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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 婦人の公民権獲得運動

    婦人の公民権獲得の運動は、魁の人たちは世の人から、たいへん冷ややかな目でみられていたであろう。その中で活動した。戦前・戦中・戦後に代議士を務めた星島二郎さんは、婦人運動に理解が深かった。首相にまでなった犬養木堂さんは、婦人運動については名が出てこない。江戸時代に育ったのが原因か、それとも多岐にわたる政治活動で、婦人問題まで入り込めなかったのであろうか。(戦前~戦後、婦人の地位向上に尽力した星島二郎(第一次吉田内閣時の写真)商工大臣、後列一番背の高い人。その右に田中耕太郎文相、更に右に和田博雄農相)「岡山の女性と暮らし戦前・戦中の歩み」岡山女性史研究会編山陽新聞社2000発行岡山の婦人参政権獲得運動岡山県特別高等警察課の調査資料によると、1922年(大正11)4月の治安警察法改正に際し、これを記念して岡山市内の劇...婦人の公民権獲得運動

  • 弾圧、干渉による「翼賛選挙」

    翼賛選挙に非推薦で立候補した人、その家族や支援者は、世を敵に回しての苦しい選挙活動だったと思える。あの時代でも、非推薦候補の得票総数は全体の約35%あり、当時の表面的な指示にくらべ以外に批判票が多い。この選挙で非推薦の立候補者(当選・落選問わず)が戦後の日本政治をリードした。主な立候補者鳩山一郎(本人と孫が首相)三木武夫(首相)芦田均(首相)片山哲(首相)河野一郎(孫が首相候補)安部寛(孫が首相)・・・・・・・・「昭和第6巻」講談社平成2年発行弾圧、干渉による総力戦体制の確立選挙戦なき「翼賛選挙」昭和15年10月に結成された大政翼賛会は内務官僚と警察が実験を握り、単なる「上意下達」の行政補助機関と化していた。これを不満とした東條英機首相は「大日本翼賛壮年団」(翼壮)を創設させた。翼壮は翼賛選挙の忠実な実戦部隊と...弾圧、干渉による「翼賛選挙」

  • 戦後初の総選挙・婦人参政権

    女性が初めて議員の選挙に投票したのが、昭和21年4月10日の衆院選挙。戦後で世は混とん。管理人の家では、神戸から戦災で焼け出された親戚3人が同居中。家の中は10人家族。初めての投票した時のことを母に聞けば、「背中に二子をおんぶ、片手に一子の手をつなぎ」投票に行った。初の選挙は戦後の混乱の想い出の中の(小さな)一つのようだった。「昭和第7巻」講談社平成2年発行実現した婦人参政権40年間の苦難の道実現した婦人参政権終戦の日から10日後の昭和20年8月25日、市川房江が「戦後対策婦人委員会」を結成し、9月11日第一回会合を開いた。その目的は、戦後における婦人関係の諸対策を考究企画し、政府当局へ進言するとともに、その実現に協力することだっが、さしあたり政府、貴衆両院、各政党に対して婦人参政権、男女平等実現のため5項目を...戦後初の総選挙・婦人参政権

  • 終戦・倒される忠魂碑

    終戦後、倒されたり、撤去したり、隠されたりしたもの。GHQが来る前に処理した・・・文書焼却GHQが来て、思い込みで処理したものと、指示により処理したものがあるが、区分はよくわからない。学校の大楠公や和気清麻呂や二宮金次郎像は、天皇との関係がない金次郎だけ残った。「広島県の歴史」岸田裕史著山川出版社2012年発行記念碑等終戦を契機に、戦没者への公葬は姿を消した。忠魂碑などについても、除去や改革の処置がなされた。たとえば、原村(東広島市)では忠魂碑(昭和16年建立)が倒壊され、加計町(安芸太田)で戦役記念碑が取り除かれた。山本村(広島市)では忠魂碑の文字をセメントで塗りつぶし、平和塔として存置した。広島市皆実町の日清戦争の勝利記念として建立された「凱旋碑」も平和塔に改変されている。「しらべる戦争遺跡の事典」柏書房2...終戦・倒される忠魂碑

  • 比島決戦の歌、西條八十「私の履歴書」

    「昭和の戦時歌謡物語」塩澤実信展望社2012年発行♪いざ来いニミッツマッカーサー昭和20年1月、マッカーサー率いる米軍がフィリピンのルソン島に上陸した。この期に至って、ラジオの国民合唱で良識を疑わざるを得ない「比島決戦の歌」が流し始めたのであった。作詞界の大御所西條八十と、軍歌戦時歌謡作曲の第一人者古関裕而が作曲していた。「いざ来いニミッツマッカーサー」痩せ犬の遠吠えに似た品のないこのフレーズは、軍部将校から敵将を入れてくれとの要望に発している。西條八十は、「私の履歴書」の中で戦後に次の通りに述べている。終戦直後、ぼくが疎開地で読んだ新聞紙には西條八十が進駐軍によって絞首刑にされるだろうと書いてあった。それはぼくが読売に発表した「比島決戦の歌」の中にある、出て来いニミッツマッカーサー出てくりゃ地獄へさか落としと...比島決戦の歌、西條八十「私の履歴書」

  • 公職追放 「好ましからざる」21万人

    「昭和時代敗戦・占領・独立」読売新聞中央公論社2015年発行公職追放「好ましからざる」21万人GHQによる公職追放は1945年10月、特高警察関係者ら6.000人の追放から始まった。同年末には軍国教育を行った教員の追放も行った。これらの追放処理はポツダム宣言第6項〈日本国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出の過誤を犯さしめたる者の権力及び勢力は、永久に除去せられざるべからず〉に基づいていた。追放が本格化したのは46年1月4日、日本政府はGHQから「公職追放に関する覚書」を受け取り、驚愕する。追放されると、その時の地位を追われるだけでなく、将来も「公職」に就けず、退職金や恩給、さまざまな手当ても受け取れなくなった。GHQは「間接統治」方式を採用したため、公職追放でも、該当人物か否かをまず日本側に審査させ、これを...公職追放「好ましからざる」21万人

  • 井笠鉄道 敗戦・戦後の混乱

    食べるもの・着る物は戦争が終わって、一層深刻化したが鉄道やバス経営も、同じように昭和22・23年頃が営業難だったようだ。煙を吐くバスは戦時中のイメージだったが、戦後の昭和25年までつづいている。(くじば機関庫)「井笠鉄道株式会社五十年史」井笠鉄道昭和37年発行井笠鉄道敗戦・戦後の混乱戦後インフレの中で経営を打開しなくてはならぬ最悪の状態においこまれていた。戦時中の打撃は極めて大きく、苦難の時代を乗り切ってきた関藤謙治氏は、「戦時中の過度の輸送のため機関車を酷使し、且、自動車においても11台にのぼる車両供出をなし、修繕資材は品質劣悪で修繕意のごとくならず・・・」と述べている。バス事業は昭和22年1月GHQによって代燃車をガソリン車に切り替えることを禁止していたため、新車しかガソリンは使用できず煙を吐いて走るバスが...井笠鉄道敗戦・戦後の混乱

  • 井伏鱒二と木山捷平

    昭和21年10月14日、井伏鱒二は笠岡の港でママカリを釣っていた。そこで戦後初めて木山捷平と再会した。「続木山捷平研究」定金恒次遥南三友社平成26年発行捷平は昭和19年の暮れ、自由な文筆活動のできる新天地を求めて日本脱出を図る。単身満州に渡る。そして現地召集、特攻部隊配属、敗戦、難民生活と辛酸をなめる。かくして敗戦後の1年間を「百年を生きたほどの苦しみに耐え」た捷平は、昭和21年8月、妻子の疎開先である笠岡の生家へたどりつく。豊かな自然と食糧事情にも恵まれた農村で、心身の傷をいやしながら生還できた喜びと平和の尊さをかみしめながら、「帰国」「幸福」「疎開者」などの10編の佳作を発表する。一方、近郷に滞在中の井伏鱒二、古川洋二、小川祐二、村上菊一郎、藤原審爾、木下夕爾などと笠岡界隈でしばしば会合し、飲食と歓談を楽し...井伏鱒二と木山捷平

  • 「公職追放」と「追放解除」 (岡山県)

    「岡山県史現代Ⅰ・公職追放と選挙」公職追放いわゆる公職追放は、非軍事化・民主化のための最も重要な占領政策の一つであった。昭和20年10月4日に連合国総司令部は、治安維持法その他の自由抑圧法規の廃止、政治犯の即時釈放、思想警察の廃止、内務大臣をはじめとする特高警察官の罷免などを使命した。岡山県では当時の県警部長、特高課長以下特高関係警察官69名が罷免された。愛国的労働団体の役職員の労働界からの追放。大日本産業報国会、大日本労務報告会、日本海運報国団などの主要役職員が解任された。第一次追放ABCDEFG(前述)の一切の者を公職から罷免し、かつ官職に就かせないように命じた。当時公職にあって、明らかに覚書に該当すると思われた者の多くは、自ら辞職した。岡山県知事・安積徳也も、大政翼賛会県支部長の経歴があり、他の27人の府...「公職追放」と「追放解除」(岡山県)

  • 終戦 (長船町・邑久町・金光町・鴨方町)

    「長船町史」長船町史編纂委員会第一法規出版平成13年発行昭和20年8月15日、天皇は、この日の正午、ラジオを通じて国民に戦争の終結を告げた。多くの人は、今まで支えてきた気力が抜け、虚脱状態の中で、戦争終結の安堵感と敗戦による今後の国家や村や自分たちの向かう方向への不安とが入り交じって複雑な気持ちになった。農村地帯であるこの地は、空襲などの傷あとは表面的にはみあたらなかった。村内を見ると、男子若者が兵士や都会の軍需工場へ徴用などでかり出されて、見あたらなくなっていた。敗戦から一か月ほどが経過して、やっと気持ちを取り直してきた9月18日のことである。前日の17日から枕崎台風が西日本を襲った。18日午後3時、水位を上げてきた吉井川は200mにわたって決壊した。濁流は一気に邑久郡中北部一帯を泥海に変えた。停電が続き夜は...終戦(長船町・邑久町・金光町・鴨方町)

  • 昭和20年頃の学校生活

    「岡山県教育史」岡山県教育委員会昭和49年発行終戦処理8月16日学徒動員解除、8月24日学校教練、学校防空関係の訓令が廃止8月25日岡山県の通達一御真影、詔書類は奉安殿・奉安所に奉還すること二ポスターや戦意高揚の一切の資料は除去する、そのほか戦災を受けなかった学校は、夏休みあけに二学期を迎えたが、児童の転出入はどの学校も多かった。教育に対する価値転換と占領軍の巡視による精神的な圧迫感が教師の自信喪失となって、全般的に教育そのものも活気を失ってきた。これに加えて、生活物資の不足、なかでも食糧不足はインフレの激化のなかで教師生活を不安定にした。国民学校では男女共学が基準となり、二人用の机に男女が並んで席についた。・・・「小学校誌―創立百年を記念して―大井小学校」(昭和52年発行)大井国民学校終戦前後の思い出K男(旧...昭和20年頃の学校生活

  • 特高警察「公職追放」

    昭和20年8月15日の玉音放送を母は、「それを言うんじゃ、ゆうて、みんな言ぅた」と、放送の始まる前に内容(敗戦)を理解していた。そういう国民の声には出ないが、秘められた世論を特高警察は正しく分析していたようだ。知っても現実を見ようとせず、”一億総玉砕”いっぽんの帝国陸軍よりは、特高警察の方が冷静だったようにみえる。終戦後の特高警察の解体には、その冷酷で冷徹さがよく示されている。「特高警察」萩野富士夫岩波新書2012年発行敗戦の予感特高警察が敗戦不可避という認識をもつに至ったのは、昭和20年春頃だった。4月の小磯国昭から鈴木貫太郎への内閣交代時の「警保局長引継書類」では、「民心の動向」について、「ことに最近における敵の比島および硫黄島、沖縄等に対する侵寇ならび本土空襲の激化等、戦局の急展開に伴い、一般民衆は戦況の...特高警察「公職追放」

  • 「特高警察」とは

    敗戦後、まっさきに”公職追放”を受けた「特高警察」とは、どいうゆう存在だったのだろう。「岡山県県政史」特高警察官の一斉罷免「公職追放」は,GHQが計画し、その指令に基づいて、日本政府がこれを実施したものである。1・応急的追放特高警察官の一斉罷免(昭和20年10月4日)2・第一次公職追放昭和21年4月の衆院選挙を前にして、その規模は大きく政治革命といわれた。3・第二次公職追放地方公共団体に極めて大きく影響し、県・市町村およびその議会に多数の該当者があり、地方政界の革命と言われた。4・公職適否審査委員会5・追放解除昭和25年10月から一部解除が始まり、昭和27年平和条約発効とともにすべての公職追放は消滅した。特高警察官の一斉罷免本格的公職追放の実施に先だち、昭和20年10月4日、GHQは政治犯の釈放、思想警察の廃止...「特高警察」とは

  • 関行男海軍大尉の碑

    「私のかかげる小さな旗」澤地久枝講談社2000年発行暑さが時間とともにましてくるような7月下旬の一日。関行男海軍大尉の碑をたずねた。それは愛媛県西条市にある。特別攻撃隊としてさいしょの出撃をした5人の慰霊碑が、楢本神社の前庭に建てられていた。関大尉(戦死後中佐に特進、海兵70期出身)がレイテ作戦の捨石として還ることのない出撃をした日、わたしたちは女学校の2年、満州にいた。昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊敷島隊出撃。関大尉が23歳であり、母と新妻を遺していることは、わたしの記憶にはない。「赫々たる戦果」と、特別出撃の「壮挙」をたたえるラジオを聞きながら、わたしもまた、この戦争で死ななければあいすまないと思っていた。碑文によれば、関大尉とともに出撃して還らなかった部下は4人。19歳が2人、20歳が2人、いずれ...関行男海軍大尉の碑

  • 大岡昇平の「俘虜記」

    人生で一番多感な時に終戦を迎えた作家・吉村昭は、「鬼畜米英」→「ヘイワ日本」と一夜にして簡単に転向した新聞や寄稿者に愕然としている。大岡将兵の「俘虜記」に救われたと、当時を回顧している。「その人の想い出」吉村昭河出書房新社2011年発行戦争を見る眼終戦は、私が18歳になった年の夏で、その日を境にはじまった大変化の中で、私はただ呆然として時を過ごしていた。終戦前までは、ひたすら戦意昂揚を唱えつづけていた新聞、ラジオをはじめとした報道機関は、一転して終戦前のあらゆる事柄の全否定に終始するようになっていた。報道機関のみならず有識者と称される人たちも、新聞、雑誌に一斉に戦争批判の文章を発表した。私は、それらの活字を前に放心状態にあった。18歳の夏までに見た日本人は、いったいどこへ行ってしまったのだろう、同じ人間でありな...大岡昇平の「俘虜記」

  • 海軍志願兵・城山三郎、特攻隊として果てる?(伏龍特別攻撃隊)

    伏龍は終戦間際、本土決戦において敵の上陸艇に潜水服を着て潜り、機雷がついた棒を手にして水中を歩いて接近し、機雷もろとも爆死するもの。完全に人間は死ぬ道具となっている。「嬉しうて、そして・・・」城山三郎文芸春秋2007年発行昭和2年生まれは、少年時代を戦争の中で過ごし、青年時代の入口で敗戦を迎えた。「末期戦中派」という言葉があるが、私たちは末期も再末期であった。私は、名古屋の商業学校の生徒だったが、軍神杉本五郎中佐の著書「大義」に感銘を受けて徴兵猶予を返上して、海軍特別幹部練習生になった。自分なりにお国のために尽くそうと考えたのである。しかし、敗戦までの数ヶ月間過ごした海軍の最底辺は、私の期待していた紅軍の姿とは似ても似つかなかった。上官による制裁や意地悪の日々。上官は白い食パンを食べ、私たちには芋の葉と蔓だけ。...海軍志願兵・城山三郎、特攻隊として果てる?(伏龍特別攻撃隊)

  • 捷平さん、爆弾かかえて戦車に飛び込む「特攻兵」となる

    満州の吉林市に住んでいたおば(父の妹)の話では、「戦争が始まった」とは昭和20年8月9日のことを指す。その日までは、満州帝国は平穏な・・・日本人限定だが・・・”王道楽土”的な日々であったようだが、突然に、戦争とロシア兵が大波のように押し寄せ、「平穏」から「生命の危機」の日々に一変していった。捷平さんは、そうゆう満州帝国と大日本帝国の命運が尽きる直前に、兵にとられ、一夜漬けの訓練で、あっという間に戦車体当たり”特攻兵”となった。「続木山捷平研究」定金恒次遥南三友社平成26年発行「私」は、8月12日、日本の軍隊から現地召集を受けた。午後1時令状受領、午後6時入隊というあわただしさ。一人でヤケ酒を飲み、気を大きくし即日帰郷になるであろうことを予想して出かける。深夜某小学校の教室に宿泊。翌朝、身体検査なし、朝食ぬきで街...捷平さん、爆弾かかえて戦車に飛び込む「特攻兵」となる

  • (昭和20年)八月十七日の開戦

    占守島(しゅむしゅとう)の軍の最高責任者は、笠岡市ゆかりの杉野巌旅団長であるが、物の本には登場しないことが多い。最大の理由は、本人が書き残したり、語ったりすることがなかったからであろう。北海道分割を阻止した功績から離れ、戦後は笠岡市で隠遁的な生活をされた。「歴史街道令和2年9月号」PHP2020年発行八月十七日の開戦早坂隆樋口季一郎8月15日を迎えても、戦争は終わったわけではなかった。8月17日、北海道に野心を持つソ連が、千島列島の占守島に上陸したのである。占守島での自衛戦争「ヤルタ密約」米英ソによる「ソ連はドイツ降伏後3ヶ月後に対日参戦する」という密約が交わされていた。日本はこのような国際社会の奸計に翻弄された。占守島への不意打ちも、こした流れの中で始まった。当時、第五方面軍の司令官となっていた樋口は、ソ連軍...(昭和20年)八月十七日の開戦

  • (昭和20年)八月十五日「負けたら殺される」

    祖母が亡くなるまで、家には天皇・皇后の写真を掲げてあった。戦前に購入したご真影だが一時(終戦直後)は、どこかに隠していたそうだ。アメリカ軍に持っているのを見つけられたら、「何をされるかわからん」と心配していたようだ。父は岡山の軍にいたが、仕事で近くの県庁(当時は天神山)に行くことが多く、8月になると、県庁の人から「負けるよ」と教えてもらっていて玉音放送の内容は事前に知ってした。作家・五木寛之さんが書いている、終戦前に政府・軍人の高官が、市民に知らせることなく自分たちだけ逃げたのは日本人として情けない。満州でも、同じように市民から脱出するマニュアルがあるにも関わらず、現実は「最後に逃げる人」が「最初に逃げた、しかもこっそり」と。今でも国家のエライ人の言うことを、どこまで信じていいのか、よくわからない。(「一億人の...(昭和20年)八月十五日「負けたら殺される」

  • 「露営の歌」~死んで還れと励まされ

    笠岡市西本町のの古刹・威徳寺に生まれた音楽評論家長田暁二さんは、”露営の歌”は「軍国歌謡の最大傑作の一つと称された」と記述されている。管理人が幼いころ、戦争は終わっていたが、近所の年上の男の子は「勝ってくるぞと勇ましく」と歌いながら遊んでいた。よほど大ヒットし、国民の愛唱歌となっていたのだろう。映画やテレビでも、村の神社や駅や港での出征兵士を送るシーンでは、決まったようにこの歌が画面に流れる。「太平洋戦争下の学校生活」岡野薫子平凡社2000年発行※著者は昭和4年(1929)生まれ。露営の歌提灯行列も旗行列も、子どもにとっては、お祭りに似た面白い行事だった。出征兵士は神社で武運長久を祈ってから、駅で電車に乗る。この時、駅頭で決まって歌われるのが、『露営の歌』だった。〽勝ってくるぞと勇ましく・・勇壮というよりは悲壮...「露営の歌」~死んで還れと励まされ

  • 「湖畔の宿」

    Uta-Netの動画サイトの「湖畔の宿」では、50代の高峰三枝子が歌う前に、本人が、次のように曲を紹介している。特攻隊慰問に唄った歌「日の丸の鉢巻きをきりりと結んだ特攻隊員が、こぶしをぎゅっと握り締めて、一生懸命に私の湖畔の宿を聴いてくださいましたかたがた、今でも目にちらついております。夜明けともに飛び立っていってしまう、二度と還ることのできないかたがた。「湖畔の宿」は、戦争のつらい思い出とむすびついて、私の心から離れることはありません。」東条首相「湖畔の宿」を所望昭和18年に入って相次ぐ悲報に、国民の気持ちは沈む一方だった。だが日本が米・英・蘭などと開戦した理由は、欧米各国からアジア解放であったから、なんとか隠蔽しなくてはならなかった。5月31日の御前会議で、占領下のインドネシアやマレー半島は日本領土に編入さ...「湖畔の宿」

  • 明日はお立ちか

    この歌は母を唄っているのではないかと、自分で一人思っている。たぶん、日本中の女性が家族を兵隊として送り出すときはこの歌と同じ気持ちだっただろう。それが妻であれば、まだ嫁ぎ先の家族や地域も不慣れ、残されて家事や農作業や子育てもいっさいが身に降りかかる。不安と、その日から始まるであろう激務に、夫の見送りは晴れの日の真逆であった悲しい歌だと思う。「昭和の戦時歌謡物語」塩澤実信展望社2012年発行明日はお立ちか戦争は激化の一途を辿っていた。働ける男性は赤紙一枚で、いつ召集されるかわからない。銃後に残されるのは妻や子、母や姉妹、老幼の男たちの様相が濃くなった。しかし、召されて征くのは大和男児の晴れ姿ではないのか。この別れの悲しみを秘めて、夫や子の無事を祈る女ごころを歌った「明日はお立ちか」が、小唄勝太郎の美声で流れるよう...明日はお立ちか

  • 「若鷲の歌」

    若鷲の歌は、まちがいなく当時の少年たちを大空へ駆り立てるほどの影響があったに違いない。予科練にいったおじは「まだ子供じゃった。入ったら隔離された塀の中で教育される。世間の事はまったくわからない」と言っていた。純な少年を”命惜しまぬ”少年に変えるのは、国家にとってたやすいことだったようだ。「わが人生の歌がたり」五木寛之角川書店平成19年発行予科練の歌私たちのような子どもでも『予科練の歌』などを聴いているうちに、いつのまにか自分たちも一日も早く少年飛行兵になりたいと考えるようになりました。『予科練の歌』は「七つボタンは桜に錨」と勇壮ないい歌ですが、ただ元気がいいだけではなく、叙情的でセンチメンタルなところがあって、大衆の心の琴線に触れるのです。そんなことで、国民の思想が無意識のうちにどんどん戦争の方へ向いていく。歌...「若鷲の歌」

  • 終戦前後の坪生村、「名誉の戦死おめでとうございます」

    終戦で復員した父は2年間ほど城見村役場に勤務した。その時、「戦死広報」をもって大冝の戦死者宅まで持っていったことがあるそうだ。その後、その”戦死者”は、無事に生きて帰ってきた。父はそのことをよく覚えていた。戦死で訪問し「おめでとうございます」は、言えない、言ってない、と話していた。しかし、そうゆう言葉を言う人が当時いただろう事は認めていた。「戦争の時代」つぼう郷土史研究会青葉印刷平成7年発行坪生村書記私が坪生村書記として村役場に就職したのは、昭和18年8月、応召で欠員ができた。当時は村長、助役のほか6名であったと思う。当時坪生村に電話があったのは、役場のみであった。坪生からも次々と召集令状を受け応召者が続出した。神森神社で壮行式を行い、歓呼の声に送られて、参道の一本杉のところからバスで召集地へ向かった。昭和19...終戦前後の坪生村、「名誉の戦死おめでとうございます」

  • 防空監視哨(岡山県新庄村)

    先に北木島・バックリ山の防空監視哨を書いたが、岡山県北の新庄村の監視哨も勤務形態はほぼ同じ。国民学校高等科を卒業後、青年学校へ行っている男女(村で一番若い青年団)が6人一組で山に登り、24時間勤務して、翌日交代する。「新庄村の暮らしと俗信」立石憲利2020年発行昭和18年に新庄防空監視哨ができた。監視員は、のべ30人で交代で行う。6人が一昼夜を、三交代で1時間おきに2人ずつが監視する。監視員は新庄村と美甘村の者で、5日に1日ずつ任務についた。朝8時から翌朝8時までで「異状なし」などと申し送りをして帰る。通称「宝田の監視哨」と言っていた。宝田の山頂付近にあったから、現在の道の駅の裏山。私は監視哨ができてから、出征する昭和20年3月まで2年半ほど監視員をしていた。飛行機の識別などは、監視哨手帳があって、機体や標識、...防空監視哨(岡山県新庄村)

  • 産婆さんは大忙し

    管理人が生まれる当時は、お産は家でする。妊婦は産気づくまで畑で仕事をする。陣痛になったら産婆さんを呼ぶ。このころ、生まれてくる子が多く、産婆さんは西に東に大忙しだった。茂平の産婆は、同級生Aくんのお母さんがしていた。茂平の人は、後年病院でお産をする時代になってからも”産婆さん”と感謝を込めて呼んでいた。茂平の産婆さんは、自身に幼子が3人いた。そして、茂平や城見の婦人会の役員、茂平婦人消防団の団長も長く務めた。妻であり、母であり、産婆さんであり、農業をし、地域の役をして、寝る間もなく茂平や城見地区に貢献された。産婆さんは高齢で亡くなられたが、生前、産婆の話を一度も聞いたことはない。書籍で、その苦労を偲ぼうと思う。「戦争中の暮らしの記録」暮らしの手帳編昭和55年発行静岡県・産婆支度「お腹が痛くなったから来てください...産婆さんは大忙し

  • 空襲化の育児

    母は母乳がよく出る人だった。管理人は5歳ころまで吸っていた。母は子を3人産んだが、すぐ近所の赤ちゃん二人にも乳をあげていた。しかし、その赤ちゃんは二人とも戦時中の物資・食糧不足の時代を生き抜くことができず死んでしまった。「神国日本のトンデモ決戦生活」早川タダノリ合同出版2010年発行空襲化の育児乳児の栄養面について、「代用乳(無乳栄養)の作り方と与え方」(主婦之友・昭和19年10月号)、丁寧に指南。炒った米・小麦・大豆などの粉に鰹節・魚・イナゴ・サナギなどのタンパク質と乾燥野菜、砂糖、塩をお湯で溶いたもの。「戦時下妊婦の使命」「敵米英の母に勝て」と役にたたない精神論も遺憾なく発揮している。空襲が本格的に始まる直前には、「子供を被害から逃れさすことばかりが防空ではありあせん。戦場に育った子供でなければ経験し得ない...空襲化の育児

  • 「産むな 増やすな 国のため」

    「貧乏人の子だくさん」明治、大正、昭和初期、日本人の大半が貧乏人だった。どこの家庭も子だくさんだった。「産めよ増やせよ国のため」戦時中は、未来の兵士を増やし、そして死んでもらうために、多くの子供(5人以上)を産むことが国民の義務とされた。「ベビーブーム」(団塊の世代)終戦後、食うや食わずで娯楽のない時代、夫婦の唯一の娯楽として性行為があり、日本中に妊婦の人があふれた。世が落ち着くと、ベビーブームは終わった。近年まで、日本は子だくさんの時代がつづいたが、「産むな増やすな国のため」と半ば強制的に断種された人たちもいた。「熱風の日本史」井上亮日本経済新聞社2014年発行「悪質な遺伝子」の根絶をめざす優生学は社会的ダーウィニズムの影響を受けたもので、20世紀初頭から世界的に流行する。日本の優生政策に大きな刺激を与えたの...「産むな増やすな国のため」

  • 「4年間一睡もできなかった」、女(ひと)

    広島県甲奴郡上下町に3ヶ月ほど住んだことがある。おばあさんが一人暮らしで、昔はご主人と二人で商売をしていたそうで、その家は街道沿いの大きな元商家だった。おばあさんには男ばかし、4人の子がいるそうで、子育て時代の話が記憶に強く残っている。「(昭和15年前後ごろ)結婚して最初の子が生まれた、翌年次男が生まれた、その翌年三男が生まれた、そのまた翌年四男が生まれた。4年連続して子を産んだ。出産と子育てで、一睡も満足にできなかった。それを見たある人が、『世の中には、こうゆうもんがある』と衛生サックがあることを教えてくれた。それからは、それを使い、子供も産むのを止めた」・・・・この話をのち母にしたら「サックのことは知っていた」。・・・・おばあさんの話を聞いてから、30年ほど経った。今でも自分の周りの人や話で4年連続して出産...「4年間一睡もできなかった」、女(ひと)

  • 【靖国の妻】の貞操

    女性は結婚する以前は純潔を言われ、結婚して夫が死ぬと貞操を守れと言われる、(特に戦争未亡人には)「生めよ増やせよ」(5人産む)を実現しよとしたら、再婚しないと不可能なのだが。「神国日本のトンデモ決戦生活」早川タダノリ合同出版2010年発行【靖国の妻】の貞操遺された未亡人は、立派な【靖国の妻】でありつづけることが厳しく要求された。昭和14年に帝国在郷軍人会本部が刊行した『軍国家庭読本』は、靖国の妻たちの生活態度を思いっきり引き締めるために作成したパンフレットで、「期待される軍国婦人像」をストレートにあらわしている。その中でも、かなりの量が割かれているのが【靖国の妻】たちの「貞操問題」だった。未亡人の貞操をどう守るか、「婦人本然の美徳であります徹底的な愛は、とかく一面において盲目的であり、熱狂的であり、偏狭である恐...【靖国の妻】の貞操

  • 終戦ごろの国民学校③深安郡千田村

    「千田学区地域誌」千田学区町内会連合会2008年発行学校・家庭の様子校庭では碁盤の目のように四列縦隊で、駆け足や行進が出来るだけの通路を残し、残りは掘り起こして畑とし、甘藷を植えて食糧増産の一助としていました。山の松に鋸で切り目を入れて松ヤニを集めたり、よもぎ・わらび・なずなやどんぐり等を食料不足のため採集したり、桑の木やカズラを剥いで繊維とする手助けをしていました。学校に炭焼き釜を作り木炭の生産をしました。唱歌は軍歌一辺倒になり、体育はみな裸足でした。縁故疎開も多く千田国民学校の各クラス20%位いました。男性(昭和8年生)私は千田尋常に入学し、2年生の時に千田国民学校と名前が変わりました。それとともに教育内容も皇国民育成を目的にするものに改められました。宮城遥拝・・・全校生徒が宮城の方向に向かい「天皇陛下に対...終戦ごろの国民学校③深安郡千田村

  • 終戦ごろの国民学校④岡山県真庭郡新庄村

    「新庄村の暮らしと俗信」立石憲利2020年発行新庄国民学校〇戦時中、新庄小学校は一クラスで29人から32人だった。朝学校で、「見よ東海の空明けて、旭日高く輝けば・・・」の歌をうたって、4年生以上は作業に出かけて行った。開墾は広戸に行った。大豆、小豆、サツマイモを戦地に送るといって出した。炭焼きは、学校の近くに炭窯があった。切った木を枝のついたまま1km以上引っ張って帰った。木を引っ張るのは低学年と女子、男子は炭を焼いた。昭和17~20年ごろは、何も食べるものがなかった。竹の皮拾いもやった。夏休みの子供の仕事の一つ。朝鮮人が買いに来る。学校田で6月に田植えをする。5月に村有林に柴刈りに行って、押切で切って田に入れた。柴刈りは5年生以上が行った。〇子供たちがワラビ、ゼンマイ、どんぐりをとり小使いさんが干して、それを...終戦ごろの国民学校④岡山県真庭郡新庄村

  • 「南洋航路」(ラバウル小唄)

    〽さらばラバウルよ又来るまでは、で有名な「ラバウル小唄」。この歌は替え歌で、元歌は「南洋航路」。実際は”さらば南洋”と、島々から帰ることはできず、軍人・民間人とも玉砕したり、棄民となって倒れていった。「忘れられた島々」井上亮平凡社2015年発行日本は太平洋戦争に敗れるまでの約30年間、現在ミクロネシアと呼ばれる、この「南洋諸島」を事実上の領土として支配した。”楽園”といわれた島々は戦争で玉砕・集団自決の悲劇の舞台となった。〽赤い夕陽が波間に沈む涯は何処か水平線よ今日も遥々南洋航路男船乗り鷗鳥〽波の響きで眠れぬ夜は語り明かそよ甲板(デッキ)の夜風星が瞬くあの星見ればくわえ煙草が目に泌みる〽流石男とあの娘(こ)が言うた燃ゆる生命をマストにまかせ揺れる心に憧れ遙か明日は赤道椰子の島昭和15年「南洋航路」が発売された。...「南洋航路」(ラバウル小唄)

  • 昭和20年8月8日”福山空襲”⑧空襲被害者への補償

    家を焼かれた補償も、負傷も、焼死も、いっさい国からの補償はない。戦死者には”遺族連盟”という強力な政治団体が存在したが、空襲で焼き出された人は組織化することはなかった。それも一因のような気がする。広島県戦災史」広島県第一法規出版昭和63年発行救護と被災処理脱出した人々は、かねて町内会単位に指定されていた避難所へ集結した。しかし一帯もかなり被災しており混乱はさけられなかった。市周辺の人々は炊き出しを行なったが、医師・薬剤師らも多くは被災しており予定通りには活動できなかった。県立工業と誠之館中学に設けられた救護所は、やや本格的なものであったが、8月14日に西国民学校に移され9月6日まで治療が行われた。(判明した人は)死体はむしろに巻いて芦田川の堤防に臨時焼き場で火葬した。最初は市が火葬したが、あとには市・警察も「芦...昭和20年8月8日”福山空襲”⑧空襲被害者への補償

  • 昭和20年8月8日”福山空襲”⑦福山には赤痢が蔓延した

    昭和20年夏、三吉町のおじ(父の弟)の家では、家は無事だったが、まだ女学校の生徒だったおじの義妹が赤痢で死んだ。茂平でも赤痢が流行り、家では祖母と曾祖父の二人が感染した。用之江の隔離病舎へ入り、母は子をおんぶして世話をしに通ったそうだ。祖母は治ったが、高齢の曾祖父は死んだ。「広島県戦災史」広島県第一法規出版昭和63年発行忘れることのできないことは、空襲後に多数の腸チフス・赤痢患者が発生したことである。すでに腸チフスと赤痢は空襲前に発生し、市立福山病院には空襲時に腸チフス11人、赤痢12人が収容していた。しかし、空襲によって家を失い水道が止まり、「夏の暑さに加えて戦災の疲労が重なり、さらに栄養不足が手伝っ」て、チフス・赤痢の大流行となった。戦災後の死亡者数が特に多いのが注目される。栄養不足に加え医薬品の極度の不足...昭和20年8月8日”福山空襲”⑦福山には赤痢が蔓延した

  • 昭和20年8月8日”福山空襲”⑥福山城焼け落ちる

    高校の古文の先生は、授業中にふと「燃え盛る福山城」の話をすることがあった。福山を象徴するものが炎上するのは衝撃だったのだろう。ところで、白亜の天守閣には、どんな防災措置がなされていたのだろう。そのことを記した本に出合っていない。2021年8月4日「山陽新聞・備後版」福山城には焼夷弾2発が落ちたという記録もある。当時の様子は「続福山空襲の記録」(1985年)二之丸に住んでいた故村上正名・元市立女子短大教授の証言が掲載されている。「五層の天守の最上階が崩れると、火は四層へ、そして三層へと土けむりと火の粉をふきあげて、火炎天に柱す」状況で、「本丸の諸建築を天守閣の火の粉から護るべく防火用水からバケツリレーで消火に努めた」としている。笠岡町で結納専門店を営む星野さん(90)当時14歳で、線路をつたって山手町に逃げる途中...昭和20年8月8日”福山空襲”⑥福山城焼け落ちる

  • 昭和20年8月8日”福山空襲”⑤町は燃え放題

    義兄は福山東国民学校の2年生だったが、縁故疎開で笠岡の篠坂に住み陶山国民学校に通っていた。義兄は8月8日の夜、篠坂から燃える福山の町を恐怖で震えながら見つめていたそうだ。義兄の家は入船町だが運よく焼けなかった。おじ(父の弟)の家は盈進商業に接していて、盈進は全焼したがおじの家は焼けずに済んだ。祖母は福山空襲の時、暗い茂平が「真昼のように明るくなった」という話を何度もした。祖父と母は、特に思いはなかったのか・・生前、福山空襲時のことを言ったことはない。「広島県戦災史」広島県第一法規出版昭和63年発行福山大空襲8月8日爆撃開始10時30分ごろ翌9日午前1時ごろまで。敵機は約60機。B29の巨体が低空を飛び、搭乗員がよく見えた。指定されていた避難所の多くが被災していた。福山医師会の多くも被災しており、予定通りには活動...昭和20年8月8日”福山空襲”⑤町は燃え放題

  • 昭和20年8月8日「福山空襲」 ④『伝単』で助かる命が失われた

    今年も福山大空襲の記念日が来た。空襲の悲惨さを伝える追悼記事が載るが、もとから人命を護ろうとしない行政と国家と共犯者ともいえる新聞社の反省記事はない。福山の空襲による犠牲者数は、行政と国家と新聞社の誤った指示・政策や報道により増大した。広島県戦災史」広島県第一法規出版昭和63年発行歴史の教えるもの7月31日に福山空襲を予告し避難を勧告していた。3月の東京空襲以来、全国の各都市が空襲され、大量の人的被害をだしておきながら、軍・警察・市の指導者は、全市民を市内からあらかじめ退出させる措置をとらなかった。むしろ「空襲前、警察は市民に火災を防ぐため疎開してはいけない」とし「福山では、男は絶対逃げてはならぬ、残って家を守れ」と命令されていた。それは、戦争指導者が作為した「神州不滅」や「一億玉砕」の覚悟という非合理的スロー...昭和20年8月8日「福山空襲」④『伝単』で助かる命が失われた

  • 昭和20年8月8日”福山空襲”③「逃げるな、火を消せ!」

    逃げてもいい人がいた。老人や赤ん坊や病人。もちろん、弱者優先というわけでなくて、作業の邪魔になるから離す。人権もヘチマもなかった。「逃げるな、火を消せ!」大前治合同出版2016年発行防空と刑罰退去禁止、その違反者への処罰は最大懲役6ヶ月または罰金500円。この規定により処罰された実例は少ないようである。しかし、市民へ「空襲を恐れて逃げてはならない」という威嚇効果はあった。逃げることは武士道にも国民道徳にも反しており、空襲後も戻る資格はない「非国民」のレッテルを貼られ社会から断絶される。空襲のことは話すな、書くな政府広報誌「週報」問空襲があった場合にはできるだけ早く被害の真相を発表した方がよいのでは?答知らせたいのは山々です。しかし発表すればそれが筒抜けに敵国へも聞こえるということです。敵国へ真相をおしえてやるよ...昭和20年8月8日”福山空襲”③「逃げるな、火を消せ!」

  • 昭和20年8月8日「福山空襲」 ②届かない高射砲、被害を増した防空壕、退去を許さぬ、防空の体制ができていった

    高射砲は敵機に届かず、消化は焼夷弾を塗れた筵で消す、貧弱な防空壕で身を護る、逃げずにバケツリレーに参加する、逃げた人はコメの配給を止める等の防空体制が確立されていった。「広島県戦災史」広島県第一法規出版昭和63年発行防空体制(一)米軍による本土空襲が活発化した昭和19年11月以降に、市民を対象として設定された「避難所・救護所・炊出計画」は、市内各学の町内単位に草戸稲荷・明王院一帯をはじめ5地帯を避難場所に指定し、避難場所に救護所・炊出所を開設することとしている。防空体制(二)町内会長は防空問題の責任者とされ、昭和18年頃から防空壕がつくられていたが、20年に入ると、「個人かもしくは共同で一軒に一ヶは必ず防空壕を設置するよう指導され」た。市内の空き地に防空壕がもうけられ、壕のうえには土が二尺ほど盛られていた。芦田...昭和20年8月8日「福山空襲」②届かない高射砲、被害を増した防空壕、退去を許さぬ、防空の体制ができていった

  • 昭和20年8月8日”福山空襲”①福山空襲は4月から始まっていた

    中学校の時、理科の若い先生は野々浜から通勤していた。よほど機銃掃射の恐怖がしみついて、授業中、何度も田んぼ道を転げるように走り逃げた話をしていた。「広島県戦災史」広島県第一法規出版昭和63年発行本土空襲が激しくなった昭和19年末ごろから福山の防空体制も緊張してすすめられた。町内会では会長が防空問題の責任者とされ、防火部長ももうけられた。昭和18年頃から防空壕がつくられていたが、20年に入ると「個人かもしくは共同で一軒に一ケは必ず防空壕を設置するよう指導され」た。芦田川近くの廃川地にはやや大規模な防空壕がいくつも作られ、市周辺の山にはさらに大規模な横穴が掘られて、空襲のさいに避難することとなっていた。昭和20年5月、6月に入って、空襲が中小都市におよぶようになると、市幹部は「軍隊をもつ福山市としては空襲は必至」と...昭和20年8月8日”福山空襲”①福山空襲は4月から始まっていた

  • 終戦ごろの国民学校②乙種予科練全員受験

    岡山県では矢掛中学の学年全員が甲種予科練を受験して新聞記事になった。広島県では坪生国民学校高等科2年の生徒全員が乙種予科練を受験するのが新聞に載った。終戦後、校長先生は公職追放を受けたのだろうか?それとも自ら辞職したのだろうか(たぶん今の国会議員と同じで、知らんぷりで戦後を生きたのだろう)戦後、矢掛高校の校史からは抜け、坪生国民学校高等科は短い歴史で廃止されている。(広島県福山市坪生町・神森神社)「戦争の時代」つぼう郷土史研究会青葉印刷平成7年発行乙種予科練全員受験朝早くから神森神社の境内で、村長さんを始め在郷軍人会、婦人会、そして私たち小学校児童等、多勢の人々を前に、直立不動の出征兵士が決意を込めて挨拶され、万歳の声に送られて故郷を後にする。授業はその間休みで、勉強せずにすむ。戦争の話を聞くのが何より楽しかっ...終戦ごろの国民学校②乙種予科練全員受験

  • 終戦ごろの国民学校①子どもはめっきり勉強しなくなった

    「ふるさと読本にしえばら」井原市立西江原小学校平成6年発行戦後の学校生活昭和20年8月15日、日本が戦争に負けました。西江原でも食べるもの・着るものにたいへん困りました。学校では、今まで使っていた教科書の中で、「戦争に勝つこと」や「日本の国をたたえた」内容の部分を、墨でぬりつぶして使うようになりました。また、「歴史」は教えないことになりました。「伝えたいわがわがふるさと」笠岡市新山公民館新山国民学校と戦時体制昭和16年3月の国民学校令により、4月から新山尋常高等小学校が、新山国民学校と改称して戦時体制に入ることになります。向山の開墾・炭焼きの手伝い、炭焼窯の築造、けしの栽培等、予科練の小隊が学校に宿泊したり、安養寺へ神戸市六甲国民学校の児童が集団疎開で来たり、福山市の空襲等、警戒警報・空襲警報で防空壕に避難する...終戦ごろの国民学校①子どもはめっきり勉強しなくなった

  • 掩体壕に隠すもの

    一部の書籍や現地説明板に書かれていることはあるが、ほとんどがスルーされていること。掩体壕に隠すものは飛行機またはダミー機。高射砲には丸太のままの偽ものがあった。「本土空襲」NHKスペシャル取材班角川書店2018年発行興味深い映像もみつかった。飛行場に整然と並んだ飛行機に向かって機銃掃射する様子が映し出さたガンカメラ映像。しかし、しばらくすると戦闘機は攻撃をやめてしまう。じつはこの映像をよく見ると、標的となった飛行機の脚の部分に車輪がなく、つっかえ棒で支えられていることがわかる。つまり、整列していた飛行機はすべてアメリカ軍の目を欺くためのダミー機だったのだ。迎撃機を失っていた日本は、アメリカ軍による攻撃を偽の航空部隊に集中させようと、ダミー機を用意して必死の抵抗を試みていた。しかし、低空飛行のP-51の前では偽装...掩体壕に隠すもの

  • 「支那の夜」

    戦争や大陸ブームで、兵士や一般人が中国に住んでいたので昭和14年、15年ごろ中国を舞台にした歌や映画がブームになった。中国の美女が日本の男性に恋するのは、映画の世界だけだろう。プロパガンダ映画の感じが強い。「従軍歌謡慰問団」馬場マコト白水社2012年発行「前線ものではなく、なにか新しい音楽分野をぜひ生み出したいのですが」、相談された西條八十は、漢口陥落待ちで上海のホテルにいた日々を思い出していた。戦争当事者は血相を変えて、戦いを進めているが、多くの大衆はこの戦争に喪失感を抱いているのではないか。八十は原稿用紙に「支那の夜」と記すと想いを書き出した。〽シナの夜シナの夜よ港の灯紫の夜に上るジャンクの夢の船ああ忘られぬ胡弓の音シナの夜夢の夜〽シナの夜シナの夜よ柳の窓にランタンゆれて赤い鳥かごシナ娘ああやるせない愛の歌...「支那の夜」

  • 真備町「岡田更生館事件」その3・・・「逃げるな、火を消せ!」から

    戦争で発生した最も悲惨な犠牲者である孤児は、国家の責任で立派に育て上げる方針であったが、戦後は一転して浮浪者、国家の厄介者となった。犯罪者扱いで、街角から一掃され劣悪な施設へ強制収容させられた。下記の本は、岡田更生館に関する記述はないが、同時代にどこの町(主に県庁都市)にも存在したことを書いてある。「逃げるな、火を消せ!」大前治合同出版2016年発行戦災孤児たち殉国者の遺児厚生省は昭和20年6月28日、空襲で親を失った子どもを「殉国者の遺児」と位置づけ、遺児は国力として立派に育てる、という国策である。戦後は、遺児を闘士に育てあげるという目標が消え去った。養子縁組斡旋、集団保護施設の設置を盛り込んだが、戦後の混乱期ゆえ国家財政や施設整備には限界がある。行くあてのない戦災者・戦災孤児が駅前広場や地下道に座り込む光景...真備町「岡田更生館事件」その3・・・「逃げるな、火を消せ!」から

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