chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
フォロー
住所
岡山県
出身
未設定
ブログ村参加

2014/12/11

arrow_drop_down
  • 「笠岡よっちゃれ」を見に行った

    昨夜は、3年ぶりに開催された、「笠岡よっちゃれ」を見に行った。今年は来週(8/6)「笠岡花火」も開催される。しかし、これは例外に近く岡山県岡山の花火、うらじゃ、中止。倉敷のOH天領祭り、中止。井原の花火、中止。広島県福山の芦田川花火、中止。尾道の住吉花火、中止。笠岡もここ10日間くらい毎日40人くらいのコロナ感染者が出ている。「笠岡よっちゃれ」を見に行った

  • 兵はマラリアで死ぬ

    聞き書きの本を読んでいたら、父と同じ元衛生兵の話が載っていた。父は、従軍した徐州から武漢への途中、多くの兵が戦と病気で亡くなったが、病気はほとんどがマラリアだったと話していた。薬の不足と、「現地調達」と言う名の、略奪に近い食糧不足による栄養失調が原因での死だった。本の方はビルマの野戦の話で、読んでいて涙が出た。・・・・「聞く、書く。3号」聞き書き人の会吉備人出版2015年発行ビルマの記憶話し手Bさん(1912年生まれ・103才)今から5年ほど前にな、ワシを訪ねてこの施設まで来てくれた人たちがおったんや。会うんはその時が初めて、その人らはな、70年前の戦争で一緒に戦った仲間の息子さん達やったんやあ。なんで来てくれたかというたら、その戦友の彼が亡くなるまでずっとワシのことを「命の恩人」やいうて家族に伝えとった...兵はマラリアで死ぬ

  • 池の水みんな抜く①ウダ(ウザ)のこと

    茂平の「いなとり」は村一番と思える賑わいだったが、その参加者は府中~新市~神辺~井原、が多かったのは子供も知っていた。なぜわざわざ遠方から来ていたのか?その訳は、海から離れ、川魚を漁撈し食す地域の人々には、農具の一つとして「うだ」を所有し生活と食料に役立てていたから。海岸部の人々には「うだ」は必要ないし、年に一度のために所持するほどの豊かさはなった。・・・「矢掛町史・民俗編」溜池とウザ漁撈溜池での漁撈をイケボシ、カイボシ、サカナトリなどと呼称し、水田灌漑水を落下すると同時に、池水も落水し溜池での漁撈、溜池の修理保全などが関係農民によって行われる。その上に溜池での捕獲された川魚類は地域農民の重要な食品として貴重な食糧資源であった。来るべき秋の収穫前、または12月の収穫後の今日の言葉でいうレクレーションでもあ...池の水みんな抜く①ウダ(ウザ)のこと

  • 城見小学校の修学旅行、宮島へ行く

    ”旅行”といえば、学校行事の「遠足」か「旅行」しかなかった。家族旅行という言葉も、それに相当する旅行も、城見小の児童には関係ない、当時の日本の普通の農村の学校だった。それだけに学校行事の旅行、とりわけ修学旅行となると、もう1年ほど前から楽しみだった。行った場所、泊まった旅館、汽車の中、いろんな記憶がはっきりと残っている。・・・城見小学校は隔年で、広島・宮島と四国の屋島・琴平が修学旅行の行先だった。私たちの年は広島だった。四国よりは広島の方が良いと思っていた。朝の暗いうちに家を出て、暗いうちに学校に着いて、点呼の後、歩いて大門駅へ向かった。県境の講口池のあたりで、夜が明けて来た。その頃の講口池ふきんは、国道2号線とは言え松林の暗い道だった。大門駅で引率の先生と生徒(62~63人)は、汽車に乗った。修学旅行は...城見小学校の修学旅行、宮島へ行く

  • 羽黒山・三神合祭殿

    場所・山形県鶴岡市羽黒町手向出羽神社(三神合祭殿)三神合祭殿は赤い鳥居から入ると、すぐに巨大な鐘楼と釣鐘と撞木が目に飛び込む。こんな大きな「お寺の鐘」は見たことがない。が、ここはお寺でなく神社。境内のいたるところに神と仏が残る三神合祭殿だった。(羽黒町観光協会)出羽三山神社・三神合祭殿羽黒山頂の中心に建つのが羽黒山、月山、湯殿山の三神をあわせて祀る三神合祭殿です。周囲には自然の地形に応じて建物が配される山岳寺院特有の景観が広がります。現在の社殿は江戸時代の文政元年(1818)の再建ですが、山伏が滞在する長床(ながとこ)など中世にさかのぼる構造を残した貴重な茅葺木造建築物です。平成12年国の重要文化財に指定されました。・・・(鐘楼と大鐘=国の重文)(羽黒町観光協会)羽黒山の神仏分離維新政府は神仏混淆を禁止し...羽黒山・三神合祭殿

  • 羽黒山五重塔  

    場所・山形県鶴岡市羽黒町手向国宝・羽黒山五重塔羽黒山五重塔に行くには、鳥居をくぐり、髄神門をはいり、石段を降り、杉木立の参道を歩く。途中滝があり、千年杉があり、夏でも汗のでない涼しさがあった。「山形県の歴史」山川出版昭和45年発行出羽三山出羽三山とは羽黒山・月山・湯殿山をいい、これら三山は一体のものとして信仰されてきた。月山・湯殿山は奥宮といい、羽黒山に三神合祭殿を設けて本社としている。羽黒山には、古くから行者がいたらしい。貞元2年(977)に都で、ずきんをかぶり、108摩尼珠を手にした行者たちが、はげしく法螺をふきならしてあるき「われわれは役行者の徒である」といったという。この行者たちは羽黒山伏であろう。平安後期から鎌倉時代、羽黒修験は全盛期をほこった。山形県公式観光サイト「やまがたへの旅」羽黒山羽黒山...羽黒山五重塔  

  • 山居倉庫

    場所・山形県酒田市山居町さすがに酒田市のシンボル・山居倉庫は、存在感がすごい。川に面し、国道に面し、ケヤキに面し、巨大な倉庫が12棟並ぶ。一部が資料館と土産・物産展になっているが、中心部は現役の倉庫。現役の近代遺産で、まおかつ”美しい”のがいい。酒田市役所”酒田さんぽ”Web湊町・酒田のシンボル「山居倉庫」米どころ庄内のシンボル山居倉庫。1893(明治26)年に建てられた米保管倉庫です。米の積出港として賑わった酒田の歴史を今に伝え、NHK朝の連続テレビ小説「おしん」のロケーション舞台にもなりました。白壁、土蔵づくり9棟からなる倉庫の米の収容能力は10,800トン(18万俵)。夏の高温防止のために背後にケヤキ並木を配し、内部の湿気防止には二重屋根にするなど、自然を利用した先人の知恵が生かされた低温倉庫として...山居倉庫

  • 喜多院

    場所・埼玉県川越市小仙波町雨の中、喜多院を訪れた。川越では最後の見学地だったのと、疲れもあり、休憩所で雨宿りでおわってしまった。残念。公益社団法人小江戸川越観光協会きたいん喜多院天台宗川越大師喜多院は、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願寺であり、本尊である阿弥陀如来をはじめ、不動明王や毘沙門天等などを祀り、『無量寿寺』と名付けられました。慶長17年(1612)、徳川家康が天海大僧正に喜多院の再興を命じて多くの堂塔伽藍が建造されましたが、寛永15年(1638)1月に起きた川越大火により、現存する山門を除き、堂宇はすべて焼失してしまいました。そこで同年11月、3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)より客殿、書院等を移築しました。客殿...喜多院

  • 富岡八幡宮

    場所・東京都江東区富岡富岡八幡宮(深川八幡宮)門前仲町駅から下町の趣を感じながら「富岡八幡宮」に行った。神社は杜に囲まれていた。相撲に関する記念碑を楽しみにしていたが、それも楽しめた。「東京都の歴史散歩(上)」山川出版社1977年発行富岡八幡宮(深川八幡)富岡八幡は神田明神・赤坂山王さん・浅草三社さまとともに江戸っ子の祭礼で有名。辰巳の花街や木場の繁栄を背景に芝居や小説、小唄など庶民文芸にしたしまれてきた。江戸中期、この境内で勧進相撲が行われていた。祭礼の盛大さは、そのにぎわいで文化4年の永代橋落下事件をひきおこしたくらいである。力士碑の裏手にある八幡橋は都内最古の鉄橋(重文)である。富岡八幡宮の東の木場2~5丁目はもと、木場のあったところ。”火事と喧嘩は江戸の華”で、たびたびの火災のあと普請工事が木場の...富岡八幡宮

  • 海向寺

    場所・山形県酒田市日吉町生入定(いきにゅうじょう)した”即身仏”が二体保管されている海向寺。住民の苦しみを救うため、生きたままミイラに似た身体になり、仏になった僧。今も庄内地方で尊崇を受けている。「歴史と文学の廻廊1」尾崎秀樹ぎょうせい平成4年発行即身仏出羽三山の行者のなかには、仙人沢・荒沢などで、千、三千、五千日に及ぶ山籠修行を行い、生涯を通して五穀、十穀を断ち、山草か木の実しか食べない木食の行を続け、修行を助けてくれた人々の苦悩や罪障をわが身に引き受け、死期が近づくと、生きながら塚に入り、念仏を唱えながら死を待つ者がいた。行者にゆかりのある者は、塚の中からわずかに聞こえてくる念仏で、行がつづいていることを確かめたという。こうして死に至った行者はミイラとなり、即身仏(そくしんぶつ)として人々の篤い尊崇を...海向寺

  • 蚶満寺

    場所・秋田県にかほ市象潟町象潟島高校生の時、古文の教科書で”象潟”を知り、地図を見ればはるかに離れた秋田県の秋田市からも遠い場所だった。その象潟に初めて地を踏むと感慨を覚えた。かつての九十九もの島々は、今も浮島のように、緑の田園の中に松林の小山として残されていた。「秋田県の歴史」今村義孝山川出版社昭和44発行象潟の景色は古くから世に知られていたようである。鎌倉時代の歌人西行法師も遊歴の途中に立ち寄っている。室町時代の著名な連歌師梵灯庵もまた象潟を訪れ、蚶満寺(かんまんじ)に古歌をしるした。象潟を東の松島の風景と対比するのは松尾芭蕉の「奥の細道」をまつまでもなくさらに古かったわけである。芭蕉によって象潟の声価がさらにたかまった。その後も文人墨客のこの地を訪れるものは多かった。それゆえ、六郷氏も島守をおき島内...蚶満寺

  • 千住大橋

    場所・東京都足立区~荒川区千住大橋千住大橋には「千住大橋駅」から行った。橋の袂には、多くの記念碑があり、橋の下におりると絵図による説明板などがあり、さすがに古くからある千住大橋は今も大切にされていることを感じた。橋を渡ると(足立区→荒川区)、大きな素戔嗚神社があり、南千住駅前には芭蕉の出立の像が建っていた。「街道をゆく・本所深川」司馬遼太郎朝日新聞社1992年発行千住大橋千住大橋がみえてきた。隅田川がまがっている両岸の低地を千住という。江戸から奥州(あるいは日光や水戸)へゆく最初の宿があったところである。江戸時代、幕府は隅田川に五橋を架けた。千住大橋、吾妻橋、両国橋、新大橋、永代橋。千住大橋は江戸時代を通じ、幾度か架け替えられたが、洪水で流出すということは一度もなかったといわれる。家康が架けた千住大橋は、...千住大橋

  • 旧酒田灯台

    場所・山形県酒田市日吉町日和山公園広い日和山公園に白亜の灯台が目立つ。六角形の木造建築。明治28年建造物だから、鉄道以前で、酒田港には多くの北前船などで賑わっていた時代に造られたもの。「日本近代建築大全・東日本篇」米山勇旧酒田灯台日本最古の木造灯台の一つ明治27年に起きた庄内地震の翌年建てられたのが、この木造六角の洋式灯台である。内部は2階。その上が展望台となっている。灯台は、大正2年、対岸に移された後、大浜、ついで現在地の日和山公園内に移築された。モダンな外観の旧酒田灯台。明かりは灯されないが、港町酒田のシンボルとして町を見守っている。訪問日・2022年7月11日旧酒田灯台

  • 湯殿山本宮      

    場所・山形県鶴岡市仙人沢湯殿山本宮「語るなかれ聞くなかれ」の湯殿山本宮にお参りした。ご神体は世にも不思議な思いがした。羽黒町観光協会湯殿山古は本地仏として永遠の生命の象徴である大日如来(だいにちにょらい)と全てのものを産み出す山の神(大山祗命・おおやまづみ)が垂迹(すいじゃく)神として祀られたことから、「未来の世を表す山」といわれる。野性味あふれる自然が広がる湯殿山(標高1,500m)は、月山に連なり、湯殿山神社はその中腹の渓流のほとりに鎮座している。古来、出羽三山の奥の院とされ、修行した山伏が即身成仏する場所とされ、今もなお山伏が修行をする「行場(ぎょうば)」でもある。湯殿山神社の御神体は、熱湯の湧き出る茶褐色の巨大な霊巌である。「語るなかれ、聞くなかれ」といわれ、神秘のヴェールに包まれてきた。自然崇拝...湯殿山本宮   

  •  旧鐙屋(きゅうあぶみや)

    場所・山形県酒田市中町井原西鶴の『日本永代蔵』に登場するほど、酒田では別格の大商人。酒田市が”史跡”改修工事中で、工事幕で覆われていた。酒田市役所”酒田さんぽ”Web旧鐙屋酒田を代表する廻船問屋今も昔も本間家旧本邸や鐙屋がある通りは「本町通り」と言われ、酒田の中心でした。本間家とともに酒田三十六人衆のひとりとして酒田の発展につくした豪商池田惣左衛門(屋号:鐙屋“あぶみや”)。江戸時代には本町通りに何軒もの廻船問屋が連なっていましたが、その中でも鐙屋は別格。井原西鶴の『日本永代蔵』に「北の国一番の米の買入、惣左衛門という名をしらざるはなし」と紹介されるほどでした。「山形県の歴史」山川出版昭和45年発行鐙屋(あぶみや)酒田豪商の一人である鐙屋の繁栄については、井原西鶴がその著「日本永代蔵」につぎのようにかいて... 旧鐙屋(きゅうあぶみや)

  • 本間家旧本邸

    場所・山形県酒田市二番町「本間様には及びもせぬがせめてなりたや殿様に」で知られる、庄内藩の本間家。多くの地主が明治以降に土地を増やしたのと違い、本間家は増やしていないそうだ。本間家三代目の光丘が隆盛を築き、その時代に日本海の庄内砂丘に植林した功績が今も住民に感謝されているようだ。酒田市役所”酒田さんぽ”Web本間家旧本邸武家造りと商家造りが1つになった珍しい建築様式1768(明和5)年、本間家3代光丘が藩主酒井家のため、幕府巡見使用宿舎として建造したお屋敷で、書院造りの武家屋敷と本間家が生活した商家造りが一体となった全国的にも珍しい建物です。その後拝領し、本間家代々の本邸として使用されてからも、武家造りの建物は特別な時にしか出入りできない場所でした。商人が幕府巡見使を迎える藩のためにこのようなお屋敷を建造...本間家旧本邸

  • 笠岡市でプロ野球の試合があった

    日時・2022年7月23日13:00試合開始場所・笠岡市走出古代の丘スポーツ公園「どんぐり球場」去年に続いて二度目、笠岡市の「どんぐり球場」でプロ野球があった。プロ野球といっても1軍の試合ではない。2軍(ウエスタン)の試合でもない。ソフトバンク3軍vs四国ILの試合で、両チームともプロ野球。前半は両チーム、白熱した試合だったが、次第にソフトバンクが押して、7対0で勝った。ホームランが2本出た。ソフトバンクの選手は有名どころのが多く出場した。1塁の中村晃、DHの牧原。投手では嘉弥真、甲斐野、それに入団したばかりの秋吉。(入団したばかり、秋吉投手)試合の中盤にくじがあり、当選者となり、景品をもらいに行ったら「今治タオル」1枚だった。なお、観衆は約250人。入場料は1.000円。両チームの選手が命がけで勝負のプ...笠岡市でプロ野球の試合があった

  • ニコライ堂  

    場所・東京都千代田区神田駿河台初めて、近くでニコライ堂を見た。高層ビルに挟まれ、更にも高層ビルが建築中の神田駿河台のニコライ堂だった。「日本近代建築大全・東日本篇」米山勇講談社2010年発行日本ハリストス正教会教団復活大聖堂(ニコライ堂)わが国では珍しいビザンチン洋式の教会堂。ニコライは文久元年(1861)にロシアから来日。最初は函館、明治5年に東京に居を移す。駿河台を布教の拠点と定め、大聖堂を建設することにした。明治24年に完成。ところが、関東大震災で大きな被害を受けた。昭和4年に復旧工事を完了したのが、おおむね現在のニコライ堂の姿である。「大江戸発見散歩」松本こーせいアーク出版2002年発行ニコライ堂聖橋の向うにニコライ堂のドームが姿をのぞかせている。聖橋は、関東大震災復興事業の一環として昭和2年に架...ニコライ堂 

  • 北前船

    場所・山形県酒田市南新町日和山公園北前船は瀬戸内海では、最初沿岸沿いに航海し、後に「沖乗り」と呼ばれる航路を通った。しかし、東西からの潮の満ち引きに、最適な条件を持ちながら笠岡や白石島に、北前船が寄港することはなかった。現代でもそうだが、港間の競争は、江戸時代もそうとう激しいものがあったように思える。「瀬戸内諸島と海の道」編者・山口撤吉川弘文館2001年発行西廻り航路の発達「沖乗り」をおこなうようになった背景には海上輸送量の飛躍的増大があった。幕府や大名の財政は、年貢米を大坂や江戸に運んで売却することで成り立っていた。酒田から下関をまわって大坂・江戸を結ぶ西廻り航路が整備され、これ以後西国だけでなく東北・北陸地域からも続々と年貢米を積んだ廻船が瀬戸内海にやってくるようになる。やがて年貢米だけでなく各地のさ...北前船

  • 小鵜飼(こうがい)船

    場所・山形県酒田市山居町「山居倉庫」酒田市のシンボルでもある「山居倉庫」に行くと、小鵜飼(こうがい)船が新井田川沿いに展示してあった。「小鵜飼船」は、それまで「ひらた船」のライバルとして最上川水運に登場しスピードを武器に栄えた。明治以降は自由化によりさらに発展したが、鉄道の登場ともに、船は消滅し、水夫は失業していった。「流域をたどる歴史二東北編」豊田武ぎょうせい昭和53年発行山形県のおよそ8割を潤す最上川は、全長229km、流域面積7.040km2の大河である。人々は山形県の「母なる川」と呼んでいる。ひらた船ひらた線には5人乗り米350俵積の大船、縦横18.2m*2.7m、の他に中船、小船があった。大船は今の、10トン積トラックの2台ぶんの輸送力である。元禄10年頃大小652艘の船が最上川に浮かんでいた。...小鵜飼(こうがい)船

  • 旧西田川郡役所

    場所・山形県鶴岡市家中新町鶴岡市は庄内平野の豊饒な地にあり、街からは鳥海山や月山を望める、落ち着いた城下町。冬には「雪の降る町を」の音楽祭があるそうだ。「歴史と文学の廻廊」尾崎秀樹ぎょうせい平成4年発行鶴岡雪の降る町中田喜直が作曲した「雪のふる町を」のメロディは、鶴岡で生まれた。鶴岡が地吹雪に見舞われるころ、市民たちの「雪の降る町音楽祭」が催しされる。この雪は、雪どけとともに庄内平野を潤す大切な水となる。高山樗牛は鶴岡が生み出した英才である。藤沢周平は、時代小説に異彩を放つ。横光利一は鶴岡にある、妻の生家に疎開する。「私は山形県の庄内平野に這入ってきたとき、ああここが一番日本らしい風景だと思った」西田川郡役場(山形県HP)鹿鳴館時代を今に残すルネサンス風擬洋風建築旧西田川郡役所(鶴岡市)『旧西田川郡役所』...旧西田川郡役所

  • 神田明神

    場所・東京都千代田区外神田二丁目銭形平次が住んでいた神田明神下から、男坂を登り、神田明神にお参りした。・・・・「街道を行く・神田界隈」司馬遼太郎朝日新聞社1992年発行「江戸っ子というのは・・・ただ、その・・・威勢がいいってだけのものでございますな」古今亭志ん生が『祇園祭』のマクラで、いきなりそういうのである。この噺では、江戸っ子が京見物をする。逗留先で京都の番頭と、お国自慢のやりとりをするのである。江戸っ子のほうは、京なんざ寺ばかりで陰気で仕様がねえといい、京都のほうは、江戸はあんた、犬の糞だらけどすがな、といってたがいにらちもない。やがて祭の自慢になる。京都は祇園祭ほど上品なものはない、といえば、江戸っ子はやりかえして神田祭を活写し、神田囃子を口でやってしだいに相手を圧倒する。志ん生は口一つで鉦、太鼓...神田明神

  • 湯島天神

    場所・東京都文京区湯島3丁目小説『女系図』は読んだことはないが、この歌はよく知っている。小畑実の甘い声が印象的だった。♪湯島通れば思い出すお蔦主税の心意気知るや白梅玉垣にのこる二人の影法師「湯島の白梅」唄の舞台にやってきた。(湯島天神のHP)湯島天神湯島境内は、広重の「江戸百景」などの画題となり、湯島十景、また武州洲学十二景に「南隣菅祠」と題されている。古く文明十九年(1478)堯恵法師の「北国紀行」には当時の風致をたたえている。天正十九年(1591)十一月、徳川家康公は湯島郷の内御朱印五石を社有として寄進した。近世の縁日は、毎月十日・二十五日で、境内とその界隈は江戸有数の盛り場で、宮芝居や植木市、各地の出開帳があり、江戸町人の憩いの場として繁盛した。また富突は、今日の宝くじに当たり、谷中感応寺・目黒不動...湯島天神

  • 川越城

    場所・埼玉県川越市郭町江戸時代、知恵伊豆・松平信綱や柳沢吉保など多くの老中を輩出したことで知られる川越城。中ノ門堀跡に行けば、開門前で見学ができず。本丸御殿に行けば、御殿前が工事、それにここも時間前。富士見櫓に行こうとしたが、雨ですべって転んでもいけないので登城しなかった。雨に日に行ったのが不幸だった。・・・・川越市HP川越城中ノ門堀跡旧川越城内に残る唯一の堀跡~中ノ門堀の歴史と整備の概要江戸時代、川越城は、江戸の北の守りとして重要視され、寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は、城の大改修を行いました。この際に、中ノ門堀が造られたと考えられています。堀は、現在の市役所付近に当たる西大手門側から本丸方向への敵の進入を阻むために巧みに配された堀のひとつであり、堀と堀の間に中ノ門がかつて存在していました...川越城

  • 甲府城

    場所・山梨県甲府市丸の内舞鶴城公園お城は、中央本線により分断されていて、鉄道を挟み南北に残されている。城の規模は巨大だが、石垣や櫓や城門の多くが、近年の復元工事のものが多い。駅から至近距離であることと、天守台は、富士山や市街地や南アルプスの展望台を兼ねるのが特色かな。すばらしい。市民などの訪問者が多いが、夏は樹木が少ないので日傘が必要。煙突のようなオベリスクが城の中心に建つが、城とは調和を感じない。将来的に他の公園に移転した方がいいように思った。甲府城「日本名城100選」鳥羽正雄秋田書店昭和44年発行甲府駅で下車して、左手に見えるのが甲府城である。慶長3年、秀吉没し、甲府は江戸を守るための、最前線の重要基地と考え、血縁の大名を封ずることとした。その後は、甲府城には親藩の大名を封するという家康の遺言を破り、...甲府城

  • 武田氏館跡(躑躅ヶ崎館)

    場所・山梨県甲府市古府中町武田神社日本100名城の武田氏館、また躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)とも呼ばれている。「人は石垣人は城」でも有名だが、行ってみるとちゃんと石垣もあるし水堀もあり、すこし拍子抜けした。城跡のことを地元では「武田神社」で統一されているようだ。武田神社は大正時代に館跡地に創建された、新しい神社。躑躅ヶ崎館「日本名城100選」鳥羽正雄秋田書店昭和44年発行甲府市の郊外に標高800mの要害山城がある。ここに城を築いたのは武田信玄の父信虎である。信虎は永正16年(1519)新たに躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を築き、信虎、信玄、勝頼三代の居城であった。この館は平地に一重の堀をめぐらして、その土をもって土塁としたものを思われる。東西約220m、東北135mである。この館は一見、非常に狭く、...武田氏館跡(躑躅ヶ崎館)

  • お玉ヶ池の千葉道場

    場所・東京都千代田区神田東松下町秋葉原駅から神田駅までの町歩きで、来てみたいと思っていた”お玉ヶ池の千葉道場”の地を訪れた。マンションやビルに挟まれた一角に小さな記念碑が建ってる。もちろん”池”はないが、近くに二刀流の道場があり、道路から見える稽古風景が千葉道場に地であったことのイメージができた。・・・・・「お玉ヶ池の千葉道場」といえば、”天保水滸伝”の平手酒造や、♪剣をとっては日本一の、赤胴鈴之助をまっさきに思いうかぶが、残念ながら平手酒造は実在の剣士ではあるが、千葉道場とは縁がなく浪曲や講談や流行歌の作り話らしい。赤胴鈴之助は漫画雑誌「少年画報」の少年剣士。のちにラジオ、テレビ、映画にも。赤胴鈴之助の友達だった”さゆり”(←吉永小百合のデビュー作)も架空の人。道場に実在したのは、千葉周作先生だけという...お玉ヶ池の千葉道場

  • 富士川の戦い

    場所・静岡県富士市富士川「平家物語」瀬戸内晴美世界文化社1976年発行富士川さて、いよいよ明日は源平富士川で矢合せと決定した。その夜の夜半ばかりのことであった。富士の沼に無数に泳いでいた水鳥が、何に驚いたか、一度にぱっと飛び立った。その羽音が、大風か雷のように聞えた。平家の軍兵たちは、「それ、源氏の大軍が押し寄せてきたわ。ここは退いて尾張川墨股を防ごう」と、取る物も取りあえず、我先にと逃げ落ちていった。あまりにあわて騒いで、弓持つ者は矢を忘れ、矢を持つ者は弓を忘れ、人の馬に自分が乗り、わが馬には人に乗られる。あるいは杭につないだ馬にとび乗り、杭のまわりばかり回っている者もある。近在の宿場宿場から呼び集めていた遊女たちは、この騒ぎで、頭を蹴割られたり、わめき叫ぶ者が少なくなかった。あくる日二十四日の午前六時...富士川の戦い

  • 伊能忠敬

    場所・東京都江東区富岡富岡八幡宮近代史の偉人伊能忠敬の銅像が富岡八幡宮の境内に建っていた。いつも、この神社にお参りしてから測量地へ旅立ったそうだ。笠岡では、浄心寺や白石島に宿泊している。(神社境内)近代日本地図の祖師である伊能忠敬先生は、事業に成功したあと50歳のとき江戸に出て、当宮近くの黒江町(現在は門前仲町1丁目)に隠宅を構えていました。約200年前の寛政12年閏4月19日(陽暦では1800年6月21日)の早朝に当宮に参拝して蝦夷地(北海道)測量の旅に出かけました。忠敬先生はこのときを含めて全部で10回の測量を企画しましたが、遠国に出かけた第8回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事を祈念したのち、千住、品川宿など測量開始地点に向かって歩き出しました。当宮は伊能測量にと...伊能忠敬

  • 武田信玄

    場所・山梨県甲府市丸の内1丁目銅像は、甲府駅前で、訪れる人を歓迎している。といわれているが、行ってみると、駅前ではあるが、すこし(駅に向かって左手で)銅像を探す必要があった。「山梨県の歴史」磯貝・飯田共著山川出版社昭和48年発行人は城、人は石垣「甲陽軍鑑」に、信玄は一代のうち、甲州四郡の内に城郭を構えず、堀一重の館(たて)だけで、城は一つもなかったも同然であると述べ、人は城人は石垣人は堀情は味方あだは敵なりの歌を載せている。兵農未分離の当時にあっては、農民は主食の生産者であると同時に、軍隊組織の末端機構としても重要な機能を果たしていた。思慮深い信玄は、農民対策に格別意を注ぎ、治山治水・新田開発・検地・人口増加策など一連の瀬策をおこなって富国強策の基本とした。(武田神社)撮影日・2022年7月9日武田信玄

  • 武田信虎

    場所・山梨県甲府市丸の内1丁目よっちゃばれ広場甲府駅前(北口)の「よっちゃばれ広場」に行くと、中央に銅像があった。誰かな?と覗くように見ると、信玄公の父・信虎だった。(甲府市役所・観光情報HP)武田信虎には暴君のイメージがありますが、有力土豪層が割拠して乱国となっていた甲斐を統一し、甲府の城下町を開創するなど画期的な政策を推し進め、戦国大名・武田氏の基盤を築いた人物として、最近では高い評価が与えられています。信虎が相川扇状地のつつじが崎に館を造営し、本拠地を移転したのは永正16年のことで、時を同じくして有力土豪層の城下集住策を進め、城下町の東西出入口部には市場を設けて物資の流通を確保しました。たくさんの寺社も創建されています。整然とした都市プランをもつ城下町の建設は、それまでの甲斐国内ではなかったことで、...武田信虎

  • 大田道潅

    場所・埼玉県川越市元町1丁目川越市役所前狩り装束の大田道潅、右手に山吹を一枝もっている。「歴史と旅」昭和54年6月号秋田書店大田道潅と八重山吹一枝大田道潅は、室町末期の名将として知られ、軍事上の天才で、築城の名人であり、江戸築城のさい、農民に地域の名をきき、千代田・宝田・祝田の三村と知ると、「国は武蔵、郡は豊島、地名はそれぞれ吉兆の文字ばかり。この城は、末永く繫栄するに違いない」と喜んだという。ある春の日。雲雀の声に、数人の家来を連れて、狩りにでかけた。突然の雨に、とある民家にかけこむと、しばらく雨宿りをした。娘から茶のもてなしを受けながら、家臣の一人が、娘に声をかけた。「蓑を一つ、借用したい」自分たちはともかく、道潅を雨に打たせたくないのである。娘はなかなか現れない。ようやく出てきたが、手には山吹の花を...大田道潅

  • 河村瑞賢

    場所・山形県酒田市日和山公園河村瑞賢は、江戸時代から明治中期に至るまでの、日本経済を物流面で支えた大功労者。現在でも知られた人ではあるが、もっともっと評価されるべき人物だと思う。・・・「瀬戸内諸島と海の道」編者・山口撤吉川弘文館2001年発行西廻り航路の発達「沖乗り」をおこなうようになった背景には海上輸送量の飛躍的増大があった。幕府や大名の財政は、年貢米を大坂や江戸に運んで売却することで成り立っていた。酒田から下関をまわって大坂・江戸を結ぶ西廻り航路が整備され、これ以後西国だけでなく東北・北陸地域からも続々と年貢米を積んだ廻船が瀬戸内海にやってくるようになる。やがて年貢米だけでなく各地のさまざまな特産品も大坂に集まり、大坂から桧垣廻船や樽廻船で江戸に回送されるという構造ができあがっていく。塩飽の廻船は幕府...河村瑞賢

  • 荒木彦助

    場所・山形県酒田市日和山公園日和山公園には、多くの歌碑や記念碑があり、人物像もあった。「荒木彦助」胸像は、氏のことを知らないので、像の隣に立つ説明板から転記する。「米穀商荒木彦助は嘉永五年(1852)生まれ。町会議員、商業会議所会頭をつとめ、築港、河川改修に尽力し大正七年六七歳で没す。昭和八年有志が建立し戦後再建した。」(荒木彦助胸像・説明板)撮影日・2022年7月11日荒木彦助

  • 芭蕉 〈暑き日を 海に入れたり 最上川〉

    場所・山形県酒田市出羽大橋「芭蕉物語(中)」麻生磯次新潮社昭和50年発行伊東玄順は俳号を不玉といった。酒井侯お抱えの医師だった。早くから酒田俳壇の中心人物として知られていた。寺島彦助は酒田の豪商で、浦役人なども勤めていた。十四日俳諧が催された。涼しさや海に入れたる最上川芭蕉この句は後に次のように改められた。暑き日を海にいれたり最上川芭蕉最上川は酒田の港で海に入り、その川口の向こうの海へ太陽が没するような地勢になっている。海に日が没する有様が、あたかも最上川が太陽を海へ押しこめたようにも感ぜられる。芭蕉は海の向こうに太陽が没する有様を見て、まずそういう感じをもったのである。(像は日和山公園)撮影日・2022年7月10日芭蕉〈暑き日を海に入れたり最上川〉

  • 芭蕉 〈涼しさやほの三か月の羽黒山〉

    場所・山形県鶴岡市羽黒町手向三神合祭殿五日、権現(ごんげん)に詣(もう)づ。延喜式(えんぎしき)に「羽州里山(うしゅう・さとやま)の神社」と有り。書写(しょしゃ)、「黒」の字を「里山」となせるにや、羽州黒山を中略して羽黒山と云ふにや。出羽(でわ)といえるは、「鳥の毛羽(もうう)を此の国の貢(みつぎもの)に献(たてまつ)る」と、風土記(ふどき)に侍(はべ)るとやらん。月山(がっさん)湯殿(ゆどの)を合せて三山(さんざん)とす。・・・・・「おくの細道」池田満寿夫NHK1989年発行芭蕉にとって、『おくの細道』は歌枕の地を実証する旅であった。また蕉風俳諧を拡める興業の旅でもあった。また不易流行の思索と創作への旅であった。『おくの細道』の旅から帰り、その紀行文を完成させるために更に五年の歳月を必要とした。芭蕉の俳...芭蕉〈涼しさやほの三か月の羽黒山〉

  • 芭蕉 〈象潟や 雨に西施が ねぶの花〉

    場所・秋田県にかほ市象潟町蚶満寺その朝(あした)天好く晴れて、朝日はなやかにさし出(い)づる程に、象潟に舟を浮かぶ。まず能因島(のういんじま)に舟を寄せて、三年幽居の跡を訪(とぶら)い、向こうの岸に舟を上がれば、「花の上こぐ」と詠(よ)まれし桜の老木、西行(さいぎょう)法師の記念(かたみ)を残す。寺を干満珠寺(かんまんじゅじ)と云う。此の寺の方丈(ほうじょう)に座して簾(すだれ)を捲(ま)けば、風景一眼(ふうけい・いちがん)の中(うち)に尽きて、南に鳥海(ちょうかい)天を支え、その影映(かげ・うつ)りて江(え)にあり。江の縦横(じゅうおう)一里ばかり、俤(おもかげ)松嶋に通いて又異なり、松嶋は笑うが如(ごと)く、象潟(きさがた)は憾(うら)むが如し。寂しさに悲しみを加えて、地勢(ちせい)魂を悩ますに似たり...芭蕉〈象潟や雨に西施がねぶの花〉

  • 西施

    場所・秋田県にかほ市象潟町蚶満寺合歓(ねぶ)の花「街道をゆく29」司馬遼太郎朝日新聞社昭和62年発行金浦(このうら)という浜辺の町をすぎるころから、左側の地形が、陸であるのに海であるかのような印象をあたえはじめた。この”傾向”は、象潟にはいるとはなはだしくなった。(これが、象潟というものか)私は道路わきの田畑のあぜ道に入ってみた。その田畑は道路より高い。まわりを見わたすと、いくつかの”島”がある。いずれも黒松におおわれていて、じつに美しい。島の数は九十九だったという。象潟九十九島(つくもじま)などともいわれていた。タテ・ヨコ一里の入江にたくさんの島が浮かんでいたというのは奇勝だったにちがいない。芭蕉がこの地を去ってから百十五年後の文化元年六月四日、局地的な大地震で大地が盛りあがってしまったのである。象潟の...西施

  • 西施

    場所・秋田県にかほ市象潟町道の駅・象潟「ねむの丘」「小説十八史略」陳舜臣毎日新聞昭和52年発行----ひそみにならう----絶世の美女。その名を西施という。夫差はどんなに美人でも、道理のわからぬ愚昧な女はきらいであった。たおやかな賢女。それが夫差の理想の女性である。彼は西施に夢中になった。夫差は出征のときも、陣中に西施を伴っていた。片時も離さなかったのである。西施は眉をひそめると、一そう美しくみえた。眉のあたりに、ひきしまったポイントがつくられ、それが新しい魅力を生む。呉王の宮殿では、宮女たちが西施を真似て、悲しくもなんともないのに、眉をひそめるポーズをつくるのが、流行ったという。「ひそみにならう」という諺がある。自分にアウカドウカ、まるで考えないで、他人の真似をすること、つまり猿真似のことをいう。撮影日...西施

  • 松尾芭蕉

    場所・東京都荒川区南千住・南千住駅西口駅前広場千住千住は古く千寿と書き、中世から奥州への道筋になっていた。徳川家康は江戸へ入国したのち、すぐにここに架橋を命じた、文禄3年(1594)には早くも千住大橋が完成している。そして日光道中第一の宿駅、江戸四宿の一つとして栄えた。今も千住1丁目から五丁目まで、わずかながら街道筋の面影を残している。芭蕉は、元禄2年(1689)の3月27日(5月16日)に深川から舟に乗り、小名木川から隅田川へと入って千住に上陸した。深川からは約10キロである。ここで見送りの人々と別れを惜しみ、遥かなみちのくへの期待と不安を抱いて、旅路の第一歩を踏み出したのである。「奥の細道を旅する」日本交通公社JTB1996年発行・・・千住大橋は、江戸で最初に架けられた橋です。浮世絵のなかの大橋も行き...松尾芭蕉

  • 松尾芭蕉

    場所・東京都江東区常盤芭蕉庵史跡展望公園芭蕉の「奥の細道」の場所を、訪問してみたいと、数年前からすこしづつ実行している。今回、東京・山形・秋田の数ヶ所を訪問することができた。(満足)月日は百代の過客(かきゃく)にして、行き交う年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いを迎うる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人(こじん)も多く旅に死せるあり。予(よ)もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風に誘われて、漂泊(ひょうはく)の思いやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋、江上(こうしょう)の破屋(はおく)に蜘蛛(くも)の古巣を払いて、やや年も暮れ、春立てる霞(かすみ)の空に、白河の関越えんと、そぞろ神の物に憑(つ)きて心を狂わせ、道祖神(どうそじん)の招きにあいて取るもの手に...松尾芭蕉

  • 城見小学校6年生との”昔話”

    2022年7月5日、母校・城見小学校6年生に昔話を語る機会があった。私はFさんと2人で6人グループの前で話した。そのFさんの話を、記憶があるうちに書いて残す。(注意・聞き間違いがあるかもしれない)・・・Fさんの話私が城見小学校に入る時、城見小学校は「城見国民学校」に変わりました。私が卒業する時に、「城見国民学校」は無くなりました。第一回目の「金浦中学校」(青年学校かも?)の入学生です。校庭に奉安殿がありました。その前を通る時は、頭を90度まげてお辞儀をしていました。ある時、お辞儀の仕方が悪いと午前中ずっと廊下に立たされたことがあります。奉安殿の北隣に宿直室がありました。奉安殿を守るために先生が寝泊りしていました。(城見小・奉安殿)式の時は、校長先生はモーニング姿で、白い手袋で、奉安殿からの教育勅語を受け取...城見小学校6年生との”昔話”

  • 茂平のイナとり

    城見小学校の6年生に、昔ばなしを依頼されたので、話す内容を整理した。・・・・・イナとり茂平イナとりは9月第一日曜日と決まっていました。茂平の子供にとって、それはそれは楽しみな行事でした。用之江や大冝の子供も見に来ていました。何日も前からポンプ場から24時間排水のエンジン音が聞こえていました。ぽんぽんぽんぽん♪その音を聴きながら、わくわくしながら当日がくるのを持っていました。その日、主催者である茂平消防団は総出で、内海周辺に配置、入場料を徴収。茂平婦人会はお店を出していました。イナとりの人は、全員男性で、道具はウダで、まれに投網の人がいました。ウダは竹で編んだ円形の籠で、それを自転車に積んでやってくる。なぜか東西からでなく、北の方から来る人が多かった。府中、新市、井原方面からで、用之江の道と、野々浜の道はウ...茂平のイナとり

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、しろみ茂平の話さんをフォローしませんか?

ハンドル名
しろみ茂平の話さん
ブログタイトル
しろみ茂平の話
フォロー
しろみ茂平の話

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用