続日本100名城に認定されている愛知県小牧市の小牧山城。道路を挟んだ向かいの小牧市役所のレストランから小牧山城を眺めながら食事ができるんです。早速、行ってみました。>>小牧市役所の地図>>小牧市役所ジェイズキッチンの詳細まずはアクセス小牧市
歴史初心者向けの分かりやすい愛知の戦国史跡と城巡り講座です
愛知県の戦国史跡や城を歴史初心者向けに詳しく解説したブログです。現地レビューや私の感想など、愛知県内の戦国史好きの方げ向けて情報発信しています。
豊川市立長沢小学校は江戸時代の長沢御殿跡だった!そして近くには長沢城址も!
豊川市に長沢という場所があります。江戸時代の東海道と現在の国道1号線が通る地区です。そこに豊川市立長沢小学校があるのですが、学校横に看板があります。これを見てみると以下の様に書かれています。長沢城跡と御殿 長沢城跡 長沢は東西三河の境目にあ
岡崎市桜形町(旧額田町)の日近城址は作手を拠点としていた奥平氏の一族・日近奥平氏の居城跡です。また付近で起きた日近合戦は徳川家康(松平元康)の初陣という説もあります。■日近城の住所■岡崎市桜形町一本柿>>日近城の場所の地図まずは地形日近城に
刈谷古城址は知多緒川城主・水野貞守が築いた西三河侵出拠点だった!
刈谷市の刈谷古城址は知多緒川城主・水野貞守が築いた西三河侵出拠点といわれ、刈谷城の前身の城と考えられています。■刈谷古城址の住所■刈谷市天王町>>刈谷古城址の地図知多から西三河へ戦国時代に現在の知多郡東浦町の緒川城を拠点に勢力を持っていた水
これから趣味で城巡り始める人へ私が勧める初級,中級,上級の巡り方と事例
『城歩きや城巡りを趣味で始めてみたいけど、何をどう巡ればいいか分からない』そんな声をよく耳にします。城(城跡)といってもその種類は様々。平城、平山城、山城、海城また国宝天守、現存点天守、模擬天守など、いろんなタイプや時代の城があるのです。そ
水野信元に滅ぼされた新海氏の阿久比町宮津城址(柳審城址)現地レビュー
知多郡阿久比町の宮津城址(柳審城址)は、水野信元に滅ぼされた新海氏の居城跡です。現在は秋葉神社と宮津公園になっています。■宮津城址(柳審城址)の住所■阿久比町宮津宮上ノ山3>>宮津城址(柳審城址)の地図尾張の織田と同盟を結んだ緒川城の水野信
半田市有楽町に残る水野信元の成岩砦址と榎本了圓の成岩城址の感想
半田市に戦国時代に攻防があった砦と城があります。それが有楽町付近に残っている成岩砦と成岩城です。どんな城と砦?現在の東浦町を拠点に知多半島統一を目論んでいた水野信元は、阿久比の新海氏を滅ぼし、久松氏と同盟を結ぶなど影響力を増し、南下を続け現
大久保彦左衛門忠教はなぜ天下の御意見番なのか?理由は徳川家康とのやりとり
大久保彦左衛門忠教(ただたか)と聞けば天下の御意見番というイメージですが、なぜこの人物が天下のご意見番なのか?その理由は彼の頑固な性格にあります。大久保彦左衛門は実在した人物ですが、庶民に人気があり江戸時代に講談や歌舞伎の題材にもなりました
水野信元が築き稲生政勝率いる亀崎水軍の拠点となった半田市亀崎城址
半田市亀崎町の亀崎城址は、戦国時代に緒川城の水野信元が築き、稲生政勝が亀崎水軍の拠点とした城です。現状は神前神社の裏山。■亀崎城址の住所■半田市亀崎町2丁目>>亀崎城址の地図城址への道神前神社の脇から亀崎城址に登る道があります。途中に物見台
天下の御意見番・大久保彦左衛門忠教の大久保陣屋跡が幸田町にあった!
額田郡幸田町の八百富神社は、かつて大久保彦左衛門忠教(ただたか)の大久保陣屋があった場所です。坂崎陣屋とも■大久保陣屋跡の住所■額田郡幸田町坂崎御屋敷10>>大久保陣屋の場所の地図大久保彦左衛門忠教といえば、徳川家康に意見したということで天
戦国時代の知多半島西部の土豪・花井氏の五輪塔がある知多市瑞雲山大祥院
知多市八幡普ケ脇の瑞雲山大祥院には戦国時代に知多半島西部に勢力を持っていた花井氏の五輪塔と花井播磨守信忠の墓があります。■大祥院の住所■知多市八幡普ケ脇21>>大祥院の場所の地図花井氏とは花井氏とは戦国時代に知多半島西部に勢力を持っていた土
西尾市幡豆町の中之郷古墳近くにあった欠城(磯城、幡豆城)とゆかりの地名
西尾市幡豆町にある中之郷古墳は5世紀後半の古墳といわれていますが、戦国時代やそれ以前、このすぐ側に城がありました。それが小笠原氏の欠城(磯城、幡豆城とも)です。■中之郷古墳の場所の住所■西尾市西幡豆町中野郷>>中之郷古墳の場所の地図今でも古
常滑市小倉町の蓮台寺は知多大野城主・初代の佐治駿河守宗貞の墓所があり、お江(崇源院:すうげんいん)ゆかりの史跡がる寺院です。■蓮台寺の住所■常滑市小倉町5丁目66>>蓮台寺の場所の地図初代大野城主の墓所蓮台寺境内にこんもりした塚があります。
なぜ元旦の岡崎城でうさぎ汁?徳川と世良田有親、松平親氏親子の逸話とは
年末に岡崎城へ行くと新年の準備が進められています。岡崎城は初詣も人気のスポットなのですが、そんな中、元旦にうさぎ汁が振る舞われているのです。なぜ岡崎城でうさぎ汁なのか?その理由は徳川家の前身・松平家初代にさかのぼります。長野でおもてなし松平
小牧・長久手合戦で本多忠勝と松平家忠が守った小牧市北外山砦跡
小牧市北外山(きた とやま)の城嶋稲荷周辺は、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いで織田・徳川連合軍だった本多忠勝、松平家忠らが守った砦跡です。小牧山城周辺には小牧・長久手の戦いで築かれた砦の跡が点在しています。この北外山砦もそのひと
知多大野城主の佐治氏によって慧可断臂図が奉納された常滑市斎年寺
常滑市の斉年寺は知多大野城主だった佐治氏四代の位牌所です。城巡りしてると城主の菩提寺や位牌所などもお参りすることが多いのですが、常滑市の斎年寺は城主の位牌所以外にも、現在国宝に指定されている慧可断臂図(えかだんぴず)は奉納された寺でもありま
愛知、名古屋の城歩きの会・愛知ウォーキング城巡りクラブで日本続100名城に認定されている新城市の古宮城に行った時のこと。古宮城は見どころが多い城址なのですが、近くに興味深い史跡というか、見どころがあります。それが矢作川と豊川の分岐点です。>
整備復元が進められている小牧市の小牧山城(続日本100名城)には、小牧山城を取り巻いていた土塁の断面展示があります。これを見ると土塁の中を見ることができるのです。>>小牧山城の土塁断面展示の地図まずは周辺の地層ところでこの断面展示の土塁を見
小牧山城南側の復元土塁と堀にはカラクリがあった!上下から見る理由とは
愛知県小牧市の小牧山城(続日本100名城)は近年、発掘調査がどんどん進められています。その中で天正十二年(1584)の小牧・長久手合戦時の織田・徳川連合軍によって築かれたといわれる堀と土塁が南側(ドンキや小牧市役所側)に復元されました。パッ
小牧市の小牧山城は織田信長が美濃を攻める時、清洲城から居城を移した城です。その時に織田信長の館も築かれたと考えられていましたが、じつはよくわかっていませんでした。しかし近年の発掘調査で織田信長の居館があったと思われる場所が小牧山のふもとから
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続日本100名城に認定されている愛知県小牧市の小牧山城。道路を挟んだ向かいの小牧市役所のレストランから小牧山城を眺めながら食事ができるんです。早速、行ってみました。>>小牧市役所の地図>>小牧市役所ジェイズキッチンの詳細まずはアクセス小牧市
西尾市西浅井町にあった浅井西城は徳川家康の祖父・松平清康の弟・松平康孝の居城跡です。現在は民家になっていますが、濠(堀)や土塁、また詰城址が残っています。>>西浅井城の地図土豪屋敷跡土塁西浅井の丘陵には東西二つの城があり、西古城を『清康御弟
江南市布袋駅の東側(マックスバリュ江南布袋店)向かいに織田信長と側室の吉乃(きつの)、そして子どもたちの銅像が建っています。>>銅像の場所の地図説明板にはなんて書いてある?信長と生駒の息女吉乃とこどもたち戦国時代信長は清洲城から馬で生駒屋敷
名古屋市中川区の助光(すけみつ)城址は、織田信長に仕えた福留将監の居城跡といわれています。現在は土之宮神明社に石碑があります。>>土之宮神明社(助光城址)の地図土之宮神明社は天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭る神明社と埴安姫神(はにやすひ
豊田市広幡町の広見城址は戦国時代に織田信長に仕えた中条秀正(ちゅうじょう ひでまさ)の居城です。この地は三河国ですが中条氏は尾張の織田氏に仕えていました。その中条氏の居城だった広見城址は山城ですが、地元保存会の方々によって整備されています。
生田城(しょうだじょう)について。三河国二葉松には城主について酒井彦四郎、石川又四郎、生田六左衛門と記述があります。浅野文庫蔵・諸国古城之図にも記載がある城で、出入口二ヶ所に枡形が用いられ、性格的にはどこかのお城の出城的なものだったそうです
織田信長の優れたところはいくつもありますが、心理作戦、つまり心理テクニックにも長けた人物でした。以下は信長の一代記・信長公記にある信長のカケヒキのエピソード。居城の引っ越し永禄三年(1560)駿河・遠江(するが:とおとうみ)(静岡県)の戦国
蒲郡市上中島の中島城址は今川氏に仕えた土豪・岩瀬氏の居城跡です。>>中島城址の地図中島城址永享十二年(1440)、岩瀬治部左衛門尉忠家が築城した館城。石垣・城跡は見当たらないが、上中島交差点周辺より北側の一段高い平地を今も屋敷跡と呼んでいる
織田信長に仕えた4人の家臣の評価に次のようなものがあります。『木綿藤吉 米五郎左 掛かれ柴田に 退き佐久間』(もめんとうきち こめごろうざ かかれしばたに のきさくま)これは江戸時代の翁草(おきなぐさ)に収録された羽柴秀吉(後の太閤・豊臣秀
豊田市博物館は豊田市の歴史をまとめた博物館です。豊田市といえばトヨタ自動車の本社があることで有名でクルマの街というイメージが強いです。でも徳川氏の前身である松平氏の発祥の地でもあり、戦国時代の城跡や江戸時代の史跡も点在しています。今回は私が
豊田市神殿町の大桑城址はこの地の土豪・河合弥十郎の居城跡です。歴史を振り返ると徳川家康や甲斐の武田軍も攻め落としています。>>大桑城址の場所の地図現地看板より豊田市史跡 大桑城跡大桑城は、巴川と大桑川の合流地点南方の高所に築かれた中世の山城
設楽原古戦場には深溝城主・松平伊忠(まつだいら これただ)の戦死地といわれる場所があります。>>松平伊忠戦死地看板の説明松平伊忠戦死の地鳶ヶ巣山砦の奇襲に勝利すると、豊川(大川)を渡り武田軍を追撃中に逆に武田軍に挟まれ討ち死にした。この近く
新城市八束穂(やつかほ)の清井田武田勝頼本陣跡は、天正三年(1575)に長篠城を包囲していた武田勝頼が織田の・徳川連合軍との戦いに備えて設楽原に移動する時、最初に陣を置いた場所です。>>清井田武田勝頼陣跡の地図武田軍の本陣を移動医王寺山に本
新城市寒狭峡は天正三年(1575)の長篠設楽原の戦いで、退却する武田勝頼を追う敵を食い止めた笠井肥後守満秀が、瀧川助義と一騎打ちした場所といわれています。>>寒狭橋跡の場所の地図笠井満秀とは南部宗秀の子として生まれた満秀は河西氏、笠井氏を名
新城市出沢には武田四天王のひとり馬場信房が討ち取られたと伝わる場所があります。この周辺は武田軍の敗走ルートといわれ、多くの兵士が討ち取られた場所でもあります。>>馬場信房の塚の地図馬場信房の塚馬場美濃守信房(信春)は武田三代に仕えた智謀の老
天正三年(1575)の長篠設楽原の戦いで戦場の一番南端と考えられる場所が、徳川家臣の大久保忠世、忠佐兄弟の陣がある新城市川路です。>>大久保兄弟陣跡の地図屏風と違う南端勝楽寺前激戦地の場所はどこにあるのかお伝えします。現在の設楽原古戦場の再
新城市則本の鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)は、天正三年(1575)の長篠設楽原の戦いで長篠城を包囲していた武田軍の5つの砦の中心だった場所です。>>鳶ヶ巣山砦の場所の地図5つの砦とは天正三年(1575)500人が籠もる長篠城を武田勝頼は1
新城市川路には天正三年(1575)の長篠設楽原合戦で、川から長篠城を脱出した鳥居強右衛門が上陸したと考えられる場所があります。>>鳥居強右衛門上陸地強右衛門の脱出ルート兵500人が籠もる長篠城は1万5千人の武田軍に包囲され兵糧庫まで落とされ
新城市川路には天正三年(1575)の設楽原の戦いで亡くなった高坂昌澄の墓があります。高坂昌澄の墓昌澄は武田四天王といわれた高坂弾正忠昌寅(高坂昌信)の子として、山梨県甲府に生まれ設楽原の戦いには二十五才の若さで、兵二千を率いる武将として戦っ
新城市設楽原古戦場には、かつて武田信玄に仕えた軍師といわれる山本勘助晴幸の息子・山本勘蔵信供の墓があります。>>山本勘蔵信供の墓の地図山本勘助晴幸とは武田信玄に軍師として仕えたといわれる山本勘助晴幸は静岡県、または愛知県三河地方の生誕といわ
田原市野田町の運昌寺は世話になった徳川家康がお礼を奉納したという伝説が残る寺院です。>>運昌寺の場所の地図どんな伝説?雲昌寺に伝わる話です。徳川家康が夜明け前に運昌寺を訪れました。寺の老婆がもてなすと、家康はお礼がしたいので望むものは何か?
徳島県の阿波踊りは戦国武将・蜂須賀家政がキッカケで生まれた踊りという説があります。なぜ戦国時代の人物がキッカケなのか?蜂須賀家政にまつわる話をまとめてみました。阿波踊りの始まりとは蜂須賀家政の父は豊臣秀吉の腹心として有名な蜂須賀小六正勝。そ
田原市山田町の吉祥山泉福寺は天正十年(1582)の本能寺の変後、伊賀越えで三河に着いた徳川家康が埋蔵金を埋めたという伝説があります。天台宗の寺院。>>泉福寺の地図自然すぎる参道泉福寺への参道は三河湾国定公園になっています。そう言えば聞こえは
岡崎市梅園町虎石にある誓願寺は徳川家康や松平氏にゆかりが深い神社です。城巡りや史跡巡りで訪れる時のポイントを3つあげてみます。松平信貞が勧請した諏訪神社境内にある諏訪神社は大永三年(1523)に当時の岡崎城主だった松平信貞が勧請したものとい
戦国時代に現在の蒲郡市に勢力を持っていた鵜殿氏一族の菩提寺を調べてみました。鵜殿氏には本家・上ノ郷鵜殿家といくつかの分家があります。まずは本家・上ノ郷鵜殿家の菩提寺は長応寺でしたが、上ノ郷城が落城した時に燃えてしまいました。その跡に建つのが
愛知県蒲郡市の市章は江戸時代にこの地を治めていた竹谷(たけのや)松平家の家紋・丸に一つ引き両がモデルになっています。その竹谷松平氏が江戸時代に政治を行っていた場所が蒲形陣屋です。この記事では戦国時代から幕末まで蒲郡市を治めた城や陣屋の歴史を
常滑市正住院は天正十年(1582)の本能寺の変が起こった時、徳川家康一行が伊賀越えで上陸した場所といわれている寺院です。>>正住院の地図【現地案内看板】徳川家康公腰掛けの石 天正十年(1582)六月二日、徳川家康公は酒井への遊覧を終え、織田
津島市津島神社の創建は古く、伝承によればでは欽明天皇元年(540年)といわれています。戦国時代も尾張国内ではもちろん、近隣諸国にも影響があった神社のひとつです。>>津島神社公式サイト津島神社は寄進された建物も多く、戦国時代や江戸時代に興味が
東海市荒尾町金山にあつた平島城址は、水野成政と池田恒興ゆかりの城です。>>平島城址の地図【現地看板より】平島城跡(荒尾町金山)平島城は『尾張志』、『張州府志』によれば、「水野藤助之(これ)に居る」とあるが、何時、誰によって築城されたのかは定
常滑(とこなめ)市に残る常滑城址は緒川城(東浦町)の水野氏の一族である常滑水野氏の居城跡です。>>常滑城の地図【現地案内看板より】 戦国時代の初め小河地方(東浦町緒川)の豪族、水野氏が常滑に進出し、此の地に城を築いた。その規模は徳川時代の古
東海市大田町城山の木田城址はこの地の土豪・荒尾氏と池田恒興、池田輝政が城主となった城跡です。現在では住宅地になっています。>>木田城址の地図池田恒興の尾張時代の城跡だった木田城。宅地開発が進んで限られた遺構しか残っていませんが、城巡りとして
豊川市西豊町に残る豊川城址は、鎌倉時代、大江入道定厳の屋敷があった場所で江戸時代には水野忠直の領地となりました。>>豊川城址の地図三河国二葉松に記載がある城跡で、鎌倉時代に大江入道定厳の屋敷がこの地にありました。大江定厳は鎌倉街道豊川宿があ
豊川市小坂井町にある龍徳院は徳川家康(当時は徳川家康)が吉田城を攻めるための居転とした砦跡です。>>糟塚砦跡の地図糟塚砦現在の龍徳院の境内全部がこの砦の跡であり、堀の内部の面積は約三五アールある。堤や堀はその当時のものであるこの砦は徳川家康
愛知県あま市の萱津(かやづ)古戦場は、織田信長が清洲城主になる前、敵だった清洲城の坂井大膳との萱津の戦いがあった現場です。現在では石碑が建立されています。>>萱津古戦場の石碑の地図現地の解説天文二十年(1551)八月十六日当時、主人筋の斯波
名古屋市中村区岩塚町に残る岩塚城址は戦国時代に尾張国の守護だった斯波氏の一族・吉田重氏の居城跡です。現在は遍慶寺になっており門前に岩塚城趾の石碑が建っています。>>岩塚城趾の地図岩塚城の歴史岩塚城跡足利の頃、斯波氏の一族吉田治郎左衛門重氏こ
名古屋市西区の大野木城址は赤母衣衆として織田信長に仕えた塙直政(原田直政)の尾張時代に居城跡です。現在は福昌寺になっています。>>大野木城址の地図原田直政とはもとは塙直政。大野木城主で織田軍の赤母衣衆として各地を点線。信長から九州の名族・原
名古屋市名東区一社の貴船神社と神蔵寺は柴田勝家の祖父である柴田勝重の居城跡といわれている場所です。>>一色城址の地図柴田氏は越後国蒲原郡新発田(かんばらぐん しばた)の発祥といわれる柴田氏は、尾張にやってきて斯波氏に仕え、明応三年(1494
名古屋市瑞穂区に織田信長の弟の織田信照ゆかりの城が3つあります。それが中根南城、中根中ノ城、中根北城です。信照は織田信秀の十男もしくは九男といわれており、戦国時代に現在の名古屋市瑞穂区周辺に勢力を持っていた中根忠貞の養子となり中根姓を名乗り
名古屋市北区安井1丁目に残る安井城址は豊臣家五奉行筆頭の浅野長政と豊臣秀吉の妻・北政所(きたのまんどころ:おね)の養父だった浅野長勝の居城跡です。今回のレビュー記事は少し混乱気味なので整理しておきます。まず名古屋市北区安井1丁目にある、お福
名古屋市北区にある名古屋市立金城小学校は田幡城跡に建っています。田幡城とは織田信長の織田家に仕えた家老・林秀貞(林道勝)の一族の城です。>>田幡城址の場所の地図美濃の斎藤軍も来た城桶狭間合戦の6年前の天文二十三年(1554)、知多半島に進出