chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
後藤和弘のブログ https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。 反対のご意見やコメントも歓迎しま

後藤和弘のブログ
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2014/10/30

arrow_drop_down
  • 「今日の散歩は少し遠方の都立野川公園まで」

    今日は都立武蔵野公園を通りこして少し遠方の都立野川公園までまで行って来ました。爽快な秋晴れでした。野川公園の写真をお送り致します。「今日の散歩は少し遠方の都立野川公園まで」

  • 「ツルゲーネフのデビュー作、『猟人日記』」

    『猟人日記』は、ロシア文学者ツルゲーネフのデビュー作であり、ロシア文学の代表作。狩猟者の日記という形で、ロシアの美しい自然と、その中で生活を送る人々の哀楽を、25編の物語として詩情に満ちた筆致で描いています。しかし、農奴制を批判したものとして、逮捕・投獄されました。ツルゲーネフの自然描写は、国木田独歩が『武蔵野』の中で、『あいびき』(ツルゲーネフの作を二葉亭四迷が訳出)の冒頭の、森林の陽光と雲の様子とともに変幻自在に変化する美しい描写部分を引いているように、日本人の心情、美観に訴えるものがあります。添付の写真は米川正雄訳の『猟人日記』です。「ツルゲーネフのデビュー作、『猟人日記』」

  • 「明治、大正期のロシア文学の流行と二葉亭四迷」

    日本でロシア文学の流行った時代がありました。明治、大正期でした。旗手は二葉亭四迷でした。その様子を、https://jp.rbth.com/arts/87134-meiji-taishouki-roshia-bungaku-boomからご紹介いたします。・・・二葉亭四迷は、ロシア文学の最初の主要な翻訳者の1人と言える。彼はロシア語の達人であり、ツルゲーネフ、ゴーゴリ、ガルシンその他の作家や批評家の著作から、計30篇以上の翻訳を行っている。ツルゲーネフの『猟人日記』の一部を訳した「あひゞき」(『国民之友』1888年)の訳文が多くの作家の文体に甚大な影響を与えたことは良く知られている。その精確で繊細な訳文は驚くべきものだ。森體の『戦争と平和』抄訳のわずか2年後で、二葉亭がいかに時代を抜いていたかが分かる。「秋...「明治、大正期のロシア文学の流行と二葉亭四迷」

  • 「ソ連は嫌いだ、しかしロシアの文化は好きだ」

    ソ連は嫌いだ、しかしロシアの文化は好きだ。ロシアの文学やバレエは好きだ。そういう人が多いと思います。私もそうです。日本人がロシアが嫌う理由は幾つかあります。シベリア抑留で60万人の日本人を極寒のシベリアで強制労働をさせ5万人を殺したのです。北方洋では日本のサケ・マス漁船の拿捕を執拗に繰り返したのです。しかし文学・音楽・バレエなど芸術の面ではとても優れた国です。私に確固とした希望があります。将来、日本とロシアが友好関係を樹立してもらいたいのです。永遠にロシアを嫌っていたら自分の人間性を低くし不幸になります。他人を憎み他人へ対して怨念を持っているかぎり人間は決して真の幸福になれないのです。日本人と同様にロシア人が日本人を憎んでいたら原因がある筈です。世界のどの国にも悪い面と良いところがあります。ロシアも例外で...「ソ連は嫌いだ、しかしロシアの文化は好きだ」

  • 「写真でご案内する晩秋の八ヶ岳への小さな旅」

    今日は以前に行った晩秋の八ヶ岳の小さな旅を写真にしたがってご案内したいと思います。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。1番目の写真は甲州街道の台ケ原宿から清春美術館へあがる途中の雑木林の紅葉の写真です。八ヶ岳の麓は清里から甲斐大泉、長坂、白州、須玉、武川と広大な北杜市という市になっています。その標高の低い地域は一面の紅葉した雑木林に覆われているのです。それは華麗な眺めでした。2番目の写真は清春美術館の写真です。白樺林の奥に見える低い建物が美術館で、左の建物がルオー記念礼拝堂です。白樺林はすっかり落葉して冬のたたずまいでした。3番目の写真は小海線の清里駅から少し登った「美し森」からの夕焼けの写真です。晩秋の夕方で人影がありません。夕日の空の色のうつろいを30分ほども眺めていました。風も無く静寂の世界でした。4番...「写真でご案内する晩秋の八ヶ岳への小さな旅」

  • 「豆粒が転げまわるように走り回る幼児たち」

    とにかく面白い光景を見ました。広い野原を豆粒が転げまわるように走り回る幼児たちの姿です。幼児たちなので足が見えません。でも早く走るので粒豆が転げまわるように見えたのです。可笑しいですが元気を貰いました。粒豆が転げまわっている写真をお送り致します。「豆粒が転げまわるように走り回る幼児たち」

  • 「樹々の黄葉の風景」

    樹々の黄葉の風景の写真をお送り致します。さきほど小金井公園で撮って来ました。青空のもと黄色が鮮やかでした。気分の良い散歩でした。「樹々の黄葉の風景」

  • 「秋になると落ち葉炊きの焚火が懐かしい」

    秋になると昔は家々で落ち葉炊きをしたものです。かぐわしい煙が漂い楽しいものでした。ところがある時代に落ち葉炊きが禁止になりました。焚火の煙が地球の環境を汚染するというのです。もう何年も焚火をしていません。焚火を懐かしく思うこの頃です。そこで昔山林の中の小屋で焚火をした時のことを書くことにしました。落ち葉焚きをして札幌から買って来た薪ストーブを設置するために山小屋に行ったのです。10年ほど前のことです。久しぶりに家内と一緒に山林の中の小屋へ行くと小川がいつもの水音をたてて流れています。小川の中の掃除をしてから、落ち葉焚きをすることにしました。毎年の決まった行事です。林の中の小屋で落ち葉を集め写真のように落ち葉焚きをしました。昔の懐かしい風物詩をよみがえります。2時間も落ち葉焚きをしていました。持参して来た弁...「秋になると落ち葉炊きの焚火が懐かしい」

  • 「ロシアへの憧れとシベリア鉄道」

    シベリア鉄道は、ロシア連邦のシベリアとヨーロッパロシアを東西に横断する鉄道です。全長は9,297キロメートルで、世界一長い鉄道です。私の若い頃にロシア民謡が流行っていてロシアに憧れ人が多いものでした。シベリア鉄道にも憧れる人が多くいました。共産主義は大嫌いですがロシア民族には親しみを感じます写真をお送り致します。「ロシアへの憧れとシベリア鉄道」

  • 「ロシアの美しい白樺林の風景」

    ロシアの美しい白樺林の風景の写真をお送り致します。写真はインターネット上の写真をお借りしました。「ロシアの美しい白樺林の風景」

  • 「ヴォルガ川の風景写真」

    ヴォルガ川の風景写真をお送り致します。写真はインターネット上の写真をお借りしました。「ヴォルガ川の風景写真」

  • 「我が青春は歌声喫茶が流行っていた時代」

    我が青春は歌声喫茶が流行っていた時代でした。友人と共に私も歌声喫茶によく行き合唱したものです。もう昔のことで知らない人も多いと思いますので簡単にご紹介したいと思います。歌声喫茶は客全員が歌う喫茶店でした。1955年前後の東京など日本の都市部で流行し、1970年代までに衰退したのです。リーダーの音頭のもと、店内の客が一緒に歌を歌うのです。伴奏はピアノやアコーディオンなどの単独の楽器が使われることが多く、大きな店ではバンドも入っていました。歌われる歌はロシア民謡、唱歌、童謡、労働歌、反戦歌、歌謡曲など。店が独自に編纂した歌集を見ながら歌うこともありました。1955年(昭和30年)、東京・新宿に「カチューシャ」、「灯」がオープンします。これをきっかけとして東京に歌声喫茶が続々と誕生したのです。労働運動、学生運動...「我が青春は歌声喫茶が流行っていた時代」

  • 「懐かしいのは歌声え喫茶とロシアの「ヴォルガの舟歌」」

    昭和30年頃に歌声え喫茶というものが流行っていました。客が声を合わせて歌う喫茶店です。伴奏はアコーデオンです。いろいろな歌がありました。よく歌われたのはロシア民謡でした。懐かしい歌を列記します。紅いサラファン、泉のほとり、トロイカ、ともしび、バイカル湖のほとり、ヴォルガの舟歌、カチューシャ、ステンカラージン、黒い瞳などでした。今日は「ヴォルガの舟歌」を少し詳しくご紹介したいと思います。ロシアでの船引きの仕事は16世紀から20世紀にかけてさかんに行われていました。1900年代初めに女性の船引きを撮影した写真さえ残っている。しかしこの仕事は蒸気船の出現で時代遅れになりソ連政府は1929年に、船引きを正式に禁止した。今日はイリア・レーピンの絵画、『ヴォルガの船引き』にまつわる話です。参考にした資料は次です。ht...「懐かしいのは歌声え喫茶とロシアの「ヴォルガの舟歌」」

  • 「今日の散歩は都立武蔵野公園まで」

    今日も散歩は都立武蔵野公園まででした。武蔵野公園は広々とした公園です。何も無いのです。野川の水音だけが聞こえます。それが良いのです。静寂が支配してます。撮って来た写真をお送り致します。「今日の散歩は都立武蔵野公園まで」

  • 「老境になると懐かしいのは仙台一高」

    2012年に井の頭公園のそばのLaforteというレストランで仙台第一高等学校の同期会がありました。1954年卒業のかつての少年達が58年後に会って談笑したのです。いろいろな思い出が走馬灯のように廻ります。この同期会は東京近辺に住んでいる新制高校6回生の会なので六高会と言い、毎年春に開催します。今回は日本の旧制中学校の教育内容と雰囲気と新制高校について教育論的な視点から一文を記述したいと思います。まず始めに明治政府が旧制中学校を全国に配置した頃のことを書きます。維新後の廃藩置県で、明治政府は各県に県令(県知事)を派遣し、そしてすぐに数多くの尋常小学校を全国に作りました。暫くたって明治20年代になって全国の各県に4年間あるいは5年間の尋常中学校(旧制の中学校)を作りました。仙台第一高等学校は明治25年に出来...「老境になると懐かしいのは仙台一高」

  • 「老境になると懐かしいのは星野君と大友君」

    友人の思い出を書きたいと思います。我が友人、星野君と大友君のことです。星野君は大学の同級生でしたが2011年9月に急な病で旅立ってしまいました。大友君は高校と大学の同級生でした。大友君は2018年の秋に富士山に登り帰路行方不明になりました。まだ遺体は見つかっていません。この2人の友人と最後に遊んだのは2010年の10月28日でした。当時、私は霞ヶ浦でヨットを係留していました。そのヨットでこの2人と一緒にセイリングをしたのが最後になりました。その最後のセイリングの写真です。1番目の写真は当日のヨットと霞ヶ浦の風景です。ヨットが港を出ると、始めは風が穏やかでしたが、沖では物凄くなり、船が身を躍らせて走りまわりました。2番目の写真は強風で船が走るヨットを操船している2人です。左が大友君で右が星野君です。帰港のこ...「老境になると懐かしいのは星野君と大友君」

  • 「美しい樹木の姿を求めて旅をする」

    樹木の美しさを見ると心がやすまります。心が静まります。自分の愚かさに気がつきます。ですから私は樹木を愛しています。尊敬しています。幼いころからの樹木とのお付き合いを時々思い出しています。戦前、戦後に仙台の郊外に育った私は山林の中で一人遊びをしていました。雑木林を抜けると亭々と聳える赤松の林があり、何故かいつもトンビが舞っていたのです。その鳴き声が今でも耳に残っています。私は樹木に憧れ、樹木を友にし、樹木を尊敬していたのです。中年になって少し心の余裕が出来たころ、山林の中に小さな小屋を建てました。山梨県北杜市の甲斐駒岳の山麓に広がる深い、深い森の中です。どんなに深い森かを示すためにその小屋の窓から撮った森の写真を示します。1番目の写真は小屋の西側の生い茂っている赤松の写真です。冬になり雑木が落葉すると森の梢...「美しい樹木の姿を求めて旅をする」

  • 「広島のカトリック幟町教会のミサの風景」

    今日はインターネットを通うしてカトリック幟町教会のミサにあずかりました。そののミサの風景の写真をお送り致します。「広島のカトリック幟町教会のミサの風景」

  • 「2024年10月27日 年間第30主日ミサ」

    2024年10月27日年間第30主日ミサです。今日はインターネットを通うして広島のカトリック幟町教会のミサにあずかります。ミサの動画配信は下記です。https://www.youtube.com/watch?v=2G0_8cLrFDw第1朗読エレミヤ書31章7~9節第2朗読ヘブライ人への手紙5章1~6節福音朗読マルコによる福音書10章46~52節カトリック幟町教会〒730-0016広島県広島市中区幟町4−42添付のは写真はカトリック碑文谷教会です。「2024年10月27日年間第30主日ミサ」

  • 「宮城野の萩が美しく咲く季節です」

    宮城野の仙台で生まれ育った私の家の庭には萩の花がいっぱい咲いていました。大きくなって知ったのですが宮城野の萩は万葉集の時代から有名だったのです。 宮城野の萩のことを歌った万葉集の歌です。 高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに(高円の野辺の秋萩は虚しく咲いては散っていることだろうか見る人もいないので)笠金村(巻二―二三一) 秋風の末吹きなびく萩の花共にかざさず相か別れむ(秋風に吹かれてなびく萩の花を一緒に髪に挿すことなく別れていくのか)大伴家持(巻二十―四五一五) 源氏物語にもあります。宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ(宮中の涙をそそる風の音に若宮のことが偲ばれる)この宮城野の萩の写真をお送りいたします。写真の出典は、「宮城野の萩の花の写真」を検索して、インターネットの写...「宮城野の萩が美しく咲く季節です」

  • 「秋を代表する花々」

    秋を代表する花は何と言ってもコスモスです。それにキクです。その他は意見が分かれるでしょうが私はキンモクセイとガーベラにしたいと思います。この4つの花々の写真を順にお送りいたします。写真の出典は、https://www.i879.com/hanablog/flower/2015/10/16/3066/です。「秋を代表する花々」

  • 「国破れて山河在り」

    日本は1945年8月15日に敗れました。国中の都市は焼野原になりました。国民は呆然示としてなすすべを知りません。しかし美しい山河は変わらずあったのです。杜甫の漢詩国、破れて山河あり城春にして、草木深し時に感じては、花にも涙をそそぎ別れをうらんでは、鳥にも心を驚かす烽火三月につらなり家書万金にあたる白頭掻けば、さらに短くすべて、しんにたえざらんと欲っす写真の出典は、https://www.gltjp.com/ja/article/item/20321/です。1番目の写真は大分県中津市の「耶馬渓」です。2番目の写真は北海道の定山渓温泉の紅葉の風景です。3番目の写真は北海道の南西部にある支笏洞爺国立公園です。4番目の写真は愛知県の香嵐渓の紅葉です。「国破れて山河在り」

  • 「戦後の日本(3)戦後の激変の例、農地改革」

    敗戦国となった日本は、占領地から兵士を引き上げさせられ、日清戦争以降に得た植民地を失いました。また沖縄や小笠原諸島、奄美諸島はアメリカの統治下におかれ、北方領土はソ連の統治下となりました。国内は、空襲によって住宅や工場などが壊され、物価が急激に上昇し、多くの失業者が出ました。日本本土はアメリカを主とする連合国軍の占領下となり、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が置かれ、戦後改革が行なわれました。GHQは、日本の非軍事化を進め、軍や政府の指導者を戦争犯罪人として、極東国際軍事裁判で公職から追放しました。昭和天皇も、GHQによって1946年(昭和21年)に「人間宣言」を行ないました。GHQは、非軍事化と同時に民主化を進めました。治安維持法が廃止され、政治活動や言論の自由を保証し、選挙権を満20歳の男女に与え...「戦後の日本(3)戦後の激変の例、農地改革」

  • 「戦後の日本(2)体験した戦後の日本語の激変ぶり」

    太平洋戦争で日本は敗れました。そうしてアメリカの軍隊が全国の津々浦々を占領しました。このアメリカ軍の占領で日本の社会が激変しました。明治維新以来の軍国主義の社会が自由と平等が徹底した民主主義の社会に急変したのです。日本語も変わりました。日本人の職業や階級による言語の違いも無くなったのです。昭和11年生まれの私はこの激変をつぶさに見聞きし体験したのです。今日は戦後の日本語の激変について書きたいと思います。まず職業別の言葉の違いの一例を書きます。私の少年の頃の体験です。終戦前に交番の前を歩いていると巡査が「おいこら!」と大声で私を呼び止めます。退屈しているので少年の私と話をしたいのです。巡査は威張って交番から出て来て私にサーベルを見せるのです。そんなことが2,3回ありました。大人に対しても巡査は「おいこら」「...「戦後の日本(2)体験した戦後の日本語の激変ぶり」

  • 「戦後の日本(1)アメリカ占領軍による日本の大改革」

    昭和時代の一番大きな出来事は太平洋戦争で日本が徹底的に負け、全国がアメリカに占領されたことです。それは日本の歴史開闢以来の大事件でした。アメリカの連合国は東京にマッカーサー指揮による総司令部(GHQ)を設置して日本の根本的な改革を実行したのです。終戦後すぐに昭和天皇がマッカーサー総司令官に会いに行きしたました。1番目の写真は昭和天皇がマッカーサー総司令官に会いに行った時の写真です。昭和天皇は正装していますがマッカーサーは略装です。2番目の写真は1945年9月にミズリー号での降伏文書の調印式に出た日本側の代表です。先頭の重光外務大臣が調印しました。日本政府代表は横須賀沖に浮かぶ戦艦ミズーリの船上で、イギリス、オーストラリア、アメリカ、オランダ、中華民国、ソ連ら連合国との間で降伏文書に正式に調印したのです。ミ...「戦後の日本(1)アメリカ占領軍による日本の大改革」

  • 「今日の散歩は都立武蔵野公園まで」

    今日の散歩は都立武蔵野公園まででした。武蔵野公園は広々とした公園です。ブランコも滑り台もありません。何も無いのです。野川の水音だけが聞こえます。それが良いのです。静寂が支配してます。撮って来た写真をお送り致します。「今日の散歩は都立武蔵野公園まで」

  • 「日本の秋の風景」

    秋の風景は紅葉がはなやかですが、なぜか寂しいものです。そんな日本の秋の風景の写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。「日本の秋の風景」

  • 「戦争の記憶(7)1945年8月の敗戦」

    日本の歴史で徳川幕府の成立や明治維新は大きな歴史の転換でした。それらに匹敵する歴史の転換は1945年の日本の敗戦でした。軍国主義の国がいきなり民主主義の国になったのです。その時代はまさに激動の時代でした。戦前生まれの高齢者はみなこの激動の時代を体験しています。1945年の8月15日に終戦になりました。ですから夏が来ると思い出すのは日本の敗戦です。私は当時仙台市に住んでいて向山小学校の3年生でした。私が通よっていた向山小学校でも敗戦で急にいろいろな事が起きました。石で出来た立派な正門にかけてあたった「向山国民学校」の看板がすぐに「向山小学校」に変わりました。教科書はわら半紙に戦前の文章を印刷した紙の束でした。ちゃんと製本してませんでしてませんでした。そして戦前の軍国主義的な部分を墨で消したのです。墨で消す部...「戦争の記憶(7)1945年8月の敗戦」

  • 「午後の散歩は小金井公園まで」

    午後の散歩は小金井公園まででした。曇り日でした。晩秋の公園です。写真は今日の公園の風景です。「午後の散歩は小金井公園まで」

  • 「フィンランドのヘルシンキの紅葉の写真」

    フィンランドのヘルシンキの紅葉の写真をお送り致します。北欧の紅葉は鮮やかです。ヘルシンキの紅葉の写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。「フィンランドのヘルシンキの紅葉の写真」

  • 「戦争の記憶(5)悲惨な沖縄戦」

    日本人は79年前に終戦した太平洋戦争の悲惨さや残酷さを忘れるべきではありません。忘れないで平和が続くようにするのです。太平洋戦争の日本の兵士の戦死者は約230万人でした。他に空襲による死者と満州引け揚げの折の犠牲者が約100万人あったのです。1945年、日本はアメリカ連合軍に完膚無きまでに敗れました。日本を占領したマッカーサーは新聞の検閲と放送や出版物の徹底的な規制をしました。特にかつての日本の軍部の戦果は具体的に報道することを禁止し、日本軍は戦略の無い愚かな戦争をしたと宣伝したのです。そんなアメリカの占領軍の方針で戦争の実態は日本の新聞には一切発表させなかったのです。しかし特にアメリカ軍が上陸した沖縄では残酷な地上戦が行われ多数の民間人も犠牲になったのです。沖縄では、特攻の日本軍機による攻撃でアメリカ軍...「戦争の記憶(5)悲惨な沖縄戦」

  • 「戦争の記憶(4)インパール作戦の失敗」

    インパール作戦とは第二次世界大戦のビルマ戦線においてイギリス領インドのインパール市を占領しようとした作戦でした。1944年(昭和19年)3月に日本の陸軍が開始し7月初旬まで継続されました。しかしイギリス軍の抵抗が激しくインパール市を占領出来ませんでした。5月上旬時点での日本軍の参加兵力は第15軍の3個師団で計4万9600人、その他軍直轄部隊など3万6000人の総兵力約8万5000人でした。7月までの総兵力は、約9万人と見られる大規模な攻撃でした。第15師団の第60連隊は4月7日にはインパールの北15キロメートルのカングラトンビを攻略しインパールへの接近します。第51連隊も幹線道路が眼下に望める展望点に達し、第15師団の各部隊は全部隊が目標地点に進出しました。4月7日には決死隊を編成してインパールへの侵入を...「戦争の記憶(4)インパール作戦の失敗」

  • 「戦争の記憶(3)小原諸島の硫黄島の玉砕」

    戦争の記憶として忘れられないのは硫黄島の玉砕です。「硫黄島の戦い」とは一般に、米軍が上陸した太平洋戦争末期の1945年2月19日から、日本側守備隊が最後の総攻撃を行った3月26日までの36日間の地上戦です。1日も早く硫黄島の飛行場を占領して日本本土爆撃を進めたい米軍と、飛行場を死守して本土侵攻を阻止したい守備隊が激突した戦いでした。組織的戦闘が終わっても、守備隊側の生存兵の多くは投降せずに地下壕ごうに籠もったのです。川のない渇水の島で、死よりもつらい喉の渇きにもがきながら、次々と絶命した結果、守備隊2万3000人のうち2万2000人が死亡した激しい戦いでした。現在の硫黄島は日本復帰後も火山活動などによる自然条件が厳しいことから旧島民の帰島は実現せず、自衛隊及びその関係者だけが在島しています。なお硫黄島は他...「戦争の記憶(3)小原諸島の硫黄島の玉砕」

  • 「午後の散歩は都立武蔵野公園まで」

    今日は曇り日で空が暗く気分の悪い一日でした。それでも午後から都立武蔵野公園まで散歩に行って来ました。人が一人もいない静かな武蔵野公園でした。撮ってきた写真をお送り致します。「午後の散歩は都立武蔵野公園まで」

  • 「戦争の記憶(2)アッツ島守備隊の玉砕の悲劇」

    少年の頃に太平洋戦争が始まりました。その頃に次のように歌ってました。『さらばラバウルよー又来るまではーしばしわかれの涙がにじむ.・・・』あの頃のことを思い出しながら日本の運命を大きく変えた太平洋戦争について書きます。1941年12月8日の真珠湾攻撃と南アジアへの軍事侵略で日本軍は優勢に戦いを進め勝利しました。アジアはインドネシアから西のビルマまで占領してしまったのです。アメリカ領のフィリッピンを防衛していたマッカーサー司令官は、「Ishallreturn」と言ってオーストラリアへ退却しました。しかし日本軍の優勢は1942年の6月の「ミッドウェー海戦」まででした。1942年の4月、日本海軍はアメリカの海軍機動部隊を制圧するため機動部隊主力を投入しミッドウェー島攻略を決定します。その一方、直後のドーリットル空...「戦争の記憶(2)アッツ島守備隊の玉砕の悲劇」

  • 「戦争の記憶(1)真珠湾攻撃の光景」

    昭和11年に生まれ少年時代は日本の戦争の時代でした。その戦争の記憶を連載したいと思います。第一回目は真珠湾攻撃の光景です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/.../%E7%9C%9F%E7%8F%A0%E6%B9%BE...です。1番目の写真は雷撃を受け着底する戦艦カリフォルニアです。2番目の写真は転覆して艦底を見せるオクラホマ、その横はメリーランドです。3番目の写真は発艦直前の翔鶴の飛行甲板です。4番目の写真は赤城から発艦する零式艦上戦闘機です。「戦争の記憶(1)真珠湾攻撃の光景」

  • 「東京の裏庭の奥多摩の紅葉風景」

    自分の家から近いので奥多摩へは何度も行ったものです。奥多摩の紅葉は10月中旬~11月中旬が見頃です。秋から冬に向かう良い季節です。色とりどりの紅葉が成す絶景を楽しめます。詳しくは、https://aumo.jp/articles/54858をご覧ください。「東京の裏庭の奥多摩の紅葉風景」

  • 「我が故郷仙台の八木山吊り橋付近の紅葉」

    写真の出典は、https://jp.zekkeijapan.com/spot/index/1278/とhttps://www.photolibrary.jp/img743/29916_6200824.htmlです。「我が故郷仙台の八木山吊り橋付近の紅葉」

  • 「フィンランドの紅葉の写真」

    フィンランドの紅葉の写真をお送り致します。写真は「フィンランドの紅葉の写真」を検索してインターンットからお借りしました。「フィンランドの紅葉の写真」

  • 「上高地の紅葉の見頃」

    2024(令和6)年の上高地の紅葉の見頃は10月中旬と予想されています。その写真です。出典は、https://activityjapan.com/feature/kamikochi-autumn-leaves/です。「上高地の紅葉の見頃」

  • 「みちのくの秋」

    懐かしいのは東北地方の秋の風景です。1936年に生まれてから24歳まで東北地方に住んでいました。その秋の風景を検索して眺めていたら望郷の念が沸いてきました。そこで今日は懐かしい東北地方の秋の風景の写真をお送り致します。出典は、「ヒロシさんのブログ」(http://golf-562.com/index.php?FrontPage)です。それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りいたします。後藤和弘1番目の写真は秋の山形県のある農家の柿の木です。2番目の写真は仙台と山形を結ぶ二口峠の紅葉です。<3番目の写真は仙台のそばにある秋保大滝の紅葉です。4番目の写真は山形県のある農家の庭に咲いている秋の花です。「みちのくの秋」

  • 「スエーデンの紅葉と伝統的な家」

    昔スエーデンの秋に3ケ月だけ滞在しました。紅葉の林の中を何度も歩きました。懐かしいです。スエーデンの紅葉の写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。「スエーデンの紅葉と伝統的な家」

  • 「秋の晴天のした散歩は小金井公園まで」

    ここ数日は晴天つずきです。爽快な季節になりました。午後の散歩は小金井公園まででした。写真は小金井公園の中央広場です。「秋の晴天のした散歩は小金井公園まで」

  • 「北海道の紅葉の写真」

    北海道の紅葉の写真をお送り致します。 1番目の写真は美瑛町の湖です。青い池に黄金色の紅葉が幻想的に映り込んでいます。写真の出典は、トラベルjp旅行ガイド(travel.co.jp)」です。2番目の写真は青い池・白ひげの滝(上川郡美瑛町)です。写真の出典は、トラベルjp旅行ガイド(travel.co.jp)」です。3番目の写真は中島公園(札幌市)です。写真の出典は、2番目の写真と同じです。4番目の写真は定山渓温泉(札幌)です。写真の出典は、2番目の写真と同じです。   「北海道の紅葉の写真」

  • 「関 健造 作の油彩画、『奥入瀬』」

    懐かしい日本の原風景を描いた関健造の油彩画をみて今日も秋の秘が過ぎて行きます。今日は関健造の油彩画をお送り致します。は1948年岐阜に生まれました。そして岐阜県で活躍しました。県展入選、行動展出品、岐阜にてグループ展、岐阜にて個展、以後数回、などです。関健造の油彩画は静かな秋の秘に見ると感慨が深いと思います。関健造の油彩画の写真をお送り致します。1番目の写真は関健造の『秋の奥入瀬渓流』です。2番目の写真は関健造の上高地です。3番目の写真は関健造の晩秋の風景画です。4番目の写真は関健造の晩秋の岐阜の風景画です。その他の関健三の油彩画の一覧は下記に出ています。https://auctions.yahoo.co.jp/search/search/%E9%96%A2%20%E5%81%A5%E9%80%A0/0/...「関健造作の油彩画、『奥入瀬』」

  • 「午後の散歩は都立武蔵野公園まで」

    午後の散歩は都立武蔵野公園まででしたが晴天で爽快でした。「午後の散歩は都立武蔵野公園まで」

  • 「今日は日曜日、カトリック教会の総本山、バチカンの写真」

    今日は日曜日なのでカトリック教会の総本山、バチカンの写真をお送り致します。写真はインターネットからお借りしました。「今日は日曜日、カトリック教会の総本山、バチカンの写真」

  • 「2024年10月20日 年間第29主日ミサ」

    2024年10月20日年間第29主日ミサです。今日はインターネットを通うして東京の「カトリック松原教会」のミサにあずかります。写真は今日のミサの風景です。ミサの動画配信は下記です。https://www.youtube.com/watch?v=x2oyG-iw6oE...〒156-0043東京都世田谷区松原2丁目28番5号TEL.03-3321-0941FAX.03-3321-0009matsubara-church@gray.plala.or.jp「2024年10月20日年間第29主日ミサ」

  • 「秋になると思い出す北海道、松浦武四郎のこと」

    秋の北海道は素晴らしい景観を見せてくれます。ヨーロッパのようなエキゾチックな風景が魅力的です。ロマンチックです。自然には太古のままのような雰囲気もがあります。特に秋の北海道は、やがて来る厳しい冬の予感も与えています。もう15回くらいも家内と二人で訪れました。今日は朝から秋の晴天です。つい北海道の風景を思い出しました。そこで2015年に知床のウトロに泊まり羅臼や道東に旅した時の写真をお送りします。1番目の写真は知床五湖の第一湖です。駐車場から高く作った立派な木道があり、一湖を見下ろす展望台まで歩いて行けるのです。背景の山並みは知床連山です。天候が変わりやすく冬が近い感じです。2番目の写真は知床五湖の近辺にいたエゾシカの親子です。エゾシカは沢山見ました。キタキツネも数多くいました。3目の写真は新得町狩勝高原の...「秋になると思い出す北海道、松浦武四郎のこと」

  • 「秋の山並みの写真」

    山梨県にある私の山林の中の小屋に近い山並みの写真をお送り致しす。上段の写真は甲斐駒ケ岳、下段左端も同じ、下段中央は金峰山、右端は八ヶ岳、最下段左端は大武川の河原のススキ、真ん中は地蔵岳、右端は八ヶ岳です。(終わり)撮影場所:山梨県北杜市武川町柳沢より、撮影日時:2008年10月28日午前11時頃「秋の山並みの写真」

  • 「今日の散歩は都立小金井公園の森の中をを歩く」

    今日は曇り日でしたが散歩は都立小金井公園の森の中を歩きました。「今日の散歩は都立小金井公園の森の中をを歩く」

  • 「ドイツの草原にはススキもパンパスグラスも無かった」

    植物は国によって違うようです。ドイツの草原にはススキもパンパスグラスも見ませんでした。その代わり大麦畑が広がっています。その写真をお送り致します。出典は、https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%BA%A6%E7%95%91%E3%81%AE%E5%AF%AB%E7%9C%9Eです。「ドイツの草原にはススキもパンパスグラスも無かった」

  • 「欧米にはススキは無い、その代わりパンパスグラスがある」

    ススキはアジアの植物でアメリカにはありませんでした。その代わりパンパスグラスがあります。パンパスグラスの原産地はブラジル、アルゼンチン、チリなどの南米大陸の草原(パンパス)です。各国で観賞用に栽培され、日本には明治時代に入ってきました。パンパスグラスは神代植物公園にあります。神代植物公園にあるパンパスグラスの写真をお送り致します。写真の出典は、https://newscast.jp/news/9910906です。「欧米にはススキは無い、その代わりパンパスグラスがある」

  • 「秋深く、いろいろなススキの思い出」

    秋の深まってきました。涼しくなり、夜に澄んだ虫の声を聞くと昔のことがいろいろ想い出されます。昔の野原で見た秋の七草の花々を想う人もいるでしょう。中秋の名月の折りに家族で縁側から月見をしたことを思い出す人もいるでしょう。ススキを沢山花瓶に入れ、団子などを供えた光景を思い浮かべる人も多いと思います。そして昔は野原がいっぱいありました。その原っぱには必ずのようにススキの穂が秋風に揺れていました。月見の縁側で使うススキを野原から採ってくるのは子供の仕事でした。ススキは鎌がないと採れません。茎に筋が入っていて手で折っただけでは取れないのです。刃物で筋を切らないと取れません。その上葉の縁が鋭くてうっかりすると指の皮膚を傷付けてしまいます。子供にとってはススキ採りは危険なだけにかえって面白く、印象深い仕事だったのです。...「秋深く、いろいろなススキの思い出」

  • 「樹木の写真を撮りに行った」

    昔から私は樹木を見るのが好きでした。花畑を見るように楽しいのです。楽しいだけでなく何故か感動するのです。今日も小金井公園で樹木を眺めて来ました。「樹木の写真を撮りに行った」

  • 「かつて遊んだグリンデルワルトの黄葉風景」

    10月の半ばから11月にかけて、スイスアルプスも秋の彩で艶やかになります。写真の出典は、https://funswiss.co.jp/archives/4824/です。「かつて遊んだグリンデルワルトの黄葉風景」

  • 「富士五湖の紅葉の風景」

    富士五湖とは富士山のカルデラ湖で東から順に山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖と富士山を囲んでいます。標高が高い所なので紅葉が鮮明に色づきます。ここに示した5枚の写真は山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖の紅葉の写真をそれぞれに検索してインターネットからお借りいたしました。1番目の写真は山中湖の紅葉風景です。2番目の写真は河口湖の紅葉風景です。3番目の写真は西湖の紅葉風景です。西湖だけ湖畔から富士山が見えないので「西湖いやしの里」の紅葉の写真をお送り致します。4番目の写真は精進湖の紅葉風景です。5番目の写真は本栖湖の紅葉風景です。「富士五湖の紅葉の風景」

  • 我が第二の故郷の甲斐駒岳山麓の紅葉

    山梨県の北杜市は我が第二の故郷です。甲斐駒岳と八ヶ岳の麓に広がる高原の村々が合併して北杜市になりました。その山林の中に1974年に小屋を作り45年間も通っています。現地の人々とも仲良くなり故郷へ里帰りするように足繁く行ってます。小屋の周囲には猿や鹿や猪が沢山棲んでいます。毎年11月になると紅葉が美しくなります。今日は甲斐駒岳とその麓の紅葉の写真をお送りします。1番目の写真は甲斐駒岳の頂上の紅葉です。写真の出典は、https://www.travel.co.jp/guide/article/39898/#photo6です。2番目の写真は甲斐駒岳の麓に広がる雑木林の中の小屋へ登って行く道です。細い砂利道を2Km位根気良く上がっていくと私の小屋に着きます。初夏にはハルゼミが、そして盛夏にはヒグラシ蝉などの幻想的...我が第二の故郷の甲斐駒岳山麓の紅葉

  • 「平和な公園を散歩しながら戦争の時代を思い出す」

    昨日はのどかな小金井公園を散歩しました。四季折々に散歩します。その写真を示します。1番目の写真は去年の秋に撮った小金井公園です。空が秋特有のウロコ雲になっていました。こんな風景の公園を散歩していながら私は日本の戦争の時代を思い出すのです。少年の頃の戦争の時代です。強烈な思い出です。昭和11年に私は仙台で生まれました。日本の敗戦までは満州事変、日中戦争、太平洋戦争と続く戦争の時代でした。私が通った小学校の教室には昭和天皇と皇后のお写真が飾ってありました。以下は日本の敗戦までいたる昭和時代に起きた種々の事件をまとめて示したものです。(1)昭和の戦前期1927年(昭和2年)昭和金融恐慌、東方会議、山東出兵、南京事件1928年(昭和3年)済南事件、張作霖爆殺事件。1931年(昭和6年)柳条湖事件、満州事変。193...「平和な公園を散歩しながら戦争の時代を思い出す」

  • 「今日は武蔵野公園まで散歩しました」

    今日は武蔵野公園まで散歩しました。セイダカアワダチソウが満開でした。「今日は武蔵野公園まで散歩しました」

  • 「ベトナムの宗教的な建物の写真」

    ベトナムの宗教はフランス領だった歴史でカトリックが信じられています。仏教も儒教もあります。しかし宗教を信じない人が多数派です。教会、お寺、儒教寺院、夜の祠の写真を示します。写真の出典は、https://4travel.jp/overseas/area/asia/vietnam/templesです。「ベトナムの宗教的な建物の写真」

  • 「ベトナムのダナンに溢れる南国の花たち」

    ベトナムのダナンの街中に溢れる南国の花たちです。写真の出典は、https://danang.style/tourism/290です。写真は全てインターンットからお借りしました。なお在日ベトナム人は増加傾向にあり、2020年末には44万8000人となり、日本の外国人では韓国を抜き、中国に次いで2番目に多いのです。1番目の写真は白、オレンジ、ショッキングピンクのブーゲンビリアです。2番目の写真は南国を代表する花、プルメリアです。色は、白、ピンク、濃いめのピンク、などがありますがダントツで写真のような白と黄色の組み合わせのプルメリアが栽培されています。3番目の写真は寺院の鉢上や家の鉢植えに咲いている色鮮やかな綺麗なアデニウムの花です。4番目の写真は房状に大きな紫の花をつけるオオバナサルスベリです。名前の通り大き...「ベトナムのダナンに溢れる南国の花たち」

  • 「ベトナムの独立のため戦った残留日本兵の話など」

    現在のベトナム、カンボジア、ラオス地域には大きな戦争が2度ありました。1946年から1954年のベトナムとフランスの間のベトナム独立戦争と1964年から1973年の主にアメリカ軍と戦ったベトナム戦争です。この2つの戦争でベトナムはインドシナ半島からフランスとアメリカを完全に駆逐したのです。今日はベトナム独立戦争におけるホーチミンとベトナム独立軍と共にフランスと戦った残留日本兵にまつわる話を書きたいと思います。ベトナムは戦後、終始一貫して日本を尊敬し友好的な国だったのです。現在も熱烈な友好国のベトナムには数多くの日本企業が展開しています。この友好の原因は戦後、ベトナム独立のためのフランス軍との戦争のときに多くの残留日本兵がベトナム軍に義勇兵とした参加したからです。ベトナム独立運動はホーチミンが主導しました。...「ベトナムの独立のため戦った残留日本兵の話など」

  • 「大規模な戦争だったベトナム戦争」

    ベトナム戦争は1964年から1975まで続いた大規模な戦争でした。日本は直接戦争に巻き込まれませんでしたがアメリカの攻撃機が日本から飛び立ち日本社会も騒然としていました。「ベ平連」のベトナムの平和のデモが繰り返してあり社会が深い影響を受けていました。今日はこのベトナム戦争のことを書きたいと思います。ベトナム戦争は当時南北に分断されていたベトナムで北ベトナムと資本主義陣営の南ベトナムとの間で勃発した戦争でした。冷戦中に起こったアメリカ合衆国とソビエト連邦の代理戦争です。ベトナム南北両国は建国当初より対立関係にあり、南ベトナム国内では北ベトナムに支援された南ベトナム解放民族戦線が活動して軍や警察などと衝突していました。南ベトナムの同盟国であるアメリカは軍事顧問を送り込むなどして以前より南ベトナムを援助していま...「大規模な戦争だったベトナム戦争」

  • 「現在の朝鮮半島の分断の原因の朝鮮動乱」

    現在、朝鮮半島は北朝鮮と韓国に分断されています。その原因は終戦後に起きた朝鮮戦争です。朝鮮戦争のことは昔は朝鮮動乱と言っていました。この朝鮮半島の分断は現在のアジアの軍事バランスに深い影響を与えています。日本の平和にも脅威になっています。今日は朝鮮動乱すなはち朝鮮戦争について書きたいと思います。朝鮮戦争は大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間の戦争でした。朝鮮半島の主権を巡る大規模な国際紛争でした。1950年6月にソ連のスターリンと中国の毛沢東の同意と支援を取り付けた金日成率いる北朝鮮が国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略戦争を仕掛け、勃発したのです。分断国家の北朝鮮と韓国のみならず、東西冷戦の中で西側諸国を中心とした国連軍と東側諸国の支援を受ける中国人民志願軍が交戦勢力として参戦...「現在の朝鮮半島の分断の原因の朝鮮動乱」

  • 「ロシア軍による満州の悲劇とシベリア抑留」

    今日は「ロシア軍による満州の悲劇とシベリア抑留」について書いてみたいと思います。満州事変と満州建国、敗戦、シベリア抑留、引揚にまつわる悲劇の一つです。終戦の前に、満州には155万人の日本人が住んでいました。1931年(昭和6年)満州の瀋陽市郊外で関東軍が起こした鉄道爆破事件、すなわち柳条湖(溝)事件が満州事変の発端になりました。関東軍は短期間で満州全土を占領します。そして満州帝国という国を建国したのです。日本の意のままになる傀儡国家です。その上、満洲国皇帝として清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀を就任させたのです。しかし1945年の8月の終戦の前にソ連軍の大部隊が満州に侵入し満州全土を完全に占領してしまったのです。8月19日に旧満洲国政府要人による東北地方暫時治安維持委員会が組織されたが、8月24日にソ連軍の指...「ロシア軍による満州の悲劇とシベリア抑留」

  • 「ロシアによる日本漁船の1,364隻以上の拿捕」

    漁船の被拿捕状況、https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1972/s47-2-1-6.htm北方水域におけるソ連官憲による本邦漁船の拿捕抑留事件は,依然として頻発しており,1946年より1972年1月31日まで,ソ連側に抑留された漁船の総数は1,364隻を数え,抑留漁船員の総数は11,592名に達した。その間ソ連側から返還された船舶は845隻,乗組員は11,560名,拿捕の際または引取りの途中で沈没した船舶は22隻,死亡した者は32名である。なお,1971年度中における本邦漁船の拿捕件数は28隻,276名であつた。その内22隻が帰還した。また,漁夫に関しては,45年度より残存した8名を含む合計284名が帰還した。ロシアによる日本漁船の拿捕の写真を示します。...「ロシアによる日本漁船の1,364隻以上の拿捕」

  • 「ロシアと日本の大規模な戦争、ノモハン事件」

    日露戦争以来、日本とロシアは軍事衝突を繰り返してきた。中でも、戦車や戦闘機などの近代兵器が衝突したのは、1939(昭和14)年の「ノモンハン事件」が最初であった。今日はこの「ノモンハン事件」について書きたいと思います。第1次と第2次に分かれるノモンハン事件は、1932年、昭和7年に建国された満州国で、日本とソ連の大規模な武力衝突に発展した戦争であった。日露戦争以来、四半世紀ぶりの日露軍事衝突でした。最終的に、ソ連が主張する国境線を確保したことで、ノモンハン事件は「ソ連軍の勝利・日本軍の敗北」という評価が一般的です。この戦いで日本軍は、戦死傷者1万7364人(戦死7696人・戦傷8647人・行方不明1021人)を出したほか、戦車29両と装甲車7両を損失した。一方、ソ連軍の戦死傷者は2万5655人(戦死970...「ロシアと日本の大規模な戦争、ノモハン事件」

  • 「蒸気機関車の写真を撮りに行きました」

    昭和21年に製造され昭和47年まで北海道を走っていたC57型の蒸気機関車です。小金井公園に展示してあります。戦前、戦後の頃に仙台から上野駅までこんな蒸気機関車に牽引された列車によく乗ったものです。当時の東海道本線の特急燕つばめ号は流線形の電気機関車でした。兵庫県の父の実家のお寺への旅で何度も乗ったものです。蒸気機関車は懐かしいものです。「蒸気機関車の写真を撮りに行きました」

  • 「ロシアの怨念、日本の4年間のシベリア出兵」

    ロシアの日本に対する怨念の原因はいろいろありますが、今日は怨念の原因として、日本の4年間にわたるシベリア出兵のことを書きたいと思います。ロシア側のある資料では、ロシア側の死傷者8万人、6億ルーブル以上のロシアの被害とされています。これはロシアの日本に対する怨念の大きな原因の一つです。この戦争での日本軍の戦死者は3~4千人でしたが、零下30度という極寒の地で凍傷となった死傷者が1万人に達したのです。戦費は10億円を越えました。シベリア出兵は大正期のロシア革命に対する干渉です。干渉戦争です。日本は他の欧米諸国とともにロシアの共産党の軍隊をせん滅するために出兵したのです。世界が共産化するのを防ぐために出兵したのです。1917年(大正6)、ロシア十月革命が起こると、すぐに12月に連合国最高軍事会議に革命政権を軍事...「ロシアの怨念、日本の4年間のシベリア出兵」

  • 「日露戦争の勝利が日本に戦争の利益を教えた」

    日露戦争で日本が勝利しました。この勝利は日本の領土を拡し樺太南部と満州が日本のものになりました。日露戦争の勝利が日本に戦争の利益を教えたのです。日本は日中戦争や太平洋戦争を戦い最終的には1945年8月15日の完全敗北をえたのです。日本は戦争放棄を宣言し平和な時代になったのです。今日は日本の戦争の時代に駆り立てた日露戦争についいて書きたいと思います。さて日露戦争は日英同盟を結んでから2年後の1904年2月に始まりました。明治37年でした。日本が宣戦を布告し、「日露戦争」が始まりました。日本はロシアの重要拠点である旅順を攻めます。日本軍は苦戦を重ね、多大な犠牲者を出しながらも、1905年、旅順を陥落します。続いて、ロシア軍主力がいる南満州・奉天(ほうてん)で日露両軍が激突し、激しい戦いを繰り広げ、日本軍がロシ...「日露戦争の勝利が日本に戦争の利益を教えた」

  • 「今日の散歩は都立武蔵野公園まで」

    今日の散歩は都立武蔵野公園まででした。爽快な秋晴れです。散歩は都立武蔵野公園まで行って来ました。「今日の散歩は都立武蔵野公園まで」

  • 「日曜日になると思い出す塚本金明神父とヨゼフ・ムニ神父」

    曜日はインターネットを通してミサにあずかります。そして塚本金明神父さまとヨゼフ・ムニ神父さまを思い出します。府中市にあるカトリック墓地にある2人のお墓を思い出します。私ども夫婦は1971年に塚本神父様から洗礼を受けたのです。1954年から1976年までカトリック立川教会の初代主任司祭をされた方です。1番目の写真は1954年頃のカトリック立川教会幼稚園児に囲まれた塚本金明神父さまです。一方、ムニ神父さまは1975年から1993年までカトリック小金井教会の初代主任司祭をされた方で、私どもは1975年から1988年までの13年間大変お世話になった神父さまでした。お世話になった2人の神父さまのお墓の写真を示します。2番目の写真は塚本神父様のお墓です。府中市にあるカトリック東京大司教区の神父様たちのお墓です。数十名...「日曜日になると思い出す塚本金明神父とヨゼフ・ムニ神父」

  • 「日曜日になると思い出す塚本金明神父とヨゼフ・ムニ神父」

    日曜日はインターネットを通してミサにあずかります。そして塚本金明神父さまとヨゼフ・ムニ神父さまを思い出します。府中市にあるカトリック墓地にある2人のお墓を思い出します。私ども夫婦は1971年に塚本神父様から洗礼を受けたのです。1954年から1976年までカトリック立川教会の初代主任司祭をされた方です。1番目の写真は1954年頃のカトリック立川教会幼稚園児に囲まれた塚本金明神父さまです。一方、ムニ神父さまは1975年から1993年までカトリック小金井教会の初代主任司祭をされた方で、私どもは1975年から1988年までの13年間大変お世話になった神父さまでした。お世話になった2人の神父さまのお墓の写真を示します。2番目の写真は塚本神父様のお墓です。府中市にあるカトリック東京大司教区の神父様たちのお墓です。数十...「日曜日になると思い出す塚本金明神父とヨゼフ・ムニ神父」

  • 「東京のカトリック松原教会の年間第28主日のミサ」

    今日はインターネットを通うして東京の「カトリック松原教会」のミサにあずかります。写真は今日のミサの風景です。ミサの動画配信は下記です。https://www.youtube.com/watch?v=J0L4TJR_xfQ...〒156-0043東京都世田谷区松原2丁目28番5号TEL.03-3321-0941FAX.03-3321-0009matsubara-church@gray.plala.or.jp「東京のカトリック松原教会の年間第28主日のミサ」

  • 「秋の青空の下にコスモスの咲く風景」

    秋の青空の下にコスモスの咲く風景です。小金井公園に広いコスモス畑があります。散歩しながら花の写真を撮って来ました。 「コスモスの花」与謝野晶子少し冷たく、匂(にほ)はしく清く、はかなく、たよたよとコスモスの花、高く咲く秋の心を知る花かうすももいろに、高く咲く「秋の青空の下にコスモスの咲く風景」

  • 「今日も秋晴れの気持ちの良い日」

    今年もついに本当の秋が来ました。今日も秋晴れの気持ちの良い日です。毎年秋になると次のような詩を思います。『秋の祈り』高村光太郎秋は喨喨と空に鳴り空は水色、鳥が飛び魂いななき清浄の水こころに流れこころ眼をあけ童子となる多端粉雑の過去は眼の前に横はり血脈をわれに送る秋の日を浴びてわれは静かにありとある此を見る地中の営みをみづから祝福しわが一生の道程を胸せまつて思ひながめ奮然としていのるいのる言葉を知らず涙いでて光にうたれ木の葉の散りしくを見獣のキキとして奔るを見飛ぶ雲と風に吹かれるを庭前の草とを見かくの如き因果歴歴の律を見てこころは強い恩愛を感じ又止みがたい責めを思ひ堪へがたくよろこびとさびしさとおそろしさとに跪くいのる言葉を知らずただわれは空を仰いでいのる空は水色秋は喨喨と空に鳴る以前に秋空の風景を写真に撮...「今日も秋晴れの気持ちの良い日」

  • 「今日も巨木に会いに行きました」

    今日も巨木に会いに行きました。l昨日は都立武蔵野公園の巨木の写真を撮って来ましたが今日は小金井公園の巨木に会いに行きました。巨木の写真をお送り致します。「今日も巨木に会いに行きました」

  • 「秋の歓喜、美しい空と紅葉、黄葉の風景」

    秋は歓喜の季節です。澄んだ高い空に白い雲が美しい模様を描いてくれます。空気も程よく乾燥して爽やかな風が頬を撫でて行きます。蒸し暑くて耐えられなかった長い夏を辛抱した後で、このような爽快な日々が来るのです。歓喜です。その上樹々の葉が黄色や赤く変わって野山を飾ります。昔は紅葉した庭の落ち葉を集めて落ち葉焚きをしたものです。そのかぐわしい煙の匂いが懐かしいです。今日は以前に撮った秋の空と紅葉の写真をお送りします。ここ東京近辺では10月中はまだ紅葉になっていません。紅葉が待遠しい風景です。1番目の写真は山梨県の甲斐駒岳の山麓の秋の色です。2番目の写真も同じです。褐色に近い秋の色も美しいものです。3番目の写真はの私の山の小屋に登って行く道の風景です。黄葉した樹々が道を明るくしています。4番目の写真は小屋の周囲の林の...「秋の歓喜、美しい空と紅葉、黄葉の風景」

  • 「懐かしい昭和初期の建物の風景」

    我が町、小金井市には懐かしい昭和初期の建物をたくさん復元して展示している野外展示があります。江戸東京たてもの園です。時々、展示場に入り昭和時代を懐かしみます。昨日も行ってきました。今日は江戸東京たてもの園に復元、展示してある建物を幾つかご紹介いたしたいと存じます。1番目の写真は奄美の高倉です。奄美大島にあった高床式の倉庫です。湿気や鼠の害から穀物を守るために、建物本体を地面から高く上げています。このような高床式の建物は、東京都の八丈島などにも見られます。2番目の写真は丸二商店(荒物屋)です。昭和初期に建てられた荒物屋です。小さい銅板片を巧みに組み合わせて模様をかたち作り、建物の正面を飾っているのが特徴です3番目の写真は小寺醤油店です。大正期から、現在の港区白金で営業していた商店です。味噌や醤油、酒類を売っ...「懐かしい昭和初期の建物の風景」

  • 「今日の散歩は都立武蔵野公園まで」

    秋晴れの一日でした。散歩は都立武蔵野公園までです。樹々の写真をお送り致します。「今日の散歩は都立武蔵野公園まで」

  • 「秋の海の風景」

    秋の海の風景の写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。「秋の海の風景」

  • 「蓮田と霞ヶ浦の白帆漁の思い出」

    蓮田と言えば以前にヨットをしていた霞ヶ浦の周辺にたくさんありました。当時撮った蓮田の写真をお送り致します。自分のヨットの上から撮った白い帆の写真をお送りいたします。3番目の写真は茨城県知事賞の最優秀賞を受けた平堅次の写真です。https://www.kasumigaura-kankou.jp/page/page000492.html下の3枚の写真は家内が撮りました。そしてついでに私が乗っていたヨットの写真を示します。この写真は私が独りでヒールしながら帆走している光景です。妻が岸壁から撮りました。この写真は私のヨットを後から撮った写真です。さて白い帆で魚を獲る方法をご説明いたします。幅の広い大きな網を横向きにした船の長さいっぱいに水中へ入れ、巨大な白帆で横向きの船をゆっくり引いて行きます。数キロメートルも引...「蓮田と霞ヶ浦の白帆漁の思い出」

  • 「秋にまつわる漢詩を二つお送り致します」

    秋も深まってきました。いろいろなことを思います.。高校時代習った漢文の授業を思い出しました。そこで今日は秋にまつわる漢詩を二つお送り致します。日本人が本格的に漢文に親しむようになったのは、1400年前の聖徳太子の時代からです。漢文はいわゆる漢字文化圏内の共通の書きことばでした。今朝から幾つかの漢詩を読んで楽しんでいます。「漢詩」名詩選です。(https://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/etc/kansi/meisi.html)その中から秋にまつわる漢詩を二つお送り致します。秋風引劉禹錫何處秋風至何(いづ)れの處よりか秋風至る(どこからか秋風が吹いてきた)蕭蕭送雁群蕭蕭(せうせう)として雁群を送る(ぴゅうぴゅうといって雁の群れを送ってきた)朝來入庭樹朝来庭樹に入り(朝が...「秋にまつわる漢詩を二つお送り致します」

  • 「富士山の紅葉の風景」

    富士山の紅葉の風景の写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.fuji-net.co.jp/report/cat-tourism-event/6759/です。「富士山の紅葉の風景」

  • 「スエーデンの紅葉の風景」

    ・・・森林に恵まれた国だけに、秋ともなると自然が衣替えした様に紅葉に染まってしまいます。夏頃までは緑の葉っぱで覆われていた森林が、一瞬にして印象派のゴッホが自然を塗りつぶした様に、黄色、橙、赤にと染まってしまい感動せずにはいられません・・・工藤信彰のブログから抜粋しました。詳しくは、https://www.ringodaigaku.com/play/hokuou/hokuou020.htmlをご覧ください。「スエーデンの紅葉の風景」

  • 「人がいなくて寂しい曇り日の小金井公園」

    人がいなくて寂しい曇り日の小金井公園です。寒いくらいの曇り日です。人が一人もいません。寂しい曇り日の小金井公園でした。「人がいなくて寂しい曇り日の小金井公園」

  • 「心にある懐かしい風景」

    心にある懐かしい風景とは何でしょうか。私は昔のおもかげを残す町の風景が好きです。そんな風景をインターンットでいろいろ見ては楽しんでいます。その中から世界遺産の石見銀山のそばにある小さな町の風景写真をお送り致します。島根県の大田市大森町の風景です。写真の出典は、https://www.kankou-shimane.com/pickup/3267.htmlです。1番目の写真は島根県の大田市大森町の風景です。「大森の町並み」地区は、江戸時代の武家屋敷や代官所跡、石見銀山で栄えた豪商・熊谷家住宅など、歴史的な建造物や文化財が当時の面影を今も残しています。2番目の写真は城上神社です。大森の氏神様を祀る神社で、祭神は大物主命(大国主命)です。永享6年(1434)に大内氏によって仁摩町馬路の高山から大森町愛宕山に遷座さ...「心にある懐かしい風景」

  • 「韓国にも数多くの温泉がある」

    韓国にも数多くの温泉があります。詳細は、https://4travel.jp/overseas/area/asia/korea/hot-springをご覧ください。写真は山房山炭酸温泉のある済州島の山房山です。「韓国にも数多くの温泉がある」

  • 「ドイツに数多くの温泉」

    ドイツは、日本などとも並ぶ温泉大国の一つです。天然温泉が噴出する温泉地では保養文化が根付いているのに加え、ドイツ独自のサウナや飲泉の文化など、さまざまな形で温泉を楽しむことができます。私も以前ドイツに住んでいた時はバーデンバーデンの温泉に何回か入浴しました。詳細は、http://www.newsdigest.de/newsde/features/13438-therme/をご覧ください。写真はニーダーザクセン州のバート・べーフェンセンの温泉です。バート・べーフェンセンの温泉の泉質は、日本の温泉に多い塩化物泉です。これはリュウマチや関節痛、筋肉痛などの症状を和らげる効果があります。「ドイツに数多くの温泉」

  • 「秘湯の酸ヶ湯温泉、峩々温泉、作並温泉、鳴子温泉の紅葉」

    私は幼少の頃からいろいろな温泉に行きました。仙台を中心にして作並温泉、秋保温泉、鳴子温泉、青根温泉、峩々温泉、遠刈田温泉、飯坂温泉、山形県の高湯温泉、上山温泉などに何度も行きました。戦前、戦後の温泉宿は質素でした。ただし湯舟には各地独特の泉質の湯が溢れ流れてました。そんな昔の温泉の光景が懐かしいです。そこでインターネットでいろいろ調べましたら昔の侘しい温泉の写真を見つけました。それは「日本秘湯を守る会」のHP(https://www.hitou.or.jp/)です。今日は秘湯の酸ヶ湯温泉の紅葉の写真をお送り致します。酸ヶ湯温泉は懐かしい曾遊の地です。東北の山奥にある実にひなびた温泉場です。近所の農民が湯治に来る素朴な宿があるだけです写真の出典は、https://amanaimages.com/info/i...「秘湯の酸ヶ湯温泉、峩々温泉、作並温泉、鳴子温泉の紅葉」

  • 「源平合戦の平家の落人集落、定義温泉と湯西川温泉」

    源平合戦とは平安時代末期、1180年(治承4年)に起こった平氏政権に対する源氏の戦いでした。平清盛などの平家政権に不満だった源氏が源頼朝を中心として平家を討ち、鎌倉幕府を樹立したのです。日本の歴史を振り返っても最大規模の内戦でした。その事実は一番目の写真で示した全国に広がる平家の落人部落の分布を見れば一目瞭然です。1番目の写真は全国に広がる平家の落人部落の一覧表です。この表の出典は、https://www.enysi.com/media/shizuka-005/です。この一覧表の一番上に定義温泉があり8番目に関東地方の湯西川温泉があります。定義温泉は仙台市の西です。湯西川温泉は日光の奥の秘境です。今日は定義温泉と湯西川温泉を少し詳しくご紹致します。まず湯西川温泉から始めます。その湯西川温泉には「平家の里」...「源平合戦の平家の落人集落、定義温泉と湯西川温泉」

  • 「アメリカの紅葉の風景」

    アメリカの紅葉の風景です。写真の出典は、https://www.gousa.jp/experience/5-great-places-us-see-fall-foliageです。1番目の写真はデビー・ヒルのコンウェイ観光鉄道です。2番目の写真はニューメキシコ州エンチャンテッドのサークルバイウェイです。3番目の写真はカリフォルニア州の東シエラです。4番目の写真はモンタナ州のグレイシャー国立公園です。「アメリカの紅葉の風景」

  • 「箱根の紅葉の風景」

    秋になりましたが紅葉の季節はまだです。関東地方の紅葉の名所はいろいろ沢山ありますが箱根もその一つです。箱根には旧東海道の杉並木や復元された関所の建物もあります。芸術的な彫刻の森もあります。ルネ・ラリック美術館やガラスの森美術館やポーラ美術館もあります。仙石原には湿生植物園もあります。箱根へは昔から何度も遊びに行きました。11月の紅葉の頃が一番素晴らしいと思います。そこでそんな風景写真をお送りします。写真の出典は、https://travel.rakuten.co.jp/mytrip/trend/kouyou-hakone/です。1番目の写真は芦ノ湖スカイラインから見た富士山の遠景です。2番目の写真は芦ノ湖箱根町から見た富士山の遠景です。3番目の写真は箱根ロープウェイで「桃源台駅」を下りるとすぐの湖尻園地で...「箱根の紅葉の風景」

  • 「京都、大原の三千院 、 実光院 、宝泉院の紅葉」

    京都、大原の三千院、実光院、宝泉院の紅葉です。はじめの2枚が三千院で、続く2枚は実光院と宝泉院の客殿から見た庭の紅葉です。写真の出典は、https://fuwaryto.com/travel/kinki/kyoto/201711-sanzenin-temple/です。「京都、大原の三千院、実光院、宝泉院の紅葉」

  • 「秋に美味しい食べ物、そして栗にまつわる少年の頃の思い出」

    秋になると食欲が出てきます。いろいろな食べ物も美味しくなります。今日は秋に美味しい食べ物の写真を示し栗にまつわる少年の頃の思い出を書きたいと思います。秋に美味しい食べ物の写真の出典は、https://mama.chintaistyle.jp/article/autumn-ingredients/です。さて栗にまつわる少年の頃の思い出です。栗は写真で示したように不思議なかたちをしています。少年の好奇心を刺激します。家があった仙台の八木山の山林の中にも野生の栗の木がありました。竿を担いでとりに行きます。イガのついた栗の実を竿で沢山落とします。イがを剥きます。ところが中の栗の実は小さく痩せています。食べるには痩せ過ぎています。野生の栗は食べれないのです。大変ガッカリしました。ところが学校に行く通学路の途中の家か...「秋に美味しい食べ物、そして栗にまつわる少年の頃の思い出」

  • 「今日の散歩は武蔵野公園まで」

    今日の散歩は武蔵野公園まででした。久しぶりに朝から気持ち良い秋晴れです。午後から武蔵野公園まで散歩しました。毎回同じ所に行ますが毎回風が違います。草木の色も少しずつ変わって行きます。やがて落葉して冬になるのです。自然は生きているのです。そんなことを感じながら散歩して来ました。「今日の散歩は武蔵野公園まで」

  • 「店の変遷に見るアメリカ文化の隆盛」

    今日は店の変遷に見るアメリカ文化の隆盛について書きたいと思います。日本にはアメリカ文化が溢れています。日常気が付きませんがアメリカ文化が溢れているのです。例えば現在あるアメリカの店を考えてみましょう。ハンバーガーのマクドラルド、フライドチキンのケンタキーチキンなのが我が町、小金井にいくつもあります。昔の日本に皆無だったスーパーマーケットも戦後アメリカから入って来ました。そんなことを改めて考えてのは昨日、江戸東京たてもの園に行ったかれです。昔の日本の店の写真を示します。1番目の写真は大正期から、現在の港区白金で営業していた小寺醤油店です。味噌や醤油、酒類を売っていました。2番目の写真は港区白金台に1928年(昭和3)に建てられた木造3階建ての大和屋本店(乾物屋)です。3番目の写真は台東区下谷の言問通りにあっ...「店の変遷に見るアメリカ文化の隆盛」

  • 「昔の農家の写真を撮りに行った」

    小金井公園にある江戸東京博物館に昔の農家があります。綱島家(農家)です。建築年代は江戸時代中期です。旧所在地は世田谷区岡本三丁目でした。解説多摩川をのぞむ崖線上にあった、広間型の間取りを持つ茅葺きの民家です。広間と土間境の長方形断面の大黒柱や、オシイタという古い形式の板などから、建物の歴史が感じられます。「昔の農家の写真を撮りに行った」

  • 「 韓国で最初に作られたカトリック教会、明洞聖堂」

    韓国で最初に作られたカトリック教会は明洞聖堂です。朝鮮が開国し、フランス人宣教師が到着したことで本格的に朝鮮半島における布教が進んだ。明洞聖堂の建築はフランス人司祭ウジェーヌ・コスト(EugeneCoste)の計画によって進められ、1883年に用地を購入、1892年に高宗臨席のもとで起工式を行った。日清戦争やコスト神父の死などの影響によって予定が遅れ、聖堂完成は1898年5月です。「韓国で最初に作られたカトリック教会、明洞聖堂」

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、後藤和弘のブログさんをフォローしませんか?

ハンドル名
後藤和弘のブログさん
ブログタイトル
後藤和弘のブログ
フォロー
後藤和弘のブログ

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用