刈谷市重原本町の重原陣屋跡は江戸時代後期の寛政二年(1790)に起きた寛政の一揆後、福島藩がこの地を治めるために築いた陣屋跡です。>>重原陣屋の地図寛政の一揆寛政二年(1790)、刈谷藩が借金返済のために行った「強引な増税」と「綿の専売制」
歴史初心者向けの分かりやすい愛知の戦国史跡と城巡り講座です
愛知県の戦国史跡や城を歴史初心者向けに詳しく解説したブログです。現地レビューや私の感想など、愛知県内の戦国史好きの方げ向けて情報発信しています。
刈谷市重原本町の重原陣屋跡は江戸時代後期の寛政二年(1790)に起きた寛政の一揆後、福島藩がこの地を治めるために築いた陣屋跡です。>>重原陣屋の地図寛政の一揆寛政二年(1790)、刈谷藩が借金返済のために行った「強引な増税」と「綿の専売制」
尾張旭市狩宿城は織田家の家老 林氏の居城跡なのか?地形が楽しめる城跡
尾張旭市の狩宿(かりじゅく)城址は、この地の土豪・林氏の居城跡といわれています。現在の狩宿第2ちびっこ広場周辺が城跡です。以下は現地看板です。狩宿城は、寛政五年(1793)や天保十二年(1841)作成の狩宿村絵図に「古城跡」として描かれてい
小牧長久手合戦で徳川方として戦った横地秀次の名東区猪子石城址
名古屋市名東区の猪子石(いのこし)城址は、この地の土豪・横地主水正秀次(よこちもんどのしょうひでつぐ)の居城跡です。横地氏は遠江国横地城(現在の静岡県菊川市)から移ってきた一族で小牧長久手の戦いでは徳川方として戦いました。>>猪子石城址の地
名古屋市昭和区の御器所西城(ごきそ にしじょう)は、柴田勝家の甥で賤ヶ岳の戦いで活躍した鬼玄蕃こと佐久間盛政の居城です。御器所西城があった現在の名古屋市昭和区とその周辺は、織田信長に使えた佐久間氏の所領でした。築城時期は嘉吉年間(1441~
本多忠勝の先祖の居城だった大府市横根城址の地形は分かりやすく残っていた
大府市横根町の横根城址は本多氏と梶川氏が城主だった歴史を持つ城です。>>横根城址の地図最初の城主は本多忠勝の先祖豊後国本多郷(ぶんごのくに ほんだごう:現在の大分県臼杵市市浜)に本多(本田)右馬允助定(ほんだ うまのじょう すけさだ)という
設楽原古戦場がある新城市牛倉には、羽柴秀吉陣跡が残されています。令和八年(2026)のNHK大河ドラマ・豊臣兄弟!で羽柴秀吉(池松壮亮さん)、羽柴秀長(仲野太賀さん)率いる羽柴軍が陣を置いた場所と妄想すると、大河ドラマファンには嬉しい場所で
今川氏真が包囲し松平元康が救った一宮の後詰めとは?豊川市一宮砦
豊川市(旧宝飯郡一宮町)の一宮砦は、永禄三年(1560)の桶狭間合戦後、今川氏真と松平元康(徳川家康)の攻防戦があった場所です。>>一宮砦跡の地図豊川市指定史跡 一宮砦跡桶狭間の戦い(1560)以後、松平氏と今川氏の間で、三河攻防が激しくな
新城市大野田城址は武田信玄が撃たれた野田城の支城!現地レビュー
新城市大野田城址は、この地の土豪だった菅沼氏の居城。野田城の支城でしたが野田城が改修された時、大野田城に菅沼氏の拠点が移ったこともありました。竹林の城址でしたが令和七年(2025)に整備され、遺構も見やすくなりました。現地にはどんな見どころ
高橋陽介著 シン・関ケ原を読むと関ヶ原の戦いがなぜ違う様に見えるのか?
■著者 高橋陽介■発行所 株式会社講談社■価格 1,000円(税別)■一言でいうと 関ケ原の戦いの新説を説明した本関ケ原の戦いといえば、天下を狙う徳川家康と豊臣政権を守ろうとした石田三成が戦った、いわば天下分け目の合戦として知られています。
豊田市志賀町に残る古瀬間城址は、長沢松平氏のひとち松平宗忠が築いた城といわれています。一方で足助鈴木氏の城と構造が似ているので、鈴木氏の築城説もあります。浄願寺の裏山が古瀬間城址です。>>古瀬間城址の地図浄願寺境内の奥へ行くと古瀬間城址への
巨石が多い豊田市三河城山城は堀切や石垣の遺構が色濃く残っている
豊田市の城山城は松平氏が築いたといわれる城です。廃城になった後の天正十二年(1584)小牧長久手の戦いで改修し再利用されたともいわれています。城山城は豊田市内で見応えがある城のひとつで、人気の大給城(おぎゅうじょう)近くにある名城です。今回
三河大給山中城址と大給山中古戦場へのアクセス方法と現地レビュー
豊田市の大給山中(おぎゅうやまなか)城址は築城時期、築城者不明の城跡です。松平氏発祥の地である松平郷、そして大給松平氏の拠点だった大給城の近くにあります。弘治元年(1555)頃、三河をほぼ領国化した今川氏が、反今川勢力を攻めるためにこの地に
吉良荘の地名の由来にもなった西尾市八ツ面山に残る雲母の坑道跡に行った感想
西尾市に八ツ面山(やつおもてやま)という、なんだか古墳みたいな山があります。実際に工事中に埴輪(はにわ)が発見されているので、巨大な古墳だったのでは?という説もあります。それはさておき。西尾市ではシンボルみたいな八ツ面山ですが、現在の西尾市
大久保彦左衛門の三河物語がスラスラ読める!小林賢章訳 現代語訳三河物語
■発行所 株式会社 筑摩書房■著者 大久保彦左衛門■翻訳 小林賢章■値段 1300円(+税)■一言で言うと 大久保彦左衛門の三河物語の現代語訳版徳川家康の家臣で天下のご意見番として知られる大久保彦左衛門忠教(おおくぼひこざえもん ただたか)
なぜ西尾市愛知こどもの国に名古屋城の残石が残っているのか?その理由とは
愛知県西尾市の愛知こどもの国に名古屋城築城時の残石といわれる石があります。石の左半分が割られたような跡があり、矢穴跡も残っています。>>愛知こどもの国公式サイト>>愛知こどもの国の場所の地図なぜここに名古屋城に持っていくはずの石があるのか?
松平軍の本多甚十郎と今川軍の長谷川十郎が槍を合わせて戦った田原市槍合橋
かつて現代の田原市田原町新町にあった槍合橋(やりあいばし)は松平元康(後の徳川家康)と今川軍が戦った古戦場に残る橋です。現地の看板は以下のとおりです。槍合橋(やりあいばし) 昔、この場所には石で作った橋が架けられており、橋の下には水路があり
春日井市勝川の名前は徳川家康が由来だった!龍源山太清寺の伝承
春日井市勝川町2丁目の龍源山太清寺はこの周辺にある勝川(かちがわ)の地名の由来となった寺院です。>>太清寺の地図現地案内看板には天正十二年(1584)に起こった小牧長久手合戦と徳川家康のことについて書かれていました。太清寺の歴史 龍源山太清
豊川市の御馬(おんま)城址は鎌倉時代に築城され、江戸時代には長沢松平氏の城にもなった史跡です。豊川市教育委員会の現地説明看板は以下の通り。御馬城跡応安二年(1369)将軍足利義満が細川頼之(よりゆき)に命じ、頼之はさらに細川頼有(よりあり)
豊川市佐脇城址は奥平氏の与力となり長篠合戦で討ち死にした佐脇氏の居城跡
豊川市御津町下佐脇の佐脇城主はこの地の土豪だった佐脇氏の居城跡です。下佐脇ちびっ子広場に石碑と看板があります。>>佐脇城址の地図佐脇城跡佐脇氏は鎌倉期にここ佐脇を名字の地とする地頭であったと思われ、南北朝期以後は国人領主となり、室町期には幕
豊川市竹本城址は戦国時代に今川氏についていた竹本成久の居城跡
豊川市御津町の竹本城址は戦国時代に今川氏についていた竹本氏の居城跡です。現地看板には以下のように説明があります。竹本城跡 昭和四十四年二月三日指定新田義貞の臣に、高田薩摩守という豪傑がおり、その次男・又次郎正季(またじろう まさすえ)がここ
織田信長が築いた小牧山城の城下町の遺構が出土した小牧市上御園遺跡
小牧市堀の内5丁目にある堀の内公園は、織田信長が築いた小牧山城の城下町の遺構が出土した場所です。>>堀の内公園の地図小牧城下町(上御園遺跡:かみみその いせき)ここは永禄六年(1563)、織田信長が小牧山に新たに城を築き、清須から居城を移し
今回は犬山城のちょっと変わった歩き方を紹介します。電車で犬山城へアクセスする時、犬山遊園駅で降ります。そしてそのまま北側にぐるっと周り、かつての美濃国(みののくに)岐阜県側から犬山城を望んで、そのまま登城するというものです。国境を越えてみる
豊橋市牟呂城址は戦国時代の土豪・室金平、鵜殿兵庫頭政茂の居城址
豊橋市牟呂公文町に残る牟呂城址は戦国時代にこの地に勢力を持っていた室金平(むろ かねひら)、または鵜殿兵庫頭政茂(うどの ひょうごのかみ まさしげ)の居城跡です。現地には以下のような案内看板がありました。>>牟呂城址の地図牟呂城址 牟呂
小牧山城を眺めならが食事ができる小牧市役所の食堂に行ってみた感想
続日本100名城に認定されている愛知県小牧市の小牧山城。道路を挟んだ向かいの小牧市役所のレストランから小牧山城を眺めながら食事ができるんです。早速、行ってみました。>>小牧市役所の地図>>小牧市役所ジェイズキッチンの詳細まずはアクセス小牧市
館城には堀跡と土塁が残り背後に詰め城があった松平康孝の西尾市浅井西城
西尾市西浅井町にあった浅井西城は徳川家康の祖父・松平清康の弟・松平康孝の居城跡です。現在は民家になっていますが、濠(堀)や土塁、また詰城址が残っています。>>西浅井城の地図土豪屋敷跡土塁西浅井の丘陵には東西二つの城があり、西古城を『清康御弟
江南市布袋駅の東側(マックスバリュ江南布袋店)向かいに織田信長と側室の吉乃(きつの)、そして子どもたちの銅像が建っています。>>銅像の場所の地図説明板にはなんて書いてある?信長と生駒の息女吉乃とこどもたち戦国時代信長は清洲城から馬で生駒屋敷
名古屋市中川区の助光(すけみつ)城址は、織田信長に仕えた福留将監の居城跡といわれています。現在は土之宮神明社に石碑があります。>>土之宮神明社(助光城址)の地図土之宮神明社は天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭る神明社と埴安姫神(はにやすひ
豊田市広幡町の広見城址は戦国時代に織田信長に仕えた中条秀正(ちゅうじょう ひでまさ)の居城です。この地は三河国ですが中条氏は尾張の織田氏に仕えていました。その中条氏の居城だった広見城址は山城ですが、地元保存会の方々によって整備されています。
生田城(しょうだじょう)について。三河国二葉松には城主について酒井彦四郎、石川又四郎、生田六左衛門と記述があります。浅野文庫蔵・諸国古城之図にも記載がある城で、出入口二ヶ所に枡形が用いられ、性格的にはどこかのお城の出城的なものだったそうです
信長が使った部下の不満を無くした心理テクニックとは?小牧山城と小口城
織田信長の優れたところはいくつもありますが、心理作戦、つまり心理テクニックにも長けた人物でした。以下は信長の一代記・信長公記にある信長のカケヒキのエピソード。居城の引っ越し永禄三年(1560)駿河・遠江(するが:とおとうみ)(静岡県)の戦国
幕末に活躍した外交官・岩瀬忠震の先祖・岩瀬忠家が築いた蒲郡市中島城址
蒲郡市上中島の中島城址は今川氏に仕えた土豪・岩瀬氏の居城跡です。>>中島城址の地図中島城址永享十二年(1440)、岩瀬治部左衛門尉忠家が築城した館城。石垣・城跡は見当たらないが、上中島交差点周辺より北側の一段高い平地を今も屋敷跡と呼んでいる
木綿藤吉 米五郎左 掛かれ柴田に 退き佐久間とは誰?意味とゆかりの地を解説
織田信長に仕えた4人の家臣の評価に次のようなものがあります。『木綿藤吉 米五郎左 掛かれ柴田に 退き佐久間』(もめんとうきち こめごろうざ かかれしばたに のきさくま)これは江戸時代の翁草(おきなぐさ)に収録された羽柴秀吉(後の太閤・豊臣秀
豊田市博物館は戦国時代や城跡の展示もある!ここが良かった私の感想
豊田市博物館は豊田市の歴史をまとめた博物館です。豊田市といえばトヨタ自動車の本社があることで有名でクルマの街というイメージが強いです。でも徳川氏の前身である松平氏の発祥の地でもあり、戦国時代の城跡や江戸時代の史跡も点在しています。今回は私が
豊田市神殿町の大桑城址はこの地の土豪・河合弥十郎の居城跡です。歴史を振り返ると徳川家康や甲斐の武田軍も攻め落としています。>>大桑城址の場所の地図現地看板より豊田市史跡 大桑城跡大桑城は、巴川と大桑川の合流地点南方の高所に築かれた中世の山城
設楽原古戦場には深溝城主・松平伊忠(まつだいら これただ)の戦死地といわれる場所があります。>>松平伊忠戦死地看板の説明松平伊忠戦死の地鳶ヶ巣山砦の奇襲に勝利すると、豊川(大川)を渡り武田軍を追撃中に逆に武田軍に挟まれ討ち死にした。この近く
新城市八束穂(やつかほ)の清井田武田勝頼本陣跡は、天正三年(1575)に長篠城を包囲していた武田勝頼が織田の・徳川連合軍との戦いに備えて設楽原に移動する時、最初に陣を置いた場所です。>>清井田武田勝頼陣跡の地図武田軍の本陣を移動医王寺山に本
武田勝頼を逃がす笠井満秀と瀧川助義が一騎打ちした新城市寒狭橋跡
新城市寒狭峡は天正三年(1575)の長篠設楽原の戦いで、退却する武田勝頼を追う敵を食い止めた笠井肥後守満秀が、瀧川助義と一騎打ちした場所といわれています。>>寒狭橋跡の場所の地図笠井満秀とは南部宗秀の子として生まれた満秀は河西氏、笠井氏を名
新城市出沢には武田四天王のひとり馬場信房が討ち取られたと伝わる場所があります。この周辺は武田軍の敗走ルートといわれ、多くの兵士が討ち取られた場所でもあります。>>馬場信房の塚の地図馬場信房の塚馬場美濃守信房(信春)は武田三代に仕えた智謀の老
設楽原古戦場の南端にある大久保忠世、忠佐兄弟陣跡と勝楽寺前激戦地
天正三年(1575)の長篠設楽原の戦いで戦場の一番南端と考えられる場所が、徳川家臣の大久保忠世、忠佐兄弟の陣がある新城市川路です。>>大久保兄弟陣跡の地図屏風と違う南端勝楽寺前激戦地の場所はどこにあるのかお伝えします。現在の設楽原古戦場の再
新城市則本の鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)は、天正三年(1575)の長篠設楽原の戦いで長篠城を包囲していた武田軍の5つの砦の中心だった場所です。>>鳶ヶ巣山砦の場所の地図5つの砦とは天正三年(1575)500人が籠もる長篠城を武田勝頼は1
新城市川路には天正三年(1575)の長篠設楽原合戦で、川から長篠城を脱出した鳥居強右衛門が上陸したと考えられる場所があります。>>鳥居強右衛門上陸地強右衛門の脱出ルート兵500人が籠もる長篠城は1万5千人の武田軍に包囲され兵糧庫まで落とされ
新城市川路には天正三年(1575)の設楽原の戦いで亡くなった高坂昌澄の墓があります。高坂昌澄の墓昌澄は武田四天王といわれた高坂弾正忠昌寅(高坂昌信)の子として、山梨県甲府に生まれ設楽原の戦いには二十五才の若さで、兵二千を率いる武将として戦っ
山本勘助の息子が長篠設楽原の戦いに出陣していた!山本勘蔵信供の墓
新城市設楽原古戦場には、かつて武田信玄に仕えた軍師といわれる山本勘助晴幸の息子・山本勘蔵信供の墓があります。>>山本勘蔵信供の墓の地図山本勘助晴幸とは武田信玄に軍師として仕えたといわれる山本勘助晴幸は静岡県、または愛知県三河地方の生誕といわ
新城市緑が丘の万人ヶ入り(まんじゅうがり)は、天正三年(1575)に起きた織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼率いる武田軍が戦った長篠設楽原合戦で、近くの村人たちが避難した場所といわれています。>>万人ヶ入りの地図村人避難の『万人ヶ入』(まん
田原市野田町の運昌寺は世話になった徳川家康がお礼を奉納したという伝説が残る寺院です。>>運昌寺の場所の地図どんな伝説?雲昌寺に伝わる話です。徳川家康が夜明け前に運昌寺を訪れました。寺の老婆がもてなすと、家康はお礼がしたいので望むものは何か?
徳島県の阿波踊りの起源は蜂須賀家政なのか?生誕地や父親そして子孫は?
徳島県の阿波踊りは戦国武将・蜂須賀家政がキッカケで生まれた踊りという説があります。なぜ戦国時代の人物がキッカケなのか?蜂須賀家政にまつわる話をまとめてみました。阿波踊りの始まりとは蜂須賀家政の父は豊臣秀吉の腹心として有名な蜂須賀小六正勝。そ
田原市山田町の吉祥山泉福寺は天正十年(1582)の本能寺の変後、伊賀越えで三河に着いた徳川家康が埋蔵金を埋めたという伝説があります。天台宗の寺院。>>泉福寺の地図自然すぎる参道泉福寺への参道は三河湾国定公園になっています。そう言えば聞こえは
岡崎市梅園町虎石にある誓願寺は徳川家康や松平氏にゆかりが深い神社です。城巡りや史跡巡りで訪れる時のポイントを3つあげてみます。松平信貞が勧請した諏訪神社境内にある諏訪神社は大永三年(1523)に当時の岡崎城主だった松平信貞が勧請したものとい
蒲郡市上ノ郷鵜殿家の菩提寺・長応寺(正行院)と下ノ郷鵜殿家の長存寺
戦国時代に現在の蒲郡市に勢力を持っていた鵜殿氏一族の菩提寺を調べてみました。鵜殿氏には本家・上ノ郷鵜殿家といくつかの分家があります。まずは本家・上ノ郷鵜殿家の菩提寺は長応寺でしたが、上ノ郷城が落城した時に燃えてしまいました。その跡に建つのが
蒲郡市の市章のモデルになった竹谷松平氏の蒲形陣屋跡と鵜殿氏の下之郷城址
愛知県蒲郡市の市章は江戸時代にこの地を治めていた竹谷(たけのや)松平家の家紋・丸に一つ引き両がモデルになっています。その竹谷松平氏が江戸時代に政治を行っていた場所が蒲形陣屋です。この記事では戦国時代から幕末まで蒲郡市を治めた城や陣屋の歴史を
徳川家康腰掛石が残る常滑市正住院は伊賀越え上陸候補地のひとつ
常滑市正住院は天正十年(1582)の本能寺の変が起こった時、徳川家康一行が伊賀越えで上陸した場所といわれている寺院です。>>正住院の地図【現地案内看板】徳川家康公腰掛けの石 天正十年(1582)六月二日、徳川家康公は酒井への遊覧を終え、織田
津島神社に寄進された本殿、楼門、南門と織田家の経済を支えた津島湊跡
津島市津島神社の創建は古く、伝承によればでは欽明天皇元年(540年)といわれています。戦国時代も尾張国内ではもちろん、近隣諸国にも影響があった神社のひとつです。>>津島神社公式サイト津島神社は寄進された建物も多く、戦国時代や江戸時代に興味が
東海市荒尾町金山にあつた平島城址は、水野成政と池田恒興ゆかりの城です。>>平島城址の地図【現地看板より】平島城跡(荒尾町金山)平島城は『尾張志』、『張州府志』によれば、「水野藤助之(これ)に居る」とあるが、何時、誰によって築城されたのかは定
常滑(とこなめ)市に残る常滑城址は緒川城(東浦町)の水野氏の一族である常滑水野氏の居城跡です。>>常滑城の地図【現地案内看板より】 戦国時代の初め小河地方(東浦町緒川)の豪族、水野氏が常滑に進出し、此の地に城を築いた。その規模は徳川時代の古
東海市大田町城山の木田城址はこの地の土豪・荒尾氏と池田恒興、池田輝政が城主となった城跡です。現在では住宅地になっています。>>木田城址の地図池田恒興の尾張時代の城跡だった木田城。宅地開発が進んで限られた遺構しか残っていませんが、城巡りとして
豊川市豊川城址は鎌倉時代の大江定厳の屋敷で江戸時代の水野忠直の陣屋跡
豊川市西豊町に残る豊川城址は、鎌倉時代、大江入道定厳の屋敷があった場所で江戸時代には水野忠直の領地となりました。>>豊川城址の地図三河国二葉松に記載がある城跡で、鎌倉時代に大江入道定厳の屋敷がこの地にありました。大江定厳は鎌倉街道豊川宿があ
豊川市小坂井町にある龍徳院は徳川家康(当時は徳川家康)が吉田城を攻めるための居転とした砦跡です。>>糟塚砦跡の地図糟塚砦現在の龍徳院の境内全部がこの砦の跡であり、堀の内部の面積は約三五アールある。堤や堀はその当時のものであるこの砦は徳川家康
織田信長と清洲城の坂井大膳が争った萱津の戦いの現場に残る萱津古戦場の碑
愛知県あま市の萱津(かやづ)古戦場は、織田信長が清洲城主になる前、敵だった清洲城の坂井大膳との萱津の戦いがあった現場です。現在では石碑が建立されています。>>萱津古戦場の石碑の地図現地の解説天文二十年(1551)八月十六日当時、主人筋の斯波
名古屋市中村区岩塚城址は尾張守護斯波氏の一族だった吉田重氏の居城
名古屋市中村区岩塚町に残る岩塚城址は戦国時代に尾張国の守護だった斯波氏の一族・吉田重氏の居城跡です。現在は遍慶寺になっており門前に岩塚城趾の石碑が建っています。>>岩塚城趾の地図岩塚城の歴史岩塚城跡足利の頃、斯波氏の一族吉田治郎左衛門重氏こ
名古屋市西区大野木城址は織田信長に仕えた原田直政(塙直政)の居城跡
名古屋市西区の大野木城址は赤母衣衆として織田信長に仕えた塙直政(原田直政)の尾張時代に居城跡です。現在は福昌寺になっています。>>大野木城址の地図原田直政とはもとは塙直政。大野木城主で織田軍の赤母衣衆として各地を点線。信長から九州の名族・原
柴田勝家の祖父・柴田勝重の居城だった名東区一色城址と伝わる神藏寺
名古屋市名東区一社の貴船神社と神蔵寺は柴田勝家の祖父である柴田勝重の居城跡といわれている場所です。>>一色城址の地図柴田氏は越後国蒲原郡新発田(かんばらぐん しばた)の発祥といわれる柴田氏は、尾張にやってきて斯波氏に仕え、明応三年(1494
名古屋市瑞穂区に残る織田信照ゆかりの中根南城、中根中ノ城、中根北城
名古屋市瑞穂区に織田信長の弟の織田信照ゆかりの城が3つあります。それが中根南城、中根中ノ城、中根北城です。信照は織田信秀の十男もしくは九男といわれており、戦国時代に現在の名古屋市瑞穂区周辺に勢力を持っていた中根忠貞の養子となり中根姓を名乗り
名古屋市北区安井城址は浅野長政と北政所(おね)の養父である浅野長勝の居城
名古屋市北区安井1丁目に残る安井城址は豊臣家五奉行筆頭の浅野長政と豊臣秀吉の妻・北政所(きたのまんどころ:おね)の養父だった浅野長勝の居城跡です。今回のレビュー記事は少し混乱気味なので整理しておきます。まず名古屋市北区安井1丁目にある、お福
名古屋市北区にある名古屋市立金城小学校は田幡城跡に建っています。田幡城とは織田信長の織田家に仕えた家老・林秀貞(林道勝)の一族の城です。>>田幡城址の場所の地図美濃の斎藤軍も来た城桶狭間合戦の6年前の天文二十三年(1554)、知多半島に進出
大府市の市名の発祥は湧き水だった?!七津太夫ゆかりの桃山町大清水館跡
大府市桃山町1丁目の大清水館は、大府市の市名の由来となる七津太夫の屋敷があった場所です。現在では大清水地蔵という延命地蔵尊が建立されています。>>大清水館の場所の地図どんな由来?現地案内看板には以下の様に書かれています。 大清水地蔵様の由来
豊田市則定(のりさだ)町に残る則定椎(のりさだ しい)城は戦国時代にこの地に勢力を持っていた鈴木氏の居城です。三河国二葉松には鈴木十内という人物が城主として記されています。私的にはこの則定椎城は山城好きの方におすすめです。その理由は遺構が分
城巡りが好きな人が街道と城下町を知るとなぜもっと楽しめるのか?
城が好きになり城巡りをしたいな!と思ったら、城についていろんな事を勉強したり、調べたりします。私が思うのは城を巡る時に街道と城下町の知識があれば、同じ城でももっと楽しむことができると思います。その理由は街道と城下町のウンチクは城に直接関わる
緒川城、刈谷城主・水野家の家紋が沢瀉紋を使う理由が残る東浦町地蔵院
知多郡東浦町の地蔵院はかつての緒川城の近くにある寺院。水野家が沢瀉紋(おもだかもん)を家紋として使う由来が残る寺です。地蔵院は緒川城ふもとを通る師崎街道すぐの場所にあります。戦国時代に活躍した水野信元や水野勝成、そして徳川家康の生母も水野氏
なぜ城巡り歴史史跡探訪は車より歩くのがオススなのか?健康にも関わる3つの理由
私は20年以上、趣味の城巡り歴史史跡を訪ね歩いています。そこで思うのが城や史跡に行くとき、できるだけ歩くようにしてるのです。これは私が所属する愛知県の歴史の会や城巡りウォークでも同じこと。なぜ車でどんどん巡るよりも歩くほうが良いのか?そのメ
なぜ犬山城は城下町に稲置街道を通したのか?考えられる2つの理由
私が講師を務める栄中日文化センターの城巡り講座で犬山市の犬山城へ行ってきました。犬山城といえば天守が国宝に指定されており、日本100名城にも認定されている城ですが、城下町もたくさんの見どころがあります。さて、城巡りをしていて城下町に街道が通
名古屋市熱田区の熱田村砦は源平合戦の頃、源行家(新宮十郎)が築いた砦といわれています。現在では遺構は残っておらず沢上2丁目の神明社付近が砦跡とのこと。>>熱田村砦の地図【Q】源行家とは 本名は義盛。甥の源頼朝に平家打倒の決起を促した。その後
刈谷市半城土町に残る半城土古城跡は高低差と土塁が残っていた!
刈谷市半城土(はじょうど)町に残る半城土城跡は稲垣雅楽助(うたのすけ)という城主の城です。現在は真宗大谷派の寺院・勝宝寺になっています。半城土城については、いつの頃の城なのか?また詳細な歴史も分かっていません。>>半城土城の場所の地図現地看
織田信長が桶狭間合戦で戦勝祈願をした名古屋市天白区秋葉山慈眼寺
名古屋市天白区の秋葉山慈眼寺は永禄三年(1560)の桶狭間合戦時、織田信長が戦勝祈願をした寺といわれています。>>秋葉山慈眼寺の場所の地図名古屋市教育委員会の看板秋葉山慈眼寺 曹洞宗。当寺縁起によれば、大同四年(809)京都御所炎上の折鎮火
松平氏初代の松平親氏が築いたといわれる豊田市松平城址の見どころ
豊田市松平町の松平城址は徳川の前身・松平氏の初代当主である松平親氏が松平郷に築いた城です。別名を郷敷城といい、松平郷を守る入口にある松平太郎左衛門家の居城です。駐車場松平城は車で訪れるのが便利です。国道301号線沿いに駐車場があります。松平
岡崎市井ノ口砦跡は額田郡一揆(ぬかたごおり いっき)において一揆方の拠点になった場所です。現在は岡崎市消防本部 中消防署北分署近くの稲荷神社になっています。>>井ノ口砦跡の場所の地図額田郡一揆とは額田郡一揆(ぬかたごおり いっき)とは室町時
新城市作手の川尻城は関東から来た奥平貞俊がこの地で始めて築いた城
新城市作手の川尻城址は関東からこの地へとやってきた奥平貞俊が奥平氏の城として始めて築いた拠点です。応永31年(1424)頃なので応仁の乱前の城です。>>川尻城址の地図看板川尻城址 天授年間(1375~81)、奥平貞俊は母方の親戚で新城市作手
2026年大河・豊臣兄弟!の主役豊臣秀長生誕地の中村公園へ電車でアクセス方法
令和八年(2026)NHK大河ドラマ・豊臣兄弟!の主役である豊臣秀長と兄の豊臣秀吉の生誕地は現在の名古屋市中村区にあった尾張中村といわれています。現在では中村公園として整備され、その中に豊臣秀吉を祀る豊国神社があります。この記事では電車で豊
小牧市内久保砦跡は天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いでの羽柴軍の砦のひとつで蜂屋頼隆、金森長近らが3,000人の兵で守ったといわれています。現在は三明神社になっており、犬山市の内久保砦の旗が立っています。>>内久保砦の場所の地図内久
新城市作手の三河亀山城の近くに城主と妻の墓といわれる塚が残っています。>>姫塚の地図姫塚 亀山城二代城主奥平貞久の夫人の墳墓。夫人についての詳細は不明であるが嫡男・貞昌以下六男の母として奥平氏後半の基礎を築いた名夫人である。村人はその徳を偲
岩倉市下本町の誓願寺は岩倉城主だった織田信安と妻の墓がある寺院です。信安は織田信長に抵抗していた同族ですが、後継者問題で息子・信賢に追放されてしまいます。その信賢も浮野合戦で信長に敗れ、その後岩倉城も落城。伊勢守家岩倉織田氏は滅亡しました。
新城市作手の塞之神城を築いたのは米福長者か奥平氏か?現地に行ってみた感想
新城市作手清岳の塞之神(さいのかみ)城址は伝説の三長者のひとり・米福長者が築いたともその後の土豪・奥平氏が築いたともいわれる城跡です。>>塞之神城址の地図現地看板塞之神城址所在地 新城市作手清岳字本城立 地 山頂・標高628m(比高80m)
小牧市宇田津砦(歌津砦)は徳川譜代の松下親乗、松平忠頼が守った砦だった
小牧市東3丁目の宇田津砦は、天正十二年(1584)の小牧・長久手合戦で織田・徳川連合軍の松下親乗、松平忠頼が守った砦です。史蹟 宇田津砦趾 此の地は昔 宇田津という鞍作りの名工が居住していましたが、天正小牧・長久手の役、当時徳川・北畠連合軍
日本100名城にも認定されている犬山市の国宝・犬山城に行った時にセットで訪れたいのが城下町にある城とまちミュージアム。ここには犬山城の歴史のほか、すごく分かりやすい犬山城と城下町のジオラマがあります。>>城と町ミュージアム 犬山観光情報
新城市文珠山城は武田軍に脅された奥平氏が一晩で築いたので一夜城といわれる城
新城市作手の文殊山城(もんじゅやまじょう)は当時、亀山城を拠点にした奥平氏が築いた城です。合戦のためだけに築かれたので文珠山砦(もんじゅやまとりで)ともよばれています。>>文珠山城の場所の地図現地看板文殊山城跡 この城跡は、亀山城主の奥平氏
丹羽長秀の屋敷跡を砦に改修した小牧市蟹清水砦跡は地形と街道が分かりやすい
小牧市小牧4丁目の蟹清水砦跡は天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いで織田・徳川連合軍の砦として利用された場所です。江戸時代には尾張藩の御殿が建てられました。>>蟹清水砦跡の地図蟹清水砦跡 蟹清水砦は、織田信長による小牧山への築城(小牧越
小笠原諸島を発見した小笠原貞頼は西尾市幡豆寺部城と関係があった!その詳細
東京の南の島・小笠原諸島は戦国時代に現在の愛知県西尾市幡豆町の土豪・小笠原氏の一族が発見されたという説があります。それが理由で小笠原諸島という名前になったとか。ではなぜ西尾市幡豆町の土豪が有名な小笠原諸島を発見したのか?詳細を簡単に説明しま
新城市作手の甘泉寺には長篠設楽原の戦いで活躍した鳥居強右衛門と妻の墓があります。また境内のコウヤマキは国指定天然記念物です。■甘泉寺の住所■新城市作手鴨ヶ谷門前>>甘泉寺の場所の地図もしかすると参道は…甘泉寺の駐車場を出て参道を登ると何やら
羽柴秀吉自ら指揮をした小牧市外久保砦(久保山砦)は高低差と眺望がスゴい!
小牧市久保一色の外久保砦跡は天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いで羽柴軍が築いた砦のひとつです。現在は熊野神社になっています。>>外久保砦の場所の地図外久保砦の配置場所外久保砦は秀吉本陣だった楽田城(犬山市)の前方を守る場所にあります
新城市作手に残る米福長者の館跡や酒粕を捨てた塚などゆかりの地を散策
新城市作手歴史民俗資料館に伝説の三河三長者のひとり、米福長者の説明があります。長者の伝説 平安時代の終わりごろから、地方の豪族の中にも豊かな富をもった長者があらわれます。作手には米福(よねふく)・荒原(あわら)・本宮(ほんぐう)の三長者がお
東西2つの砦があり羽柴軍の三好秀次、丹羽長秀が守った小牧市小松寺山砦跡
小牧市小松寺山砦は天正十二年(1584)の小牧・長久手合戦で羽柴軍の三好秀次、丹羽長秀が守った砦です。>>小松寺山砦の地図 小松寺山砦跡 天正十二年(1584)の小牧・長久手の合戦で、秀吉方の砦が築かれた。小松寺山一帯に、砦は二か所あったと
永井直勝の側室・由利姫(百合姫)の祠が残る大河内松平氏の安城市根崎陣屋跡
安城市根崎町の根崎陣屋は、江戸時代に現在の安城市南部を治めるために築かれた陣屋跡。現在は地元で遺跡の丘と呼ばれ、永井伝八郎直勝の側室・由利姫(百合姫)の祠があります。>>根崎陣屋の場所の地図現地説明看板 根崎陣屋跡 慶安三年(1650)、時
小牧長久手合戦で羽柴方の堀秀政、蒲生氏郷らが守った小牧市田中砦跡
小牧市東田中に三ツ山(みつやま)古墳という古代の古墳がありますが、ここは天正十一年(1583)の小牧長久手の戦いで、羽柴秀吉軍の田中砦となった歴史があります。■田中砦の住所■小牧市東田中>>田中砦の場所の地図前線近くの砦田中砦の場所を見てみ
福釜松平家の拠点・安城市福釜城址と菩提寺の芳泉寺そして地名の由来の釜ヶ淵
安城市福釜(ふかま)町は、福釜松平家が城を築いて拠点にした地です。福釜松平家は松平五代当主・松平長親の次男・親盛を祖とした家で松平家一族でも創立は後のほうです。福釜城址福釜松平氏の拠点だった福釜城は現在の安城市福釜町蔵前あたりにあったといわ
小牧・長久手合戦で日根野備中守弘就が守った羽柴軍の二重堀砦跡
小牧市二重堀町の二重堀砦は天正十一年(1583)の小牧・長久手の戦いの時、羽柴軍の日根野弘就(ひねの ひろなり)が兵力約2,000で守備した砦です。砦の規模は東西約100m、南北約70mほど。羽柴軍が長久手敗戦後、撤退命令が下され、それに対
西尾市寺津町の寺津城址は戦国時代に吉良氏、徳川氏に仕えた大河内(おおこうち)氏の拠点だった城です。また「知恵伊豆」こと老中・松平信綱の大河内松平家は寺津城の大河内氏から分かれた一族です。◆徳川家康の祖母も大河内氏?絶世の美女で知られる徳川家
私が愛知や名古屋の戦国史,城の講座で講師をする時に気をつけている3つとは
これは令和五年(2023)に愛知県常滑市で開催された、にっぽん城まつりの城熱ワークショップで、私が愛知県の徳川家康ゆかりの城や史跡に関する講座を行った時の画像。この時は席の数も限られており、立ち見の方も多かったです。さて、私が愛知県や名古屋
刈谷市小垣江町には3つの城があった!地内城、須賀城、新庄城の場所と感想
刈谷市小垣江町の3つの城址レビューです。まずは小垣江地内(ちない)城。>>小垣江地内城の場所の地図 誓満寺 むかし、『荒井』に2つの堂が向かい合って建っていて、『どうむけ』(堂向い)と呼ばれていた。永正年中(1504~20)、戦いに敗れた長
安城市丈山苑は城跡だった!石川丈山邸の遺構と城址ポイントはここ!
安城市和泉町の丈山苑(じょうざんえん)は、戦国武将で文人である石川丈山(いしかわ じょうざん)の生誕地です。現在は提案で有名な丈山苑ですが松平家、徳川家に仕えた譜代家臣・石川氏の館跡なのです。つまり土豪の館城です。この記事では残る遺構や城巡
安城市東端町に残る東端城址は小牧・長久手の戦いで池田恒興を討った永井伝八郎直勝の居城跡です。現在は城山稲荷大明神という神社になっています。>>東端城址の地図現地の石碑 東端城と城主永井伝八郎直勝 東端城は天正八年(1580)大浜郷にて羽城(
新城市石橋城址は奥平貞勝への謀反で成敗された奥平弾正繁昌の館城の跡
新城市の道の駅・つくで手づくり村の道路を挟んだところにある慈昌院は、戦国時代に作手一帯を治めていた奥平氏の一族・奥平繁昌(しげまさ)の石橋城の跡です。>>石橋城址の地図現地案内看板 石橋城址(弾正屋敷) 石橋城は、奥平二代貞久の二男、弾正久
刈谷市重原本町の重原陣屋跡は江戸時代後期の寛政二年(1790)に起きた寛政の一揆後、福島藩がこの地を治めるために築いた陣屋跡です。>>重原陣屋の地図寛政の一揆寛政二年(1790)、刈谷藩が借金返済のために行った「強引な増税」と「綿の専売制」
尾張旭市の狩宿(かりじゅく)城址は、この地の土豪・林氏の居城跡といわれています。現在の狩宿第2ちびっこ広場周辺が城跡です。以下は現地看板です。狩宿城は、寛政五年(1793)や天保十二年(1841)作成の狩宿村絵図に「古城跡」として描かれてい
名古屋市名東区の猪子石(いのこし)城址は、この地の土豪・横地主水正秀次(よこちもんどのしょうひでつぐ)の居城跡です。横地氏は遠江国横地城(現在の静岡県菊川市)から移ってきた一族で小牧長久手の戦いでは徳川方として戦いました。>>猪子石城址の地
名古屋市昭和区の御器所西城(ごきそ にしじょう)は、柴田勝家の甥で賤ヶ岳の戦いで活躍した鬼玄蕃こと佐久間盛政の居城です。御器所西城があった現在の名古屋市昭和区とその周辺は、織田信長に使えた佐久間氏の所領でした。築城時期は嘉吉年間(1441~
大府市横根町の横根城址は本多氏と梶川氏が城主だった歴史を持つ城です。>>横根城址の地図最初の城主は本多忠勝の先祖豊後国本多郷(ぶんごのくに ほんだごう:現在の大分県臼杵市市浜)に本多(本田)右馬允助定(ほんだ うまのじょう すけさだ)という
設楽原古戦場がある新城市牛倉には、羽柴秀吉陣跡が残されています。令和八年(2026)のNHK大河ドラマ・豊臣兄弟!で羽柴秀吉(池松壮亮さん)、羽柴秀長(仲野太賀さん)率いる羽柴軍が陣を置いた場所と妄想すると、大河ドラマファンには嬉しい場所で
豊川市(旧宝飯郡一宮町)の一宮砦は、永禄三年(1560)の桶狭間合戦後、今川氏真と松平元康(徳川家康)の攻防戦があった場所です。>>一宮砦跡の地図豊川市指定史跡 一宮砦跡桶狭間の戦い(1560)以後、松平氏と今川氏の間で、三河攻防が激しくな
新城市大野田城址は、この地の土豪だった菅沼氏の居城。野田城の支城でしたが野田城が改修された時、大野田城に菅沼氏の拠点が移ったこともありました。竹林の城址でしたが令和七年(2025)に整備され、遺構も見やすくなりました。現地にはどんな見どころ
■著者 高橋陽介■発行所 株式会社講談社■価格 1,000円(税別)■一言でいうと 関ケ原の戦いの新説を説明した本関ケ原の戦いといえば、天下を狙う徳川家康と豊臣政権を守ろうとした石田三成が戦った、いわば天下分け目の合戦として知られています。
豊田市志賀町に残る古瀬間城址は、長沢松平氏のひとち松平宗忠が築いた城といわれています。一方で足助鈴木氏の城と構造が似ているので、鈴木氏の築城説もあります。浄願寺の裏山が古瀬間城址です。>>古瀬間城址の地図浄願寺境内の奥へ行くと古瀬間城址への
豊田市の城山城は松平氏が築いたといわれる城です。廃城になった後の天正十二年(1584)小牧長久手の戦いで改修し再利用されたともいわれています。城山城は豊田市内で見応えがある城のひとつで、人気の大給城(おぎゅうじょう)近くにある名城です。今回
豊田市の大給山中(おぎゅうやまなか)城址は築城時期、築城者不明の城跡です。松平氏発祥の地である松平郷、そして大給松平氏の拠点だった大給城の近くにあります。弘治元年(1555)頃、三河をほぼ領国化した今川氏が、反今川勢力を攻めるためにこの地に
西尾市に八ツ面山(やつおもてやま)という、なんだか古墳みたいな山があります。実際に工事中に埴輪(はにわ)が発見されているので、巨大な古墳だったのでは?という説もあります。それはさておき。西尾市ではシンボルみたいな八ツ面山ですが、現在の西尾市
■発行所 株式会社 筑摩書房■著者 大久保彦左衛門■翻訳 小林賢章■値段 1300円(+税)■一言で言うと 大久保彦左衛門の三河物語の現代語訳版徳川家康の家臣で天下のご意見番として知られる大久保彦左衛門忠教(おおくぼひこざえもん ただたか)
愛知県西尾市の愛知こどもの国に名古屋城築城時の残石といわれる石があります。石の左半分が割られたような跡があり、矢穴跡も残っています。>>愛知こどもの国公式サイト>>愛知こどもの国の場所の地図なぜここに名古屋城に持っていくはずの石があるのか?
かつて現代の田原市田原町新町にあった槍合橋(やりあいばし)は松平元康(後の徳川家康)と今川軍が戦った古戦場に残る橋です。現地の看板は以下のとおりです。槍合橋(やりあいばし) 昔、この場所には石で作った橋が架けられており、橋の下には水路があり
春日井市勝川町2丁目の龍源山太清寺はこの周辺にある勝川(かちがわ)の地名の由来となった寺院です。>>太清寺の地図現地案内看板には天正十二年(1584)に起こった小牧長久手合戦と徳川家康のことについて書かれていました。太清寺の歴史 龍源山太清
豊川市の御馬(おんま)城址は鎌倉時代に築城され、江戸時代には長沢松平氏の城にもなった史跡です。豊川市教育委員会の現地説明看板は以下の通り。御馬城跡応安二年(1369)将軍足利義満が細川頼之(よりゆき)に命じ、頼之はさらに細川頼有(よりあり)
豊川市御津町下佐脇の佐脇城主はこの地の土豪だった佐脇氏の居城跡です。下佐脇ちびっ子広場に石碑と看板があります。>>佐脇城址の地図佐脇城跡佐脇氏は鎌倉期にここ佐脇を名字の地とする地頭であったと思われ、南北朝期以後は国人領主となり、室町期には幕
豊川市御津町の竹本城址は戦国時代に今川氏についていた竹本氏の居城跡です。現地看板には以下のように説明があります。竹本城跡 昭和四十四年二月三日指定新田義貞の臣に、高田薩摩守という豪傑がおり、その次男・又次郎正季(またじろう まさすえ)がここ
西尾市西浅井町にあった浅井西城は徳川家康の祖父・松平清康の弟・松平康孝の居城跡です。現在は民家になっていますが、濠(堀)や土塁、また詰城址が残っています。>>西浅井城の地図土豪屋敷跡土塁西浅井の丘陵には東西二つの城があり、西古城を『清康御弟
江南市布袋駅の東側(マックスバリュ江南布袋店)向かいに織田信長と側室の吉乃(きつの)、そして子どもたちの銅像が建っています。>>銅像の場所の地図説明板にはなんて書いてある?信長と生駒の息女吉乃とこどもたち戦国時代信長は清洲城から馬で生駒屋敷
名古屋市中川区の助光(すけみつ)城址は、織田信長に仕えた福留将監の居城跡といわれています。現在は土之宮神明社に石碑があります。>>土之宮神明社(助光城址)の地図土之宮神明社は天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭る神明社と埴安姫神(はにやすひ
豊田市広幡町の広見城址は戦国時代に織田信長に仕えた中条秀正(ちゅうじょう ひでまさ)の居城です。この地は三河国ですが中条氏は尾張の織田氏に仕えていました。その中条氏の居城だった広見城址は山城ですが、地元保存会の方々によって整備されています。
生田城(しょうだじょう)について。三河国二葉松には城主について酒井彦四郎、石川又四郎、生田六左衛門と記述があります。浅野文庫蔵・諸国古城之図にも記載がある城で、出入口二ヶ所に枡形が用いられ、性格的にはどこかのお城の出城的なものだったそうです