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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 秘境のターミナル駅、「備後落合駅」に行ってみた

    比婆山に登った後で麓の駅、備後落合駅に寄った。山あいの、冬は雪国の駅は、びっくりするほどの鉄道ファンがいた。しかし三本の列車が発車したホームには、ふたたび静寂そのものの風景に戻った。このターミナル駅は今、ターミナル機能だけでなく、鉄道そのものが廃止の対象となっている。盛時には200人が働いていたというこの駅も、そして県北の三大ターミナル駅である津山駅・新見駅・三次駅も、ほぼ同様な立場になっている。山の風景も,海の風景も美しいが、・・・このままいけば、100年後か200年後には東京を残して日本列島は沈没してしまうような思いがした。場所・広島県庄原市東城町日時・2022年5月18日午後2:30頃秘境のターミナル駅、「備後落合駅」に行ってみた

  • 新選組の谷三十郎

    新選組の池田屋にも乗り込んだ谷三十郎は、元備中松山藩士。三十郎は新選組の多くの例に洩れず、横死かつ頓死の死に方をしたようだ。その三十郎が現代に松山城主として蘇り、人気を博している。名を「さんじゅーろー」に変え、姿は猫に変え、全国(車のナンバーが全国版)から城主を見に来ていた。私は猫代が惜しくて(500円)、本物の代わりに、石を撫ぜてから去った。登城日・2022年5月19日新選組の谷三十郎

  • 「第55回 福山ばら祭 2022」に行った

    3年ぶりに開催の「福山ばら祭」に、3年ぶりに行ってみた。(2022.5.14)今年は広島FFと同じで、パレード無しでの開催だった。(緑町公園)パレードは無くても、結構楽しめた。そのうち、「ふくやま大道芸」を動画にした。↓(ばら公園)「第55回福山ばら祭2022」に行った

  • みかん輝く黄金の島、大長

    戦後の農政は、土地改革という歴史的大仕事があったが、それは占領時代のこと。独立後の日本農政は、豊富な予算をひたすら”稲作”と”農業土木”につぎ込んだだけ、という思いがする。昭和30年代の初頭、西日本の沿岸部を中心にミカン栽培が推進され、先進地の大長(おうちょう)は誰もが名を知る島となった。・・・・・・・・・・みかん輝く黄金の島、大長「島」斎藤潤みずわの出版2010年発行昭和30年代半ばに温州ミカン一箱が当時の金額で数千円した。小さな島から大阪市場へ直行するミカン専用船があった。王長は、黄金の島の異名をとった。「柑橘類は、やはり島が中心です。周囲が海で気温が下がりにくい、傾斜地が多く水が少ない、風が比較的当たりにくい、という条件が、栽培に適しているんです」水分はぎりぎりまで絞り最低限の量だけをパイプで点滴してやる...みかん輝く黄金の島、大長

  • 北前船

    (鞆港・2020年9月14日)「せとうち産業風土記」山陽新聞社昭和52年発行花形「北前船」寛文12年(1672)日本海から下関に入り大坂に至る「西回り航路」が開発されると、尾道、鞆、玉島、下津井、三蟠、牛窓などの各港は一段と活気を帯びて来た。その年の秋口、瀬戸内海の島々に巨大な白帆を見え隠れさせながら、千石船の一団が下津井港を目指して船足を速めていた。「うわーっ、来たぞ」。岸壁で出迎える港問屋、倉庫業者、はては髪結いから小間物屋まで、港中が色めき立った。北海道の松前、小樽を40~50日前に出発した「北前船」が初めてやってきたのだ。「瀬戸内海沿岸部は干拓の歴史そのものでもる。新田には有効な有機肥料が喉から手の出るほど欲しかった」。北前船が運んできた干鰯、羽ニシン、ニシンしめかすなどが人気を集め、江戸後期、下津井港...北前船

  • 高瀬舟

    岡山県三大河川の高梁川・旭川・吉井川には、どの川にも高瀬舟が運航していた。鉄道の開通に合わせるように姿を消した。(柵原ふれあい鉱山公園2022.4.6)↑の説明碑、高瀬舟(たかせぶね)柵原のある美作の国は山国でしたが、吉井川の高瀬舟によって瀬戸内地方との交流ができたので、経済活動が盛んでした。江戸時代の柵原には6ヶ所の船着場があり、高瀬舟は160隻、船頭も480人いました。高瀬舟は年貢米をはじめ、木炭や薪など、この地方の品物を積んで吉井川を下り、帰りには様々な生活用品を積んで、吉井川を上ってきました。この高瀬舟は、1992年に再現したものです。・・・・・・・・・・・・・目で見る岡山の昭和高梁川を遡る高瀬舟帆を揚げ、地を這うように引き綱を引いて河を遡っていた高瀬舟が、伯備線の開通でその姿を消した。(目で見る岡山の...高瀬舟

  • 銘仙のおしめ

    戦時中、”産めよ増やせよ国のため”の時代は母子ともに栄養失調の時代でもあった。出産祝いにもらって食べた、(漁師の隣家からの)魚がおいしかったことを母は何度も話していた。産まれる直前まで畑仕事をしていたのは、どこの農家の嫁も同じ。この時代に出産した母のことを思うと涙が出そうになる。「勝央町史」勝央町山陽印刷昭和59年発行お産「銘仙のおしめ」お姑さんにお湯を沸かせてもらうように頼み、産婦の腰を一生懸命こすりました。細い身体が骨ばっていて、この家の生活が全部この人の腰に乗っかかっている感じです。40歳近いご主人は、この6月召されて父母と子供5人それにお腹の胎児を残して沖縄に出征しているということでした。当時でも助産婦は妊婦に「栄養と休養を十分とるよう」などと、現実離れの指導をしたものです。逼迫した食糧事情に、農家とい...銘仙のおしめ

  • ゼロの文学

    軍国主義におもねれば別だが、作家にとって表現の自由を奪われたら、その時点で作家は成り立たない。岡山に疎開していた永井荷風が、終戦翌日の日記に記した”月佳なり”には新時代への期待や解放間がよく出ている。ゼロの文学新聞は戦争記事でうまった。男は国民服とゲートルをつけ、女性はモンペをはくことになった。そんななかで作家たちだけが自由を主張することはできない。徳田秋声の傑作『縮図』は、芸者に身を売った女の半生を軸とした小説であったが、時局をわきまえぬものとして新聞に連載中、中絶、作者は昭和18年に死んだ。谷崎潤一郎の『細雪』は中央公論に発表されたが、ただちに禁止された。永井荷風の『踊り子』は、発表の可能性のないまま、ひそかに書きつづけられた。・・・昭和20年8月15日戦争は終わった。文学の自由は復権した。荷風・白鳥・潤一...ゼロの文学

  • 朝顔の咲かない夏

    子どもの頃の夏休み、どこの家にも朝顔とヒマワリは咲いていた。花が終わると種をとり、それを翌年咲かせていた。それが毎年つづいていた。しかし朝顔の咲かない夏があった。昭和20年頃から24年頃までだろうか。季節感の回復昭和21年5.12天使人語日本の新緑や花の美しいのに、今さらながら目をみはるのである。つやつやしい柿若葉や欅、栗など木々の新芽、スクスクと伸びている麦の青さ、それに山吹やつつじなど、初夏の山河は美しい。目に青葉の句もおのずと口にのぼる。初がつおの方はまだ実感に至らぬが。花や緑も何年かぶりに接する心地がする。平和になって季節感をとりもどしたのである。五月といえば、去年の今頃はB29の絨毯爆撃がいよいよ烈しく、家を焼かれ、肉親と離れ、花や緑を賞するどころではなかった。本土決戦で敵を殲滅するとか、一億玉砕で国...朝顔の咲かない夏

  • 「少女たちの戦争」 にがく、酸い青春

    (昭和中期では)笠岡東中や大島中地区の人が、笠高・笠商・淳和に通学する時、笠岡工業生と対面する。ほぼ決まった時間に同じ場所で高校生同士が対面する。女学生はそこで工業生に恋心を持つことがある。その一瞬が、毎朝の喜びとトキめきで、吉田拓郎風にいえば♪あゝそれが青春、の時を過ごす。その一瞬以上の恋はなかった(と思うが、違うかも)。(昭和・戦時中では)↓人命が軽すぎた時代の青春。にがく、酸い青春新川和江「少女たちの戦争」中央公論新社2021年発行旧制の女学校の一年生の晩春の頃だったと思う。水戸の聯隊に入営していた兄に、月に一、二度、ぼた餅やちらしずしを重箱に詰め、母と一緒に面会に行くのである。水戸から聯隊行きのバスに乗るのだが、とある停留所を通過する時、長身の学生が路上に立っているのを見た。高等学校も高学年の学生である...「少女たちの戦争」にがく、酸い青春

  • 「少女たちの戦争」めぐり来る八月

    旧制女学校の、工場への動員は”軍服”と”兵器”に分かれるが、兵器に派遣された人たちは戦後も、何年かは口を閉ざしている。機密の呪縛や、造った物の使途への自責の念がつづいたようだ。めぐり来る八月津村節子「少女たちの戦争」中央公論新社2021年発行女学校に入学した年に太平洋戦争が始まり、旅行と言えるのは、三年生の夏の赤城山登山で、目的は心身の鍛錬である。体操服にもんぺをはき、杖にすがって、あえぎながらただ歩き、ただ登る。それでも山頂で写した写真は、日焼けした顔に白い歯をみせてみな笑っている。まだその時には、戦争に負けるなどとは思ってもいなかった。私たちの目標は、心身を鍛え、銃後の守りを固め、東洋平和のためのいくさに勝つことだけだった。軍国思想の教育が,真っ白な頭の中にたたき込まれていて、反戦思想など芽生える隙もなかっ...「少女たちの戦争」めぐり来る八月

  • 「少女たちの戦争」 子供の愛国心

    為政者とは別として、また言われなくても、国を愛する、思う気持ちはだれにでもある、という話し。「少女たちの戦争」中央公論新社2021年発行子供の愛国心有吉佐和子紀元二千六百年(1940年)を、私はジャバ(ジャワ島)にある日本人学校で迎えた。前々から練習していたので、紀元節の当日には「紀元は二千六百年」と勢いよく奉祝歌を合唱することができた。日華事変が起こったばかり、大日本帝国は軍国主義的色彩を帯びて世界に冠たる日を夢みていた頃のことである。二百人余りの生徒たちは皆日本人で、先生たちももちろん日本人である。紀元節の二月十一日も灼熱の太陽が輝き、校長先生は壇上から校庭に居並んだ全校生徒に訓示をしていた。「皆さんは、大日本帝国の国民であることに誇りをもっていなければならない。日本人は世界第一級の国民なのだ。日本は一等国...「少女たちの戦争」子供の愛国心

  • 「少女たちの戦争」 スルメ

    黒柳トットちゃんは、スルメが欲しくて、旗をふったことをくやんだと書いている。「私だって、戦争に加担したんじゃないか」と。スルメ黒柳徹子「少女たちの戦争」中央公論新社2021年発行生まれて初めてスルメを食べたのは小学校の低学年、もうそのころは、だんだん戦争がひどくなり若い男の人は出征していく時代だった。駅が賑やかだったのは、千人針を手にした女の人も多かったけど、出征兵士を送るグループがいたことだった。駅の改札口の所に、出征する兵隊さんと、その家族が並ぶと、隣組の人たちとか、かっぽう前かけに、「在郷婦人会」というようなタスキをかけた女の人たちが、ぐるりと、とりまき「○○君、万歳!」と叫んで、手をあげた。兵隊さんや家族は「ありがとうございます」と、おじぎをし、兵隊さんは「行ってまいります!」と敬礼をし、「万歳!万歳!...「少女たちの戦争」スルメ

  • 「少女たちの戦争」公文書破棄

    海軍経理部にいた橋田壽賀子の終戦時の体験談。空襲・終戦・いさぎよく死のう橋田壽賀子「少女たちの戦争」中央公論新社2021年発行とにかくアメリカ兵が進駐してくる前に、重要書類を焼却せよという命令で、その日から、私たち下っ端職員は、総動員で書類を庭へ運び出し、三日三晩ほとんど寝ずに燃した。ギラギラと灼きつくような太陽の下を、重い書類を抱えて庭を往復し、目は煙で真っ赤に腫れあがった。頭の中は真空状態で、なにも考えられなかった。ただ、アメリカ兵がやってきたときは、いさぎよく死のうと覚悟を決めていたから、肉体的な苦しみにも耐えられたのではないかと思う。「少女たちの戦争」公文書破棄

  • 坊つちやん

    場所・愛媛県松山市・道後温泉本館前「星のあひびき」丸谷才一集英社2010年発行『坊つちやん』のことあの日本で一番有名な中篇小説を何十回目かにまた読んで、妙なことが頭に浮かんだ。坊つちやんに優しい「清(きよ)と云ふ下女」は坊つちやんの実の母なのではないかと思ったからである。そして、一体どうして今までこのことに気づかなかったのだろうと不思議な気さへした。さう思ふくらゐ、清が実の母なら話の辻褄が合ふのである。みんなが100年間そのことにちっとも思ひ当たらなかった、ここで考へてみる。まず作者の書き方に問題がある。老獪であり巧妙である。じつに上手に隠してゐる。漱石は頭がよいことになってゐる。事実、よかった。しかし作家としての彼はノイローゼ患者で、執筆はノイローゼの治療のための療法だった。もう一つ、伝記的な条件がある。漱石...坊つちやん

  • みんな軍国少女ですよ

    軍国少年や軍国少女のコアな世代は、およそ大正14年生~昭和4年生と思っている。周囲が軍事一色の時代に育ち、分別つくまもなく年少兵になったり、竹槍で本気で米兵を殺す(それ以外の世代は訓練に出る意識)愛国少女、いちばん時代にほんろうされれている。脚本家・橋田壽賀子は、その大正14年の生まれ。「渡る世間にやじ馬ばあさん」橋田壽賀子大和書房2021年発行太平洋戦争、死んでも忘れられない光景があるあの太平洋戦争の頃はみんな軍国少女ですよ。私なんかガチガチの軍国少女でした。聖戦だと言われていたから、日本はよい戦争をしているんだ、そう思っていました。鬼畜米英だとか、お国のためには我慢しなければならないということを、とことん教えられ洗脳されていましたから、食べる物がなくても、ちっともつらいとは思わなかった。いやお国のためなら死...みんな軍国少女ですよ

  • 審判

    父は、中支の戦線で「刀で人は斬ったことはないが豚は斬った」と話していたが、その豚は現地人の家畜を泥棒したのに違いない。よく言われるように野戦では、最初の殺しは動揺するが、次からはなんとも感じなくなる。それでも、なんらかの負い目みたいなものを生きている限りは、背負っていたのだと思う。・・・・審判「武田泰淳全集第二巻」筑摩書房昭和46年発行私は終戦後の上海であった不幸な一青年の物語をしようと思う。この青年の不幸について考えることは、ひいては私たちすべてが共有している不幸について考えることであるような気がする。老教師の息子の二郎が現地復員した。私は老人から息子について何度も聞かされていた。私自身もその青年がこの家へもどってくるのを待ち望む気持ちになっていた。老人の自慢の息子はたしかに立派な青年であった。二郎は政治上の...審判

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