chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
ゼロからはじめる愛知の戦国史跡と城巡り講座 https://sengokushiseki.com/

歴史初心者向けの分かりやすい愛知の戦国史跡と城巡り講座です

愛知県の戦国史跡や城を歴史初心者向けに詳しく解説したブログです。現地レビューや私の感想など、愛知県内の戦国史好きの方げ向けて情報発信しています。

ひで
フォロー
住所
愛知県
出身
未設定
ブログ村参加

2017/01/11

arrow_drop_down
  • 大府市の市名の発祥は湧き水だった?!七津太夫ゆかりの桃山町大清水館跡

    大府市桃山町1丁目の大清水館は、大府市の市名の由来となる七津太夫の屋敷があった場所です。現在では大清水地蔵という延命地蔵尊が建立されています。>>大清水館の場所の地図どんな由来?現地案内看板には以下の様に書かれています。 大清水地蔵様の由来

  • 豊田市則定椎城は遺構がよく分かり巡りやすいおすすめの山城!

    豊田市則定(のりさだ)町に残る則定椎(のりさだ しい)城は戦国時代にこの地に勢力を持っていた鈴木氏の居城です。三河国二葉松には鈴木十内という人物が城主として記されています。私的にはこの則定椎城は山城好きの方におすすめです。その理由は遺構が分

  • 城巡りが好きな人が街道と城下町を知るとなぜもっと楽しめるのか?

    城が好きになり城巡りをしたいな!と思ったら、城についていろんな事を勉強したり、調べたりします。私が思うのは城を巡る時に街道と城下町の知識があれば、同じ城でももっと楽しむことができると思います。その理由は街道と城下町のウンチクは城に直接関わる

  • 緒川城、刈谷城主・水野家の家紋が沢瀉紋を使う理由が残る東浦町地蔵院

    知多郡東浦町の地蔵院はかつての緒川城の近くにある寺院。水野家が沢瀉紋(おもだかもん)を家紋として使う由来が残る寺です。地蔵院は緒川城ふもとを通る師崎街道すぐの場所にあります。戦国時代に活躍した水野信元や水野勝成、そして徳川家康の生母も水野氏

  • なぜ城巡り歴史史跡探訪は車より歩くのがオススなのか?健康にも関わる3つの理由

    私は20年以上、趣味の城巡り歴史史跡を訪ね歩いています。そこで思うのが城や史跡に行くとき、できるだけ歩くようにしてるのです。これは私が所属する愛知県の歴史の会や城巡りウォークでも同じこと。なぜ車でどんどん巡るよりも歩くほうが良いのか?そのメ

  • なぜ犬山城は城下町に稲置街道を通したのか?考えられる2つの理由

    私が講師を務める栄中日文化センターの城巡り講座で犬山市の犬山城へ行ってきました。犬山城といえば天守が国宝に指定されており、日本100名城にも認定されている城ですが、城下町もたくさんの見どころがあります。さて、城巡りをしていて城下町に街道が通

  • 名古屋市熱田村砦は源行家(新宮十郎)が築いたといわれる砦跡

    名古屋市熱田区の熱田村砦は源平合戦の頃、源行家(新宮十郎)が築いた砦といわれています。現在では遺構は残っておらず沢上2丁目の神明社付近が砦跡とのこと。>>熱田村砦の地図【Q】源行家とは 本名は義盛。甥の源頼朝に平家打倒の決起を促した。その後

  • 刈谷市半城土町に残る半城土古城跡は高低差と土塁が残っていた!

    刈谷市半城土(はじょうど)町に残る半城土城跡は稲垣雅楽助(うたのすけ)という城主の城です。現在は真宗大谷派の寺院・勝宝寺になっています。半城土城については、いつの頃の城なのか?また詳細な歴史も分かっていません。>>半城土城の場所の地図現地看

  • 織田信長が桶狭間合戦で戦勝祈願をした名古屋市天白区秋葉山慈眼寺

    名古屋市天白区の秋葉山慈眼寺は永禄三年(1560)の桶狭間合戦時、織田信長が戦勝祈願をした寺といわれています。>>秋葉山慈眼寺の場所の地図名古屋市教育委員会の看板秋葉山慈眼寺 曹洞宗。当寺縁起によれば、大同四年(809)京都御所炎上の折鎮火

  • 松平氏初代の松平親氏が築いたといわれる豊田市松平城址の見どころ

    豊田市松平町の松平城址は徳川の前身・松平氏の初代当主である松平親氏が松平郷に築いた城です。別名を郷敷城といい、松平郷を守る入口にある松平太郎左衛門家の居城です。駐車場松平城は車で訪れるのが便利です。国道301号線沿いに駐車場があります。松平

  • 岡崎市井ノ口砦跡は額田郡一揆での一揆方の拠点になった場所

    岡崎市井ノ口砦跡は額田郡一揆(ぬかたごおり いっき)において一揆方の拠点になった場所です。現在は岡崎市消防本部 中消防署北分署近くの稲荷神社になっています。>>井ノ口砦跡の場所の地図額田郡一揆とは額田郡一揆(ぬかたごおり いっき)とは室町時

  • 新城市作手の川尻城は関東から来た奥平貞俊がこの地で始めて築いた城

    新城市作手の川尻城址は関東からこの地へとやってきた奥平貞俊が奥平氏の城として始めて築いた拠点です。応永31年(1424)頃なので応仁の乱前の城です。>>川尻城址の地図看板川尻城址 天授年間(1375~81)、奥平貞俊は母方の親戚で新城市作手

  • 2026年大河・豊臣兄弟!の主役豊臣秀長生誕地の中村公園へ電車でアクセス方法

    令和八年(2026)NHK大河ドラマ・豊臣兄弟!の主役である豊臣秀長と兄の豊臣秀吉の生誕地は現在の名古屋市中村区にあった尾張中村といわれています。現在では中村公園として整備され、その中に豊臣秀吉を祀る豊国神社があります。この記事では電車で豊

  • 羽柴秀吉の本陣近くを固めた小牧市内久保砦跡

    小牧市内久保砦跡は天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いでの羽柴軍の砦のひとつで蜂屋頼隆、金森長近らが3,000人の兵で守ったといわれています。現在は三明神社になっており、犬山市の内久保砦の旗が立っています。>>内久保砦の場所の地図内久

  • 新城市作手に残る奥平貞久の墓といわれる武士塚と妻の姫塚

    新城市作手の三河亀山城の近くに城主と妻の墓といわれる塚が残っています。>>姫塚の地図姫塚 亀山城二代城主奥平貞久の夫人の墳墓。夫人についての詳細は不明であるが嫡男・貞昌以下六男の母として奥平氏後半の基礎を築いた名夫人である。村人はその徳を偲

  • 岩倉城主だった伊勢守家・織田信安と妻の墓がある岩倉市誓願寺

    岩倉市下本町の誓願寺は岩倉城主だった織田信安と妻の墓がある寺院です。信安は織田信長に抵抗していた同族ですが、後継者問題で息子・信賢に追放されてしまいます。その信賢も浮野合戦で信長に敗れ、その後岩倉城も落城。伊勢守家岩倉織田氏は滅亡しました。

  • 新城市作手の塞之神城を築いたのは米福長者か奥平氏か?現地に行ってみた感想

    新城市作手清岳の塞之神(さいのかみ)城址は伝説の三長者のひとり・米福長者が築いたともその後の土豪・奥平氏が築いたともいわれる城跡です。>>塞之神城址の地図現地看板塞之神城址所在地 新城市作手清岳字本城立 地 山頂・標高628m(比高80m)

  • 小牧市宇田津砦(歌津砦)は徳川譜代の松下親乗、松平忠頼が守った砦だった

    小牧市東3丁目の宇田津砦は、天正十二年(1584)の小牧・長久手合戦で織田・徳川連合軍の松下親乗、松平忠頼が守った砦です。史蹟 宇田津砦趾 此の地は昔 宇田津という鞍作りの名工が居住していましたが、天正小牧・長久手の役、当時徳川・北畠連合軍

  • 犬山城とセットで見たい!城とまちミュージアムのジオラマとは

    日本100名城にも認定されている犬山市の国宝・犬山城に行った時にセットで訪れたいのが城下町にある城とまちミュージアム。ここには犬山城の歴史のほか、すごく分かりやすい犬山城と城下町のジオラマがあります。>>城と町ミュージアム 犬山観光情報

  • 新城市文珠山城は武田軍に脅された奥平氏が一晩で築いたので一夜城といわれる城

    新城市作手の文殊山城(もんじゅやまじょう)は当時、亀山城を拠点にした奥平氏が築いた城です。合戦のためだけに築かれたので文珠山砦(もんじゅやまとりで)ともよばれています。>>文珠山城の場所の地図現地看板文殊山城跡 この城跡は、亀山城主の奥平氏

  • 丹羽長秀の屋敷跡を砦に改修した小牧市蟹清水砦跡は地形と街道が分かりやすい

    小牧市小牧4丁目の蟹清水砦跡は天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いで織田・徳川連合軍の砦として利用された場所です。江戸時代には尾張藩の御殿が建てられました。>>蟹清水砦跡の地図蟹清水砦跡 蟹清水砦は、織田信長による小牧山への築城(小牧越

  • 小笠原諸島を発見した小笠原貞頼は西尾市幡豆寺部城と関係があった!その詳細

    東京の南の島・小笠原諸島は戦国時代に現在の愛知県西尾市幡豆町の土豪・小笠原氏の一族が発見されたという説があります。それが理由で小笠原諸島という名前になったとか。ではなぜ西尾市幡豆町の土豪が有名な小笠原諸島を発見したのか?詳細を簡単に説明しま

  • 鳥居強右衛門勝商と妻の墓がある新城市作手の甘泉寺

    新城市作手の甘泉寺には長篠設楽原の戦いで活躍した鳥居強右衛門と妻の墓があります。また境内のコウヤマキは国指定天然記念物です。■甘泉寺の住所■新城市作手鴨ヶ谷門前>>甘泉寺の場所の地図もしかすると参道は…甘泉寺の駐車場を出て参道を登ると何やら

  • 羽柴秀吉自ら指揮をした小牧市外久保砦(久保山砦)は高低差と眺望がスゴい!

    小牧市久保一色の外久保砦跡は天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いで羽柴軍が築いた砦のひとつです。現在は熊野神社になっています。>>外久保砦の場所の地図外久保砦の配置場所外久保砦は秀吉本陣だった楽田城(犬山市)の前方を守る場所にあります

  • 新城市作手に残る米福長者の館跡や酒粕を捨てた塚などゆかりの地を散策

    新城市作手歴史民俗資料館に伝説の三河三長者のひとり、米福長者の説明があります。長者の伝説 平安時代の終わりごろから、地方の豪族の中にも豊かな富をもった長者があらわれます。作手には米福(よねふく)・荒原(あわら)・本宮(ほんぐう)の三長者がお

  • 東西2つの砦があり羽柴軍の三好秀次、丹羽長秀が守った小牧市小松寺山砦跡

    小牧市小松寺山砦は天正十二年(1584)の小牧・長久手合戦で羽柴軍の三好秀次、丹羽長秀が守った砦です。>>小松寺山砦の地図 小松寺山砦跡 天正十二年(1584)の小牧・長久手の合戦で、秀吉方の砦が築かれた。小松寺山一帯に、砦は二か所あったと

  • 永井直勝の側室・由利姫(百合姫)の祠が残る大河内松平氏の安城市根崎陣屋跡

    安城市根崎町の根崎陣屋は、江戸時代に現在の安城市南部を治めるために築かれた陣屋跡。現在は地元で遺跡の丘と呼ばれ、永井伝八郎直勝の側室・由利姫(百合姫)の祠があります。>>根崎陣屋の場所の地図現地説明看板 根崎陣屋跡 慶安三年(1650)、時

  • 小牧長久手合戦で羽柴方の堀秀政、蒲生氏郷らが守った小牧市田中砦跡

    小牧市東田中に三ツ山(みつやま)古墳という古代の古墳がありますが、ここは天正十一年(1583)の小牧長久手の戦いで、羽柴秀吉軍の田中砦となった歴史があります。■田中砦の住所■小牧市東田中>>田中砦の場所の地図前線近くの砦田中砦の場所を見てみ

  • 福釜松平家の拠点・安城市福釜城址と菩提寺の芳泉寺そして地名の由来の釜ヶ淵

    安城市福釜(ふかま)町は、福釜松平家が城を築いて拠点にした地です。福釜松平家は松平五代当主・松平長親の次男・親盛を祖とした家で松平家一族でも創立は後のほうです。福釜城址福釜松平氏の拠点だった福釜城は現在の安城市福釜町蔵前あたりにあったといわ

  • 小牧・長久手合戦で日根野備中守弘就が守った羽柴軍の二重堀砦跡

    小牧市二重堀町の二重堀砦は天正十一年(1583)の小牧・長久手の戦いの時、羽柴軍の日根野弘就(ひねの ひろなり)が兵力約2,000で守備した砦です。砦の規模は東西約100m、南北約70mほど。羽柴軍が長久手敗戦後、撤退命令が下され、それに対

  • 西尾市寺津城址は吉良氏、徳川氏に仕えた大河内氏の拠点の城

    西尾市寺津町の寺津城址は戦国時代に吉良氏、徳川氏に仕えた大河内(おおこうち)氏の拠点だった城です。また「知恵伊豆」こと老中・松平信綱の大河内松平家は寺津城の大河内氏から分かれた一族です。◆徳川家康の祖母も大河内氏?絶世の美女で知られる徳川家

  • 私が愛知や名古屋の戦国史,城の講座で講師をする時に気をつけている3つとは

    これは令和五年(2023)に愛知県常滑市で開催された、にっぽん城まつりの城熱ワークショップで、私が愛知県の徳川家康ゆかりの城や史跡に関する講座を行った時の画像。この時は席の数も限られており、立ち見の方も多かったです。さて、私が愛知県や名古屋

  • 刈谷市小垣江町には3つの城があった!地内城、須賀城、新庄城の場所と感想

    刈谷市小垣江町の3つの城址レビューです。まずは小垣江地内(ちない)城。>>小垣江地内城の場所の地図 誓満寺 むかし、『荒井』に2つの堂が向かい合って建っていて、『どうむけ』(堂向い)と呼ばれていた。永正年中(1504~20)、戦いに敗れた長

  • 安城市丈山苑は城跡だった!石川丈山邸の遺構と城址ポイントはここ!

    安城市和泉町の丈山苑(じょうざんえん)は、戦国武将で文人である石川丈山(いしかわ じょうざん)の生誕地です。現在は提案で有名な丈山苑ですが松平家、徳川家に仕えた譜代家臣・石川氏の館跡なのです。つまり土豪の館城です。この記事では残る遺構や城巡

  • 長久手合戦で池田恒興を討った永井伝八郎直勝の東端城址

    安城市東端町に残る東端城址は小牧・長久手の戦いで池田恒興を討った永井伝八郎直勝の居城跡です。現在は城山稲荷大明神という神社になっています。>>東端城址の地図現地の石碑 東端城と城主永井伝八郎直勝 東端城は天正八年(1580)大浜郷にて羽城(

  • 新城市石橋城址は奥平貞勝への謀反で成敗された奥平弾正繁昌の館城の跡

    新城市の道の駅・つくで手づくり村の道路を挟んだところにある慈昌院は、戦国時代に作手一帯を治めていた奥平氏の一族・奥平繁昌(しげまさ)の石橋城の跡です。>>石橋城址の地図現地案内看板 石橋城址(弾正屋敷) 石橋城は、奥平二代貞久の二男、弾正久

  • 松平親氏が領民のために架けたといわれる豊田市林添町の伝親氏石橋の場所と感想

    豊田市林添(はやしぞれ)町の伝親氏石橋(でん ちかうじ いしばし)は、徳川家康の先祖である松平親氏が領民のために架けた橋といわれています。松平親氏とは誰?松平親氏(まつだいら ちかうじ)とは、現在の豊田市松平郷で発祥した松平家の初代当主。も

  • 松平親氏が討った林添の土豪・薮田源吾忠元の林添城址と供養塔が残る晴暗寺

    僧から還俗して武士になった松平氏初代当主・松平親氏は、松平郷近隣の土豪を切り従えるために勢力を拡大しますが、まず最初に戦うことになったのが林添(はやしぞれ)城主の薮田源吾忠元(やぶたげんご ただもと)です。林添城址その薮田源吾忠元の居城だっ

  • 名古屋市南区鳥栖城址はこの地の土豪だった成田久左衛門義次の居城跡

    名古屋市南区の鳥栖城址は戦国時代に名古屋の東南部に勢力を持っていた山口氏の重臣・成田義次の居城と伝わる城跡です。現在は成道寺になっています。■鳥栖城址の住所■名古屋市南区鳥栖2丁目>>鳥栖城址の地図記録に残る成田氏成田氏の記録として次の様な

  • 徳川家康を桶狭間合戦と伊賀越えで助けた常滑市大野町の東龍寺

    常滑市大野町の巌松山 東龍寺は戦国時代に徳川家康を2度助けた寺です。家康のピンチを語るうえでも重要な東龍寺。その詳細をチェックしてみます。■東龍寺の住所■常滑市大野町8丁目>>東龍寺の場所の地図現地説明看板 徳川家康と東龍寺 東龍寺の歴史は

  • 日置城址は平安時代の日置荘の拠点で戦国時代は織田寛定、織田忠寛の居城

    名古屋市中区松原1丁目の日置城址は平安時代から続く城で戦国時代には織田寛定、織田忠寛の居城となりました。現在は松原緑地になっています。■日置城址の住所■名古屋市中区松原1丁目>>日置城址の場所の地図現地看板 松原緑地 この場所は古くから人々

  • 桶狭間合戦で落城した名古屋市緑区鷲津砦跡の散策レビュー

    名古屋市緑区大高町の鷲津砦は桶狭間合戦での織田軍の砦です。中古日本治乱記によれば守将は織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子。兵数は520騎という記載があります。朝比奈泰朝率いる2,000の軍勢に攻められ陥落しました。>>鷲津砦の詳細 ウィキペデ

  • 本光寺はもとこの場所にあった!幸田町向野首塚(墓所)

    額田郡幸田町深溝(ふこうず)西向野にある向野墓所(むかいのぼしょ:向野首塚とも)は、深溝松平家の菩提寺である本光寺がもとあった場所。深溝松平家初代・松平忠定と二代・松平好景の墓があります。■向野墓所の住所■額田郡幸田町深溝西向野>>向野墓所

  • 佐久間信盛が笠寺台地北端に築いた名古屋市南区山崎城と山崎砦

    名古屋市南区の笠寺台地北端に織田信長に仕えた佐久間信盛が築いた城と砦があります。それが山崎城址と山崎砦跡です。まず山崎城址は安泰寺になっています。>>安泰寺の地図城を偲ばせるもの安泰寺をぐるっと周ると城跡の雰囲気が残っています。まず東側の道

  • 松平氏の分家でも古い竹谷松平家の居城・蒲郡竹谷城(竹ノ谷城)

    蒲郡市竹谷城(竹ノ谷城)は、徳川家の前身・松平家の分家である竹谷松平家(竹ノ谷松平家)の居城跡です。■竹谷城址の住所■蒲郡市竹谷町泉17−3>>竹谷城址の場所の地図分家筆頭といわれる理由竹谷松平氏は数ある松平家の分家の中でも筆頭といわれる事

  • なぜ慧可断臂図は常滑市斎年寺に伝わったのか?知多大野城主佐治氏とのつながり

    常滑市大野町の斎年寺(さいねんじ)は、知多大野城主・佐治氏の菩提寺です。ここには雪舟の水墨画・慧可断臂図(えかだんぴず)が伝わり、それが現在では国宝になって、京都国立博物館に移されています。※斎年寺に慧可断臂図はなく、写真パネルの展示です。

  • 田口成富が築き牧野成時(古白)の居城にもなった豊川市牧野城址

    豊川市牧野城址は戦国時代初期に東三河に勢力を広げた牧野成時(牧野古白)が拠点にするために築いた城のひとつです。■牧野城址の住所■豊川市牧野町丁畑>>牧野城址の場所の地図現地看板 牧野城跡 豊川市指定文化財 平成七年二月十三日指定 牧野城は、

  • 織田信長の生母・土田御前の出身地といわれる清須市土田レビュー

    織田信長の生母は土田御前(つちだごぜん)という女性。この人は織田信秀の正室なのですが、詳細がよく分かっていません。戦国時代の女性は記録が残っていないことが多いのですが、あの織田信長の母でも例外ではないのです。そこで今回、信長の母・土田御前の

  • 三河国宝飯郡を領し深溝松平家の祖となった五井松平家の居城・蒲郡市五井城址

    蒲郡市五井町の五井城址は松平元康(徳川家康)を支えた五井松平氏の居城跡です。また深溝松平氏は五井松平氏から分かれた家です。■五井城址の住所■蒲郡市五井町中郷>>五井城址の場所の地図三代・信光の息子が始祖五井松平家の始まりは松平家三代目当主・

  • 豊川市瀬木城址は牧野成時(牧野古白)が牧野城につぐ居城として築いた城

    豊川市瀬木町の瀬木城址は牧野成時(しげとき:牧野古白)が牧野城につぐ居城として築いた牧野氏の城跡です。現在では神明社になっています。■瀬木城址の住所■豊川市瀬木町郷中>>瀬木城址の場所の地図まずは看板 瀬木城跡 瀬木城は、明応二年(1493

  • 知多大野城から移転した山門と惣門が残る常滑市斎年寺

    愛知の城や戦国史跡を歩くサークルで常滑市の斎年寺(さいねんじ)に行って来ました。斎年寺には同じ常滑市の知多大野城の山門と惣門が移築されています。なぜこの場所に移されたのか?それには理由があったのです。■斎年寺の住所■常滑市大野町9丁目>>斎

  • 戸田宗光が築き今川、武田にも攻められた豊橋市二連木城址

    豊橋市仁連木町の二連木城址は戦国時代初期に渥美半島に勢力を広げた戸田宗光が築いた城です。東三河侵出を目論む今川、武田にも攻められた歴史があります。二連木城址は現在、大口公園と豊橋市仁連木老人福祉センターになっていますが、高低差をはじめ曲輪、

  • JR尾頭橋駅の由来は武将と城だった!尾頭義次(源義次)と尾頭城址

    名古屋市熱田区新尾頭1丁目の住吉神社は平安時代の武将・尾頭義次(源義次)の城があった場所といわれています。この人物はこの周辺の尾頭(おとう)という地名の由来にもなっているのです。尾頭義次(源義次)とは保元元年(1156)に朝廷で後白河天皇(

  • 永正年間に築かれた伊庭氏の居城で戸田宗光が奪った豊橋市大崎城址

    豊橋市大崎城址は伊庭氏が永正年間(1504~21)に築き、その後、渥美半島に勢力を伸ばした戸田宗光の居城です。現在は海雲山龍源寺と幸福稲荷社一帯が城跡になっています。■大崎城址の住所■豊橋市船渡町城戸中>>大崎城址の場所の地図今川と戸田大崎

  • 高低差が楽しめる佐久間盛政の居城跡の名古屋市昭和区伊勝城址

    名古屋市昭和区の伊勝城址は天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家とともに羽柴軍と戦った佐久間盛政の居城跡です。佐久間盛政の通称は玄蕃允(げんばのじょう)で、小説などでは佐久間玄蕃(さくまげんば)の名で出てくることも多いです。盛政の母

  • 名古屋市内に分散した平手政秀の居城跡、菩提寺、首塚、墓所まとめ

    織田信長が成人(元服)した時、4人の家老が付けられました。その中で最も信長に関わったと思われるのが平手政秀です。通説ですと素行が悪かった信長を諫めるために自害したといわれますが、平手政秀の史跡は名古屋市に分散しています。その史跡をこの記事で

  • 豊橋市杉山城址は戦国時代初期に渥美郡に勢力を持っていた杉山氏の居城跡

    豊橋市杉山町の杉山城址は戸田氏が渥美郡に勢力を伸ばす以前の土豪・杉浦右衛門大夫、杉山久助俊輝の城跡です。現在は大徳山寶林寺(宝林寺)になっています。■杉山城址の住所■豊橋市杉山町松岡11>>杉山城址の場所の地図>>大徳山寶林寺(宝林寺)公式

  • 今川氏に従い戦国時代に豊橋市南部を支配した畔田氏の豊橋市畔田城址

    豊橋市城下町の畔田(くろだ)城址は戦国時代に現在の豊橋市南部に勢力を持っていた土豪・畔田氏の居城です。■畔田城址の住所■豊橋市城下町築地ノ内>>黒田城址の場所の地図黒田城址のアクセス黒田城址への行き方はいくつかあります。その中で私が地元の方

  • 戦国時代以前に廃城になった堀尾孫助の小牧市南外山城址

    小牧市南外山城址は戦国時代以前に築かれた堀尾孫助の城跡です。■南外山城址の住所■小牧市南外山404>>南外山城址の場所の地図現地看板 南外山城跡南外山城は、堀尾孫助の居城で、この八幡社を含む範囲にあったが正中年間(1324~25)にはすでに

  • 名古屋市北区志賀城址は織田信長の傅役だった平手政秀の居城跡

    名古屋市北区平手町に志賀公園がありますが、その一部はかつて織田信長の傅役(もりやく:教育係)だった平手政秀の志賀城址です。■志賀城の住所■名古屋市北区平手町2丁目>>志賀城址の場所の地図現地看板 平手政秀宅跡 ここ志賀の地を領した平手政秀は

  • 幸田町荻城址は三河一向一揆で松平元康と戦った内藤清長の居城跡

    額田郡幸田町の荻城(おぎじょう)址は、三河一向一揆で一揆方となり松平元康と戦った内藤清長の居城跡です。■荻城址の場所の住所■額田郡幸田町荻城跡2>>荻城址の場所の地図現地の説明 内藤弥次右衛門清長公終焉の地と伝う 荻城は寛正(一四六〇)の頃

  • 大庭氏が築上し五井松平氏が入った幸田町深溝城址の地名や鬼門、見どころなど

    額田郡幸田町深溝(ふこうず)丸ノ内にある深溝城址は戦国時代にこの周辺を治めていた城跡です。現在では石碑と幸田町教育委員会が建てた案内看板があります。■深溝城址の住所■額田郡幸田町深溝丸ノ内>>深溝城址の場所の地図現地案内看板 こうたの文化財

  • 歴史歩き、城散策の会のメリットは何?実は良いことが3つあります!

    城巡りや歴史史跡歩きは1人でもできます。自分のペースで巡ることは他人に気を使わないで済むので、おひとり様で城歩きをする人もいると思います。でも歴史の会や城巡りサークルで史跡を巡るメリットが少なくても3つあるのです。スムーズに巡る事ができる今

  • 豊田市駒場町元城の駒場城址は慶雲寺の守り役だった太田氏の居城だった

    豊田市駒場町元城の駒場(こまんば)城址は慶雲寺の守り役だった太田備後守の居城跡です。■駒場城址の石碑の住所■豊田市駒場町東埜中>>駒場城址の場所の地図現地の説明石碑城跡(太田備後守) 東墓地より約100m西に、太田備後守の碑が草むらに建てら

  • 徳川十六神将に数えられた高木清秀ゆかりの安城市高木城址

    安城市高木町の高木城址は徳川家康のもとで活躍した徳川十六神将に数えられている高木清秀ゆかりの地です。■高木城址の住所■安城市高木町>>高木城址の地図現地看板市指定史跡 高木氏発祥の地高木氏は、室町時代に現在の安城市高木町一帯をもとにしていた

  • 織田広近が築いた犬山城の前身の城!犬山市木ノ下城址

    犬山市の木ノ下城址は織田広近が築いた美濃との国境を守った城です。後に近くの乾山にあった砦に城郭機能を移し、それが犬山城になりました。■木ノ下城址の住所■犬山市犬山愛宕7−1>>木ノ下城址の場所の地図木ノ下城の歴史木ノ下城跡 木ノ下城は室町時

  • 北名古屋市沖村城址は信長の一番家老だった林秀貞(道勝)の居城跡

    北名古屋市の沖村城址は織田家家老だった林秀貞(林通勝)の居城跡です。別名・沖城。現在では光明山松林寺になっています。■沖村城址の住所■北名古屋市沖村西ノ郷>>沖村城址の場所の地図信長の一番家老林秀貞の林家は代々織田家に仕え、信長公記によると

  • 南北朝時代の武将・野尻掃部の日比津城址と石塔が残る中村区大円寺

    名古屋市中村区日比津町の大円寺周辺に南北朝時代、この地に勢力を持っていた野尻氏の城がありました。それが日比津(ひびつ)城です。現在では住宅地として開発され、遺構は残っていないものの、大円寺に野尻氏一族のものと考えられる石塔が残っています。ま

  • 地元で語り継がれる愛西市田尻城址

    愛西市田尻城址は地元で語り継がれる謎の城です。現在では合併前の立田村教育委員会の案内看板と石碑があります。■田尻城の住所■愛西市三和町田尻>>田尻城の地図現地看板 田尻城跡・馬洗い石 田尻村は寛永元年(1624)に立田輪中が一円輪中になった

  • 那古野城主・今川氏豊に仕えた大秋十郎左衛門の大秋城址

    名古屋市中村区の大秋城址は、戦国時代に那古野城主だった今川氏豊に仕えた大秋十郎左衛門の居城といわれています。■大秋城址の住所■名古屋市中村区大秋町2丁目>>大秋城址の場所の地図那古野城主とは?那古野(なごの)城は、現在の名古屋城二の丸あたり

  • 平安時代の武将・板垣冠者兼信の居城だった愛西市十二城址

    愛西市の十二城址は平安時代の武将である、板垣冠者兼信(いたがき かんじゃ かねのぶ)の居城跡です。■十二城址の住所■愛西市町方町十二城>>十二城址の場所の地図板垣冠者兼信とは誰?板垣冠者兼信(いたがき かんじゃ かねのぶ)とは、平安時代末期

  • 名古屋市天白区島田城跡は織田信長の妹を娶った牧長清の一族の牧虎蔵の城だった

    名古屋市天白区島田に残る島田城址は戦国時代の尾張守護だった斯波氏の一族・牧氏の居城跡です。■島田城址の住所■名古屋市天白区島田5丁目>>島田城址の場所の地図現地案内看板島田城跡 築城年代は不詳であるが、『尾張志』に、その規模は東西四二間(約

  • 兼松正吉が織田信長から拝領した足半が秀吉清正記念館にある!

    名古屋市中村区の秀吉清正記念館は、常設展と企画展2つの展示が行われています。ここに兼松正吉が織田信長から拝領した足半(あしなか)が収蔵されています。>>秀吉清正記念館行公式サイト兼松正吉とは?兼松正吉(かねまつ まさよし)とは葉栗郡島村(現

  • 安城合戦の戦死者を弔った富士塚、東条塚、千人塚の場所と現地レビュー

    安城市には安城合戦で亡くなった方を弔った3つの塚が残されています。それが富士塚、東条塚、千人塚です。これらの塚は安祥城近くにあり、名鉄・南安城駅から歩いて訪れることができます。■3塚の地図■安城合戦とは何?戦国時代、尾張の織田と三河の松平は

  • 織田信長の妹を妻にした牧長清の名古屋市中区小林城址

    名古屋市中区の小林城址は織田信長の妹を娶り、この地に勢力を持っていた土豪・牧長清の居城跡です。■小林城址の住所■名古屋市中区大須4丁目1−32>>小林城址の場所の地図小林城の歴史小林城跡 天文(1532~55)のころ、尾張の主語・斯波氏の一

  • 平安時代は志貴庄の荘館、室町時代は地頭の館か?安城市安城古城址

    安城市安城町の安城古城址は安祥城の前身の城といわれています。歴史は古く平安時代からこの地の有力者の居館があった場所と考えられています。■安城古城址の住所■安城市安城町社口堂>>安城古城址の場所の地図現地案内看板市指定史跡 安城古城址 安城町

  • 江戸時代に碧海郡安城村,米津村,加納村を治めていた久永信豊の安城陣屋跡

    安城市安城町の安城陣屋跡は江戸時代にこの周辺を治めていた久永氏の陣屋跡です。陣屋は城ではなく関係もないと思う方もいると思います。でも城郭研究では陣屋も城址のひとつとして研究されています。その地域の政治の中心地でもあり、場合によっては石垣、堀

  • 安城市の保科正直邸址は武田,北条そして徳川に仕えた旧高遠城主の館跡

    安城市山崎町にある正法寺は、戦国時代に武田氏、北条氏、徳川氏に仕えた保科正直の館跡です。別名・保科城址。■保科正直邸址の住所■安城市山崎町大手>>保科正直邸址の地図館跡の詳細市指定史跡 保科正直邸址 保科正直は信濃国高遠(長野県伊那市)高遠

  • 豪快な堀跡が残る!松平信孝が築いた安城市山崎城址

    安城市山崎町に残る山崎城址は徳川家康の大叔父だった松平信孝が築いたといわれる城です。現在は神明社になっています。■山崎城址の住所■安城市山崎町城跡>>山崎城址の場所の地図現地案内看板山崎城址 山崎城址は碧海台地(へきかいだいち)の東側に位置

  • 織田信長側近で家康の伊賀越えも同行!長谷川秀一の生誕地は一宮市北方町だった

    一宮市立北方中学校横に長谷川秀一公旧居跡と刻まれた石碑があります。これは織田信長の側近だった長谷川秀一の生誕地を示す石碑です。>>長谷川秀一公旧居跡石碑の地図長谷川秀一?と聞いてもピンとこない方もいろと思います。彼は織田家奉行衆のひとりで、

  • 前田慶次の親友として描かれている奥村助右衛門永福の出生地・一宮市貴船神明社

    一宮市奥町にある貴船神明社は漫画・『花の慶次 ~雲のかなたに~』で前田慶次の親友として描かれている奥村助右衛門永福(ながとみ)の出生地の碑があります。■貴船神明社の住所■一宮市奥町貴船8>>貴船神明社の場所の地図なぜここにある?貴船神明社の

  • 一宮市蓮池首池の地名の由来は戦国時代の小牧長久手合戦だった

    一宮市に蓮池首池というちょっと怖い地名があります。実はこの地名、戦国時代に起きた小牧・長久手の戦いがもとで付いた地名といわれています。>>蓮池首池の場所の地図蓮池首池の由来小牧・長久手の戦いの城跡を歩く(内貴健太著)に蓮池首池の事が書かれて

  • 豊川市立長沢小学校は江戸時代の長沢御殿跡だった!そして近くには長沢城址も!

    豊川市に長沢という場所があります。江戸時代の東海道と現在の国道1号線が通る地区です。そこに豊川市立長沢小学校があるのですが、学校横に看板があります。これを見てみると以下の様に書かれています。長沢城跡と御殿 長沢城跡 長沢は東西三河の境目にあ

  • 日近奥平氏の拠点だった岡崎市日近城跡現地レビューと感想

    岡崎市桜形町(旧額田町)の日近城址は作手を拠点としていた奥平氏の一族・日近奥平氏の居城跡です。また付近で起きた日近合戦は徳川家康(松平元康)の初陣という説もあります。■日近城の住所■岡崎市桜形町一本柿>>日近城の場所の地図まずは地形日近城に

  • 刈谷古城址は知多緒川城主・水野貞守が築いた西三河侵出拠点だった!

    刈谷市の刈谷古城址は知多緒川城主・水野貞守が築いた西三河侵出拠点といわれ、刈谷城の前身の城と考えられています。■刈谷古城址の住所■刈谷市天王町>>刈谷古城址の地図知多から西三河へ戦国時代に現在の知多郡東浦町の緒川城を拠点に勢力を持っていた水

  • これから趣味で城巡り始める人へ私が勧める初級,中級,上級の巡り方と事例

    『城歩きや城巡りを趣味で始めてみたいけど、何をどう巡ればいいか分からない』そんな声をよく耳にします。城(城跡)といってもその種類は様々。平城、平山城、山城、海城また国宝天守、現存点天守、模擬天守など、いろんなタイプや時代の城があるのです。そ

  • 水野信元に滅ぼされた新海氏の阿久比町宮津城址(柳審城址)現地レビュー

    知多郡阿久比町の宮津城址(柳審城址)は、水野信元に滅ぼされた新海氏の居城跡です。現在は秋葉神社と宮津公園になっています。■宮津城址(柳審城址)の住所■阿久比町宮津宮上ノ山3>>宮津城址(柳審城址)の地図尾張の織田と同盟を結んだ緒川城の水野信

  • 半田市有楽町に残る水野信元の成岩砦址と榎本了圓の成岩城址の感想

    半田市に戦国時代に攻防があった砦と城があります。それが有楽町付近に残っている成岩砦と成岩城です。どんな城と砦?現在の東浦町を拠点に知多半島統一を目論んでいた水野信元は、阿久比の新海氏を滅ぼし、久松氏と同盟を結ぶなど影響力を増し、南下を続け現

  • 大久保彦左衛門忠教はなぜ天下の御意見番なのか?理由は徳川家康とのやりとり

    大久保彦左衛門忠教(ただたか)と聞けば天下の御意見番というイメージですが、なぜこの人物が天下のご意見番なのか?その理由は彼の頑固な性格にあります。大久保彦左衛門は実在した人物ですが、庶民に人気があり江戸時代に講談や歌舞伎の題材にもなりました

  • 水野信元が築き稲生政勝率いる亀崎水軍の拠点となった半田市亀崎城址

    半田市亀崎町の亀崎城址は、戦国時代に緒川城の水野信元が築き、稲生政勝が亀崎水軍の拠点とした城です。現状は神前神社の裏山。■亀崎城址の住所■半田市亀崎町2丁目>>亀崎城址の地図城址への道神前神社の脇から亀崎城址に登る道があります。途中に物見台

  • 天下の御意見番・大久保彦左衛門忠教の大久保陣屋跡が幸田町にあった!

    額田郡幸田町の八百富神社は、かつて大久保彦左衛門忠教(ただたか)の大久保陣屋があった場所です。坂崎陣屋とも■大久保陣屋跡の住所■額田郡幸田町坂崎御屋敷10>>大久保陣屋の場所の地図大久保彦左衛門忠教といえば、徳川家康に意見したということで天

  • 戦国時代の知多半島西部の土豪・花井氏の五輪塔がある知多市瑞雲山大祥院

    知多市八幡普ケ脇の瑞雲山大祥院には戦国時代に知多半島西部に勢力を持っていた花井氏の五輪塔と花井播磨守信忠の墓があります。■大祥院の住所■知多市八幡普ケ脇21>>大祥院の場所の地図花井氏とは花井氏とは戦国時代に知多半島西部に勢力を持っていた土

  • 西尾市幡豆町の中之郷古墳近くにあった欠城(磯城、幡豆城)とゆかりの地名

    西尾市幡豆町にある中之郷古墳は5世紀後半の古墳といわれていますが、戦国時代やそれ以前、このすぐ側に城がありました。それが小笠原氏の欠城(磯城、幡豆城とも)です。■中之郷古墳の場所の住所■西尾市西幡豆町中野郷>>中之郷古墳の場所の地図今でも古

  • お江ゆかりの衣掛松、あかずの門があった常滑市蓮台寺

    常滑市小倉町の蓮台寺は知多大野城主・初代の佐治駿河守宗貞の墓所があり、お江(崇源院:すうげんいん)ゆかりの史跡がる寺院です。■蓮台寺の住所■常滑市小倉町5丁目66>>蓮台寺の場所の地図初代大野城主の墓所蓮台寺境内にこんもりした塚があります。

  • なぜ元旦の岡崎城でうさぎ汁?徳川と世良田有親、松平親氏親子の逸話とは

    年末に岡崎城へ行くと新年の準備が進められています。岡崎城は初詣も人気のスポットなのですが、そんな中、元旦にうさぎ汁が振る舞われているのです。なぜ岡崎城でうさぎ汁なのか?その理由は徳川家の前身・松平家初代にさかのぼります。長野でおもてなし松平

  • 小牧・長久手合戦で本多忠勝と松平家忠が守った小牧市北外山砦跡

    小牧市北外山(きた とやま)の城嶋稲荷周辺は、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いで織田・徳川連合軍だった本多忠勝、松平家忠らが守った砦跡です。小牧山城周辺には小牧・長久手の戦いで築かれた砦の跡が点在しています。この北外山砦もそのひと

  • 知多大野城主の佐治氏によって慧可断臂図が奉納された常滑市斎年寺

    常滑市の斉年寺は知多大野城主だった佐治氏四代の位牌所です。城巡りしてると城主の菩提寺や位牌所などもお参りすることが多いのですが、常滑市の斎年寺は城主の位牌所以外にも、現在国宝に指定されている慧可断臂図(えかだんぴず)は奉納された寺でもありま

  • 矢作川と豊川は元はひとつだった!新城市作手清岳に残る分水点

    愛知、名古屋の城歩きの会・愛知ウォーキング城巡りクラブで日本続100名城に認定されている新城市の古宮城に行った時のこと。古宮城は見どころが多い城址なのですが、近くに興味深い史跡というか、見どころがあります。それが矢作川と豊川の分岐点です。>

  • 小牧山城土塁断面展示の地層が周囲の地層と逆転している理由

    整備復元が進められている小牧市の小牧山城(続日本100名城)には、小牧山城を取り巻いていた土塁の断面展示があります。これを見ると土塁の中を見ることができるのです。>>小牧山城の土塁断面展示の地図まずは周辺の地層ところでこの断面展示の土塁を見

  • 小牧山城南側の復元土塁と堀にはカラクリがあった!上下から見る理由とは

    愛知県小牧市の小牧山城(続日本100名城)は近年、発掘調査がどんどん進められています。その中で天正十二年(1584)の小牧・長久手合戦時の織田・徳川連合軍によって築かれたといわれる堀と土塁が南側(ドンキや小牧市役所側)に復元されました。パッ

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、ひでさんをフォローしませんか?

ハンドル名
ひでさん
ブログタイトル
ゼロからはじめる愛知の戦国史跡と城巡り講座
フォロー
ゼロからはじめる愛知の戦国史跡と城巡り講座

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用