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千の朝 https://plaza.rakuten.co.jp/beabea65/

「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。

 自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。  これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。  充実して生きる道を探しているのだ。  それが、何にもまして一番重要なことなのだ。  それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。

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2014/09/11

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  • 南北朝時代1

    尊氏は好機訪れたとみてとり、 征夷大将軍に任ぜられて時行を討つことを請うたが、 許されなかったので勅許を待たずに東下し、 時行を討って鎌倉を回復しました。 新政権に不平を抱き、 幕府の再興を望む武士

  • 中興政権の崩壊

    中興事業に協力した武士の多くは、 幕府に対して不平を抱く人々です。 彼らは幕府を倒すことによって、 自己の地位を安定させ、 さらにそれがよりよくなることを期待したので。 天皇の理想を理解し、 それ

  • 新政権に対する失望

    新政権に対する信頼が失われていくときに、 朝廷では、大内裏の造営を計画し、 安芸・周防を料国に宛て、 諸国の地頭にもその費用を課し、 夫役を徴した上に、 期日におくれると それを倍額にして徴収したので

  • 恩賞と土地問題

    中央.地方の行政機構は整備されましたが、 その施政には不手際が多く、 中興政権はわずか二年で崩壊しました。 新政の成否は、恩賞と土地問題の処理にありましたが、 恩賞の給源としての土地には限りがあるの

  • 建武中興

    後醍醐天皇は伯耆を発し、 途中光厳天畠の廃立を宣言し、 京都に還幸するや、新政を開始しました。 翌年改元した年号をとって、 これを建武中興といいます。 中興政治の理想は、天皇観政を中核とする 公家

  • 幕府の滅亡

    後醍醐天皇は隠岐に遷っても譲位の意志はなく、 光厳天皇の在位を認めず、 あくまでも討幕の志をすてません。 護良親王も楠木正成も幕府に抑えられることなく、 親王は近畿地方で活躍し、 叡山の末寺を中心に

  • 元弘の変

    正中の変により、 幕府の天皇に対する瞥或は厳重になり、 皇太子邦艮親王薨去後は、 天皇の皇子を皇太子に立てることを拒否し、 量仁親王を皇太子とします。 これで幕府を倒さない限り、 天皇が皇子に位を譲

  • 正中の変

    持明院統の花園天畠のあとを受けて 皇位についたのは、大覚寺統の後醍醐天皇です。 天皇は後宇多天良の第二皇子で、 近臣とともに僧玄恵について宋学を学び、 革新的思想を身につけられました。 即位の初め

  • 幕府滅亡の因

    幕府の対朝廷策の失敗も 崩壊のきっかけの一つです。 承久の乱後公武両政権の関係は一変し、 治世の君として院政を担当する上皇の決定は、 幕府の手に握られることになりました。 朝廷では、後嵯峨天皇は、

  • 徳政令

    御家人の所領を保護する必要に迫られた幕府は、 一二九七(永仁五)年徳政令を発布して、 御家人所領の質入・売買を禁止し、 すでに売却された土地は無償でもとの持主に取戻させ、 また金銭貸借に関する訴訟は

  • 御家人の零落

    得宗専制の強化と内管領の抬頭は、 外様(とざま)と呼ばれた一般御家人との対立を生じ、 時宗の死を機として、 一二八五(弘安八)年の霜月騒動となって現われました。 これは幕府草創以来の名家である安達泰盛

  • 建武の新政

    1333年7月4日(元弘3年/正慶2年5月22日)に、 元弘の乱で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇が、 7月17日(和暦6月5日)に 「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したこと により成立した建武の新政でしたが、 鎌倉

  • 支那の停滞

    元の世祖フビライ・セチェン・ハーンがつくった 北モンゴルから南シナ海におよぶ帝国は、 元朝の中国に君臨した最後の皇帝である 恵宗トゴン・テムル・ハーン(順帝)の治世に その組織が完戊し、 一三六八年か

  • 星の観測

    西方では、 チンギス=ハーンの孫のフラグ=ハーンが 一二五八年にバグダドを略奪し、 ついに東部のアッバス王朝にとどめを刺しました。 フラグ=ハーンは、 タブリーズの南カにある アゼルバイジャンのマラ

  • 東洋の技術の伝播

    火薬と火器は、蒙古人の手をへて 西欧に達したと考えられます。 印刷についても技術的な細目は別としても、 この径路で西欧に達したのです。 ある時期に支那で印刷されたカルタが、 蒙古人の侵入後まもなく

  • 東洋と西洋の媒介者

    東洋では東部回教君主国を征服し、 支那の宋王朝を征服した蒙古人は、 最初は、アラビア人の場合よりももっと野蛮でした。 しかしかれらは、 征服した人びとから得た文明の水準にまで達しました。 蒙古人が

  • イスラーム勢力の拡大

    今日アフリカにはアラブ人の国が樹立され、 すべてイスラーム圏に属していますが、 中部アフリカでもイスラーム教を信奉する国、 あるいはイスラーム教を第一の宗教とする国 がかなりあります。 たとえば、

  • 東方への拡大

    アフリカだけにかぎりません。 インド北部にも、 一○世紀末からたびたびイスラームの軍隊 (イスラーム化されたトルコ人)が侵入し、 一二○○年ごろ、ついにイスラーム勢力が 北インド全域を占領してしまって

  • 夢窓国師

    夢窓疎石は一人で坐禅していた時に、 眠気に襲われたので 後ろの壁にもたれて寝ようとしますが、 後ろには何もなくそのまま倒れてしまいました。 思わず大笑いした時、悟りを得ました。 鎌倉幕府が滅亡する

  • 夢窓疎石と一山一寧

    建治元年(1275)に伊勢国で生まれた 夢窓は臨済宗の禅僧です。 9歳で出家し、奈良の東大寺で 仏教経典はもちろん支那の老荘思想を修めました。 20歳の時、夢の中で異人に導かれ、 疎山と石頭という

  • 第二次日本遠征

    五月三日、合浦を出発した末路軍は 対馬、壱岐をへて六月六日、 博多湾に姿をあらわしたが、 日本側は海岸一帯に堅固な石塁を築き、 九州だけでなく関東の武士も襲撃にそなえていました。 このため、末路軍は

  • 第2回元寇

    南宋を滅ぼし、支那征服を完了したモンゴルは、 一二八〇年に日本再征を決定し、 第一次の五倍を越える大軍を動員して、 一二八一年に出発しました。 屈服させたばかりの旧南宋の支那人十万、 船三千五百隻の

  • 日本軍の勇戦

    一二七四年の十月三日、 船団は朝鮮の合浦(がつぼ)(馬山:ばざん)を出航し、 五日には対馬、十四日には壱岐を犯して、 虐殺と略奪をほしいままにし、 十九日には博多湾に入り、 二十日には湾岸各地点から い

  • 第1回元寇

    一二世紀末の日本では鎌倉幕府が成立し、 一二二一年の承久の乱をへて、 この武士政権はもっとも充実した時期を迎えていました。 フビライが派遣したモンゴルの使者が、 はじめて日本に来たのは一二六八年です

  • モンゴルの招諭

    モンゴル皇帝フビライ・ハーンは、 高麗国王元宗を降伏させ、これを朝貢国とし、 一一六六年、フビライは軍事力による征服の 威嚇をこめた日本招諭のための使者の派遣を 高麗に強要しました。 いったんは 「

  • 鎌倉武士の自尊心

    たしかに趙彝にとって、 日本は黄金の国と思われたかもしれない。 とくに奥州藤原(おうしゆうふじわら)氏の 豊かな金力が 彼のイメージを大きくふくらませました。 膨大な黄金を、それこそ湯水のように投じ

  • 黄金の島

    フビライ・ハーンの政治的叡智(えいち)は 南宋の息の根を止めるには その貿易ルートを遮断することが先決と考えました。 このフビライ・ハーンに 日本列島の侵略を示唆(しさ)したのは、 高麗(こうらい)人であ

  • 明の永楽帝

    明時代のなかでとくに注目されるのは、 四〇三年に即位した成祖で、 別名永楽帝ともよばれる国王の時期です。 第一代、第一一代皇帝が、 内政を充実させたあとをついだ永楽帝は、 積極的に対外進出にのりだし

  • イスラームの影響

    このチムール帝国で注目すべきことが二つあります。 一つは、チムールがイスラーム教に改宗したために、 イスラームの勢力がいっそうつよまっていったことです。 もう一つはチムールの後継者(その息子)の時期

  • チムール帝国の支那遠征

    モンゴル時代は、 一二一八年から一三六八年まで 百五十年ほど続きました。 モンゴル帝国が滅亡してのち、 ユーラシアの各地で 新しい動きがあらわれてきましたが、 そのなかでとくに注目すべきものは、 や

  • 人類最大の帝国

    第八の段階は、華中・華南の征服です。 南宋に対する作戦は、オゴデイ・ハーン以来、 何度も試みられましたが、 最後に一二七六年、フビライ・ハーンの派遣した モンゴル軍が杭州を占領し、南宋は滅亡しました

  • マムルーク朝

    「黄金のオルド」のハーンの位を バトゥから継いだのは、 その弟のベルケですが、 ベルケとフレグは コーカサスの領有をめぐって衝突しました。 この情勢のもとに、 エジプトのマムルーク朝は ベルケと手を

  • 西アジアの征服

    第七の段階は、西アジアの征服です。 チンギス・ハーンの孫のモンケ・ハーンは、 一二五三年、弟のフレグを 西アジア遠征に派遣しました。 フレグは一二五八年、バグダードを攻略して 最後のハリーファを処

  • 黄金のオルド

    一二四一年十二月、 オゴデイ・ハーンが死去したため、 モンゴルの遠征軍は東経十六度線で突然、 進軍を中止して引き揚げました。 このときウィーナー・ノイシュタットでは、 追撃したオーストリア軍は 八人

  • イギリス人の登用

    モンゴル軍の作戦の目的は、 西欧をことごとく征服して、 大西洋岸に達し、この地方を モンゴルの故地とすることであったと思われます。 その証拠に、モンゴル軍の先鋒隊には、 あるイギリス貴族が従軍してい

  • 西への遠征

    第六の段階は、キプチャク草原の征服です。 チンギス・ハーンの長男のジョチは、 父からカザフスタンを牧地として与えられていました。 オゴデイ.ハーンは一二三四年、 ジョチの次男のバトゥを総司令官とし

  • セルジュク朝

    セルジュク朝は、 イスラーム世界では最初のトルコ人の帝国ですが、 その領土の東半分を引き継いだのは、 やはりトルコ人イスラーム教徒の ホラズム・シャ一朝です。 ホラズムというのは、 現在のウズベク共

  • 西欧の確立

    西アジアのイスラーム世界は、 七世紀のアラブ帝国の大征服が創り出したものです。 この帝国は八~九世紀、 バグダドのアッパース朝のハリーファ(カリフ)のもとで 最も繁栄したが、この時代から、 中央アジ

  • モンゴルの世界征服

    一二五〇年代に、 モンゴル軍は第三次西征にでかけ、 一二五八年に 有名なバグダッド(現在のイラクの首都)を攻略しました。 さらにエジプトへ進撃しようとしたのですが、 このときも国内からの不幸の急報に

  • ホラズム遠征

    もともと、モンゴルの文化は それほど高くはなかったのですが、 ホラズム遠征によって、 中央アジアやイランの 高い文化や都市の繁栄をみて、 はじめて世界に目をひらいたのでした。 そして、さらに西方を攻

  • モンゴル帝国

    アジアでは民族がつぎつぎにあらわれましたが、 モンゴル帝国はそのもっとも成功し例です。 モンゴル帝国の出現によって、 当時のユーラシア全体の情勢が一変しました。 モンゴルは、 モンゴル高原(支那本

  • 世界をつなぐ

    これからのモンゴル帝国の発展は、 いくつかの段階に分かれます。 第一の段階は、西夏王国の征服でする。 チンギス・ハーンの即位前の一二〇五年から、 すでにモンゴル軍は西夏に侵入を開始し、 一二二七年

  • 西欧への影響

    フランスの美術評論家プウジナは、 一九三五年の著述 『支那のイタリア・ルネサンス絵画への影響』のなかで、 技術と内容の両方から分析し、 支那絵画の影響について、 つぎのように指摘しています。 「技術

  • ルネサンス絵画

    ルネサンス思潮を もっともよくあらわしたのが、 レオナルド=ダ=ビンチや ラファエロに代表される 絵画だといわれています。 それ以前の西欧中世の絵は、 完全な宗教画だったのですが、 レオナルドやラフ

  • ルネサンス

    ルネサンスのもとの意味は、「再生」です。 つまり、古代ギリシア・ローマに 花ひらいた人間賛歌の文芸がほろび、 その後イスラーム勢力や宗教によって 抑圧されていた時代をこえ、 いままた再生したというわ

  • イタリアの変化

    中世の末期(一五世紀)に イタリアに大きな変化がおきました。 西欧は、一二世紀になって ようやく都市文明の時代へはいりましたが、 都市の発達のもっともはやかったのは、 北イタリアでした。 一四~一

  • イスラームの知識

    航海について、重要なことは、 天文学も地理学も イスラームの学術書からまなんでいることです。 西欧人がイベリア半島からイスラームを 追いはらって建国した国の一つに カスチラ王国があります。 この国

  • イスラームの技術

    一二世紀にはいると、 西欧にはいくつかの都市が誕生し、 大学も設置されるようになりました。 そして一三世紀になると、 西欧のいたるところに都市があらわれ、 また多くの大学がもうけられました。 これ

  • トレドの占領

    トレドには多数のイスラームの学術図書が 保存されたイスラームの大図書館があり、 そこには、古代ギリシャの学術研究を アラビア語に訳した書籍 もたくさんおかれていました。 そして、トレド図書館をみつけ

  • 西への進攻

    当時の西欧の軍事力では、 とてもイスラーム軍に対抗できず、 エルサレムを奪回することは一時的にはできても、 けっきょくは成功しませんでした。 しかし十字軍によって、 西欧よりはるかに文化の発達したイ

  • イスラーム化の要因

    イスラームの勢力圏が もっとも拡大したのは一七世紀で、 マホメットの布教から一千年のちのことです。 一七世紀には 旧大陸(ナジアとアフリカ)のじつに半分以上が イスラームの勢力下にはいっていたのです

  • インドネシアのイスラーム化

    モンゴル(元)の国王につかえた イタリア商人のマルコ=ポーロは、 帰途スマトラ島(インドネシア)に しばらく滞在したことがあります。 そのころスマトラには、 ほぼ現在のインドネシア全域を支配する 大

  • イスラーム勢力の拡大

    アフリカには今日ではアラブ人の国が樹立され、 すべてイスラーム圏に属していますが、 中部アフリカでもイスラーム教を信奉する国、 あるいはイスラーム教を第一の宗教とする国が かなりあります。 たとえば

  • インドのイスラム化

    アフリカだけにかぎりません。 インド北部にも、 一○世紀末からたびたびイスラームの軍隊 (イスラーム化されたトルコ人)が侵入し、 一二〇〇年ごろ、ついにイスラーム勢力が 北インド全域を占領してしまっ

  • 永楽帝

    チムール帝国で二つの注目すべきことがあります。 一つは、チムールがイスラーク教に改宗したために、 イスラームの勢力が一層つよまっていったことです。 もう一つはチムールの後継者(その息子)の時期に、

  • 鄭和の大艦隊

    永楽帝は南へは、 鄭和という提督に数十せきの大艦隊をあたえ、 一四〇五年から三〇年までのあいだに 七回にわたって航海させています。 鄭和の大艦隊は、東南アジアの タイ、マレー、ジャワ、スマトラをはじ

  • チムール帝国と明帝国

    モンゴル時代は、 一二一八年から一三六八年まで 百五十年ほどつづきました。 モンゴル帝国が滅亡してのち、 ユーラシアの各地で 新しい動きがあらわれてきましたが、 とくに注目すべきは、 モンゴルの四大

  • 世界の一体化

    歴史上の最大の大帝国を建設したモンゴルは、 世界史上でどのような意味があるのでしょうか。 五世紀ごろから一五世紀ごろまで、 騎馬民族がつぎからつぎへとあらわれて、 ユーラシアの中心勢力となったのです

  • モンゴル軍の強味

    モンゴル軍がなぜつよく、 たちまちユーラシア大陸を席巻できたのでしょう。 その第一の理由は、 モンゴル軍は軽装の騎馬兵だけで、 機動力にとんでいたためです。 当時、ほかの国の軍隊は、 歩兵と騎兵が

  • モンゴルの外征

    一二五〇年代に、 モンゴル軍は第三次西征にでかけ、 一二五一年にバグダッド(現在のイラクの首都)を 攻略しました。 さらにエジプトへ進撃しようとしたのですが、 このときも国内からの不幸の急報に接して

  • 空前の大西征

    モンゴルの文化はもともと、 それほど高くはなかったのですが、 ホラズム遠征によって、 中央アジアやイランの高い文化や都市の繁栄をみて、 世界に目をひらいたのです。 そして、さらに西方を 攻略したいと

  • モンゴル帝国の時代

    モンゴル帝国は、 まさに空前絶後の大帝国を建設しました。 領土の広さについてみるなら、 そういえるでしょう。 世界史における中世の特徴の一つは、 騎馬民族が歴史の主導権をにぎっていたことです。

  • チンギス・ハーン

    アジアでは、1215年に蒙古軍が金の首都を陥れ、 チンギス・ハーンの西征が開始されます。 13世紀にモンゴル高原におこり, 西アジア・ヨーロッパにまたがる 大帝国をつくりあげたモンゴル人は, 1234年,金を

  • モンゴル帝国の建国

    「タヤン」とは、 金帝国から与えられた称号「大王」のなまりです。 ナイマン軍はモンゴル軍とオルホン河畔で 戦闘で大敗し、タヤン・ハーンは戦死しました。 テムジンは東方に転じてタタール部族を撃破し、

  • オン・ハーンの反逆

    ケルイトのオン・ハーンと モンゴルのテムジンの協力は 一二〇二年まで続き、 それまでに外モンゴルの諸部族は ほとんどが二人の支配下に入りました。 ところが成功とともに利害の対立が生じ、 ついに一二〇

  • オン・ハーン

    一一九五年、ケルイト王国では、 またも内紛が起こっていました。 西隣のアルタイ山脈方面の ナイマン部族の王がこれに介入し、 トグリル・ハーンの弟の ジャア・ガンボは逐い出されて、 東隣のケンティ山脈

  • テムジン

    イエスゲイが死んだ時、 息子のテムジンはまだ幼かった。 この頃のモンゴル部族には、 まだ文字の知識がなく、 従って記録もなかったので、 テムジンが生まれた年も確実には判りません。 テムジンの事蹟が

  • パルグジン

    パルグジンとは、 バイカル湖に東側から流れ込む河の名前で、 その渓谷は大きな平原になっています。 パルグはこの地方に住む遊牧民のことで、 現在のブリヤート・モンゴル人の祖先です。 ジャライルという

  • モンゴル

    モンゴルという部族は、 もともと現在のシベリアと 内モンゴル東部の境を流れる アルグン河のほとりの遊牧民で、 その名前は七世紀に初めて記録に現れます。 モンゴルが再び現れるのは1084年のことで、

  • 日蓮と国難

    日蓮の時代はモンゴル帝国が各方面に侵攻し、 モンゴル・南宋戦争、モンゴルの高麗侵攻など 日本の隣国を繰り返し侵略し、 前年の1259年には高麗が降伏していた時期でした。 日蓮は文応元年(1260年)7月16日

  • 日蓮

    日蓮は貞応元年(1222年)に 千葉県鴨川市に生まれました。 四条天皇の御代に出家し、 比叡山他を14年間遊学しました。 五時教判 (支那の天台が諸経典の教えの相や時期を 五つに分けて判別して、

  • 男女平等

    世界遺産である平等院の、平等という名は、 仏の救済が平等ということを意味しています。 そもそも 天照大神(あまてらすおおみかみ)は女性で、 日本では神代の昔から 男女平等は当然と見られていました。

  • 孤雲懐奘

    孤雲懐奘(こうん えじょう:建久9年生)は、 道元の一番弟子で、 曹洞宗の第二祖とされる禅僧です。 道元の死後、永平寺の住持となり、 道元の教えを守り伝えました。 また、道元の著書『正法眼蔵』の

  • 道元の思想

    道元は、 正法眼蔵によって「正伝の仏法」を伝えるので 「禅宗」や「曹洞宗」などと云うものを 伝えるのではないと述べています。 室町時代後期、戦国時代に入ると、 寺社勢力は金融の担い手となっており 度

  • 道元

    道元は、 土御門帝の正治2年(1200年)に生まれ、 禅の思想を初めて日本に持ち帰った 日本の曹洞宗の開祖です。 宋(中国)で如浄禅師に師事し、 悟りの境地に至りました。 帰国後は京都や越前(福井

  • 栄西

    栄西(永治元年―建保3年)は、 鎌倉時代の僧で、 日本における臨済宗の開祖で、 備中(岡山県)の出身です。 天台宗と密教を学んだ後、 宋に渡って禅宗の教えを受けました。 帰国後は九州や京都で禅宗の布

  • 悪人正機説

    歎異抄に 「善人なおもて往生をとぐ、 いわんや悪人をや(善人が極楽往生できるのなら、 悪人ができないはずが無い)」と有り、 悪人正機(あくにんしょうき)と呼ばれる思想は 親鸞独自のものとして知られてい

  • 親鸞

    親鸞(承安3年、1173-1262)は 鎌倉時代の仏教家で、 浄土真宗の宗祖で、法然を師として、 浄土往生を説く教えを継承しました。 出家した後は比叡山で修行しましたが、 後に下山して法然に師事しま

  • 天変地異

    「方丈記」は末尾に 「于時建暦ノフタトセ、ヤヨヒノツコモリコロ、 桑門ノ蓮胤、トヤマノイホリニシテ、コレヲシルス」 (大福光寺本)とあることから、 建暦2年(1212年)3月末日に記されたのでしょう。 現

  • 方丈記

    方丈記とは、鴨長明による鎌倉時代の随筆です。 日本中世文学の代表的な随筆とされ、 兼好法師の『徒然草』、清少納言の『枕草子』とならぶ 「古典日本三大随筆」に数えられます。 この随筆は、鴨長明が京都

  • 変化する戦争

    昭和25年、「新大阪新聞」に掲載された 「きけわだつみのこえ」(原題「人間劇の喪失」で、 小林は「平家物語」の世界を引き合いに出しながら、 「人間らしい物語を創り出すことのできるような 戦争も実際に可能

  • 難行から易行へ

    新しい仏教の特徴は、 古代以来の多神教的な世界から、 それぞれがただ一つの道を選ぶという 選択にありました。 この道さえ歩めば、必ず救われるという 一神教的な道を説いたのです。 修行の仕方も、念仏

  • 平家物語

    「平家物語」は鎌倉時代に成立した軍記物語で、 平家の栄光と没落を追うことで、 世の無常を描きだしました。 保元の乱および平治の乱に勝利した平家と 敗れた源氏の対照的な姿、 その後の源平の戦いから平家

  • 法然

    法然は長承2年(1133年)、 岡山県誕生寺に生まれ、 9歳のとき父が敵の夜襲にあい、 非業の死を遂げます。 臨終間際に、法然を呼び寄せ 「決して仇を討ってはいけない。 仇は仇を生み、憎しみは 絶え

  • 末法思想

    末法思想とは、 末法に入ると仏教が衰えるとする思想で、 仏典には破戒の憎が悪行(あくぎょう)を重ね、 天の怒りによって天変地異が起こり、 殺人、闘争が相次ぐとされ、 当時は一〇五二年に始まると信じられて

  • 深い断層

    平安から鎌倉へ――この二つの時代の間には、 末法思想という深い断層が 横たわっていたということでしょう。 そして、その深い断層を超えた鎌倉時代に、 わが国の宗教の源流となる鎌倉仏教が 次々に花開いたの

  • 文明の光と影

    日本文明というこの新しい文明は、 日本文化の担い手が比較的大きな 種族的等質性を持っていたこと、 および比較的小さな、 孤立した地理的範囲に限定されていたこと などが原因で、充分な発達を阻害されました

  • 神道

    皇室は太陽の女神の末商を称していましたが、 この女神信仰は、 十五世紀に重要な変容をとげました。 以前は、この信仰は 宮中と皇族の間にのみ限られていたましたが、 それが支那流の祖先崇拝に同化吸収され

  • 都市生活者の特性

    日本では一三〇〇年ごろから、 町人と船乗りが大きく頭をもたげはじめました。 支那人が造船術の改良に先がけをつくり、 それをうけて、 日本の社会でも大きな発展の道が開けます。 羅針盤、自在竜骨、竜骨

  • 禅宗と浄土宗

    日本の宗教史も、 支那の手本から独立して独自のものを作るという、 同じ発展の方向を反映しました。 禅仏教は元来支那から移入されましたが、 日本でサムライの理想と結びあい、 支那の先例とは まったくち

  • サムライの風俗

    日本における都市の隆盛は、 同時に新しい社会環境の発生をも意味していました。 そして、その環境下で、 支那の洗練された文明性と 日本の現実という正反対のもの同士の間から、 質実剛健な田舎サムライの

  • 日本の封建制

    西欧でローマ皇帝の理念に 漠然たる敬意が払われていたように、 日本の封建制も、 初期中世ヨーロッパの封建制と酷似しており、 力を失ったとはいえ皇室の 宗主権が残存していたのです。 しかし重要なちがい

  • 武士道の萌芽

    武士道は、個々の武将が、 自分自身や臣下の勢力増大のために集めた軍団を、 戦(いくさ)に勝たせるため訓練し、 気塊(きはく)を教えこんでいる間に生まれました。 もちろん、戦いに勝った軍団は、 一定の領地

  • 六波羅探題の設置

    院宣の効果を信じ、 のんびりと構えていた後鳥羽上皇の思惑は外れ、 大多数の武士は上皇の呼びかけに応じません。 幕府と朝廷の力の差は歴然で、 幕府軍はわずか1ヶ月で京都を占領し、 朝廷の敗北で承久の乱

  • 軍事政権

    日本の宮廷文化は、 皇室の権力が形だけのものになってしまったのちも 消え失せませんでした。 とはいえ、 日本社会の北への拡大の先頭に立った 辺境の豪族たちは、 日本最初の宮廷人たちが唐から大々的に輸

  • 後鳥羽上皇の院宣

    1221年5月に 後鳥羽上皇は院宣という命令書を出し、 全国の武士に北条義時を倒すよう命令しました。 京都近隣の武士が中心となり 幕府を倒すために挙兵したのです。 院宣を出した後鳥羽上皇は 「朝廷の命

  • 絶好の機会

    後鳥羽上皇は、 鎌倉幕府の内部で混乱があれば、 御家人同士が争い朝廷が、 つけいる機会が生じるのではと考えました。 上皇はまた朝廷に年貢を納めない 武士と衝突することもあり、 上皇はますます鎌倉幕府

  • 後鳥羽上皇

    後鳥羽上皇は、 鎌倉幕府内部の権力争いを尻目に、 領地の拡大、軍事力の強化をはかります。 分散していた天皇領をまとめて資金力を確保し、 さらに従来からある北面の武士(ほくめんのぶし)に加えて、 西面

  • 承久の乱

    承久の乱は、1221年に後鳥羽上皇が 再び上皇中心の政治を取り戻すべく、 鎌倉幕府を討ち滅ぼそうとして起こした戦いです。 鎌倉幕府が誕生したとき 朝廷で最も権力を持っていたのは 天皇よりも上の位に就いて

  • 日本文化の独自性

    日本は、六〇〇年から一〇〇〇年までの間に、 仏教、儒教をはじめ輸入し得る支那文化の あらゆる要素を歓迎して受け入れました。 外国の文物に対する日本人の精力的な熱狂性は、 それ以後の時代にも何度かくり

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