chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
フォロー
住所
岡山県
出身
未設定
ブログ村参加

2014/12/11

arrow_drop_down
  • 三軒屋(広島県福山市千田町)の雨傘

    小学生の時は、”笠”といえば番傘、竹と油紙で作った傘。手に持つと重いことと、豪快な雨音がしていた。洋傘は”コウモリ”と呼んでいた。学校の備品として生徒全員に雨傘が備えてあったが、その傘は千田(せんだ)で作っていたとは知らなかった。・・・・・・・「千田学区地域誌」千田学区町内会連合会2008年発行三軒家の雨傘三軒屋の雨傘製造は、今を去る二百数十年くらい前からあり、その後、次第に増え、大正から昭和にかけては住み込み職人を置いている店もあり、下請けを入れると実に14~15軒にも及んでいました。販路も広く、県外にも広げて年間の生産量は三万数千本にも達していました。各地から見習いに来て、三軒屋で修業し地方に帰り、独立営業する人も数多く見られました。裏山や田んぼの小溝などに傘を干し、遠くから見ると一面に花が咲いているようで...三軒屋(広島県福山市千田町)の雨傘

  • 北木島「大浦監視硝」

    10年ほど前、北木港の待合所で元バックリ山の監視硝に勤務していた人の話を聞いた。その時、女性3人ほどいて次のような話だった。全員青年学校、北木と真鍋の女性がバックリ山を登っていた。若いので苦も無く、楽しいばかり。楽しいばかりというのは、ほぼ同年齢の人が玉野の造船所などに行き、それに比べると恵まれているという面が大きい。なお邑久の監視硝は全員男性、現笠岡市では表にバックリ山が載らず、小丸が載っている。どんな事情があるのだろう。「笠岡市史3巻」笠岡市ぎょうせい平成8年発行空襲が激しくなり、岡山県でも約20か所の山頂に「防空監視硝」が設置し、笠岡地区内では北木島村大浦のバックリ山の山頂に「大浦監視硝」が設けられ、瓦ぶきの屋根にガラス張りの窓、部屋には事務所と奥には休憩室が用意されていた。この監視硝では北木島村の大浦・...北木島「大浦監視硝」

  • 「紀元二千六百年」

    昭和元年から令和3年までの95年間で、いくらかの興奮で全国民が祝った出来事を三つだけ挙げるなら、昭和3年の御大典、昭和15年の紀元二千六百年、昭和39年の東京オリンピック、(←2020東京オリンピックはまったくの番外)ではなかろうか。日本は元号と、西暦の両方を現在も使っているが、(それだけでも他国の2倍だが)なにをまた”紀元”とか”皇紀”と呼ばれるものを持ち出して、年号を3種類も共存させたかといえば「日本は神の国」である、と今から思えば摩訶不思議なものを国民に洗脳さすことだった。西洋の歴史は、たかだか1940年。アメリカにいたっては、わずか200年、わが日本は2600年の歴史がある、「エライ国」である。この紀元(または皇紀)は、明治・大正は使われず、昭和の初期に突然のように軍国化と歩調を合わすように登場した。今...「紀元二千六百年」

  • 松竹映画『永訣』、と海軍の飲酒年齢

    舟木一夫が主演する松竹映画『永訣』。主題曲「永訣の詩(わかれのうた)」は作詞・横井弘、作曲・古賀政男のまさに名曲、映画も文芸調で、舞台は萩、相手役の大空真弓と尾崎奈々もしっとりいい感じ。その『永訣』をユーチューブで見ていたら、海軍兵学校の舟木が飲み明かすシーンがあった。舟木が演じた役では、まだ未成年。以前、予科練生だったおじ(母の弟)の話では、「入って1年したら週に一度ビールとタバコが支給された」と話していた。それで、おじは16歳で飲酒とタバコを始めた。軍の施設内でのことだ。国家公認といえる。【日本ワーキング・ホリデー協会】日本での飲酒は「20歳」からですが、フランス・ドイツ・イギリスなど欧州の国はなんと16歳からの飲酒が認められています!ちなにみ、オーストラリアは18歳から、カナダは19歳から飲酒することが出...松竹映画『永訣』、と海軍の飲酒年齢

  • 「上海だより」

    昭和50年頃、軍歌酒場が夜の街に流行った。その店は、普通に飲み屋なのだが、店の飾りに日の丸や軍帽が飾ってあること、店内の歌は全てが戦時時代の歌(軍歌や童謡や歌謡曲)だった。そういう時代だったのでレコード店に軍歌のコーナーがあり、そのLPレコードを一枚買ったことがある。父はほとんど関心がない様子だったが、「この歌は唄っていた」、というのが『上海だより』。それだけの縁だが、父が”唄っていた”ので記念の歌としてページにした。父が軍歌を歌うとこを見たのは一度もない。軍歌もそうだが、”軍”がイヤだったのだろう。「昭和の戦時歌謡物語」塩澤実信展望社2012年発行上海だより♪便り物シリーズ赤紙一枚で召集され、戦場に赴く将兵は、故郷への想いが強かった。若い兵隊の場合、一番の心のよりどころは母親だった。「上海だより」は、その母親...「上海だより」

  • 「麦と兵隊」

    徐州戦争に従軍した父は、「歌と同じ」だったと言っていた。つまり、毎日毎日、”行けど進めど麦また麦”の徐州会戦で、(岡山の歩兵10聯隊は)徐州には入城せず、武漢へと進攻(侵攻かな)していった。麦と兵隊戦記の傑作『麦と兵隊』火野葦平は芥川賞を陣中授与で、支那事変下の輝ける星だった。陸軍伍長として第18師団に属し、南京攻略に参加。このあと、中支派遣軍報道部へ転属、5月徐州会戦に従軍することになった。支那事変下の傑作『麦と兵隊』は、ここに誕生することになった。出版されると、たちまち百万部の大ベストセラーになり、映画化されて、人気歌手の東海林太郎が同名の主題歌を切々と歌って、戦時歌謡屈指のヒットとなった。・・・出発、果てしもなく続く麦畑の進軍である。陽が昇ってくると次第に熱くなってくる。雨が降れば泥濘と化す道は、天気にな...「麦と兵隊」

  • 昭和12年7月7日・盧溝橋事件 そして父は戦場へ征った

    父は農家の4人兄弟の長兄。兄弟4人は戦前・戦中・戦後を生きた。写真4人のうち、妹と末弟は健在。父は入営後、徐州戦争と武漢会戦に征った。除隊後、3度目の入営中に終戦。戦後は農業、95歳で没。昭和12年7月7日・盧溝橋事件そして父は戦場へ征った

  • 「愛国の花」

    日中戦争が勃発後、時を同じように”国民歌謡”が喧伝された。「愛国の花」は、女性=大和撫子は、歌詞と同じ考えをもち、他の意見は許さないという臭いが強烈な歌だ。「街に唄あり」野尻守利新潟日報2001年発行愛国の花渡辺はま子--凛々しく生きた銃後の女性が愛唱し心の支えに--渡辺はま子といえば、昭和歌謡史を代表する歌手の一人であるが、時代がちょうど戦時下だったこともあって「愛国行進曲」「空の勇士」など戦時歌謡も多く歌っている。その中でも特に「愛国の花」は、戦時歌謡とは思えない優雅な美しいワルツで、銃後の女性に広く愛唱された名曲である。昭和13年5月に日本放送協会(NHK)の国民歌謡として、渡辺はま子の歌で放送された「愛国の花」は、歌詞が戦時調でなかったら、昭和歌謡史の不朽の名曲となっただろうと惜しまれる。当時としては数...「愛国の花」

  • 昭和12年7月7日・盧溝橋事件 岡山県笠岡市

    「笠岡市史3巻」笠岡市史編さん室ぎょうせい平成8年発行連帯意識と隣組制度昭和12年(1937)7月7日、日中戦争の勃発に伴い、政府は国民を急速に戦時体制に動員するため、挙国一致、尽忠報国、堅忍持久を三目標とする国民精神総動員運動を始めた。第10師団日中戦争勃発と同時に第10師団は北支に派遣される。大規模な動員令により、予備役・後備駅に同時召集令が出された。村は興奮・緊迫状態になる。応召兵全部を兵舎に収容しきれず、衛戍地の各所にあふれた。そして逐次北支へ向けられる。国の隅々、各家、各人、戦争を直接肌に感じ、ただならぬ雰囲気が漂った。昭和14年「興亜奉公日」を設定し、「毎月1日を国民挙って戦場の労苦をしのび、自粛自制の気持ちを実際の生活に具現する」一日とした。岡山県もこれを受け、各市町村、小・中等・青年学校、警察署...昭和12年7月7日・盧溝橋事件岡山県笠岡市

  • 昭和12年7月7日・盧溝橋事件 岡山県倉敷市

    「真備町史」真備町史編纂委員会山陽印刷昭和54年発行日華事変昭和12年7月7日、盧溝橋爆破事件により日華事変はじまる。この戦争は、いつはてるともなく、太平洋戦争に突入した昭和16年を経て、とうとう20年終戦まで支那大陸で続いた。この時、岡山歩兵第10聯隊は岡山駅頭で見送られ、塘沽に上陸。昭和12年7月7日・盧溝橋事件岡山県倉敷市

  • 内山完造

    場所・中国上海市内山完造と内山書店が、久しぶりに全国に紹介された。【NHK】魯迅ゆかりの「内山書店」中国天津に復活日中文化人が交流2021年7月11日4時36分戦前の中国上海に日本人が開業し、文豪の魯迅など日中の文化人の交流の場となっていた著名な書店が中国の天津に復活し、ゆかりの関係者が出席して式典が行われました。岡山県出身の内山完造が上海に開業した内山書店は戦前、日中の文化人の交流の場となり、文豪の魯迅が頻繁に通ったことで知られています。内山書店は、その後、東京にも開店しましたが、上海の店は終戦とともに閉店していました。ところが、天津のテレビ局のディレクターだった趙奇さん(38)が内山書店に関する番組を制作したことがきっかけとなり、地元政府の協力を得た企業が東京の店から商標権を取得して、中国で戦後初めて天津に...内山完造

  • 魯迅

    場所・中国上海市2021年7月10日、全国ニュースで「内山書店」の天津店が開店し、魯迅のお孫さんが挨拶する画像が流れた。【時事通信】魯迅ゆかりの書店復活中国で1945年以来【天津時事】中国の文豪、魯迅ゆかりの書店「内山書店」が10日、天津市で開業した。中国での「内山書店」の営業は1945年以来。開店式に出席した魯迅の孫、周令飛さんは「祖父が生きていればとても喜ぶと思う」と語った。1917年に上海で開店した内山書店は当時の日中文化人が集う場となり、特に魯迅と創業者の内山完造の交流は有名。35年に「中国を知る書店」として東京でも開業したが、45年に上海店は閉店した。天津のテレビ局ディレクターだった趙奇さんが最近、内山書店の番組を制作したことがきっかけとなり、天津での「内山書店」復活につながった。天津の内山書店は市内...魯迅

  • 魯迅

    場所・宮城県仙台市青葉区川内【東北大学史料館】魯迅1904年(明治37)秋、1人の中国人留学生が、医学の道を志し、東北大学の前身である「仙台医学専門学校」に入学しました。彼の名は周樹人(しゅうじゅじん/チャオシューレン)。のちに『狂人日記』や『阿Q正伝(あきゅうせいでん)』等の作品によって中国文学に新しい息吹を吹き込み、近代中国を代表する思想家として活躍した作家「魯迅(ろじん/ルーシュン)」その人です。留学生・周樹人の仙台での生活は、たった1年半にすぎません。しかしこの仙台にて、彼は「文学」の道を進むことを決心しました。彼がのちに作家「魯迅」として執筆した短編小説「藤野先生」には、異郷の地仙台での学生生活、文学への転向を決意する彼の心の動きが、ひとりの教師との交流を素材として綴られています。この展示では、東北大...魯迅

  • 昭和12年7月7日・盧溝橋事件 岡山県高梁市

    「成羽町史」成羽町史編纂委員会山陽印刷平成8年発行2・26事件後の日本は、ひたすら戦争拡大に向かって突き進み、翌昭和12年7月7日、盧溝橋における一発の銃声によって日中戦争に突入することになった。7月末には郷土部隊(岡山の歩兵第10聯隊赤柴部隊)にも動員令が下り、成羽町出身の兵士も数多く従軍していった。昭和12年秋からの成羽町報は、町内出身将兵の果敢な奮戦を讃え、銃後の体制強化を図る、戦意高騰記事で埋められるようになり、戦争熱が一層増幅されていったのである。(暴支膺懲の大任に当たる成羽出身の兵、”忠勇義烈”の兵)昭和12年7月7日・盧溝橋事件岡山県高梁市

  • 昭和12年7月7日・盧溝橋事件 岡山県津山市

    加茂町史昭和12年(1937)7月7日、北京郊外盧溝橋において日本軍は中国抗日民族統一戦線を率いる蒋介石軍に攻撃を開始した。この事件は、いわゆる盧溝橋事件といわれ、日中全面戦争の口火となるものであった。近衛内閣は戦争拡大のため軍隊を北京と天津周辺に集結させ、総攻撃を開始してこの年12月には南京を占領した。この後、戦火は中国全土に広がり、ここに昭和6年の満州事変から数えて15年の長期にわたる日中戦争へ発展したのであった。近衛首相は7月15日の地方官会議において訓辞を与えた。この訓示を受け7月22日に岡山県市町村長会議では、1・神社祈願の励行2・動員準備の万全3・出征軍人の歓送・慰問4・軍事扶助、の4項項目をあげ、近衛内閣の戦争政策に全面的に従うことを指示している。「津山市史第七巻」津山市史編さん委員会昭和60年発...昭和12年7月7日・盧溝橋事件岡山県津山市

  • 昭和12年7月7日・盧溝橋事件 広島県福山市

    「福山市史原始から現代まで」福山市2017年発行昭和12年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中全面戦争へと発展しました。入営中の現役兵だけでなく、現役を終えて通常の暮らしに戻っていた予備役・後備役あるいは補充兵役中の在郷軍人にも多数の動員がかけられました。沼隈郡瀬戸村では7月15日の1人を皮切りに。7月28日には一挙に51人に召集令状が届きました。出征兵士やその家族への同情、さらにはそれにむくいなければならないとの焦燥は、各市町村毎に結成された銃後奉公会・軍人後援会・愛国婦人会・国防婦人会、あるいは青年団といった諸団体による「銃後」の援護活動となって展開されました。たとえば瀬戸村の愛国婦人会では、昭和13年の1年間に出征兵士の見送りに29回、武運長久の祈願祭に18回、戦傷者平癒祈願の百度詣りに9回、村葬に3回参...昭和12年7月7日・盧溝橋事件広島県福山市

  • 昭和12年7月7日・盧溝橋事件 岡山県真庭市

    「村誌美甘」美甘村誌編纂委員会山陽印刷平成2年発行張学良は蒋介石を逮捕し、中共軍と合同して抗日戦に立ち上がることを要求した。この頃中国民族は、日本軍の行動に強い反発を感じ、抗日意識が極度にたかまりつつあったので、蒋介石も中共との内戦を捨て、抗日戦争に立ちあがらざるを得なくなった。満州をもぎとられ、華北を侵略された中国人民は、ここで一致団結して抗戦に立ち上がり、日本軍を追い出さぬ限り、中国は滅亡するという認識のもとに戦うことを決意していた。日本の政府、軍部はこの強い抗日意識を無視し、一撃を加えれば直ちに敗走する支那兵とあなどり、2個師団を増派して重大決意を表明した。北京、天津を攻略した陸軍は、首都南京をめざして南下し、海軍飛行隊は8月15日南京に爆撃を加え、激戦苦闘4ケ月の末ようやく南京を陥落させたが、国民政府は...昭和12年7月7日・盧溝橋事件岡山県真庭市

  • 昭和12年7月7日・盧溝橋事件 岡山県勝田郡

    「勝央町史」勝央町昭和59年発行昭和12年7月7日支那事変(日中戦争)の勃発にともない、政府は国民を急速に戦時体制に動員するため、挙国一致、尽忠報国、堅忍持久を三目標とする国家精神総動員運動を始めた。北支へ上陸し津浦線を南下した岡山の赤柴部隊の戦闘が新聞に勇ましく報道されたのもこの年であり、宮中に大本営が日清戦争以来設置された。戦争は北支から上海へ、南京へと進展、11月13日には南京を占領し、内地では祝賀行列が盛んに行われた。「昭和12年事務報告書」に次のとおり記している。昭和12年7月7日北支事変勃発し7月下旬本村にも多数の応召兵あり、村内各種団体は一致し武運長久及盛大歓送をなし軍人をして安じて出発せしめたり。出征兵士に贈る千人針が作られ、国中に内閣情報部が選んだ「愛国行進曲」が流れた。昭和13年「日本軍の一...昭和12年7月7日・盧溝橋事件岡山県勝田郡

  • 昭和12年7月7日・盧溝橋事件 広島県

    「広島県史近代2」広島県昭和56年発行日中戦争の勃発満州事変後、華北への勢力拡大をはかり、アメリカ・イギリスとの対立を強めて国際的孤立化の道をたどりつつあった日本は、抗日・反帝国主義運動が高まる中国で、昭和12年(1937)7月7日、北京郊外の盧溝橋において衝突事件をおこした。事変は拡大の一途をたどり、全面的な日中戦争に発展した。7月10日には、広島の第5師団など内地3師団の華北への派兵を決めた。ところが、この日、現地の北京では停戦協定が成立していた。協定調印の報を受けた中央では関東軍および朝鮮軍よりの増援部隊のみを派遣することをきめ内地師団の動員を留保した。しかし、その後現地で日中間に事件がおこったこともあって、7月27日には動員を命令した。兵士は順次宇品港から華北の戦線に向けて出征していった。中国側でも徹底...昭和12年7月7日・盧溝橋事件広島県

  • 昭和12年7月7日・盧溝橋事件 岡山県苫田郡

    「奥津町史・下巻」奥津町平成17年発行盧溝橋事件と呼ばれる日中両軍の軍事的衝突は、真に平和を希求する姿勢があったなら、日中戦争はなかったかもしれない。しかし日本では満州国成立後、華北分離工作が画策されていた。中国の華北5省(河北・山西・山東・チャハル・綏遠省)を中国から分離させて、日本の支配下に組み入れ。この地域に親日政権を樹立させた。こうした動きに対して、中国共産党は昭和10年に8.1宣言を発表し、国民党に内戦停止と抗日救国のために統一戦線の結成を呼び掛けた。西安事件により中国では国共合作による統一戦線が成形された。昭和12年7月7日、夜間演習で1名の点呼者がいない、連隊長牟田口大佐は直ちに部隊の出動を命じた。不明の兵は翌日帰還したが、この事件が終わりなき日中間の全面戦争の原因になった。昭和12年7月7日・盧溝橋事件岡山県苫田郡

  • 昭和12年7月7日・盧溝橋事件 岡山県小田郡

    「矢掛町史」矢掛町史編纂委員会ぎょうせい昭和57年発行昭和12年7月に勃発した日華事変は挙国一致とか尽忠報国などの言葉とともに拡大を続け、次々に大規模な軍事動員が行われ、出征した郷土部隊の奮戦ぶりが「赤柴部隊の活躍」として華々しく新聞の号外で伝えられた。(赤柴部隊の号外)また、出征軍人に送る「千人針」を求める婦人や武運長久を祈る神社参拝の群れが多くみられ、駅頭では出征軍人を送る日の丸の旗の波や、手に手に日の丸の小旗をうちふる小学生たちの「万才」の声がしばしばわき起こったのである。矢掛町でも同年8月29日には銃後の守りを固くする義務から銃後後援会ならびに軍友会が結成され、3月には県の満蒙開拓青年義勇団も第一次隊171名が訓練所へ出発している。昭和12年7月7日・盧溝橋事件岡山県小田郡

  • 昭和12年7月7日・盧溝橋事件 広島県庄原市

    「庄原市の歴史」庄原市ぎょうせい平成17年発行日中戦争昭和12年7月7日、日中両軍は盧溝橋で衝突し日中戦争がはじまる。同月後半から8月にかけて多数の兵員召集が行われた。西日本各県では、早くは7月13日ごろから、赤紙の報のあるたびに町村民が集い、27.28.29日に至ってピークに達する。たとえば、広島県比婆郡敷信村では人口三千人の小村だが、一度に44人に赤紙が配られ、7月29日奉告祭と送別式をおこなって庄原駅まで見送り、福山41聯隊へ送り出した。広島第5師団(広島・浜田・山口・福山)は太平洋戦争に至るまで戦死者の多い師団として知られていた。将校の生き残りも少ない。大量の兵員が広島駅に到着し、宇品港から中国大陸に向かうので、8月1日には広島駅北側の陸軍東練兵場に接して軍用ホームが二本増設され、同日歩兵11聯隊(広島...昭和12年7月7日・盧溝橋事件広島県庄原市

  • 昭和12年7月7日・盧溝橋事件 岡山県都窪郡

    「早島の歴史2」早島町史編集委員会1998年発行昭和の幕開けは全国的な御大典祝賀行事で始まった。しかし、そのお祭りムードの裏で戦争への準備も着々と進み、満州事変・上海事変を経て昭和12年には日中の全面戦争へと突入した。そして昭和16年の真珠湾攻撃によって日本は世界を相手に戦争を行うこととなった。昭和12年7月の盧溝橋事件を機に日中全面戦争にいった。そして、人々の生活も軍事最優先とされた。こうした時代の中で、早島からも数多くの人々が戦地へ赴いた。早島町出征軍人後援会(会長=町長)は町や家族の近況などを掲載した『早島新報』を発行した。男たちの多くが出征した後、地域や家庭の守りは女たちの役割となった。そして、彼女たちは愛国婦人会・連合婦人会・大日本国防婦人会などの婦人団体に組織された。婦人会員の実行すべき申し合わせ事...昭和12年7月7日・盧溝橋事件岡山県都窪郡

  • 「愛国行進曲」

    盧溝橋事件後、大々的に全国民に普及させようとした大日本帝国政府、マスコミ、レコード会社による国策歌謡曲。発狂した国家が、国民をも発狂にまきこもうとした流行歌。村長さんや校長先生がいる前で歌う歌。現代の人が歌詞を読めば、夜郎自大ぶりに頭がくらくらする。親の世代は、(他国の話でなく日本)市中でこうゆう歌を唄わせれられていた。愛国行進曲〽見よ東海の空あけて旭日高く輝けば天地の正気(せいき)溌剌と希望は躍る大八洲(おおやしま)おお晴朗の朝雲に聳(そび)ゆる富士の姿こそ金甌無欠(きんおうむけつ)揺るぎなきわが日本の誇りなれ〽起(た)て一系の大君(おおきみ)を光と永久に戴きて臣民我等皆共に御稜威(みいつ)に副はむ大使命往け八紘を宇(いえ)となし四海(しかい)の人を導きて正しき平和うち建てむ理想は花と咲き薫る〽いま幾度か我が...「愛国行進曲」

  • 暴支膺懲(ぼうしようちょう)

    昭和12年、盧溝橋事件にはじまる日中戦争の原因は、多くの学者や政治家や旧軍人がいろんな説を述べているが、いまひとつはっきりしない。管理人が思うに、日中戦争は、中国が「日本のいう事をきかない」ので、膺懲した、という単純な原因のように思える。暴支膺懲(ぼうしようちょう)日本の歴史第15巻」大門正克著小学館2009年発行昭和12年7月7日、北京郊外盧溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突した。盧溝橋事件である。ここから長きにわたる日中戦争が続くことになる。その前年西安事件がおき、国共内戦は停止していた。日本の軍部は中国側の民族的抵抗を軽視し、民族的蔑視のもと華北制圧を強める。昭和12年6月4日に国民と軍部の強い支持を得て、近衛文麿内閣が成立した。政府は不拡大の方針をとったが、陸軍は「一撃」を加えれば中国側はたやすく屈服すると...暴支膺懲(ぼうしようちょう)

  • お家断絶③ 福山藩10万石 水野家

    お家断絶福山藩水野家改易日・元禄11年(1698)5代藩主勝岑は1歳で跡を継ぎ、翌年・元禄11年(1698年)に2歳で死去した。家臣団は、ものの本には「帰農した」というのを見かけるが、江戸初期の武士と違い、兵農が分離されて100年後の元禄の「お侍」が、簡単に帰農できたとは思えない。江戸に出て、ひっそりと笠張り浪人にでもなったのだろうか?お殿様の死(=藩士に何も咎はない)である時、突然の放浪は・・・辛い。悲惨だ。水野家改易と武士の矜持改易に際して武士の意地が試されます。福島正則の改易では、神辺城主福島丹波は家臣と共に広島城に立て籠り、城下から領民を批難させ、戦闘態勢に入りました。武勇が尊ばれる地代でした。ところが、大平の世におこなわれた水野家改易では事情が違いました。処分される骨董品の入札で、大勢の商人が城内へ土...お家断絶③福山藩10万石水野家

  • お家断絶② 津山藩18万6千石 森家

    お家断絶津山藩森家改易日・元禄10年(1697)美作津山藩と備後福山藩は、ほぼ同時期にお家断絶となった。幕府が末期養子(大名が危篤になってから養子を願い出ること)を禁止している制度を、だいぶ大目にみて認めたが、それでも、その子がまた早世したのがよく似ている。(津山の場合は狂乱)また両藩とも10万石以上の格式高い大名で、改易は大半が小藩が占める中で異彩なのも似ている。「加茂町史」森家津山藩改易と収公四代長成は元禄10年(1697)6月20日江戸で没し、実子がなかったので2代の24子の子で関家の養子になっていた25歳の衆利を、長成の遺言による末期の養子として承認を求めた。早速老中から衆利に出府の命があったので、かれは7月4日津山を発って東上したが、桑名近傍の縄生村で高熱を発して狂乱状態に陥った。治癒の見込みも立たな...お家断絶②津山藩18万6千石森家

  • お家断絶① 備中松山藩5万石 水谷家

    備中松山藩水谷家改易日・寛永18年(1641)江戸時代の武士は”お家断絶”となると、藩の武士全員が無職となり、地位も禄も家屋敷もなくしてしまう。しかも、ほとんどの場合が予測不能な急な出来事。武士はけっこう辛いところがある。イヤ辛すぎる。吉備の国では、①備中の水谷家、②美作の森家、③備後の水野家、がお家断絶になった。(早い順、森家と水野家はほぼ同時)ちょっとだけ調べてみた。備中松山藩は水谷家が廃絶の際、赤穂藩が城の受け取り大名になり、今も登城道のほぼ中間点に「大石内蔵助の休み石」がある。管理人も松山城に行くときは、その石に座り、ひと休みする。水谷家は城の処理が終わってから、領民がたいへんだったようで検地をしたら5万石から11万国になり、農民は”生かさぬように、殺さぬように”を地で行く状態になった。。。。。。。「江...お家断絶①備中松山藩5万石水谷家

  • (東京の)世界貿易センタービル

    場所・東京都港区無くなった日・2021年7月1日より解体工事撮影日・2017年9月25日2021年6月30日朝日新聞東京・浜松町のランドマーク「世界貿易センタービル」が30日閉館し、解体工事に入る。1970年に完成した高さ152メートルのビルは、その2年前に開業した霞が関ビル(千代田区霞が関)の147メートルを抜いて、当時の日本一に。「超高層ビル時代」を世の中に印象づける建物だった。世界貿易センタービルは、霞が関ビル→京王プラザホテル→世界貿易センタービルと日本の三番目にできた超高層ビル。1980年頃、管理人が勤務する会社の営業所が浜松町にあり、国電浜松町駅から歩いて行っていた。最上階の展望室にもよく行った。仕事で国電浜松町駅を利用するときは、よくビル内を見物というかふらふら時間調整(さぼり)をしていた。ある時...(東京の)世界貿易センタービル

  • 松永の「本郷温泉」

    場所・広島県福山市本郷町本郷温泉なくなった日・2015年頃撮影日時・2014年4月1日祖母は病弱でなかったが、自分から病気をみつけては医者にかかる人だった。ある年(たぶん昭和30年代のなかば)湯治場に一週間くらい温泉療養にいったことがある。帰った祖母に、行ったのはどこだったのか聞いたら「松永の奥のほうにある、本郷温泉というところ」と答えた。その時、初めて本郷と本郷温泉の名を知った。後で思うと、どうも祖母が行った頃が本郷温泉の全盛期だったようだ。10年ほど前、管理人は近場の温泉巡りを楽しんでいたが、本郷温泉は温泉に入れるのか気になり、松永の同僚に確認したら・・・当時、既に「末吉旅館」のみ、営業しているような、していないような・・・「消防団などから予約がある時だけ店をしている、その日は温泉もある」(末吉旅館)とのこ...松永の「本郷温泉」

  • 宮城道雄

    広島県福山市鞆町鞆城跡”春の海”はラジオなどで聴くことがあった。宮城道雄という目の不自由な人が鞆の海で作った、という話は子どもの頃からよく耳にしていた。琴と笛が調和して、いかにも鞆の浦、さらに瀬戸内海のイメージがぐんぐん広がっていく。いつ聞いても、これ以上ない和風の名曲だと思える。(Wikipedia)宮城道雄別名中菅道雄、宮城検校出身地日本の旗日本兵庫県神戸市ジャンル箏曲職業作曲家・箏曲家担当楽器箏宮城道雄(みやぎみちお〈明治27年4月7日-昭和31年6月25日)は、日本の作曲家・箏曲家である。兵庫県神戸市生まれ。。十七絃の開発者としても知られる。大検校であったため、広く『宮城検校』と呼ばれた。『雨の念仏』(1935年)などの随筆により文筆家としての評価も高い。作家の内田百閒とは親友同士であり、交友も深く、双...宮城道雄

  • 水野勝成

    場所・広島県福山市丸の内福山城公園福山藩の誕生カリスマ武将・水野勝成福島正則の改易により神辺城と築城中の鞆城が明け渡され、元和5年(1619)に大和国郡山から水野勝成が備後国南部に転封されました。備後国7郡と備中国2郡を支配する10万石大名の格式を得ました。勝成は徳川家康と従兄弟にあり、ともに百戦錬磨で戦国の世を潜り抜けた間柄で、「鬼日向」とも称されたように、戦場では先陣を切る武断派として名をはせました。75歳まで藩政に君臨し、88歳という長寿をまっとうしたことも、勝成のカリスマ性を高めたことでしょう。寛永15年(1637)、キリシタンが蜂起した島原の乱を鎮圧するため、幕府は諸藩の軍事力を大動員し、勝成は家臣団をはじめ領民をも徴発して約6.000人の軍団を編成しました。従軍した勝俊親子の軍功を勝成が称えています...水野勝成

  • 芭蕉 (敦賀)

    場所・福井県敦賀市気比神宮敦賀8月14日の夕暮れ、敦賀の宿に着いた。あるじは玄流という俳人であった。14日は待宵で、月はことに晴れていた。十五夜の月見は敦賀でと、芭蕉は心づもりにしていたのである。あるじに酒をすすめられ、その夜は気比の明神に参詣した。翌日は、亭主の言葉にたがわず雨が降った。名月の前後には、やはり月の句をよむことが、その土地の人たちに対する旅人の挨拶だったのである。「日本の古典に親しむ・奥の細道」山本健吉世界文化社2006年発行15日、亭主の詞にたがはず、雨降。名月や北国日和定めなく社殿のあたりは神々しく、松の間から月光が洩れてきて、神前の白砂が霜を敷いたようである。「その昔、遊行二世の他阿上人が、みずから草を刈り、土や石を荷い、悪龍の住む泥沼を乾かしたので、参詣の行き来する人の煩いがなくなったの...芭蕉(敦賀)

  • 芭蕉と曾良 (山中温泉)

    場所・石川県加賀市山中温泉曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立(さきだち)て行に、行行てたふれ伏とも萩の原曾良と書置たり。行ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて雲にまよふがごとし。予も亦、今日よりや書付消さん笠の露北陸道をなおも歩いて山中温泉にいけば、こおろぎ橋がある。このあたりの大聖寺川の西岸は奇岩が折り重なってつづき、鶴仙渓と呼ばれる。行基が見つけたと伝えられる、古い温泉場の山中である。菊の香りもおよばぬほどに、山中温泉の湯はよい匂いだ。温泉小屋の外からは、山中節の艶っぽい歌声がしんみりと響いてくる。ハアー薬師山から湯座屋を見れば獅子が髪結うて身をやつすシシとは芸者のことである。四・四の十六、十六歳になれば女は客席にでられるくらいの一人前になるというところからきた。「新...芭蕉と曾良(山中温泉)

  • 芭蕉と曾良 (山寺)

    場所・山形県山形市山寺立石寺制作・小野田高節設置・芭蕉昭和47年、曾良平成元年立石寺山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、ことに清閑の地也。一見すべきよし、人々の勧むるに依りて、尾花沢よりとつて返し、その間七里ばかり也。日いまだ暮れず。麓の坊に宿借りおきて、山上の堂にのぼる。岩に巌(いわほ)を重ねて山とし、松柏年旧(しょうはくとしより)、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉て物の音聞こえず。岸をめぐり、岩をはひて、仏閣を拝し、佳景寂寞(かけいじゃくまく)として心澄みゆくのみおぼゆ。閑かさや岩にしみ入る蝉の声「奥の細道」立石寺清風が用意した馬に乗って旅の予定になかった立石寺へ出立したのは5月27日、午前8時ごろであった。参道は昼なお暗く、夏場といえども冷風に身を包まれる。岩場の窪んだ道が延々と谷間に...芭蕉と曾良(山寺)

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、しろみ茂平の話さんをフォローしませんか?

ハンドル名
しろみ茂平の話さん
ブログタイトル
しろみ茂平の話
フォロー
しろみ茂平の話

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用