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一日一日大切に生きること https://blog.goo.ne.jp/fiji-island-nadi

毎日を楽しく生きるために、人間について、この世の中の諸問題について一生懸命に考えてみたいと思います。

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2015/06/25

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  • 始祖鳥についての改訂増補版(5)

    始祖鳥は「鳥類」なのか、それとも「恐竜」なのか(5)第1章始祖鳥の化石とその標本について(4)今ではよく知られていることですが、地球上では三畳紀の中頃からジュラ紀そして白亜紀にかけて恐竜が大繁栄した時代だったと言われています。そんなわけで、われわれは中生代を恐竜の世代とも呼んでいるのです。ゾルンホーフェンが石灰石の採石所のある町と聞きますと、私たち日本人は戦前の三井・三池などの鉱山町の印象を受けますが、ゾルンホーフェンは自然の美しさ、文化遺産、そして化石など多くの遺産の組み合わせを示している風光明媚な村だといわれています。また、ゾルンホーフェンは、ジュラ紀後期の古代生物を明らかにする化石の宝庫であり、そして石灰岩でも有名な町ですが、上述しましたように始祖鳥(アーケオプテリクス)の化石でも有名です。多くの驚...始祖鳥についての改訂増補版(5)

  • 始祖鳥についての改訂増補版(4)

    始祖鳥は「鳥類」なのか、それとも「恐竜」なのか(4)第1章始祖鳥の化石とその標本について(3)始祖鳥の標本は、2014年までに12体が発見されています。因みに、最初の標本は、上述のように、現在大英博物館に所蔵されているロンドン標本(LondonSpecimen)は、1861年にドイツ(連邦共和国)バイエルン州ミッテルフランケン行政管区のヴァイセンブルク=グンツェンハウゼン郡の近郊の市町村ランゲンアルトハイム(Langenaltheim)近郊で産出されたと言われています。最初の記載者は1863年、イギリスの古生物学者として知られるリチャード・オーウェン(SirRichardOwen,1804–1892)です。2番目は、フンボルト大学自然史博物館(MuseumfürNaturkunde)に所蔵されている大変有...始祖鳥についての改訂増補版(4)

  • 始祖鳥についての改訂増補版(3)

    始祖鳥は「鳥類」なのか、それとも「恐竜」なのか(3)第1章始祖鳥の化石とその標本について(2)次に、始祖鳥の生息した時代ですが、それは中生代と考えられています。中生代とは、通常使用されている「地質年代の大区分の一つ」ですが、大凡2億5,100万年前〜6,550万年前までの期間、約1億8,500万年もの途方もなく長い期間を指しています。始祖鳥が生息していた期間は、ジュラ紀後期2番目の地質年代キンメリッジアン(Kimmeridgian:約1億5,730万年前~約1億5,210万年前)と言われています。ここで地質年代とは、約46億年の地球の歴史を区分したもので、中生代は古生代と新生代の間の区分に相当します。中生代は、三畳紀(さんじょうき)・ジュラ紀・白亜紀(はくあき)の三つに分けられています。始祖鳥は、最古の鳥...始祖鳥についての改訂増補版(3)

  • 始祖鳥についての改訂増補版(2)

    始祖鳥は「鳥類」なのか、それとも「恐竜」なのか(2)第1章始祖鳥の化石とその標本について(1)先ずは、始祖鳥について、ほんの入り口だけに過ぎませんが述べておきましょう。「始祖鳥」という呼び名は、わが国で使っている「和名」です。欧米ではアーケオプテリクス(Archaeopteryxまたは「アルカエオプテリクス」と呼ばれています。その意味は鳥類という意味があるわけではなく、聞くところでは「古代の翼」(アーケオ:「古代の」、プリテックス:「翼」)の意味だそうです。始祖鳥の分類階級をみますと、「綱」は爬虫綱であり、「目」は始祖鳥目(Archaeopterygiformes)です。この「目」に「科と属」が含まれますが、1888年にドイツの解剖学者で、脊椎動物の解剖学的研究、特に鳥類の形態と分類に関する研究で知られる...始祖鳥についての改訂増補版(2)

  • 始祖鳥についての改訂増補版

    始祖鳥は「鳥類」なのか、それとも「恐竜」なのかまえがき近くを散歩していますと、いろいろな野鳥を見かけます。最も身近なのがカラス(学名:Corvidae、スズメ目、カラス科、カラス属、和名はカラス)とスズメ(学名:Passermontanus、スズメ目、スズメ科、スズメ属、和名はスズメ)でしょうか。現在、鳥類の種は凡そ10,400種そのうちスズメ目は6,200目で約6割占めています。またキジバト(学名:Streptopeliaorientalis、ハト目、ハト科、キジバト属、和名はキジバト)、ドバトまたはカワラバト(Columbalivia、ハト目、ハト科、カワラバト属、和名はドバトまたはカワラバト)、ムクドリ(学名:Sturnuscineraceus、スズメ目、ムクドリ科、ムクドリ属、和名はムクドリ)そし...始祖鳥についての改訂増補版

  • 「始祖鳥について」の改訂増補版

    「始祖鳥について」の改訂増補版」、近々掲載予定です。「始祖鳥について」の改訂増補版

  • 始祖鳥について(5)

    始祖鳥について(5)始祖鳥(Archaeopteryx)と現生鳥類の祖先、その(2)恐竜学者で進化生物学者の真鍋真(国立科学博物館)さんの『恐竜学』(Gakken、2020)によりますと、「約6600万年前、ほとんどの恐竜は絶滅しました」として、次のように丁寧な説明がなされています。「約6600万年前、地球に隕石が衝突しました。隕石の衝突で地球の環境が大きく変わり、それまで陸上を支配していたほとんどの恐竜は、食べ物を失って姿を消しました。しかし、一部の食肉恐竜は、中生代ジュラ紀には鳥類に進化していました」と。そして、「約1億6000万年前、地球の陸上を支配していた恐竜は、ほとんど姿を消しましたが、一部は鳥類に進化し、現在も生きている」のだと言うのです。それゆえ、現在の鳥類は、恐竜の生き残りであるとも考えら...始祖鳥について(5)

  • 始祖鳥について(4)

    始祖鳥について(4)始祖鳥(Archaeopteryx)と現生鳥類の祖先、その(1)1861年マイヤー(ChristianErichHermannvonMeyer:1801-1869)によって、Archaeopteryx(アーケオプテリクス、和名で「始祖鳥」)として記載される基になった標本は、"SingleFeather"と呼ばれる1枚の羽の化石でした。そして1861年、この一枚の羽の化石がマイヤーによって学術的に記載されました。この羽根の化石標本は、その前年(1860年)にドイツのバイエルン、アルトミュール地方の石版岩(粘板岩)採掘場から発見されたもので、マイヤーによってArchaeopteryxlithographicaと、学名が名付けられました。それは1861年の、最初のアーケオプテリクス(始祖鳥)...始祖鳥について(4)

  • 始祖鳥について(3)

    始祖鳥について(3)始祖鳥の特徴とは『白亜紀の自然史』(東京大学出版会、1993)、『恐竜学』(東京大学出版会1993)など恐竜研究で知られる日本の古生物学者で、国立科学博物館研究員、名誉館員を歴任された小畠郁生(1929-2015)博士は、始祖鳥の特徴について、次のように解説されています。「始祖鳥は基本的には爬虫(はちゅう)類型、とくに獣脚類の中空の骨格をもつが、鳥類的な特徴が認められるだけでなく、前肢、胴、尾に典型的な鳥の羽毛をもつので、両者の中間的動物とされる。目が大きく、嘴(くちばし)状の口には歯が発達し、鳥に似た後肢には前向きのつめをもつ3本の指と、後ろ向きの短い1本の指がある。長い尾には骨格の中軸があり爬虫類の特徴を示す。前肢には細い肩甲骨、細長い腕骨、長い3本の指がある。鎖骨を除くと、始祖鳥...始祖鳥について(3)

  • 始祖鳥について(2)

    始祖鳥について(2)始祖鳥の標本について前回、「始祖鳥について(1)」では、始祖鳥の「ベルリン標本」のレプリカを掲載しましたが、わが国の博物館で展示されている始祖鳥の標本としてもこの化石標本が多いように思います。確かに、最初の記載標本は、「ロンドン標本」ですが、いろいろ調べてみますと、ここに掲げた「ベルリン標本」が始祖鳥の化石標本として評価が高いように思います。本稿に掲載した「ベルリン標本」は、群馬県多野郡神流町中里地区にあります「神流町恐竜センタ-」に展示されているものを使いました。その理由は、センター内に「写真撮影自由」という掲示が出ており、個人のブログで紹介する程度なら、敢えて許可をとらなくても問題ないと判断したからです。始祖鳥の標本は、2014年までに12体が発見されています。因みに、最初の標本は...始祖鳥について(2)

  • 始祖鳥について

    始祖鳥について(1)近くを散歩していますと、いろいろな鳥類を見かけます。からす、ドバト、ムクドリ、人なっこいキジのつがいなども見かけます。小川の水辺などでは、白鷺や川鵜など。そして人家の庭先では季節にもよりますが、うぐいす、めじろ、しじゅうがら、ほおじろ等々は、そのさえずりは気持ちをなごませてくれます。最近、ふと鳥たちの先祖、太古の鳥類に想いをはせ、昔、勉強したことのある始祖鳥のことが頭に浮かびました。そこで、少しばかり始祖鳥について新しい成果を調べて見ることにしました。始祖鳥の化石とその時代最初に、始祖鳥の化石について、ほんの入り口だけ記しておきましょう。「始祖鳥」とは和名です。学名は、Archaeopteryxlithographicaです。この学名は、ドイツの考古学者ヘルマン・フオン・マイヤー(Ch...始祖鳥について

  • ゾウ目 「デイノテリュウム」再考(4)

    ゾウ目「デイノテリウム」再考(4)デイノテリウム再考のまとめ稿末に掲げた〔参考文献〕の(4)ティム・ヘインズ&ポール・チェンバーズ『よみがえる恐竜・古生物』【超ビジュアルCG版】(群馬県立自然史博物館監修:総監修者長谷川善和)、椿正晴訳の178頁「デイノテリウム」によりますと、「デイノテリウムはインドリコテリウムに次ぐ史上2番目に大きな陸生哺乳動物。体高が4メートル、体重は約10トン。現生のゾウと類縁関係にあり、牙、分厚い皮膚、長い脚と鼻など、ゾウと共通する特徴をたくさんもっていた」と記しています。なお、同頁の見出しには「デイノテリウム最大のゾウ」となっています。これまでわたしは、ゾウと「類縁関係」にあるとは書きませんでした。あくまでも「ゾウの仲間」と記しました。その理由は、「類縁関係」としますと、「縁戚...ゾウ目「デイノテリュウム」再考(4)

  • ゾウ目「デイノテリウム」再考(3)

    ゾウ目「デイノテリウム」再考(3)デイノテリュウムの主な「種」と化石の産出地大分横道に迷い込みましたが、また〔ゾウ目「デイノテリュウム」再考〕にもどります。デイノテリュウムが発見されたのは、1829年のことでした。ドイツの古生物学者カウプが、エッペルハイム(Eppelsheim)で、下顎に牙の付いた下顎骨見つけたのが最初でした。ここまでは前回も述べました。その後もデイノテリュウムの化石骨は部分的には、ドイツなどヨーロッパだけでなく、デイノテリュウムの仲間はアフリカ東部からも発見されています。フランスの古生物学者でパリ国立自然史博物館古生物学教授を務めたカミーユ・アランブール(CamilleArambourg、1885-1969)は、1934にデイノテリュウムの種の一つでDeinotheriumbozasi...ゾウ目「デイノテリウム」再考(3)

  •  ゾウ目「ディノテリウム」再考(2):中本博皓

    ゾウ目「ディノテリウム」再考(2)2.デイノテリュウムとその発見者カウプについてデイノテリュウムの化石が発見されている地域としては、ヨーロッパが多いのに驚いています。最初の発見地はドイツでした。他にチェコ、ブルガリア、ルーマニア、ボヘミアと広域にわたっています。アジアではインドで、アフリカではケニアでそれぞれ発見されていることから、これらの地域が生息地でもあったと見られます。ドイツの南に位置するエッペルスハイム(Eppelsheim)は楽器の町としても知られています。ドイツ、ラインラント=プファルツ州(Rheinland-Pfalz)のアルゼイ・ヴォルムス郡(LandkreisAlzey-Worms)にあるエッペルハイムと言った方が正確なのかも知れません。1829年そのエッペルスハイムで、デイノテリュウム... ゾウ目「ディノテリウム」再考(2):中本博皓

  • ゾウ目「デイノテリウム」再考(1)

    ゾウ目「デイノテリウム」再考(1)1.デイノテリウムはゾウの仲間か前回のシリーズ「生物と絶滅について考える(6):4.古代ゾウの絶滅原因」の中で、ゾウ目のディノテリウムを取り上げ、以下のように述べました。「ゾウの仲間のデイノテリウムの「目」は、「長鼻目」または「ゾウ目」です。科はデイノテリウム科、属はデイノテリウム属です。特徴的な形態として、下顎にナイフのような2本の20cmくらいの長さの牙が前にではなく、後ろに向いて伸びています。草などの根っこや低木の小枝を手前に引っかけるように刈り取ることで、短い鼻でやっと口に運ぶことが出来たようです。ゾウ目の仲間は挙(こぞ)って臼歯(奥歯)で掏り潰すようにして大量の餌を日がな一日食べていますから、歯が生え替わらないと十分に餌を摂ることが出来ず滅びてしまいます。中でも...ゾウ目「デイノテリウム」再考(1)

  • 生物と絶滅について考える(6)

    生物と絶滅について考える(6)4.生物の絶滅原因1)恐竜の絶滅原因以上、前回掲載分2)古代ゾウの絶滅原因恐竜の絶滅原因については前回も述べましたが、白亜紀末の6600万年前のメキシコのユカタン半島北部のチュチュラブ(チチュルブとも言う)に巨大な隕石が激突したことで、恐竜が絶滅したと言われています。それが恐竜の大絶滅とか大量絶滅の有力な原因と考えられています。地球生命史上最大の大量絶滅となりますと、5大大量絶滅の3回目にあたる約2億5000万年前のペルム紀末の大量絶滅で、90%以上の種が絶滅したといわれていますが、その絶滅の原因は「火災」ではないかと言う説がこのほど(2023年4月)山口大学大学院創成科学研究科の斉藤諒介氏らの研究グループによって国際的な科学誌「NatureCommunications」に発...生物と絶滅について考える(6)

  • 生物と絶滅について考える(5)

    生物と絶滅について考える(5)4.生物の絶滅原因1)恐竜の絶滅原因いま最も有力視されている恐竜絶滅の原因としては、白亜紀末の天体衝突説です。巨大隕石といいますか、小惑星が地球を直撃したことで、生息していた地上の恐竜は、死に追いやられたとするのがこの天体衝突仮説です。メキシコのユカタン半島の北部のチュチュルブでは、K-Pg境界(中生代白亜紀【ドイツ語の白亜紀Kreideの頭文字K】と新生代古第三紀、【英語の「古第三紀の」Paleogeneの頭文字Pおよびgeneのg】境目という意味)の頃、顕生代における5回の大絶滅うち最後の5回目の大絶滅が発生した白亜紀の末(最近では6604万年±4万年といわれていますが)の巨大隕石の直撃で出来たという巨大なチュチュルブ・クレーターは広く知られています。専門家の先生が書かれ...生物と絶滅について考える(5)

  • 生物と絶滅について考える(4)

    生物と絶滅について考える(4)3.恐竜を知るには「博物館参り」が大切1)ノール(湖)のトカゲ、ヌオエロサウルスわが国にある恐竜博物館は何も福井県立恐竜博物館だけではありません。大げさなにいいますと、全国津々浦々恐竜を展示した博物館はあります。それだけ子どもにも大人にも恐竜人気は高いのでしょう。何も福井に行かなくとも、地元近辺の博物館を調べてみるのもいいでしょう。わたしが住む関東地方には東京・上野に国立科学博物館がありますが、わたしの好みの博物館として、ミュージアムパーク茨城県立自然博物館があります。広々とした野外施設もある自然博物館です。ここには、体長26m高さ6mのヌオエロサウルスの全身骨格標本が展示されています。入館者を圧倒するほどの偉容を誇っています。ヌオエロサウルスは、1985年内蒙古自治区チャガ...生物と絶滅について考える(4)

  • 生物と絶滅について考える(3)

    生物と絶滅について考える(3)2.恐竜はなぜ絶滅したか1)地球を直撃した巨大天体新人類といわれる現世人、つまりわれわれ現代人と同じグループの人類がこの地球上に現れたのが約20万年前と考えられています。ところが恐竜が地球上に現われたのは何と三畳紀です。すなわち、中生代です。およそ2億5190万年前から2億130万年前の後期のことです。絶滅したのが白亜紀6600万年前だといわれています。恐竜がこの地球上に生息していた期間はおよそ2億年もの長い歳月になります。言い換えますと、その間は恐竜が地球上を支配していたのです。その支配が終焉を迎えたのは、ある出来事が原因なのです。恐竜が全て絶滅してしまったその原因とは、白亜紀末のことで地球を直撃した天体、すなわち地球という天体と巨大隕石との衝突なのです。これまでに分かって...生物と絶滅について考える(3)

  • 生物と絶滅について考える(2)

    生物と絶滅について考える(2)1.生き物の誕生以来、5回の大絶滅が地球に生命が生まれて5億年といわれていますが、その間に地球では5回の大絶滅があったことが知られています。大変大雑把ですが、5回の大絶滅とは以下のようなものです。まず、地質時代に従って「生代」を(1)古生代、(2)中生代、そして(3)新生代の3生代に区分します。(1)古生代は、およそ5億4200万年前から2億5100万年前といわれています。最初から3回目までは古生代で、4回目と5回目は中生代起こっています。(1)古生代の大絶滅最初の大絶滅は、オルドビス紀(OrdovicianPeriodおよそ4億8800万年前から4億4400万年前)で、海に住む生物、たとえば三葉虫、腕足動物のような貝に似た生物などが絶滅したと考えられています。2回目の大絶滅...生物と絶滅について考える(2)

  • 生物と絶滅について考える(1)

    生物と絶滅について考える(1)Ⅰ大絶滅、昔々のことになりますが(その1)生命の過去5億年の歴史において、オルドビス紀末の大絶滅、デポン紀後期の大絶滅、ペルム紀末の大絶滅、三畳紀後期の大絶滅、そして白亜紀末の大絶滅と5回の大絶滅があったことはよく知られていることです。その5億年で地球において発生した「種」の99%が、すなわち何十億種、否数百億種ともいわれる「種」が絶滅したと推測されています。それら生命は、われわれの目には見えない生き物が大部分であったことも確かです。それでも、一万年以上前までは、絶滅する種数は、平均1年あたり100万種につき1種の割合だったといわれています。しかし6回目の大絶滅が予測されている今ではそんな生やさしことではありません。1年ではなく1日あたり100種もの生物が、しかもわれわれの目...生物と絶滅について考える(1)

  • 絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その7)

    絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その7)1.日本には凡そ2000万年前にもゾウの仲間がいた(1)日本列島はどのように生まれたのか(2)日本のいろんなところにステゴロフォドンゾウがいた(3)とにかく大昔のはなしです―ステゴロフォドンゾウ(4)常陸大宮市産のステゴロフォドンゾウ―標本「記載」事項を見る―2.ステゴロフォドンとステゴドンの違い(1)両者の違いについて(2)エオステゴドン・シュードラチデンスゾウとは(3)ステゴドン(ステゴドンゾウ)について(4)各地のステゴロフォドンについて3.ミヨコゾウについて考える(1)ミヨコゾウが見つかる前にも同じ仲間のゾウの臼歯が(2)ミヨコゾウについて考える(その1)以上は前回までの掲載分3.ミヨコゾウについて考える(前回のつづき)(3)ミヨコゾウについて考える(...絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その7)

  • 絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(6)

    絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その6)1.日本には凡そ2000万年前にもゾウの仲間がいた(1)日本列島はどのように生まれたのか(2)日本のいろんなところにステゴロフォドンゾウがいた(3)とにかく大昔のはなしです―ステゴロフォドンゾウ(4)常陸大宮市産のステゴロフォドンゾウ―標本「記載」事項を見る―2.ステゴロフォドンとステゴドンの違い(1)両者の違いについて(2)エオステゴドン・シュードラチデンスゾウとは(3)ステゴドン(ステゴドンゾウ)について(4)各地のステゴロフォドンについて以上は前回までの掲載分3.ミヨコゾウについて考える(1)ミヨコゾウが見つかる前にも同じ仲間のゾウの臼歯がミヨコゾウと同時代そして同じ地層から産出したステゴロフォドンゾウの化石については当時、東北大学教授だった矢部長克(ひ...絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(6)

  • 絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その5)

    絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その5)1.日本には凡そ2000万年前にもゾウの仲間がいた(1)日本列島はどのように生まれたのか(2)日本のいろんなところにステゴロフォドンゾウがいた(3)とにかく大昔のはなしです―ステゴロフォドンゾウ(4)常陸大宮市産のステゴロフォドンゾウ―標本「記載」事項を見る―2.ステゴロフォドンとステゴドンの違い(1)両者の違いについて(2)エオステゴドン・シュードラチデンスゾウとは(3)ステゴドン(ステゴドンゾウ)について以上は前回までの掲載分2.ステゴロフォドンとステゴドンの違い(4)各地のステゴロフォドンについてところで、各地で見つかっているステゴロフォドンにもいろいろな事例があります。富山県産の例を見ますと「足跡化石」が見つかっているんです。この足跡化石を調べた結果、...絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その5)

  • 絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その4)

    絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その4)1.日本には凡そ2000万年前にもゾウの仲間がいた(1)日本列島はどのように生まれたのか(2)日本のいろんなところにステゴロフォドンゾウがいた(3)とにかく大昔のはなしです―ステゴロフォドンゾウ(4)常陸大宮市産のステゴロフォドンゾウ―標本「記載」事項を見る―以上は前回までの掲載分2.ステゴロフォドンとステゴドンの違い(1)両者の違いについてこれまでにも何度か取り上げたステゴロフォドン(Stegolophodon)の化石は、どちらかと言えば日本では、多くが北北東部(関東・北陸そして東北)の地域で見つかっています。時代は、主に1800万年前から1600万年前の新生代中新世の地層から出土しているんです。生息地は日本だけではなく、南アジアにも広く生息していたといわれ...絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その4)

  • 絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その4)

    絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その4)1.日本には凡そ2000万年前にもゾウの仲間がいた(1)日本列島はどのように生まれたのか(2)日本のいろんなところにステゴロフォドンゾウがいた(3)とにかく大昔のはなしです―ステゴロフォドンゾウ(4)常陸大宮市産のステゴロフォドンゾウ―標本「記載」事項を見る―以上は前回までの掲載分2.ステゴロフォドンとステゴドンの違い(1)両者の違いについてこれまでにも何度か取り上げたステゴロフォドン(Stegolophodon)の化石は、どちらかと言えば日本では、多くが北北東部(関東・北陸そして東北)の地域で見つかっています。時代は、主に1800万年前から1600万年前の新生代中新世の地層から出土しているんです。生息地は日本だけではなく、南アジアにも広く生息していたといわれ...絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その4)

  • 絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その3)中本博皓

    絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その3)1.日本には凡そ2000万年前にもゾウの仲間がいた(1)日本列島はどのように生まれたのか(2)日本のいろんなところにステゴロフォドンゾウがいた(3)とにかく大昔のはなしです―ステゴロフォドンゾウのこと以上は前回掲載(4)常陸大宮市産のステゴロフォドンゾウ―標本「記載」事項を見る―1)ステゴロフォドンの化石は、日本の哺乳類史を学ぶ上で大切な資料ステゴロフォドンの化石は、既述(前回)のように日本列島のいろいろなところで見つかっています。見つかった化石は、臼歯や切歯が多いのですが、なかには頭蓋骨の化石も出土しています。これまでに分かっているだけでも石川、宮城、山形、そして茨城などで見つかっています。岐阜県可児市では、ステゴロフォンドより前に生息していたことが判明して...絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その3)中本博皓

  • 絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その2)

    絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その2)1.日本には凡そ2000万年前にもゾウの仲間がいた(1)日本列島はどのように生まれたのか(2)日本のいろんなところにステゴロフォドンゾウがいた以上は前回掲載(3)とにかく大昔のはなしです―ステゴロフォドンゾウ1)輪島市で見つかったゾウの化石、実はステゴロフォドンだった凡そ2000万年も大昔に生息していたゾウの仲間なんです。それが日本列島のいろんなところから、ゾウの仲間の化石が見つかっています。生息年代も化石が見つかった地層で判断されますから、発見した専門家によって、その年代が異なることもやむを得ないことだと思っています。ステゴロフォドンゾウは、湊正雄監修の『〈目でみる〉日本列島のおいたち』(築地書館、1973)では、新第三期・中新世前期(1900万年前~165...絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その2)

  • 絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その1)中本博皓

    《少し準備に時間を要しましたが、いままでに書いた「絶滅した日本列島のゾウのはなし」を読み直して、書き残している古代ゾウの仲間や幅を広げて増補したい部分を「絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち」と題して書いて見ることにしました。》絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その1)Ⅰ.日本列島には凡そ2000万年前にもゾウの仲間がいた1.日本列島はどのように生まれたのか凡そ2000万年前頃の日本列島ってどんな地形だったんだろうか、と調べて見ましたがちょっとやそっとで、理解できる代物ではありません。ましては、その頃の日本にゾウがいたと言われましても、わたしのような素人には信じがたいことです。そこでいくつか文献をひも解いてみました。その中の一つに平朝彦(1946-)氏の『日本列島の誕生』(岩波新書、1990)がありま...絶滅した日本列島の古代ゾウの仲間たち(その1)中本博皓

  • ナウマンゾウについて、その補遺編(7)

    ナウマンゾウについて、その「補遺編」(7)(2)ナウマンゾウ研究の成果、高橋啓一著『ナウマンゾウ研究百年』―その紹介ナウマンゾウについては多くの日本の古生物学者によって研究が行われて来ましたし、いまもさらに研究が進められています。このほど(2022年12月)、その総括の第2弾とも言うべき研究報告が、滋賀県立琵琶湖博物館から公表されました。それが、琵琶湖博物館研究調査報告第35号として公刊された高橋啓一著『ナウマンゾウ研究百年』です。著者の高橋啓一氏は、ナウマンゾウに関する長い研究歴を有されており、日本におけるナウマンゾウ研究の専門家として知られています。高橋氏は、1976年2月26日、東京日本橋の地下鉄(都営10号線)の工事現場から発見されたナウマンゾウの化石の発掘調査にも参加(日本橋ナウマンゾウ研究グル...ナウマンゾウについて、その補遺編(7)

  • ナウマンゾウについて、その「補遺編」(6)

    ナウマンゾウについて、その「補遺編」(6)(1)ブラウンスについて―山下昇の論文からわたしはこの東京大学『科学論集4』(1881)に掲載されたブラウンスの論文は読んでいませんので内容は全く分りませんが、山下昇の1990年の論文「ナウマンの関東平野研究-ナウマンの日本地質への貢献3-」(『地質雑誌』・第96巻第12号)によりますと、ブラウンスは1880年1月から1881年12月まで東京大学地質学の教授として在任しましたが、前述の論文(1881)で、日本産のゾウ化石にも言及していることが紹介されています。また、日本の地質学の研究にも貢献したことでも知られています。しかし、ブラウンスが論文で扱っている材料(ゾウ化石)は、ナウマンが1881年の論文で扱った材料と同じもであったと指摘し、「ブラウンスの記述が簡単で、...ナウマンゾウについて、その「補遺編」(6)

  • ナウマンゾウについて、その「補遺編」(5)

    ナウマンゾウについて、その「補遺編」(5)ナウマンの1879年の論文から―横須賀産マンモス?について―(その3)1.ナウマン教授の後任、ブラウンス氏来日ナウマンは、日本の地質研究を進めるうちに、日本列島の起源や構造について、地質学的に本格的な調査の必要性を考えるようになりました。そこで、大学の教壇と掛け持ちでは十分な地質調査はできないため1879年任期満了と同時に教授の職を辞し、列島の地質調査に専念することを決意しました。そのため1879年12月、ナウマンの後任の東京大学理学部地質学教室第二代教授として明治政府(文部省)によって招聘されたのがナウマンと同じドイツ人の地質学者ダーフィト・アウグスト・ブラウンス(DavidAugustBrauns:1827-1893)でした。ブラウンスは東京大学に赴任後は、東...ナウマンゾウについて、その「補遺編」(5)

  • ナウマンゾウについて、その「補遺編」(4)

    ナウマンゾウについて、その「補遺編」(4)ナウマンの1879年の論文から―横須賀産マンモスについて―?(その2)1.山下昇、ナウマン論文(1881)を精査ナウマン論文(1879)は、1996年に故山下昇(1922-1966;日本を代表する地質学者の一人、信州大学名誉教授)先生によって邦訳されました。先生は地質学者でありましたから、ゾウの化石にも大変造詣が深く、1879年の論文の中でナウマンが用いたElephasprimigeniusnという用語を分り易く「マンモス」と訳されています。また、山下先生のナウマン研究は大変良く知られていますが、特に『地質学雑誌』・第98巻第8号、1992年8月に掲載されています《特別寄稿》論文「ナウマンの化石研究―ナウマンの日本地質への貢献4―」では、ナウマンの1881年の論文...ナウマンゾウについて、その「補遺編」(4)

  • ナウマンゾウについて、その「補遺編」(4)

    ナウマンゾウについて、その「補遺編」(3)ナウマンの1879年の論文から―横須賀産マンモスについて―?(その1)1.横須賀・白仙山産下顎の化石さて、前述しましたように、1867年横須賀・白仙山開鑿跡地で発見された「ゾウの下顎の化石は、1871年5月に田中芳男の要請で横須賀製鉄所から大学南校に送られ、そして田中の企画で開催された大学南校物産会に出品展示されました。その4年後の1875年に来日したナウマンによって、その化石は科学的に分析されてゾウの化石であることに間違いないことが明らかにされたのですが、ナウマンが研究に用いるまでの数年間、その化石はどこで保管されていたのでしょうか。何でもないことのように思われますが、このことは大変興味深いことなのです。大学南校での物産会が終了した後、横須賀製鉄所に戻されたのか...ナウマンゾウについて、その「補遺編」(4)

  • ナウマンゾウについて、その「補遺編」(2)

    ナウマンゾウについて、その「補遺編」(2)横須賀・白仙山開鑿跡地から発見されたナウマンゾウの化石について(その2)東京大学の地質学の初代教授としてドイツミュンヘン大学から招聘されたナウマンが科学的に研究したと言われている化石は、下顎に左右の臼歯が付いたもので、これは横須賀製鉄所首長フランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニー(FrançoisLéonceVerny:1837-1908)家の写真(Machoirefossiled'e'le'phant,6November1867:ゾウの顎の化石)と比べて見て、横須賀・白仙山を開鑿した跡地から1867年11月6日に発見された獣骨(ゾウの顎)の化石と同じものであると推察されます。ヴェルニー家の写真のタイトルに「象の顎の化石」と記されていますから、すでに発見され...ナウマンゾウについて、その「補遺編」(2)

  • ナウマンゾウについて、その「補遺編」(1)中本博皓

    ナウマンゾウについて、その「補遺編」(1)横須賀・白仙山開鑿跡地から発見されたナウマンゾウの化石について(その1)太古の昔の話しですが、わが国にはいろいろな種類のゾウが生息していました。中でも馴染みのあるゾウが「ナウマンゾウ」(和名)です。そのナウマンゾウが日本列島に生息するようになったのは何時頃からなのか、正直なところ正確な年代は分かっていません。専門家の先生方の文献を調べましても諸説あり、65万年前から40万年前と言う説、また80万年前には日本列島に中国大陸から渡って来ていたという説もあります。その時期を確定することはなかなか至難ですが、およそ40万年前頃~30万年前頃と言う説が比較的多いようです。20世紀末(1999年)に『地球科学』(53巻)に発表された小西省吾・吉川周作両氏の論文「トウヨウゾウ・...ナウマンゾウについて、その「補遺編」(1)中本博皓

  • 絶滅と進化―《絶滅した日本のゾウのはなし》その「補遺編」として:中本博皓

    絶滅と進化-《絶滅した日本のゾウのはなし》その「補遺編」として-(6)絶滅と進化古代ゾウの祖先のなかまいろいろ(その3)メリテリュウム(Moeritherium)について(下)井尻正二・小澤幸重『哺乳類の王国-化石がかたる地球の歴史4-』(千代田書房、1977)第二章「一番古い先祖のゾウ」を読んで見ますと、メリテリュウムの歯に言及している部分があります。大変興味をそそられる内容です。井尻博士が『化石』(岩波新書、1968)の中で述べている「歯」の大切さは、メリテリョウムについて勉強する上でも当てはまります。メリテリュウムの歯は、われわれが知るゾウの歯ないし歯式とはまるで異なっています。長鼻類の祖先と呼ばれているメリテリュウムの歯は、その後3000万年以上も後に現れたステゴドンと比べますと大変な違いがありま...絶滅と進化―《絶滅した日本のゾウのはなし》その「補遺編」として:中本博皓

  • 絶滅と進化ー《絶滅した日本のゾウのはなし》その「補遺編」として―(6)

    絶滅と進化-《絶滅した日本のゾウのはなし》その「補遺編」として-(6)絶滅と進化古代ゾウの祖先のなかまいろいろ(その2)メリテリュウム(Moeritherium)について(上)メリテリュウムは、始祖ゾウとも呼ばれることがあります。前回取り上げたエリセリュウムはメリテリュウムよりも2000万年ほど昔に生存したゾウなど長鼻目の祖先と言われています。しかし、資料が大変少ないのですが、今回のメリテリュムも長鼻目の祖先として扱われていますが、こちらはエリセリュウムに比べますと、資料は比較的多いように思われます。どちらもゾウの祖先と言われましても、ホントかな~と考えてしまいます。地質時代で言いますと、新生代の古第三紀始新世の末期(約4000万年前頃)から鮮新世の中期頃(約3500万年前頃)に生存していた長鼻類の始祖と...絶滅と進化ー《絶滅した日本のゾウのはなし》その「補遺編」として―(6)

  • 絶滅と進化―《絶滅した日本のゾウのはなし》その「補遺編」として―(5)中本博皓

    絶滅と進化-《絶滅した日本のゾウのはなし》その「補遺編」として-(5)絶滅と進化古代ゾウの祖先のなかまいろいろ(その1)いまからおよそ6000万年前、地質時代では中生代から新生代に代わった古第三紀の頃に現れたゾウの祖先はどれも体がたいへん小さかっただけでなく、鼻や耳も小さかったと言われています。現生で見た人がいるわけではありませんから、本当のことは全く分かりません。小生も素人の情けないところですが、化石に関する文献を手掛かりに想像的なイラストに頼るしかありません。およそ6000万年前に生息していたであろうと推測されているゾウの祖先のそのまた祖先、元祖とでも言いますかね。2009年にフランスの古生物地学者でもあるパリの国立自然史博物館のアラブ・アフリカの生物多様性や進化に関する研究者エマニュエル・ゲールブラ...絶滅と進化―《絶滅した日本のゾウのはなし》その「補遺編」として―(5)中本博皓

  • 絶滅と進化―《絶滅した日本のゾウのはなし》ーその「補遺編」としてー(4)

    絶滅と進化-《絶滅した日本のゾウのはなし》その「補遺編」として-(4)絶滅と進化日本の古代ゾウの場合(下)ゾウの祖先、ゴンフォテリウム(学名:Gomphotherium)は、前回も述べましたが、日本列島に生息するようになったゾウとしては最も古いゾウの仲間です。アネクテンスゾウとも呼ばれております。その化石は、日本を代表する古生物学者であり動物学者であった松本彦七郎博士(1887-1975)が、岐阜県可児郡御嵩町中切の瑞浪層群平牧層から見つかった上顎骨の化石を基に1924年学名をGomphotheriumannectens名付けて、新種として記載された標本です。地質時代でいいますますと、少々大雑把ですが新生代の新第三紀中新世の前期(2300万年前~1900万年前)の頃のものです。数年後には同一個体のものと推...絶滅と進化―《絶滅した日本のゾウのはなし》ーその「補遺編」としてー(4)

  • 絶滅と進化-《絶滅した日本のゾウのはなし》 その「補遺編」として-(3)

    絶滅と進化-《絶滅した日本のゾウのはなし》その「補遺編」として-(3)絶滅と進化日本の古代ゾウの場合(上)今から10年ほど前(2011年)のことですが、国連環境計画(UNEP)の下部組織、世界自然保全モニタリングセンター(WCMC:WorldConservationMonitoringCentre)およびカナダのノバスコシア州にあるダルハウジー大学(1818年設立)など、いくつかの研究機関の専門家達によってまとめられた報告書によりますと、地球上に生息している生物の種数は約870万種であるとのことです。その内訳は、動物777万種、植物29万8000種、菌類61万1000種で、約75パーセントが陸上生物種で650万種あり、約25パーセント220万種が海洋生物種です。WCMCの報告よりも3年ほど前のことになりま...絶滅と進化-《絶滅した日本のゾウのはなし》その「補遺編」として-(3)

  • 絶滅と進化-《絶滅した日本のゾウのはなし》その「補遺編」として-(2)

    絶滅と進化-《絶滅した日本のゾウのはなし》その「補遺編」として-(2)はじめに、その2前回に続いて、もう少し序説部分(はじめに)を綴っておきます。いまは、絶滅と聞くと「絶滅危惧種」などを思い浮かべます。そして環境問題等深刻なイメージが湧いて来ます。およそ6600万年前の白亜紀末、恐竜を絶滅に追い込んだとされる巨大隕石(小惑星、微惑星)の衝突*については、アメリカをはじめ12か国の総勢41人の研究者によるチームよる成果が出ています。文中*印:この分野については、松井孝典(東大名誉教授)『天体衝突斉一説から激変説へ地球、生命、文明史』(講談社、2014年4月)、同氏「新版・再現!巨大隕石衝突6500万年前の謎を解く」(岩波書店、2009年2月)、布施哲治『天体衝突の危機』(誠文堂新光舎、2013年10月)など...絶滅と進化-《絶滅した日本のゾウのはなし》その「補遺編」として-(2)

  • 絶滅と進化-《絶滅した日本のゾウのはなし》その「補遺編」として-(1)

    絶滅と進化-《絶滅した日本のゾウのはなし》その「補遺編」として-(1)はじめに約400万年前に日本列島の九州から関東地方にかけて生息していたと言われるミエゾウは学名をStegodonmiensis(ステゴドン・ミエンシス)と言います。1941年松本彦七郎(1887-1975)によって命名されました。その化石が1918年、三重県河芸郡明村(現在は三重県津市)で道路工事中に臼歯の付いたままの左下顎骨の化石が、発見されました。その現物は国立科学博物館(当時は、東京科学博物館)に所蔵されています。1941年、松本によって和名をミエゾウと名づけられました。中国大陸に生息していた巨大ゾウのコウガゾウが、全長8メートル、足元から肩までの高さが4メートル程度であると言われていますが、ミエゾウもほぼ同じぐらいの大きさであっ...絶滅と進化-《絶滅した日本のゾウのはなし》その「補遺編」として-(1)

  • アケボノゾウをさぐる(13)

    アケボノゾウをさぐる(13)(4)アケボノゾウをさぐるまとめその(3)-終わり-アフリカで類人猿の仲間から直立歩行したヒト類が誕生したのが700万年前、そしてアフリカの大地溝帯周辺でラミダス猿人が登場したのが580万年前から4Ⅳ0万年前だと言われています。ラミダス猿人は、アルディピテクス属(学名:Ardipithecus)に属し、約580万-約440万年前(新生代中新世末期《メッシニアン中期》-鮮新世初期《ザンクリアン初期》)のエチオピアに生息していた原始的な人類(猿人)の一種とされています。地球上に人類が登場した年代とゾウの場合を比較しますと、とても比較できないほどゾウの祖先は太古の大昔の話になります。しかし本稿では、日本列島に生息したゾウについて述べていますので、ほぼ地球上に原始的な人類(猿人)が現れ...アケボノゾウをさぐる(13)

  • アケボノゾウをさぐる(12)

    アケボノゾウをさぐる(12)(4)アケボノゾウをさぐるまとめその(2)埼玉県に住むわたしなどにとっては、アケボノゾウと言いますと、埼玉県立自然の博物館に展示されている全身骨格標本が思い浮かびます。また、狭山市博物館にもアケボノゾウの全身骨格標本が、そして調べて見ますと、入間市博物館には入間川で発見されたアケボノゾウの足跡化石標本が常設展示されているそうです。そんなわけで、身近にあるアケボノゾウに親しみを感じています。入間川で発見されたアケボノゾウの化石から、入間川流域でいつ頃まで生息していたかは地層によって判断することが出来ます。狭山・入間産アケボノゾウ化石が見つかった地層は、専門家先生方の研究に依拠しますと、入間にあります「加治丘陵には,礫層を主体とする飯能層と,その上位に泥層を主体とする仏子層が分布す...アケボノゾウをさぐる(12)

  • アケボノゾウをさぐる(11)

    アケボノゾウをさぐる(11)(3)アケボノゾウをさぐるまとめその(1)アケボノゾウ(Stegodonaurorae)は、ステゴドン科(Stegodontidae)ステゴドン属(Stegodon)の種がStegodonaurorae(Matsumoto,1918)であり、和名は「アケボノゾウ」と呼ばれています。今からおよそ100年以上前の1918年(大正7年)に、最初のアケボノゾウの化石が発見されましたが、その36年後の1954年(昭和29年)にも、三重県いなべ市藤原町で、アケボノゾウのほぼ1頭分に相当する化石が発掘されたことが知られています。これはいなべ市藤原町上之山田で発見されたことから、「上之山田標本」としてゾウ化石研究では大変貴重な標本のひとつとされています。この発見の後も、三重県内からは、いなべ市...アケボノゾウをさぐる(11)

  • アケボノゾウをさぐる(10)

    アケボノゾウをさぐる(10)(2)アカシゾウも実はアケボノゾウだったところで、アケボノゾウのことですが、調べれば調べるほど分かり難くなることが分かってきました。それでも専門家の先生方の研究成果に首を突っ込んでいろいろ勉強してみますと、アケボノゾウにはこれまでいろいろな名が付けられていたことが少しずつですが分ってきました。後でも触れますが、アカシゾウ、カントウゾウ、スギヤマゾウ、そしてタキカワゾウなどと呼ばれていたゾウがいたことがわかりました。それらは、現在では、どれもアケボノゾウであることが明らかにされています。そこで、少しばかり詳しいことを調べていきますと、とくに素人には難しい分類学上の問題が絡んできますので、それはとても厄介の問題でもあるのです。とくにわたしのようなど素人には、高い壁となっています。し...アケボノゾウをさぐる(10)

  • アケボノゾウをさぐる(9)

    アケボノゾウをさぐる(9)(1)国の天然記念物となったアケボノゾウ多賀標本最近では、滋賀県多賀町は「ゾウの里」というキャッチフレーズでも知られていますが、アケボノゾウやナウマンゾウの化石が多数発掘されています。その多賀町立博物館の糸本夏実学芸員は、『新撰淡海木間攫』(其の七十六)で「アケボノゾウ化石」に執筆していますが、なかなか興味深い内容です。さて、『新撰淡海木間攫』の本元は寛政4年(1792)の『淡海木間攫(おうみこまざらえ)』だと考えられます。それが、近年(1984~1990年)なって、滋賀県立図書館から塩野義陳編・田中信精校訂、近代史料シリーズ〔5〕~〔7〕として3分冊が刊行されました。また、糸本学芸員は、最近、大変珍しい「腕足動物の化石」の企画展を同博物館で開くなど活躍されています。腕足動物の化...アケボノゾウをさぐる(9)

  • アケボノゾウをさぐる(8)

    アケボノゾウをさぐる(8)アケボノゾウのご先祖さん(その6)ハチオウジゾウとはどんなゾウなのか前回(7)、前々回(6)と2回は、「ハチオウジゾウ発見の瞬間―相場先生の記録から―」と題して半世紀ぶりに見つかった古代ゾウに触れましたが、書いていましてもわくわくする気持ちで一杯でした。ここでもう一度、整理をしておきます。発見者の相場博明博士は、和名をハチオウジゾウと名付け、学名はステゴドン・プロトオーロラエ(Stegodonprotoaurorae)、地質時代は前期更新世と言いますから258万8000年前~78万1000年前ですが、ハチオウジゾウの生息年代は、八王子市の上総層群寺田層から発見されていますので、凡そ230万年前頃と推測されています。分類は、長鼻目、ステゴドン科です。この年代について、相場・馬場・松...アケボノゾウをさぐる(8)

  • アケボノゾウをさぐる(7)

    アケボノゾウをさぐる(7)アケボノゾウのご先祖さん(その5)ハチオウジゾウ発見の瞬間―相場博明先生の記録(報告)を読む―(2)〔前回の文中の「」内は、「浅川産ハチオウジゾウを使った体験学習のための基礎的研究と実践」(『とうきゅう環境浄化財団報告書』2005)相場博明「ハチオウジゾウ発掘記」からの引用です。なお、文中にありますように、便宜上「相場」(2005)と略して用いています。〕「相場」(2005)の文の中にありますが、「メタセコイア」という植物についてですが、日本では滋賀県高島市マキノ町(マキノ高原)の現存種のメタセコイア並木は、四季を彩る風物詩となっていることでも有名です。絶滅種のメタセコイアは、6000万年前から200万年前に栄えた植物です。また、つい先日まで、国立科学博物館では、2021年1月2...アケボノゾウをさぐる(7)

  • アケボノゾウをさぐる(6)

    アケボノゾウをさぐる(6)アケボノゾウのご先祖さん(その4)ハチオウジゾウ発見の瞬間―相場博明先生の記録(報告)を読む―(1)アケボノゾの生い立ちといいますか先祖をさぐり、大分遠回りをしてきましたが、一つ前辺りまでやって来ました。今回は相場博明先生が初めてハチオウジゾウの化石と出会った瞬間について記録された報告をもとに、以下のように、まとめておきたいと思います。専門家でなくても、古生物学に少しでも興味のある人だったら、それは大変な発見、大袈裟かも知れませんが「世紀の大発見」と手を叩いたに違いありません。わたしもその一人でしたから。わたしが八王子でゾウの化石が発掘されたのを知ったのは、新種の認定があった新聞報道が大々的に報じた2010年の7月31日のことでした。それは発見されてから、すでに10年もの歳月を経過して...アケボノゾウをさぐる(6)

  • アケボノゾウをさぐる(5)

    アケボノゾウをさぐる(5)アケボノゾウのご先祖さん:その(3)アケボノゾウについては、これまでに松本彦七郎の論文をはじめ沢山の研究成果が公表されています。小生は、それらの中でもとくに最近の二つの文献を重視しています。一つは亀井節夫編著『日本の長鼻類化石』(築地書館、1991)の中に収められている樽野博幸氏の論稿「日本産ステゴドン科化石」です。そしてもう一つが日本古生物学会『化石』73号(2003)に収載されている樽創氏の論稿「日本固有のゾウ〔アケボノゾウ〕」です。樽氏は同論稿(2003)で、「アケボノゾウの起源については、日本固有種と考えられているS.miensisMatsumoto,1941ミエゾウと共通の祖先から進化したとする考えが有力である」、と述べています。そして「また体の大きさについても、ズダンスキイ...アケボノゾウをさぐる(5)

  • アケボノゾウをさぐる(4)

    アケボノゾウをさぐる(4)アケボノゾウのご先祖さん:その(2)前述しましたように、マストドンゾウがユーラシア大陸から(専門家の中には、「ヨーロッパ大陸から」、と説明しているケースがあります。)アメリカ大陸に渡り、アメリカマストドンの時代を築いたのですが、一方、アジア大陸では、ステゴドンゾウが繁栄したと言われています。アジア大陸は、ステゴドンの楽園だったわけです。それが2600万年前中新世のころから続いたのです。ステゴドンはステゴドン科(Stegodontidae)のステゴドン属(Stegodon)ですが、樽野博幸氏の論文「ステゴドンとステゴロホドンー識別と系統的関係―(哺乳類:長鼻目)」(1985年3月)があります。この論文は、樽野氏が大英自然史博物館をはじめいくつものヨーロッパの博物館を訪ねて、インドおよびビ...アケボノゾウをさぐる(4)

  • アケボノゾウをさぐる(3)

    アケボノゾウをさぐる(3)アケボノゾウのご先祖さん:その(1)前回、「はじめにその(2)」で、ミエゾウに触れました。その際、高橋啓一氏の論文から「ミエゾウは松本彦七郎*(1887-1975)によって三重県津市芸濃町産の標本を模式標本としてSt.cliftiの新亜種St.cliftimiensisMatsumotoとして記載された」こと等に言及しました。*1918年(大正7年)、地質調査所にあった石川県戸室山産とされていたゾウの臼歯化石から日本にアケボノゾウが生息していたことを明らかにし、アケボノゾウが日本固有種のゾウであることを発見したと言われています。東京帝国大学理科大学動物学科卒業、クモヒトデの研究、1917年に理学博士、1921年には帝国学士院賞を受賞しています。ここで少しばかり前回の記事中にある「St....アケボノゾウをさぐる(3)

  • アケボノゾウをさぐる(2)

    アケボノゾウをさぐる(2)はじめに:その(2)日本列島に生息していたステゴドンゾウの仲間としては、新第三紀中新世と第四紀との間のおよそ533万3000年前から258万年前までの時代、すなわち鮮新世の地質時代に中国のコウガ(黄河)ゾウに類似の大きなゾウが生息していました。それらは前回述べたことと重複しますが、日本列島には500万年前から400万年前に、現在ミエゾウとかシンシュウゾウとか呼ばれている大きなステゴドンゾウの仲間が生息していました。どちらも同じ「種」なのですが、発見されたときと産地が違うのです。最初のミエゾウは100年以上も昔に発見されました。三重県立博物館の平瀬みえ子さんの説明書きによりますと、「津市芸濃町の明(あきら)小学校の北、中の川河床で1918(大正7)年に発見された。採集された化石は、大きな...アケボノゾウをさぐる(2)

  • アケボノゾウをさぐる(1)

    アケボノゾウをさぐる(1)はじめに前回栃木県佐野市の葛生化石館に展示されています「世界最小のナウマンゾウ」に触れましたが、日本で見つかっているゾウの仲間の化石には、同じくらい小さな大人のゾウの化石があちこちで見つかっています。その一つに1918(大正7)年に松本彦七郎(1887-1975)が最初に「記載」したと言う論文があります。それがアケボノゾウ(Stegodonaurorae)について記した論文です。現在ではほぼ丸ごと一体分の化石が掘り出されており、国の天然記念物に指定されるほど学術的にも価値が認められるようになりました。その化石が発見されたのが滋賀県多賀町四手の住友セメントの貯鉱場の建設現場から、1993年(平成5)3月に発掘されたものです。草食の大型哺乳類の化石としては、この滋賀県多賀町(四手)産のアケ...アケボノゾウをさぐる(1)

  • 葛生化石館の「世界最小のナウマンゾウ」

    葛生化石館の「世界最小のナウマンゾウ」についてナウマンゾウ(Paleoloxodonnaumanni)の顎や臼歯の化石は、これまでに本ブログで紹介しましたように、日本列島の北から南まで全国百数十箇所で発見されています。ナウマンゾウは諸説ありますが、凡そ40万年前に大陸から日本列島にやって来て、棲みついたゾウだと言えます。しかし、アケボノゾウのように日本固有のゾウとは言えませんが、日本で発掘されているゾウの代表的な化石として大変馴染みがあり、その多くがナウマンゾウだと言っても間違いではありません。日本で見つかったゾウの化石は、1867年および1868年神奈川県横須賀市白仙山の開鑿地から発見されています。それが後にナウマンゾウと命名されました。ゾウの化石の「発見年次」としては、最も古い部類に入ると言えます。もう少し...葛生化石館の「世界最小のナウマンゾウ」

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(27)―最終回ー

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島(27)―最終回ー結びにかえて-絶滅原因再論-本稿の結びとして、少々長話になりますが、横道に逸れて「大量絶滅」と言う言葉から書き出したいと思います。専門家の先生方の論文に素人なりに触れて見ますと、驚かされることばかりなのです。中でもカルフォルニア大学の地質学者で惑星科学を講じているWalterAlvarez(1940ー)は、彼の父でノーベル物理学賞を受賞したルイス・ウォルター・アルヴァレスらとともに、1980年サンエンスト言う学術誌に直径10000mもある巨大隕石が地球に衝突したことで、中生代の地球上の恐竜などの生物の大量絶滅をもたらす原因になった、と衝撃的な論文を発表しました。『絶滅古生物学』(岩波書店)など多くの研究で知られる平野弘道(1945-...絶滅したナウマンゾウのはなし(27)―最終回ー

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(26)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島(26)第Ⅴ部忠類にもマンモスがいた(4)ナウマンゾウのマイグレーションについて1)野尻湖の湖底から発掘された化石の中には、ナウマンゾウの化石だけでなく、ヤベオオツノジカのもの、そして他にもヘラジカなど大型哺乳動物群のものと思われる化石が混じっていることは珍しいことではありませんので、同地域でのファウナ(Fauna:動物相)の中でいろいろな種が同時期に共存していたことは、何ら不思議なことではありません。ナウマンゾウが生息していた頃の日本列島には、彼らが好む広葉樹で、ハンノキ、ミズナラ、ブナ、コナラなどが豊富だったことは植物遺体や花粉化石の研究からも察することも可能です。また、温暖期になると、草原というか荒野には、イネ科の背丈が高く伸び易い性質のチカラ...絶滅したナウマンゾウのはなし(26)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(25)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島(25)第Ⅴ部忠類にもマンモスがいた(3)ナウマンゾウはマンモスと出会えたか1)高橋らは、発掘地点の地層について、マンモスゾウの大臼歯は、ナウマンゾウの臼歯化石を包含していた地層よりも、層位が上で、ナウマンゾウの化石を発掘するために上の地層を取り除いた際に、その土を捨てた土砂の中から、たまたま発見されていた、という証言にも言及しています。この証言を得たことは大変重要なことだったと思います。わたしが重要な証言だと思う理由は、マンモスゾウの臼歯かどうかは兎も角としまして、それ以前の問題として、忠類での第2次発掘調査から40年もの間、層位が異なる地層から産出されていた臼歯であることが分からないままだったことです。いままでに掘り出された化石骨との違い、たとえ...絶滅したナウマンゾウのはなし(25)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(24)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島ー(24)第Ⅴ部忠類にもマンモスがいた(2)忠類からもマンモスの臼歯が1)もう一つ述べておきたいことがあります。それは発掘されたナウマンゾウ臼歯の中に、実はマンモスゾウの臼歯が混じっていたことが、その後行われた高橋啓一ら専門家による再調査(2008年)で判明したこともあって、人びとの間では興味津々、マンモスとナウマンゾウが共存していたのではないか、と共存説にまで話が飛び、ナウマンゾウに寄せる人びとの思いは一層高まりました。しかし、現在のところ、マンモスとナウマンゾウの共存を裏付けるに足る確かな資料は得られていません。ということで、高橋他3人の専門家が共同執筆している2008年の論文「北海道、忠類産ナウマンゾウの再検討」(日本古生物学会編『化石』84、...絶滅したナウマンゾウのはなし(24)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(23)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島ー(23)第Ⅴ部忠類にもマンモスがいた(1)忠類産ナウマンゾウ、半世紀ぶり故郷へ1)本書を閉じるにあたり、結びといいますか、終わりの章として、各章で述べてきたことを振り返りながら、以下「まとめ」をしておきたいと思います。もともと本書は、ほんの趣味のつもりで、それこそ〈ライクワーク(LikeWork)〉で始めたナウマンゾウの博物館めぐりが高じて、書きとめた拙いブログの記事が土台になっています。「覚え書き」程度にと思いながら、それでも46回に亘って連載し、一段落したのを機に、本書では、分量も半分位に絞り込み、構成し直し、若干ですが文脈を整えました。本書で主に取り挙げているのは、12万年前とも30万年前ともいわれる太古の昔、北の大地に生息していたという忠類...絶滅したナウマンゾウのはなし(23)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(22)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島ー(21)第Ⅳ部絶滅したナウマンゾウのはなし2.過剰狩猟はあったか(2)ナウマンゾウの絶滅を考える1)日本列島における大型哺乳類の絶滅問題について、富山県の魚津埋没林博物館の館長麻柄一志が、同館の広報紙『うもれ木』(41号)で興味深い記事を書いておられます。そもそも魚津埋没林そのものが、過去の気候変動が引き起こした温暖化が原因で海水面が上昇したため水没したものなのです。一方、日本列島でも陸棲大型哺乳類に目を向けて見ますと、彼らの仲間たちの多くがいつのまにか絶滅していたことに気が付きます。たとえば現存しているゾウ類は2属3種、アフリカゾウ、アジアゾウ、そしてマルミミゾウで、これらは何れもが哺乳綱・ゾウ目(長鼻目)・ゾウ科に分類されています。北海道に渡来...絶滅したナウマンゾウのはなし(22)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(21)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島ー(21)第Ⅳ部絶滅したナウマンゾウのはなし2.過剰狩猟はあったか(1)ナウマンゾウの過剰狩猟はあったか1)前節でも述べましたが、素人考えで、突飛なことかも知れませんが、発掘されたナウマンゾウの化石を一つ一つ調べることで、もし化石骨に刻まれた石器による傷痕から石器の種類が特定出来れば、狩りされた時代、年代の違いが判るのではないかとも思うのです。それによって専門家の先生方なら、どのくらいの頻度でナウマンゾウの狩りが行われていたかを推察することも可能なのではないか、などと考えてみたりしています。確かに、野尻湖の立が鼻遺跡や周辺の杉久保遺跡からは、野尻湖人(旧石器人)が大型動物の狩猟に用いたと推定されるナイフ形石器や先端が鋭利に尖った槍用の尖頭器、弓矢の矢...絶滅したナウマンゾウのはなし(21)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(20)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島ー(20)第Ⅳ部絶滅したナウマンゾウのはなし(3)絶滅説を考える1)大型哺乳類の温暖化絶滅説、すなわち気候変動による大型動物の絶滅説には、小生もすごく関心を持っています。以下、国立科学博物館地学研究部の冨田幸光が語る示唆に富む一説に注目しながら言及したいと思います。冨田は、1つは、最後の氷期が終わると急激にあったかくなりますから、その環境変化が問題だったのではないかと。しかしながら、もし環境変化だとしたら、大型動物だけが絶滅するのはおかしいじゃないか、とも考えられます。というのは小型の哺乳類、具体的にはネズミとかビーバーとかですが、ああいうちっちゃいやつがどれだけ減ったかっていうと、5%から10%ぐらいなんです。一方で、大型哺乳類は70%ぐらい絶滅し...絶滅したナウマンゾウのはなし(20)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(19)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島―(19)第Ⅳ部絶滅したナウマンゾウのはなし(第Ⅳ部前置き):ナウマンゾウが絶滅した確かな原因を一つに絞り込んで説明すことはとても素人の小生には出来ません。人類による過剰殺戮などを原因として言及している専門家の先生もおりますが、一つの絶滅原因として考えられなくはないと思います。しかしそれだけではなく、気候変動が大きな原因ではないかと指摘している専門家も多いのです。1.絶滅したナウマンゾウ(1)ゾウ類の起源をさぐる1)ゾウが地球上に現れて今日まで、素人には考えられないというか、信じられない長い時間の経過がありました。ゾウ類の起源も人類の起源と大変類似しています。ゾウ類もアフリカ大陸が起源とされているからです。人類の化石の最も古いものの多くがアフリカで発...絶滅したナウマンゾウのはなし(19)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(18)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島―(18)第Ⅲ部ナウマンゾウ、北の大地へ〈第Ⅲ部2.の(3)~(5)の前置き〉(3)津軽氷橋論を考える1)昔は兎も角、現在では第四紀学会に所属の専門家の先生方の多くは最終氷期(始まりは7万年前)の最盛期(最寒冷期)を2万1000年前頃と考えているようです。また、海洋全体で海水準の最低位水準は、専門家の間では120~130mと推測しているように思われます。ただし、対馬、津軽両海峡鞍部の低位水準は135m前後と推測されています。最近の第四紀学会の中には、最終氷期の最盛期(最寒冷期)にあっても大陸と日本列島が陸地で繋がったことはなかったとする見解があるようです。その中でも1988年の大場忠道の「海水準に関するコメント」は、大変意義深い論稿だと思います。かく...絶滅したナウマンゾウのはなし(18)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(17)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島(17)第Ⅲ部ナウマンゾウ、北の大地へ〈第Ⅲ部2.の(1)と(2)の前置き〉前回の前置きでも津軽海峡にほんの少し触れましたが、今回はその二話として述べて見ます。日本列島が現在に形に近づいてくるのは、古地理を調べて見ますと実は更新世前期の200万年前から80万年前頃からのことなのですが、この時代は現在の北海道が渡島半島と北海道本島の部分が分離していました。それだけではありません。更新世前期の日本列島の西は大陸とも陸続きでしたからゾウなど南方系の大型動物も日本列島に渡って来ることが出来たと考えられています。つまり本州の津軽と渡島半島そして北海道本島とが分かれていたのです。渡島半島と北海道本島の間に海峡があったのです。しかし、第四紀・更新世後期(15万年前...絶滅したナウマンゾウのはなし(17)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(16)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島ー(16)第Ⅲ部ナウマンゾウ、北の大地へ〈第Ⅲ部1.の(4)と(5)の前置き〉ゾウは南方系の動物といわれています。ゾウと言えば南方の暑い地域を想像しますが、ナウマンゾウは北海道の幕別町忠類地区晩成から,およそ12万年前の化石が出たことが知られています。現在でも、忠類に近隣の冬は極寒の地帯広動物園や札幌円山公園の動物園にもアジアゾウが飼育されています。ナウマンゾウもアジアゾウ属ですから縁があります。ゾウは体が大きいですし、皮下脂肪もあります。そして現在のゾウにくらべますと体毛多かったことからも、かなりの寒さにも耐えられたようです。現在の寒冷地の動物園では、冬季の寒さ対策にしっかり工夫を凝らしているようです。南方系のナウマンゾウが温かい本州から、寒冷の北...絶滅したナウマンゾウのはなし(16)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(16)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島ー(16)第Ⅲ部ナウマンゾウ、北の大地へ〈第Ⅲ部1.の(4)と(5)の前置き〉ゾウは南方系の動物といわれています。ゾウと言えば南方の暑い地域を想像しますが、ナウマンゾウは北海道の幕別町忠類地区晩成からおよそ12万年前の化石が出たことが知られています。現在でも、忠類に近隣の冬は極寒の地帯広動物園、札幌円山公園の動物園にもアジアゾウが飼育されています。ナウマンゾウもアジアゾウ属ですから縁があります。ゾウは体が大きいですし、皮下脂肪もありますから、かなりの寒さに耐えられようです。現在の寒冷地の動物園では、冬季の寒さ対策にしっかり工夫を凝らしているようです。南方系のナウマンゾウが温かい本州から、寒冷の北海道忠類にどのように渡ったかは専門家の間でも議論のあると...絶滅したナウマンゾウのはなし(16)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(15)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島―(15)第Ⅲ部ナウマンゾウ、北の大地へ〈第Ⅲ部1.の(2)と(3)の前置き〉少しばかり日本列島の内陸部から見つかったマンモスの化石について少しばかり言及しておきます。マンモスは「マンモスゾウ」と呼ばわれるようにゾウの仲間と考えられますが、全く同種ではありません。例えば、マンモスの分類学上の目は、ゾウ目(Proboscidea)です。科は、ゾウ科(Elephantidae)です。また亜科でもゾウ亜科(Elephantinae)ですが、族ではアジアゾウ族(Elephantini)に分類されます。しかし次に属はどうかを見ますと、マンモス属(Mammuthus)に分類されます。次に、マンモスの化石が日本列島の内陸部で発見されたのは、本当なのかと言う問題です...絶滅したナウマンゾウのはなし(15)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(14)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島―(14)第Ⅲ部ナウマンゾウ、北の大地へ〈第Ⅲ部1,の前置き〉ナウマンゾウとマンモスの違いについて聞かれることがあるのですが、どちらもゾウであることには違いありませんが、敢えて違いと言えば一つは「頭の形」、二つに「切歯(牙)の形」と言えると思います。ナウマンゾウの頭の形はよく言われることですが、ベレー帽を被ったような形をしているのに対して、マンモスは頭の上におおきな瘤があるような形をしていると言われています。二つ目は、ナウマンゾウの切歯が左右長く伸びているのに対して、マンモスの切歯は左右が内側に彎曲しているところです。もう一つの特徴としてよく指摘されていることが、北方系か南方系という見方です。確かに、諸説あるのですが、北方系の大型獣にはマンモスやヘラ...絶滅したナウマンゾウのはなし(14)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(13)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島ー(13)第Ⅱ部ナウマンゾウの聖地、横須賀白仙山〈(3)の前置き〉横須賀製鉄所建設の総責任者レオンス・ヴェルニーは、総責任者を引き受けるに際して、リュドヴィク・サヴァティエ医師(軍医で植物学者)の協力が必要なので、製鉄所で彼を雇って欲しい旨、幕府に要請していたと言われています。なお、サヴァティエは、サヴァチエとも書くことがあります。ヴェルニーが香港から来日したのは1865年2月だったが、同時に日本側は横須賀製鉄所建設の建設機械や資材を買い付けるため、またフランス人技師等の人材を得るために、幕末の幕臣で外国奉行支配組頭の柴田日向守剛中(しばたひゅうがのかみたけなか:1823ー1877)を使節団の特別理事官とする渡仏使節団10人をフランス國パリに派遣使途...絶滅したナウマンゾウのはなし(13)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(12)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島-(12)第Ⅱ部ナウマンゾウの聖地、横須賀白仙山(2)因果な二つの論文1)ナウマンの「江戸平野について」(1879)は、前節でも触れましたが、ドイツの出版社『ぺーターマン地理学報告書(誌)』第25巻第4号(同巻は第12号まで刊行)に掲載されました。ナウマンは、この論文(1879)の中で、横須賀は「マンモス」生息の地としては最も南に位置しており、今(1870年代)より寒い寒冷地の気候であった、と述べています。この誤りを認め、訂正するためにも「先史時代の日本の象について」(1881)は、ナウマンにとって、書く必然性があったのではないか、という見方が素人目にはできるのです。前回(11)で述べた(1)の4)では、ナウマンの1879年の論文の中からほんの一部分...絶滅したナウマンゾウのはなし(12)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(11)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島(11)第Ⅱ部ナウマンゾウの聖地、横須賀白仙山2.ナウマンゾウの聖地、横須賀白仙山〈2-(1)のまえおき〉前回も〈まえおき〉で触れたのですが、1864(元治元)年に、幕府が横須賀製鉄所の建設に当たってフランスの駐日公使レオン・ロッシュに依頼して建設技師ヴェルニーを招いたのですが、ヴェルニーに12,000ドル、現在の金額にしますとおよそ1億2,000万円と相当高額だったのですが、ナウマン共住の場合は、1876(明治9)開成学校の教授に就任したとき、月給300円だったそうです。年俸にして約3,000~3,500万円位でしょうか。なお、ナウマン教授は鉱物研究者として招かれたのですが、地質学一般、古生物学、化学なども教授したようです。(1)ナウマンが研究した...絶滅したナウマンゾウのはなし(11)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(10)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島―(10)第Ⅱ部ナウマンゾウの聖地横須賀白仙山〈(4)、(5)のまえおき〉本当は、前回の(3)で述べるべきでしたが、準備不足でした。横須賀製鉄所が建造されますとき、幕府とフランス政府との間で、『横須賀製鉄所約定書」が取り交わされていました。その一部分を『横須賀海軍船廠史」(大正4年、1915年)から引用した文献がありますので、参考にして見ます。孫引きです。それによりますと、約定書の中に、「製鉄所一箇所修船場大小二箇所造船場三箇所武器蔵及び役人職人共に四箇年にして落成の事」、もう一つは製鉄修船造船の三局取建諸入用総計凡嵩一箇年六十萬ドル都合四箇年二百四十萬ドルにて落成の事」、と言う条項がありました。幕末頃1864(元冶元)年の1両は約1ドルと言いますか...絶滅したナウマンゾウのはなし(10)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(9)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島-(9)第Ⅱ部ナウマンゾウの聖地横須賀白仙山(3)白仙山か白杣山か-横須賀産ゾウの化石をめぐって-1)日本の近代工業のルーツといわれる横須賀製鉄所(後に「横須賀造船所」と改称)建設用地の造成工事中(現在の米海軍横須賀基地)に、ゾウの化石が見つかった「場所」が、白仙山(はくせんざん)かそれとも白杣山(しらそまやま)かについて、少しばかり言及しておきましょう。1854(嘉永7、安政元)年の開国後、幕府は、1858(安政5)年、日米修好通商条約を結びましたが、その批准のため、1860(安政7、万延元)年2月、新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)を首席とする小栗上野介忠順(おぐりこうずのすけただまさ)ら総勢77人の使節団を米国の首都ワシントンに派遣し...絶滅したナウマンゾウのはなし(9)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(8)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島ー(8)第Ⅱ部(2)(2)ナウマンは日本のゾウ研究の草分け1)話が大分横道に逸れましたが、ナウマンは、内務省で地質調査をする傍ら横須賀製鉄所のドック等造船施設拡張のために、隣接していた丘陵「白仙山」の開鑿後の地中から発見された大型獣の化石についても研究し、それがゾウの化石であることを明らかにしました。ナウマンは、研究したゾウの化石を題材に、「先史時代の日本の象について」(UeberjapanischeElephantenderVorzeit,1881.)と題する論文を作成し、くり返しになりますが1881年6月にドイツの『古生物学報』(Palaeontographica28:1-39)に掲載しています。兎に角、ナウマンという人は、前述の地質調査でも窺え...絶滅したナウマンゾウのはなし(8)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(7)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島ー(7)以下、第Ⅱ部として、ナウマンゾウの初めて見つかったいわゆるナウマンゾウの聖地にまつわるいろいろな話をまとめて見たいと思います。ナウマンゾウのナウマンについて、化石を見つけたのは誰か。いつ頃のことか。どこで見つかったのか。その頃日本の執政は幕府が握っていました。そんな諸々の事柄にも触れることになります。第Ⅱ部ナウマンゾウの聖地、横須賀白仙山1.ナウマンゾウのナウマンとは(1)ナウマンゾウのナウマンは東大の先生1)前章でも行き掛り上、若干触れましたので重複しますがご勘弁ください。ナウマンゾウのナウマンは、前述しましたようにドイツの地質学者で、日本で見つかったゾウの化石の最初の研究者であり、東京大学の初代地質学教授として、日本政府から招聘されたハイ...絶滅したナウマンゾウのはなし(7)

  • 番外編 トンガ 海底火山の大噴火で甚大な被害

    番外編トンガ海底火山の大噴火で被害は甚大トンガの皆様にこの度の海底火山の大噴火がもたらした大災害に、心からお見舞い申し上げますニュージーランド軍やオーストラリア軍の哨戒機による上空からの調査で、被害の詳細そしてそ大きさが判明してきました。場所によっては、壊滅的な被害の状況が報告されています。個人的に手を差し伸べることはできますが、規模において限界があります。ライフラインに関する支援など、日本政府の速やかな支援を願ってやみません。ToeverybodyinTongaIprayforthesafetyofthepeopleTonga.番外編トンガ海底火山の大噴火で甚大な被害

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(6)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島―(6)(6)ナウマンゾウ、半世紀ぶり忠類へ1)忠類晩成の道路工事の現場で発見されてから半世紀もの間、京都の伏見で復元されたナウマンゾウの全身骨格標本は、忠類の地を見ることなく、札幌の北海道博物館に展示されていました。その忠類産標本(原本)が、2019(令和元)年10月5日から11月4日まで、50年ぶりの忠類に里帰りしたことが、幕別町の人びとの間では大きな話題になりました。「忠類で発見された化石たち〜忠類ナウマン象化石の里帰り〜」を謳い文句に、発見50周年の記念事業として「特別展」が、国道236号線際にある「忠類ナウマン象記念館」で開催されました。少なくとも数万年~12,3万年前、否30万年前の太古の昔、北の大地忠類に生息していたであろうナウマンゾウ...絶滅したナウマンゾウのはなし(6)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(5)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島-(5)〈(5)のまえおき〉ナウマンゾウは、見たわけではないのですが、化石骨をもとに骨格標本の研究をしている専門家の研究によりますと、現在飼育されているアジアゾウよりも小ぶりだと言わℛています。ナウマンゾウのオスの背丈は2.5m、メスは2m位と推察されています。また、ナウマンゾウの場合は、アジアゾウにくらべて、「背中のカーブが肩と腰のところに高まりがあり、それが特徴の一つ」だと見られています。よく指摘されていることなのですが、ナウマンゾウはアジアゾウやアフリカゾウと違って、頭部に特徴があります。ちょうどベレー帽を被った感じだと言うのですが、実際に見たわけではありませんのであくまでも想定に過ぎません。2020年に忠類記念館で、忠類ナウマンゾウ発掘50周...絶滅したナウマンゾウのはなし(5)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(4)

    絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔ゾウの楽園だった日本列島-(4)〈(4)のまえおき〉幕別町忠類には、ナウマンゾウの化石発掘を記念して作られた(1988年8月にオープン)立派な「忠類ナウマンゾウ記念館」があります。記念館の1階中央に、旧忠類村晩成地区から産出したナウマンゾウの全身骨格標本が展示され、多くの来訪者を出迎えてくれています。展示されている標本は、レプリカ(複製)です。本物は北海道博物館に保存されています。記念館の建物は、太古のロマンを秘めたそしてナウマンゾウの姿を模してデザインされたものだと言われています。記念館の正面入り口は頭部、中央部分はドーム型をしていますが、それがゾウの胴の部分だそうです。(4)忠類ナウマンゾウの全身骨格標本について1)ところで「ゾウ」といえば、アフリカゾウ然り、インドゾウ...絶滅したナウマンゾウのはなし(4)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(3)

    絶滅したナウマンゾウのはなし―太古の昔ゾウの楽園だった日本列島ー(3)忠類で発掘されたナウマンゾウは、当時どんな仲間たちと言いますか、どんな動物群と一緒に生息していたのかを考えて見るのも楽しいものです。それを知るには、ナウマンゾウの化石の発掘をおこなうことで、同時に発掘された動物の化石を調べることで知ることができるのです。忠類において、一緒に発掘された他の動物の化石は、発掘に携わった専門家の先生方によりますと、当時ナウマンゾウと一緒に生存していた動物群はかなりいたと考えられるようです。たとえば、オオツノジカ、ヘラジカ、ムカシニホンジカ、ヤギョウ、サル、カモシカ、そしてクマなど多種にわたってそれらの化石が発見されています。これまでナウマンゾウは、温暖、ないし暑い地域で生息するものと考えられていましたが、忠類をはじ...絶滅したナウマンゾウのはなし(3)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし(2)

    絶滅したナウマンゾウのはなし―太古の昔日本列島はゾウの楽園だった日本列島-(2)ナウマンゾウは、北海道の十勝平野の太平洋岸に近い忠類村にも生息していました。以下においても述べますが、忠類村は、現在平成の町村合併で、幕別町忠類地区に併合になっています。ナウマンゾウの化石が発見されたのは1969年7月のことですが、発掘が行われたのは同年8月15日のことでした。忠類村は、村として行政的に独立したのは1949(昭和24)年8月20日、大樹村(現在の大樹町)から分村してスタートしました。当時の忠類村の人口は、3152人、戸数は534戸(忠類村編『忠類村の二十年』・1969(昭和44)年)でした。ナウマンゾウの化石が発掘されたのは、村が誕生して20年目を迎えた年でした。特産品とてない村でしたから、ゾウが生息していた村として...絶滅したナウマンゾウのはなし(2)

  • 絶滅したナウマンゾウのはなし

    絶滅したナウマンゾウのはなし(2)以下、絶滅したナウマンゾウのはなし―太古の昔ゾウの楽園だった日本列島―と題して、これまでに、断片的に述べてきた「ナウマンゾウについて」、その内容を少しばかり系統的にまとめておくことにします。(1)ナウマンゾウはどこから来たか1)実は、ナウマンゾウの祖先のことははっきりとは分かっていません。日本列島に生息するようになったのは、一説には180万年前ともいわれていますが、多くの専門家の見方としては、「100万年ほど前のアフリカにいたエレファス・レッキ(Elephasrecki)という種類から進化した子孫がユーラシアに広がり、そのうちの一つが日本に渡り、それがナウマンゾウの直接の祖先らしいという説がある」(『太古の哺乳類展』、84頁)ことは分かっていますが、それ以上のことは、専門家の先...絶滅したナウマンゾウのはなし

  • (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(21)

    (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(21)(初出:2015・8・19ー2016・4・19)これまでにも述べましたように、ドイツの地質学者で、初代東大理学部地質学教室の教授H・E・ナウマンが最初に研究したと言われているゾウの化石のいくつかのうちの一つは、神奈川県の横須賀製鉄所の建設用地の造成中に、製鉄所の医師として招聘されていたフランスの軍医で、植物学者でもあったPaul・A・L・サヴァティエ(1830.10.19-1891.8.27)によって発見されたものを用いたと推察できます。それは1867年のことです。本稿は、もう少し続くのですが、長くなりますので、以下の「結び(その5)」で終わることにします。結び(その5)―再び「白仙山」か「白杣山」かについて―最後になりましたが、ここでナウマン博士の1881年...(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(21)

  • (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウ(20)

    (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウ(20)(初出:2015・8・19ー2016・4・19)結び(その4)―最初の化石は横須賀で発見―(その1)、(その2)、(その3)において調べた文献について「結び」が大分長話になってしまいましが、もう少しまとめの意味で憎まれ口を叩いておきたいのですが、その前に今回は(14)~(16)3回分について、約束の「参考文献」を未整理の儘ですが列挙し、掲載しておきましょう。ナウマンゾウシリーズで収集しました資料・文献そして汚い字でメモしたものなどファイル6冊になりましたが、全く整理がついていません。昭和一桁の老い耄れですから、片付くかどうか心配です。(文献)(1)近藤洋一「日本を代表するゾウ化石ナウマンゾウ」・『化石(ふおっしる:Fossil)』・79号・2006年3月、83-87頁...(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウ(20)

  • (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(19)

    (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウ(19)(初出:2015・8・19ー2016・4・19)結び(その3)―最初の化石は横須賀で発見―(注):(その1)、(その2)と一部に重複があります。ご容赦を。1)横須賀市自然・人文博物館の玄関を入ると、展示されているナウマンゾウの全身骨格標本が入館者を等しく出迎えてくれています。この全身骨格標本のナウマンゾウは、千葉県印旛郡印旛村が産地です。横須賀市お膝元の博物館ですが、残念ながら横須賀製鉄所の用地造成工事中に見つかった化石は使われてはいません。横須賀市自然・人文博物館の説明書きによりますと、「ナウマンゾウは、35万年前から2万年前に日本と中国に生息していたゾウの仲間で、横須賀市では2か所から見つかっています。現在の米海軍横須賀基地である横須賀製鉄所の敷地内から1867年...(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(19)

  • (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(18)

    (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウ(18)(初出:2015・8・19ー2016・4・19)結び(その2)―最初の化石は横須賀で発見―1)白仙山か白杣山か:近代日本のルーツと言われています旧横須賀製鉄所(後に「横須賀造船所」)の建設用地の造成工事中に-現在の米海軍横須賀基地となっている辺りのようですが-象の化石が次々に見つかった事実に少しばかり触れておきましょう。1854(嘉永7年、安政元年)の開国後のことですが、1858(安政5)年日米修好条約が結ばれ、その批准のため1860年に総勢77人の使節団が首都ワシントンを訪問、さらに米国の海軍の造船所も視察したと伝えられています。その後、いろいろな政治的な経緯はありましたが、幕府は西洋式の艦船の建造を開始し、また諸外国から艦船の購入を進めるようになった、と言われてい...(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(18)

  • (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(17)

    (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウ(17)(初出:2015・8・19ー2016・4・19)結び(その1)―最初の化石は横須賀で発見――ドイツの地質学者で初代東大理学部地質学教室の教授H・E・ナウマンが最初に研究したと言われているゾウの化石のいくつかのうちの一つは、神奈川県の横須賀製鉄所の建設用地の造成中に、フランスの軍医で植物学者でもあったPaul・A・L・サヴァティエ(1830.10.19-1891.8.27)によって発見されたものと、いろいろな記録から考えられます。1867年のことでした。―1)ナウマンゾウの名前の由来は、すでに触れましたように、ドイツの地質学者で、東京大学の初代地質学教授だったナウマン(HeinrichEdmundNaumann:1854-1927)に因んだものです。ナウマンは、ミュンヘ...(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(17)

  • (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(16)

    (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウ(16)(初出:2015・8・19ー2016・4・19)(7)ナウマンゾウの渡来と生息時代1)以上15回に亘って、本稿で取り上げてきた日本列島に渡来したナウマンゾウが生息していたと考えられる年代は太古の昔のことですから、いろんな古生物学上、考古学上の見方がなされております。長野県の信濃町の野尻湖の湖底から発見されたナウマンゾウの発掘が行われる前までは、日本列島に生息していた時代は、200万年前から10万年前位までと言う大方の見方がありました。ナウマンゾウについてのこのような生息年代の推測は、地質年代区分で洪積世早期に区分されて来たことによるのがその理由だったのかも知れないのです。数十年前までは日本の化石骨関係の学会ではごく普通だったのです。ところが、地質の測定方法が進化した今...(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(16)

  • (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(15)

    (改訂)抄録:日本にいたナウマンゾウ(15)(初出:2015・8・19ー2016・4・19)(6)太古の北海道十勝平野に生息していたナウマンゾウ1)沼にはまったナウマンゾウ北海道十勝平野旧忠類村で発見された12万年も13万年も、あるいは30万年も太古のナウマンゾウの化石の発掘は、全国的にも大きな関心を呼びました。これまでに何度も述べたことですが1969年10月の第一次調査に続いて、1970年6月には第二次調査が行われました。この調査で発掘されたナウマンゾウの化石は、1体分に相当する化石の大部分が発掘されたのですが、第二次発掘調査の意義も実は、ゾウ1体分丸ごと発掘することにあったのだと言われています。第一次発掘調査の際には、ナウマンゾウの化石の周り様々な環境等の観察や分析が十分ではなかったこともあり、第二次調査で...(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(15)

  • (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(15)

    (改訂)抄録:日本にいたナウマンゾウ(15)(初出:2015・8・19ー2016・4・19)(6)太古の北海道十勝平野に生息していたナウマンゾウ1)沼にはまったナウマンゾウ北海道十勝平野旧忠類村で発見された12万年も13万年も、あるいは30万年も太古のナウマンゾウの化石の発掘は、全国的にも大きな関心を呼びました。これまでに何度も述べたことですが1969年10月の第一次調査に続いて、1970年6月には第二次調査が行われました。この調査で発掘されたナウマンゾウの化石は、1体分に相当する化石の大部分が発掘されたのですが、第二次発掘調査の意義も実は、ゾウ1体分丸ごと発掘することにあったのだと言われています。第一次発掘調査の際には、ナウマンゾウの化石の周り様々な環境等の観察や分析が十分ではなかったこともあり、第二次調査で...(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(15)

  • (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(14)

    (改訂)抄録:日本にいたナウマンゾウ(14)(初出:2015・8・19ー2016・4・19)(5)津軽海峡の形成をめぐって(その2)4)八島・宮内論文からさて、海底地形の形成年代は陸橋の存在と深くかかわっているものと考えられているのですが、しかし、本稿で取り上げている津軽陸橋が存在したのかどうかを検討する要素として、海底地形形成年代、存在する海底段丘の問題などは極めて重要な要素だと思われます。前述の八島・宮内両氏の論文(1990)でもこれらの点に言及されています。津軽陸橋が最後に成立した年代を両氏の論文(1990)では、「絶対年代」と言う使い方がなされていますが、津軽陸橋が成立した「絶対年代」は「今なお特定できない」としています。すなわち、八島・宮内は、津軽陸橋が存在したかどうかについて、「その可能性をもつ海峡...(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(14)

  • (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(13)

    (改訂)抄録:日本にいたナウマンゾウ(13)(初出:2015・8・19ー2016・4・19)(5)津軽海峡の形成をめぐって(その1)1)津軽陸橋論はじめに:この分野は、「ナウマンゾウ抄録」の中でも最も難しく厄介な分野です。北方系のマンモス象と同じく、シベリア、サハリン、そして宗谷海峡の陸地時代に北海道に棲みつくようになったということで終わりにするなら簡単なことで、それで済んでしまうのかもしれないのですが、しかし、南方系のナウマンゾウが日本列島の本州辺りに渡って来て、棲みついたことも考えられるでしょう。列島に生息するようになって、列島の古気候に慣れたナウマンゾウの仲間のどれだけかが良質の葉木を食しながら、次第に北上し、信州の寒冷地野尻湖近辺に生息したものや、さらには津軽海峡を越えて北海道十勝平野に棲むようになった...(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(13)

  • (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(12)

    (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(12)(初出:2015・8・19ー2016・4・19)(1)ナウマンゾウ、北海道への旅路1)忠類にやって来たナウマンゾウ:氷河期海面が下がり、地続きになった日本列島に大陸からやって来た多くの大型草食動物、たとえばナウマンゾウや北海道に限られますがマンモスなどが渡来したことも古生物学者、地質学者らの研究で明らかにされています。ナウマンゾウがどのようにして日本列島に渡来したのかについても研究者によっていろいろと見解があるようです。ここでは、北海道の道東に広がる十勝平野、幕別町の忠類晩成(広尾郡旧忠類村)の火山灰土の下から発掘されたナウマンゾウは一体どこから、どのようにして十勝平野に生息するようになったのか、考えてみたいと思うのです。亀井節夫は、われわれ素人が手の届く書物...(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(12)

  • (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(11)

    (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(11)(初出:2015・8・19ー2016・4・19)〔大分、間が空いてしまいました。北海道十勝平野ナウマンゾウの里,旧忠類村に出かけていました。〕(3)忠類村ナウマンゾウの復元標本(その3)1)忠類ナウマンゾウの復元標本化石骨の復元:発掘されたナウマンゾウの化石骨を使って、ナウマンゾウが生息していた時代の骨格を作り上げることは容易な技術ではとてもできるとは思えません。現在、忠類ナウマンゾウ記念館に展示されているナウマンゾウの骨格標本も、旧忠類村の晩成地区で発掘された化石を手掛かりに、象研究の第一人者京都大学教授亀井節夫(1925-2014:大正14-平成26)の指導で「復元」がなされた。ところで、亀井は自著『象にきた道』(中公新書514、1978(昭和53)年刊....(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(11)

  • (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(10)

    (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(10)(初出:2015・8・19ー2016・4・19)(3)忠類村ナウマンゾウの復元標本(その2)2)旧忠類村晩成地区で発掘されたナウマンゾウの化石骨について〈地層についての復習〉ここでは、旧忠類村晩成地区で発掘されたナウマンゾウの化石骨について言及しておきましょう。その前に、少し以前にも述べたナウマンゾウの化石骨発掘地である忠類晩成の地層について復習の意味で、もう一度触れておくことにします。忠類晩成は、現在の大樹町の晩成地区とは地続きで隣り合っています。もともと忠類は大樹町から分村し独立して出来た新しい「村」だったことに就いては既に述べた通りです。大樹町の晩成地区と旧忠類村晩成(現在は、幕別町忠類地区晩成ですが)の町境の大樹町側にはおよそ60平方キロメートル、太平...(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(10)

  • (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(10)

    (改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(9)(初出:2015・8・19ー2016・4・19)(3)忠類村ナウマンゾウの復元標本(その1)1)ナウマンゾウの産出地は列島全域日本では、津々浦々約150か所以上で、ナウマンゾウの化石が産出されています。北海道幕別町の忠類ナウマン象記念館をはじめ、多くの博物館にその復元された骨格標本のレプリカが展示されていますし、所蔵されているものもあります。とくに、忠類ナウマン象記念館には、80-90%の発掘化石によるほぼ全骨格に近い復元標本が展示されています。もちろんレプリカ(複製)で、本物は北海道博物館に所蔵されています。ところで、日本最初のナウマンゾウの骨格標本として復元されたのは、1966年6月に千葉県の印旛沼で発見されたナウマンゾウの化石が基になっています。ナウマンゾ...(改訂)抄録・日本にいたナウマンゾウについて(10)

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