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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • ケンペル「江戸参府旅行日記」第五章比丘尼+「東海道中膝栗毛」喜多さん比丘尼に遊ばれる

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行1691年(元禄4)第五章・街道を旅行し、街道筋で生計を立てている人々の群れ③比丘尼(東海道53次内沼津広重)比丘尼大部分は若くて頭をきれいに剃った人たちがいっぱいいるのを見かける。剃髪した人々のうちには比丘尼と呼ばれる若い女性の教団がある。これは鎌倉や京都の尼寺の支配下にあって、その庇護を受けている。熊野や近国に多いので熊野比丘尼と呼ばれている。最も美しい女性である。善良で魅力的に見えるこれらの貧しく若い女性たちは、大した苦労もせずに尼として物乞いする許可を受け、旅行者から思うままに魅惑的な容姿で、うまく布施をまきあげる術を身につけている。かなり多くの者は娼家で年季を終えてから自由の身となり、青春時代の残りを旅で過ごすのである。・・・・・・・「東海...ケンペル「江戸参府旅行日記」第五章比丘尼+「東海道中膝栗毛」喜多さん比丘尼に遊ばれる

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」第五章 伊勢参り

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行1691年(元禄4)第五章・街道を旅行し、街道筋で生計を立てている人々の群れ伊勢参りの人たち一年中行われるが、特に春が盛んで、街道はこのころ旅行者でいっぱいになる。老若・貴賤を問わず男女の別もない。自分たちの食べ物や路銀を道中で物乞いして手にする多くの伊勢参りの人。参府旅行をする者にとっては少なからず不愉快である。なぜなら、ひっきりなしに近づいてきて、「旦那様、お伊勢参りの者に路銭を一文お恵み下さい」と言葉をかけるからである。江戸の町や奥州の住民には、許可を受けずに伊勢参りの旅に出る風習がある。そればかりでなく、非行を犯して両親のところから逃亡して伊勢に向かい、赦免の免罪符をもらってくる。そのため、銭がなく野宿したり、時には路傍で病み死んだ人を見るこ...ケンペル「江戸参府旅行日記」第五章伊勢参り

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」第五章・街道を旅行し、街道筋で生計を立てている人々の群れ

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行1691年(元禄4)第五章・街道を旅行し、街道筋で生計を立てている人々の群れこの国の街道には毎日、信じられないほどの人間がおり、私は東海道を四度も通ったので、その体験から注目すべきものを挙げよう。大小名(津山藩の大名行列)彼らは一年のうちに街道を行き来する。つまり一定の時期に江戸城に伺候し、そして再び江戸から帰る。二度通うことになる。彼らは身分や財力の許す限り立派な行列を作る。それゆえ最も大きい大名は数日の行程に渡って街道を満たすのである。大名の行列は2万人前後、小名の行列はその半数。それゆえ一か月前には宿所や宿場を一定の日数で予約させ、近いうちに通過することをすべての村や町に知らせる。行列が進むとき、一部の従者を除けば、みな黒一色の絹布の服を着て歩...ケンペル「江戸参府旅行日記」第五章・街道を旅行し、街道筋で生計を立てている人々の群れ

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」第三章・街道で見た庶民ならびに寺社の建築物

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行1691年(元禄4)第三章・街道で見た庶民ならびに寺社の建築物城城はたいてい、大きな河の岸辺か丘や高みに築かれている。広大な地域を占め、三重の要塞からなっている。どの城にもきれいな水をたたえた深い堀や石か土の防壁と頑丈な門があるが、重砲は備えていない本丸は、城の中枢で城主の住んでいるところである。本丸には白壁造りの三層または四層の天守閣がそびえ人目を引く。(姫路城本丸)(姫路城本丸)二の丸という第二の城には、用人、城代、右筆などが住み、余った空地は時には庭園にしたり稲を植えている。(姫路城二の丸)第三の外構えは、第三の城と呼ばれていて、下級武士やその城に関係ある人々の住まいで、そこには誰が立ち入ってもよい。(姫路城三の丸)城の建物はたいへんよく維持さ...ケンペル「江戸参府旅行日記」第三章・街道で見た庶民ならびに寺社の建築物

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」第二章・長崎から江戸に至る水路ならびに陸路の一般的記述

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行1691年(元禄4)第二章・長崎から江戸に至る水路ならびに陸路の一般的記述日本各地には国道や街道がつくられ、これらの街道は幅広くゆったりとしているので、二つの旅行隊は触れ合うこともなくすれ違うことができる。上りの人は道の左側を、下りの人は右側を歩かねばならない習慣が定着している。(舞阪松並木)街道には旅行者に進み具合がわかるように里程を示す標柱があって距離が書いてある。江戸の日本橋と名付けらている橋を基点としている。街道の両側には1本ないし数本の樹木を植えた二つの丘(一里塚)が互いに向き合って築かれている。われわれは将軍に拝謁などの儀式で20日間江戸に滞在し、同じ道をまた長崎へ戻り、3ヶ月以内に一切の旅行を終えるのである。陸路を行くと、西海道の一部と...ケンペル「江戸参府旅行日記」第二章・長崎から江戸に至る水路ならびに陸路の一般的記述

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」第一章・参府旅行の準備

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行1691年(元禄4)第一章・参府旅行の準備すべての大名は、年に一度将軍の居城に参勤する。彼らは直接将軍に恭順の意を示すのである。わがオランダ東インド会社の代表者たる商館長もそれに従っている。彼は1~2名の書記と1名の外科医をこの旅行に伴うことができるが、そればかりでなく身分や官位の異なる一群の日本人に護衛されるのである。これらの日本人は長崎奉行所の支配下にあり、奉行がその役を任命する。この護衛の裏にある意図は全く別で、スパイや捕虜と同じようなものなのである。私は参府旅行に加わる楽しみを持った。二度の旅行で重要と思われたことを、この本に毎日順を追って記そうと思う。若干の一般的な注釈を、前もって行う。この旅行の準備。将軍と閣老および江戸・京都・大坂にいる...ケンペル「江戸参府旅行日記」第一章・参府旅行の準備

  • 紫式部(宇治)

    場所・京都府宇治市宇治橋西詰紫式部「日本史探訪5」角川文庫昭和59年発行『源氏物語』はおよそ80年に及ぶ大河小説である。華麗な絵巻物をくり広げるように、優雅な宮廷の社交生活が展開し、おもな主人公は、その一生を、詩と音楽と恋愛だけにささげているかのように見える。たとえば光源氏は、12歳で最初の結婚したのち、40歳近くまでの間に10数人の女性との恋愛遍歴がある。しかし光源氏は、たとえその女性がどんな女性であっても、最後までそれらの女性を見捨てることがなかった。光源氏が、当時の女性の読者にとって理想の男性になったゆえんである。そして、みやびな描写に託して、この小説は、時の流れと人生の真実を描こうとした。そこに紫式部の美意識があった。昭和41年、パリのユネスコ本部は、この紫式部を、日本人としてただ一人、世界の偉人に選ん...紫式部(宇治)

  • (若き日の)徳川家康

    場所・静岡県浜松市中区元城町浜松城公園家康の浜松時代は、29才から45才までで、”若き日の”でなく壮年期を浜松で17年間過ごしている。もっとも大きな出来事は、岡崎から浜松に移って2年後の”三方ヶ原の戦い”であろう。三方ヶ原の敗戦「日本史探訪12」角川文庫昭和58年発行元亀元年(1570)、家康29歳の時、家康は岡崎を離れ。浜松城に居城を移した。二年後、家康は生涯ただ一度の手痛い敗戦をそこで経験する。元亀三年(1572)十月、武田信玄は四万五千の大軍を引き連れて上洛の途についた。天竜川沿いに北から侵入してきた信玄の大軍に対し、家康の軍は信長の援軍を合わせた八千余を率いて、三方ヶ原に討って出た。ここで徹底的に討ち負かされた家康は、わずかな従者と、追い迫る武田勢をけちらし、やっとのことで浜松城に逃げ込んだという。しか...(若き日の)徳川家康

  • 岡崎金次郎

    場所・香川県小豆郡土庄町豊島壇山岡崎公園東京では豊島(としま)だが、広島県に豊島(とよしま)があり、香川県は豊島(てしま)に、手島(てしま)がある。間違いやすい。岡山県宇野港から豊島(てしま)に定期航路がある。今は隣の直島と共にアートの島として人気の島。島の中央に檀山が聳えている。その檀山山頂は公園で、銅像が立っている。銅像に銘板がある、それを写す。岡崎金次郎明治13年豊島唐櫃に生まれ、明治26年東都に出て明治43年石材業及び建設業を興す。関東大震災の復興並びに鉄道建設工事に活躍し、著名なる土木建設工事を完成せり。晩年豊島の開発に着眼し私財を投じて、広大なる地域に桜を植樹され観光事業に寄与せられた。また財団法人岡崎育英会を創設せられた。茲に銅像を建立し翁の業績を永久に奉讃するものなり。昭和37年4月発起人土庄町...岡崎金次郎

  • 小松宮彰仁親王像

    場所・東京都台東区上野恩賜公園第二次大戦の敗戦まで、大日本帝国の陸海軍は皇族を将官にして、軍をより絶対的なものとしていた。それは終戦後の、東久邇宮稔彦王(陸軍大将)首相まで続いた。赤十字社は人道支援団体でスイス人実業家アンリ・デュナンの提唱により創立されたが、日本赤十字社は皇族と軍との関係が強いのが特色だった。軍との関係は戦後解消されたが、皇室との関係は今も強い。小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)は、戊辰戦争、西南戦争でも指揮を執った陸軍大将。その後、日本赤十字社の総裁を務めた、典型的な「戦前の皇族」の人。撮影日・2015.7.9小松宮彰仁親王像

  • 本多平八郎忠勝

    場所・愛知県岡崎市康生町岡崎公園徳川四天王として、家康が主役の小説・映画・ドラマに主要な脇役として登場する武将。それ以上のことは知らないので、岡崎市のwebより転記する。.本多平八郎忠勝公像徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑の一人。本多平八郎忠勝は、天文17年(1548年)、本多忠高の長男として、三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれました。幼少のころから徳川家康に仕え、「蜻蛉切」という槍を使って戦に出たのですが、生涯57回にも及んだ戦いの中で、かすり傷一つ負わずに武功を挙げたので、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と呼ばれるほどの武将でした。慶長14年に家督を息子の忠政に譲り隠居をし、慶長15年(1610)10月18日に桑名で亡くなりました。(岡崎市観光協会)撮影日・2014....本多平八郎忠勝

  • 二宮尊徳像

    場所・神奈川県小田原市城内報徳二宮神社二宮金次郎さんの像は、笠岡市内だけでも20数体あるが二宮尊徳さんの像となれば、探しても・・・無いだろう。金次郎さんの像は戦前、すべての小学校にあり、尊徳さんは実際に活動した、神奈川県や北関東に像や碑が建っているのだろう。碑文を転記する。二宮尊徳翁(1787~1856)江戸時代後期の農政家・思想家。通称金次郎。尊徳は武士の名乗り。幼少期の逸話が一般に知られているが、後に「報徳仕法」と呼ばれる独自の方法と理念で、小田原藩や日光神領などを含む、多くの諸家所領の復興に尽くした。直接・間接的に指導した農村は六百余りにものぼる。ついでに金次郎さん。二宮金次郎像これと同じ像は全国約一千体制作されたが戦時中すべて供出に遭い現在残っているのはこの一体だけである尊徳さんは酒匂川近くに生まれ、後...二宮尊徳像

  • 孫文

    場所・兵庫県神戸市垂水区舞子公園孫文「革命未だ成らず」の悲痛な遺言ハワイで医者になるとともに、清朝打倒・共和制樹立をめざした。日清戦争後、広東蜂起を企てるも失敗、日本に亡命。イギリス亡命中、ロンドンで清国公使館に拘束されて脱出、その体験記「倫敦被難記」で革命家として世界中で有名になった。明治44年(1911)辛亥革命が成功し、孫文は中華民国臨時大総統に推挙され、帰国した。皇帝溥儀の退位を条件にそのポストを袁世凱に譲ったが、以後北京の軍閥政府と広東の革命政府が対立。その後、「連ソ・容共・労農援助」で第一次国共合作、軍閥打倒などを掲げて北京に至ったが、同地で客死、「革命未だ成らず」の悲痛な遺書を残した。「日本首相列伝」学習研究社2003年発行抗日が台頭「遠見卓見」秦郁彦1911(明治44)年、辛亥革命が起きて大清帝...孫文

  • 石井十次

    場所・岡山県岡山市中区門田屋敷一丁目岡山博愛会病院石井十次は、明治の中頃から孤児救済事業を行い、岡山県では有名な人物だったが映画化され、今では全国に知られる岡山県の偉人となった。映画は『石井のおとうさんありがとう』(2005年3月19日公開)で、石井のおとうさんには松平健、他に竹下景子や辰巳八郎が出演した。「岡山県の歴史」谷口澄夫山川出版社昭和45年発行石井十次キリスト教に帰依した石井十次は、明治20年(1887)23歳の時、岡山市門田屋敷の三友寺の一室を借りうけて孤児教育会をおこした。これが岡山孤児院のはじまりである。かれは明治15年、岡山医学校に入学しており、明治17年には新島襄の「同志社大学設立趣意書」を読んで教育の必要性を痛感し、郷里の宮崎で教育会や私塾を組織して活動を開始した。明治20年、脳を病み、岡...石井十次

  • 西村捨三

    場所・大阪市港区天保山公園西村捨三幕末~明治の人、元は彦根藩士。流山で新選組・近藤勇の捕縛に立ち会った。明治22年大阪府知事、初代大阪市長も兼務。大阪築港には特に功績があったそうだ。(1857~1908)撮影日・2010年4月14日西村捨三

  • 関一

    場所・大阪府大阪市北区中之島1丁目関一大阪市長市長当時、大阪は東京市の人口を超えたそうだ。(Wikipedia)東京高商教授。大阪市助役に招かれる。1923年に第7代大阪市長となる。市長として社会政策学や都市計画学の知見を活かし受益者負担金制度による御堂筋の拡幅、大阪都市協会設置、第二次市域拡張、市営公園や公営住宅の整備、大阪市営バス(現・大阪シティバス)事業の開始、大阪港の建設、地下鉄の建設(現・OsakaMetro御堂筋線)、大阪市高速度交通機関計画(大阪市営地下鉄網建設計画)策定、淀屋橋や大阪駅前の区画整理事業、大阪城公園の整備及び大阪城天守閣の再建、大阪市民病院の開設、日本初の市立大学(現・大阪市立大学)の開設、大阪市中央卸売市場の開設など、様々な都市政策を実行した。これらの実現によって人口が東京市をも...関一

  • 「江戸参府旅行日記」番外編・大名の参勤お目見え登城

    このページはオランダ使節の謁見でなく、大名の参勤お目見え登城であるが、儀式としてほぼ同じものだったことが、うかがえる。「参勤交代」山本博文著講談社現代新書1998年発行参勤お目見え登城大名が江戸に着くと、老中まで江戸到着のことを披露する。すると、幕府からその大名の家格にあわせて上使が派遣されてくる。たとえば国持大名であれば、老中が使者になって藩邸を訪問する。この参勤の披露がないうちは、たとえ江戸にいてもまだ到着していないものとして扱われる。将軍への披露がなければ、公然と友人に会いにいくこともできないのである。参勤登城その後、幕府年寄から登城を命ずる奉書が到来し、その翌日朝に登城して、参勤後初めてのお目見えをする。藩主はそれが済むと、各年寄りの屋敷を訪問して、挨拶する。承応元年(1652)佐竹義隆の事例で見ていこ...「江戸参府旅行日記」番外編・大名の参勤お目見え登城

  • 「江戸参府旅行日記」番外編・ケンペルの江戸参府紀行

    「大名と庶民の街道物語」新人物往来社2009年発行東海道の旅人たちケンペルの江戸参府紀行藤田孝光オランダ東インド会社の商館長は年に一度、将軍に謁見し、献上品を奉呈するため江戸参府を行っていた。ケンペル(1651~1716)はドイツ人の医師・自然科学者で、彼の死後、その遺稿をもとにして編纂された『日本誌』は、日本を紹介する書物として広くヨーロッパで読まれた。「江戸参府旅行日記」も、そのなかに収められている。編成商館長1名書記2名医師1名、これに日本側の随員通詞付添検使、与力同心捕方が、長崎奉行によって任命される。それぞれが下僕として数名づつひき連れる。さらに、必需品や献上品を運ぶ運搬人や馬方、通り道となった各藩から案内人がいた。その数は全行程のなかでも変化し、一行は100人前後。たった4~5人の外国人が旅をするの...「江戸参府旅行日記」番外編・ケンペルの江戸参府紀行

  • 「江戸参府旅行日記」番外編・オランダ商館が望んだ輸出品

    「九州そしてニッポン」宮崎克則編海潮社2009年発行オランダ商館が望んだ輸出品輸出品は銀や銅が中心であった。江戸初期の頃、日本から輸出される銀は非常に良質で、オランダの目的はこの銀であった。銀の輸出が禁止されると、銅の輸出が主力となった。大量に輸出された銅はヨーロッパの銅の相場にも影響を与えたといわれる。オランダ船は日本に来航する際、砂糖をバラストとして積み込んでいた。その砂糖を降ろすと、今度は銅をバラストとして積み込んでいた。他に輸出品として樟脳、陶磁器、漆器、醤油、海産物などがある。輸出禁止品貨幣、地図、あらゆる武器。金製品であったはずの刀剣は、鎧兜とともにオランダ国立民族学博物館に収蔵されている。輸入品主な輸入品をあげると、「本方荷物」として生糸、毛織物、染料、ガラス製品、皮革類など。「脇荷物」として薬品...「江戸参府旅行日記」番外編・オランダ商館が望んだ輸出品

  • 「江戸参府旅行日記」番外編・青い目の見た元禄

    青い目の見た元禄より~ドイツ人ケンペルの日本見聞録~岡山大学長大藤真「岡山の自然と文化」岡山県郷土文化財団昭和62年発行私は内科の医師ですが、今日は医学の話はしません。日本に最初に来たドイツ人ドクターのケンペルさんの話です。ケンペルさんはドクターのくせに『日本誌』に、医学の話はでてこないのです。今から296年前オランダ船に乗ってきました。タイから日本の長崎まで約3ヶ月かかっておりますね。元禄3年9月26日に、あこがれの日本に着いております。2年後の元禄5年10月31日に離日し、インドネシアを経由し、ドイツに帰り、1716年65才で亡くなっております。ですから、39才から40才という壮年のときに日本に2年おられた。もともとのすごい博学の上に、その一番充実した壮年の時に日本にいて、沢山の日本のことを勉強し、かつ見聞...「江戸参府旅行日記」番外編・青い目の見た元禄

  • 「江戸参府旅行日記」番外編・ケンペルの長い旅

    「ケンペルとシーボルト」松井洋子著山川出版社2010年発行1690年ケンペルを乗せた船は長崎に到着した。その132年後、シーボルトが長崎に降り立った。この二人には、いくつかの共通点がある。ドイツ語を母体とした。ドイツ人だった。医師であり、商館付き医師として日本に滞在した。日本について広範な調査・研究を行った。ケンペルの長い旅ケンペルはドイツ北部のレムゴーで生まれた。父母は牧師。21歳の時ポーランド領ダンツィヒの学校で、哲学・歴史・古典語を学ぶ。1681年、当時の強国スウェーデンに赴く。ペルシャへの派遣使節の書記官に選ばれる。1683年3月出発、スエェーデン~フィンランド~サンクト・ペテルブルグ~モスクワ。7月10日、11才のピョートル皇帝(後の大帝)に謁見。モスクワから船でカスピ海まで進む。イスファハンへの入市...「江戸参府旅行日記」番外編・ケンペルの長い旅

  • 「江戸参府旅行日記」番外編・ケンペルとは

    「和船」石井謙治著法政大学出版局1995年発行ケンペル元禄3年(169)9月、長崎出島の商館に、一人のドイツ人が商館付き医師として着任した。その名はエンゲベルト・ケンペル、当時39歳。彼は医師のほかに歴史・地理・植物・音楽などの部門も修めた多才な学者で、しかも外国語はロシア語を含むヨーロッパ7ヶ国語に通じていたという人物であった。どうして極東の日本に来たかというと、アジア地方、とくに中国に強い関心を持ち、何とか調べたい気持ちから、渡航の足掛かりとしてオランダ東インド会社の船医となり、ジャワなど各地を回ったのち、長崎の商館付き医師の役を得て来日したということなのである。ケンペルは、わずか2年間の短い在任にもかかわらず、商館長の随員として2度の江戸旅行を体験することになる。この江戸参府旅行によって、彼は日本の風土・...「江戸参府旅行日記」番外編・ケンペルとは

  • クジラが水島港で見つかった

    日時・2021年9月21日夕方のテレビニュース子どもの頃、こまどり姉妹が歌う「ソーラン渡り鳥」を聴きながら、北海道の江差付近では、いっぱいニシンが獲れると思っていた。ペギー葉山が歌う「南国土佐を後にして」を聴きながら、浦戸湾にはクジラがいて、漁師たちは室戸の沖でクジラ漁をしていると思っていた。大人になって、江差にニシンは来ない、高知でクジラは捕れない、それは過去の事であると知った。そして、瀬戸内海でもかつてはクジラがいたことを知り、笠岡にもクジラが来たことを知った。昨日の夕方テレビを見ていたら、水島港でクジラが見つかったそうだ。岡山県では40年ぶりのクジラで、タンカーのスクリュー付近に引っかかっていた。瀬戸内海にまぎれ込み、潮を噴き上げながら泳いでいて、そのうち事故死したのだろう。テレビで見ても、やっぱりクジラ...クジラが水島港で見つかった

  • 井笠鉄道廃線50周年記念、「幸福の黄色いハンカチ」

    日時・2021年9月21日場所・笠岡市山口井笠鉄道・新山駅前井笠鉄道が廃線して、今年で50周年になる。あの、懐かしい「井笠鉄道」も今や、乗車経験のある人が少数派となっている。これ↑が井笠鉄道新山駅。50周年記念で駅舎には「幸福の黄色いハンカチ」が飾ってある。お隣のコッペル製蒸気機関車は、岡山県がコロナの「まん防」のため9月30日まで立ち入り禁止。井笠鉄道の映画ロケ写真。日本一の美女・山本富士子が新山駅の隣の吉田村駅ふきんで撮影した。井笠鉄道は、岡山県笠岡市、岡山県井原市、岡山県小田郡矢掛町、広島県福山市、の2県3市1町を通っていた。鉄道廃止後も笠岡では、いろんな想い出に関するイベントがあったが井原・矢掛・福山では、そういうものがないのがちょっと残念。新山駅前では、9月21日軽トラ朝市があった。井笠鉄道廃線50周年記念、「幸福の黄色いハンカチ」

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」第二回の江戸参府旅行 (下関~怒和~下津井~室津~大坂)

    ケンペルは日本に2年間滞在し、江戸参府旅行に2度参加した。2度目の「江戸参府旅行日記」のうち、瀬戸内海旅行の部分のみ抜粋する。・・・・・・・ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行第十四章第二回の江戸参府旅行(下関~怒和~下津井~室津~大坂)1692年(元禄5)3月3月6日下関の宿舎に着いた。(下関市唐戸市場)3月7日日本人の考えでは、風と波が強すぎるという。(下関市みもすそ川公園)3月8日早朝4時に、穏やかな海に月光を浴びて出港。12時に上関の海峡を通過した。(山口県周防大島)2時には沖家室島の近くを通り、3時半ごろ油宇に向かった。日没時怒和村に着いた。(愛媛県中島諸島)(愛媛県怒和島港)3月9日早朝出港、午後4時に御手洗に錨を下した。(広島県大崎下島・御手洗港)(広島県大崎下島・御手洗...ケンペル「江戸参府旅行日記」第二回の江戸参府旅行(下関~怒和~下津井~室津~大坂)

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」江戸の町・江戸城・拝謁と告別

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行第十二章・江戸の町・江戸城・拝謁と告別1691年(元禄4)3月江戸の町と江戸城2,3の事件拝謁と告別江戸湾は、海底が沼土のようで非常に浅いから、荷物を運ぶ船は、町から1~2時間も沖で荷を下ろし、錨を入れなければならない。幾つかの幅広い堀と木を植えた高い土堤とで分断され、それで大火を防ぎ、火が燃え広がることのないよう目的を達している。たくさんの地方出身の人や土着の市民や宗教関係の人たちが、この町の人口を非常に多くしている。それに、幕府の役人や、全国からの諸大名の家族がこれに加わる。(江戸城)江戸の町の支配は仕方に関しては、長崎や大阪と同様であった。毎年交替する二人の奉行が全市のうえに置かれ、これを支配している。3月14日幕府の役人【宗門改め】が丁寧な挨...ケンペル「江戸参府旅行日記」江戸の町・江戸城・拝謁と告別

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」神奈川~品川~江戸

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行第十一章浜松から江戸までの旅②箱根~小田原~神奈川~江戸1691年(元禄4)3月3月13日この日はついに、6里先の将軍の居城地、江戸に入る日。早朝宿を発った。特筆すべきものは、一・約150戸の新宿村。二・川崎、300戸以上あり、渡し舟で渡った。(東海道五十三次2・川崎宿)三・六郷。魚を捕るたくさんの舟が用意してあった。四・鈴ヶ森。小さな漁村で、貝類や海藻が採れる。潮干狩りや海苔を作っている。五・品川という町は、日本橋から2里あるといわれている。品川の手前には刑場があって、通り過ぎる旅行者はそれを目にして、むかつくような気持になる。人間の首や手足を切った胴体が、やせた大きな犬が吠えて大口を開け、腐った人間の体を食いまわっていた。ほかにも、たくさんの犬や...ケンペル「江戸参府旅行日記」神奈川~品川~江戸

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」小田原~藤沢~神奈川

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行第十一章浜松から江戸までの旅1691年(元禄4)3月3月12日小田原を後にすると、すぐに酒匂川の岸に着いた。平底の舟で渡った。(東海道五十三次8・大磯宿)大磯と言う小さな町を過ぎ、平塚村があり、馬入村と同じ名の流れがあった。(東海道五十三次7・平塚宿)川を渡って、村々を通った。藤沢で昼食を取った。(江の島)(江の島)遊行寺を通りすぎた。(東海道五十三次6・藤沢宿)藤沢から2里、戸塚という小さな町に来た。(東海道五十三次5・戸塚宿)また2里行くと、程ヶ谷という町があった。(東海道五十三次4・保土ヶ谷宿)日が暮れ、9時に神奈川に着き、ここで泊った。(東海道五十三次3・神奈川宿)(横浜)ケンペル「江戸参府旅行日記」小田原~藤沢~神奈川

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」三島~箱根・箱根関所~小田原

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行第十一章浜松から江戸までの旅1691年(元禄4)3月3月11日日が昇ると駕籠に乗り込んだ。今日は小田原の町まで八里の道を箱根の山を越える。今日の旅程の半ばで昼食をとった。湖は険しい山々に囲まれている。ここにはハエも蚊もいないから、夏は静養していてもいいが、冬は非常に寒く体によくない。(芦ノ湖と箱根の関所)この村のはずれに将軍の番所があり、御関所と呼ばれている。新居の関所と同様に、武器を持ったり婦人を連れたりする旅人を通さないのである。ここは江戸にとって戦略上の要衝であるから、新居よりもはるかに重要な意義をもっている。非常に狭い道の傍らにある関所の建物の前後には、柵と頑丈な門が作ってあり、右手には険しい山が崖となり、左手は湖があって自然の要害をなしてい...ケンペル「江戸参府旅行日記」三島~箱根・箱根関所~小田原

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」江尻~吉原~三島

    「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行第十一章浜松から江戸までの旅1691年(元禄4)3月3月10日日の出に出発、午前中に吉原まで、午後は三島までの道である。清見に着いた、奥津という小さな町からさして遠くない200戸の村であって、海岸の砂にたびたび海水をかけ、それを煮つめて良い塩が作られる。蒲原までの間の村々では耕地がほとんどない。(国道1号線、奥津川)(奥津川川越跡)(東海道五十三次17・興津宿)馬に乗っていたわれわれは、奥津からはまた駕籠に乗り換えて、最初に早い流れを渡り、螺旋階段を登るように苦労して薩埵峠の山地を越えた。(薩埵峠・・・・この時、富士山が見えるまで2時間待ちました)(東海道五十三次16・由比宿)(昭和32年前後の由比ふきん)由比の村までかつがれて進んだ。そこからまた馬に乗り換...ケンペル「江戸参府旅行日記」江尻~吉原~三島

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」島田~府中~江尻

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行第十一章浜松から江戸までの旅1691年(元禄4)3月3月9日(蓬莱橋)7時に宿を出て、大きな川のほとりに出た。藤枝川(今日の瀬戸川)と呼ばれていた。(東海道五十三次22・藤枝宿)幅も広いが、今は渇水期で両岸を洗うほどには流れていなかった。しかし川底の様子を知っている人足の助けがないと危険である。橋を渡って岡部村に入る。(東海道五十三次21・岡部宿)そこから骨の折れる山岳地帯を越えて、石の多い、でこぼこの曲いくねった道を進み、鞠子という小さな町に着く。(東海道五十三次20・丸子宿)ここで昼食をとってから、再び馬や乗り物に乗って半時間後に安部川村に達した。安部川という大きな川がこの村を二つの地区に分断し、三本の流れになって海に流れ込んでいる。(東海道五十...ケンペル「江戸参府旅行日記」島田~府中~江尻

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」浜松~掛川~島田

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行第十一章浜松から江戸までの旅1691年(元禄4)3月3月8日大通詞が不快だったため、いつもより出発が遅くなった。2里進むと流れのはやい天竜川のほとりに着いた。二筋に分かれて海に注いでいた。(東海道五十三次28・見付宿)初めの流れは馬で越えたが、もう一つは川舟で渡った。また馬に乗って出発した。(東海道五十三次27・袋井宿)午後には掛川を通った。北側には城があり、白壁の天守閣があり,美しさを添えていた。(掛川城)(東海道五十三次26・掛川宿)ここから2里の日坂に着いた。(東海道五十三次25・日坂宿)ここで馬を籠に乗り換え、山岳地帯を越え、金谷まで行き、そこからまた馬に乗った。(金谷ふきんの茶畑)(茶畑ふきんの東海道)(大井川鉄道・金谷駅)(東海道五十三次...ケンペル「江戸参府旅行日記」浜松~掛川~島田

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」宮~岡崎~浜松

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行第10章京都から浜松までの旅1691年(元禄4)3月3月6日夜明けと共に宮を立ち、陸路を7里先の岡崎まで行って、そこで昼食をとった。通り過ぎた村々は、一・笠寺二・鳴海(桶狭間合戦場跡)三・有松(東海道五十三次40・鳴海宿)(有松)四・今川五・池鯉鮒(今日は知立と書く)(東海道五十三次39・知立宿)岡崎は立派な町で、町には1500の家があり、大部分は立派であった。城は丘のうえにあり、西南には天守閣が堂々と聳え立っていた。(岡崎公園)矢作川が流れ、川幅は広く水量は多いが浅くて舟は通れない。(岡崎公園)(東海道五十三次38・岡崎宿)(東海道五十三次37・藤川宿)午後からは赤坂までの道を進んだ。赤坂は立派な家が立ち並び、きれいな宿屋のある町筋から成っている。...ケンペル「江戸参府旅行日記」宮~岡崎~浜松

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」土山~四日市~宮

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行第10章京都から浜松までの旅1691年(元禄4)3月3月4日(鈴鹿峠)(東海道五十三次48・坂下宿)駕籠に乗って険しい鈴鹿山地を越え、坂下村まで担がわれて行った。坂下村は約100戸で旅館がたくさんあり、伊勢の国の最初の村。(関)(東海道五十三次47・関宿)亀山に着いた。城壁と櫓のある、かなり堅固な城が聳え立っていた。(東海道五十三次46・亀山宿)一里ほど進み、庄野という村の手前の森の茶屋で俄雨に襲われた。(東海道五十三次45・庄野宿)(東海道五十三次44・石薬師宿)四日市の手前で、将軍の使者・吉良上野介が通りすぎるのに出会った。(東海道五十三次43・四日市宿)四日市は1.000戸以上もある、かなり大きな町である。住民たちは旅館業と漁業で暮らしを立てて...ケンペル「江戸参府旅行日記」土山~四日市~宮

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」京都~大津~土山

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行第10章京都から浜松までの旅1691年(元禄4)3月3月2日駕籠に乗って京都を離れた。(「秋は紅葉の永観堂」から京都市内を望む)(東海道五十三次・京都)宿の主人は、京都から1時間ほどの所にある料亭にわれわれを招き、酒や肴をだしてもてなしたが、肴はみな冷たい料理であった。(京都山科)大津の町には、日暮れの1時間前に宿舎に着いた。大津は近江国の第一の都市で、家々の中には立派な旅館が何軒があり、浮気相手の婦人に欠くことはない。(大津)(大津)(東海道五十三次53・大津)3月3日日の出少し前に宿舎を発った。(膳所城)膳所の城下町から半里、瀬田の村に着いた。湖から淀川が流れているが、この辺では横田川という。真鍮の擬宝珠がついた欄干があり、一つの小さい島で続いて...ケンペル「江戸参府旅行日記」京都~大津~土山

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」大坂~京都・京都所司代

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行第9章大坂・京都二つの都市について1691年(元禄4)2月2月28日夜明けと共に京都へ出発した。(天王山から見る伏見方面)佐陀、枚方、淀、伏見、を通って京へ。(伏見城)(伏見稲荷)夕方6時に宿舎に着いて、二階に部屋を割り当てられた。今日は旅行中、肥沃な土地、大部分が水田を通り過ぎた。たくさんの野鴨を見たが、人によく慣れでいて、近づいても飛び立たなかった。アオサギや白鳥、数羽のコウノトリが沼で餌をあさっていた。田をすくのに牛を使っていた。2月29日所司代の御殿の手前50歩のところで、籠から降りるように命じられた。門の番人、前庭を通り、玄関に着く。ここに約20人の使用人その他が座っていた。そこから部屋を通り抜け、第三の部屋に案内され、ここで座って待つよう...ケンペル「江戸参府旅行日記」大坂~京都・京都所司代

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」大坂・大坂町奉行

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行第9章大坂・京都二つの都市について1691年(元禄4)2月大坂大坂は将軍直轄の都市で、囲壁も防塁もなく、平坦で肥沃な平野にある。船の出入りが多い港湾に臨んでいる。東側には堂々とした城があり、西側には二つの番所があるに過ぎない。水量の豊富な淀川という大きな川が北の地区を貫流し、それが、この土地に盛んな商業をおこし、富を得さしたのである。掘割や運河を通って入ってくる商品は、小舟で楽々と町に運ばれ、陸揚げされ商人に渡る。運河は規則正しい幅があり、100以上の立派な橋が架かっていた。大坂の町や住民は町年寄りや総年寄の支配をうける。彼らはさらに二人の奉行の監督と命令のもとにあり、奉行はまた知事として周囲の地方(摂津・河内・和泉・播磨)や村落を支配し、一年おきに...ケンペル「江戸参府旅行日記」大坂・大坂町奉行

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」兵庫~大坂

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤真東洋文庫昭和52年発行第8章小倉から大坂までの旅1691年(元禄4)2月2月24日(兵庫から)朝早くわれわれは下船した。大坂の港は浅く、われわれの乗ってきた船では行けないので、前もって荷物を積んでおいた4艘の小舟を漕いで行った。途中われわれは海岸沿いにいくつかの町や城を見たが、それらのうちでは大坂港から3里手前にある尼崎の美しい城と町が印象的であった。(尼崎城)また、前方南の方には将軍家の支配する堺の町がある。(堺港灯台)われわれは今日10里船を進めて、大坂の港口に着いてから、航行可能な川の支流を、午前11時に東南東に向かって進んだ。(天保山渡し)われわれが大坂で泊まることになっていた宿の主人が、2艘の屋形船をもって出迎えてくれた。1.000以上の舟の間を縫って大坂の町へ...ケンペル「江戸参府旅行日記」兵庫~大坂

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」室津~兵庫

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤真東洋文庫昭和52年発行第8章小倉から大坂までの旅1691年(元禄4)2月2月23日(室津から)夜明けとともに出港することになったが、湾の中から約2.000歩ほどは櫓で漕いで行かねばならず、それから大海に出て帆を使うことができた。われわれは次の所を通り過ぎた。(たつの市新舞子)一・網干。2~3の陣屋と将軍家の荷物蔵のある町で、播磨領であるが、ここに将軍は一人の郡代と奉行を置いて支配させている。二・姫路。立派な天守閣のそびえる城のある町で、城主松平大和守の城下である。(姫路城)ここもまた網干の付近も岩礁が多く、航行には適さない。三・高砂は、たくさんの樹木が植えられた400戸余りの防御施設のない小さな町である。明石までは5里の道である。明石は麻糸で作られ技巧をこらした帷子または...ケンペル「江戸参府旅行日記」室津~兵庫

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」白石島~下津井~室津

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行第8章小倉から大坂までの旅1691年(元禄4)2月(早朝白石島を出港した)(白石島の南、北木島から水島灘を見る)(寄島三郎島から塩飽諸島を望む)(三百山から見る水島灘)(下津井港)2月22日われわれは夜明けとともに錨を上げ、たくさんの島が浮かぶ広い海を過ぎ、船を7里進めて下津井という小さな町に着いた。この町は本州の備中国にあり、普通の石を積み上げた海岸で、岩の多い山の麓にある。その山の上には松の木がきちんと列をなして並び、みごとであった。下津井の町には400~500の人家があり、三つの地区に分かれていて、各地区には一人の与力が支配している。向かって右手には石造りの塩飽の城があり、その傍らに小さな村がある。(下津井)ここから遠くない航路の真ん中に、人目...ケンペル「江戸参府旅行日記」白石島~下津井~室津

  • 広島駅前の路面電車

    場所・広島県広島市中区場所移動・2022年~2025年(現地点から駅ビル2Fへ移動)撮影日時・2016年11月3日広島駅は、ここ10~20年来、新幹線口方面の整備・開発が進んでいたが2020年からは、駅ビル・駅前の工事が始まった。新しい駅ビルは、ホテルや映画館もあるが、路面電車も2階へ入居する。路面電車が地上から無くなるので、駅前広場はずいぶんすっきりする。完成は2025年2月の予定だが、広島駅と駅前と新幹線口が充実して、紙屋町や八丁堀まで行かなくてもよくなる?ような気もする。広島駅前の路面電車

  • 岡山駅前の噴水

    場所・岡山県岡山市北区駅前町無くなった日・2021年(撤去工事中)撮影日・2016年4月5日岡山駅前の噴水が無くなる。路面電車が、ようやく駅前に出来る。現在の広場を拡張する訳でないので、そのぶん、今あるものが取り除かれたり、移動する。噴水は1975年以来、市民や旅人に親しまれてきたので、いくらか心残りもあるが仕方がない。路線延長した新駅は2022年度中に完成予定。岡山市の路面電車はいつも広島市の一周遅れ。広島市は駅舎(2F)の中へ線路が入る、その工事中。岡山駅前の噴水

  • 岡山市役所

    場所・岡山県岡山市北区大供新庁舎建替え工事・2022~2026年撮影日・2008年11月20日岡山市役所は来年から新庁舎建替え工事が始まる。同じ場所に17階建ての立派な庁舎が出来る予定。岡山駅前から市役所筋の突当りに見える、この現在の岡山市役所の建物も今年度で見納めになる。ところで建替えの理由は、岡山市役所本庁舎は『昭和43年(1968年)に竣工し、築後約50年が経過しており、耐震性能の不足、老朽化など』とされているが、岡山県庁はもっと古い。昭和30年頃に完成している。それを言えば、ニューヨークの摩天楼は90年ほど経過している。耐久だけいえば、木造のお城の櫓や天守閣でさえ200~300年は十分耐えている。日本の役所は庁舎の建替えを安易に考えすぎているように思う。岡山市役所

  • 岡山県井笠地方振興局

    場所・岡山県笠岡市六番町岡山県井笠地方事務所組織再編で廃止日時・2005年撮影日・2005年頃2005年、岡山県の組織再編により井笠振興局は廃止され、倉敷の「備中局」の下部組織となる「井笠地方事務所」が創設された。施設は、振興局をそのまま使っているが規模縮小のため、遊休や駐車場に使っていた敷地を半分ほど売りに出した。その跡地は2者が購入し、創価学会の会館中国銀行の笠岡支店となっている。岡山県井笠地方振興局

  • 国民宿舎「仙酔島」

    場所・広島県福山市鞆町仙酔島閉店・2021年3月31日撮影日・2008年8月14日鞆の国民宿舎は60年間、鞆海水浴場の海岸に”あるもの”として存在していたが、施設老朽化に加えコロナ禍での客減少で、ついに閉店してしまった。海岸の砂浜の先に、国民宿舎があることで、鞆の実感や安心感のようなものがあった。初夏の観光鯛網では、国民宿舎の前で竜宮城からきた乙姫様が舞をしてから出港していた。今後の施設利用は、市と鞆で協議中とのことだ。国民宿舎「仙酔島」

  • (カブニくん模様の)カブトガニ号

    場所・岡山県笠岡市ほか無くなった日・2012年10月30日(両備バス引継ぎ)撮影日・2010年6月11日カブトガニ号は、神辺~井原~笠岡~浅口~~大阪・梅田~湊町~上本町の長距離バス。経営が井笠鉄道の時代は、予約が不要だったので天気がいい日にふらっと日帰りで大阪に出かけていた。帰りはいつも、最終便で笠岡に午後9時半ごろに着いていた。バス停から家まで徒歩1~2分の距離なので、バスに乗るとすぐ酒を飲んで、いい気分で帰っていた。往路は、のんびりと窓からの風景を眺めるのが楽しみだった。降りるのは梅田が多かったが、乗るのは湊町だった。それは、梅田より早く乗るので席が選べるから。経営が井笠鉄道から、両備バスに変わって、当然ながらバスの標示から「井笠鉄道」は消えた。いつからか、井笠カラーのバスも見なくなった。現在は日に2便運...(カブニくん模様の)カブトガニ号

  • 産寧坂の電信柱

    場所・京都府京都市東山区産寧坂無くなった日・2012年頃撮影日・2008年11月20日パソコンに保存している京都の写真を見ていたら、産寧坂に電信柱が写っていてびっくりした。日本を代表する、世界的な大観光地だが近年まで電信柱が建っていたんだな。ネットで調べてみると、「ねねの道」や「二年坂」「三年坂」「清水坂」は2012年頃に無電中化されたようだ。産寧坂の電信柱

  • 旧・阪神百貨店

    場所・大阪府大阪市北区梅田「阪神百貨店」阪神梅田本店建替え工事着手・2015年(完成2022年春)撮影日・2012年9月21日大阪駅のまん前にある阪神デパートは、工事状況が新聞などのニュースにもなる。旧建物は解体され、既に2018年一期工事が完了。阪神百貨店は、新しい建物で営業中。2022年春に全工事が完成し、建物の名称は「大阪梅田ツインタワーズ・サウス」と呼ばれ、現在の阪急梅田ビルが「大阪梅田ツインタワーズ・ノース」に名称変更されるそうだ。(この写真のみ撮影日・2014年11月21日)旧・阪神百貨店

  • JR原宿駅舎

    場所・東京都渋谷区JR原宿駅解体工事・2020年1月(駅舎完成2020年3月)撮影日・2011年9月9日ロス・インディオス&シルビアが歌った、「それぞれの原宿」は曲もいいが、歌詞もよかった。♪原宿表参道ゆれて青山通り~原宿は、休日に若いおのぼりさんで満員、表参道は、参道の雰囲気がいくらかあり、青山通りは、しゃれて落ち着いた感じがした。原宿駅は、明治神宮と表参道の中間にあり、老朽化等が原因で新しい駅舎に建替えられた。JR原宿駅舎

  • 三井造船玉野造船所の新造船

    場所・岡山県玉野市玉三井造船構内無くなった日・2021年7月21日(最終船の進水式)撮影日・2010年6月11日今年7月、三井造船・玉野は最後の進水式を行った。玉野と言えば反射的に「三井造船」というイメージがあったが、大正6年以来つづいてきた”造船”は終わりを告げた。宇野稲荷山から見る三井造船所↑。東西2kmの造船所は、三井物産が造船部として建設を始める前は塩田だった以下の4枚は↓、進水式の写真。三井造船玉野には船台とドッグがあり、造船所の東に船台、西にドッグが並ぶ。進水式は一般公開されている。どこの造船所進水式でも言えるのだが、船体が大きくてクジラの腹を見る感じで全体像がわからない。今日進水するのは6万トンのバラ積船。進水直前、緊張の時。そしてテープカットされる。ファンファーレが鳴り、くす玉が割れ、船体は海に...三井造船玉野造船所の新造船

  • 天満屋ハピータウンみどり町店

    場所・広島県福山市緑町なくなった日・2014年5月25日撮影日時・2014年5月17日福山市の”緑町”は、旧陸軍の連隊や練兵場があった場所で、ここハピータウンは元・練兵場があった。ハピータウンは近接する三菱電機や地域住民に溶け込んだ商業施設だった。店舗4階にはプールがあり、管理人の子供もここで水泳を習った。店舗3階には、中国新聞のカルチャースクールが各種文化教室を開催していた。地域に愛されたお店だったが、いくらか古くなっていった。その頃、お隣の連隊跡地が商業施設になりエブリーやユーホーができた。天満屋は伊勢丘にあったハピータウンと併せ、合理化でお店を閉じた。閉店後のハピータウンみどり町店は、すぐに解体され、同業のハローズが新店舗を開店した。天満屋ハピータウンみどり町店

  • 旧・日新製鋼呉製鉄所

    場所・広島県呉市昭和通り計画日・「令和5年9月31日全面閉鎖」の予定撮影日時・2021年4月26日音戸の瀬戸公園から見る第二音戸大橋、橋の向こうに見えるのが現在は日本製鉄の子会社の製鉄所。旧日本製鋼呉製鉄所は、海上自衛隊・IHI・日新と、呉の三大雇用者数を誇っていた。もともとは海軍呉工廠で武器・兵器を造っていたが、戦後は平和産業として日亜製鋼になり、その後日新製鋼になった。現在は協力会所を含め3.300人が構内で働いているそうだ。これは元・音戸ロッジから見る旧日新製鋼。この地も、呉を代表する観光施設の音戸ロッジだったが、音戸ロッジは消え、その後にできた温泉施設も今年(2021年3月)閉鎖された。2年後に閉鎖される旧日新製鋼。大手とはいえ、地場産業でもあり、従業員や関連企業の行方が気になる。旧・日新製鋼呉製鉄所

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」箱根~小田原~神奈川~江戸

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行第十一章浜松から江戸までの旅②箱根~小田原~神奈川~江戸1691年(元禄4)3月3月11日日が昇ると籠に乗り込んだ。今日は小田原の町まで八里の道を箱根の山を越える。今日の旅程の半ばで昼食をとった。湖は険しい山々に囲まれている。ここにはハエも蚊もいないから、夏は静養していてもいいが、冬は非常に寒く体によくない。この村のはずれに将軍の番所があり、御関所と呼ばれている。新居の関所と同様に、武器を持ったり婦人を連れたりする旅人を通さないのである。ここは江戸にとって戦略上の要衝であるから、新居よりもはるかに重要な意義をもっている。非常に狭い道の傍らにある関所の建物の前後には、柵と頑丈な門が作ってあり、右手には険しい山が崖となり、左手は湖があって自然の要害をなし...ケンペル「江戸参府旅行日記」箱根~小田原~神奈川~江戸

  • 藤花苑

    場所・岡山県笠岡市笠岡なくなった日・2022年撮影日時・2021年4月15日藤の花が咲くころ、毎年山陽新聞・中国新聞・笠岡放送で取り上げられていた”藤花苑”。個人の庭園ではあるが、すっかり一つの笠岡名所になっていた藤花苑。(下の入口)残念ながら、苑主さんが高齢のため、管理を継続するのが難しくなり、2021年をもって閉苑が決まった。(上の入口)春の楽しみがひとつ消えてさみしくなった。今現在(2021.9.9、何本かの藤を伐採している)藤花苑

  • マルナカ鴨方店

    場所・岡山県浅口市鴨方町山陽マルナカ・鴨方店なくなった日・2020年10月4日撮影日時・2015年9月13日国道2号線に沿った「マルナカ鴨方」。店内も、それなりに流行っていたように感じていて、まさか閉店するとは思っていなかった。知人の情報で初めて知り、国道2号線を通ってみたら、お店は跡形もなく、更地になっていた。(現在も更地の状態)JR鴨方駅北口から見るマルナカ。駅からも2号線からも近くて、いいお店だった。なくなって残念。マルナカ鴨方店

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」津和地島~御手洗~来島~岩城島~弓削島~鞆~白石島

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行第8章小倉から大坂までの旅1691年(元禄4)2月2月20日早朝、静かな天気に恵まれ岸を離れた。すぐに山の頂上まで耕かされたおよそ40戸からなる沖の家室村に着いた。しかし昼食の頃には左手にある津和地島に行った。(津和地島2015.9.25愛媛県温泉郡)(津和地島2015.9.25愛媛県温泉郡)(津和地島2015.9.25愛媛県温泉郡)その島の東南に向かって開けた円形の海岸に沿って約200戸の家の立ち並ぶ入江は、船頭たちにとって安全な港として役立っている。その背後にある山は、頂上まで階段状に耕かされた畑になっている。われわれはここから、穏やかな冷風に吹かれて、二つの山の間を安芸国の沿岸にある蒲刈の村まで進み、(下蒲刈島・三之瀬2009.2.12広島県呉...ケンペル「江戸参府旅行日記」津和地島~御手洗~来島~岩城島~弓削島~鞆~白石島

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」小倉~下関~下家室

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤真東洋文庫昭和52年発行第8章小倉から大坂までの旅1691年(元禄4)2月われわれは旅館で1時間半ほど足を留め、日本食をとり、すっかり元気を回復して再び小倉を発った。二人の重臣は、2艘の小舟が持っている海岸まで送ってきた。1.000人以上の一般の見物人で埋まり、行列の両端にでひざまずき、たいへん静かに座っていた。そして見物人のうち誰一人立ち上がろうとする者もなく、また、わざと音をたてたりする者もなかった。われわれは九州島を後にした.私が乗った舟は、正しい航路をはずれ、しばしば浅瀬に乗り上げたので、もう一方の舟より2時間も遅れ、したがって5時間を費やした。海上3里を下関に渡った。そこにはわれわれが乗る大きな船が5日前に到着していた。その船でさらに海上を大坂まで旅をつづける為で...ケンペル「江戸参府旅行日記」小倉~下関~下家室

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」長崎~佐賀~小倉

    ケンペル「江戸参府旅行日記」第七章長崎から小倉まで、陸上の旅(長崎市出島2012.5.9)第七章長崎から小倉まで、陸上の旅1691年(元禄4)2月13日出発(長崎市出島2012.5.9)2月10日、公使は二人の町奉行にいとまごいを乞う。(長崎市出島2012.5.9)2月13日、二人の奉行は盛装して出島のわが商館を訪問した。饗応のあと、島の外まで連れていかれ、別れを告げて出発した。大村湾に着き昼食。大村侯の家老に会った。主君の名において、無償であらゆる援助を惜しまずと、遊船を提供した。2月14日夜明けと共に出発した。俵山の麓を回ると、大村領から小さな嬉野領に入った。藩主は寛大で100名の人員を要求したのに対して、200名の差し出して、いっそう満足させた。湯治場があり、湯には匂いも味もなかった。嬉野から2時間、塩田...ケンペル「江戸参府旅行日記」長崎~佐賀~小倉

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