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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 蛇捕り師・蛙捕り師・その他

    祖父は近所ではちょっと知られた、ハミの生の血を吸い込む名人だった。畑でハミ(まむし)を見つけると、殺して皮をむいて、血を吸っていたそうだ。その事を、母はよく話していたが、自分の同級生にも現場を見た人がいて話のタネになっていたみたいだ。祖父が血を吸った後は、家に持って帰り、父が串刺しにして干して、骨を粉にして飲んでいた。貴重な栄養源か健康源ではあったが、よその村からハミを捕りにきていた人はいなかった。(と思う)・・「昭和の消えた仕事図鑑」澤宮優原書房2016年発行蛇捕り師昭和初期、まだ結核が不治の病であった時は、蛇の生薬は貴重な薬剤で、薬屋に行けば、漢方薬としてマムシの干したものをガラス箱に入れて売っていた。マムシは焼酎につけて、鱗、皮を剥いで、天日に干して乾かす。それを粉砕して薬にする。強壮剤以外にも、肋...蛇捕り師・蛙捕り師・その他

  • Fly Over KASAOKA 2023「空のガーデン」を見に行く 2023.10.29

    場所・岡山県笠岡市カブト南町「笠岡ふれあい空港」今年も世界トップクラスのエアロバティックスパイロット室屋義秀選手が笠岡に着てくださった。室屋選手は天気快晴の、笠岡ふれあい空港の上空を何度も曲芸飛行をして、見せてくださった。ありがとう室屋義秀選手。FlyOverKASAOKA2023「空のガーデン」を見に行く2023.10.29

  • 「セルフレジ記念日」

    初めてのセルフレジペンと封筒を買いに100円ショップに行った。ついでにメモ用紙も買物篭に入れて清算口に行くと、そこにレジ嬢はいなかった。よく見ると、どの客もバーコードを読み取っていた。それで自分もバーコード処理をゆっくりとした。もっとも買物は100円*3点なので、すぐに終わった。330円支払って店を出た。無事に初めてのセルフレジは終わった。2023年10月28日は、俵万智さん風に言えば「セルフレジ記念日」となった。(ダイソー笠岡店)「セルフレジ記念日」

  • オール白石島ロケ映画『リゾートバイト』を見に行く

    重松清原作の『とんび』という映画は、岡山県内でのロケが多くテレビや新聞でロケ風景が紹介された。映画ロケの状況やロケ地が、映画の撮影中や、映画公開前、公開後も報道された。それは1年前のこと。ところが今年の『リゾートバイト』という映画は、オール岡山県内ロケだったが、いっさい報道されることはなかった。映画公開間近になって、はじめて笠岡市でロケしたことを知った。しかもオール笠岡市で、それもオール白石島。テレビの夕方の地方ニュースや、山陽新聞、中国新聞でも報道がなかった。では、いっさい岡山県や笠岡市の行政がかかわっていないのか・・・と言うと、そうではない。映画の冒頭シーンで、しっかりというか、抜け目なくというか、ちゃんと伊原木隆太岡山県知事が、白石島の信心深い農夫に扮して出演している。どうせなら、出演依頼は知事でな...オール白石島ロケ映画『リゾートバイト』を見に行く

  • 正寿場町の商家

    岡山県笠岡市笠岡・正寿場町撮影日・2023年10月26日正寿場町は古い家並みが残り、町歩きが味わい深い。お堂や祠が路地の傍に建っている。↑↓その正寿場の、県道沿いに残る古い商家が解体される。正面は健在だが、↑裏にまわると半分解体済↓。笠岡の古い建物がまたひとつ消えていく。正寿場町の商家

  • 古城昌治先生像

    場所・岡山県井原市井原町向町(母方の)祖父は農作業中にハミ(まむし)に噛まれ、「すぐに中央病院に行ったので助かった」と母がよく話していた。母にとって実父の命の恩人であり、管理人にとっても祖父の命の恩人でもある。それが井原の井原中央病院。2014年に井原中央病院は廃業になった。・・・・・・Web「井原歴史館」こじょうしょうじ古城昌治年代1884-1943(近代)活躍分野医師古城昌治は、小田郡小林村(現在の小田郡矢掛町小林)で生まれた。医師を志し東京に行き、日本医学(現在の日本医科大学)で開業医の資格を得て帰郷し井原で開業した。また、医師をしながら郡会議員、井原町長を務め、井原高等女学校(現在の井原高校)の運営や井原実業学校(現在の精研高校)の設立に尽力した。・・・撮影日・2015.9.2古城昌治先生像

  • 鍛冶屋

    学校の音楽時間に習う『村の鍛冶屋』〽暫時(しばし)も休まず槌打つ響飛び散る火花よはしる湯玉ふゐごの風さへ息をもつがず仕事に精出す村のかじ屋城見では大冝に「村の鍛冶屋」があった。同級生のTくんのお父さんが鍛冶屋をしていた。だからTくんのことを「鍛冶屋のTくん」と呼んでいた。自宅の作業場は小道からも丸見えで、Tくんのお父さんは「飛び散る火花」で「湯玉」の顔、歌とまったく同じ、いつも「仕事に精出す村のかじ屋」だった。(金光町史)・・・「昭和の消えた仕事図鑑」澤宮優原書房2016年発行鍛冶屋昭和20年までは、どの村でも鍛冶屋が見られた。野鍛冶の場合、農業で使う馬の足にはめる蹄鉄を作ったり、農具の修理もした。刃先が欠けると、鍛冶屋はふいごの火で真っ赤に焼いて小槌で打ってもとに戻した。農業の衰退とともに野鍛冶の仕事は...鍛冶屋

  • 富山の薬売り

    遊んでいると、行李を風呂敷で包み、背負って歩く薬売りが通りすぎる。薬売りは家々を一軒づつ訪ねては、薬の補充や相談、金銭の授受を行っていた。薬売りを見ると、無性に「紙風船」が欲しくなる。家に帰ると、母が薬売りと話していて、それを見ていると・・・見ているのでなく、風船を催促している・・・風船をくれる。それが嬉しい。紙風船を持って飛ばして遊ぶ。しかし、男の子が風船を飛ばすのは二日と持たない。いわば、一日限りの紙風船の楽しみだった。・・・・・・「昭和の消えた仕事図鑑」澤宮優原書房2016年発行富山の薬売り明治34年には富山市では8.000人近くが製薬と行商を行った。富山市の人口が約6万人の時代である。行商人は手甲脚絆の姿で年に1回か2回、薬品を行李に入れて、紺色の大風呂敷に包み、背負って売って歩いた。服用された薬...富山の薬売り

  • 「少年」「少女」

    少年少女雑誌は多かった。その頃、日本中に子どもが多かった。町も田舎も、どこを向いても子どもがいた。お金をだしてお遊ぶことは限られ、漫画雑誌の場合、年に何冊か買ってもらうのが大方だった。買った本は、何度も何度も繰り返して読む。1年間でも2年間でも。近所の子の家に行けば、そこに漫画雑誌がころがっている。それを読む、何回も読む。・・・漫画の本は大門駅前の小さな雑貨店まで買いに行っていた。その時というか、買いに行く道中は、嬉しかったし楽しかった。買って帰ると近所の子達が待っていて、皆で読んだ。「皆で読む」というのは、本誌が一冊あり、付録が5~6冊あった。だから同時に数人が買って帰ったばかりの新しい本を順番に回し読みをすることができた。たぶん、どこの村でも同じようにしたと思う。・・・・小学生当時は↓の漫画雑誌があっ...「少年」「少女」

  • 「小学〇年生」

    家から城見小学校まで1.5kmくらい距離があった。朝の通学には、およそ1時間くらいかかり、午後の下校には1時間20~30分かかっていた。つまり、学校には行きも帰りも、遊び遊びだった。下校は時間に制約がないので、途中の同級生の家の庭や縁側(えんだ)で遊んで帰っていた。そのうち優等生Aくんの家には「小学〇年生」の本があった。茂平の子どもの家、上級生や下級生、男の子や女の子の家でも、小学館の学習雑誌「小学●年生」はみたことがない。茂平では唯一の学習雑誌がAくんの家にあった。Aくんの家で読む「小学〇年生」は新鮮な感じがした。その訳は、まわりの家には少年・少女の漫画雑誌があふれていて、表紙と最初のグラビアページ以外は漫画一色だった。ところが「小学〇年生」には漫画のページが少なかった。その漫画も、真面目なストーリーで...「小学〇年生」

  • ノーパン喫茶

    昭和57年頃、福島県いわき市に住んでいた。その頃、雑誌や「週刊実話」等で”ノーパン喫茶”の流行が話題になっていた。ある日のこと、同僚と二人で外出中、時間調整(さぼり)で喫茶店に入ることにした。せっかくだから(?)、「話題のノーパン喫茶にはいろう」ということになった。お店に入ると、店内にはスタッフ(女の子)が5~6人、水着のような服装で立っていた。イスに座ると、そのうちの女性一人が水とメニューをもって注文をとりにくる。コーヒーを注文し、コーヒーを飲んで、店を出る。つまり、普通の喫茶店と同じで、違うのは女の子が露出していることと、コーヒーの値段が、純喫茶より少し高かった。それだけ。それだけと思ってしまったのは、コーヒーを飲みに喫茶店にはいったのか?ノーパン嬢を見るのが目的ではいったのか?そこが中途半端だった。...ノーパン喫茶

  • ダッコちゃん

    ダッコちゃんは日本中を席巻したことは間違いない。対象者は、10代後半の若い女性。対象地域は、大都会。全国展開したが、全国に普及した頃、突然のように消えてしまった。当時、家にテレビはなかったが、映画ニュースや雑誌のグラビアで、銀座を歩く女性のほとんどが片方の腕にダッコちゃんをつけて歩いているのを知っていた。その当時、茂平にも乗り合いバスが来るようになって1~2年経っていた。バスを待つ女性がダッコちゃんを腕につけていたが、場違いのような違和感を感じた。その理由は、既に東京の銀座では誰一人ダッコちゃんをもっている女性はいないと感じていたから。でも、それが、1960年の大流行ダッコちゃんを、この目で見た唯一のこととなった。・・・・・・「失われゆく娯楽の図鑑」藤木TDCグラフィック社2022年発行ダッコちゃん196...ダッコちゃん

  • 炭焼き(すみやき)

    父は学校を出た時分に、山の畑で「炭を作ってみたが、いいのはできなんだ」と話していた。たぶん、中国地方では「たたら製鉄」に必要な木炭作りのプロが、その技術を生かして「たたら製鉄後」の仕事に従事したのではないだろうか。家では木炭を「ケシズミ」と「カタズミ」と分けていて、お金で買った「カタズミ」は客がある時、火鉢に使うくらいで、大切に利用していた。・・・「昭和の消えた仕事図鑑」澤宮優原書房2016年発行炭焼き(すみやき)明治の中期以降、道路など交通網が整備され、炭の都市への販売が可能になった。木炭は薪に比べて、火が安定し、長持ちで、空気によって湿度を調整できるという利点があった。炭焼きを行うには、まず谷間に窯を作り、原木を伐採する。これを窯まで運搬し、大きさがばらばらな材木を直角に切って、表面を磨き、適当な大き...炭焼き(すみやき)

  • 浜仲仕

    (横浜港の沖仲士をかっこよく演じたトニーの「錆びた鎖」)・・・荷積・荷降・集荷等の作業は21世紀の今でも、人の手で大半が行われている。貨物船の場合は、陸揚げのためには、艀(はしけ)を利用しないと積荷が陸に上がらなかった。貨物船と艀の荷積・荷降をする仕事が”沖仲士”。船と陸の荷積・荷降をするのが”仲士”。それに加えて”浜仲士”がいた。たぶん、浜仲士とは、沖仲士と仲士を兼ねた仕事だったのだろう。・・・浜仲士笠岡市郷土館県指定・有形民俗文化財・笠岡港の力石(笠岡市郷土館の力石)江戸時代から昭和初期にかけて、笠岡港は瀬戸内海における海運の重要な拠点として栄えていた。港で物資を船に積み込んだり、荷揚げしたりする者は浜中仕と呼ばれ、かなりの人数が笠岡港で働いていた。彼らは東浜組と西浜組の二つのグループに分かれており、...浜仲仕

  • 井戸平左衛門

    場所・岡山県笠岡市笠岡井戸平左衛門は、”芋代官様”と今も笠岡市民に敬われている。薩摩芋の栽培は飢饉を救い、さらに人口増に寄与した(招いた)。他にも、日本全国には多くの、”芋代官”や”芋大名”がいるのだろう。・・・代官井戸平左衛門の像石見国大森代官として赴任して、享保17年(1732)から約1年間、笠岡代官を兼務した。領民を飢饉から救うために、数々の善政を行った名代官として知られる。この胸像は昭和30年に製作。白セメント製で、かつて代官所があった笠岡小学校の校庭に建てられていたものである。・・・井戸公園の説明版井戸平左衛門正明第14代笠岡代官(1721)さつま芋の栽培を広げて飢饉の窮乏から救った代官として有名。享保18年5月(1722)幕府の許可を待たずに官庫の食糧を放出した責任をとって自刃、また病死とも伝...井戸平左衛門

  • 産婆さん

    茂平の同級生Aくんのお母さんが産婆をしていた。Aくんのお母さんは、しゃんとした人だったので、他に婦人会の会長や茂平婦人消防団の団長などもされていた。茂平の人は大人も子どもも、”産婆さん”と感謝を込めて呼んでいた。産婆さんが、どれほど忙しかったかというと管理人が生まれた時、茂平だけでも相前後してHくんとT子さんが生まれた。産婆さん自身がゼロ歳児を育てながらの産婆業で、しかもAくんの上にはお姉さんが二人いた。ついでに言えば、当然ながら合間には農業もしていた。城見小学校の同級生60余人、そのほぼすべてを産婆さんが取り上げた。産婆さんの年齢は、管理人がお世話になった当時30歳前と思われる。今から思えば、信じられない神業で、母も当時のことを「産婆さんほど忙しい人はおらなんだ」と、よく話していた。・・・「鴨方町史」産...産婆さん

  • 瓦師

    城見小学校の通学路は、橋本屋の前の踏切を渡るのが学校から指定されていたが、5.6年生になると、帰り道はアメリカ屋の前の踏切をわたって帰ることがあった。その訳は、アメリア屋寄りの瓦屋に遊びに行っていたから。瓦屋での遊びは、仕事の邪魔にならないようにラジオを聴いた。瓦屋は、仕事場にラジオを置いて相撲中継を流していた。それを小学生たちも、「今日も栃錦は勝つだろうか?若乃花は呼び戻しで勝つかな?」それは当時の、日本人の多くが注目するところだった。用之江の瓦屋は、すぐ近くの田んぼからの土を原料にして、従業員2~3人で毎日瓦造りをしていた。昭和30年、家を新築した時、瓦は四国の菊間から船で茂平の港に着いた。その時の光景は今もよく覚えている。では用之江の瓦屋の販路はどの方面だったのだろう?長く城見の工場では、用之江の瓦...瓦師

  • 古本屋

    労働せずに、大学生が小銭を手にしようと思ったら、普通三つの方法があった。質屋へ腕時計等を預ける。本を古本屋に売る。パチンコに行って儲ける。このうち、質屋は、学生は夏休み前の帰省旅費に当てるため。で頻度は少ない。パチンコ店は、儲けるつもりで店に行き、損して出る。そういう訳で、一般的には古本屋となる。古本屋は、二通りの利用法があり、二通りともよく利用していた。本を安く買いに行き、本を高く売りに行くところだった。窮屈な店内は、本棚が天井まで届き、お店に使用人はなく店主さん一人で賄っていた。古本屋には本屋で味わえないアカデミックな雰囲気があった。店内には、なんともいえない古本の臭いがしていた。本を探す楽しみは、本屋とは違っていて、見つけた本に興奮することもあった。記憶をたどれば、社会人になってからは、本屋には行く...古本屋

  • 重要無形文化財「備中神楽」を見に行く 2023.10.7

    場所・岡山県笠岡市小平井・春日神社日時・2023年10月7日午後7時~午後11時春日神社の秋季大祭宵宮に神楽が奉納される。コロナで中断され4年振りの開催。晩飯を食べてから、歩いて春日神社に行った。・・・猿田彦の舞。・・・国譲り両神の舞。大国主の命の舞。鬼退治。・・・大蛇(おろち)退治午後10時ごろ、大蛇退治が始まった。素戔嗚尊の舞。大蛇を退治した。「大蛇を退治して宝剣を得たり。この剣こそ姉上天皇天照大神にささげ奉らん。」太鼓「おてがらにて候。」・・・午後11時過ぎ、神楽は終わった。あっという間の4時間だった。重要無形文化財「備中神楽」を見に行く2023.10.7

  • 五流尊瀧院「大権現大祭」を見に行く 2023.10.5

    場所・岡山県倉敷市児島林・五流尊瀧院(ごりゅうそんりゅういん)日時・2023年10月5日(木)13:00~・・・「新修倉敷市史第八巻自然・風土・民俗」倉敷市1996年発行五流尊瀧院(ごりゅうそんりゅういん)寺伝では、大宝元年(701)役行者が伊豆に流された時、行者の高弟である五大弟子が熊野本宮(和歌山県)の御神体を捧持して来て、林に熊野十二権現を祭祀し始めたことによって五流尊瀧院は創建されたという。承久の乱により、後鳥羽上皇の皇子・頼仁親王が備前児島に流されてきたと『吾妻鑑』にみえる。この頼仁親王およびその子孫によって五流尊瀧院を筆頭とする五流修験が再興されたようである。・・・山伏たちが法螺貝の音とともに三重塔まえの護摩壇へ向かう。・・・高梁川流域デジタルアーカイブ護摩供養「五流尊瀧院の採燈大護摩」は、毎...五流尊瀧院「大権現大祭」を見に行く2023.10.5

  • 役行者

    場所・岡山県倉敷市林五流尊瀧院役行者(えんのぎょうじゃ)は、役小角とも呼ばれ、山伏の祖とされる。修験道と古代の呪術師で各地に伝説が残る謎が多い人。7~8世紀に大和を中心に活動したようだ。「鴨方町史・民俗編」鴨方町昭和60年発行山伏山上様(行者様)山上様とは、本来、奈良県吉野郡にある大峯山系の山上ヶ岳を意味するものであるが、普通は、修験道の開宗といわれる役小角(えんのおずぬ)を指す。鴨方町あたりからもこの山上ヶ岳に登拝する風習が、江戸時代には存在した。また、町内の各地に役小角を祭って山上様と称し、山上様の祭られている堂を山上堂(行者堂)ともいった。町内には、山上講をいまも続けている地区もある。・・・・・・「新修倉敷市史第八巻自然・風土・民俗」倉敷市1996年発行修験の里山伏の宗教を修験道(しゅげんどう)とい...役行者

  • 禅海和尚

    場所・大分県中津市本耶馬渓町曽木青の洞門・・・大分県HP青の洞門/禅海和尚天下の名勝・耶馬溪にあって羅漢寺とともに四季を通じて訪れる人の絶えないところであるが、ここには時の流れを超えて後世に語り継がれる物語がある。「江戸で人をあやめた禅海が、諸国巡礼の途中、この地で鎖渡しの難所に苦しむ人々を見て隧路開さくを決意。風雪にも、嘲笑にも屈することなく、大岩盤に挑むこと30年、ついに洞門を完成させる」。大正8年、菊池寛が小説「恩讐の彼方に」のモチーフにも使った禅僧海の物語である・・・「恩讐の彼方に」中央公論菊池寛心の底から湧き出ずる歓喜に泣く凋びた老僧を見ていると、彼を敵として殺すことなどは、思い及ばぬことであった。敵を討つなどという心よりも、このかよわい人間の双の腕によって成し遂げられた偉業に対する驚異と感激の...禅海和尚

  • 屋上ビアガーデン

    ビアガーデンは楽しいが、自分から行ったことはない。一人で行くところでなく、二人でも行くところではない。最低三人は要るような気がする。行くのは誘われたり、会の行事等で利用していた。利用がいちばん多いのは福山駅屋上サントークのビアガーデン。飲酒運転が厳しくなってからは、お酒を外で飲むは駅から近い店が条件となった。独身のころ、鹿児島市の宇宿町というところに住んでいた時、夏の夜は毎晩、ビアガーデンに行っていた。宿舎の近くにビアガーデンがあった。近くといっても歩く距離でなく、車で5分くらいの距離。3~4人で車で行って、車で戻っていた。当時はまだ宿舎に冷房というものがない時代で、ビールを飲まないと寝られなかった(←ほんと)。宇宿町にあるそのお店は、小さな三階建てのビルで、その屋上に小さなビアガーデンがあった。ビアガー...屋上ビアガーデン

  • アイスキャンデー売り

    一年で一番暑い夏休みの盆の前後ごろ、茂平にも「アイスキャンデー屋」が来ていた。笛をピーピー吹きながら、自転車に旗をなびかせてやってきた。あの音が楽しかった、というか親に期待したい時だった。アイスキャンデー屋が来る2~3回に1回ほど、親がアイスキャンデーの金をくれた。おじさんが自転車を停める頃は、もう客(子ども)が先におじさんを待っていた。夏休みなので、親戚を訪ねている見慣れない子がきていて、大阪弁や東京弁を生で聞くことがあった。服装や、しぐさが茂平の子とは全く違っていた。その時は、茂平はほんとに日本の地の果てかと、みじめに思った。自転車の荷台に四角な木箱を置いていて、その中にアイスキャンデーが入っていた。お金を出して食べるおやつ類は、どれも、なにも、みなおいしかったが夏のアイスキャンデーは特においしかった...アイスキャンデー売り

  • かき氷

    かき氷ほど食べたいものはなかった。かき氷を食べる時ほど、うれしい時はなかった。わが人生で10回くらいだろうか?かき氷を食べたのは。大門駅前の店で5回くらい、笠岡駅前の店で3回くらい、茂平の番屋で2~3回くらい。真夏で、店内は開けっ放し。小さな扇風機がまわっていた。木製のテーブルとイスがあり、座ってから注文をする。「イチゴ」、というのが決まり。お店の人が氷機に行くと、「ガリガリ」という氷を締めて固定する音がする。次に、「シャリシャリ」と氷が切れてガラス容器に落ちる音がする。半分ぐらい氷の山ができると、ハンドルをゆっくりまわして、慎重に富士山の形に整える。氷の山が完成すると、真っ赤な液(シロップ)を氷の山頂に振りかけて完成。自分の前にあるイチゴのかき氷はさじで食べる。山の上から食べる、この時注意しないと山が崩...かき氷

  • 金魚売り

    金魚売りは夏に、毎年来ていた。天秤棒に担いで、一軒一軒歩いていた。その金魚売が家に来ると、なぜか嬉しい気分になった。金魚とガラス製金魚鉢を売っていた。金魚にも種類があり、だいたい、奇麗な金魚は高く、長持ちしない。メダカを大きくしたような金魚は安く、長持ちする。という、子供にもわかる傾向があった。出目金(でめきん)が一番人気で、一番高かった。では安価な金魚が長持ちするか?と言えば、そうでもなかった。たいてい、持って夏休みの終わりまでだった。親が買ってくれた金魚は、金魚鉢に入れ、まず裏の溜池に行き、そこでホテイ草を取ってきて金魚鉢に浮かべる。(エサは味噌汁に入れる)「ふ」。「ふ」を小さくちぎったり、そのまま水面に浮かべていた。金魚鉢の水は毎日、井戸水で取り換えていたが、日に2~3度取り換えたかと思えば、何もし...金魚売り

  • 浜子② ~朝は朝星、夜は夜星~

    岡山県の特産品であった藺草は、真夏にイ草を刈るが、その作業は「日本一の重労働」と言われていた。しかしイ草刈は10日間程度で終了する。同じく夏が盛りの塩田作業は、夏を挟んで春から秋までつづく。となれば浜子が「日本一の重労働」だったのだろうか?瀬戸内海海岸線の平地、そのほぼすべてが塩田だったが、その跡形は住宅地の中にポツンと堤防が残る程度で、意識してみないと見落とす。岡山平野のほぼすべて栽培されていたイ草に至っては、今では何一つ残らない。・・・「瀬戸内の風土と歴史」谷口澄夫山川出版社昭和53年発行十州同盟元禄頃から製塩業は異常な隆盛をみた。しかし生産過剰を招いた。売値が下がった。こうした塩田不況の対策として考案されたのが休浜法である。日が短く塩つきの悪い秋冬の間、塩田作業を休むことによって生産制限と経費の節減...浜子②~朝は朝星、夜は夜星~

  • 浜子① ~寄島塩田&野崎浜二十三番地~

    (JR松永駅前2012.1.7)管理人は農家に生まれ、「百姓にはなるな」(仕事はしんどく、収入は少ない)と言われて育った。隣の家は漁業だったが、これもしんどそうな仕事だった。当時瀬戸内海地方は塩田が盛んだったが、この仕事も重労働。日本経済を牽引していた繊維産業には「女工哀史」、黒いダイヤの炭鉱は命がけの重労働。学校に行くには踏切を渡らねばならなかったが、機関車にスコップで石炭をくべる乗務員からは汗が飛び散っていた。あの仕事もきつい。結局、思うに、高度経済成長以前の日本は、どの仕事も毎日10数時間働いても、一日三回麦飯を腹に通すのが精いっぱいだった。(青佐山お台場から寄島塩田跡地を見る。面影はまったく残っていない。浅口市寄島町2020.4.4)・・・「鴨方藩」藤尾隆志現代書館2021年発行塩田天保年間(18...浜子①~寄島塩田&野崎浜二十三番地~

  • 炭鉱夫

    戦前・戦後の日本経済を担っていた炭坑会社は、昭和35年政府の貿易自由化方針により、安価な石油や、安くて良質な海外炭に押され昭和30年代後半から昭和40年代全般に次々と閉山していった。・・・「昭和で失われたもの」伊藤嘉一創森社2015年発行「黒ダイヤ」の悲劇炭坑のガス爆発や落盤事故が続いた。体育館には煤けた炭坑マンの遺体が累々と並べられた。56年の北炭や59年の三井三池探鉱の事故では何百人もの命が失われた。閉山が相次いた。平成2年夕張炭鉱の閉山で、日本の炭鉱はすべて終わった。(福岡県田川市2017.2.14)(福岡県田川市2017.2.14)(文部省推薦映画「にあんちゃん」、城見小学校の講堂で生徒全員が見た)・・・・「昭和の消えた仕事図鑑」澤宮優原書房2016年発行炭鉱夫石炭の採掘が本格化したのは明治時代に...炭鉱夫

  • 写真集「去りゆく笠岡生まれ出ずる笠岡」が発売された 2023.10.1

    「去りゆく笠岡生まれ出ずる笠岡」が発行された。・・・ページを開くと、いろんな笠岡の写真が満載。白石島。カブト東町のアッケシソウ。御嶽山の幻虹台。笠岡商業高校出身の千鳥のダイゴとノブ。笠岡市指定無形文化財。ユネスコ選定の「白石踊り」。岡山県指定、「大島の笠踊り」。「真鍋島の走り御輿」「北木島の流し雛」(上記は本の一部)・・・何回見ても見飽きない、笠岡の魅力満載の本であることは間違いなし。定価2.000円で発売された。写真集「去りゆく笠岡生まれ出ずる笠岡」が発売された2023.10.1

  • 「第75回吉備真備公弾琴祭」を見に行く 2023.9.30

    場所・岡山県倉敷市真備町妹・琴弾岩名称・第75回吉備真備公弾琴祭日時・2023.9.3017:00~20.30猿掛城の麓にある琴弾岩。この岩の名は、晩年を郷里で過ごした吉備真備が、中秋の名月の夜この岩で琴を弾いたという故事から名付けられた。真備町では郷土の偉人を偲び、”弾琴祭”(だんきんさい)を開催し今年で75回目。岩の前には小田川が流れ、名月は・・・残念ながら、薄曇りで見えず。しかし、琴と尺八の音色で祭は最高潮。琴弾岩での琴と尺八演奏の後は、小田川の河川敷の仮設ステージでソーラン節や太鼓等のショーがある。仮設ステージは呉妹地区の人たちによる出店で囲まれている。今年は、今を代表する時代小説作家の安部龍太郎先生が弾琴祭に参加された。写真中央、萌黄色の背広の人が、安部龍太郎先生。ステージのショーは午後8時半ま...「第75回吉備真備公弾琴祭」を見に行く2023.9.30

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