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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 硫黄島から生きて戻った日本兵

    硫黄島(いおうとう)には陸海軍合わせて約21.000の日本兵がいた。栗林中将が、硫黄島守備隊全員に配布した『敢闘ノ誓』はよく知られているが特に一・我等は敵10人を斃さざれば死すとも死せず一・我等は最後の一人となるも「ゲリラ」に依って敵を悩まさんは兵の行動にいかされた。昭和20年3月21日大本営は、「戦局ついに最後の関頭に直面し、17日夜半を期し最高指導官を陣頭に皇国の必勝安泰とを祈念しつつ全員壮烈なる総攻撃を敢行するとの打電。通爾後通信絶ゆ。この硫黄島守備隊の玉砕を、一億国民は模範とすへし。」と玉砕を発表した。実際にはおよそ1.000人の兵が生還した。どういう状況で、どういう人が帰還したのだろう。その一例。・・・・・森茂財閥御曹司は部下を投稿させたのか森茂中尉、30歳(戦死時)。全身傷だらけの森茂少尉が生き残り...硫黄島から生きて戻った日本兵

  • 千三年の鳥居松

    場所・岡山県笠岡市入田訪問日・2019年10月14日千三年の鳥居松なぜ「千三年の鳥居松」と呼ぶのか、その概略は『お代官様が領内視察をしていたとき大松に驚き「あの松の樹齢はいかほどじゃ」と尋ねると、庄屋のお供をしていた与七という男が即座に「今年でちょうど千三年になります」と答えた。「どうして判るのじゃ」「松は千年たつと逆葉(さかば)を打つと申します、ちょうど今より三年前に逆葉を打ちました」以来、土地の人は千三年の鳥居松と呼んでいた。国師神社の参道の端に切り株が祀ってある。千三年の松は、第二次世界大戦の終わりごろに木造の軍艦を造るという軍の命令で切り倒された。「陶山100選」陶山地区まちづくり協議会アド工房平成27年発行千三年の鳥居松

  • 政治家になる人

    たたきあげで政治家になる人は、いい意味でも悪い意味でも、たくましい。別の世界の人と思うことがある。・・・・おごりの春の片隅で「後列のひと」清武英利文芸春秋2021年発行竹岡和彦は、同志社大学時代は新左翼系学生運動の闘士であった。反対デモで捕まったこともある。ただし、思想的な根は浅い。のちに、「森下仁丹」社長で自民党参院議員だった森下泰を「師匠」と仰ぎ、同党の大阪府議会議員も務めている。・・・・1974年6月、森下の参院選挙運動が始まる。竹岡はビラを配り、ポスターを貼り、マイクを握る。間もなく騒ぎが持ち上がった。証紙を貼ったポスター以外に、事前運動用のものを貼り続け公職選挙法違反に問われようとしていた。貼ったのは森下仁丹社員だったが身代わりで自首し、肝心なところでは黙秘を貫いた。森下事務所に入って12年後、彼も候...政治家になる人

  • 五平太(ごへいだ)の煙

    小学生の時、日本の石炭産業は全盛期だったが、茂平で石炭を見たことは一度もない。ゴヘイダという言葉も知らない。城見小学校に行けば真冬の時に教員室に達磨ストーブがあり、石炭をくべていた。ストーブの隣にはバケツに入った石炭があった。手に取れば汚れるだけなので、木山捷平のように珍重するとか欲しいとか思ったことはない。茂平の子は踏切をわたらないと学校まで行けないので、機関車の真っ赤に燃え上がる釜、スコップで石炭をすくう、釜に投げ込む、飛び散る汗、を踏切の真下から見ていた。ゴヘイダの煙を身をもって体験することは何度もあった。大門~笠岡間には金崎トンネルがあり、真っ黒い煙が顔に、煤となって襲い込んできていた。・・・・・五平太(ごへいだ)の煙「小説を、映画を、鉄道が走る」川本三郎集英社2011年発行太宰治と親交のあった私小説作...五平太(ごへいだ)の煙

  • 「一六銀行って、知っている?」

    中学校のクラスにも、高校のクラスにも質屋の息子がいたが(息子と書くのは、女生徒の親までは知らないので)、その質屋のことを「しちや」・「ひちや」と呼ぶ人はいたが、「いちろく銀行」と言う人はいなかったような気がする・・・けど。「家計簿の中の昭和」澤地久枝文芸春秋2007年発行若い人に「一六銀行(いちろくぎんこう)って、知っている?」とたずねると、みんな首を横にふる。質屋(しちや)のことである。江戸時代から質屋はあり、日本だけでなくアメリカにもある。庶民の銀行が質屋だった。質草は、3ヶ月ごとの利上げをつづけていれば、流されない(所有権の移転はない)。元本と利息を払えば、もとの姿で手許にもどってくる。質屋の蔵は堅牢にできていて、預かった衣類に虫がつくこともないし、少々の火事にはビクともしない。客の秘密を守るのが質屋の歴...「一六銀行って、知っている?」

  • 楠池のほとり

    ~楠池を見ながら昔の話を~池の土手を歩いていたら、農夫さんから話かけられた。瀬戸内地方には星の数ほど溜池があるが、そのひとつひとつの池に、地域の人の思いが詰まっているような気がする。場所・岡山県笠岡市・楠池日時・2022.4.9・・・・この池に、ある人がハスを2~3植えました。その後繁殖して蓮根を掘るようになりました。地区の人だけでなく、遠方からも取りにきていました。池の水を抜いて、そのあとはポンプで抜いて干して、にぎやかにやっていました。いい時代でした。・・・・土手に桜を植えようと、みんなで桜を植えました。木は大きくなり、花もよく咲くようになりました。ところが、木の根が太くなって池の土手から水漏れがでるようになりました。植樹したころの人は、亡くなったり高齢化し、若い人は無関心が多いです。・・・・どこに田んぼに...楠池のほとり

  • 2022年の桜

    (西から)広島県尾道市・福山市、岡山県笠岡市・井原市・浅口市・総社市・倉敷市・岡山市・瀬戸内市・備前市・赤磐市・津山市、岡山県小田郡・浅口郡・和気郡・勝田郡・久米郡、の桜を見てまわった。今年は晴れの日がつづき、多くの桜を楽しめた。尾道・福山笠岡井原・浅口・小田倉敷・岡山・総社瀬戸内・備前・赤磐・津山・和気・勝田・久米2022年の桜

  • 奈良光枝のこと

    二十歳前後の頃、テレビ東京系の懐メロに奈良光枝が出ていた。それをいっしょに見ていた母は、「奈良光枝はそりゃあ美人じゃった」と見たことでもあるように話した。たしかに、テレビに映る奈良光枝は飛び切りの美人だった。・・・・藤原正彦先生の”あこがれの人”への思いは、ほぼ私たちの世代も似たようなもので、先生の思いは非常によくわかる。・・・・・・・・・奈良光枝のこと「始末に困る人」藤原正彦新潮社平成23年発行昭和21年に「或る夜の接吻」という映画が封切られた。日本初の接吻映画と宣伝されたが、私がよく見たところ主演の若原雅夫と奈良光枝は接吻していない。接吻をほのめかしているが絶対にしていないはずだ。私の奈良光枝は清純無垢でそんなふしだらをするような人間ではないのだ。私などとは根本的かつ本質的に違うのだ。奈良光枝を初めてテレビ...奈良光枝のこと

  • 「明日、仏さまにないやっとごわんど」

    陸軍特攻基地として知られる「万世飛行場」のはなし。・・・・・ある夜、ソヨは婦人会の女たちと、炊事場で出撃用のおにぎりを作っていた。出撃前日の青年が二階から降りてきた。倉田道次という少尉だった。「それは誰が食べるの」「みなさんが・・・・」奉仕隊の一人が小さな声で答え、もう一人が「あなたたちが,持っていくと、聞いています」と途切れ途切れに言った。倉田の声は穏やかだった。「もう遅いからそんなことをしないで、早くお帰り下さい。それを食べる時間には僕たちはもう生きていません・・・・・・」出撃後、二、三時間で彼らは沖縄の敵艦に突入するのだ。倉田はまだ二十二歳である。「だから作らなくてもいいよ。残った人たちに食べさせてあげて下さい」女たちは黙ってうつむき、ぽたり、ぽたりと涙がおにぎりに落ちた。それを見て倉田は「塩はいらないね...「明日、仏さまにないやっとごわんど」

  • 会社に行って鍋ややかんを修理する

    就職した会社はもともと、海軍呉鎮守府からの土木・建築の請負業だった。ところが、敗戦で海軍は無くなり、広島の本社は原爆で破滅し、無の状態のところにさらに復員兵が復職してきた。その時代をベテラン社員が話す中で、「会社に行っては鍋やヤカンを修理していた」ことをよく覚えている。どんな仕事なんだろう?少し参考になるような本があった。↓「少年時代」安野光雅山川出版社2015年発行戦後すぐのころはすることがないのでアルバイトをした。土建業の堀内組の堀内さんは、鍋の底に黒いものを塗って火にかけると、黒い方がはやく沸騰する。「それを実演販売して、鍋の底に塗る墨を売るのだ。あ、そういえば穴のあいた鍋を修繕するというのもあったなあ。ああ、あれは硫黄に墨を混ぜて型に入れて固めればいいんだ。熱した鍋の穴にあててこすると硫黄がとけて穴をふ...会社に行って鍋ややかんを修理する

  • 桧垣直右

    場所・岡山県玉野市築港桧垣は戦前の内務官僚知事だが、宇野港の開発功績者として新聞に名が載ることが、今でも時折ある。宇野港宇野港が世の注目をあびはじめたのは日清戦争後のことだ。国力増強、軍備拡張の観点から、時の海軍大臣西郷従道や第十一師団長乃木希典ら多くの要人が現地を視察し、その自然条件のよさから評価したが、すぐには実現せず、また1904(明治37)年宇野線敷設の仮免許がおりたときも見おくられ、翌々年起工式まで行われながら、県会と県知事の対立でもめ、けっきょく内務大臣の指示で強行され、1909(明治42)年に近代的な宇野港が完成した。「岡山県の歴史散歩」山川出版社1976年発行第8代岡山県知事桧垣直右宇野築港計画は、日露戦争中の明治37年県会で、当時の知事桧垣直右によって提案されたが、否決された。このため知事は翌...桧垣直右

  • 田村占義

    場所・岡山県浅口市鴨方町鴨方長川寺鴨方の長川寺に胸像があった。氏のことは知らないので、墓碑から転記する。昭和24年果物出荷組合を創立し遥南園芸農業協同組合及び遥南園芸園芸農業出荷組合の名称にて昭和53年迄30年間殆ど組合長として、この運営に当たり郷土産業のため献身努力せり太平洋戦争中海軍参謀及び陸軍参謀として奮戦す従五位勲四等海軍中佐田村占義(浅口市鴨方町)撮影日・2022.3.21田村占義

  • ズロースのはじめ

    ズロースは白木屋百貨店の火災がきっかけである、という本や新聞記事がよくあるが、実際はどうなんだろう?母は火災前の、昭和6年頃にお腰からズロースに変わり、おばも火災前の、昭和5年頃には既にズロースをはいてる。なお、父方と母方の祖母とも、一生お腰のまま過ごしている。少なくとも白木屋の火災は、いわれているほどには関係ないように思える。ズボンやスカートの普及とも関係がいくらかある。たぶん、昭和になってから女性はズロースをはき始め、戦時中からズボンを履くようになったのであろう。昭和は、食べる物が激変したが、着るものも一変した。・・・・・(昭和7年、白木屋の火事)「隅っこの昭和」出久根達郎角川書店平成18年発行ズロース日本女性にズロースが普及するきっかけは、昭和7(1932)年12月16日の、日本橋の白木屋デパートの火災、...ズロースのはじめ

  • 万代常閑

    場所・岡山県備前市西片上真光寺三重塔と万代常閑像。万代常閑(もずじょうかん)(デジタル版日本人名大辞典+Plus)1675-1712江戸時代前期の医師。延宝3年生まれ。備前岡山藩医。万代家11代常閑。家伝の妙薬「反魂丹(はんごんたん)」を富山藩につたえ,富山売薬の祖とあおがれた。天和(てんな)3年(1683)富山藩主前田正甫(まさとし)に薬を献上したこと,あるいは正甫の家臣を常閑が長崎で治療したことが機縁という。正徳(しょうとく)2年11月20日死去。38歳。姓は「まんだい」ともよむ。じつは、境内でなく国道2号線の歩道に建っている。撮影日・2022年4月5日万代常閑

  • 浮田佐平

    場所・岡山県津山市山下鶴山公園(津山城跡)城跡に建つ「浮田佐平翁像」、戦前は胸像でなく全身の像だったが、供出されたそうだ。浮田佐平うきだ-さへい1867-1939明治-昭和時代前期の実業家。慶応3年10月25日生まれ。家業の製糸業をつぎ,機械製糸の導入など改良と近代化につとめ,大正元年浮田製糸を設立。植林業,果樹園経営,奥津峡の観光開発なども手がけた。また,津山(鶴山)城東麓に窯をつくり「佐平焼」をおこした。昭和14年2月1日死去。73歳。美作(みまさか)(岡山県)出身。デジタル版日本人名大辞典撮影日・2022年4月6日浮田佐平

  • 津山城の桜 (岡山県津山市山下・鶴山公園)

    登城日・2022年4月5日(夜桜)、6日(午前)石垣の見事さで有名な津山城。天守閣の再建が期待されるが、地元でその議論はないようだ。備中櫓が再建したので区切りかな?「日本100名城」と「さくら100選」の双方に指定されている。津山城の桜(岡山県津山市山下・鶴山公園)

  • 足守陣屋の桜 (岡山県岡山市北区足守)

    登城日・2022年3月30日足守陣屋石垣と水堀宮路山南麓に構えられた陣屋は御屋敷と呼ばれ、南、西辺にはL字状に石垣と水堀が廻らされていた。秀吉の正室北政所の実の兄である木下家定は、慶長6年(1601)足守に石高二万五千石を与えられた。足守陣屋は、現在の足守小学校の北隣にあたる位置にあった。「よみがえる日本の城5」学研2004年発行足守陣屋の桜(岡山県岡山市北区足守)

  • 備中高松城の桜 (岡山県岡山市北区高松)

    登城日・2022年3月30日あまりに有名な”高松城水攻め”、この城は、戦国のむかし、本丸のほか二の丸・三の丸・池の下丸があり、ふだんは橋で結ばれて、いざという時は橋を切っておとすようになっていた。周囲はふかい沼地、まことに要害の城だった。この城としての長所を逆手にとったのが、秀吉の軍師黒田官兵衛孝高である。近郷の百姓を動員し、土嚢一俵の運搬に銭100文と米一升をあたえ約2.6kmの大堤防をわずか12日で完成し、足守川を堰き止めた。ときは梅雨、みるみるうちに増水し、城は泥酔の中に孤立した。(岡山県の歴史散歩山川出版社1976年発行)浮き世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して備中高松城の桜(岡山県岡山市北区高松)

  • 富田茶臼山城の桜 (岡山県備前市西片上・茶臼山公園)

    登城日・2022年4月5日備前市の桜の名所。茶臼山公園に「茶臼山城跡」という標識が建っている他は、城跡であることは実感できない。展望はすばらしく、片上湾と桜の眺めがいい。登城口は山麓の葛坂峠で、そこでは戦国時代に宇喜多氏と浦上氏の合戦があったそうだ。富田茶臼山城の桜(岡山県備前市西片上・茶臼山公園)

  • 周匝茶臼山城の桜 (岡山県赤磐市周匝・吉井城山公園)

    登城日・2022年4月5日旧吉井町周匝の茶臼山城は、天空の城の趣があり、それに加え春に桜が咲くと一層見事な景観となる。戦国時代の山城で土塁や空堀遺構が残っている。城は江戸時代初期に廃城になったが、周匝の町には陣屋が置かれ、町は水運の要所として栄えてきた。山頂には展望台を兼ねた模擬天守があり、吉井川の清流をゆったりと眺めることができる。天守閣横の装置では、ボタンを押すと「吉井川詩情」という五木ひろしの歌声が流れる。吉井川は四国の清流のように、静かな自然に囲まれ、見ているだけで心が安らぐ。周匝茶臼山城の桜(岡山県赤磐市周匝・吉井城山公園)

  • 尾道城跡の桜 (広島県尾道市・千光寺公園)

    登城日・2022年4月2日千光寺公園の西端、この写真のほぼ中央くらいの位置に「尾道城」があった。岡山城や福山城の天守閣が再建されるころ、尾道城は再建でなく新たに築城された。尾道城には刀剣や鎧が展示されていたが、(たぶん)10年ほどで落城した。そのご立入禁止が40年ほど続いたが、痛みや崩落も懸念されて、耐震で危険ということで1~2年前解体された。今年その尾道城天守閣跡に展望台が完成した。天守閣はなくなったけど、石垣は昔(といっても江戸時代でなく昭和40年頃の)変わらず遺構を利用している。尾道城跡の桜(広島県尾道市・千光寺公園)

  • 因島水軍城の桜 (広島県尾道市因島中庄町)

    登城日・2022年4月2日因島村上水軍の資料を展示した城風の記念館。10年ほど前訪れた時、桜の季節に再訪問したいと思った。今回やっと、丘の上に建つ模擬天守と桜、菜の花を眺めることができた。因島水軍のお城として知られる青影城は、島内の道路標識が増えていた。因島水軍城の桜(広島県尾道市因島中庄町)

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