生きづらいものが生きていくために。回復とサバイバルについて考えていきます。
生きづらさは重い負荷ですが、それにより自分が生きるために必要なものへの意識や関心が深くなります。生きづらい人は誰のためでもなく、自分が生きていくために世間にまだ存在しないものを創りださなければいけない切実さを抱えています。生き抜くことは全く保証されていない。それにも関わらず生き残ろうとする人たちの創造は、通じる課題を持つ人たちの力となり、そして自身だけでなく、周囲の世界も回復させる力を持ちます。
11月に獣害(イノシシ・鹿)よけの柵をはり、タマネギの定植をした畑で、その後のケアと自給農法を学ぶ場をもうけます。自給農法は雑草を有効利用し、無農薬・無化学肥料で省労力で自家用作物をつくることを軸とした農法です。 日時:(雨天の場合は中止)4月21日(日)10時 〜16時 自給農法を学ぶ1 作物のケアと畝立て タマネギのケア5月12日(日)10時〜16時 自給農法を学ぶ2 雑草の活用と空気入れ、土寄せ6月9日(日)10時〜16時 自給農法を学ぶ3 タマネギ収穫 夏の畑へ 持ち物:軍手・飲み物・昼食・汚れてもいい靴・服最寄り駅:京都精華大前最寄りのトイレ(コンビニ)セブンイレブン上賀茂二軒茶屋店…
日本第一党が京都市の小学校での演説会をするとのこと。 昨日、原発事故で皆が避難するなか、1人捨てられた動物たちを集め、世話をする人の映画をみました。2011年以降、大勢は変わったのかと思うと、変わってないか、むしろ自分の「普通の暮らし」にとどまるため、見たくないことを見ないようにするために抑圧を強めたのかもしれないとも思いました。 ナオトひとりっきり予告編 大勢が変わらないと社会は変わらない(大勢が変わったら自分も変われる)からできるだけ大勢に効果的にアプローチするやり方を考えるのが良いというのもあるでしょうが、大勢の動員を前提とする仕組みや思考が今ほころびつつもあるのではないかとも思います。…
3/26 南区DIY読書会 発表原稿 「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」第六章〜
2019/3/26 南区DIY研究室読書会 奥野克己『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』 概要:ボルネオの狩猟採集民プナン(西プナン)はマレーシア・サラクワ州政府に属し、自動車などの近代的な道具に触れながらも、狩猟採集をベースとした自分たちの文化を維持していた。彼らの子どもは学校も行きたくなければ行かない。結婚はパートナーがいる状態をさすだけで、次々と別のパートナーに変わることも珍しくない。子どもは実子と養子が入り混じる場合が多い。プナンでは、ありがとうに該当する言葉はなく、また反省するという概念がない。 ◆今回の発表第六章、第七章から発表します。プナンの…
西川勝さんの星の王子さま読書会で、色々なものをもらっています。 僕にとっては、西川さんは物事がすぐ欺瞞に塗り固められ、その欺瞞に何も感じなくなってしまう世界に亀裂をいれてくれている人です。その亀裂から出てくる響いてくるものは、しばらく自分を正気にとどめ、ものを感じ、見る状態にしてくれます。自分の見える牢獄のような風景を変えうるしばしの機会は、そのような時にもらえるのだと思っています。 その西川さんが、「先行知」と「後知恵」について話していて、その区分は以後の自分のなかにはっきりと根づきました。先行知とは、未来を予測する知であり、どのような働きかけをすればどのような結果がでるかということの知識で…
話しの場について数人で話しました。 なぜ人が、社会の実際がこうなっているのかを考えてきて、やがて人が生きてくるなかで不可避的に、自動的に作られる殻があるからだと思うようになりました。 殻は自分の感じる根源的な痛みを感じなくさせるために形成されていくようです。何かができるようになったり、ステータスを高くしたり、強い高揚や刺激を常時補うことで、その痛みはだんだんと感じなくすることができます。 痛みを感じる身体をもったわたしが、殻を厚くするにつれ、わたしは痛みを忘れていくことができます。あるいはとても遠くへ押しやったままにとどめられるようになります。それが「普通」になります。 こういうと、それは特殊…
或る闘病記というブログを知って、読ませてもらいました。 fight.hatenablog.jp 想像ではなく、現実のこととして、死が自分のやってこようとする時の感覚。 あの夏の日、僕は病室の窓から蒼い空を見上げて、もう本当に死ぬのだと思っていました。もっと生きたかった、当たり前に生きたかったと、何度も拳を握りしめては膝に打ち付けました。 「もっと生きる」とはつまり、何であるのでしょうか? 10年、20年、50年と時間の延長が続くことが「もっと生きる」ことになるのでしょうか。生きる長さが自分の生に満足をもたらすために必要なのでしょうか。人は長い時間をかけて何かをやる途中にいるのでしょうか。 ある…
まだバイオハザードで。 映画のように編集してくれている動画があり、前編と後編あわせて4時間近いものを観ました。作品への愛を感じます。自分の好きなものをまたどう生かそうかと考える人のつくったものだと思いました。 前編 youtu.be 後編 youtu.be 後編を編集した作者のセリフ。後編だけで5ヶ月かけて作ったとのこと。 後編を楽しみにしてくださっていた方々、大変お待たせしました。プライベートが色々と忙しくてなかなか動画作りに時間を使えず後編をアップするのが前編をアップしてから約10ヶ月後になってしまいました。少し動画製作でのエピソードを書かせていただきます。実は最初は後編のアップは良いやと…
昨日の夜、連ツイしたものをまとめてみます。 バイオハザード6は、7年ぐらい前の作品のようです。アクションゲームが年々どうでもよくなっていて、いいストーリーのゲームはストーリーだけみせてほしい、と横着になっています。 そういう希望通りに編集してくれている動画もある様子。しかし、かなり長いようでまだ観ていません。 www.youtube.com バイオハザード6、割りと否定的な感想が多い感じがするけど、エイダのストーリーはかなりすごいなと思いました。歴代のプレーヤーはキャラや言いまわしが今までと違うことへの違和感があったのかもしれないけど、僕はいきなり6から物語を知ったし、かつての姿への愛着もなく…
星の王子さまの読書会の講師でもある哲学者の西川勝さんとの話しの場、来月より第二水曜日の日中、おそらく14時〜18時ぐらいの間になりますが、はじめる予定です。平日日中ど真ん中ですが、ご関心ある方はどうぞ打診ください。 熾(おき)という言葉を名前にいれる会にしたいと今日話しあっていました。熾には真っ赤に燃えた炭だったり、一方消し炭という意味もあるようですが、僕のなかでは燃え残っている炭、消えたようでくすぶり、条件が整って燃えることをまっている状態の火です。 生きてきて自分のなかに残っている熾を燃やすような探究をしていける話しの場にしたいと思っています。 西川さんからと話していて、たとえばなぜ僕が今…
以前、あるダンサーの人が別のグループのダンスの練習風景をみた後に、「どんな意識状態でやっているのかをみていた」と言っていたのが当時は全然意味がわからず、なんでみただけで意識状態がわかるのだろうと思っていました。 そういうのは、意図的に自分がそうしようと思っているわけではないのですが、問いとしてとっておかれ、そういう無意識の問いが重なりあった状態として日常のものごとが体験されます。 僕にとって、世界がどうなっているかを理解しようとすることは、人の感性がとらえたものをパズルのピースのように合わせてそこに現れる絵柄をみることです。 ある人が自分の知らない何かについて話していて、そしてそのリアリティは…
体制としては、3つの自給が自分たちのほうに引き寄せられるとき、人は自律的になりうると思います。食の自給、養生(医)の自給、学びの自給がないとき、たぶん感覚としては、生きるため(特に困ったとき)に必要なのは結局お金であり、それが稼ぐ場所だということになるだろうと思います。 そして結局生きるためにはお金が必要となると、老後や病気事故などのためにはいくら稼いでも十分ということはなくなります。将来に対しての貯金とはつまり、将来に対して「借金」を払っているのと同じことなのだと思います。そのように将来という際限ない負債に対して、利息と元本を払うための現在になるのだと思います。 『キャピタリズム〜マネーは踊…
先日も、ゾンビものについてやりとりしていたのですが、ゾンビもの(アンデッドもの)の懐の深さは、あの世とこの世(の終わり)を同時に描けることにもあるのかなあと思いました。 さて吸血鬼などもアンデッドものに含まれると思いますが、かなり前に読んだ文章でアンデッドとは不死者というよりは、死に切れぬ者なのだというふうに書かれていたのを事あるごとに思い出します。 映画「野火」を観たとき、なぜ人はここまでして生きるのだと衝撃を受け、今までの自分の理解が成り立たなくなりました。やがて生きているとは死に切れないということなのだという理解になりました。生きものが生きる力とは死に切れない力であり、つまりは反発力なの…
当事者研究の意義で一つ僕が重要だと思うのは、決められた手順や決められた様式にそってないものは、信用しません、全て却下みたいな世界に支配され切られなくていいところだなと思います。 精神に間することでもアンケートをとって、あてはまる、ちょっと当てはまる、あまり当てはまらない、みたいに擬似的であっても数値化して体裁が整って無いと認めませんみたいな世界が一部あってもいいかもしれません。 が、当事者的には自分の苦しみの仕組みを自分たちでさっさと確かめていくのに際して、得た仮説的知見に対して、権威や世間の承認はいらないですし、別にそれを客観的な真実だと教科書に載せたいわけでもないわけです。 (しかし、客観…
深く傷ついた人が切実に自分の回復を求めること、求めてしまうことは理解できる。 だけれど、同時に複雑な思いをもってしまう。 回復にあかつきに、何か本当のものが得られたり、本当の生がはじまるわけではないと思うから。もちろん、何かの苦しみが消えた大きな解放感があり、世界は新鮮に感じられるだろう。 しかし、そこに現れた世界は回復前と変わらない残酷さをもっていて、世界自体が変わったわけではないことがやがて実感されてくると思う。生きることの救われなさ、本質的な不条理は変わらない。 回復後を謳歌しようと思っていたのに、病気になったり、思い描いていたような生が送れないときのその人の失望の大きさを勝手に先取りし…
報告 西院ひふみ荘でのワークショップ「わたしの「時間」を知る」
西院ひふみ荘でのワークショップ「わたしの時間を知る」終わりました。もともと雰囲気のあるシェアハウスなのに加え、リニューアル前の貴重な終わりの時間を少しだけ共有させてもらいました。 べてるの家で、メンバーが一番変容するのは、誰かのお葬式を経るときだと聞きました。親が子に与える最後の教育は、自分の死にゆく姿を見せることだとも聞きます。最後の「時間」は、その時間を共有した人を変えるような力を持った「時間」なのだと思います。 ワークショプでは、時間と「時間」の違いから始めました。ワークショプを受けた人が「括弧つきの時間」というときは、何かが変容するプロセスとして時間のことです。 一方、外部から自分を支…
3月8日(金)19時から西院ひふみ荘でワークショップ わたしの「時間」を知るを行います。 吉本隆明が子育ての際に気をつけていたことは、雑事を言いつけることで、子どもの時間を細切れにしないことだったと聞きました。 誰しもがそんな環境をもらえるわけではないのでしょう。しかし大人になったとしても、自分のなかで何かが動きだす環境を自分のために整えるということはできそうです。 「時間」は外からわたしを支配したり、価値づける時間を忘れるとき、動いているようです。外の時間が意識されるとき、プロセスとしての「時間」は止まり、逆に「時間」が動きだすと外の時間が消えています。 外部が決めたことが自分を支配しきって…
奥野克己『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』 aniram-czech.hatenablog.com ボルネオのプナンは、子どもたちが学校に行きたくないといえば親は特に行かせようとしないといいます。学校に行かなくても生きていく術があるからです。かつての日本でもたとえば漁師の子どもがそのまま漁師になって生きていけるリアリティが強かった時のようだなと思いました。 ごく少数ですが、身の回りでもよく知っている人のところで自然に仕事をはじめる人がいます。 縁もゆかりもないアウェイの会社にエントリーシートを出して、今まで生きて周りとともに作りあげられてきたその人の文脈…
カライモブックスさんのお二人が母校でお話しをされるということで京都文教大学へ。 水俣と京都をつなぐ シエルというでっかいクリームコロッケを出す大学近くの名物洋食屋に行こうと思ったけれど、時間が遅くなったのと、店がわりと混んでいたのでやめた。 光暁館という建物での開催だったけれど、光暁館がどこであったか忘れていて、別の建物に行こうとしていた。トイレに入っていると、誰かが入って来ようとして僕に気づき、出て行った。トイレで出ると後ろから呼びかけられた。前のシェアハウスの同居人だった。 先生方は最近会った人もいたし、多分20年ぐらい会ってなくて記憶のイメージと違って、知った人だと気づいてなかった人もい…
今日は、久しぶりにオフラインでの当事者研究の日になりました。 去年まで当事者研究は、3つの場で、あわせて月4、5回ぐらいやっていました。それぐらい自分にはその場が必要だったということでした。1年半ぐらいやって、去年の8月で一旦全て終わらせてもらいました。 定期的な当事者研究はやめて、それからは日常のなかでおこる出来事や状況に応じてつくる話しの場、あるいは自分がここでやらせてもらいたいと思うところで話しの場をさせてもらう感じになりました。 ちいさな催しをするとき、自分にとって、お金をとらない(あるいは最小限の)やりとりでも、成り立つこととはなんだろうかと考えます。自分にとって必要な体験や時間を買…
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