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生きる力になれば https://blog.goo.ne.jp/02161234

神様の声に導かれてここまで生きて来ました。

良寛様の生き方に共鳴しています。良寛様と呼ばれています。感謝しています。

良寛(お地蔵)
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2016/03/18

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  • 最期の晩餐人は弱い者

    聖書の中でも暗い話しです。ペトロとユダはイエスの弟子です。この二人は対照的な生き方をしました。最後の晩餐の時に、イエスは言います。この中に私を裏切った者がいます。小銭を貰って、私を売った者がいる。それが、ユダでした。彼はそこにいられなくなり、役人にあの人は無実の罪ですと小銭を返しに行くのですが、知ったことではない、それはお前の問題だと言われてユダはじさつしてしまいます。ペトロは私はイエスを裏切りませんと言いましたが、あなたは朝の鳥が鳴く前に三回私を知らないと言いますといわれた。役人が朝イエスを探しに来ました。役人にイエスなんか知らないと答ました。ある男がイエスと一緒にいたと指差しました。また私は知らないといいました。別の女が確かにイエスといつも歩いていたと発言しました。また、人違いだイエスなど知らないとい...最期の晩餐人は弱い者

  • 幸福の輪

    「仏教は二利(自利、利他・じりりた)に尽きます」(空海)唐留学から帰国した際の空海の報告書の言葉です。自分が修行して、悟りを得ること(自利)と、他の人の救済のために尽くすこと(利他)の二つを完全に行うのが理想で、自利と利他は相反するものではなく、大きな輪のようにつながっているのです。自分の幸福も他人の幸福も一つの輪の中にあると述べています。宮沢賢治は「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」と述べています。ボランテイアや介護現場では、人を手助けすることで、実は自分が救われていたと気づくものです。幸せを考えたくなったら自分にできる「利他」の行いからやってみて下さい。お年寄りに席をゆずること、手をとって道を渡ることでも良いのです。ウクライナ市民を救うこともそうです。空海の言う自利利他は幸福の始...幸福の輪

  • 在原業平辞世の句

    「つひに行く道とはかねて聞きしかときのふけふとは思はざりしを」(伊勢物語・在原業平)死というものは誰でも最後に行かねばならない道であるとは前から聞いていたが、昨日今日にさしせまっていたこととは思いもしなかったなあ。私は駿河路にある高草山(1000m)の麓に住んでいた時に、雪が降る前にと登山道ではない道なき道を登ってしまった。昼なお暗く完全に道に迷ってしまった。その時、雅楽の笛の音が聞こえてきました。その人に道を聞こうと歩きましたがいっこうに縮まらない。美しい笛の音は急坂なのに乱れない?すると山道に出たのでした。そこにあった碑が在原業平の句でした。江戸に赴任となり残した妻に京都に行く知り合いの僧に出会った場所。僧に妻への手紙を託したのでした。あの笛の人は在原業平に違いないと手を合わせてお礼しました。在原業平辞世の句

  • 不思議な現象

    5年前に鎌倉の画廊で見かけたこの絵に感銘して写真を撮りました。その時はなかった手元の明かりが灯っているのです。不思議な現象

  • 神の音

    私は「神の音」で何度も救われたことがありました。そこで、今日は音の不思議な力について話したいと思います。「訪れ」の語源は衣(きぬ)の音擦れから来ています。靴の音や衣の擦れる音を聞いて、あの人がやって来た!と昔の人は気付いたからといいます。また、音信不通の事を便りがないと使ったりしました。この音信を「おとずれ」とも読んでいるようです。私は山や道に迷った時、笛や鈴の音が聞こえて来て道先案内されて助かったことがありました。先日ラジオで雅楽の演奏を聴いていたのです。すると狂言や能楽師の方たちの座談会があり、音について話していました。雅楽の楽器の中に高い音が出る多種類の笛などは、音ずれ(音信・訪れ)といい神様がその音を聴いて降りてくると言ってました。舞台で演じている時に、神様が来てくださったと感じて緊張すると話して...神の音

  • 花の雪

    「またや見む交野(かたの)のみ野の桜狩り花の雪散る春のあけぼの」(新古今集・藤原俊成82歳の作)また見ることがあろうか、交野(大阪府北東部)の桜狩り(桜の花見)、雪のように花が散る、春のあけぼの(夜明け)のこの美しいひとときを。昨日一人歩き、農協の野球グランドの廻りに咲く桜を見て来ました。雨の桜狩りを堪能して来ました。花の雪

  • 六根清浄

    山登りや険しい坂道をのぼる時に口に出る『六根清浄』(ろっこんしょうじょう)という言葉があります。これは、人生道で迷いを生じさせる目、鼻、舌、耳、身(触覚)の五感と、第六感と言われる意(意識)を浄めることを六根清浄といいます。険しい人生を山道にたとえ、登りながら、六根を浄める。頂上に到達すると何となく身体中が軽くスッキリとする気がします。季節がよくなったら山登りもいいかも知れませんね。六根を浄めれば次なる景色が見えて来るかもしれません。ある程度の苦しみストレスを乗り越えなければ喜びを感じないものだから。山登りができなくても、ビルの階段、坂道、神社仏閣の階段登る時に六根清浄と口にしましょう。皆様の身も心も清らかになりますように。六根清浄

  • 苦中の楽

    古典の中に、「静中の静、楽処の楽は真実ではない」という言葉があります。静かな環境の中での、静かな心は本当の静かさではない。騒がしい環境の中で、心を静かにすることができて始めて本当の心境という。また、楽しい環境の中での楽しい心は本当の楽しさとは言えず、苦しい中で心を楽しくすることができて、本当の心境だと言えようという意味の言葉です。静かな所にいけば、心落ち着くが、人生そんな環境など寝ている時にしかない。楽しい時は誰しも楽しいに決まっている。悲しく、苦しい時に楽しみを感じてこそ真実の楽しみなんだ。これを「苦中の楽」という。古代の人は意味深いことをいいますね。今までの自粛生活の苦労を自分を成長させる試練だと思って楽しさを見つけましょう。ここでも心癒され勇気が湧いてくれますように。苦中の楽

  • お墓参り

    ◇亡くなった人との交信です。・あなたはお墓にいますか?いません。なぜならそこは懐かしさもないからです。私のふる里や生まれた地でもないからです。・ではどこにいるのですか?あなたの心にいます。お墓のない人、御仏壇のない人、無縁仏になった人も私を思い出した時にあなたの心にいます。・お墓参りは意味ないですか?お墓参りにはわたしも一緒に行きます。ここがお墓と知るのです。だから行けない人も思い出した時にいるのです。「お墓はあなたの心にあるからです。」「お墓参りはあなたの心を元気にする旅なのです。」ありがとうございました。参考になれば。お墓参り

  • 神の声

    今日は旧約聖書から人生を変える方法を取り上げてみました。「主はアブラムに言われた。あなたは生まれ故郷を、父の家を離れて私が示す地に行きなさい。アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発した時、75歳であった。」(創世記12章1節~4節)このあと長い物語が続いています。アブラムは誰も知らない土地、言葉も文化も分からない土地に行くのです。言い訳をせずに。「チャンスは前髪しかつかまないから」と思ったから。この言葉を使ったと思われる映画の台詞が「スタンド・バイミー」の主人公リバー・フェニックスの『誰も自分のことを知らないところに行きたいんだ』と言う言葉に衝撃を受け、高校卒業後に一人東京にやって来たのが、福山雅治さんです。皆ある言葉に影響されるものですね。私はアブラムの75歳と...神の声

  • 春なれや

    「春なれや(春だなあ)名もなき山の薄霞(うすがすみ)」(野ざらし紀行・芭蕉)朝や夕方に雲に日が当たって赤く見える現象を霞(かすみ)といいます。冷え冷えとした「霧」は秋であり、やさしくたなびく「霞」は春そのもの。「霧」は深く立ち込め「霞」は夕方遠くに淡く見える。夜になると「朧(おぼろ)」と表現が変わります。桜も咲き始めました。身も心も温かくなる春がやって来たなあ。WBCの野球に感激しました。日本に生まれて良かった瞬間です。勇気をたくさんもらいました。私達のチームも世界一です。春なれや

  • 契り

    江戸時代「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」と信じられていました。親子は一世(この世かぎりのもの)。夫婦は二世(生まれ変わった時、もう一度同じ人と一緒になる)。主従は三世(前世、現世、来世と3回続く)。私は恋人、友人、同士は何度も巡り会う運命と思っています。これからもよろしくお願いします。契り

  • 傾命

    「傾命(けいめい)」とは年老いて残り少ない命のこと。「傾命をわづかに継(つな)げらく耳(のみ)」(万葉集・大伴旅人)年老いて残り少ない命をようやく生き永らえているばかりだ。不幸が重なり悪い知らせが重なってくる。心が崩れるような辛い思いを長くして、ここ太宰府で独り腸が切れるような苦しみの涙を流している。ただお二人の大なる助けによって傾いた寿命をわずかに継(つな)ぐばかりだ。このように永く生きるとたくさんの心が折れるような知らせを聞くことになる。そこで残りの命をつなげる力になることがいかに大事なことと知るのです。皆様の力で私もあなたも生きる勇気を与えられますように。傾命

  • 人生の節目

    人生の節目に立っている貴方に贈る言葉です。古代も現代も変わらないものだと感じた和歌を紹介します。平安時代前期の『古今和歌集』より、『世にふれば言のはしげき呉竹(くれたけ)の憂(う)き節ごとにうぐいすぞ鳴く』憂(う)き節とは辛いこと、悲しいこと。長く生きていると、いろいろと嫌な事が聞こえて来て、そうした、辛い折々を嘆くようにうぐいすが鳴いている。(詠み人知らず)今でも同感する歌です。古代の人も同じように感じて過ごしていたのだと分かると自分だけでないと元気が出ます。私は竹の節を人生の節と呼んでいます。この節が強い竹を作っているのです。人生もそうです。辛い節目があるから強くなっていくのです。異動で明日から職場を離れる人からの相談を受けました。新たなチャンスだと思って前向きにいけば次のステップアップになると励まし...人生の節目

  • 人生はタンゴ

    「タンゴはダンスを間違えた所からでもタンゴになる。」(タンゴの精神より)人生も間違えた所からでも人生が始まるのだと思います。人生はタンゴだ。人生はタンゴ

  • まほろば

    「大和(やまと)は国のまほろば、畳(たた)なづく青垣(あおがき)、山籠(やまこも)れる大和し美(うるわ)し」(日本書紀)大和は国の中で一番良いところである。幾重にも重なりあった青い垣根のような山々に囲まれた大和は本当にうるわしいところであります。「まほろば」とはすぐれた良いところのこと。また、その人にとってかけがえのないこの世でただ一つの気持ちが安らぐ場所や心の中という意味があります。皆様といるこの場所も、まほろばという安らぎの家です。まほろば

  • 最期の言葉

    死に際の言葉を聞いたことのある人は心響く言葉だと忘れないと思います。人間が極限状態に置かれたり、何かに真剣に取り組んでいる時に発した言葉は誰の胸をも打ちました。それは偽りがなく真理を含んでいるからです。言葉の大部分は右から左へと流れて忘れられていく。しかし、強い感動を覚えた言葉は希望と勇気、自信、信念となって人生の栄養素になっていきます。2000年前の人の思いも今に通じています。一昨日長年お世話した92歳のおばあさんが亡くなりました。私に頂いた言葉があなたの後ろに観音様がいる。息子さんにはありがとう!と言って永眠されました。昨年亡くなった人にはあなたとお地蔵さんが一緒に入って来たでした。私はクリスチャンですが、その人にあった神様が来てくださるのだと感謝しています。ここで皆様に心打つ言葉を伝えられたらありが...最期の言葉

  • しのび草

    織田信長が好んだ歌の一つに「死のうは一定しのび草には何をしよぞ一定語り起こすよの~」(必ず死ぬのだからしのび草には何をしようか。みんなきっと思い出して、話の種にしてくれるだろうよ)是非もなし(仕方ない)という言葉を残したといいます。偲び草とは香典返しのことのようです。信長の偲び草は400年以上たっても枯れないで生き続けています。私も生きる力になる導きの言葉を偲び草にしたいと思っています。「しのび草言霊のせた桜かな」舞い散る桜に、思いをのせた言の葉で香典返しとします。「咲く桜残る桜も散る桜」(良寛)しのび草

  • 花曇り

    前のブログのタイトルです。花曇り

  • 【花曇り】桜の花のころの、暖かい曇り空のことを「花曇り(はなぐもり)」といいます。天気が変わりやすい時期でもあります。春の嵐でも吹いたら、一夜にして散ってしまう。「花曇り」はそんな桜の花を美しく咲き続けさせてくれる優しい空模様です。「満たされているはずなのに、不安になるのは何故でしょうか。花曇りの日に浮かぶおぼろ月のように幸福がぼやけている」そんな心の内を心の花曇りと呼ぶのかもしれない。「盃かわす色香漂う桜顔」そんな光景が浮かぶ花見酒、月見酒がなつかしい。は

  • 辛いときが来たら

    辛い時を経験してきた人には、共鳴できる和歌があります。『ながらへばまたこの頃やしのばれむ憂(う)しと見し世ぞ今は恋しき』(新古今集・藤原清輔)「ながらへば」とはこの世に生き永らえたらということ。「憂し」とは嫌なこと。嫌で、つらくて、どうしようもないこの頃だけれども、このまま生き永らえていたら、いつか懐かしく思う日が来るだろうな。辛かった昔のあの頃が、今は恋しく感じられるように。確かに、そう感じます。古代の人も同じなんだと親しみを感じます。さあ、今日も辛いことあるかもしれませんが、懐かしく、恋しくなる思いでだと気楽に行きましょう!『ながらへばまた懐かしく思い出すことだろう嫌なことを』。辛いときが来たら

  • そばにいるよ

    私の言葉より「命は鉛筆さ思い出書き残して減っていくんだ」「体の重さはみんな違うけど命の重さはみんな一緒魂の重さだって一緒なんだ」「母さんがいない里帰りはつまらないふる里って母さんのことなんだ」「人に言えない苦労が本当の苦労さそれがあったから今の自分がいるんだな」「幸せって苦労した分しか来ないんだよ」「泣いた涙は人を思う優しさになるんだね」「誕生日は神様の贈り物」「生かされるのは誰かの思いがあるからさ」皆さんもいろんな悩み抱えてるでしょうね。みんな一緒ですよ。心配しないでお互い力あわせて生きましょう。私もそばにいるよ。そばにいるよ

  • 心を元気にする

    鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝(弟・義経)の妻に北条政子がいます。頼朝51歳で亡くなった時に髪をおろし、尼さんになりました。彼女が法然(ほうねん)に浄土宗の教えを分かりやすく説いていただいたものが「浄土宗略抄」です。北条政子は祈れば、病気や命が永らえるのか聞いたのかも知れません。その返事のようなものがあります。『加持祈祷(かじきとう)など、祈ることによって病気が治り、生きる人の生命が延びることがあるならば、この世で病気をしたり、死んだりする人は、誰一人としていないはずです。祈ることによって救われるのは、一人ひとりの心です。』(法然)仏教には「体の病気を治す」という教えはありません。ただし、「心を元気」にする教えは数多くあります。心を元気にすれば『生きる力』になるというのが仏教の教えと彼女に説いたのだと思います...心を元気にする

  • 五種類の人間

    人間は次の五種類にわかれる。1.いなくてはいけない人。2.いたほうがいい人。3.いても、いなくてもいい人。4.いないほうがいい人。5.死んだほうがいい人。(お釈迦様)私はまだまだ3から下の方ですがそろそろ神様に喜ばれる人間にならなくては。皆様よろしくご指導お願い致します。今日から介護支援専門員(ケアマネ)に異動します。緊張しますが嬉しいです。神から与えられた仕事と感じています。皆様の期待に添うよう頑張ります。五種類の人間

  • 人生一番

    「20歳のときハンサムでなく。30歳のとき強くなく。40歳のとき財がなく。50歳のとき賢くなけりゃ一生なんでもない。」(イギリスの諺)自分の事のようで耳が痛く感じました。この真意は分かりませんが私なりに解釈すると、「一生なんでもない」生き方をするのは一番大変な事だと思います。人様に迷惑ばかり掛けて生きて来た自分ですから。それもなんでもない人生と言うのなら素晴らしい言葉だと思います。父、母、兄弟、子ども達に合格点をあげられます。「なんでもない平凡な人生が一番」と思います人生一番

  • 人間をとる漁師

    「イエスは、わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。(聖書マタイ福音書)自分のしたいことをするのは子ども。自分のすべきことをするのが大人。魚の欲しい人に魚をあげる事ではない。魚の欲しい人に「魚の釣り方」を教えることだ。自立を目指すそのことが大事だからと説いています。私達は心に刻もう!Thelordshepherdsme.人のために生きていこうと。人間をとる漁師

  • 春風

    漢詩に『一樹春風有両般南枝向暖北枝寒』(いちじゅのしゅんぷうりょうはんありなんしはだんにむかいほくしはかん)一本の樹に春風が吹いた。南の枝には暖かく感じても、北の枝には届かなくて寒い。まったく違う二つの枝。要約すると、予想外の結果が起きるものという意味です。春風吹いて花が咲き誇るが、一方では地震や戦争があって心が寒い。そんな感じをいっているのでしょう。どこにも穏やかな春風が吹きますように。春風

  • 魂の言葉

    言葉には魂があります。生きる力があります。今日の言葉が貴方に響けば嬉しく思います。「優しい言葉一つで冬中暖かい」(日本の諺)「幸福になりたければ、やれ恩を返せだのと言わないで、人に尽くす喜びだけを生き甲斐にしようではないか」。「人間嫌いを直す簡単な方法は一つしかない。相手の長所をみつけることだ。長所は必ずみつかるものだ」(カーネギー)「真心をもって人を助ければ、必ず自分も人から助けられる。これは人生のもっとも美しい補償の一つである」(エマーソン)「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(聖書)「本当に幸福になれる者は、人に奉仕する道を探し求め、ついにそれを見出だした者である。これが、私の確信である」(シュヴァイツァー)「愛はいつまでも絶えることがない。いつまでも存続するものは、...魂の言葉

  • 花明かり

    『花明かり』満開の桜のまわりは、夜でもほのかに明るく感じられます。花びらの色が白っぽいから、という理由だけではなく、人をひきつけるオーラのようなものが漂っているからでしょうか。世阿弥が使いだした「あの人には、花がある」という言葉には不思議なオーラがあり、心の中に見事な花が咲いている人を指すのでしょうか。真っ暗な闇の中でも、そこだけが明るく感じられる。それを指す「花明かり」には人々を魅了するオーラを感じます。そんな人になりますように。花明かり

  • 厄払い

    日本の諺に「熱火(あつび)を子に払う」があります。子供と二人で並んでたき火にあたっている。火の中の木がパチパチはねたはずみに火の粉が飛んで来て、親の体の胸のあたりにくっつきました。慌てた母親は火の粉を手で払う。その火の粉が隣にいた子供にあたり火傷をおってしまうという意味です。我が身にふりかかった災難を慌てて振り払い自分が守ってやらなければならない者に移してしまう事。熱火(あつび)は払うのではなく自らの手で消す事が大事です。災難や厄もそうです。「厄払い」するというよりも「厄を浄化」することが大事と私は考えています。自らの力で厄を消す。そんな力を持って頂きたいと思います。自然の力や神仏の力を借りたり、ここで生きる力が湧く言葉を身につけることが厄払いになるからです。厄払い

  • 皆さんが先生

    「負うた(背負った)子に教えられて浅瀬を渡る」(日本の諺)謙虚な気持ちになってどんな人からでもいつも学ぶ態度を持てば、あらゆる人から学ぶことができるという意味です。「三人で旅をすると必ず先生になる人がいる」といいます。旅先のさまざまな場面でなるほどと感心することがあります。本当に回りの人はすべてが先生です。今日も謙虚な気持ちで学びましょう。皆さんが先生

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