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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 皇族でない人の国葬 2022年9月27日(予定)

    戦前は法令に基づき、天皇陛下が決めていたそうだ。戦後は法令がないので、内閣の思いつきで決めるそうだ。どの時代も”人”の面と、”費用”の面で問題があり、国葬者は少ない。山本五十六元帥は、本人の遺志とは逆に、鬼畜米英の敵討ちに利用された。吉田茂元首相は、国民や経済が昭和元禄の真っただ中で、穏便に行われた。安倍晋三元首相は、銃撃による急死だったが、国葬を決めるのも急で、世論も賛否が拮抗している。・・・・「サンデー毎日」2022年8月21.28日号毎日新聞社国葬が政治論点になった貞明皇后(大正天皇の皇后)成城大学森暢平教授戦後初の「国葬」が議論になったのは、1951(昭和26)年、貞明皇后が亡くなった時である。66歳で、突然の悲報だった。戦前と異なり、国葬の一義的な主催者は政府となる。日本憲法下の最初の議論から、...皇族でない人の国葬2022年9月27日(予定)

  • 笠岡シーサイドモール女性専用駐車場

    場所・岡山県笠岡市笠岡(シーサイドモール)廃止日時・2020年頃撮影日・2019年3月31日シーサイドモール笠岡の女性専用駐車場に、幕が張られて工事が始まったのが2年ほど前。その場所に10階建てくらいの規模の高層マンションが工事中だったが、完成が近くなった。マンションは買物便利で、笠岡駅も近いので何ヶ月も前から「完売」の幕が目立つ。大都会と違い、田舎町では健康な老人にマンション人気があるようだ。笠岡シーサイドモール女性専用駐車場

  • 旧・笠岡郵便局

    場所・岡山県笠岡市笠岡(西本町)廃止日時・2022年9月解体予定撮影日・2019年8月7日昭和30年代に完成した笠岡郵便局は、笠岡駅から近く、旧バスセンターと近接し、長く市民に親しまれてきた。旧バスセンターは解体され、駐車場になった。旧郵便局は「まち協」などが入居していたが、老朽化や耐震性が問題となり、既に解体が決まっていた。ついに来月から解体工事が始まるそうだ。※写真↑の左側のなまこ壁のお宅も1~2年前に解体された。旧・笠岡郵便局

  • ♪ああ岡山の灯よいつまでも

    たしか高校一年生の時で、6月の頃だった。笠岡の大和座で”新川二朗ショー”があった。その日は、授業中にそのことが気になって、今ごろ歌っているのだろうな、と気持ちは大和座にいっていた。高校一年生の自分が、授業を受けずに学校休み、お金を払って歌謡ショーを見ることなんか、まったくの想像外のことだった。高校は、木造校舎の古い二階建の55人学級の時代だった。その時から10年ほど経った。岡山市民会館で”新川二朗ショー”があった。既に社会人であったし、夕方の時間だったので、職場に気にすることなく、即チケットを買った。じつは、その歌謡ショーは”新川二朗ショー”ではなくて、”西川峰子&新川二朗歌謡ショー”で、残念ながら西川峰子の名が先にあった。客席はほぼ満員で、西川峰子は「峰子のマドロスさん」などを歌った。その後で、”新川二...♪ああ岡山の灯よいつまでも

  • 「生ききる。」と「アーロン収容所」

    会田教授はアーロン収容所から復員中に、日本に帰れば、すくなくとも将官だった人は全員、逮捕されるか、自ら責任を取って死んでいるだろうと予想し、その予想がはずれていたことに驚いたことを記している。戦争責任については、父も似たようなことを言っていた記憶がある。・・・・「生ききる。」瀬戸内寂聴・梅原猛角川学芸出版2011年発行梅原昭和20年4月、京大の入学式が終わって家に帰ると召集令状が来ていました。もし、広島や長崎の原爆投下がなかったら、軍部は本土決戦を決行し、私自身も戦死していたと思う。戦争が終わった時に、ないものと思っていた自分の命が助かったのですから、敗戦は決してショックではなかった。むしろ未来が開けたという喜びの方が強かった。私は、「鎮魂の森」のようなものを作るべきじゃないかな。国の施設として。多くの人...「生ききる。」と「アーロン収容所」

  • 終戦記念日

    (父の話)8月15日には焼け野原の、岡山陸軍病院で聞く終戦陸軍病院の庭に全員集合して聞いた。ワンワンようたが、聞き取りにくかったが意味するところはよく分かった。「日本は負けん、これからじゃ!」と勇ましいのを言うのもいたがすぐ収まった。(勇ましい事を言う人は、それが一週間くらいはつづいたのだろうか?2~3日だったのだろうか?それとも一晩寝ると収まったのだろうか?)『決起する』といっていたのは・・若い・・兵である。(将校でも下士官でもない)終戦で「ほっと・・した」のが・・ホンネ・・大部分なので、勇ましいことをいうのは不思議でもないがその時点で既に少数意見(というくらい敗戦の状態の現実と、厭戦気分であった)であった。いさましいのはとても一週間はつづいていない。いってみれば一晩寝ればおしまいの『決起する』であった...終戦記念日

  • 「父の野戦日記」⑩大別山 ~色あせる顔、死人の如く~

    【父の野戦日記】昨日の疲れも何時の間にやら本日も行軍。一路漢口へ。漢口へ。いよいよ二人、一人と、途上をうらうらと、さまよいつつ、倒れつつ行き進む。色あせる顔、死人の如く。吾等、身も心も疲れきり、ただいっしょに一歩づづ脚をすすめている様子だ。薬物は無く、ただ死を近くに感じるのみ。いや生きつつ地をすすめるのみ。紅葉ははかなく地上に舞い落ち、今は我故郷と、現在を比す。風に散る紅葉はひらひらと、吾がままならぬご奉公なりけり。昭和13年10月27日・・・(父の話)なんじゃゆうて、こうなんじゃ。(手でその角度を示す)馬はころげて下へ落ちる。人間も落ちて死んだんもおる。路は細ぃじゃけいのう・・・滑ったら落ちる。落ちたら死んでしまう。よう、こわぁとこを通るねぃゆうとこじゃ。せいじゃけい、普通なら通らん、きょうとぉて。命が...「父の野戦日記」⑩大別山~色あせる顔、死人の如く~

  • 「父の野戦日記」⑨信陽の戦い・第八中隊の全滅

    (父の話)信陽までは歩くだけ。何日までに信陽に着け。信陽ではボッコウ犠牲者がでた。8中隊は占領した平坦地の上から(山から)砲で攻撃され、行ってみたらほとんど死んでいた。見るのもかわいそうじゃった。生きとる者はわずかじゃた。戦闘力もなんも無い。青白い顔をしとった。作戦に引っかかった。談・2000・7・2・・・八中隊の全滅大別山で、八中隊は砲の攻撃でほぼ全滅状態になった。四面楚歌の状態で702(ななれいに)高地と呼んどったが、一度奪った処に敵が砲を打ち込んできた。大別山中腹の敵が山頂の八中隊を砲で攻撃したがほとんどが砲でやられた。いっぽう大別山の下側の味方は逃げるだけでせいいっぱい。8中隊があせったためにこの様に成った。生き残った人は息もたえだえで、口も聞かれん状態じゃった。生きている人は戦闘力もなく青い顔を...「父の野戦日記」⑨信陽の戦い・第八中隊の全滅

  • 「父の野戦日記」⑧光山城に入城する

    【父の野戦日記】雨天の中、光山城に入城した。信陽攻略の要所だ。空爆の跡を見る。高層な健築物は無く、ただ外部の一部一部を残すのみ。その他は整然として聳える○○堂、そして繁華街は昔をしのばせるおもかげは語っているようだ。あちらこちらの家陰、木陰に、支邦軍部隊の死体がわれ等の目にはいる。我等は降りつつ雨の中気合をいれつつ、戦闘の戦果を納めつつ意気洋々と入城したのだった。思えば徐州出発以来、いかなる雨天に悩まされつつ、悪天候と戦いつつ、あの日この日も休み無く。血の攻撃、実戦悪夢。敵の攻撃、悪戦苦闘で、今ようやく、光山城へ入城するのだ。その雨につけ、照るにつけ、思うのは故郷のことだ。朋は、姉妹は如何に。だがそのような実に恥かしい。ただ戦闘の束の間にちらつくホンの一瞬だ。今は光山に入城する。後6日で我が氏神様の祭典だ...「父の野戦日記」⑧光山城に入城する

  • 「父の野戦日記」⑦コレラで死んでいく人

    (父の話)信陽への行軍は真夏じゃった。真夏の漢口戦での光州行軍は多くのひとがコレラになった。小さな小屋のなかにはコレラにかかったひとがびっしりつまって横になっていた。コレラになった人は尻からビチが出ていた。コレラは一種の脱水状態で、蒸留水を注射すれば助かるのだが・・・しかも現地でこしらえてもいたが、(あまりに発病者が多く)それが足らんようになった。助かりそうなのから選って治療して、そうでないのはホッテ、尻に石灰をかけてそのままにした。ようけい死んだ。談・2000.7.9・・・・・・「岡山県郷土部隊史」岡山県郷土部隊史刊行会山陽印刷昭和41年発行漢口攻略戦・その一光州への行軍徒歩行軍で8月27日~30日慮州に入る。第十師団は第三師団とともに光州へ進む。行進したのが8月末の炎天下であり、日射病にかかる者数多く...「父の野戦日記」⑦コレラで死んでいく人

  • 「父の野戦日記」⑥武漢攻略戦へ

    【父の野戦日記】ぬかるみを歩く2~3日の雨が降る。本日も雨である。急に激しくなってきた。予定のとおり六時出発だ。雨はますます降り、我々は身も濡れ、濡れ鼠のようになって、一路目的地へと進む。足はぬかるみにとおり、土は身体につく。「たいてい」の二の舞だ。ますます激しい雨。休みつつすすむ。実に戦場ならではの光景。○○部落にて昭和13年9月20日・・・「歩兵第十聯隊史」歩兵第十聯隊史刊行会山陽新聞社昭和49年発行漢口進撃命令が下ったのは昭和13年8月22日であった。漢口進撃作戦に従事した中支那派遣軍は、第十一軍(第六、第九、第二十七、第百一、第百六、波田支隊)と、我が第二軍、総兵力30万人を超える大軍団であった。・・・「近代日本戦争史3」奥村房雄紀伊国屋書店平成7年発行徐州会戦の成果徐州会戦は北支方面軍と中支那派...「父の野戦日記」⑥武漢攻略戦へ

  • 「父の野戦日記」⑤微山湖を渡る

    赤柴部隊へ到着・その2自分は第二歩兵砲隊付だ。ここにきて”のぼるさん”と会う。彼は元気でいたが、実に転戦の過去がある。同郷の人と戦場で会う、出会う、語る。実に嬉しい。個人のうかがいしれない感じである。昭和13年5月15日・・・「歩兵第十聯隊史」歩兵第十聯隊史刊行会山陽新聞社昭和49年発行5月18日、聯隊は渡湖を始めた。敵の交戦意欲は低下しているよう思考される。敵の射撃は時々部隊の前後に落達し、人馬に若干の損傷を生じた。翌19日五時十分、主力をもって魏庄に到着した。・・・・・・・・「近代日本戦争史・3」奥村房夫紀伊国屋書店平成7年発行中国軍が逃げ出した。5月15日未明、中国軍の退却を知った第五師団は、ただちに追撃に移った。第十師団は、微山湖西岸沿いに前進して、5月19日徐州北方6キロに達した第二軍の第五、第...「父の野戦日記」⑤微山湖を渡る

  • 「父の野戦日記」④赤柴連隊長へ着任の挨拶をする(昭和13年5月15日)

    黄河を渡り済南へ途中、同輩が苦心して得た○○駅、○○駅を戦跡を眺めながら渡る。銃弾砲撃した跡を眺めつつ通過していく。各駅は警備の兵が我々の○○を守ってくれる。日中は大変暖かくなってきた。広漠たる地平線、遥かなる地平線を汽車は、一路大陸へ大陸へ。部落には日章旗と五色がひるがえっている。農夫もみうけられた。子供たちは鉄道付近にきたりて、「バンザイ」「バンザイ」と叫びつつ、僕らを歓迎してくれる。午後6時30分。東洋の大河・黄河の鉄橋にとおり着く。その鉄道は陰もなく破壊され、むしろなにを運ぶ・・・・無事汽車は通過し、午後7時汽車は済南に着いた。【父の談話】2001年8月6日(破壊された黄河鉄橋では)船を繋いで、その上にレールを敷いとった。爆破しっしもおて、鉄道があったのが。船は浮きになるんで、その上に柱を繋ぃで、...「父の野戦日記」④赤柴連隊長へ着任の挨拶をする(昭和13年5月15日)

  • 「父の野戦日記」③宇品~塘沽~天津

    洋上にて海峡にそって、ああ船はすべり目的地へ、目的地へと玄海灘をすすむ。若者の○○は、なにものぞ。洋上にでて、水平線場で夕陽を拝む。さざなみのように実にうつくしい。船は洋上の彼方へ彼方へと進んだ。昭和13年5月10日(洋上にて)タンクーへ上陸海上無事、タンクーへと上陸だ。大陸第一歩の喚声やいかん。我が先輩らが血を流して得た土地。もくもくと点在する民家も倒れ、砲撃の激しさを語っている。ところどころに残る砲弾の跡。だが支那の人家は皆、土の壁だ。もぐらか,蟻のありかのようだ。支那保安隊の警察団のものものしい警備。一路天津に向かうタンクーより汽車に乗り、一路天津に向かう。車窓に映る大陸の景。広漠たる平野だ。まったくぞくぞくする水平線の各戦跡の車窓。我等は元気で天津に着いた。天津天津は平穏だ。この土地が敵国の土地か...「父の野戦日記」③宇品~塘沽~天津

  • 8月9日に戦争が始った国④開戦後、日本人は即棄民

    当時・吉林市に住んでいたおば(父の妹)の話日本人は今まで「タイタイ」、大将でおったのが。そりゃぁみじめなもん。戦争で負けたらもう、社宅へ向かって石は投げるし。暴動みたいに、だーっと家の中にはいり衣類は取られるし。天皇の玉音を聞いたら、もう日本人は全員殺される。ロシアが明日やってくる。ロ坊主(ろぼうず)ゆうてようた。ロシアがきたら、女性は全員出ていったらいけん。頭は坊主にして、顔に墨を塗って。社宅をくりぬいて、一部屋にして。畳をあげて下に隠りょうた。鈴をつけて、鈴が鳴ったら「女はみんな隠れろ。」床の下に隠りょうた。あるものは全部盗られた。腕時計まで取られた。談・2002・4・30(おばは翌年、葫蘆島から帰還。その間に一子を亡くした)・・・・8月9日に戦争が始った国④「日ソ戦争1945年8月」富田武みすず書房...8月9日に戦争が始った国④開戦後、日本人は即棄民

  • 8月9日に戦争が始った国③拓け満蒙!行け満州へ!

    満州に行けばいいことがある。労働者に仕事はいくらでもある。農民は広い土地をもらえる。といわれてそれを実行したら、たしかに都市労働者には豊かな暮らしがあり、農民は大規模農園を営むことが出来た。異国や極寒の冬にもやっと慣れたころ、戦争が始まった。・・・「満州開拓団の真実」小林弘忠七つ森書店2017年発行満州行きを勧誘するポスターが、頻繁に全国の農村に貼られるようになったのは、昭和13年から14年にかけてであった。「満州に行けば必ず20町歩の地主になれる」との心をそそる文句もあった。そのうえ補助金がもらえるというのだ。せいぜい6~7反歩しかない小作農家のほとんどが、単位の違う田畑の広大さに目を見張り、いっそ花を咲かせに大陸へ旅立ちたいと、胸を波打たせた。関東軍の「移民方策案」満州支配の関東軍の意図は、満州を新国...8月9日に戦争が始った国③拓け満蒙!行け満州へ!

  • 8月9日に戦争が始った国②「満州開拓回顧誌」(芳井町)

    芳井開拓団は昭和19年2月入植、3月種蒔き、そして昭和20年5月、根こそぎ動員、8月9日に戦争が始まった。・・・・「満州開拓回顧誌」小谷哲雄ぎょうせい平成3年発行開拓団の編成団長以下5人の幹部指導員を当局に届けを出し、同時に所定の訓練所に入所する。茨城県内浦の満蒙開拓訓練所に入所された。幹部は内浦の訓練所へ、団員は芳井国民学校に集合し、芳井分村開拓団の編成をみた。昭和19年1月末であった。満州は元来、清朝発祥の地であった。清朝が中国大陸を支配するようになってからは、異民族の流入を許さず封禁令をだしたこともあった。しかしその後、ロシア人の東方進出が激しくなってくると、漢民族の移住を奨励するようになる。日清戦争後、ロシア宰相ウイッテは、ロシア人60万人を北満に移住させる計画を企てた。北京政府は5ヶ年計画で、3...8月9日に戦争が始った国②「満州開拓回顧誌」(芳井町)

  • 8月9日に戦争が始った国

    昭和20年8月9日に日本に宣戦布告したソ連は、日本でなく、満州国に攻め込んだ。参謀本部は事前に情勢の把握はしていたものの、国に余力はなく、ソ連が侵入してくれば、されるがまましか手がなかった。”五族協和””王道楽土”に住む日本人は、そういう美名とは真逆の状況となり、開戦と共に棄民状態になった。木山捷平さんは当時のことを、次のように書いている。「私」は、8月12日、日本の軍隊から現地召集を受けた。翌朝,朝食ぬきで街頭での穴堀り作業。なんの為に、こんな穴をほるのかとほかの新兵がきけば、敵の戦車がおし寄せて来た時、この穴の中にエンコさせて見せるのだと言うのである。学校の玄関では、古参兵が数人、せかせかと出刃包丁を木銃にくくりつけているのが見えた。これが翌日になって、新兵唯一の武器として、私たち老兵に配給せられたの...8月9日に戦争が始った国

  • 「母子三人像」

    場所・広島県福山市霞町中央公園「母子三人像」空襲の翌日、住吉町の田んぼの中で、母親が赤ん坊を抱き、あと一人の子どもを脇にして亡くなっているのが見つかりました。三人は池田ユキ子・進一・敏子の親子で、夫の虎夫は出征中でした。昭和47年に福山空襲の惨禍を後世に伝えるためのシンボルとして製作された「母子三人像」は、この親子の姿を刻んだものです。「福山の歴史(下巻)」村上正名歴史図書社昭和53年発行福山大空襲追憶はなつかしい。でもこのことだけは時がたつに従って暗い淋しい気持ちに追いやられてゆく。昭和20年8月8日、この日の夜は忘れられない。炎炎と燃えさかる城下町の明るい光に、くっきりと浮く白亜の五層の天守閣、家に降りくる焼夷弾を一つ一つ消すごとに仰ぐひとみに力強く、たのもしく、また美しく映じて、城はまだ落ちないぞ、...「母子三人像」

  • 8月8日、福山の空が炎に包まれた夜

    祖母は跡取娘だったので、生涯茂平から出ることはなかった。その祖母が、同じ話を何度もするのがふたつあった。一つは、明治時代の茂平の堤防が決壊し、お宮の前まで海水で浸かったこと。二つ目は、昭和20年の福山空襲で普段は真っ暗な茂平は、昼間のように明るくなったこと。何度も何度も同じ話を聞いた。・・・義兄は福山東国民学校の生徒だったが、笠岡の篠坂に疎開し、親と離れ陶山国民学校に通学していた。義兄は疎開生活のつらさを、ときどき話していた。福山空襲の日は燃え上がる福山市街地を眺めながら怖さと、家の心配で震えながらすごしたそうだ。戦争が終わり、福山からお母さんが迎えにきた。当時、義兄は3年生だった。・・・「井原市史2」8月8日夜10時ごろ、空襲警報が鳴って、火の手、黒煙のあがる福山空襲の様を見ていた。13日にはいよいよ空...8月8日、福山の空が炎に包まれた夜

  • 「笠岡港まつり2022」花火大会を見に行った

    3年ぶりの花火だったので、花火がずいぶん奇麗に見えた。近郊の花火大会が、今年も軒並み中止のため、花火ファンが笠岡に訪れ、例年よりも多い人だかりだった。(笠岡港まつり2022.8.6場所・笠岡市笠岡港)JRは笠岡花火のため臨時列車が出ているが、井笠バスは増発なし。仕方ないので歩いて家に帰ったが、足が疲れた。「笠岡港まつり2022」花火大会を見に行った

  • 「原爆記念日」軍都・広島のこと

    昭和20年8月6日までに、岡山・米子・下関・宇部・高松・新居浜・松山・高知が空襲で焼失していた。それでも、中国四国最大の都市であり、軍都でもあった広島は丸腰の丸裸であった。一例として、徐州会戦では日本軍が来るを察して、城内に兵も民も誰もいなかった。広島では、わかっていて何も行動せず、空襲されるのを待つような状況であったので、一層の大被害となった。(撮影・2018.5.3)毎年「あやまちはくりかえしません」と宣言しているが、「逃げも隠れもできなかった」禁止され・許されなかった、というあやまちは、その中に含まれていない。原爆投下は米軍で、広島市民は被害者という図式には、国家の責任転嫁が含まれている。市民に「逃げるな」と命令していたのは国家だから。「原爆記念日」軍都・広島のこと

  • 「父の野戦日記」②軍都広島に着く

    汽車は一路山陽本線を南下しつある。なつかしの母校(城見小学校)を眺め、小学校の歓送に感謝の涙にむせびつつ、汽車は大門駅に着く。1時30分。ご両親に最後の別れを告げる。大門駅で両親と別れ故郷を後に一路汽車は進んだ。福山にて姉妹と会う。ああこれで最後。故郷よさらば。ご両親よ健康に。姉妹よ健康に。軍都広島に着く軍部のプラットホームに着く。「ちゃのま旅館」に泊まる。軍都広島の夜は実に美しい。一夜を明かす。市内より午後二時、病院船千歳丸に乗り込む。船は岸を離れた。岸からの○○の声も次第次第に遠のく。春風は気持ちを良くし僕の笑顔をなぜ通る。海上のすいきも、ああ船と共に進む。○○も僕らの眼線より消えていく。遠く近くにとびかうかもめも,山河もこれが見納めかと思うと、さらば、おさらば母国よ。昭和13年5月7日※〇〇は解読不...「父の野戦日記」②軍都広島に着く

  • 「父の野戦日記」待ちに待った出征の日は来た

    昭和13年5月3日、大日本帝国陸軍第十師団歩兵十聯隊の父は、中国大陸に向け岡山の聯隊を出発した。父の筆からは、胸の鼓動が聴こえるぐらい気持ちが高騰しているのが見とれる。新兵で入営5ケ月での野戦、無理もない。(徴兵検査)・・・・「父の野戦日記」新亜細亜の動きは日一日と深刻、決裂を深めている。いよいよ壮士・先輩・諸賢の元に往くことにあいなる。5月3日、来たるべき日はきた。待ちに待った出征の日は来た。満場の声に送られつつ、なつかしい兵舎を後にし、戦友と別れをつげ自動車にて一路駅頭に向かう。早朝より揺る雨は矢のごとく、僕らの出征を祝福するかのごとき岡山駅プラットホームを離れた。時まさに岡山駅零時16分。ああ、これまさに最後だ。歓送の音楽の音に万感の音、耳に満ちただ一筋に心はおどる。ああこれが彼女との最後の決別か!...「父の野戦日記」待ちに待った出征の日は来た

  • 甲州名物ホウトウ料理

    前月、生まれて初めて「山梨県」の地を踏んだ。観光本に、山梨名物”ホウトウ”が大きく載っていたので、甲府市に着くと、ホウトウのお店に入った。初めて食べるホウトウは”ぼっけい”美味かった。次に山梨を訪れることがあれば、是非とも食べたいが、残りの寿命を思えば二度目はもう無さそうだ。「日本の風土食探訪」市川健夫白水社2003年発行甲州名物ホウトウ料理ホウトウは平安時代に伝えられた唐菓子の一種である。小麦粉をこねて延ばし、方形に切ったものとされている。ホウトウは甲州を代表する郷土料理になっている。山梨県は県土の多くが山地であるため、稲作が乏しく、麦・粟・黍などがよく食べられてきた。特に小麦粉を主な材料とするホウトウが主食になってきた。「うまいものだよ、南瓜(かぼちゃ)のホウトウ」ということばは、山梨県内のどこでも聞...甲州名物ホウトウ料理

  • 茂平の七夕

    子どもの夏休みの日、家の横の道を、垣根越しに子どもの声と七夕が歩いていた。大きな声と、半分見える七夕飾りで「ああ、そうか今日は七夕か」と気づくのが毎年のことだった。西ノ谷の子どもが何組かで七夕飾りの行列、・・・といっても横に倒して路上をひこずりながら海に向かっていた。胴山の子どもは、それで七夕当日と知り、庭の七夕飾りの紐を解いてから、海に向かう、それが茂平の子どもの「七夕の朝」だった。親たちは畑(のえ)に行って家は留守った。夏休み期間は、茂平の親たちにとって、一年のかきいれ時で子供が起きた時にはもう、家にいなかった。子どもは、七夕飾りを横倒しの状態で、茂平の水門まで持っていった。水門前の海(「ひどう」と呼んでいた)に七夕飾りを流した。先着や降着の七夕があり、子供心に”七夕”という行事を感じていた。七夕飾り...茂平の七夕

  • 盧溝橋事件、どこで何を誤ったのか

    国家のデザインを描き、その意味を国民に説明し、最後に国会で決議し、実行する。そういう首相は非常に残念ながら、滅多に出ない。ここ30~40年間でいえば、一に中曽根首相、二に竹下首相、三に・・・いないわ。この二人だけ(涙)。・・・・「歴史街道」PHP2021年9月号盧溝橋事件、どこで何を誤ったのか井上寿一昭和12年(1937)7月7日に北京郊外の盧溝橋で起きた、日本と中国の偶発的な軍事衝突は、その4日後現地で停戦協定が結ばれた。日中双方にそれぞれ事情があり、ともに戦争する気などなかったからだ。日本は、対ソ戦の準備を優先させたかった。中国は、国民党の蒋介石は共産党との内戦に備えるため軍事力消耗を避けたかった。一つの要因として、日本が兵力を増員したことだ。中国に圧力をかける背景があったが、新聞・雑誌の等のメディア...盧溝橋事件、どこで何を誤ったのか

  • 果物栽培の歴史

    食べるもので、「日本人がスキヤキを食べ始めたのは明治何年からです」は、大人の本にも、子どもの本にも載っている。しかし管理人が牛のスキヤキを初めて食べたのは昭和30年代が終わる頃だった。いっぽうで「日本人が果物を食べ始めたのは明治何年からです」は、大人の本にも、小どもの本にも、ほとんど載っていない。牛肉以上に人々の日々の食べ物として重要度が高いと思うが、なぜ書かれないのだろう?・・・・「物語・食の文化」北岡正三郎中公新書2011年発行果物わが国で縄文時代に食用された果物はヤマモモ(山桃)、ヤマブドウ(山葡萄)、キイチゴ(木苺)などだけで、弥生時代になって、モモ、スモモ、ウメ、ナシ、カキ、ブミ、ビワなどが大陸から伝来した。縄文時代、クリ、クルミを含む堅果が多量に食用されたが、これらは主食であった。中世以降主食...果物栽培の歴史

  • 小田郡新山村の農作物

    木山捷平が見た桃畑は、桃栽培が頂点の時代で、おそらく現代人が想像できない見事な光景を見ていたことになる。大正4年の栽培本数は、昭和20年にはおよそ1/10まで減ってしまった。戦後の新山は「桃」よりも「柿」の印象がずっと強い。・・・「続木山捷平研究」定金恒次遥南三友社平成26年発行木山捷平は明治37年、岡山県小田郡新山村山口に生まれた。新山村は山陽本線笠岡駅から北へ約10キロ、尾坂川という小さな川を挟む山あいに開けた戸数450,人口2.300の農村であった。当時の村人にとっては、笠岡は「米を売りに行ったり、肥料や日用品を買いに行ったり」する町であって、子供にとっては「一つの夢の国であった」(尋三の春)のである。捷平は往時の村を回想して、「私が幼い時分、私たちの村は中国第一の桃の村と称せられた。陽春四月が来る...小田郡新山村の農作物

  • 松浦岩蔵氏の葡萄経営

    父が若い頃、果物栽培の先生として、教えを請いに伺っていた”岩蔵先生”の記事があったので転記して残す。・・・「岡山の果物」三宅忠一岡山文庫昭和43年発行松浦岩蔵氏の葡萄経営松浦岩蔵氏は明治2年城見村大冝に生まれ、明治29年頃日清戦争除隊後全家を携えて転居。氏は日清・北清・日露の三役に従軍したが、名を辱めぬ体躯と精神力の持ち主で、かねて新渡戸稲造博士を崇拝し、その著書中に「人間は一生を通じて地球の表面に痕跡を遺すことに務めよ」にいたく共鳴して開拓を決意したのであった。在隊中深夜人知れず農書を携え、除隊後国繁に移籍。細道さえない不毛の山麓から海岸に至る約二町歩を開墾。葡萄栽培に特に熱意を傾け、大正天皇の御登極の際、葡萄献納の光栄に浴した。園の一側に枇杷を移植して、潮風害防ぐ。労力節減のため葡萄棚を高めた。明治2...松浦岩蔵氏の葡萄経営

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