玉村町上之手

    群馬県玉村町の古墳巡り。 若王子古墳(綜覧古墳番号玉村町33)、番号238 [現状:△、墳形:円墳、規模不明、埋葬施設:不明(未調査)]、墳丘上に若王子神社を祀る。 群馬県佐波郡玉村町上之手 若王子古墳 ・ 玉村町下新田 玉村八幡宮 古墳探訪記 若王子古墳【群馬県玉村町】 - ぺんの古墳探訪記 若王子古墳(群馬県玉村町) kofun-0524のブログ 文献 群馬県教育委員会 2018「群馬県古墳総覧2017(第2版)」 にほんブログ村

  • 日本橋日枝神社 中央区日本橋茅場町

    日本橋日枝神社を参拝。 ご祭神 日枝大神(大山咋神 国常立神 伊奘冉神 足仲彦命) 「咋」とは「主」という意味で、その名の通り大山の主であると共に広く地主神として崇められ、山水を司り大地を支配し、万物の成長発展と産業全般の生成を守護されます。 相殿の神 菅原大神(菅原道真公) 至誠・孝道をはじめ、学業・詩文・和歌・書道の神として崇敬されています。 稲荷大神(受氣母智神) 稲の神として五穀豊穣のほか、一粒の米から多くの実りがあることから商売繁盛の神として崇敬されています。 浅間大神(木花佐久夜比売命) 山に咲く花の女神で、そのお姿は美しく子授け・子宝・安産・災害除けの神として孝敬されています。 …

  • 日本電気創立当時の建物基礎 港区芝

    港区芝の日本電気株式会社の本社に保存された創立当時の建物基礎。 日本電気創立当時の建物基礎 このレンガ造りの基礎は、日本電気創立当時に建てられた建物のものです。 明治44年頃に建てられたこの建物は、赤レンガ造り2階建で、最新様式のたいへんモダン な建物でしたが大正14年から始められた旧本社ビル建設の際に姿を消しています。 このレンガ基礎のなかに、日本電気の草創期、新事業への情熱に燃えた先達の姿を偲ぶことが出来ます。 日本電気創業当時の建物の基礎 明治44年 当時としては最新の建築技術を駆使した耐震・耐火のレンガ造りの建物でした。この基礎は昭和53年に発見されたものです。 NECの歩み: 会社概…

  • 隕石 星のカケラが語ること 文京区教育センター

    文京区教育センターで開催中の東京大学総合研究博物館コレクション/スクール・モバイルミュージアム「隕石 星のカケラが語ること」を鑑賞した。隕石は46億年前の太陽系の誕生とその後のダイナミックな天体進化の歴史を記録したタイムカプセル。宇宙からやって来た、星のカケラである“隕石”は、どこの星から来た、どんな“石”なのか、多種多様な隕石を展示。南極や砂漠での隕石探査のフィールドワークや各地に残る巨大な隕石落下の痕跡である“衝突クレーター”を紹介。太陽系と地球の長い歴史を実感。 隕石 星のカケラが語ること 東京大学総合研究博物館 スクール・モバイルミュージアム スクール・ モバイルミュージアム (大学連…

  • 発掘と発見の考古学・明大考古学の75年 明治大学博物館

    明治大学博物館で開催中の企画展「発掘と発見の考古学・明大考古学の75年」を鑑賞した。本展は、群馬県岩宿遺跡や神奈川県夏島貝塚などの国指定重要文化財5件を中心とした考古資料の数々から、戦後の日本考古学研究を牽引した明治大学考古学の調査と研究の歩みを振り返る。 企画展「発掘と発見の考古学・明大考古学の75年」開催のお知らせ 明治大学 明治大学博物館 2025年展覧会案内①<発掘と発見の考古学・明大考古学の75年>1月11日(土)~3月15日(土)戦後の日本考古学研究を牽引した本学の調査と研究の歩みを振り返ります。※本展は、考古部門の常設展示室改修に伴い、主要資料を移設して展示するものです。#御…

  • 古代の児玉・深谷地域 本庄早稲田の杜ミュージアム

    本庄早稲田の杜ミュージアムで開催中の第5回本庄早稲田の杜地域連携展覧会・本庄早稲田の杜ミュージアム企画展「古代の児玉・深谷地域」を鑑賞した。本展は、律令制の定着とともに地方行政組織の整備が進んだ飛鳥時代後半(7世紀後半)から奈良時代(8世紀)の児玉・深谷地域の古代遺跡と出土遺物を展示する。 本庄早稲田の杜地域連携展覧会「古代の児玉・深谷地域」/本庄市 【開催中】本庄早稲田の杜地域連携展覧会「古代の児玉・深谷地域」|イベント|本庄早稲田の杜ミュージアム 本庄早稲田の杜地域連携展覧会児玉地域のはにわ大集合 – 早稲田文化 【終了】企画展 「旧石器・縄文時代の児玉・深谷地域」|イベント|本庄早稲田の…

  • 「かみかわの古墳を知ろう(7)海老ヶ久保の古墳」 神川町多目的交流施設

    神川町多目的交流施設で開催中の令和6年度第2回企画展「かみかわの古墳を知ろう(7)海老ヶ久保の古墳」を鑑賞した。令和2年度から開催している「かみかわの古墳を知ろう」シリーズの第7弾。本展は池田・新宿地内に所在する青柳古墳群海老ヶ久保支群を出土遺物(10,11,18,20,41号墳)や写真、パネルで紹介する。 企画展「かみかわの古墳を知ろう7」の開催/埼玉県神川町ホームページ 現説のあとは、玉村町歴史資料館と、埼玉県の神川町多目的交流施設、本庄市の本庄早稲田の杜ミュージアムをハシゴ。かみつけの里博物館の「子持勾玉」展も行きたかったけど、じっくり見たいので次回とした。 pic.twitter.co…

  • オトカ塚Ⅱ遺跡現地説明会 (1/19) 玉村町下茂木

    1月19日に開催された群馬県玉村町のオトカ塚Ⅱ遺跡(おとかづかつーいせき)の現地説明会に参加した。オトカ塚古墳は、6世紀後半に築造された玉村町域最大級の前方後円墳とされ、1884年(明治17年)に地元住民が発掘し環頭大刀・耳環・玉類などの副葬品が出土。オトカは御稲荷の音読み。キツネを意味する。1935年(昭和10年)の調査時は芝根村第2古墳とされていたが、墳丘に稲荷小祠があり、 言い伝えでは、昔、 キツネ(オトカ)が生まれて付近の家畜に被害があり、村民が赤飯を献じて難を逃れたことからオトカ塚と呼ばれるようになったとのこと。1991年(平成3年)の宅地造成に伴う調査で江戸時代の井戸から、国内最大…

  • ほるたま展2024「古墳時代の祈り」 埼玉県立さきたま史跡の博物館

    埼玉県立さきたま史跡の博物館で開催中のほるたま展2024「古墳時代の祈り」を鑑賞した。本展は、20年(令和2年)に日本最多45点もの子持勾玉や古墳時代後期の大量の祭祀具が発見された行田市北大竹遺跡の出土品を中心に展示。ヤマト王権や古代国家の形成を地方から考えるとともに「古墳時代の祈り」に思いを巡らせる。 ほるたま展2024「古墳時代の祈り」 ―埼玉県内の商業施設5会場で開催― - 埼玉県 ほるたま展2024「古墳時代の祈り」 - 埼玉県 企画展・特別展 - 埼玉県立さきたま史跡の博物館 展示ケースの中からこんにちは!!ほるたま展第五部準備中です(まにあえー!!がんばるーー!)#さいまいぶん #…

  • 高輪築堤モニュメント 新橋駅西口広場(SL広場)

    新橋駅西口広場(SL広場)に設置された高輪築堤モニュメントを見学した。 時代とともに姿を消した高輪築堤を、鉄道はじまりの地「新橋」へ 平成31(2019)年4月、品川駅改良工事の際に高輪で石垣の一部が発見されました。 それは、すでに取り壊されたと考えられていた築堤でした。 築堤は日本初の鉄道を実現させるため海の上に作られた線路です。 当時、一度埋め立てた土砂が波に流されて築堤が崩壊するなど工事は難航しましたが、明治5(1872)年10月14日に新橋から開港場であった横浜を結ぶ、約29kmの鉄道が開業しました。 写真: 3街区第7橋梁橋台部「概説 高輪築堤」港区教育委員会所藏 高輪築堤とは 高輪…

  • ル・コルビュジエ 諸芸術の綜合 1930-1965 パナソニック汐留美術館

    パナソニック汐留美術館で開催中の「ル・コルビュジエ 諸芸術の綜合 1930-1965」を鑑賞した。本展は近代建築の巨匠として世界的に知られるル・コルビュジエ(1887‒1965)の後期、1930年代以降の絵画、彫刻、素描、タペストリーなどを通して、ル・コルビュジエ円熟期の仕事を概観、レジェ、アルプ、カンディンスキーら同時代の画家たちとの比較、20世紀の革新的頭脳の創造の源泉に迫る。 パナソニック汐留美術館 Panasonic Shiodome Museum of Art Panasonic ✨【お知らせ】✨『ル・コルビュジエ 諸芸術の綜合 1930-1965』が本日1月11日より開幕しまし…

  • 米満横穴墓群Ⅲ-10 (再訪) 支群 長南町米満

    昼食後は、約1週間前に墳活納めで巡った米満横穴墓群Ⅲ-10支群を再訪。 米満横穴墓群Ⅲ-10支群の1基目(再訪) 米満横穴墓群Ⅲ-10支群の3基目(再訪) にほんブログ村

  • 米満横穴墓群Ⅲ-2支群 (再訪 その2) 長南町米満

    米満横穴墓群Ⅲ-2支群の続き。 朱彩大型横穴墓の西隣の1基(再訪)。 さらに西側を探索。1基目。 2基目。 3基目。 ここで下山してピッツァとパスタのお店で昼食 にほんブログ村

  • 米満横穴墓群Ⅲ-2支群 (再訪 その1) 長南町米満

    長南町に移動して米満横穴墓群Ⅲ-2支群を再訪。Ⅲ-2支群の横穴墓は、昨年4月に2基を確認、今回、新たに西側に3基、東側に3基(計8基)を確認した。米満横穴墓群は、太平洋に注ぐ一宮川水系三途川北岸の丘陵斜面に展開する県内最大規模の横穴墓群。ちば情報マップでは「7群140基。平成9年に町道改良工事に伴う発掘調査を実施、横穴墓10基・塚10基を調査。」 尾根上の塚 米満横穴墓群Ⅲ-2支群の1基「朱彩大型横穴墓」(再訪) 朱彩大型横穴墓を下から見上げると 朱彩大型横穴墓の東側を探索。新たに3基並んだ横穴墓を確認。右から1基目。 右から2基目。 右から3基目。 米満横穴墓群Ⅲ-2小支群【千葉県長南町】 …

  • 徳増下谷横穴墓群(再訪) 長柄町徳増

    史跡長柄横穴墓群資料館の南側に位置する徳増下谷横穴墓群を再訪。長柄町の遺跡番号149の「横穴墓 12基」で、東からアプローチした順番に1〜12号墓と仮に呼称する。 徳増下谷横穴墓群(仮)2号墓(左)と(仮)1号墓(右) 徳増下谷横穴墓群(仮)3号墓 徳増下谷横穴墓群(仮)5号墓 徳増下谷横穴墓群(仮)6号墓 徳増下谷横穴墓群(仮)8,9,10号墓 前回(昨年4月)は到達出来なかった徳増下谷横穴墓群(仮)11号墓にも到達 今日、訪れた横穴で見かけた線刻画。いつ描かれたんだろう??#徳増下谷横穴墓群 pic.twitter.com/cTwYk9CHnQ — chiba_kofun (@yukio_…

  • 長柄横穴墓群 (再訪) 長柄町徳増

    2025年の墳活始めは、長柄横穴墓群。墳友と墳活。 長柄横穴墓群の第2支群の第9小支群(第34,33号墓) 第33号墓 本日は先週に引き続き、古墳好きの皆様と千葉県長柄町&長南町の横穴墓巡りへ行きました。山林に眠る見事な横穴の数々、まさかここへ冬休みの間に2回も来ることになるとは...!前回未探訪だった横穴も見れましたし、新たな発見もあり素晴らしい2025年の古墳初めとなりました。 pic.twitter.com/B34w1d4AXe — ぺん@古墳巡り (@pen_kofun) 2025年1月5日 今年最初の横穴墓見学は、千葉県からスタート!すばらしい横穴墓と、素敵な方々と出会えました♪ p…

  • 2024年の古墳巡りのまとめ

    昨年のブログ記事のストックがはけたので、昨年(2024年)の古墳巡りをまとめておく。2024年は、参加した現地説明会等21件、鑑賞した企画展57件と昨年と同レベル。トピックスは5月と12月の千葉県長柄町・長南町の横穴墓群巡りと、秋の埴輪展。 古墳巡り 埼玉県桶川市・川島町・東松山市・吉見町の古墳巡り(2月) 埼玉県行田市・羽生市の古墳巡り(2月) 茨城県鹿島市・千葉県山武市の古墳巡り(2月) 千葉県松戸市の古墳と茨城県取手市の貝塚巡り(2月) 千葉県長柄町・長南町の横穴墓群巡り(4月) 埼玉県羽生市と利根川対岸の古墳巡り(5月) 群馬県伊勢崎市・前橋市の古墳巡り(6月) 埼玉県東松山市・坂戸市…

  • 能満寺古墳 長南町芝原

    2024年の古墳納めは、能満寺古墳。 千葉県指定史跡 能満寺古墳(のうまんじこふん) 昭和50年11月14日 指定 能満寺前にある旧熊野神社跡地内丘上に位置する全長73.5メートルの前方後円墳である。 昭和22年明治大学考古学研究室によって発掘調査された。後方部から、舟型木炭槨(木炭で木棺を被覆するもの)が検出され、銅鏡、銅鏃、鉄製鉇(やりがんな)、ガラス玉等が出土した。 築造年代は、墳丘の形、埋葬方法及び出土遺物から、5世紀初頭のころと推定されている。東日本における発生期の古墳であり、この時期の古墳としては県内最大規模のものである。 平成3年3月 千葉県教育委員会 長南町教育委員会 能満寺古…

  • 油殿2,3,4号墳 長南町豊原

    油殿古墳群の続き。 油殿2号墳 油殿3号墳 油殿4号墳 油殿古墳群(あぶらでんこふんぐん) 千葉県指定史跡(昭和52年3月8日指定) 油殿古墳群は埴生川(一宮川水系)に臨む俗称「油殿」と呼ばれる独立丘上に所在しています。古墳群を形成する4基の古墳は、北西から南東方向に伸びる尾根筋にほぼ縦列に配置されています。墳丘の土台となる尾根上面の標高は約27mで、周囲の住宅地とは約10mの比高差があります。 1号墳は主軸長93mの傑出した規模を誇る前方後円墳で、南東約1.5kmにある能満寺古墳とともに地域の首長墓として位置付けられる古墳です。後円部墳頂は独立丘全体の最高点(標高34m)であり、また、3方向…

  • 油殿1号墳 長南町豊原

    夕暮れ時に油殿古墳群を訪れた。 千葉県指定史跡 油殿古墳群(あぶらでんこふんぐん) 長生郡長南町豊原 昭和52年3月8日指定 油殿古墳群は、前方後円墳2基、円墳2基からなる古墳群で、一宮川の支流、埴生川の北側の独立丘陵上に位置する。 1号墳は、昭和49年に早稲田大学の調査により、全長93メートル、後円部径50メートル、前方部幅24メートルの前方後円墳であることが明らかとなった。 2号墳は墳丘長約30メートルの前方後円墳、3,4号墳は墳丘径約10メートルの円墳である。 1号墳は、古墳時代前期(4世紀頃)の築造で、近接する能満寺古墳よりやや新しい時期のものと考えられる。長生地域では、古墳時代中期以…

  • 米満横穴墓群Ⅴ-3,2支群 長南町米満

    米満横穴墓群の探索の続き。 尾根上の塚 米満横穴墓群Ⅴ-3支群の1基目 米満横穴墓群Ⅴ-3支群の2基目 米満横穴墓群Ⅴ-3支群の3基目 米満横穴墓群Ⅴ-2支群の1基 米満横穴墓群Ⅴ-1支群の進入路を探索したが断念。この日はここまで。 にほんブログ村

  • 米満横穴墓群Ⅴ-4支群 (その2) 長南町米満

    米満横穴墓群の探索の続き。 米満横穴墓群Ⅴ-4支群の6基目 米満横穴墓群Ⅴ-4支群の7基目 米満横穴墓群第Ⅴ支群【千葉県長南町】第Ⅲ支群南側の丘陵には第Ⅴ支群が広がっています。こちらも急斜面の上にあり困難をともなう探索でしたが、やはり米満横穴墓群は期待のさらに上を我々に見せてくれます。第2小支群はほぼ埋没してましたが、第4小支群では分布図の数より多い7基を発見できました。 pic.twitter.com/OmRG9m4Hzc — ぺん@古墳巡り (@pen_kofun) 2024年12月28日 千葉県長生郡長南町 米満横穴墓群辿り着くのが大変なので、あまりおすすめはできませんが、行く度に新たな…

  • 米満横穴墓群Ⅴ-4支群 (その1) 長南町米満

    米満横穴墓群の探索の続き。昼食後、米満横穴墓群Ⅲ,Ⅳ支群の南側のⅤ-4〜2支群を探索。 米満横穴墓群Ⅴ-4支群の1基目 米満横穴墓群Ⅴ-4支群の2基目 米満横穴墓群4-5支群の3基目 米満横穴墓群Ⅴ-4支群の4基目 米満横穴墓群Ⅴ-4支群の5基目 にほんブログ村

  • 米満横穴墓群Ⅳ-1支群 (再訪) 長南町米満

    米満横穴墓群の探索の続き。米満横穴墓群Ⅳ-1支群を再訪。 米満横穴墓群Ⅳ-1支群の1基目 米満横穴墓群Ⅳ-1支群の2基目 ピッツァとパスタのお店で昼食 にほんブログ村

  • 米満横穴墓群Ⅲ-11支群 長南町米満

    米満横穴墓群の探索の続き。尾根上をⅢ-11支群まで西に移動。 米満横穴墓群Ⅲ-11支群の1基目 米満横穴墓群Ⅲ-11支群の2基目 無事、下界に生還 にほんブログ村

  • 米満横穴墓群Ⅲ-6支群 長南町米満

    米満横穴墓群の探索の続き。 米満横穴墓群Ⅲ-6支群の1基目 米満横穴墓群Ⅲ-6支群の2基目 米満横穴墓群Ⅲ-6支群の3基目 町道の西側の尾根上の塚 横穴墓10基・塚10基が調査された町道 文献 総南文化財センター 1998 『総南文化財センター調査報告38:千葉県長生郡長南町米満横穴墓群』総南文化財センター にほんブログ村

  • 米満横穴墓群Ⅲ-7支群 長南町米満

    米満横穴墓群の探索の続き。 米満横穴墓群Ⅲ-7支群の1基目 米満横穴墓群Ⅲ-7支群の2基目 米満横穴墓群Ⅲ-7支群の3基目 米満横穴墓群Ⅲ-7支群の4基目 米満横穴墓群Ⅲ-7支群の5基目 米満横穴墓群Ⅲ-7支群の6基目 にほんブログ村

  • 米満横穴墓群Ⅲ-8支群 長南町米満

    米満横穴墓群の探索の続き。 米満横穴墓群Ⅲ-8支群の1基目 米満横穴墓群Ⅲ-8支群の2基目 横穴墓を調査する探検隊 にほんブログ村

  • 米満横穴墓群Ⅲ-9,10支群 長南町米満

    昨年の古墳納めに、房総半島のほぼ中央に位置する長南町の米満横穴墓群を、墳友と探索した。米満横穴墓群の探索は昨年4月に続いて2回目。米満横穴墓群は、太平洋に注ぐ一宮川水系三途川北岸の丘陵斜面に展開する県内最大規模の横穴墓群。ちば情報マップでは「7群140基。平成9年に町道改良工事に伴う発掘調査を実施、横穴墓10基・塚10基を調査。」 米満横穴墓群Ⅲ支群の西側(10小支群)からアプローチ 米満横穴墓群Ⅲ-10支群の1基目 米満横穴墓群Ⅲ-10支群の2基目 米満横穴墓群Ⅲ-10支群の3基目 米満横穴墓群Ⅲ-9支群の1基 本日はフォロワーの皆様と総勢5人で千葉県長南町米満横穴墓群の探索をしてきました。…

  • 愛宕古墳 (再訪) 春日部市西金野井

    春日部市の愛宕古墳を再訪。 2年前に訪れていたことをすっかり忘れていた。 にほんブログ村

  • 鷲塚古墳 境町塚崎

    清水遺跡の現地説明会の前に近くのショッピングモールに保存された鷲塚古墳で時間調整。 桜山古墳群内 鷲塚古墳(わしづかこふん) 桜和古墳群は、古墳時代前期から中期(3世紀末〜5世紀ごろ)にかけてこの地を支配していた豪族の墳墓群であり、かつては12基以上の古墳を数えた。利根川築堤による採土で湮滅し、現存するのはこの鷲塚古墳(円墳)とおたま塚古墳(円墳、西方約50メートルに地下保存)のみである。 南方にあった古墳から人骨や直刀などの遺物が出土したとの、昭和30年の新聞記事があるが、遺物などの所在は不明である。平成3年に境町教育委員会が行った調査では、鷲塚古墳周溝から器台1基が出土し、境町歴史民俗資料…

  • 山川古墳群 土浦市常名

    常名天神山古墳の約80m北の台地の南縁に古墳2基が遺存する山川古墳群を探索した。1990年(平成2年)に、この台地の常名地区に、川口運動公園にかわる新しい運動公園建設の計画(土浦市総合運動公園基本計画)が策定され、1991年3年3月に試掘調査、1993年度から本調査が実施された。山川古墳群第1次調査(1995年)では古墳4基(山川4〜7号墳、5世紀の円墳)及び方形周溝墓3基(山川31〜33号墳、4世紀の方形周溝墓)を発掘した。山川古墳群第2次調査(2003年)では古墳6基(山川2,3,8,9,10,11号墳)を発掘した。山川古墳群第3次調査(2005年)では山川7,8,12〜30,31号墳を発…

  • 常名天神山古墳発掘調査現地説明会 (12/22) 土浦市常名

    12月22日に開催された常名天神山古墳の土浦市(上高津貝塚ふるさと歴史の広場)・筑波大学合同調査現地説明会に参加した。昨年度から、常名天神山古墳の発掘調査を学生の実習を兼ねて実施とのこと。 市指定文化財 常名天神山古墳 史跡 平成3年(1991)3月1日 指定 この古墳は、桜川に面する台地の端に西面して築造されている前方後円墳である。その規模は、全長約70メートルであるが、一部削り取られているため、本来は約90メー トルもの長さがあったものと思われる。後円部の直径は約45メートル。高さは後円部6.87メートル、前方部4.25メートルである。後円部には常名(ひたな)神社が祀られ、前方部にも小さな…

  • 清水遺跡 現地説明会 (12/22) 境町塚崎

    12月22日に開催された茨城県境町の清水遺跡の現地説明会に参加した。清水遺跡は、境町の南西部、利根川左岸の標高約13mの低地上に位置する。調査区の東側は、平成18年度に首都圏中央連絡自動車道(圏央道)建設事業、昨年度に境町利根川左岸河川防災ステーション事業に伴い、茨城県教育財団が調査して、縄文時代・古墳時代・平安時代の複合遺跡であること、特に古墳時代前期に大規模な集落が営まれていたことがわかった。今年度は、古墳時代前期の坩(かん)が出土。出土した坩は高さ32cm、腹囲96cmとかなりの大型。また、現地説明会の直前に小さな山形土偶が出土。 発掘情報いばらき 清水遺跡 (調査期間:2024年9月1…

  • 下侍塚古墳 発掘調査現地説明会 (12/14) 大田原市湯津上

    12月14日に開催された下侍塚古墳の発掘調査現地説明会に参加した。上侍塚古墳の調査は10月で終了し、11月からは下侍塚古墳の調査が行われている。現地説明会の2日前の12日に、NHKの栃木NEWS WEBが『大田原 「侍塚古墳」東日本では珍しい埴輪の破片が複数出土』と「円筒埴輪」とみられる(突帯や透かし孔が確認できる)破片が複数出土したことを報じ、期待が高まった。下侍塚古墳は4世紀後半の築造とされていて、この時代の東日本の前方後方墳から円筒埴輪の出土はこれまで1例しか確認されていなかったとのこと。しかも、この埴輪片の出土が最初に発見したのは11月23日の発掘体験の体験者とのこと。羨ましい。 S3…

  • えと展ー巳を考古学するー 那珂川町なす風土記の丘資料館

    那珂川町なす風土記の丘資料館で開催中の令和6年度特別陳列「えと展ー巳を考古学するー」を鑑賞した。令和7年(2025年)の干支(えと)は巳年、 十干十二支(じっかんじゅうにし)は乙巳(きのとみ)。本展は、干支、十干、十二支の由来や、「巳」にちなんだ動物である「蛇」について、考古資料や歴史・自然資料のほか、民俗資料などから紹介する。 那珂川町なす風土記の丘資料館 12月7日(土)より「特別陳列えと展―巳を考古学する―」が開催されます😀令和7年の干支・巳(ヘビ)に関する考古資料・民俗資料等を展示する予定です。ヘビ好きな方はもちろん、苦手な方もヘビの意外な一面を見つけることが出来るかもしれません🐍ぜひ…

  • 死者と生者の古墳時代 栃木県立博物館

    栃木県立博物館で開催中の第140回企画展「死者と生者の古墳時代~下野における6・7世紀の葬送儀礼~」を初日に鑑賞した。 古墳が隆盛を極めた時期から、古墳が作られなくなる時期への過渡期の6・7世紀、なぜ古墳時代の人々はお墓やお葬式を重視したのか、そしてどのように古墳は消えていったのか、本展示では、埋葬される「死者」と、葬送儀礼を行う「生者」の関係に焦点を当てながら、その謎に迫る。形象埴輪群像、飲食儀礼を示す土器、横穴式石室の副葬品などの資料を通して、下野地域とその周辺の葬送儀礼を紐解く。 第1章 埴輪が語る葬送儀礼 第2章 ものを食べる死者と生者 第3章 横穴式石室と死者の埋葬 第4章 古墳の終…

  • 古墳時代の草加地域 草加市立歴史民俗資料館

    草加市立歴史民俗資料館で開催された秋季企画展「古墳時代の草加地域」を鑑賞した。残念なことに企画展は撮禁だった。なお、常設展示は撮影OK。 登録有形文化財 草加市立歴史民俗資料館(旧草加小学校西校舎) 所在地:草加市住吉1丁目11-1 29号 かつての草加市は、一部の台地を除けば一面に豊かな水田が広がる稲作地帯でした。 しかし、昭和三十年代からの急激な都市化現象は、そこに住む人々の暮らしまで一変させ、営々と築き受け継がれてきた貴重な歴史、民俗等の文化遺産を消失させつつあります。 草加市立歴史民俗資料館は、この失われつつある郷土の文化遺産を収集、保管、展示するため、昭和五十八年十一月一日に開館しま…

  • 公開シンポジウム「考古学が解明する邪馬台国の時代」 日本考古学協会

    9月8日に開催された日本考古学協会主催の公開シンポジウム「考古学が解明する邪馬台国の時代」にオンラインで参加(聴講)した。 プログラムは、 「歴史考古学からみた倭王権の形成」岡村秀典 「三角縁神獣鏡と親魏倭王」福永伸哉 「『邪馬台国の時代』と古墳〜権力基盤継承の観点から〜」岡林孝作 「纒向王権と邪馬台国論」寺林薫 「弥生研究からみた邪馬台国の時代」石川日出志 討論「考古学が解明する邪馬台国の時代」司会 宮本一夫 公開シンポジウム「考古学が解明する邪馬台国の時代」開催のお知らせ 一般社団法人 日本考古学協会 文化財の鉛同位体比分析(事例:銅鏡の原料産地推定) 日鉄テクノロジー 漢委奴国王…

  • フランス山 横浜市中区新山下

    県立神奈川近代文学館のある港の見える丘公園(フランス山)を散策。 フランス山の風車 フランス山の風車 1896(明治29)年にフランス領事館とその官邸が建設された時、このフランス山には井戸水を汲み揚 げるための風車が設置されました。風車が設置されたのは、レンガ造り井戸の遺構が残されている場所です。 残念ながら、フランス領事公邸で使用されていた風車の形は、写真などの資料が残されていないため判りません。しかし、同時代に使われていた「フェリス女学院の赤い風車」 や 「ヴィラ・サクソニアの風車」の写真から、多翼型の風車であったろうと思われます。なおフランス山の風車は、フランスに残されている資料から、1…

  • 池上本門寺 (再訪) 大田区

    池上本門寺を再訪。 日樹聖人の五輪塔 大田区文化財 日樹聖人の五輪塔(にちじゅしょうにんのごりんとう) この塔は本門寺山内最大の五輪石塔で、総高約4メートル、戦災による破損がいちじるしく、造立年記銘は見えないが、上から三段目の火輪斜面に「日樹(花押)」の署名が刻まれている。 したがって、本塔は、日樹が不受不施事件で信州に流される寛永7年(1630)より前の造立である。 しかも、地輪をはじめ、塔の全面に数百名の奉加者の名を刻みつけてあることは、日樹とその信者層、ひいては江戸初期の池上本門寺外護者の実態と、不受不施史研究上、極めて有力な資料である。 昭和49年2月2日指定 大田区教育委員会 前田利…

  • 堤方権現台古墳 大田区池上

    東京都の未訪問の古墳の1つの堤方権現台古墳を訪れた。 池上永寿院万両塚 芳心院墓所 芳心院墓所 万両塚に埋葬されている「芳心院殿妙英日春大姉」は、 徳川家康と側室お万の方の孫にあたり、紀州徳川家初代藩主頼宣の娘、鳥取池田家初代藩主池田光仲の正室です。 宝塔背面の銘文には、芳心院の家系・人となり・信仰の深さと「逆修七分全得」(生前に墓をつくるなどの善行を積めば、七の功徳全てを得ることができる)のために生前に建てた自分のお墓であったことが記されています。 宝塔内部からは、法華経巻子本八巻と火葬骨の収められた青銅製の骨蔵器が発見されました。自身の法華経信仰を三百年後の私たちに伝えてくれる貴重なお墓で…

  • 公卿塚古墳跡 本庄市北堀

    埼玉県古式古墳調査報告書で報告された7基の古墳のうち、未訪問だった東富田古墳群の公卿塚古墳跡を訪れた。公卿塚古墳は古墳群内では最大規模の円墳だったが、現在は墳丘が失われている。また、埼玉県内最初期の埴輪をもつ古墳として知られる。Google Mapだと、跡地には公家塚家祖先霊璽があったようだが、なかった。文献[3]では「円墳、径65m、石製模造品・玉・埴輪・土師器、造出し、周堀確認」 公家塚家祖先霊璽の跡地? 文献 埼玉県県史編さん室 1986『埼玉県古式古墳調査報告書 埼玉県県史編さん室 - 週末は古墳巡り』埼玉県県史編さん室 本庄市教育委員会 1991 『本庄市埋蔵文化財調査報告19:本庄…

  • 浅間山古墳 上里町神保原町

    旭・小島古墳群の古墳巡りの続き。 上里町神保原町の浅間山古墳 浅間山古墳(せんげんやまこふん) 町指定文化財 昭和37年2月2日指定 浅間山古墳は、上里町東部から本庄市西部の本庄台地の先端部に広がる旭・小島古墳群を構成する1基です。墳形は、直径約38m、高さ約6mの円墳と考えられます。主体部は、角閃石安山岩を使用した胴張両袖型横穴式石室です。石室の規模は、全長約9.48m、埋葬部にあたる玄室は長さ6.48m、奥壁幅2.2m、最大幅2.4m、天井部高2.5mです。入口にあたる羨道は長さ約3m、幅1.2m、高さ1.8mです。 出土遺物は、昭和2年に玄室の一部が露出した時に出土した直刀2、鉄鉾1、金…

  • 蚕影山古墳、山の神古墳 本庄市小島

    旭・小島古墳群の古墳巡りの続き。 本庄市の遺跡番号136の蚕影山古墳。文献[2]の蚕影山古墳、円墳、径20m、須恵器、横穴式石室、葺石、周堀確認。文献[3]のNo.82の蚕影山古墳古墳、円墳、径19m、横穴式石室、角閃石、葺石、須恵器。 本庄市の遺跡番号137の山の神古墳。文献[2]の山の神古墳、円墳、径30m、埴輪・土師器、葺石、周堀確認。文献[3]のNo.83の山ノ神古墳、円墳、径41m、土師器、葺石、円筒埴輪・形象埴輪。 文献[3]より 市指定文化財(記念物)/本庄市 埼玉県本庄市 山の神古墳 蚕影山古墳 古墳探訪記 蚕影山古墳-山の神古墳【埼玉県本庄市】 - ぺんの古墳探訪記 文献…

  • 元屋敷4,5号墳 本庄市小島

    本庄市の旭・小島古墳群を巡った。 本庄市の遺跡番号139の元屋敷5号墳。文献[2]の小島諏訪神社古墳、円墳、径27m、神社境内、埴輪、葺石、周堀確認。文献[3]のNo.77の小島諏訪神社古墳、円墳。 第80回伊勢神宮式年遷宮記念 諏訪神社 御由緒 本庄市小島4-4-14 □ 御縁起(歴史) 小島は、利根川の右岸に位置する。集落は本庄台地上にあり、低地から 見ると島のようであったので小島の名が付けられたという。地内には、多数の古墳(旭・小島古墳群)が存在していたが、昭和三十年代後半からの急激な宅地造成によって、その数も激減してしまった。 当社は、そのうちの一つの円墳上に祀られる。創建については伝…

  • 小笠原信嶺公廟所古墳 本庄市中央

    本庄市の古墳の続き。 本庄市の遺跡番号141。文献[1]の「三夜堂古墳、円墳」 本庄市指定史跡 小笠原掃部太夫信嶺公夫妻の墓 公は徳川氏の家臣で、もと印塔は古墳上に築かれてい信州松尾城主、天正18年 (1590年)豊臣氏の関 東攻めにより、本庄氏滅亡の後当城を賜わり、同年9月入城し本庄領一万石を領した。慶長3年(1598年) 2月19日、52才にし て逝去した。法名徹抄道也大居士、なお公の墓石宝篋印塔は古墳上に築かれている。 昭和33年3月28日 本庄市教育委員会 市指定文化財(記念物)/本庄市 小笠原信嶺公廟所古墳-愛宕神社古墳【埼玉県本庄市】 - ぺんの古墳探訪記 埼玉県本庄市中央 開善寺…

  • 仲町愛宕神社古墳 本庄市中央

    群馬県立歴史博物館に行く前に本庄市の古墳に寄り道。 本庄市の遺跡番号142、仲町愛宕神社古墳。文献[1]の「北原愛宕山古墳、円墳、径24m、埴輪」 第60回伊勢神宮式年遷宮記念 愛宕神社 御由緒 本庄市中央1-5-2 □ 御縁起(歴史) 本庄城の城跡から見て、南西500メートルほどの所にある愛宕山と呼ばれる古墳の上に当社は鎮座し、石段の脇には神木の大欅(おおけやき)が枝を広げている。この古墳は、愛宕山の西方500メートルほどの所にある古墳と夫婦塚であるといわれ、彼方の古墳の上には寺坂町の天神社が建つ。 当社の位置は、臨済宗妙心寺派の寺院である開善寺の旧寺領の南東端に当たる。開善寺は、天正18年…

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