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後藤和弘のブログ https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。 反対のご意見やコメントも歓迎しま

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2014/10/30

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  • 「土間にむしろを敷いて寝ていた秘境、秋山郷を訪問した」

    秘境とは人の住んでる山奥の秘密の集落のことです。豊かな自然に包まれ秋には紅葉が山々を美しく飾ります。しかし常に飢饉がある山奥です。人々は掘っ立て小屋の土間にむしろを敷いて寝ています。昔の秋山郷ではそんな人々の生活が長年続いていたのです。写真を見ると生活の悲惨さがよく分ります。1番目の写真は昔の秋山郷の家を復元した家です。「日本民家集落博物館信濃秋山郷の民家」、https://blog.goo.ne.jp/pzm4366/e/f225c4feb4ff54ee1f1d676bcdceb5ffから転載しました。家にはガラス窓が無く藁壁で覆われています2番目の写真は屋内の部屋です。土間に筵を敷いて寝ています。囲炉裏を囲んだ掘っ立て小屋に一家が雑魚寝をしていました。3番目の写真も屋内の部屋です。土間に筵を敷いて生活...「土間にむしろを敷いて寝ていた秘境、秋山郷を訪問した」

  • 「マレー半島にあるマレーシアの文化と経済」

    マレー半島にあるマレーシアは、人口の6割をマレー系、3割を華人系、1割をインド系の国家です。3つの主要民族と地域の歴史が複雑に入り混じって並存するマレーシアは、民族構成がきわめて複雑な国のひとつであり、多民族国家であります。しかし熱烈な親日国です。首都はクアラルンプールで工業と農業が主な産業です。まず首都はクアラルンプールと農業地帯の写真を示します。さてこの国の政治と経済を簡略に書きます。マレーシアのマハティール元首相が「日本に手本にした国造りをする」という「東方政策」を長期間推進してきました。そのこともあり世界有数の親日国家です。また日本製品や日本食に対する信仰も高く日本に対する信用は絶対的なものです。マレーシアの領土はマレー半島南部およびボルネオ島北部です。立憲君主制国家です。1980年代以降はマハテ...「マレー半島にあるマレーシアの文化と経済」

  • 「南アメリカの少数民族、アマゾンの少数民族と山岳地のケチュア族」

    今日は南米のアマゾン地域の少数民族と山岳地域に住むケチュア族をご紹介したいと思います。ブラジルの大地にはアジアから移住して行ったモンゴル系の先住民族の暮らしがありました。1500年当時の先住民族の人口はブラジル全土で300万人以上だったといわれています。さらに最近の研究ではアマゾン地域だけで800万人もの先住民族がいたという仮説すら出されています。ブラジル全国の先住民族の現在の人口はおよそ90万人で、そのうち48%の人がアマゾンに暮らしています。ブラジルの先住民族は、305の民族で274の言語という多様性な社会です。1500年以降、植民地化が進められ先住民族は病気や虐殺などにより人口を減らしました。1957年には、全国にわずか7万人が残るにすぎませんでした。その後、先住民族全体の人口は回復に転じましたが、...「南アメリカの少数民族、アマゾンの少数民族と山岳地のケチュア族」

  • 「北極圏に住むイヌイット民族の家と捕鯨」

    現在、カナダで生活をする「イヌイット」は北極地方、特に北米大陸の北端と北極諸島沿岸部で生活している。地球上で最も寒冷な地域に太古の昔より居住、生活し続けて来た稀有な民族である。その民族の家は2種類あり狩猟用の簡単な雪の家と定住用の集落にある立派な家があります。1番目の写真は狩猟用の簡単な雪の家、イグルーとスノーモービルの写真でし。2番目の写真は定住用の集落にある立派な家です。イヌイット民族の伝統的な食生活は主に肉食で、主にオットセイやセイウチ、クジラ等を捕まえて食べていました。また、トナカイを狩る事もあります。ワシントン条約などで狩猟が規制されているイッカクなどの動物についても、イヌイットは狩猟が認められているのです。近年は都市化が進み、スーパーマーケット等で食品を購入して食べています。また、衣服や靴は古...「北極圏に住むイヌイット民族の家と捕鯨」

  • 「私の趣味は民族の文化や社会を調べること、一例はタイ」

    自分は若い頃からいろいろな民族に興味がありました。いろいろな民族の文化や社会を調べることが趣味でした。文化人類学が趣味でした。いろいろな民族の日常的な行動や街の様子を調べると、その地域に根づく文化や社会などのしくみが分かるのです。「人間とはどんな生き物か?」ということ興味があるのです。現地の生活に入り込んで調査するフィールドワークにも興味があります。そんな私の趣味で書いた記事は以下のようになります。文化人類学的な内容の記事です。取り上げた民族は、ドイツ人、アメリカ人、アイヌ、中国人、そしてインドネシア、ベトナム、タイ、ミャンマーなどの諸民族です。そこで日本の大乗仏教とミャンマー、タイ、ベトナムの上座部仏教の違いを分かり易く書いてみます。大乗仏教と上座部仏教の2つの決定的な違いは次の2つになります。(1)上...「私の趣味は民族の文化や社会を調べること、一例はタイ」

  • 「ミャンマーの風景の写真」

    ミャンマーの風景の写真をお送り致します。写真の説明は、https://tabizine.jp/2017/02/18/127500/でございます。「ミャンマーの風景の写真」

  • 「竹山道雄作、『ビルマの竪琴』」

    竹山道雄作、『ビルマの竪琴』のあらすじ1945年7月、ビルマ(現在のミャンマー)における日本軍の戦況は悪化の一途をたどっていた。物資や弾薬、食料は不足し、連合軍の猛攻になす術が無かった。そんな折、日本軍のある小隊では、音楽学校出身の隊長が隊員に合唱を教え込んでいた。隊員たちは歌うことによって隊の規律を維持し、辛い行軍の中も慰労し合い、さらなる団結力を高めていた。彼ら隊員の中でも水島上等兵は特に楽才に優れ、ビルマ伝統の竪琴「サウン・ガウ」の演奏はお手の物で、部隊内でたびたび演奏を行い、隊員の人気の的だった。さらに水島はビルマ人の扮装もうまく、その姿で斥候に出ては、状況を竪琴による音楽暗号で小隊に知らせていた。ある夜、小隊は宿営した村落で印英軍に包囲され、敵を油断させるために『埴生の宿』を合唱しながら戦闘準備...「竹山道雄作、『ビルマの竪琴』」

  • 「ミャンマーの暮らしの写真」

    ミャンマーの暮らしの写真をお送り致します。ミャンマー人はどのような場所で、どのような食べ物で、どのように生活しているのか?写真の出典は、https://www.myanmarunity.jp/pages/26/です。「ミャンマーの暮らしの写真」

  • 「ミャンマーの中央を南北に流れるイラワジ川」

    ミャンマーを南北に流れる、全長2000キロの大河イラワジ川はこの国の人々にとって祈りの場です。ヒマラヤ山脈に源を発するイラワジ川は、ミャンマーの人々にとって希望の大河です。人々はここで洗濯をし、飲み水をくみ、流れに沿って移動するのです。「ミャンマーの中央を南北に流れるイラワジ川」

  • 「昔のビルマ、ミャンマーと独裁軍の銃撃により犠牲者多数」

    昔のビルマは現在、ミャンマーという国です。軍事政権が支配しています。その軍隊が2021年にデモ隊を銃撃する事件が起きたのです。3年前の残忍な事件です。2021年の4月4日まで反クーデターのデモで軍の銃撃により犠牲になった人は550人を超えました。ミャンマー国軍は残忍にもデモに参加している市民を容赦なく銃撃しました。子供だろうが、女性だろうが、ただの通行人だろうが銃口を向けたのです。(https://www.afpbb.com/articles/-/3340440?pid=23221381)テレビで軍人が市民を銃撃している光景を見た私は衝撃を受けました。戦場で銃撃しているのではなく平和な街で人を至近距離で撃っている光景は初めて見ました。1番目の写真はデモの光景です。写真は2021年2月7日、ミャンマーの最大...「昔のビルマ、ミャンマーと独裁軍の銃撃により犠牲者多数」

  • 「ベトナムの観光名所の写真」

    ベトナムの観光名所の写真です。写真の出典は、https://www.tabikobo.com/.../asia/vietnam/article38567.htmlです。1番目の写真はハロン湾です。ベトナム北部にある都市ハノイから車で4時間のところにあります。大小様々な小島が浮かび幻想的な雰囲気を醸し出しています。2番目の写真は【世界遺産】のチャンアン景観地帯です。チャンアン景観地帯はハノイに隣接するニンビン省にある景観遺跡群です。チャンアン景観地帯の魅力はそびえ立つ石灰石の山々や、貴重な原生林や生物が見られることです。3番目の写真は【世界遺産】のタンロン皇城です。タンロンとは、ベトナムの王朝の都が置かれてきたハノイの旧称です。ここにある遺跡群はまとめて世界遺産に指定されています。遺跡群はハノイ駅から歩いて...「ベトナムの観光名所の写真」

  • 「ベトナム戦争にまつわる4つのエピソード」

    「ベトナム戦争にまつわる4つのエピソード」2021年05月04日 日記・エッセイ・コラム今日はベトナム戦争にまつわるエピソードを4つ書きたいと思います。この4つのエピソードは敵味方双方から直接聞いた話です。みなベトナムやアメリカや北京で直接聞いたことです。この4つのエピソードは朝日新聞などの大新聞のベトナム戦争はアメリカ帝国主義のせいで、社会主義国家は平和主義であるという単純すぎる見方に疑問を投げかけるものです。(1)爆弾に書かれた日本語ーアジア人の血を流したくない日本人より。1986年、ベトナムがドイモイ開放政策を導入した後、同国は日本の多額の政府開発援助(ODA)で工場特区開発や高速道路建設を進めした。1993年、ハノイ市郊外の高速道路予定地を訪れた際、ベトナム戦争時ハノイ防空隊長をしていたチュウ氏が...「ベトナム戦争にまつわる4つのエピソード」

  • 「タイ王国にあった日本人村」

    16世紀初め、御朱印船貿易に携わった日本人たちが日本人村を築き、最盛期には2,000~3,000人以上もの日本人がアユタヤに住んでいました。日本人の多くは、アユタヤの傭兵としてビルマ軍との戦いにも参戦。当時の日本人町の町長であった山田長政は22代ソンタム王から官位を与えられるほど大活躍しましたが、1630年に憤死。日本の鎖国で18世紀初めにはこの町も消滅しました。2007年、敷地内に日タイ修交120周年記念館が設立され、記念の石碑には「アユチヤ日本人町の跡」と記されています。タイと日本の友好の歴史を知ることができる貴重なスポットです。https://www.thailandtravel.or.jp/japanese-settlement/「タイ王国にあった日本人村」

  • 「南の国、タイ王国の花と風景」

    南の国、タイ王国は仏教国です。多くの日本人が好きな国です。古都チェンマイに引退後住みつく日本人が多いのです。私もチェンマイに憧れています。行ったことがありません。そこに引退後住んでいるある日本人のご夫婦がます。花の写真や風景写真が綺麗なので何年も前から時々お写真をお借りしています。今日は花の写真3枚とメコン河の写真と市場のレストランの写真をお借りしました。写真の出典は、https://gaku404.exblog.jp/18634792/です。遥かにタイ王国のチェンマイを偲びながら写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。1番目の写真は南の国の巨大なダリアの花です。日本ではダリアはこれから咲きます。2番目の写真は可憐な花ウォータージャスミンの花です。3番目の写真は引退後住んでいるある日本人のご夫婦の家の庭に咲...「南の国、タイ王国の花と風景」

  • 「タイ王国の風景と急速な経済成長」

    国土は、インドシナ半島中央部とマレー半島北半を占める。南はマレーシア、東はカンボジア、北はラオス、西はミャンマー(旧国名ビルマ)と国境を接っします。東南側はタイランド湾に面します。マレー半島中部では西にアンダマン海及びマラッカ海峡があり、それらを挟んでインドネシアやインド領アンダマン・ニコバル諸島に向かい合っています。そのタイ王国の風景の写真を送ります。首都バンコックの写真と地方の風景写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。さてタイと日本は国家指導者レベルで長い関係を築いており両国民間の関係も深いのです。なお立憲革命の際、明治憲法をが参考にしました。アユタヤ王国時代、山田長政はソンタム王の治世中にアユタヤを訪れ、ナコンシータマラートの知事に任命され、後にそこで死去したのです。1900...「タイ王国の風景と急速な経済成長」

  • 「日本、ミャンマー、タイ、ベトナムは同じ仏教国」

    お早う御座います。今日は宗教に関する簡単な文章を書くことにします。日本の大乗仏教とミャンマー、タイ、ベトナムの上座部仏教の違いを分かり易く書いてみます。ご覧頂いたら嬉しく存じます。面倒な議論は止して、大乗仏教と上座部仏教の2つの決定的な違いを書いてしまえば次の2つになります。(1)上座部仏教では200以上の戒律を守らなければ釈迦の教えを理解し悟りの境地に至らないと教えています。戒律を守るために出家するのです。一方、大乗仏教では殺生戒以外の戒律はありません。出家しなくても釈迦の教えを理解し悟りの境地に至ることが出来ると言う教義です。(2)上座部仏教では釈迦を最高位に据えて崇拝します。一方大乗仏教では全知全能の宇宙神の盧舎那仏や大日如来が人々を教え導くために釈迦になったという教義です。従って釈迦は宇宙神の化身...「日本、ミャンマー、タイ、ベトナムは同じ仏教国」

  • 「戒律が厳しくないイスラム教のインドネシアの宗教事情」

    イスラム教は戒律が厳しいと思っていました。しかし戒律の厳しくないイスラム教の国もあるのです。インドネシアです。日本とインドネシアの関係は大変良く、1800社以上の日本企業がインドネシアで事業を展開しています。近年、日本文化がブームとなっており、日本企業の投資や、日本語を学ぶ人が増えているのです。大相撲やアニメなど日本文化のイベントも開催されているくらいです。今日は戒律が厳しくないイスラム教のインドネシアの宗教事情を写真に従ってご紹介したいと思います。1番目の写真は首都ジャカルタです。ジャカルタはインドネシア経済の中枢であり、東南アジア屈指の大都会です。第二次世界大戦後の独立以降、政府は主要産業を国有化し、保護政策の下で工業を発展させてきた。1989年には、戦略的対応が必要な産業として製鉄、航空機製造、銃器...「戒律が厳しくないイスラム教のインドネシアの宗教事情」

  • 「インドネシアのバリ島の花と果物の写真」

    インドネシアのバリ島の花の写真をお送り致します。バリ島を訪れると、色とりどりの花が咲き乱れていて南国らしさを感じるそうです。まさに南国です。その中でも多いのはプルメリアの花です。そこでいろいろな色のプルメリアの写真をお送り致します。写真の出典は、https://bali-no1.com/post-610/です。インドネシアの人々の日常生活の実態を知りたいと思い旅行記をいろいろ見ています。そうしたらインドネシアの西の大きなスマトラ島の縦断記を見つけました。『【バタック文化】インドネシア横断旅:前編その四:スマトラ島少数民族との出会い』(https://snowm-blog.hatenablog.com/entry/2019/02/20/214344)というブログです。この記事はインドネシアの人々の日常生活の...「インドネシアのバリ島の花と果物の写真」

  • 「インドネシアのバリ島の世界遺産の写真」

    バリ島は美しい海岸やレゾート用のホテルがある有名な観光地です。その上、ヒンズー教関連の世界遺産がある文化的にも興味深い島です。その世界遺産の写真をお送りいたします。写真と文章の出典は、「バリ島の世界遺産5選」、https://www.travelwith.jp/area/asia/indonesia/bali/topics/post-11110/です。1番目の写真は世界遺産となっているバトゥカル山の水田とスバック灌漑施設です。灌漑施設のスバックとはバリ島に1000年以上前から伝わる灌漑法と言われる伝統的な水利システムなのです。その巧妙な作り方が珍しいので世界遺産と認定されました。2番目の写真はバリ島のキンタマーニ高原にあるウルン・ダヌ・バトゥール寺院です。バトゥール湖の湖畔に建ち、湖の守護神である水の女神...「インドネシアのバリ島の世界遺産の写真」

  • 「インドネシアのスマトラ島のバタック族の写真」

    バタック族は、主にインドネシアのスマトラ島北部の高地に居住している民族です。大都市のメダンの西にあるトバ湖周辺を故郷としています。バタック族は、その言語や習慣が少しずつ違ういくつかの異なるグループに分けられます。そのスマトラ島高地のバタック族の写真をお送り致します。写真の出典は、「スマトラ島少数民族との出会い」、https://snowm-blog.hatenablog.com/entry/2019/02/20/214344とその他、バタック族に関連した資料です。バタック族の社会は、Margaとして知られる一族に組織されている家父長社会でです。トバ・バタック族は、1人の祖先「SiRajaBata」を起源とし、すべてのMargaは彼の子孫であると伝統的に信じられています。バタックの父と息子の関係を示した血統...「インドネシアのスマトラ島のバタック族の写真」

  • 「インドネシアの美しい風景と驚異的な経済成長」

    インドネシアは美しい南洋の邦です。風景写真を見ると夢幻のようです。そこで今日はまずインドネシアの風景写真をお送り致します。写真の出典は、『写真素材-インドネシアの美しい風景、湖の景色、山、丘、滝、村の家』です。1番目の写真は地方の湖の岸辺にある原住の民族の村の風景です。2番目の写真は原住の民族の伝統的な家です。湖で漁をする時に使ういろいろな道具をしまっておく小屋が岸辺に建っています。3番目の写真は夢のように美しい湖の風景です。小舟が人々の生活を暗示しています。4番目の写真は大都会の美しい夜の風景です。インドネシアの地方には魅了されるような風景がありますが大都会の風景も美しいのです。さて今日はこのインドネシアの経済成長をご紹介したいと思います。ジャカルタに本部のあるアセアンに関連してご説明いたします。インド...「インドネシアの美しい風景と驚異的な経済成長」

  • 「まともな人々も沢山住んでいる尊敬すべき韓国」

    日本人の一部には韓国人を蔑んでいる人がいます。他の人を蔑むことで自分の人格を傷つけていることに気が付いていないのです。しかし韓国にはまともな人々や立派な人々も沢山住んでいるのです。今日はこの当たり前のことを説明したいと思います。言葉でクドクド説明しないで写真で説明します。1番目の写真は2011年の東日本大震災の直後の韓国の街頭募金の写真です。注意深くこの写真を見ると募金を受け付けている左の3人は黒い喪服を着ているのです。2万人以上の死者の出た大震災ですから死者の冥福を祈って喪服を着ているのでしょう。私は韓国人の礼儀正しさに感銘を受けました。2番目の写真も大震災の直後の韓国の街頭募金の写真です。日本へ贈る救援物資の袋を受け取っている光景です。全員は黒い喪服を着ています。以上2枚の写真は、http://cad...「まともな人々も沢山住んでいる尊敬すべき韓国」

  • 「韓国にある世界遺産の仏国寺や海印寺などの写真」

    日本にも貴重な文化遺産があります。奈良の唐招提寺や京都の高台寺などなどです。同じように韓国にも素晴らしい世界遺産のお寺があります。今日は韓国の世界遺産の仏国寺や海印寺などのを写真でご紹介いたします。写真の出典は、https://www.travelbook.co.jp/topic/18683です。1番目の写真は韓国の世界遺産の「宗廟」です。お寺です。牌を祀ってあります。朝鮮王朝の歴代王と、そして王妃の位牌を祀っており、神聖な場所として知られています。正殿19室に49位、永寧殿16室に34位、功臣堂に臣下の位牌83位、合計166位が安置されています。2番目の写真は世界遺産の「仏国寺」です。仏教芸術の最高傑作かつ国宝の寺院とされている仏国寺は理想的な彼岸の世界観が表現されております。この仏国寺は1982年に家...「韓国にある世界遺産の仏国寺や海印寺などの写真」

  • 「韓国にある16の世界遺産」

    韓国の世界遺産は16件です。そのうち文化遺産は14件、自然遺産は2件です。その一覧を示します。石窟庵と仏国寺文化遺産1995年八萬大蔵経の納められた伽倻山海印寺文化遺産1995年宗廟文化遺産1995年昌徳宮文化遺産1997年華城文化遺産1997年慶州歴史地域文化遺産2000年高敞、和順、江華の支石墓群跡文化遺産2000年済州火山島と溶岩洞窟群自然遺産2007年朝鮮王朝の王墓群文化遺産2009年韓国の歴史的集落群:河回と良洞文化遺産2010年南漢山城文化遺産2014年百済歴史地域文化遺産2015年山寺[サンサ]、韓国の仏教山岳僧院文化遺産2018年ソウォン[書院]、韓国新儒学学院文化遺産2019年韓国の干潟自然遺産2021年伽耶古墳群文化遺産2023年写真に山寺[サンサ]、韓国の仏教山岳僧院を示します。「韓国にある16の世界遺産」

  • 「今日はカトリック松原教会のミサにあずかりました」

    2024年08月25日、年間第21主日今日はインターネットを通してカトリック松原教会のミサにあずかりました。ミサの動画配信は下記です。https://matsubara-cath.chu.jp/ja/online-mass/#:添付の写真は今日の松原教会のミサの風景です。ミサはカトリック教会においてパンとぶどう酒を聖別して聖体の秘跡が行われる祭儀です。司祭が司式し、信者全体が捧げるものです。カトリック教会で最も重要な典礼儀式です。〒156-0043東京都世田谷区松原2-28-5TEL.03-3321-0941FAX.03-3321-0009「今日はカトリック松原教会のミサにあずかりました」

  • 「写真で見る桂林は夢のような風景」

    中国の桂林は夢のような風景です。桂林の写真をお送り致します。写真の出典は、https://tori-dori.com/asia/2019/08/21/26507/です。「写真で見る桂林は夢のような風景」

  • 「始皇帝陵墓と兵馬俑を見た時の感動」

    1980年代初頭に初めて中国に行った私は始皇帝陵墓と兵馬俑を見たのです。約2200年前に秦の始皇帝の頃のものです。陵墓は大きさは日本の古墳と同じようです。頂上にお墓がありました。その規模の大きさに驚きました。しかしもっと感動したのは兵馬俑を見た時です。東京ドームくらいの大きさの屋根の下に数千人の兵士と馬が隊列を組んでいるのです。よく見ると兵士一人一人の表情や甲冑と衣装がみな違うのです。兵士は生きているように精巧に出来ています。馬車もリアルに出来ています。馬車も兵士の隊列も今まさに動いているように見えるのです。そのリアルさに息を呑み感動しました。2200年前にこんなものを創ったのです。私は心底から感動しました。3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8000体近くあると言い...「始皇帝陵墓と兵馬俑を見た時の感動」

  • 「 写真で見る清朝発祥の瀋陽の故宮」

    瀋陽は清朝発祥の地であり中国の歴史の重要な街です。また私も個人的に訪問したので色々な思い出のある所です。今日は瀋陽の歴史や現在の瀋陽の風景をご紹介します。そして私の思い出も紹介します。瀋陽市は人口820万人で中国の東北地方(旧満州)の真ん中より少し南にある大都会です。そして瀋陽の故宮は清朝の発祥したところです。故宮が北京へ移転した後は離宮として使われていました。1625年、清朝につながる初代のヌルハチが後金をつくり、ここ瀋陽に遷都して「盛京」と呼びました。1636年、清朝2代目のホンタイジ(皇太極)は国号を「清」とし、清朝を創立しました。そして1644年、北京に遷都しました。ヌルハチとホンタイジの二人が居住したのが、瀋陽の故宮です。瀋陽は清朝の発祥の地なのです。それでは写真をお送り致します。写真は全てイン...「写真で見る清朝発祥の瀋陽の故宮」

  • 「写真で見る中国の少数民族と美しい伝統文化」

    中国には少数民族が38%もいるのです。1,721万人もの少数民族が住んでいるのです。今日は中国の少数民族と美しい伝統文化をご紹介致します。写真に広西チワン族の旧正月の正装、観光イベントの御馳走、段々の稲作水田、立派な屋根のついた橋などの写真を示します。さて中国の広西チワン族自治区は中国最大です。西は雲南省、北は貴州省、湖南省、東は広東省と接し、南はトンキン湾に面しています。南西はベトナムと国境を接し、北部には東西に南嶺山脈が走っています。珠江の流域の内陸部の多くを占めています。亜熱帯性気候で、二期作・三期作が可能です。有名な観光地の桂林が東北部にあります。中国には広西チワン族の他にもいろいろな少数民族が住んでいるのです。以下に調べた結果を示します。漢族:2,702万人(62%)の他の少数民族です。少数民族...「写真で見る中国の少数民族と美しい伝統文化」

  • 「北京の仿膳飯荘」

    北京市の仿膳飯荘は宮廷の味を今に伝える料理が食べられる中国の老舗レストランであり、北海公園の漪瀾堂、道寧斎など乾隆年間に建てられた古建築群の中にあります。1925年に宮廷の御膳房(厨房)で働いていた数名の料理人によって創業されました。「仿膳」は、専門的に宮廷御膳房の手法を模して作られた料理やお菓子などの食べ物の意味であり、現在に至るまで85年の歴史があります。仿膳飯荘は清の宮廷料理の研究と整理、継承と革新、経営と保護を行う単位であり、数十年経営する中で、ずっと宮廷の味の特色を保ってきました。名高い宮廷料理の発掘と研究・開発のため、仿膳飯荘は何回も人を故宮博物館へ派遣し、おびただしい量の宮廷料理の記録の中から、乾隆・光緒年間の数百にもおよぶ料理を整理しました。https://jr.visitbeijing....「北京の仿膳飯荘」

  • 「世界遺産、安徽省黄山市の 西遞と宏村の写真」

    中国の世界遺産、宏村の風景写真を4枚お送り致します。写真の出典は、http://www.cnta-osaka.jp/heritage/ancient-villages-in-southern-anhui-xidi-and-hongcunです。安徽省黄山市にある宏村と西遞という2つの伝統的な古村落はあわせて世界遺産になっています。中国の昔のままの農村を残しています。「宏村」は県城から北東10kmにあり、南宋の紹興元年(1131年)に建造され始められました。古くから汪氏一族が暮らしていた土地で、明・清時代の旧建築物137棟が現存しています。「西遞」は県城から8kmのところにあり900年以上の歴史がある村落です。古くは胡氏一族が暮らしていた土地で、明清の旧民家124棟、祠3棟があります。「中国明清民家博物館」と...「世界遺産、安徽省黄山市の西遞と宏村の写真」

  • 「中国の北海公園と仿膳飯荘」

    1981年に周栄章さんと2人で一緒に初めて行った北京の北海公園と仿膳飯荘をご紹介したいと思います。中国人は権力者に表向きは従いますが、心の中では個人的な信義を一番大切にしている民族なのです。周栄章さんと2人だけで北海公園を歩いていました。その先にある仿膳飯荘で北京鋼鉄学院の学長が私の歓迎会をしてくれるというのです。1番目の写真は北京の北海公園の石の回廊です。写真の出典:http://www.chinatrip.jp/beijing/album-57.htmです。歓迎会で当時あった「茅台酒(マオタイシュ)」の乾杯の応酬で、私もいささか酔いました。学長さん達に感謝の言葉を述べました。すると学長は中国への旅の感想を聞きます。私はつぎのような話をしました。「中国は良い国です。けれど共産主義は独裁政治を生むので好き...「中国の北海公園と仿膳飯荘」

  • 「軍事大国、共産主義の中国の実像とは?」

    2011年8月30日に、私は次のような記事を掲載しました。「強大になった中国、その共産党独裁の社会の実態」現在の中国はアメリカに次ぐ世界の大国です。軍事力も強大な国です。しかし私が初めて北京を訪れた1981年の頃は世界の最貧国に一つでした。市民は汚れた人民服を着て食料も十分でなく街路には飢えた人々があふれていました。その中国が経済急成長をして、アメリカにつぐ世界で2番目の豊かな国になったのです。これは世界の奇跡です。私はまだ信じられません。・・・以下は省略します。この記事では経済成長をとげた中国を賞賛するようなニュアンスがありました。そうしたFaceBookで中村裕一さんとフランス在住のMotokoBoutdumondeからバランスの良い適切なコメントを頂きました。大変客観的に中国の実像を描いているので今...「軍事大国、共産主義の中国の実像とは?」

  • 「ベルサイユ宮殿の近くの国際会議から中国との交流が始まった」

    最近はアメリカやヨーロッパの思い出を書いてきました。私とアメリカ人やドイツ人との交友を詳しく書きました。それに続いて今日からは中国人よの交流を書きたいと思います。中国人との交流はベルサイユ宮殿の近くでの国際会議から始まりました。1979年のことです。その国際会議で初めて数人の中国人に会ったのです。その会議は鉄鋼製錬の物理化学に関するものでした。フランスをはじめ各国の学者が集まりました。その会議に中国人の学者が現れたのです。1976年に毛沢東が死ぬまでは中国人は外国へ出ることが出来なかったのです。中国人が外国へ行ける時代が来たのです。これには皆が驚きました。主催者のフランス人が出席者全員をベルサイユ宮殿に招待してくれました。それは夜の特別な招待です。宮殿のあちこちにロウソクの光が揺れ幻想的な雰囲気です。特に...「ベルサイユ宮殿の近くの国際会議から中国との交流が始まった」

  • 「淋しい北国、フィンランドの静かな湖の写真」

    淋しい北国、フィンランドの静かな湖の写真をお送り致します。フィンランド共和国は北ヨーロッパにある国です。首都はヘルシンキでバルト海東岸にあります。国境は、北はノルウェー、西はスウェーデン、東はロシアと接します。南はフィンランド湾を挟みエストニアです。ロシア帝国がロシア革命で崩壊したことで1917年に独立を果たしました。ソ連に併合されたバルト三国と異なり独立を維持した北国です。フィンランドの静かな湖の写真の出典は下記の通りです。https://pixabay.com/ja/photos/%E6%B9%96-%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B8-%E3%83%91%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5-7415097/「淋しい北国、フィンランドの静かな湖の写真」

  • 「北海道の生き生きとした夏の花の写真」

    北海道は空気が澄んでいるので花々が生き生きと咲いています。北海道の夏の花の写真をお送り致します。写真の出典は、https://prezo.jp/column/2837です。1番目の写真は大通公園のライラックです。2番目の写真は網走郡大空町のひがしもこと芝桜公園です。3番目の写真は紋別郡遠軽町丸瀬布水谷町のまるせっぷ藤園です。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/27/7b6a73d11d54b9697448a0f2024番目の写真は北海道のシンボルフラワーはハマナスです。「北海道の生き生きとした夏の花の写真」

  • 「遥かなスエーデン王国の花の写真」

    遥かなスエーデン王国の家々に咲く花の写真をお送り致します。写真は「スエーデンに咲いている花」を検索して出て来た数多くの写真から選びました。さて私をストックホルム王立工科大学の集中講義に招待してくれたエケトルプ教授の趣味のことを書きます。教授は古民家を復元する趣味を持っていたのです。驚いたことにエケトルプ先生は中世のスウェーデンの古民家の構造を詳しく調べ、忠実に復元していました。ストックホルムの郊外のプラタナスの大樹の下に、藁葺と白壁の中世風の農家を復元して住んでいたのです。昔の農家の設計図を探し出し、忠実に再現した古民家です。家の再現で苦労したのは釘を一本も使わないで造ることだったと言います。内装はすべて白っぽい北国の板材です。柱は太い丸太の表面を磨いたもの。屋根は意外にもそんなに厚くない麦藁葺。年間雨量...「遥かなスエーデン王国の花の写真」

  • 「遥かな南ドイツの思い出」

    老境に至って自分の人生を振り返ると、外国への留学で深い影響を受けたことをつくづく思います。アメリカ留学のおかげで私はアメリカが大好きになりました。アメリカ留学は24歳から26歳まででしたが、34歳のとき南ドイツのシュツットガルトに1年余行ったのです。今度はドイツにも魅了されました。外国に住むと、その国が好きになってしまうのです。ドイツは独特な文化を持っています。伝統を大事にし静かな思考を大切にします。街を歩くドイツ人は決してイタリア人のように陽気でありません。フランス人のようにお洒落をしません。何時も真面目で堅い雰囲気を持っています。今日は「遥かな南ドイヅの思い出」を書いてみます。ドイツでの生活は1969年夏のにローテンブルグでの3ケ月間のドイツ語研修から始まりました。そしてその後、シュツットガルト市にあ...「遥かな南ドイツの思い出」

  • 「アイヌ民族と日本民族の祖先は同一人種、しかし両者の文化は違う!」

    民族の違いを分ける場合に下記の通り2つの方法があります。(1)生物学的に民族の特徴を見て分類する方法。例えば白人、黄色人、黒人と分類します。すると日本人と中国人は同じ黄色人となり区別はありません。(2)それぞれの民族の暮らし方や文化を見て分類する方法。文化が違えば違う民族と判定します。すると日本人や韓国人や中国人と区別出来ます。アイヌ民族と日本民族にこの2つの方法を適応するとどうなるでしょうか?するとアイヌ民族と日本人の祖先は同じなので生物学的には同じ黄色人となり区別はありません。しかしアイヌ民族と日本人の暮らし方や文化は第二次世界大戦の終戦までは大きく違っていました。この暮らし方や文化の違いは鎌倉時代から顕著になって来ました。それで文化の違いからアイヌ民族と日本人は違う民族だと断定する人が多いのです。断...「アイヌ民族と日本民族の祖先は同一人種、しかし両者の文化は違う!」

  • 「アイヌ民族と日本民族の祖先は同一人種、しかし両者の文化は違う!」

    民族の違いを分ける場合に下記の通り2つの方法があります。(1)生物学的に民族の特徴を見て分類する方法。例えば白人、黄色人、黒人と分類します。すると日本人と中国人は同じ黄色人となり区別はありません。(2)それぞれの民族の暮らし方や文化を見て分類する方法。文化が違えば違う民族と判定します。すると日本人や韓国人や中国人と区別出来ます。アイヌ民族と日本民族にこの2つの方法を適応するとどうなるでしょうか?するとアイヌ民族と日本人の祖先は同じなので生物学的には同じ黄色人となり区別はありません。しかしアイヌ民族と日本人の暮らし方や文化は第二次世界大戦の終戦までは大きく違っていました。この暮らし方や文化の違いは鎌倉時代から顕著になって来ました。それで文化の違いからアイヌ民族と日本人は違う民族だと断定する人が多いのです。断...「アイヌ民族と日本民族の祖先は同一人種、しかし両者の文化は違う!」

  • 「アメリカに留学し私の愛国心が強くなる」

    若い頃も貧乏でした。昭和11年に生まれ昭和33年、1958年に東北大学を卒業し大学院に進みました。その頃にアメリカへ留学したいと思いました。しかしお金がありません。大学の図書館でアメリカの学会誌でオハイイオ州立大学のセント・ピエール教授の名前と住所を知りました。手紙を書きました。そした生活費を支給してくれるという返事が来ました。アメリカ往復の航空券はアメリカ政府のフルブライト奨学金がくれました。こうしてお金が無くてもアメリカへ留学出来たのです。私は1960年から1962年まで、オハイオ州立大学の金属工学科に留学しました。アメリカに行ってみると当時のアメリカ人は日本人を蔑んでいなかったのです。いや尊敬すらしていまいた。理由は簡単です。日本は勇敢に戦い手強い相手だったのです。ですからアメリカ人はいつも私を励ま...「アメリカに留学し私の愛国心が強くなる」

  • 「アイヌは日本人の祖先、日本の地名の多くはアイヌ語」

    自分達の先祖はどんな民族だったのか?何処から移住して来たのか?どんな暮らしをしていたのか?多くの人が興味を持つ問題に違いありません。最近、日本人の祖先はアイヌ人だと考える人が増えたようです。もっともアイヌという名称は中世以後に出来た名称ですから「原日本人」と言うべきです。この「原日本人」が中世以後のアイヌ人と同じだったのです。しかし以下の文章では原日本人をアイヌ人と書いています。その方が分かり易いからです。「原日本人」がアイヌ人だったという根拠の幾つかを書いてみたいと思います。富士山も神もアイヌ語だという話です。日本の地名の多くはアイヌ語だという話です。日本列島に人間が沢山住むようになったのは少なくとも4万年前からの旧石器時代からです。当時の日本には南の中国や朝鮮からの渡って来た人々とカムチャッカ、樺太、...「アイヌは日本人の祖先、日本の地名の多くはアイヌ語」

  • 「戦後の米軍占領で日本は激変、アイヌの集落も消滅」

    1945年の日本の敗戦は日本人の価値感を根底から変革しました。男女平等の民主主義が社会構造をすっかり変えてしまったのです。戦後の米軍占領で日本は激変したのです。今日は激変の一つの例として北海道のアイヌ集落の消滅をご紹介したいと思います。アイヌ集落への差別が無くなったのです。戦後は自由と平等の思想の普及しました。その結果アイヌ民族は次第に和人と結婚してアイヌの集落から出て行きました。アイヌ民族の東北地方への移住も進みました。こうして北海道に数多くあったアイヌ部落は一つ一つと消えて行ったのす。ですから私は戦後の米軍占領でアイヌの集落は消滅したと考えています。それは一つの戦後の歴史なのです。私はこの問題に強い関心を持ち続けています。理由は私には移住して来たアイヌ人の少年と親しい友人になったからです。少年の頃の楽...「戦後の米軍占領で日本は激変、アイヌの集落も消滅」

  • 「松江への松平不昧公と小泉八雲の追憶の旅」

    観光旅行をするときある種の追憶をたどって行く場合があります。例えば数年前に訪ねた松江への旅は茶人だった松江七代藩主、松平不昧公の追憶の旅です。そして小泉八雲の追憶の旅です。小高い丘の上にある不昧流の茶室に上がって茶と菓子を楽しみながら宍道湖を眺めます。御菓子に感心しました。鮮やかな緑色の「若草」です。柔らかな求肥で上品な甘みです。若草とは不昧公の和歌から命名されたものです。町へ下りて来て彩雲堂でそれを買い、そして風流堂の紅白の「山川」、さらに三英堂の黄色の地に白い蝶の舞う「菜種の里」を購入しました。下の写真は「若草」と「菜種の里」です。松江といえばもう一つ見なければいけないところが有ります。小泉八雲の旧居とその隣にある記念館です。八雲の生涯は不遇な一生でしたが、セツという素晴らしい女性と結婚したお陰で最後...「松江への松平不昧公と小泉八雲の追憶の旅」

  • 「昔よくスキーをした山形県のドッコ沼の写真」

    昔よくスキーをした山形県のドッコ沼の写真をお送り致します。標高約1,400mの蔵王中央高原にある神秘的な沼が「ドッコ沼」です。日差しによって水が青色やエメラルドグリーンに変化し幻想的です。昔よくドッコ沼の前の粗末な宿に泊まり、スキーをしたものです。茫々60以上も前のことです。ドッコ沼の写真をインターンットからお借りしました。「昔よくスキーをした山形県のドッコ沼の写真」

  • 「松江の宍道湖の写真」

    今日は松江について書きたいと思います。山陰の松江へ旅したのは十数年も前のことです。旅の目的は茶人の松江七代藩主の松平不昧公を偲び、そして小泉八雲の旧宅を訪ねることでした。松江では宍道湖を眺めました。さて小泉八雲旧居はそのまま彼の記念館になっていました。記念館には八雲の子供や孫、曾孫が遺品を持ち寄って展示しているのです。松江に行ったのは秋の晴天の日でした。その曾遊の地の宍道湖の風景写真をお送り致します。松江では不昧流の茶室で「若草」という菓子が出ました。感心しました。鮮やかな緑色の「若草」です。感心したので松江の彩雲堂でそれを買い、そして風流堂の紅白の「山川」、さらに三英堂の黄色の地に白い蝶の舞う「菜種の里」を購入しました。松江では小泉八雲の旧居と記念館を見ました。八雲の生涯は不遇な一生でしたが、セツという...「松江の宍道湖の写真」

  • 「白樺湖と蓼科湖の写真」

    老人になった私は曾遊の地のあちこちを懐かしく思います。そんな曾遊の地に白樺湖と蓼科湖があります。若かった妻と二人の子供を連れて1963年から何度も訪れた場所です。昔は冬の蓼科湖でも白樺湖でもスケートが出来たのです。白樺湖スキー場でもスキーを楽しんだものです。一番初めに泊まった旅館は蓼科温泉の「滝の湯」でした。その後は山梨県の甲斐駒岳の麓に小屋を作り、そこから白樺湖と蓼科湖へ通いました。夏には観光道路のビーナスラインの途中にあるケーブルカーで八ヶ岳の横岳にも登りました。ビーナスラインで車山、霧ヶ峰を越えて、遥かに美ガ原の彫刻展示場まで行ったことも一度や二度ではありませんでした。撮って来た白樺湖と蓼科湖の写真をお送り致します。お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申...「白樺湖と蓼科湖の写真」

  • 「夏の入道雲の写真」

    夏の入道雲の写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.pinterest.jp/pin/370139663100024240/です。「夏の入道雲の写真」

  • 「日本全国にある7万余のお寺と7千の教会」

    日本人は宗教が好きなのでしょうか。実に数多くの教会やお寺があるのです。以下にその概略をお送り致します。(https://higan.net/somosan/2008/04/q-64/とhttps://higan.net/somosan/2008/04/q-64/)全国の教会数は7,119教会です。人口10万人あたり5.61mの教会があります。教会数が最も多いのは沖縄県で人口10万人あたり14.80教会あります。沖縄は突出しており、在日米軍の存在が影響しているのでしょう。2位は長崎県で人口10万人あたり9.00教会があります。。3位以下は鳥取県(8.42教会)、愛媛県(8.15教会)、京都府(7.75教会)の順になっています。一方、最も教会数が少ないのは岐阜県で人口10万人あたり3.17教会です。分布図を見...「日本全国にある7万余のお寺と7千の教会」

  • 「キリスト教を簡単に理解する方法」

    キリスト教を簡単至極に説明したいと思います。分かり易く説明するためにお釈迦さまの教えと比較しながら話を進めて行きたいと思います。さて、ユダヤ民族だけの民族宗教として旧約聖書が前900年頃に出来ました。それから、長い年代にわたって改正が続きましたが、ユダヤ民族がバビロニアに捕囚されていた時代に大部分が編集されたそうです。この旧約聖書は長い間、ユダヤ教の基本でしたが2000年前にイエス・キリストが改正をして世界の全ての民族に通用するキリスト教を作ってしまったのです。この宗教の特徴は『神はヤハウエ神だけである。偶像崇拝は行わないこと』ということにあります。仏教と比較しますとキリスト教では唯一の神が存在しますが、仏教では神の存在を認めていません。お釈迦さま自身はあくまでも人間であって死んだら空(クウ)になるだけで...「キリスト教を簡単に理解する方法」

  • 「妻の夏の思い出、群馬県へ疎開」

    1945年の夏の終戦の直前に家内は群馬県の山里の下仁田町に疎開しました。その縁で東京に帰ってからも下仁田とは交流があり、私も何度か下仁田を訪ねたことがあります。上毛三山の妙義山の南麓にある本当に静かな所です。現在の下仁田町は昔の日本そのままのようなたたずまいです。横山美知彦さんは家内が疎開した時の小学校で同級生でした。その横山さんがときどき山里に暮らす四季折々の随筆や写真を送って下さいました。戦後の貧しかった日本の地方によくあった人生模様が書いてあります。市井の人々の哀歓がさり気なく書いてあります。写真は下仁田町です。写真のような山あいの町、下仁田町の諏訪神社の秋祭りは豪華です。7台の豪華な山車が勢揃いして、天保年間(1830~1844)から続く昔のままの賑わいで毎年10月に行われます。横山さんは長年祭り...「妻の夏の思い出、群馬県へ疎開」

  • 「北海道の夏の花の写真です」

    北海道の夏の花の写真です。写真の出典は、https://uu-hokkaido.jp/flower/summer.shtmlです。「北海道の夏の花の写真です」

  • 「東京が焼野原になる前の戦前の街の風景」

    現在の日本人には想像しにくいことですが、東京はアメリカ軍の60回の空襲により完全に焼野原になったのです。空襲による死者は約10万5400人だったのです。今日は東京が焼野原になる前の戦前の街の風景の写真をお送り致します。仙台の写真もついでに示しました。このような歴史を現在の若者も忘れられないように祈ります。写真の出典は、https://www.city.chuo.lg.jp/heiwa/shiryoshitu/picture/picture/senzen.htmlです。1番目の写真は戦前の数寄屋橋付近です。丸い建物は日劇でよく覚えています。昭和11年生まれの私は兵庫県の祖父の家に行く時よくこの付近を電車で通りました。2番目の写真は銀座の三越と三井本館です。昭和14年頃です。3番目の写真は京橋付近です。歩いて...「東京が焼野原になる前の戦前の街の風景」

  • 「終戦後の悲惨な暮らしを示す写真」

    1945年の夏に日本は無条件降伏をしました。やっと平和になったのです。しかし生活は悲惨でした。戦争の恐ろしさを忘れない為にも終戦後の悲惨な暮らしを示す写真をお送り致します。写真の説明は不要と思います。写真そのものが日本の苦しい暮らしを語ってます。1番目の写真は少し明るい風景です。平和が戻ってきた小倉の町のお正月の風景です。あとの写真は全国各地の悲惨な暮らしを示す写真です。これらの写真を見ると戦後の暮らしのひどさが分かります。忘れていましたこんなにひどい生活をしていたのです。終戦の日から79年の月日が経ちました。その間いろいろなことがありました。そして日本の生活も欧米と同じようになったのです。毎年、夏はいろいろ考えます。いろいろ想います。それにしてもこの平和は有難いものです。この平和のために多くの戦没者がい...「終戦後の悲惨な暮らしを示す写真」

  • 「東京湾のミズリー号での降伏文書の調印式」

    1945年9月2日に東京湾のミズリー号での降伏文書の調印式で太平洋戦争が終結しました。歴史上最も多くの被害と戦死者を出した戦争は、このわずか23分間の式によって終結したのです。9時2分に日本の降伏文書調印式が始まりました。まずマッカーサーが行ったスピーチのあと、日本の天皇と政府の代理として重光葵外務大臣が署名を行い、続いて日本軍の大本営の代表として梅津美治郎参謀総長が署名をしました。そして、続いて各代表も以下の順番で署名を行いました。アメリカ合衆国代表チェスター・ニミッツ中華民国代表徐永昌イギリス代表ブルース・フレーザーソビエト連邦代表クズマ・デレヴャーンコオーストラリア代表トーマス・ブレイミーカナダ代表ムーア・ゴスグローブフランス代表フィリップ・ルクレールオランダ代表コンラート・ヘルフリッヒニュージーラ...「東京湾のミズリー号での降伏文書の調印式」

  • 「アメリカ軍による日本占領と日本社会の改革」

    1945年の敗戦後、日本に対して行われた占領統治のしくみはどのようなもので、どのような改革が行われたのだろうか。また、戦後の日本社会を方向づける大きな役割を担った日本国憲法は、どのような経緯で、どのような歴史的背景のもとに制定されたのだろうか。これらの事柄について、新たな世界秩序を形成した冷戦体制と、それが日本社会に及ぼした影響にも注目しながらまとめてみましt。下記の出典は、https://www.nhk.or.jp/kokokoza/nihonshi/assets/memo/memo_0000000627.pdfです。占領統治下の諸改革日本が受諾したポツダム宣言にもとづき、マッカーサーを最高司令官とする連合国軍が日本に進駐してきた。マッカーサーは、GHQ(SCAP・連合国軍最高司令官総司令部)を東京に設...「アメリカ軍による日本占領と日本社会の改革」

  • 「衝撃的な光景を見て戦後の農地解放を理解した」

    私は衝撃的な光景を見てしまったのです。地主の妻の祖父が高い縁側に座り、3人の小作人が庭の地面に這いつくばり話している光景を見てしまったのです。それは私にとって衝撃的な光景でした。その場面を見て地主と小作人の関係が一瞬にして理解したのです。そして戦後の農地解放の重要性が理解出来たのです。マッカーサーのしたマッカーサーの偉さが分かったのです。今日はマッカーサーのマッカーサーの説明をお送り致します。農地改革の時代には、日本の農業は牛を使って手作業で行なわれていました。1番目の写真は牛を使って手作業で行なわれてい水田の田おこしです。1958年の毎日新聞社の」紙面です。http://www.crosscurrents.hawaii.edu/content.aspx?lang=jap&site=japan&theme...「衝撃的な光景を見て戦後の農地解放を理解した」

  • 「時代は流れる、消えた沼と亜炭と長火鉢と蚊帳」

    世の中は足早やに変化するものです。長生きしているとそう感じます。今日は消えた沼と亜炭と長火鉢と蚊帳を例にして世の中のに変化を示したいと思います。皆様が子供の頃にあった長火鉢と蚊帳が今もありますか?釣りをしたり、遊んだ川や沼はまだ現存していますか?子供の頃には炊事のための燃料や風呂釜の燃料は何だったのでしょうか?はじめの話は昔、私が釣りをしていた三つの沼と自宅で燃料にしていた亜炭という不思議な燃料が跡形も無く消えてしまったという話です。完全に消えてしまったのです。それは故郷の仙台市の向山という地区のことです。その地区に越路路地丁があります。そここにはバス通りがあり長徳寺や大満寺があります。そのバス通りに沿って3つの沼が並んでいて、そこで私は小ブナを釣ったりオタマジャクシを捕って蛙にさせたりして遊んだものでし...「時代は流れる、消えた沼と亜炭と長火鉢と蚊帳」

  • 「夏の夜の楽しい風景」

    夏の夜の楽しい風景の写真をお送り致します。夏の夜は楽しいものです。そんな風景の写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。「夏の夜の楽しい風景」

  • 「夏になると思い出す第二次世界大戦の犠牲者数」

    近年、日本の社会は軍備強化と自衛隊の海外派遣に賛成する政治家や国民が多くなりつつあります。そのせいで新聞には過去の戦争の犠牲者の数が掲載されなくなりました。犠牲者数は日本が約300万、ドイツが660万人、アメリカが54万人と私は記憶していましたが、それ以外の国々のことは忘れていました。この際、あらため調べてみましたら、以下の数字のようになりました。以下の一覧表を見ると、日本軍の占領した中国やフィリピン、インドネシア、シンガポール、マレーシア、などの東南アジアで犠牲者が多かったのです。なかでもフィリピン、インドネシアでの犠牲者が突出しています。最近はこの事実を忘れているのでしょうか?中国政府や韓国政府に言われるまでもなく日本人はこの歴史を真摯に見つめ直すべきではないでしょうか?戦争は敵味方すべての人を悪魔に...「夏になると思い出す第二次世界大戦の犠牲者数」

  • 「夏になると思い出す白樺湖高原、車山高原、霧ケ峰高原の草花の群れ」

    夏になると白樺湖高原、車山高原、霧ケ峰高原の草花の群れを思い出します。標高2000m位の高原の連なりには白いシシウド、ギボシ、青いツリガネニンジン、ピンクのヤナギラン、オレンジのキスゲ、コオニユリ、そしてフジバカマ、アザミ、などなどの花の群れが咲いています。写真を撮っていると乾いた涼風が吹き渡り花々が揺れています。都会の暑さが嘘のようです。涼しい風をご想像されながら写真の花々をお楽しみ下さい。撮影場所:長野県、白樺湖高原、車山高原、霧ケ峰高原、「夏になると思い出す白樺湖高原、車山高原、霧ケ峰高原の草花の群れ」

  • 「終戦を告げる玉音放送」

    私は疎開先の宮城県の北部の田舎の小学校の校庭に直立して聞きました。暑い夏の日でした。朕󠄂深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ吿ク朕󠄂ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通󠄁吿セシメタリ抑〻帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦󠄂共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺󠄁範ニシテ朕󠄂ノ拳󠄁拳󠄁措カサル所󠄁曩ニ米英二國ニ宣戰セル所󠄁以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主󠄁權ヲ排シ領土ヲ侵󠄁スカ如キハ固ヨリ朕󠄂カ志ニアラス・・・以下省略朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み非常の措置をもって時局を収拾せんと欲しここに忠良なる汝臣民に告ぐ朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対しその共同宣言を受諾する旨通告せしめたりそもそも帝国臣民の康寧をはかり万...「終戦を告げる玉音放送」

  • 「夏になると思い出す大空襲、そして空襲したアメリカ兵と友人になる」

    毎年、毎年、8月15日の終戦の日が近づくと大空襲の光景を思い出します。当時私は国民学校3年生でした。私が立っていた小高い山の眼下に一面に燃え盛る仙台市が広がっていました。一夜にして焼け野原になりました。B29が123機来襲して一気に焼く尽くしたのです。そして全国の数多くの都市が、1945年7月に、アメリカ空軍のB29の編隊による焼夷弾攻撃で焼きつくされたのです。戦後すぐに吉田首相はその中から115市町村を選び復興事業の予算を交付します。下記のように日本全国のほとんど全ての都市がB29の焼夷弾で焼きつくされたのです。根室市,釧路市,函館市,本別町、青森市、釜石市,宮古市,盛岡市,花巻市、仙台市,塩竈市、郡山市,平市、東京都の区の存ずる区域,八王子市、横浜市,川崎市,平塚市,小田原市、千葉市,銚子市、熊谷市、...「夏になると思い出す大空襲、そして空襲したアメリカ兵と友人になる」

  • 「嗚呼、懐かしい木炭自動車の姿」

    戦中、戦後、日本ではガソリンが無くなり、木炭自動車が走っていました。バスは後ろに大きな窯を背負って、坂道に来ると乗客が降りて押しています。私も一家で海水浴へ行く時のバスは決まって木炭バスでした。坂にくると父が他の乗客とともにバスの後を押していました。あれ以来、70余年、すっかり忘れていました。ところが最近、日常的に木炭自動車を使っていた老境の人に会いました。その方は昭和19年まで木炭自動車を運転していたそうです。木炭自動車とは木炭を縦形の大きな窯で燃やして、一酸化炭素ガスを発生させて、それをエンジンへ適量の空気と共に供給し、爆発させ、シリンダーを上下させ、車を動かすそうです。ガソリン車へ木炭窯を取り付け、少しの改造で出来るそうです。実際に使っていた方の話では、一番大変な仕事は3時間毎に灰や燃えカスを取り出...「嗚呼、懐かしい木炭自動車の姿」

  • 「猪熊弦一郎の「マドモアゼルM」」

    「マドモアゼルM」は戦争中の1940年の作品で、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館いあります。彼の代表作です。https://www.fashion-press.net/news/90987猪熊弦一郎は、1902年に香川で生まれた、20世紀日本を代表する画家だ。戦前にはパリ、戦後は東京、ニューヨーク、ハワイと拠点を変えつつ活動するなかで、猪熊の画風は具象画から抽象画へと変化し、晩年には具象と抽象の枠を超えた作品を制作。また、戦後には三越の包装紙デザイン、慶応義塾大学学生ホールや上野駅中央コンコースの壁画を手がけるなど、社会との関わりも強めていった。1938年には渡仏し、最先端の芸術都市であったパリでアンリ・マティスやパブロ・ピカソと交流。しかし、第二次世界大戦が勃発すると帰国し、フィリピンやビルマに派遣されて作戦...「猪熊弦一郎の「マドモアゼルM」」

  • 「松本 竣介の暗くて美しい油彩画」

    松本竣介(1912年4月19日-1948年6月8日)日本の洋画家。太平洋戦争が始まる8ヶ月前の1941年(昭和16年)4月、軍部による美術への干渉に抗議して、美術雑誌『みづゑ』437号に「生きてゐる画家」という文章を発表したことはよく知られている。都会の風景やそこに生きる人びとを、理知的な画風で描いた。詳しくは下記にあります。https://ja.wikipedia.org/.../%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E7%AB%A3...「松本竣介の暗くて美しい油彩画」

  • 「戦没画学生の油彩画、追加」

    戦没画学生の油彩画を追加いたします。1番目の写真は無言館の本館の内部です。2番目の写真は伊澤洋『家族』です。3番目の写真は田中兵部「婦人像」です。4番目の写真は佐久間修「静子像」です。5番目の写真は日高安典『裸婦』です。「戦没画学生の油彩画、追加」

  • 「夏が来ると思い出す戦没画学生の無言館」

    戦前の昭和11年に生まれた私は毎年、夏が来ると太平洋戦争のことをいろいろと思い出します。昭和20年7月10日の仙台大空襲の紅蓮の炎、一面の焼け野原の光景は心に焼き付いています。そして戦後の疲弊しきった日本、殺伐とした社会、食糧難の戦後、それらは忘れようとしても忘れられません。ですから毎年夏が来ると第二次世界大戦のことを思い出します。8月15日の昭和天皇の終戦の言葉は疎開先の農村の国民学校の校庭で聞きました。暑い夏の陽が射していました。太平洋戦争は日本民族の歴史において空前絶後の大事件でした。日本人が310万人も死に、中国人は1000万人、アメリカ人が40万人も死んだのです。朝鮮人は軍人が22万人、一般人が2万人死亡しました。台湾人は軍人が18万人、一般人が3万人死亡しました。今日は戦没画学生の遺作を展示し...「夏が来ると思い出す戦没画学生の無言館」

  • 「日本の夏の山に咲く花々の写真」

    夏の山に咲く花々の写真をお送りいたします。夏の山に咲く花々は小さい花ですが色鮮やかで美しいものです。背景の山々にも心躍ります。そんな風景写真をお楽しみ下さい。写真は「夏の山の花の写真」を検索して、インターネットの写真からいろいろな風景写真を選びました。「日本の夏の山に咲く花々の写真」

  • 「夏のフィナーレ、8月下旬の山形新庄まつり」

    毎年8月24日~26日の3日間開催され、圧倒的なスケールで、見る者を魅了する新庄まつり。新庄の夏は、まつりの熱狂でフィナーレを迎える。その歴史は古く、今から260年以上前の江戸中期までさかのぼります。宝暦6年(1756年)、時の藩主・戸沢正のぶ(言べんに甚)が、前年の大凶作にうちひしがれている領民に活気と希望を持たせ、豊作を祈願するため、戸沢氏の氏神である天満宮の祭典を領内あげて行ったのが起源とされます。https://yamagatakanko.com/festivals/detail_2991.html「夏のフィナーレ、8月下旬の山形新庄まつり」

  • 「お盆のいろいろな行事の写真」

    今日はお盆の風習のあれこれを書きたいと思います。日本で最初にお盆を行ったのは推古天皇で、今から1400年も前の飛鳥時代です。長い間、貴族や僧侶だけが行う特別な行事でしたが、江戸時代に入ると、ろうそくや提灯が大量生産されたこともあって、一般の人にも定着していきました。そして現在の一般的なお盆の期間は、8月13日から16日までです。まずお盆の行事のあれこれの写真を示します。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E7%9B%86です。1番目の写真は精霊馬です。精霊牛馬とも言います。ナスとキュウリに割り箸などで脚を付けてウシとウマに見立てるのです。胡瓜の馬はあの世にいる故人が乗って急いでこの世に帰って来るのです。お盆が終われば茄子の牛の乗ってゆっくりあの世に...「お盆のいろいろな行事の写真」

  • 「カトリックは原始的!イエス様の肉を食べる」

    カトリックは原始的です。イエス様の肉を食べるのです。この脅威の習慣を説明したいと思います。カトリックのミサの終りのほうで神父さんが一人一人へ小さなパンをくれます。それはイエス様の肉なのです。ですから神父さんは「イエスの体」と小声で言って渡します。信者は「アーメン」と言ってパンを受け取り、すかさず口に入れます。こうしてカトリックの信者はミサごとにイエス様の肉を頂いて食べるのです。このミサで一番重要な部分は次の福音書によっているのです。「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。」そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか。」イエスは彼ら...「カトリックは原始的!イエス様の肉を食べる」

  • 「8月15日は終戦の日、そしてマリア様が天に昇った祝日」

    今年も8月15日がきます。8月15日は終戦の日、そしてマリア様が天に昇った祝日です。日本の地方ではお盆の日です。さて今日はマリア様が天に昇った祝日のことを説明したいと思います。この祝日をマリア様の被昇天の祝日と言います。どうして“被”と付くかというと、マリアはキリストの力によって天へ行けたからです。天にあげられた、という意味で“被”が用いられています。この8月15日が聖母マリアの祝日であることは、歴史的に5世紀のエルサレムでこの日に祝われていた神の母マリアの記念に由来しています。そして6世紀には、8月15日がマリアの死去の日としてギリシャ正教やロシア正教などの東方教会で祝われるようになりました。それが後にカトリック教会へ移入されたのです。このマリア信仰はもともとギリシャ正教やロシア正教などの東方教会とカト...「8月15日は終戦の日、そしてマリア様が天に昇った祝日」

  • 「真夏でも涼しい絶景スポット」

    日本いは真夏でも涼しい高原や海辺があります。その幾つかの風景写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.nta.co.jp/media/tripa/articles/1DQUvです。1番目の写真は北海道の青い池です。最も美しい村に認定される美瑛町を代表する人気の絶景スポット。太陽光の向きや角度により、池の水が驚くほど美しいコバルトブルーに輝きます。水辺に生えるカラマツの木とのコントラストも素晴らしく、幻想的な光景です。2番目の写真は奥入瀬渓流です。十和田湖東岸から約14km続く国指定の天然記念物。清流と手付かずの自然が作り出す美しい景観が魅力で、日本の夏を代表する清涼スポットの一つです。水の透明度が非常に高く、稀少な苔が生息しているのが特徴。3番目の写真は上高地です。北アルプスの秀峰に囲ま...「真夏でも涼しい絶景スポット」

  • 「夏の風物詩」

    夏の風物詩といえば、下記のものです。花火(はなび)浴衣(ゆかた)かき氷(かきごおり)スイカ割り(すいかわり)蝉(せみ)風鈴(ふうりん)扇風機(せんぷうき)蚊取り線香(かとりせんこう)麦茶(むぎちゃ)ラムネ素麺(そうめん)夏は楽しいですね。「夏の風物詩」

  • 「終戦の夏にも咲いていたヒマワリの花」

    毎日、毎日が暑いです。真夏です。思い出しましたが終戦の夏にもヒマワリの花が咲いていました。何事もなかったように咲いていました。写真をお送りいたします。・・3番目の写真は山梨県北杜市の明野の60万本のヒマワリ畑です。背後の山は八ヶ岳です。4番目の写真も明野のヒマワリ畑です。7月下旬から8月いっぱい楽しめます。5番目の写真は北海道の北海道の美馬牛小学校の塔とヒマワリ畑です。美馬牛小学校は美瑛町にあります。「終戦の夏にも咲いていたヒマワリの花」

  • 「終戦直後と現在の我が故郷、仙台の風景」

    8月になると日本の敗戦を想います。終戦後のいろいろを思い出します。当時私は小学生でした。今日は我が故郷、仙台の終戦直後と現在の様子をご紹介いたします。まず終戦直後の我が故郷、仙台の風景を示します。写真は「終戦直後の仙台の風景」を検索してインターネットにある写真をお借りしました。最後の写真は終戦後数年たってからの仙台駅です。1番目の写真は中心街の東一番町の焼野原です。鉄筋コンクリート造りのデパートだけが崩れずに建っておます。2番目の写真は終戦直後に建てられたバラックの街並みです。子供たちは元気に走り回っています。3番目の写真は終戦後数年たってからの仙台駅前の様子です。貧弱なようすの市電がノロノロ走っていました。写真で終戦直後の我が故郷、仙台の焼野原や町の様子を示しました。仙台は一例に過ぎず、全国200以上の...「終戦直後と現在の我が故郷、仙台の風景」

  • 「長崎県の観光の案内」

    長崎県の観光の案をお送り致します。世界遺産の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の12の構成資産のうち、11の構成資産は長崎県にあります。そのうち8つの集落に教会が建てられており、大浦天主堂と併せて9つの教会巡りは楽しい観光です。詳しい長崎県観光の案内は、https://www.at-nagasaki.jp/feature/junrei-knowledgeにあります。添付の写真は﨑津教会です。「長崎県の観光の案内」

  • 「今日はカトリック松原教会のミサにあずかりました」

    今日はカインターンットを通うしてカトリック松原教会のミサにあずかりました。ミサの動画配信は下記です。https://matsubara-cath.chu.jp/ja/online-mass/#:添付の写真は今日の松原教会のミサの風景です。〒156-0043東京都世田谷区松原2-28-5TEL.03-3321-0941FAX.03-3321-0009「今日はカトリック松原教会のミサにあずかりました」

  • 「夏になると思い出す暑い日の玉音放送」

    今年も8月15日が近づきます。8月にはいろいろなことを思い出します。疎開した田舎の夏。学校で聞いた玉音放送、日本が戦争に負けたこと。田畑での手伝い。蝉取り。海水浴。海辺から見た大海原の風景、崩れる大波の音。高い青空に輝く太陽。悲惨な沖縄戦、広島と長崎の原爆投下の後で日本は敗北したのです。私は疎開先の田舎の小学校3年生でした。校庭で玉音放送を聞きました。帰りに田圃のあぜ道を歩きながら子供心にも敗戦の悲しみを噛みしめていました。暑い日でした。太陽が田圃のあぜ道を歩いている私に容赦なく照り付けていました。あれから月日が流れました。私の人生にもいろいろな事がありました。しかし8月が来るたびに日本の敗戦のことやいろいろな事を考えるのです。太平洋戦争は日本民族の歴史で初めての敗北です。外国の軍隊に占領されたのも初めて...「夏になると思い出す暑い日の玉音放送」

  • 「夏になると思い出す祖父が住職をしていた兵庫県のお寺」

    祖父が住職をしていた曹洞宗の正林寺は兵庫県の猪名川町の内馬場にありました。私の父は長男でしたが寺を出て仙台の東北帝大の教授になっていました。正林寺に毎年夏に泊まりに行くのが我が家の恒例でした。少年の頃のことで茫々70年前のことです。兵庫県への長旅はまず東北本線の蒸気機関車で上野駅まで行きます。東海道線の電気機関車で梅田、大阪駅まで根気良く走ります。梅田から阪急電鉄に乗ります。野勢口で乗り換えて野勢の妙見さんの方面に行きます。その電車の「山下駅」で降ります。そこから内馬場は20Kmの遠方にあります。はじめはタクシーでしたが太平洋戦争でタクシーも無くなりました。オート三輪の荷台の乗って内馬場まで行きました。正林寺は兵庫県の内馬場の小高い山の上にありました。その正林寺に似たお寺の写真を示します。インターネットか...「夏になると思い出す祖父が住職をしていた兵庫県のお寺」

  • 「長崎県と中国との交流の歴史」

    長崎県はもともと地理的に東アジアに近いため紀元前の昔から中国大陸や朝鮮半島と深い関わりをもってきました。17世紀から19世紀にわたる日本の鎖国時代に海外との唯一の貿易の窓口であった長崎は、中国やオランダとの交易で栄えました。当時、中国人の居留地であった唐人屋敷は、幕府の規制はあったものの比較的自由に出入りが許され、長崎に多くの影響を与えました。長崎市の繁華街に近い中島川にかかる石橋群は、ほとんどが最初は中国人によって造られたもので、中でも、眼鏡橋はわが国最初のアーチ型石橋として国の重要文化財に指定されています。市内の唐寺は、江戸初期に長崎に来航した中国人によって建てられたもので、そのうちの崇福寺で毎年行われている中国盆では、現在でも全国から集まった華僑や多くの見物客で賑わいます。中国文化の影響は、ペーロン...「長崎県と中国との交流の歴史」

  • 「長崎県の観光名所の写真」

    長崎県の観光名所の写真です。長崎県には観光名所がたくさんあります。その7ケ所の写真をお送り致します。1番目の写真は九十九島です。2番目の写真はグラバー邸です。3番目の写真は軍艦島です。4番目の写真は出島です。5番目の写真は眼鏡橋です。6番目の写真はハウステンボスです。7番目の写真はオランダ坂です。「長崎県の観光名所の写真」

  • 「長崎県の魅力、遥かな五島列島にある50もの天主堂」

     五島列島は本当に遠い離れ島です。遥かに憧れて数十年、やっと2泊3日の旅で訪れることが出来ました。3日間、観光バスで五島列島の険しい山々を越えて岬と岬の間にある小さな集落を幾つも巡り5つのカトリック教会を訪ねました。五島列島には全部で50ケ所のカトリック教会がありますので、訪問したところはそのほんの一部にすぎません。訪れた5つの教会の家内が撮った写真をお送り致します。1番目の写真は井持浦天主堂です。  2番目の写真は堂崎天主堂です。3番目の写真は堂崎天主堂の祭壇です。4番目の写真は青砂ケ浦天主堂です。5番目の写真は青砂ケ浦天主堂の祭壇です。6番目の写真は頭ケ島天主堂です。7番目の写真真は中ノ浦天主堂です。 五島列島ではたった7万人の住民にた対して50もの教会が存在するのです。 それはそれとして、今日も皆様...「長崎県の魅力、遥かな五島列島にある50もの天主堂」

  • 「長崎県の魅力、世界文化遺産の隠れキリシタンの遺産群」

    長崎県は島が多く、魚介が豊富な県です。そして、横浜・神戸に次ぐ、中華街があるのが長崎市です。長崎のチャンポンと皿うどんは絶品です。牡蠣やイカなど長崎で取れた魚介をふんだんに使ったスープやとろみは美味しいものです。私も何度か長崎に行き長崎のチャンポンを食べ感動しました。今日は長崎のチャンポンのことは割愛して長崎の潜伏キリシタンについて書きたいと思います。さて「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は2018年に世界文化遺産へ登録されました。江戸時代にキリスト教が禁じられても信仰を守った歴史です。長崎と天草地方において日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら信仰を続けたのです。潜伏キリシタンの信仰継続の遺産群です。それらの写真はインターンットからお借りしてお送り致します。出典は、https://www.na...「長崎県の魅力、世界文化遺産の隠れキリシタンの遺産群」

  • 「盆踊りと夜店の写真」

    老齢になると夜に出歩くのが億劫になります。しかし少し前までは夏の夜によく出掛けたものです。盆踊り夜店を見に行ったものです。懐かしいので、盆踊りと夜店の写真をインターンットからお借りしました。「盆踊りと夜店の写真」

  • 「夏祭り、お寺の施餓鬼供養」

    まったく個人的なことですが、私の父方の祖父は兵庫県の宝塚から能勢電鉄で入った山の村落のお寺の住職をしていました。それは曹洞宗の正林寺というお寺でした。その祖父は戦前に亡くなり、父の弟が後を継ぎました。その祖父の戒名は高天秀嶽大和尚といいます。昭和11年生まれの私は毎年、夏になると一家でそのお寺に帰省し、お寺の暮らしを体験しました。お盆には施餓鬼供養という一大イベントを毎年見たのです。近隣のお寺から多くのお坊さんが集まって、本堂でお経を唱和し、そして銅鑼を鳴らしながら輪になって歩き、お経を唱えるのです。お寺の下にある内馬場の村落の人々が本堂の両側の客間に溢れるように座っています。その正林寺の懐かしい施餓鬼供養の様子を似たような写真でしめします。写真の出典は、https://temple.nichiren.o...「夏祭り、お寺の施餓鬼供養」

  • 「夏祭り、島原の精霊流しの写真」

    島原の精霊流しは毎年8月15日に行われる伝統行事で、300年以上の伝統があります。島原の乱後、新藩主の高力忠房は人々の心の安定化を図るため、神社仏閣を再建させ仏教を盛んにしました。その一つが盂蘭盆の夜の精霊船での送り出しでした。8月15日は日暮れと共に町内に待機した精霊船が、初盆を迎えた家から出された切子灯ろうを飾り、若者に担がれて出発するのです。若者達は「ナマイドー、ナマイドー」と声をかけながら進み、初盆の家や各地の広場で右に左に錬り回ります。精霊船は町内を一周した後、有明海へと流されます。ロウソクを灯した精霊船が闇夜の有明海に浮かぶ姿は幻想的で美しいものです。「夏祭り、島原の精霊流しの写真」

  • 「ポーランドの夏祭り、『聖ヨハネ祭』」

    首都ワルシャワから西に約310km、ポーランド最古の都市ポナズンで毎年6月に開催される夏至を祝う祭典「聖ヨハネ祭(NocKupały)」の写真をお送り致します。無数のランタンを夜空に放つ絶景のお祭りで、ランタンに願い事を書き、きれいに夜空へと浮かび上がると願い事が叶うといわれています。『聖ヨハネ祭』とはバプテスマのヨハネの生誕祭です。6月24日に、ヨハネがイエス・キリストより6ヵ月早く生まれ,長じて後,キリストに洗礼を施したことは聖書に詳しく書かれています。「ポーランドの夏祭り、『聖ヨハネ祭』」

  • 「東北の夏祭り、青森ねぶた、秋田竿燈、仙台七夕」

    東北の3大夏祭りも終わると夏も峠を越します。暑さはまだまだ続きますが次第に秋が近ずいて来ます。今日は夏祭りについて書きたいと思います。東北の3大夏祭りとは青森ねぶた(毎年8月2日~7日)、秋田竿燈(毎年8月3日~6日)と仙台七夕(毎年8月6日~8日)です。他にも日本には大きな夏祭りがりますが、まず東北の3大夏祭りから書きたいと思います。青森ねぶた祭青森の「ねぶた」を初めて見た時の驚きと興奮は今でも強烈に覚えています。青森地方に生き続けている縄文人の情念が蘇ったようなオドロオドロしい武者絵が不思議な動きをするのです。それは幻想的な夏の夜の夢です。巨大な張り子の動き方はこの世の動きでないのです。武者絵や馬や鬼の張子が夏の夜空を舞うように見えるのです。兎に角強烈な色彩と太い輪郭線の巨大な張り子の神秘的な動きが見...「東北の夏祭り、青森ねぶた、秋田竿燈、仙台七夕」

  • 「中国の鵜飼いの写真」

    中国の鵜飼いの写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。「中国の鵜飼いの写真」

  • 「岐阜県の魅力、1300年の歴史がある長良川の鵜飼い」

    鵜飼とは、鵜を巧みに操って川にいる魚を獲る漁法のことです。日本での鵜飼の起源は、稲作とともに中国から伝承したとする説がありますが定かではありません。各地の古墳から鵜飼を表現しているとみられる埴輪が出土しているため、少なくとも古墳時代には鵜飼が行われていた可能性があります。文献では、8世紀の『古事記』『日本書紀』などに、鵜飼に関する記述が見られます。さて長良川の鵜飼いについてです。(https://www.ukai-gifucity.jp/history.html)美濃国(現在の岐阜県)では、7世紀頃から鵜飼が行われていたと言われています。正倉院に納められている文書の内、美濃国と伝えられる702(大宝2)年の戸籍に、「鵜養部目都良売(うかいべのめづらめ)」という記述があります。この人物は、鵜飼を生業としてい...「岐阜県の魅力、1300年の歴史がある長良川の鵜飼い」

  • 「岐阜県の魅力、1300年の歴史がある長良川の鵜飼い」

    鵜飼とは、鵜を巧みに操って川にいる魚を獲る漁法のことです。日本での鵜飼の起源は、稲作とともに中国から伝承したとする説がありますが定かではありません。各地の古墳から鵜飼を表現しているとみられる埴輪が出土しているため、少なくとも古墳時代には鵜飼が行われていた可能性があります。文献では、8世紀の『古事記』『日本書紀』などに、鵜飼に関する記述が見られます。さて長良川の鵜飼いについてです。(https://www.ukai-gifucity.jp/history.html)美濃国(現在の岐阜県)では、7世紀頃から鵜飼が行われていたと言われています。正倉院に納められている文書の内、美濃国と伝えられる702(大宝2)年の戸籍に、「鵜養部目都良売(うかいべのめづらめ)」という記述があります。この人物は、鵜飼を生業としてい...「岐阜県の魅力、1300年の歴史がある長良川の鵜飼い」

  • 「岐阜県の魅力、江戸時代そのままの高山市と郡上八幡の盆踊り」

    高山市には旧懐の情がかきたてられます。江戸時代そのままの景観に感動して3回訪れました。郡上八幡の盆踊りは楽しい盆踊りです。つい踊りの輪に入って踊りました。盆踊りは初めての体験でしたが躍ってみると実に楽しいものです。今日は江戸時代そのままの店が並ぶ高山市と郡上八幡の盆踊りをご紹介いたしたいと思います。まず江戸時代そのままの店が並ぶ通りと郡上八幡の盆踊りの写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。1番目の写真は飛驒山脈とに高山市の風景です。槍ヶ岳や穂高岳なども見えます。また高山市に入るためには安房峠や野麦峠を超えなければなりません。観光客がまだいない朝の風景です。2番目の写真は江戸時代そのままの高山市の風景です。3番目の写真は観光客がいっぱいいる昼間の風景です。店店が営業していて繁盛してい...「岐阜県の魅力、江戸時代そのままの高山市と郡上八幡の盆踊り」

  • 「ヨットの走り方を示す動画を見ましょう」

    ヨットは風の力で走ります。風上へ45度の方向までは登れます。ヨットの走り方を示す動画を見ましょう。動画は、https://www.youtube.com/watch?v=HTirmIQd8GQやhttps://www.youtube.com/watch?v=NSb22GWUxsgにあります。「ヨットの走り方を示す動画を見ましょう」

  • 「懐かしい葉山マリーナの写真」

    私は38年前の50歳の時、趣味としてヨットを始めました。始めは江の島のヨットスクールと葉山マリーナでデンギィの操船方法を1年間ほど習いました。それから中古のクルーザーを買ったのです。懐かしい葉山マリーナの写真です。「懐かしい葉山マリーナの写真」

  • 「世界一のヨットレース、アメリカスカップと予選の写真」

    世界一大規模で過酷なヨットレースはアメリカスカップと呼ばれ、その予選レースをルイヴィトンアメリカスカップ・ヨットレースと言います。予選レースで優勝したヨットがアメリカスカップレースで前回の優勝艇に一対一の挑戦をするのです。そこで勝った艇が次回のアメリカスカップレースまで美しい彫刻を施した銀のカップを保持します。1851年にロンドン万博博覧会の時開催されたヨットレースでアメリカチームが優勝し始まったヨットクラブ対抗の世界一のヨットレースです。そして132年間もの長い間アメリカ合衆国が優勝し続けました。1992年から日本も参加しますが無残な結果に終わっていました。しかし2016年にアジアで初めて福岡でルイヴィトンアメリカスカップ・ヨットレースが開催されたのです。日本からはソフトバンク・チーム・ジャパンが出場し...「世界一のヨットレース、アメリカスカップと予選の写真」

  • 「趣味は人生を広げる、私のヨットの趣味」

    昨日私のヨットの趣味について書いたところ今は亡き昔の友人の星野清一郎君の息子さんがヨットのヤマハ29の写真を送ってきました。星野君と一緒に帆走した懐かしいヨットです。星野君とは猪苗代湖で何度もセイリングをしたものです。その後彼は私のヨットにも来てくれました。霞ヶ浦で一緒に遊びましした。葉山の海や駿河湾でもセイリングをしました。ヨットの趣味のおかげで星野君と親友になりました。そして友人が数多く出来たのです。趣味が私の人生を広げたのです。今日はヤマハ29の写真と私のヨットなどの写真をお送り致します。1番目の写真はヤマハ29の写真です。操舵装置が中央にある珍しい構造のヨットです。後ろのキャビンへ降りてゆくと大きなパーティ向きの部屋があり、炊事場がついています。船尾が大きく湾曲して張り出していて、そこに大きなガラ...「趣味は人生を広げる、私のヨットの趣味」

  • 「福島県の魅力、会津若松の鶴ケ城と白虎隊」

    猪苗代湖は35年位前に大学時代の友人の大きなヨットで花春カップレース3回参加した思い出があります。そして会津の鶴ケ城やその城下町は何度も家内と行った楽しい曾遊の地です。戦国時代に会津城主になったのは秀吉の家臣の蒲生氏郷でした。氏郷は茶人でした。それで会津城の天守閣の下に千利休の子、少庵が建てたと言われる茶室、麟閣があるのです。福島県指定重要文化財になっています。以前にその茶室で家内と抹茶を楽しみました。そして飯盛山の麓には御薬園があり、そこにも風雅な茶室があるのです。そこでも優雅な年配のご婦人の点前で抹茶を楽しみました。会津若松城は維新戦争で落城し、少年だった白虎隊17人が飯盛山で自刃した悲しい歴史があります。大政奉還が行われた際、当時会津藩を治めていた会津松平家の第14代当主、松平保久が維新軍へ対して激...「福島県の魅力、会津若松の鶴ケ城と白虎隊」

  • 「福島県の魅力、美しき猪苗代湖での帆走の思い出」

    長生きしていると友人が次々に旅立って行きます。亡くなった友人のことをよく思い出します。今日は美しき猪苗代湖での帆走の思い出と星野君の思い出を書きたいと思います。さて美しい猪苗代湖にも毎年、白鳥が北国のシベリアから渡って来ます。ある年に白鳥が青い湖に遊んでいる光景を見ました。その向こうに雪の磐梯山が輝いていました。そんな思い出の風景の猪苗代湖と白鳥の写真をお送り致します。1番目の写真は猪苗代湖と白鳥の写真です。(写真の出典は、http://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=01674000752&GroupCD=0&no=です。)この猪苗代湖では何度もヨットでセイリングしたものです。今は亡き星野君と一緒にセイリングしました。星野清一郎君の家は福島にあったの...「福島県の魅力、美しき猪苗代湖での帆走の思い出」

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