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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • エスカレーターガール

    昭和40年代後半、百貨店がイケイケどんどんという時代があった。岡山には高島屋、倉敷には三越、福山には伊勢丹、広島にはそごうの進出が決まった。百貨店は元気がいい(経営に余裕)のでエスカレーターの昇降口に女性を配置した。それがエスカレーターガールで、役目はエレベーターガールと、ほぼ同じ。「何階でございます。何々売り場がございます」という案内ガール。この時代の小売業は百貨店vsスーパー(ダイエーや西友)の対決だったが、スーパーにエスカレーターガールはいなかった。エレベーターガールもいなかった。時代はその後、最初からエレベーターガールもスカレーターガールも置かなかったスーパーが、百貨店よりも先に市場から去った。大型店スーパーはほぼ壊滅、百貨店はお金持ち階級や企業相手に現状死守の状態。今の時代となっては、エレベータ...エスカレーターガール

  • ジュークボックス

    ジュークボックスは店舗の中に、今でいえば自販機のような感じで置かれていた。高さは自販機より低く、大人の身長の半分くらいで、目を下に向ければ、流行歌名が50~100曲くらい名札で並んでいた。自分の好きな曲が決まったら20円(くらいだったと思う)を投入し、曲のボタンを押す。曲が流れてくる。つまり一曲、3分間程度、20円で好きな曲を聴ける。周りの人は、無料で聴けてよろこぶ人もいるし、逆にうるさくて迷惑に感じる人もいる。利用の多いジュークボックスは、予約してから順番に時間がかかった。利用の多いジュークボックスは、こまめにレコードをヒット曲に交換していた。利用者は10代か20代の若者が多く、大人や子どもがジュークボックスの前で選曲している記憶はない。1970年頃がいちばん流行っていたような気がする。・・・「失われゆ...ジュークボックス

  • 風呂屋の三助

    10代、20代の頃、町の銭湯にはよく行っていた。いろんな銭湯にはいって、値段も、趣向も、少し違うのを楽しんでいた。しかし「三助」は見たことがない。サラシ姿で入浴客の背中を洗ってるのを見たことがない。思うに、家に風呂が無い人が銭湯に行くが、家に風呂が無い人は、「三助」の代金を払うほど生活に余裕はなかった。町の銭湯に、ほんとうに「三助」はいたのだろうか?・・・(TBS「時間ですよ」)・・・「昭和の消えた仕事図鑑」澤宮優原書房2016年発行三助昭和30年代は銭湯1軒につき3~4人いたが、平成24年には全国で1人。三助の日常は、まず風呂を沸かす燃料の用意。薪から、昭和30年代は石炭になった。石炭ガラは舗装していない道の水たまりに入れて穴埋めした。午後になると、風呂を沸かす。風呂場の掃除。背中を洗うのは本来の仕事か...風呂屋の三助

  • 鋳掛屋(いかけや)

    日本の経済成長が始まると、それまでの生活様式だけでなく、モノに対する思考も変っていった。家にある鍋や釜やヤカンは、(何度も何度も何度も修理され、最後にはクズ屋に売られ、溶かされていたが)何かあると、新しいモノに買い換えられていき、古いモノは廃棄物となった。・・・(父の話)談・2002.10.14鋳掛屋鍋ややかんを直しにきょうた。してるようになってから来んようになった。蝙蝠傘を直す人もきょうた。・・・「金光町史」行商のほか、職人もたくさん回ってきた。鋳掛屋、桶屋、羅宇屋(らうや)、石屋、時計や洋傘の修理屋などが農閑期に家々を回っていた。・・・「昔のお仕事大図鑑」日本図書センター2020年発行鋳掛屋直すものは、鍋ややかん、釜などが多かった。昔の鍋ややかんは、今より質が悪く、よく穴があいた。鋳掛屋は,火を起こす...鋳掛屋(いかけや)

  • フラフープ

    フラフープというものが東京や大阪では子どもに大人気、というのは知っていたが見たことも、したこともなかった。やがて体に悪い(胃腸を圧迫する)という噂が流れ、東京や大阪ではすたれてきた、という頃茂平のような田舎でもフラフープを見ることができた。(たぶん生産過剰の売れ残りや、投げ売り品が地方に回ってきたのだろう)フラフープは男子よりも女子に人気があったようだ。二三度、借りてぐるぐる回してみたが、男の子にとっては、そう面白いおもちゃではなかった。茂平で見る頃には既に、身体に悪いのは噂でなく事実であることが日本中に知れわたっていて、子どものフラフープ遊びは短い期間で消えて行った。・・・「失われゆく娯楽の図鑑」藤木TDCグラフィック社2022年発行フラフープアメリカでの大ヒットを受け、日本に上陸。美容や健康への効果も...フラフープ

  • ダフ屋

    広島市民球場が原爆ドームの向かい側、基町にある頃広島カープの試合を年に1~2度見に行っていた。球場に入ろうとすると、見知らぬ男性から声がかかる。その男はぼそぼそ話すので、自分に言っているのか?それとも他の人へなのか?聞いてほしいような、聞かれては困るような話し方なので、何をいいたいのか?何を言っているのか?意味不明。目立たぬ、地味な服装で、灯りが一番届かぬ場所に立っていて、まさに”裏”という言葉が似合う男だった。そういう男が試合が始まる前、試合が始まってからも立っていた。「あれはダフ屋だよ」と同僚が言った。ダフ屋のことは知っていたので、あああれか、と男の仕事はすぐに理解できた。それからは、市民球場のダフ屋は、その場所へあたりまえにいる者、として普通に素通りするようになった。・・・「失われゆく仕事の図鑑」永...ダフ屋

  • サーカス

    サーカスを学校で見に行ったという話は聞くが、自分は学校行事で見に行ったことはない。小学生の時、春に「福山とんど祭」で二度見た。三好サーカスと木下サーカスだった。場所は・・たぶん・・今のローズコム、福山中央公園だったような気がする。三好サーカスは興業場所を「三好サーカス」と染めた幕で囲んでいたので、今でも、その名をよく覚えている。自分と同じくらいの年齢の少女が綱渡りをしていた。それを見て、かわいそうで仕方が無かった。きっと「人さらいにあって、サーカスに売られてきた子だろう」と子供心に思い込んでいた。木下サーカスは地球儀のような球形のなかでオートバイが爆音でぐるぐるまわった。煙と音と排気の臭いがすごく、芸を楽しむという気はしなかった。農家の子が二度もサーカスを見ることが出来たのは、入場料が安かったから。親がも...サーカス

  • オート三輪 (棒型ハンドル)

    福山青果市場のオート三輪学校が終わって、用之江から茂平に帰っているとオート三輪が後ろからやってくる。オート三輪は茂平への峠道を越すのが能力いっぱいだった。それで同級生数人でトラックの後ろを押していた。峠道を登りきると、そのお礼に、トラックに乗せてくれた。一人か二人が前に乗り、運転手の隣の助手席。残りの人が荷台に乗った。助手席と荷台は、だいたい順番。どちらに乗っても楽しかった。嬉しかった。オート三輪は二日に一度くらい、福山から茂平の園芸場に果物を取りにきていた。3時前後に茂平にきて、30分後くらいに、果物を積んで福山に帰っていった。オート三輪に合うのは、下校中の楽しみだった。坂道をゆっくりと走って来る、「来たぞ、来たぞ」。3人~5人でトラックを押すと、トラックのスピードは気持ちぶん速くなる。走りながら押す、...オート三輪(棒型ハンドル)

  • 馬子(馬方)

    城見小学校前の国道2号線を通る車両(エンジン付き)は1時間に1台くらいで、道はもちろん未舗装だった。たまに荷馬車が通っていた。荷馬車は農協前で休憩することが多く、そこで水やカイバを食べ小休止していた。茂平や用之江に馬を飼う人はなく、荷馬車の馬を見ると、珍しいので、いつも馬見物をしてから去っていた。・・・茂平に馬を飼う人はなかったが、大冝に馬を飼っている人がいた。農耕とたまに運搬に使用してようだった。・・・「昭和の消えた仕事図鑑」澤宮優原書房2016年発行馬子(馬方)馬に荷物や人を乗せて商売する人。馬引き、馬子、馬追いともいう。馬を引いて人や荷物を運ぶ労働者。人足ともいう。馬は駄馬が多く、農業などで使う馬よりも質が悪かった。・・・馬子(馬方)

  • モーターグレーダーが国道2号線を直す

    城見小学校前の国道2号線を通る車両(エンジン付き)は1時間に1台くらいで、道はもちろん未舗装だった。たまにモーターグレーダーが通っていた。当時の城見小学校の生徒が目にするものでは、ずいぶん大きな車両で、「道直し」とか「道削り」と呼んでいた。この車両は”道直し”をする車で、道を直すために、”道を削って”いた。つまり国道2号線の路面の凸凹を削って、平に均しながら走行(自走)する工事車両。走行後にローラーが来て踏めば固まるが、ローラーが来ることはなかった。だから「道直し」の効果はほとんどなし。家庭から出るアサリの殻を水たまりに捨てる方が、まだ「道直し」の効果があった。そういうモーターグレーダーの「道直し」だったから、1~2年ほどして国道2号線で見ることはなくなった。城見小学校前の道路が舗装されるのは、それから5...モーターグレーダーが国道2号線を直す

  • 西日本縦断駅伝(下関~大阪)

    城見小学校の前を、国道2号線が通り、その道では下関から大阪までの駅伝大会が毎年開催されていた。全国大会なので、当然ながら国内トップレベルの選手たちが毎年、城見小学校の前を走っていた。下関から大阪に向かうコースで前日は福山市の中心付近がゴールで、朝に福山をスタートし午前10~11時頃、城見学校前を通った。全校生徒は駅伝ランナーが走ってくる20~30分前に校庭に集合した。そこで主催者の読売新聞の小旗をもらい、学校の下の国道2号線でやってくるであろう選手を待った。選手は今の駅伝と同じで、肩に襷をかけて走ってきた。47都道府県の選手が次々に来たり、間をあけて走り去っていった。旗を振って”がんばれー”、岡山県選手と広島県選手への声援が高かったような気がする。その頃、東北や九州は今でいう外国よりも遠い存在だった。小学...西日本縦断駅伝(下関~大阪)

  • ソノシート

    レコードは値段が高く、一枚300円くらいしていた。300円あれば、映画館に二度いける。斎藤の中華そばなら、5杯食べれる。それに対し「ソノシート」は安かった。薄い塩ビ板でぺらんぺらんなレコードだった。でも、音は普通にでるし、中高校生に人気があった。というより、中高校生でも買えた。レコードはレコード店に売っていたが、ソノシートは本屋で売っていた。一冊200~300円の本に、4~5枚のソノシートがはさげてあった。勁文社という会社の独断場だったが、次第に安物っぽくて、飽きられていった。・・・「失われゆく娯楽の図鑑」藤木TDCグラフィック社2022年発行ソノシートレコードよりも薄くてペラペラ。半透明な円盤。通常のレコードより音質は劣ったが、安価で大量生産向きだった。・・・・・・ソノシート

  • ひがさき踊り(鴨方町) 2023.9.23

    場所・岡山県浅口市鴨方町・長川寺名称・浅口市指定重要民俗無形文化財「ひがさき踊り」日時・2023.9.2314.00~14:30長川寺(ちょうせんじ)で「ひがさき踊り」があった。戦国武将・細川通董のお墓に、まず法要。その後で、本堂前で踊りが始まった。・・・「鴨方藩」藤尾隆志現代書館2021年発行ひがさき踊り浅口市鴨方町に伝わる踊りである。(同じく浅口市金光町に伝わる「ひがさき踊り」とは別のもの)この踊りは、貞享三年(1686)七月に、戦国時代に鴨方町を統治していた細川通董(ほそかわみちただ)の百年忌法要が菩提寺である長川寺で行われたのが起源とされている。旧七月の炎天下に細川家の遺臣の末裔たちが日傘を差して踊り、後に、踊りの型に傘を取り入れて踊るようになった。これが「日傘着踊り」の名の始まりといわれている。...ひがさき踊り(鴨方町)2023.9.23

  • パチンコ

    駅前といえば、田舎駅では「自転車置き場」と「食堂」があるのが当たり前で、町の駅では、それに加えて「パチンコ店」があった。初めての時は、パチンコ店は玉を打つのが難しかった。左右の客はみんな右手にレバー左手で玉入れ、(それを連続して打ちながら)口にはタバコ。自分にそのまねはできなかった。特に左手で玉を入れるに手間取った。何か肩身の狭い思いがした。おまけに、当然ながらおカネがみてる。それで、パチンコ店には行かなくなった。それから1~2年後経って、「玉は左手で入れなくても、皿に移すだけでいい」という話を聞いて、再び行くようになった。これは楽だった。打つだけでいい。タバコも手に持って吸える。音楽を聴きながら、ときには歌いながら打った。そのうちイスが設置され、さらに楽になった。パチンコ店を出る時、いつも目がぼーーーっ...パチンコ

  • 質屋

    金浦中学校の同級生に、「家が質屋」の人がいた。高校の同級生にも、「家が質屋」の人がいた。マンガにも、物語にも、テレビでもこっそり「着物」や「時計」や「カメラ」を質に入れて、当座の現金を手にするのは定番のストーリーだった。・・・学生時代、テープレコーダーが欲しかった。が、おカネがないので我慢をしていた。すると友人が、「質屋に行けば1.000~2.000円で買える」と教えてくれた。暖簾をくぐって質屋に入ると、テープレコーダーも2~3品展示されていた。質屋の主人と交渉して、たしか1.500円で買って帰った。しかし、「欲しい」と思っていた割には、これをしたい、ということが無くたまにラジオの流行歌を録音する程度で、使ったという記憶がほとんどない。使った記憶が少ないのは、商品が変わっていったのも大きな要因。買った(手...質屋

  • 成人映画館

    エロ映画と呼んでいた。笠岡では金星劇場。福山では御船町の映画館(大黒座の斜め向かい側)。街中にある映画館のポスターでも、エロ映画のポスターは目を引いた。どのエロ映画も、女性の肉体をおおげさに表現していた。特に笠岡のスサキ通りのスサキ橋手前の、金星劇場のポスターは目立った。人の行き来が多く、大人も、子どもも、みんな目にはいる。それが、笠岡に限らず当時の町の風景だった。(最初)エロ映画高校卒業した春に、初めてエロ映画を見に映画館に入った。映画は白黒映画だった。それが、途中何回かカラー映画に切り換わる。切り換わる時は、同時に音楽がいやらしい音や声に変るので、寝ていても気がつく。ポスターといやらしい音で勝負する映画で、見終えて、あほらしさだけが残った。(二度目)日活ロマンポルノ日活は普通の映画を止めて、”ロマンポ...成人映画館

  • 靴磨き

    「靴磨きをしてもらえば気分がええよ」と雑談中に友が言った。しかも、「安い」という。一回300円。300円なら、試しに一度、いい気分になってみようと思った。昭和40年代福山駅前の伏見町、駅と天満屋の間の路上に靴磨きの人が3~4人並んでいた。木のイスに座り、片足を台の上にのせる。すると路上に座ったままの靴磨きの人は、客の顔も見ることなしに、靴についたドロ・ホコリを払う。次に磨く、その次に靴墨でピカピカに仕上げくれる。両足分で約5分くらいだろうか?300円を払って去る。靴磨きと客の会話はいっさいない。会話があるのは、オプションで靴底に金具を取り付けてもらう時だけで、金具を付ければ、歩く時、路面を踏む音がする。今思えばあほらしいけど、それが当時の男性のおしゃれの一つだった。では、気分がいいというのは・・・ほんとう...靴磨き

  • 肥買船(肥船・糞船)

    近年まで、農家の食べ物は、麦や雑穀や芋を主食とし、おかずはコーコに梅干し、味噌汁、干魚。ところが町に住む人は、お米や魚や肉や野菜や果物を食べていた。食生活の違い(というか差は)あまりに大きく、食べる物が違えば、人糞も違うと、農家の人は信じ町の人たちの人糞を買い求めた。特に花街の人糞は相場がよかったようだ。・・・(父の話)人糞と牛糞の違い・町の人糞と田舎の人糞の違い(人糞と牛糞はどちらが良かったのか?)そりゃあ、人糞じゃ。食いもんが違う。窒素が違う。人間はええものを食べる。ええものを食べりゃあ、それだけ成分がようなる。人糞も。田舎よりは町の人のほうがええもんを食べるんで、町のひとのほうがええ肥になりょうた。(田舎の)梅干ばぁ食びょうるんじゃあ、ええうんこがでん。町の美味しいものを食びょうる人のほうがよぅ効く...肥買船(肥船・糞船)

  • 遣り手婆(やりてばばあ)

    昭和33年3月、公娼は廃止された。それから10年経った四国の道後温泉「松ヶ枝遊廓」に行くと、そこでは、売春防止法どこ吹く風の感じで、遊廓が現役で営業していた。行政が法に対して片目をつむることはよくあるが、両目をつむっていた。遣り手婆が、松ヶ枝遊廓街の左右から客を引いていた。”遣り手婆”と呼ばれるだけに、年齢は婆さんだった。不思議な感じがする空間だった。当時の道後温泉は、温泉と遊郭が一体となっての「道後温泉」だったので、松山市も振興のため目をつぶっていたのだろう。・・・「失われゆく仕事の図鑑」永井良和他グラフィック社2020年発行遣り手婆遊廓の女性が、自ら客引きをすることは決してない。客の相手をするのは、遣り手婆が客を引き込んだあとからだ。店には、遣り手と呼ばれる高齢の女性がいる。店の前を行く男たちに遊んで...遣り手婆(やりてばばあ)

  • 文選工(ぶんせんこう)

    妻のおばが、井原市の自宅で文選工をしていた。福山市の学校(同業社だったかも)に半年間行って習ったそうだ。おばが、その仕事をしているのを見たことはない。すでに印刷方法が変わっていた。しかし、おばの家の玄関の横に、仕事場が長くそのままの状態だった。おば夫婦は、地域情報紙を発行する仕事をしていた。・・・「昭和の消えた仕事図鑑」澤宮優原書房2016年発行文選工(ぶんせんこう)原稿の文字通りに活字棚から鉛でできた活字を一字ずつ拾って、文選箱に収める仕事。一舜にして活字を探すのは熟練した職人の技だった。活版印刷の文選工の仕事は、主に二つの作業工程に分けられる。あらかじめ活字を選び出しておく「文選」。活字を原稿の順序に従って並べ、組版を作る「植字」。とくに文選は数千種類もある大型ラックに入れられた活字からすぐに選び出さ...文選工(ぶんせんこう)

  • 神島天神祭り 2023.9.17

    場所・岡山県笠岡市神島・天神社(島の天神)名称・神島天神祭り神島天神祭りを見に行った。気温35度、9月17日では史上最高気温。今年の「御渡り」(海上渡御)は、見崎・寺間・神東の三地区。天気は、倒れそうな暑さだったが、そのぶん空も海も青く、華やかなお祭りとなった。神島天神祭り2023.9.17

  • 屎尿汲取り

    笠岡の高校に入学して、最初にびっくりしたのが、学校近く商店街を、肥たごを積んだ大八車だったか、リアカーだったかが、作業者数人と歩いていたこと。肥たごを数桶積んでいて、数人の男性がこぼれたり、はねたりしないように、慎重に前に進んでいた。その周辺は強い臭いが商店街にただよっていた。これが笠岡か、と思った。(これは笠岡が田舎という意味ではない。さすがに町には汲み取り車があるのだ、と感心した想い出である)高校3年生だった頃は、その記憶がないので、たぶんバキュームカーに変わっていたのだろう。・・・「失われゆく仕事の図鑑」永井良和グラフィック社2020年発行汲取り1950年代までは、し尿処理場のない自治体もあり、農家と契約してし尿を集めていたケースもあった。トイレ水洗化が浸透して「臭い」と無縁の時代となって久しい。し...屎尿汲取り

  • DDT

    頭の髪にはシラミがいて、着物にはノミが何匹もいた時代。小学生女子にはシラミ退治のため、まっ白い粉を頭からふりかけられていた。男子は坊主頭で対象外、女子がやられる(?)のを見ていた。強力な合成殺虫剤DDTのブーム「食糧と人類」ルース・ドフリース日本経済新聞社2016年発行オーストリアの大学生ツァイドラーは1874年にDDTという化学物質を合成したが、20世紀後半、農業分野で大きな変化を引き起こすことになろうとは夢にも思っていなかった。DDTはイエバエ、シラミ、コロラドハムシに対してすばらしい効果を発揮した。1942年には商品化され、人類と病害虫との闘いに終わりを告げるという華々しい謳い文句とともに市販された。DDTの威力が証明されたのは第二次大戦中のことだ。菊を原料とする除虫菊剤が使われていたが、それが品不...DDT

  • ボウリング

    高校を卒業した春休み、福山の日本鋼管埋立のボーリング工事のアルバイトを一週間ほどした。それで、ボーリングとは穴掘りだと思っていた。それから3年ほど後には、ボーリングとは玉転がしを差し、突然のように日本全国にボウリング場ができ、テレビ番組もでき、スター選手もでた。笠岡にも井笠バスセンター、ABCホール、笠岡ボウルと三つのボウリング場ができた。自分専用の靴やボールを持っているのが自慢の人も何人かいた。ところが、異常なブームは1~2年で終わった。テレビ番組が終了すると、飽きられたようにボウリングブームも去っていった。「ダブル」とか「ストライク」という言葉も聞かなくなった。数少なくなったボウリング場だが、固定客(常連客)を中心に集客し営業を続けている。「失われゆく娯楽の図鑑」藤木TDCグラフィック社2022年発行...ボウリング

  • レコード店

    高校生だったある日、学校帰り同級生3~4人でスサキ通を歩いていた。レコード店から音楽が流れていた。「今、あの歌が流行っているんだ」その歌は、日本語ではなく外国語だったが、調子いい曲だった。「”アイドルを探せ”という歌だよ」と、一人の友が教えてくれた。そのまま、そのレコード店に入っていった。市内の高校生が10人ほど店内にいて、レコードを見たり、探していた。様子を見ていると、客‥と言っても、店内を歩いているだけ。しかもほぼ全員高校生・・・が、「これをかけて」とレコードを持っていくと、針を置いて曲を流してくれる。家に蓄音機もなく、レコードに関心はなかったが、それからは、そのレコード店の前をゆっくり歩くようになった。そのお店が「富士商工」。スサキ通りから斎藤の中華そば店に曲がる道の、また曲がるカドにあった。当時の...レコード店

  • 映画看板師

    金浦座の元館主のさんに話を聞いたことがあるが、元館主さんが言うには、(田舎の映画館とは)「ポスターを貼り替えるのが仕事のようじゃった」というお話だった。つまり、田舎の映画館は上映期間が普通1日、最大3日。したがって、日中は毎日自転車にポスターを積んで、毎日同じ場所(地域の辻や商店の前)に行き、ポスターを剥がして、新しいのに替える。これを毎日繰り返す。町の映画館は上映期間が普通一週間。期間が長いので映画館の切符売り場のまわりは、看板師が描いたスターや、ポスター絵で囲まれていた。もっとも、ポスターも金浦座同様、町の角に置かれていた。国鉄の大門駅前には福山の映画館のポスターが横一列に7~8館ぶん並び壮観だった。笠岡の隅田川沿いに映画館専用の絵師がいた。絵のサイズが巨大なので、道からよく見えるし、絵が道にはみ出し...映画看板師

  • 踏切番

    国鉄の大門駅から笠岡駅まで、踏切は10以上あった、ほとんどが無人踏切。今普通にある無人で遮断機が降りるのは大冝くらい。チンチン踏切と言って大冝名所の一つといえるほど、貴重な踏切だった。大きな踏切では”踏切小屋”があり、”踏切番”がいた。大門~笠岡間では、大門駅東(寺の前踏切)・笠岡駅西(西の浜踏切)に踏切小屋があった。吉浜土手にもあったかも知れない、記憶に自信がない。茂平の人が汽車に乗るには、全員が寺の前踏切をわたっていた。その踏切には南側に踏切小屋があった。踏切小屋には踏切番が一人いて、遊びに来ている子どもが二人くらいいつもいた。それを見ては、うらやましくて仕方がなかった。大門の子がらやましかった。ええなあ、ああいうところで遊べて。汽車が通るとき、踏切番は手動でハンドルをまわして踏切を降ろしていた。昭和...踏切番

  • 旅芸人一座

    旅芸人は茂平にも来ていた。番屋の隣の集会所(元小学校)に一座数人が泊まっていた。公演の前の日は、チンドン屋風に村を歩いて”芝居”があることを知らせていた。芝居は集会所と同じ敷地の”茂平ごらく場”で、廻りをゴザかなんかで囲み、木戸番を置いていた。芝居は髷物で、単純な筋だった。非日常を感じさせれば、それでよい、と一座も観客も思っていたようだ。公演は前日・公演・公演、の3日間だった。旅の一座が茂平に来る時・帰る時を見たことはないが、車ではない。ということは、荷車を押したり、引いたりつまり”伊豆の踊子”の一行と何ら変わらない旅姿だったのだろう。・・・「昭和の仕事」澤宮優弦書房2010年発行旅芸人ドサ回りの一座、いわゆる大衆演劇。全国を巡業して公演を行った。昭和10年代~昭和28年頃までが大衆演劇の黄金時代で、全国...旅芸人一座

  • 渡し船

    明治の中期に鉄道が敷設されるまでの日本は、人も物資も船便で移動が主だった。大は北前船から、中は高瀬舟、小は渡し舟。その後の変化は、鉄道が普及したが、道路工事が進展せず、昭和の初期までは、日本全国で「渡し船」が生活に利用された。・・・「昭和の消えた仕事図鑑」澤宮優原書房2016年発行渡し船の船頭渡し船の船頭は地域の農民で、先祖代々務める者が多かった。渡し船を対岸に到着させるのも難しく、独特の技術を要した。川に近代的な橋が架けられるに及んで、渡し船の役割は減り、徐々に廃業していった。・・・「新修倉敷市史第八巻」倉敷市1996年発行2013年10月2日倉敷市「水江の渡し」高梁川の渡し江戸時代の高梁川下流に橋は皆無であった。10年に1回の割合で洪水が発生し、架橋もその維持も非常に困難であった。現在目にするいろいろ...渡し船

  • バスの車掌

    バスとは「運転手」と「車掌」がいるのが、あたりまえで乗合バスには「運転手」と「車掌」、観光バスにも「運転手」と「車掌」(バスガイドと呼んでいた)がいた。高3の時、広島に行ってバスに乗ると、車掌がいなかった。乗る時小さな紙きれを手にして、降りる時運転手さんの前でお金を払った。「ワンマンバス」というそうで、これには、ほんと、びっくりした。それから1~2年すると、笠岡でも福山でも岡山でも、車掌さんのいる乗合バスは皆無へと変わった。・・・城見を通るバスは笠岡駅~福山駅で、大冝の為乗~新店(しんみせ)~アメリカ屋~加藤店がバス停だった(ように思う)。井笠バスの場合、車掌は男性だけだったが、女性の車掌さんもいた。たぶん、観光バス用にバスガイドさんを雇用したのが原因だと思う。その頃、歌が好きな女性、いい声をしている女性...バスの車掌

  • 「とんび」

    家では、祖母が真田を編む(組む)でいた。真田の仲買人が定期的に家に来ていた。真田を編むのは、おばあさん、こども、のイメージが強い。管理人が高校生の頃まで、仲買人が村々の得意先を一軒づつ立ち寄る風景が見られた。・・・「金光町周辺の民俗」岡山民族学会調査報告昭和46年発行真田を買い集める人を「とんび」と呼んだ。とんびは真田を集めて問屋へ運んだ。・・・「寄島町史」・・・「金光町周辺の民俗」岡山民俗会昭和46年発行この地方は、ハッカ、まゆ、米、真田の盛んな所であったので仲買人は多く出入りしていた。その中でも、麦稈真田の仲買人がよく知られている。真田を買い集めるひとの事を「とんび」と呼び、とんびは真田を集めて問屋へ運んだ。とんびは真田を組んでいる家に行き、「真田はないか」と尋ねる。寄島の人が多かった。柳こおりに二十...「とんび」

  • 「倉敷国際トライアスロン大会」を見に行く 2023.9.10

    児島へトライアスロンを見に行った。大会概要名称・第10回倉敷国際トライアスロン大会競技距離・Swim(1.5km)、Bike(40km)、Run(10km)場所・倉敷市児島地区(主会場:児島ボートレース場)日時・2023年09月10日(日)競技時間7:51~12:007時50分過ぎ、3レベル別に、3分起きに選手がスタートした。普段は競艇が走る水面を船でなく、人が泳ぐ。1.5km泳いだ選手たちは、児島ボート内の敷地に設けられた自転車置き場へと向かう。自転車は児島ボートから下津井漁港方面、さらに児島半島の山中へと40km走行する。アップダウンが多い。自転車の終盤は「風の道」。10km走は、児島ボートから児島小川の旧野崎邸を過ぎた付近で折り返し、最後は競艇場の観覧席に設けられた、赤い絨毯を踏んでのゴール。ゴール...「倉敷国際トライアスロン大会」を見に行く2023.9.10

  • 白石島フェリー航路(三洋)・運航休止

    場所・岡山県笠岡市笠岡~白石島航路廃止・2023年12月31日(予定)撮影日・2022年11月15日白石島に行くには、三つの定期航路がある。一・旅客船(笠岡~白石~北木~真鍋)二・フェリー(笠岡~白石)三・フェリー(笠岡~白石~北木)このうち、二・フェリー(笠岡~白石)の航路休止が三洋汽船から発表された。理由は、「利用者の減少や船の老朽化、燃油価格の高騰など」今年いっぱいで就航を廃止するそうだ。白石島は、瀬戸内海国立公園の景勝地であり、ユネスコ無形文化遺産「白石踊」もある。多くの人を呼び寄せる可能性が大の、魅力ある島。残る、一・旅客船(笠岡~白石~北木~真鍋)三・フェリー(笠岡~白石~北木)には船便の増など、多くの人を運んでほしいものだ。白石島フェリー航路(三洋)・運航休止

  • ジャニーズ事務所会見 2023.9.7

    テレビ放送”ジャニーズ事務所会見”日時・2023年9月7日午後2時~6時10分。テレビ東京以外の全テレビ局が中継する、「ジャニーズ会見」を見た。最初の45分間くらいは、見ていて、記者会見のやりとりが興味深かった。が、しかしその後はややマンネリで途中で見るのを止めた。見るのを止めた最大の理由は、「当事者」vs「当事者」の記者会見なので、質問の限界が見え透いていたこと。・・・今回のジャニーズ記者会見は2023年8月29日、ジャニーズ事務所の再発防止特別チームが調査報告書公表の記者会見しジャニーズの責任ジャニー氏が、「長期間にわたって広範に性加害を繰り返していた」。姉・藤島メリー氏が、「事実を隠蔽し続けた」。スタッフも「見て見ぬふり」し、長年にわたる被害の拡大を招いた。マスメディアの責任マスメディアの沈黙「多く...ジャニーズ事務所会見2023.9.7

  • 終戦(昭和20年9月2日)の頃

    1945年(昭和20年)9月2日。東京湾、アメリカ戦艦ミズーリの甲板。日本の降伏文書が連合国との間で交わされた。(Wikipedia)・・・(父)終戦後、すぐに茂平へ復員した父が驚いたのは「百姓でありながら、米(の保存量)がほとんどなかった」こと。(母)母が怖かったのは、伝染病。隣家から出て伝染。曾祖父が亡くなった。(家)祖母の妹が神戸で焼け出され帰郷。その母子3人が家に同居を始めた。家は4世代、9人、が同居となった。・・・「勝央町史」勝央町山陽印刷昭和59年発行戦後の混乱はじめて外国の占領下におかれ、やがて進駐してくる外国部隊についての恐怖感は相当なものであったようだ。「男子はキンを抜かれ、娘は慰安婦に供出させられる」などというデマが乱れ飛んで、娘たちを田舎に移住させた親もあった。また「戦争に関係ある書...終戦(昭和20年9月2日)の頃

  • 関東大震災②日本史の汚点と復興

    国は「関東大震災の日」を「防災の日」と定め、災害対策をことこまかく国民に啓蒙している。そんなことより、東京一点集中の是正の方が大問題。東京で35.000.000人の人が被災したら全国民で助け合う限度を完全に超えている。40~50年前から言われているが、ずーーーっと逆行し続けている。・・・汚点「大正デモクラシー」成田龍一著岩波新書2007年発行報道と記憶東京では新聞社が壊滅して新聞発行が不可能になる。9月5日ころから、被害の範囲がおおよそつかめた。虐殺事件震災直後、流言が飛び交った。「朝鮮人」に関するデマである。早くも9月1日午後3時、「社会主義者及び鮮人の放火多し」という流言があり、「不逞鮮人来襲すべし」「井水を飲み、菓子を食するは危険なり」とデマがひろまったという。東京の住民たちはデマを疑わず、地域ごと...関東大震災②日本史の汚点と復興

  • 関東大震災①岡山県小田郡版

    父が6歳の時、「関東大震災」があった。遠く離れた岡山県小田郡城見村茂平でも揺れ、家に近接する道にある常夜灯の宝珠が落ちて、家の庭に転がったそうだ。(写真中央の常夜灯の宝珠が落ちて、庭まで転がった。当時塀はなかった)下記は、当時の笠岡町の女学生が校内新聞に載せたもの。・・・「笠岡高校七十年史」千鳥12号休暇もすんでいよいよ学校も始まり私らの気分もひきしまった9月1日、昼飯を済ませて姉と二階でお裁縫をしていると、一寸地震がいった。物おそれの姉は早くも下りた。しばらくして地震は止んで姉も上ってきた。翌朝日曜日なので内で勉強をしていると、べるを鳴らして号外号外と叫ぶ声が聞こえた。しばらくすると父が号外を手にして奥においでになって東京の地震のことをお話になった。皆の目は一様に父の方を見つめた。私は仲良しの従妹がどう...関東大震災①岡山県小田郡版

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