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  • 第63回考古学研究会東京例会「特集・東北南部~東関東の弥生文化」 (7/13) 明治大学駿河台キャンパス

    明治大学駿河台キャンパスのアカデミーコモンで開催された第63回考古学研究会東京例会「特集・東北南部~東関東の弥生文化」に参加(聴講)した。 プログラムは、杉山浩平氏(考古学研究会東京例会・東京大学)による開会挨拶・趣旨説明「いま、なぜ東関東の弥生文化を問うのか」、小玉秀成氏(小美玉市役所)による報告1「東関東~浜通りにおける、弥生時代中期後半土器の属性影響とその背景」、小林嵩氏(千葉市教育振興財団)による報告2「東北地方南部~東関東地方における大陸系磨製石器製作と流通」、最後に質疑応答。全体で約3時間。 杉山氏の趣旨説明では「関東地方の弥生文化の研究は、学史的に俯瞰すると南関東と北関東を対比的…

  • 港区高輪二丁目発掘調査現場見学会 (7/13) 港区高輪

    7月13日に開催された港区高輪二丁目の港区泉岳寺駅地区埋蔵文化財発掘調査(港区No.119遺跡・No.218遺跡)の見学会に参加(見学)した。JR東の高輪ゲートウェイ駅前の再開発事業に伴う発掘調査で、江戸期の東海道護岸や、一帯の埋め立て工事に伴って築かれた石積みなどが確認されているとのこと。今回の見学会では、国指定史跡「高輪築堤第7橋梁」の陸側対岸の車町河岸(くるまちょうかし)に関連する護岸(港区No.119遺跡の明治時代以降の石積み)と、調査で出土した遺物等が公開された。 【発掘調査現地説明会のご案内】7/13(土)に港区高輪二丁目地区の発掘調査現場見学会を実施します。詳しくは以下のリンクか…

  • 王山古墳 前橋市大渡町

    総社古墳群を墳活。6基目は、王山古墳。 記念碑 上毛古墳綜覧総社町第一号墳にあたる本墳は、上石倉土地区画整理事業が実施されるにあたり、王山古墳発掘調査団により学術調査が実施された。 この結果、本墳後円部は、すべてが河原石によって構築され、しかも、その表面はみごとに石積みされていることなどが判明し、全国的にも稀にみる貴重な文化財であることが確認された。 このことにより、前橋市は、これの保存に努めた。幸にして、地権者 福島政司他五名当該区画整理事業組合、ならびに群馬県等の関係各位の理解と努力によって、墳丘部を中心とした2500平方メートルの地域が児童公園として保存されることになった。 ここに公園の…

  • 遠見山古墳 前橋市総社町総社

    総社古墳群を墳活。5基目は、遠見山古墳。 遠見山古墳 長さ80mほどの前方後円墳で、墳丘は前方部が低く、埴輪破片が多く出土している。堀の土層の状態から六世紀初頭ごろの築造と推定される。後円部の中ほどは構築当時より削平され若干低くなっているが葺石が多く見受けられ、周囲に10〜20m幅の堀の跡が確認された。遠見山の名称は慶長9年(1604)総社城の築造の時、遠見のための櫓が設置されていたことから名付けられたと考えられる。 平成8年3月吉日 総社地区史跡愛存会 前橋市指定史跡 遠見山古墳(とおみやまこふん) 指定年月日 平成22年3月29日 所在地 前橋市総社町総社甲1410、乙1410 利根川右岸…

  • 二子山古墳 前橋市総社町植野

    総社古墳群を墳活。4基目は、二子山古墳。 豊城入彦命石碑 史跡 二子山古墳(総社) 二段に築造された前方後円墳である。その規模は現状で全長約90m、前方部前幅61m、後円部径44mであり、前方部が大きく張り出している。 埋葬主体部は前方部と後円部に各一つずつ横穴式石室が確認されている。後円部の石室は、榛名山二ッ岳から噴出したと考えられる角閃石安山岩を加工して使用して おり、その規模は現状で全長約8.6m、玄室長約7mである。前方部の石室は、自然石を使用したもので、全長8.7m 玄室長4.2m、同幅2.1mであり、両石室ともに規模は大きい。 石室に使用している石材などから 前方部の石室がやや古く…

  • 愛宕山古墳 前橋市総社町総社

    総社古墳群を墳活。3基目は、愛宕山古墳。 愛宕山古墳 この古墳は従来円墳とされていたが、測量と発掘調査の結果、方墳であることが確定した。一辺56m、高さ8.5mの二段築成で、周堀は約18m余である。主体部の両袖型横穴石室は、現状で玄室の長さ6.91m、玄室奥幅2.94m、玄室の高さ2.91mの規模である。 石室の石材は輝石安山岩で加工がほどこされている。隙間には浮石質角閃石安山岩を適宜に加工して詰めている。玄室の奥壁寄り中央に主軸と直交する形で凝灰岩製の刳抜式家形石棺が安置されている。 築造の時期は七世紀第二4半期とされ、首長墳の墳丘が方墳に変わる時期、大和政権との関わりにより社会変化をとらえ…

  • 宝塔山古墳 前橋市総社町総社

    総社古墳群を墳活。2基目は、宝塔山古墳。 史跡 宝塔山古墳 一辺の長さ約55m、墳丘高11mの規模を誇る方墳である。この規模は方墳としては全国的にみても大きい。 主体部は墳丘基壇上に造られた横穴式石室で、羨道、前室、玄室の三室にわかれている。石室の壁 は精巧に加工した切石を使用して積み上げ、随所に切組積の手法もみられる、特に天井石及び玄室入口の玄門の加工はみごとである。 石室の規模は、全長12.4m、玄室長3.3m、同奥幅3.02mである。玄室には家形石棺がある。その底部は四辺ともに格狭間の形にくりぬかれ、古墳への仏教文化の影響を物語っている。この古墳は県内古墳の最終末期に造られたもので、七世…

  • 蛇穴山古墳 前橋市総社町総社

    総社古墳群を墳活。1基目は、前橋市総社歴史資料館のすぐ隣の蛇穴山古墳。 国指定史跡 蛇穴山古墳推定復元図 今から約1300年前、古墳時代の終末期に造られた一辺が約40mの方墳。墳丘に葺石があり、石材加工技術のすばらしい横穴式石室をもつ。 史跡蛇穴山古墳一辺の長さ約40mの方墳である。埋葬主体部は横穴式石室であるが、羨道を欠き、玄門と玄室とからなる特殊な形をとっている。 玄門の前には、羨道の痕跡ともみられる構造と八の字形にひらく前庭がある、石室は天井、奥壁、左右壁ともにみごとに加工した各一校の巨石で構成されている。天井石、奥壁などの縁はL字形に切り込んで壁の石と組み合わせている。精巧な細工をほど…

  • 蛇塚古墳 伊勢崎市下植木町

    上野国佐位郡正倉跡の前に殖蓮第二小学校に移築復元された蛇塚古墳を訪れた。 蛇塚古墳(へびづかこふん)の石室 この石室は、かつて日乃出町400番地に所在した蛇塚古墳(雷電山古墳)のもので、市内最大の横穴式袖無型石室です。永く将来に伝えるため昭和54年3月にこの地へ移築復元したものです。蛇塚古墳は粕川左岸の段丘上に造られた前方後円墳で、昭和38年に発掘調査が行われ、石室内からは鉄鏃および玉類、墳丘部からは馬埴輪(市指定重要文化財)などが出土しました。古墳は、石室に使用されている石材および出土品などから六世紀後半の築造と考えられます。 墳丘 全長 約56m 主軸 北13度東 前方部幅 約38m 後円…

  • 上野国佐位郡正倉跡 伊勢崎市上植木本町

    丸塚山古墳の前に上野国佐位郡正倉跡を訪れた。 史跡上野国佐位郡正倉跡(こうずけのくにさいぐんしょうそうあと) 八角形倉庫(はっかくけいそう) 八角形倉庫は約1200年前に造られた建物で、2005年にこの小学校の校庭から見つかったよ。高床式倉庫で壁は校倉造なの。東大寺正倉院と同じ造り方をしているよ。 校舎の絵は、実際の大きさで描いたもので、連物の高さは、12.88mあるよ。3階建ての校舎と同じくらいの大きさだよ。とても立派な建物だから、古代佐位郡の象徴として建てられたと考えられるよ。 床面積は約182㎡、畳だと110枚分くらい、自動車なら12 台くらい停められる広さだよ。 税として納められた米を…

  • 丸塚山古墳 伊勢崎市三和町

    女堀の前に丸塚山古墳を訪れた。 伊勢崎市によると「 丸塚山古墳は、主軸を南北におく墳丘の全長が81メートルの帆立貝式古墳で、5世紀後半に築造されたと考えられる。昭和30年(1955)に群馬大学史学研究室による発掘調査が行われ、後円部に墳丘主軸とほぼ平行して3基の組み合わせ式箱形石棺が発見され、葺石や埴輪片の存在も確認される。」、丸塚山古墳リーフレットによると「昭和13年に刊行された『上毛古墳総覧』では、丸塚山古墳の記述で『緑泥片岩製の長持形石棺アリ』と記載され」3号石棺は「石材の一部が残っているだけ」だが「王者の棺」と呼ばれる長持形石棺の可能性があり「お富士山古墳に後続する有力者の墓の可能性は…

  • 赤堀 伊勢崎市東大室町

    現地説明会の前に国指定史跡 女堀を見学した。 国指定史跡 女堀(東大室地区下神沢地点) 所在地 前橋市東大室町 指定年月日 昭和58年10月27日 女堀(おんなぼり)は前橋市上泉町から伊勢崎市田部(旧東村国定)までの約13kmにわたって、上幅15〜30m.、深さ3〜4mの規模で掘られた長大な農業用水路である。発掘調査では12世紀中頃に掘られたが、工事中断により未完成であったことが分かった。開削の目的は旧佐郡一帯に立荘された淵名荘の開発に伴う農業用水の確保であったといわれている。本地区は一部で発掘調査されている。標高が高いことから上報30mで掘削深度も4.5mと深い。 掘削排土の下から畑跡が見つ…

  • 石山南遺跡・石山南古墳群 現地説明会 (6/30) 伊勢崎市下触町

    6月30日に開催された石山南遺跡・石山南古墳群の現地説明会に参加した。民間開発に伴う発掘調査で、古墳1基(石山南107号墳)のほか、埴輪生産に関わる粘土採掘坑2基、工房5軒、埴輪窯1基が確認された。埴輪窯の発見は伊勢崎市で初めてとのこと。 【石山南遺跡・石山南古墳群の現地説明会の開催】 発掘調査中の石山南遺跡・石山南古墳群では古墳1基、埴輪生産に関わる埴輪窯1基等が確認されました。埴輪窯の発見は本市で初めてで、成果を公開するため、現地説明会を開催します。#埴輪窯https://t.co/ylvhH5S2rY — 伊勢崎市 (@isesakicity_lg) 2024年6月25日 列島展の影響で…

  • 道仏遺跡と道仏北遺跡 宮代町道佛

    カスミ フードスクエア宮代店近くの風土記の丘公園ときりかぶ公園で、道仏(どうぶつ)遺跡と道仏北遺跡の痕跡を散策。 道仏遺跡 まちしるべ 45 道仏遺跡 所在地 宮代町道佛三丁目 道仏(どうぶつ)遺跡は、縄文時代早期後半(約7,000年前)と古墳時代中期(約1,550年前)から後期(約1,400年前)にかけての遺跡です。特に五世紀後半から六世紀後半にかけては、当地域で最も大きな集落でした。本遺跡は大宮台地の東側縁部の屈曲点にもあたり、当時大河であった古利根川に近いことから交通の要所としても発達したようです。六世紀前半までは島状の台地全体に集落がありましたが、六世紀中葉以降は西側の比較的標高が高い…

  • 「土器でみる一万年 宮代の縄文」 宮代町郷土資料館

    埼玉県の宮代町郷土資料館で開催された企画展「土器でみる一万年 宮代の縄文」を会期終了間際に鑑賞した。宮代町の遺跡からは縄文時代の始まり(草創期)から終わり(晩期)までの土器が出土している。本企画展では縄文土器の形と文様の変化、製作道具に焦点をあてて展示、町指定文化財である「微隆起線文土器(びりゅうきせんもんどき)」を含めたさまざまな土器を通して、縄文時代の一万年をたどる。今回の企画展は撮影OK、常設展示は撮影NG、前回の企画展は撮影NGだったので一歩前進。 【開催中】令和5年度第3回企画展「土器でみる一万年 宮代の縄文」 埼玉県宮代町 旧石器時代、縄文時代 埼玉県宮代町 宮代町最古の土…

  • 侍塚古墳群 (再訪) 大田原市湯津上

    侍塚古墳群を再訪した。 大田原市指定史跡 侍塚古墳群のご案内 昭和41年2月15日指定 大田原市湯津上地内 下侍塚古墳のすぐ北側には侍塚古墳群と呼ばれる古墳群が展開しています。現在確認できるのは8基ですが、かつては10基ほど存在したものの戦後の開田等により、消滅したといわれています。 前方後円墳である1号墳、方墳である8号墳を除く6基は円墳とみられています。5号墳と8号墳については、部分的な発掘調査によって、ある程度古墳の状況が把握されています。 それ以外の古墳については、平成10年(1998)から平成13年(2001)にかけて、墳丘の測量調査が行われ、墳形と大きさが確認されています。 大田原…

  • 下侍塚古墳 (再訪) 大田原市湯津上

    下侍塚古墳を再訪した。 国指定史跡 下侍塚古墳 (しもさむらいづかこふん) 下侍塚古墳は、那珂川右岸の段丘上に位置する前方後方墳で、那須地方の6基の前方後方墳のなかでは上侍塚古墳に次ぐ規模である。 本墳は、元禄5年(1692)、徳川光圀の命により小口村(那珂川町小口)の庄屋であった大金重貞らが上侍塚古墳とともに発掘調査を行なっている。鏡・鎧片・鉄刀片・大刀柄頭・土師器壺・同高坏などが出土したが、これらは、絵図にとるなど調査結果を記録したうえで松板の箱に収め、埋め戻している。 さらに墳丘の崩落を防ぐために松を植えるなどの保存整備も行なわれた。これら調査と調査後の遺跡の処置は、日本考古学史上特筆さ…

  • 上侍塚北古墳 (再訪) 大田原市湯津上

    上侍塚古墳のすぐ北にある上侍塚北古墳。全長48.5mの前方後方墳。上侍塚北古墳は、上侍塚・下侍塚より古い可能性が指摘される。 にほんブログ村

  • 上侍塚古墳 第1回発掘調査現地説明会 (6/29) 大田原市湯津上

    6月29日に開催された上侍塚古墳の令和6年度第1回発掘調査現地説明会に参加した。本調査は今年で4年目。 栃木県/上侍塚古墳(大田原市)令和6年度第1回発掘調査現地説明会の開催について 那須 上侍塚古墳・下侍塚古墳 栃木県埋蔵文化財センター 【上侍塚古墳発掘調査開始】5/14、上侍塚古墳の発掘調査が始まりました😆✨前方部の西側から堀り始め、早速葺石と思われるものが出土しました‼️今年度はどんな成果が得られるのか楽しみですね🙌#栃木県 #大田原市 #上侍塚古墳 #発掘調査 pic.twitter.com/q7dzlwgYLl — 栃木県埋蔵文化財センター (@MaibunT) 2024年5月17日…

  • 文化財展示コーナー 台東区生涯学習センター

    台東区西浅草の生涯学習センターを訪れた。この施設の3階に文化財展示コーナーがある。古墳時代コーナーには円筒埴輪片があった。「科学博物館地点、古墳時代中期」とのこと。その他、旧石器時代から近代まで、刻印のある煉瓦も展示されていた。 3階 台東区ホームページ にほんブログ村

  • 硬玉製大珠(こうぎょくせいたいしゅ)

    東京国立博物館の平成館の総合文化展の展示「日本の考古」で「縄文時代の装身具と祈りの道具」の「10. 硬玉製大珠(こうぎょくせいたいしゅ)」が気になったのでちょっと調べた。展示されていた硬玉製大珠は5点で、展示説明では「東京都北区 西ヶ原貝塚ほか出土 縄文時代(中期)・前3000~前2000年」、東京国立博物館のWebサイトで調べると「西ヶ原貝塚ほか出土」の「ほか」の4点の情報もあった。ここで気になったのは「時代・年代世紀」が「出土地不詳」の2点を含めて5点全て「縄文時代(中期)・前3000~前2000年」となっていたこと。それから、展示されていた5点の硬玉製大珠と、Webサイトの5点の硬玉製大…

  • 中央改札(YOSTAR改札) JR秋葉原駅

    もう7月なのに今更だが、3月頃、JR秋葉原駅の中央改札口の先が工事中で何が出来るのかと思っていたら。。。 3月中旬頃 翌日 3月下旬 4月上旬 Yostar OFFICIAL SHOP JR秋葉原駅店 4月1日よりYostarがジャック展開 秋葉原駅中央改札の改札口入口標等が 「中央改札(Yostar改札)」に! 株式会社Yostar にほんブログ村

  • 「幸手と杉戸の古墳時代-下総台地の集落と墓-」 幸手市郷土資料館

    幸手と杉戸の共催企画展『幸手と杉戸の古墳時代-下総台地の集落と墓-』を幸手会場の幸手市郷土資料館で鑑賞した。幸手会場の会期は7月15日まで。その後、7月28日から8月31日まで 杉戸会場の杉戸町文化財展示室(エコ・スポいずみ内)と巡回する。 幸手と杉戸では千葉との県境を流れる江戸川右岸の下総台地で古墳時代の遺跡が調査されてきた。幸手を代表する槙野地北(まきのじきた)遺跡では、古墳時代の約400年間続いた集落が発見され、杉戸では前方後円墳を含む20基以上からなる目沼(めぬま)古墳群がつくられた。槙野地北遺跡と目沼古墳群は約1kmの距離、目沼古墳群を造営した集団の中心地は槙野地北遺跡であった可能性…

  • 「貝塚の骨から見る縄文時代のくらし」 明治大学博物館

    明治大学博物館の考古部門のミニ展示、明大コレクション58「貝塚の骨から見る縄文時代のくらし」を鑑賞した。貝塚は捨てられた貝殻などが長期間にわたり層になった遺跡で、貝塚は名前の通り貝類で主に構成されるが、通常の遺跡であれば残りにくい動物の骨や、これらの骨・角・歯で作られた道具(骨角器)も多数出土する。本展示では骨や骨角器に注目し、当時の人々の活動を紐解く。 明大コレクション58 「貝塚の骨から見る縄文時代のくらし」開催のお知らせ 明治大学 考古部門コレクション展「貝塚の骨から見る縄文時代のくらし」が本日始まりました!貝塚では通常の遺跡であれば残りにくい動物の骨や、これらの骨・角・歯で作られた…

  • 「旧石器時代の井の頭池周辺 -武蔵野市発掘調査成果報告-」 武蔵野市立武蔵野ふるさと歴史館

    武蔵野市立武蔵野ふるさと歴史館で開催された企画展「旧石器時代の井の頭池周辺 -武蔵野市発掘調査成-」を会期終了間際に鑑賞した。本展では、井の頭池周辺の吉祥寺南町1丁目遺跡E地点ほか御殿山遺跡出土などの主に立川ローム第3層から第6層までの旧石器時代のナイフ形石器を中心に基礎データを紹介。3Dプリンタ出力による石器のレプリカを、手に取って、本物と比較しながら観察できるのも楽しい。 令和6年度第1回企画展「旧石器時代の井の頭池周辺 -武蔵野市発掘調査成果報告-」|武蔵野市公式ホームページ 【次回企画展】令和6年5月11日(土)から企画展「旧石器時代の井の頭池周辺 -武蔵野市発掘調査成果報告-」が始ま…

  • 岩鼻二子山古墳の石棺 東京国立博物館

    東京国立博物館に行くたびに、遠目で確認するバックヤードの石棺。立ち入り禁止エリアにあるので見学できないのが残念。群馬県高崎市の岩鼻二子山古墳の石棺(J-8278)、宮城県仙台市の一塚古墳出土の石棺(J-20055)、福井県福井市の小山谷古墳出土の石棺(J-5017)など。以前は、東洋館の軒下で野外展示されていた(埼群古墳館別館)。 国立研究開発法人 量子科学技術研究開発機構(QTS) 高崎量子応用研究所の『高崎研だより』第5号の「高崎研歴史探訪〜その1古墳編〜」によれば、岩鼻二子山古墳の石棺は「以前は、東洋館の軒下に展示されていたそうですが、現在はバックヤードで保管中とのこと。特別にお願いして…

  • 21世紀の森と広場 松戸市千駄堀

    松戸市博物館のある「21世紀の森と広場」を散策した。 二十一世紀の森と広場 昭和四十年代から昭和五十年代にかけて、当時の松戸市は人口が著しく急増し、都市の基盤整備も追いつかず、生活環境も悪化していく傾向にありました。二十一世紀に向かって、本市の将来像を明確にしておかなければ、取り返しのつかない状態になると感じておりました。こうした状況の中で、本市のほぼ中央に位置するこの千駄堀地区は、樹林地に囲まれた谷の入り組む独特な景観を構成しており、谷頭には湧水が多く見られ、植物も豊富で、小動物も数多く生息する変化に富んだ地域として存在しておりました。 「この地域の持つ固有の自然環境を守り育てていくこと自体…

  • 北郷遺跡 松戸市千駄堀

    松戸市博物館の企画展を鑑賞した後で、近くの北郷遺跡を訪ねた。 106 北郷遺跡 縄文時代の遺跡です。周辺からは縄文時代前期の浮島式、中期の阿玉台式、加曽利E式など土器のかけらが多数採集されています。これらの土器は今から約6000年前~1500年前頃のものです。 平成8年3月 松戸市教育委員会 フセギ? ここにも 安蒜家長屋門 安蒜家長屋門 長屋門は大名屋敷などに見られる部屋付きの門で、農村でも村役人など特定の農民のみに建築が許され盛んに造られました。この門は棟札から天保11年に建築されたことがわかります。 安蒜家長屋門(あんびるけながやもん) まつどの観光・魅力・文化|松戸市 にほんブログ村

  • たてたてあなあな―竪穴建物の世界 松戸市博物館

    松戸市博物館で開催された企画展「たてたてあなあな―竪穴建物の世界」を会期終了間際に鑑賞した。本展は、松戸市内で発掘された竪穴建物を中心に、出土した資料や写真から古代の竪穴建物を紹介するとともに、世界各地で記録された実際の竪穴建物の古写真・絵画パネルなどを展示する。竪穴建物は、地面を掘り下げて床を作った建物で、世界各地でみられ、日本ではおもに10,000年前(縄文時代)から1,000年前(平安時代)と長い間使われた。松戸市内でも、1,000を越える竪穴建物が発掘調査によって見つかっている。ちなみに 『竪穴建物』という言葉について「『竪穴(式)住居』という言葉が慣習的に使われてきたが、住居住居と想…

  • 金鑚神社 美里町下児玉

    美里町下児玉の金鑚神社に参詣した。 第62回伊勢神宮式年遷宮記念 金鑽神社 御由緒 美里町下児玉322 □御縁起(歷史) 下児玉は、身駒川(小山川)の左岸に位置する細長い形をした村である。明徳元年(1390)の藤原泰治寄進状に「児玉郡下児玉郷内浅羽方田壱町七段」が徳蔵寺の長老大勲に寄進された旨が載ることから、室町時代の初期には既に開発がなされていたことが推測され、また栃木県足利市の鑁阿寺(ばんなじ)が所蔵する永正十年(1513)銘の法華経第一巻の奥書に「下児玉勝輪寺当住持法印祐重」とあることから、かつては隣接する小茂田(こもだ)も下児玉の村域内であったことがわかる。 このように、下児玉は古い歴…

  • 若泉稲荷神社古墳 本庄市北堀

    本庄市の古墳巡りの続き。 西五十子古墳群の若泉稲荷神社古墳を訪れた。文献[1]によると「円墳、径38m、葺石」 若泉稲荷神社 所在地 本庄市北堀206 若泉稲荷神社の祭神は、倉稲魂命(ウカノミタマ)である。 伝来の口碑によれば、一ノ谷の合戦(1184)で源氏に従い平重衡を生捕った荘太郎家長 は、その館を現在の小字東本庄に構えたが、治承四年(1180)当社を勧請建立し、この地の鎮守としたと言われている。 その後、天正十八年(1590)小笠原信嶺が本庄氏に代って領主となったとき、旧領主勧請の古社であるので最も崇敬を加え、あらたに社殿をこの地に建立奉遷したと伝えられている。 昭和61年3月 埼玉県 …

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