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千の朝 https://plaza.rakuten.co.jp/beabea65/

「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。

 自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。  これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。  充実して生きる道を探しているのだ。  それが、何にもまして一番重要なことなのだ。  それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。

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2014/09/11

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  • 四つの体制

    これら四つの体制上の区別が 明白になってくるのは、 一九世紀の中ごろ、 ちょうどペリーとのあいだで 日米和親条約が成立した時期です。 日本は、一八三九年からの 前哨戦をふくむアヘン戟争の情報を 刻々

  • 当時の国際情勢

    まず①列強とはなにか―― 列強(powers)とは、自国の船により 世界のどこへでも到達できる力をもって、 それを保護するだけの海軍力を有する 「海洋国」です。 世界では、「超大国」イギリス、 日本と長く親

  • 阿部の大船製造

    早急に武備の充実を計るには、 一時的にも外国との交易を行って、 近代的な艦船や大砲を 入手する必要があります。 しかし、 それが鎖国政策によって禁止されています。 自分で自分の手を縛りあげて 身動

  • 徳川斉昭

    正弘はその頃、鎖国政策の矛盾に 一番頭を悩ませていました。 鎖国政策は、日本の泰平無事と 幕府自身の安泰を願う政策です。 そのため、幕府は 努めて諸藩の勢力を弱くすることに 意を用いてきました。

  • 大槻磐渓

    論議を続けているうちに、 海防掛に注目すべき建白書が仙台藩の 儒者大槻磐渓(ばんけい)から寄せられました。 磐渓は蘭学者だった父 玄澤(げんたく)の影響を受け、 儒学者にもかかわらず、 世界の情勢に明る

  • ロシア国書の受領2

    正弘は、 老中評議と海防掛会議終了後、 海防参与の徳川斉昭に対し、 ロシア国書受取りに関する 公文書翰を認(したた)めさせました。 それには、五老中の連署があり、 さすがの斉昭も反対はできません。

  • ロシアかアメリカか

    ロシアのネッセルローデ首相兼外相の 親書は江戸城に未着だが、 八月上旬から海防掛は対ロシア交渉の 論議をはじめていました。 親書の内容は、 長崎奉行の書状で明らかです。 議論を重ねていくうちに、

  • ペリーの威嚇

    老中評議の後、 正弘は海防掛会議を召集しました。 そこで正弘は、 在府長崎奉行の水野筑後守に命じ、 ロシア艦隊の長崎来訪の儀と ロシア艦隊司令長官プチャーチン提督の 丁重な交渉態度を紹介させました。

  • ロシア国書の受領

    老中首座伊勢守阿部正弘は登城すると、 すぐに海防掛の川路聖謹(としあきら)を招き、 「さきほど、長崎奉行の水野殿が この書状を届けにこられた。 まずお読みいただきたい」 「オロシャの提督はペルリとは

  • 阿部伊勢守

    豊後守は、直ちに 在府長崎奉行の水野筑後守と 老中首座阿部伊勢守に書状を認めました。 ロシア艦隊司令長官プチャーチン提督の 丁重な申入れに免じ、 ロシア首相の親書を受理してほしいと懇願しました。

  • プチャーチンとペリー

    翌八月十日(嘉永六年七月十八日)朝、 プチャーチンは、 全艦隊に警戒態勢に入るよう命令し、 伊王島沖を抜錨しました。 伊王島の西北端の真鼻岬沖を大きく右に迂回して、 昼過ぎに長崎湾口に浮かぶ高鉾島の

  • 艦長との夕食会2

    「それは相手の出方を見た上で決めるつもりだ。 しかし、レザーノフのように、 なんの成果もあげずに 長崎を去ることは絶対にしない。 アメリカ艦隊は かなり強硬姿勢で対日交渉を行うようだ。 ロシアは強硬姿

  • 艦長との夕食会

    八月九日の夜、 プチャーチン提督は、 パルラダ号艦長ウンコフスキー少佐と、 水いらずで夕食を共にし、 語り合いました。 「艦長、十カ月に及ぶ大航海、 ほんとうにご苦労だった。 無事に長崎に来られたの

  • ロシア艦隊は長崎へ

    ロシア艦隊が 父島からそのまま直行して 浦賀に向かっていたら、 幕府が江戸城で諸大名に 意見を聴取していた六月末頃、 ロシアの黒船四隻が 江戸湾に出現したことになります。 しかし、プチャーチン提督の

  • プチャーチンの派遣4

    結局、ロシア艦隊が後になって、 パルラダ号はインド洋の玄関口ケープタウンに 一八五三年の三月十日に入港しました。 先のカラス(黒船)ミシシッピ号の入港は 一月二十四日であり、すでに一ヶ月半の遅れです

  • プチャーチンの派遣3

    メンシコフは、プチャーチンに対し、 いかなる交渉も平和的に行い、 諸外国との紛争は極力避けるよう命じました。 当時のロシアは、トルコ政策をめぐって、 英仏両国と外交関係が悪化しており、 アジアでロシ

  • プチャーチンの派遣2

    ロシア政府は、 アメリカの後塵を拝することを恐れ、 四月に極東政策特別委員会を結成し、 五月にプチャーチン海軍中将を 通日全権大使に任命しました。 アメリカに対抗できる遠征艦隊を編成、 日本との三度

  • プチャーチンの派遣

    プチャーチンの艦隊を派遣する案が 実行に移されていれば、 開国を促すロシア艦隊が ペリー艦隊より十年早く、 日本に来航していたことになります。 辛い、この案は日の目を見ません。 ウロンチエンコ蔵相

  • レザーノフ派遣

    ロシア政府は、 レザーノフ派遣で なんらの成果も得られなかったため、 日本への関心が急速に冷えてしまい、 日本間題には不干渉、無関心の 基本姿勢をとっていました。 ロシア政府が 三度対日交渉意欲を高

  • ロシア領アメリカ会社

    当時のロシア領アメリカ会社は、 カムチャッカ、アリューシャン列島、 アラスカを支配した半独立国家でした。 ロシア領アメリカ会社 独自の判断で行動していました。 この会社は、毛皮の採取、販売が主な事

  • ゴロウニン少佐

    文化八年には、 ロシア軍艦ディアナ号艦長の ゴロウニン少佐以下七名が、 国後島で松前藩の役人に逮捕され、 ゴロウニンは箱館に連行され、 拘禁されました。 文化九年には、 ゴロウニンの部下の ディアナ

  • 北方海域

    当時択捉島には、 幕府が松前藩と話し合って 箱館奉行所の出張所を置き、 松前藩、津軽藩、南部藩の 警備兵百五十名を配していました。 しかし、 侵入してきたロシア海兵は人数も多く、 海からの艦砲射撃も

  • フヴォストフ大尉

    レザーノフの話を 再三にわたって聞かされていた 若い海軍士官のフヴォストフ大尉は、 次第に日本人に対して 敵意をいだくようになりました。 彼は、一八〇六年(文化三年)秋、 フリゲート艦ユノナ号で 突

  • 遣日使節レザーノフ4

    長崎からカムチャッカへの 帰航時のレザーノフは、 将来に対し全く希望を失っていました。 「特使閣下、それでも少し希望があります。 それは、長崎の下級役人の中に、 なんとか両国の国交成立を望む声が か

  • 遣日使節レザーノフ3

    幕府は、 目付の遠山金四郎景晋(かげみち)を 長崎に派遣し、 長崎奉行所でレザーノフと会見させました。 レザーノフが長崎港外に到着してから、 実に六カ月後のことです。 幕府の姿勢は強硬で レザーノフ

  • 遣日使節レザーノフ2

    粘り強いのがロシア人の身上です。 レザーノフは、 ロシア皇帝アレクサンドル一世の 将軍宛親書の受領と 交易のための開港を 幕府に要求し続けました。 頑固な鎖国論者の成瀬も、 ついにレザーノフの熱心

  • 遣日使節レザーノフ

    ロシアの第二回遣日使節 レザーノフはナジュージダ号に乗って、 一八〇四年(文化元年)に 長崎港外に到着しました。 レザーノフは、日本人漂流民 津太夫一行を護送してきましたし、 ラクスマンが取得した長

  • 大黒屋光太夫

    大黒屋光太夫は、 ロシア滞在中にロシア語が堪能になり、 日本文化をロシアに紹介する 役割を演じました。 当時のロシアでは かなり有名な日本人で、 エカテリナ二世女帝に 謁見を許されたこともあったほど

  • 日露交渉

    ロシアの対日交易交渉の歴史は、 新興国アメリカよりかなり古いものです。 アメリカ建国から十六年ほど経った 一七九二年(寛政四年)に、 第一回の遣日使節ラクスマンを乗せた エカテリナ号は北海道根室港に

  • 石田梅岩

    勤勉と倹約の精神に、 理論的な根拠を与え、 分かりやすく町人たちに説いたのが 石田梅岩(1685~1744)です。 梅岩は、丹波(京都府と兵庫県の一部) の山村に生まれ、 人間の理想の生き方を求めて、 さま

  • 勤勉と倹約

    日本人は勤勉だとされていますが、 人々が勤勉をよいことだと考えるようになるのは、 江戸時代になってからです。 江戸時代は、戦国時代のように、 耕した田畑が戦乱によって踏み荒らされたり、 戦いに巻き込

  • 蘭学

    吉宗は、禁止していた洋書も一部解禁したので、 西洋を学ぶ『蘭学』が流行しました。 オランダの医者のシーボルトは、 『鳴滝塾』を開いて、 多くの蘭学者を育てました。 杉田玄白や前野良沢らは、 オラン

  • 八代将軍吉宗

    八代目将軍になった 吉宗(1684年~1751年)は、 新井白石を退けて、 自分で政治を行うようになりました。 その頃の幕府の財政は大赤字ですが なかなかの善政を行いました。 この赤字をなんとかしようと吉宗

  • 見盤

    見盤は、江戸時代 最も一般的な測量道具です。 紅毛流の測量で使われる平板(見盤)は、 定規、コンパスなどを用いて、 相似の図形を描き、 間接的に測量を行います。 見盤上に目標物との相似 三角形を作

  • 製図道具

    江戸時代の測量に使用する製図道具は、 流派や時代によって 多少の変化がありますが、 基本的には現地で記録する方位と 距離を縮図にするための道具が 用いられています。 方位は、「分度矩 (鎌形の分度器

  • 量地図説

    量地図説は 和算の関流長谷川門下である 常陸笠間藩士甲斐駒蔵広永が著した 測量術書です。 本書が出版された当時は、 ペリー来航直前で、 既に多くの西洋測量器具が 輸入されていました。 これらの西洋

  • 量程車

    量程車は、地上測量の器具です。 この道具を置いて曳いて歩くと、 下についている車が回り、 距離を表示する数字の ついている歯車が回り、 距離を表示できるようになっています。 動輪と連動する歯車機構

  • 中型象限儀

    伊能忠敬の全国測量は 緯度一度の距離測定が目的で、 そのためには日本各地での 正確な天体観測が必要でした。 象限儀はそのための観測器具の一つで、 師である間重富が 「霊台儀象志」などを参考に工夫して

  • 天文と測量

    西洋科学の影響を受けて天文学が発展し、 幕府天文方が天文台を設置して 天体観測を行い、改暦も行いました。 個人でも天体観測に取り組む人が現れ、 星図を元にした天球儀も制作されました。 また、 西洋

  • 算盤及び拾璣算法

    近世の庶民は計算道具として 「そろばん」を使っていましたが、 和算家はその他に 古代以来の計算道具である 「算木」を用いていました。 算木は木製または紙製の一種の計算棒で、 十進法に基づいて数を配置

  • 庶民の和算書

    江戸時代後期には、 簡単な和算の知識は庶民にも一般的となり、 いろいろな書物の中に 出てくるようになりました。 寺子屋の教科書であるとか、 日常の必要事項をまとめた百科事典などに、 そろばんの使い方

  • 小判色揚げ技法

    江戸時代を通じて10種類の 小判が発行されていますが、 いずれも純金ではなく、 金と銀が混ざった合金でした。 金品位の低い小判を 金らしく見せる技術として 「色揚げ」がおこなわれました。 江戸時代に

  • 鉱業

    鉱業(こうぎょう、英語:mining)とは、 鉱物などの地下資源 (場合によっては地表にあるものを含む)を 鉱脈や鉱石から資源として取り出す産業です。 江戸時代は、 金・銀・銅が貨幣として通用していたので

  • 地球儀

    西洋では、 地球儀と天球儀が対で利用され、 日本はこれらに中国伝来の渾天儀が加わって、 天文暦学関係者や 蘭癖大名らの所持品となっていました。 西洋から伝えられた地球儀や天球儀は、 和製としては、

  • 万年時計

    万年時計(万年自鳴鐘)は、 江戸時代の発明家、田中久重によって 製作された機械式の置時計で、 万年時計の名で広く知られています。 1000点を超える部品が田中による 手作りから作られています。 七宝、

  • 江戸時代の技術

    江戸時代には長く平和が続き、 庶民も寺子屋などで 「読み、書き、そろばん」を 学ぶことのできる社会が生まれました。 和算も学問や商業などの実用の技として、 学者や一部の武士だけでなく、 庶民にまで広

  • ジェームス・ワット

    グラスゴー大学は ニューコメン式の蒸気機関の 模型を所有していましたが、 当時ロンドンに修理に出さていました。 ワットは大学にかけあい 蒸気機関をグラスゴーに取り寄せて、 その修理を任されました。

  • 産業革命

    植民地アメリカが 独立の戦いを起こしていたころ、 本国イギリスでは 産業革命とよばれる産業・経済・社会の 大変革が進んでいました。 その口火をきったのは、 木綿工業における機械の発明、利用です。

  • ナポレオンの登場

    経済活動の自由や 土地などの財産を手にした人々は、 革命の行き過ぎを恐れ、 戦争の勝勝利と政治の安定を望みました。 このとき登場したのが軍人ナポレオンです。 イタリア・エジプト遠征の後 1799年、銀行

  • フランス革命

    1789年、絶対王政は 行きづまった財政の打開のため、 僧侶・貴族・平民からなる 三部会を召集しました。 ここからフランス革命は始まります。 7月14日、 パリ民衆のバスチーユ攻撃義挙は 草命の潮を一気

  • アメリカの独立革命

    清教徒の移住で始まった アメリカのイギリス領植民地は、 18世紀になると本国政府からの商工業統制や、 重い課税に強い不満が高まりました。 本国がこれを圧迫したことから 1775年独立戦争に発展し、 翌年人

  • 市民革命

    市民革命とは、一言でいえば、 絶対王政を打倒した革命のです。 国家の権力をにぎるものが、基本的には、 封建的な君主や貴族階級から 市民階級にうつった、政治的な変革です。 市民革命では、その名のとお

  • イギリスの市民革命

    絶対君主として 議会を無視し専政を行なう 国教徒の王に対する議会と清教徒の反乱が まず専制政治をたおしました(1649年)。 ここに成立した共和国はなが続きせず、 王政復古となり専制政治が復活しました

  • 絶対王政時代

    世界の各地に西欧人が進出するようになった 15世紀末から16世紀以後の西欧は、 政治・経済・社会・軍事・文化などにも 新しい動きが現われました。 とくに、大西洋に面していた国々ほど、 商工業や海外貿易が

  • 危機からの立ち直り

    西欧世界が 外にむかって拡大しはじめたころ、 その内部の社会も大きな変化が生じました。 西欧の経済は中世末期に 飢饉・流行病(ペスト)・戟争のため 混乱し人口も減少しましたが、 15世紀後半から人口や

  • 西欧の優越

    西欧世界の進出が のちの世界史に与えた最大の影響は、 今日につながる世界の一体化が 西欧人によって進められたことです。 明は海洋国家として発展する力をもちながら、 それに積極的でなく,清もこれを継承

  • ムガル帝国の栄光

    西欧連合軍にやぶれたとはいえ、 オスマン・トルコは、 まだ広大な領土をもつアジアの大帝国でした。 当時アジアにはまだいくつかの 大帝国がさかえていました。 イスラーム圏に関しましても、 一七世紀に

  • オスマン軍の敗退

    ロシアとの戦争に 失敗したオスマン軍はしかたなく、 一六八一年にロシアと休戦協定をむすび、 パシャはかねてからの最大目標である、 神聖ローマ帝国(西欧)の侵攻にのりだしました。 オスマン軍は、 百年

  • オスマン・トルコの停滞

    「アメリカ大陸発見以後は、 もう西欧の時代にはいっていたはずだ」 と疑問をもつことでしょう。 しかし、 一七世紀はまだアジアの栄光の時代であり、 当時の西欧はたいへん貧困な状態にあって、 西欧の時代

  • オスマン・トルコの興隆

    一六世紀前半に、 西欧の中央へむかって 攻勢を展開していたオスマン・トルコの侵略に、 西欧人はあおざめました。 西進するオスマン軍は、 一五二六年に ウィーン城(オーストリアの首都)を包囲し、 陥落

  • 平和な社会

    江戸時代になって 人々は安心して生活の向上を目指して 働くことができるようになりました。 幕府や大名も米の増産を望みました。 こうして、全国で、 干潟や河川敷などを中心に 新田が開発されました。

  • デカルト主義批判

    抽象化作業や観念操作をすれば 必然的に同じ人間すら機械や無機物だと とらえる場合がありえるのです。 恐ろしいことですね。 動物や自然を、さらには自分や 自集団以外の対象としてとらえられた人間すら

  • 陽明学

    日本の思想史に甚大な影響を与えた 陽明学の影響は大きかった。 王 陽明(おう ようめい、 1472年10月31日-1529年1月9日)は、 支那明代の儒学者で、 彼の唱えた陽明学は 「理は気の条理」といって気を重視

  • 封建文化の形成

    封建文化の形成には あらゆる生活部面を集約する基本精神があり、 その創造活動の成果が 歴史の各時代を形成する要素となる と考えるならば、 その精神といい、成果といい、 封建文化の特色が 最大限に発揮さ

  • 島原の乱

    禁教令の発令のきっかけになったのは 寛永14(1637)年の島原の乱です。 島原の乱は キリスト教を精神的バックにした農民一揆でした。 キリシタン大名だった 有馬晴信と小西行長(こにしゆきなが) の領地

  • 禁教令

    禁令のおもな内容は 次のようなものでした。 その1「日本人が海外へ渡航すれば死罪」 その2「すでに海外渡航している者が日本に帰ってきたら死罪」 その3「バテレン(伴天連)の取り締まり。 バテレンを

  • 秀忠の時代

    2代目・秀忠の時代になり 幕藩体制が整備されるのに伴い、 キリスト教の平等主義思想が 体制否定につながることを恐れ、 貿易は長崎、平戸の2港だけに制限しました。 慶長17(1612) 年、天領と直轄の 家

  • 藩の成立

    諸大名の領地支配組織もまた 幕府の統制のもとに整備されました。 その組織は元来大名の経歴・ 領地の大小などによって 相違する所もありますが、 幕府の指図と監督によって 一定の方針を与えられ、 また家

  • 将軍独裁下の家宰政治

    こうして独裁体制ができ上り、 幕藩体制を外国の圧力、 国際関係の影響から守る防壁となりました。 幕政は以上のような周到な治術と 巧緻な制度によって、 幕府の権力は安定しました。 その特色は職制にも

  • 幕府の貿易統制

    家康は一六三六(寛永一三)年には、 日本人の海外渡航と海外移住者の帰国を禁じ、 一六三七(寛永一四)年、 島原一揆の勃発を受けて、 翌年禁教の徹底を期するため、 在日ポルトガル人を追放し、 一六三九(

  • 宣教師の掃滅

    貿易と布教の盛況は長く続きませんでした。 幕府の権力を中心とする封建的支配体制が 成立してゆくにしたがい、 キリスト教の発展は、 再び幕府の危惧を呼び起したのです。 その上、蘭・英両国が商敵の ポ

  • 貿易と布教の盛況

    貿易の隆盛にしたがって、 南方諸国に移住するものも増加し、 主なる貿易地には 大てい日本町がつくられました。 山田長政はこの日本町の首領から、 シャムの王侯に立身しました。 このよぅに 通交貿易の

  • 朱印船貿易

    わが商人は輸入貿易だけでなく、 直接に輸出貿易の利を収めようとしました。 幕府は海外に渡航する商人に対して 渡海朱印状を下付して、 統制と保護との効果を収め、 一六〇四(慶長九)年から一六三六(寛永

  • 江戸幕府の対外政策3

    当時の日本の貿易市場では、 シナ南部及び南アジア方面産の 生糸・絹布・綿布・監T・薬種・香料数が 主な輸入品であり、 西洋の毛織物・銃砲・火薬・雑貨などこれに続き、 わが輸出品は銀・銅・硫黄・樟脳及び

  • 江戸幕府の対外政策2

    江戸幕府は イスバニア・ポルトガルに対しても、 貿易の振興のため、 豊臣政権末期のキリスト教取締を緩和して、 来朝の宣教師を利用して 斡旋させる旧来の方法をとりました。 その結果、 秀吉の強硬策のた

  • 江戸幕府の対外政策1

    江戸幕府の対外政策は、 国内の中央集権の進行の過程と歩調を合せ、 常に権力の保持を目的とします。 政権を担った当初は、 諸国との修好貿易の促進によって、 みずから経済上の利益を収めるとともに、 国の

  • 家康の外交

    家康は将軍任官の慶長8年(1603)に、 三河国や遠江国の諸寺社に対して、 数多くの寺領寄進状・社領寄進状を発給します。 一方で、畿内近国の諸寺社へも 寄進状を発給しています。 また、慶長20年(1615、

  • キリスト教禁制

    戦国時代を統一した豊臣秀吉は、 西国大名が南蛮貿易の利益を 独占するのではないか、 という危惧を抱いていました。 天正15(1587)年に 薩摩の島津を倒して九州を平定した秀吉は、 同年長崎を直轄領として

  • キリスト教徒の弾圧

    デ・オランディアの発言が秀吉の耳に届き、 スペインおよび宣教師たちの活動が 日本の植民地化を視野に入れたものである との疑いを強くした豊臣政権は、 以降キリスト教への態度をより硬化させました。 豊臣

  • 国際情勢と豊臣政権2

    サン=フェリペ号事件当時、 秀吉による明と朝鮮の征服の試みが頓挫し、 朝鮮・明との講和交渉が暗礁に乗る 緊迫した国際情勢で、 それ以前の1591年に原田孫七郎は フィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏、

  • 国際情勢と豊臣政権

    増田長盛に面会した サンフェリペ号の水先案内人で航海長であった デ・オランディアは 憤って長盛に世界地図を示し、 スペインは広大な領土をもつ国であり、 日本がどれだけ小さい国であるかを語りました。

  • サンフェリペ号事件3

    長宗我部元親の助言を一同で協議の上、 船の修繕許可と身柄の保全を求める使者に 贈り物を持たせて秀吉の元に差し向け、 船長のランデーチョは長浜に待機しました。 しかし使者は秀吉に会うことを許されず、

  • サンフェリペ号事件2

    1596年8月28日(同年10月19日)、 サンフェリペ号は四国土佐沖に漂着し、 知らせを聞いた長宗我部元親の指示で 船は浦戸湾内へ強引に曳航され、 湾内の砂州に座礁してしまいました。 大量の船荷が流出し、

  • サンフェリペ号事件

    1596年7月、 フィリピンのマニラを出航した スペインのガレオン船サン=フェリペ号が メキシコを目指して 太平洋横断の途につきました。 ガレオン船には 100万ペソの財宝が積み込まれていたのです。 船長

  • 家康の外交政策

    家康の外交政策は、 平和的な関係を築くことを目指し、 外国との貿易を 積極的に推進するものでした。 彼の政策は、 江戸幕府の基盤を築く上で 重要な役割を果たしました。 彼は、江戸幕府を開いた後、

  • 山田長政3

    山田長政は政敵プラーサートトーンを 排除しようとします。 リゴールで山田長政を待ち受けていたのは、 隣国・パタニーとの戦です。 激戦の末、 彼はリゴール平定に成功しますが、 足に大けがを負ってしま

  • 山田長政2

    やがて、山田長政は アユタヤ王朝の津田又左右衛門を筆頭とする 日本人傭兵隊に加わり、 武芸の才能を発揮。 アユタヤ郊外にある 日本人町の頭領となりました。 彼はアユタヤに出入りする船を監視したり、

  • 関ケ原の役

    慶長三年(一五九八)、 豊臣秀吉が六十二歳で病死すると、 秀吉が臨終のときに成立した 五大老と五奉行を主体とする豊臣政権も 次第に動揺しました。 五大老の筆頭である徳川家康が、 秀吉の遺令に違背し、

  • 山田長政

    山田長政は天正18年(1590年) 駿河国富厚里(静岡市葵区)で生まれました。 家は染物屋の商人で、 彼は武芸を学んだり、 臨済寺で学問を習ったりしました。 武士になりたいという夢を抱いた彼は 沼津に移

  • アメリカの植民地支配

    アメリカは一八九八年に 米西戦争でスペインを破り、 スペイン統治下のフィリピンを領有しました。 ロシアは。南下政策とともに北アジアに迫り、 清の弱体化につけこんで 満州のアムール川以北と沿海州を領有

  • キリスト教徒の独善と狂信2

    大航海時代の西欧の侵略に対する 第三の疑問、異教徒の土地を武力占拠し、 原住民を奴隷化してもよいという 正当性の根拠ですが、 ポルトガルのジョアン三世が 一五三〇年より前の時点で、 異教徒に対して戟争

  • 西欧の国家意識

    第一の疑問ですが高瀬弘一郎は 『キリシタン時代の研究』という本で、 従来の教会版キリシタン史を排し、 ポルトガル人とスペイン人の国家意識を暴き、 アジアの状況の全貌を明らかにしました。 大航海時代の

  • 日本の軍事力

    大航海時代の西欧の侵略に対する 第二の疑問の 日本が植民地化されなかった理由 について言えば、 原住民の文化と歴史の厚みの差、 宗教発展段階の違い、 日本や支那における宗教に対する政治の優位、 西欧に

  • キリスト教徒の独善と狂信

    日本人であるわれわれは 大航海時代の西欧の侵略に対して、 ごく自然に、 次のような三つの疑問に 思いが及ぶのを禁じえません。 第一に、ポルトガルとスペインの取り決めた デマルカシオン(境界画定)によ

  • サラゴサ条約

    一五二九年に ポルトガル、スペイン両国は サラゴサに会し、条約を結びました。 第一に、スペイン国王は モルツカ諸島に関するすべての権利を 黄金三十五万ドゥカドで ポルトガル国王に売り渡す。 ただし

  • モルツカ諸島の帰属

    ポルトガル人でありながら、 スペイン王朝のために働いた マゼランの世界一周航海は、 一五一九年に始まり、 グアムやサイパンといった、 日本人に身近なマリアナ諸島にまで足跡をとどめ、 一五二一年フィリピ

  • スペイン黄金時代

    ポルトガルはインドのゴアを アジア進出の中心地に定めました。 そこにルネサンス様式の 壮大な寺院や宮殿を建設し、 さらに東進し、 マラッカ (マレーシアの首都クアラルンプールの少し南) を占領し、モ

  • ポルトガルとスペインの争奪戦

    ポルトガル、スペイン両国が 一四九四年にトルデシリヤス条約を結んだ後の 東回りと西回りの地球争奪競争は有名です。 一四九七年にリスボンを出た ポルトガルのヴアスコ・ダ・ガマ遠征隊は、 アフリカ南端の

  • 東南アジアへの侵略

    一六八〇年代前後からイギリスで 近代民主主義の原型が確立され、 西欧人はアジアにたいする侵攻をすすめます。 それ以前の西欧人のアジア進出は、 どちらかといえは、 貿易と略奪がおもだったのですが、 一

  • アジアへの侵略

    このようにすべての人間は平等であり、 生命・自由・財産の権利を主張した近代西欧人が、 その後、アジアにたいして 積極的な侵略にのりだしてきたことは 注目すべきです。 その最大の原因は、西欧の民主主義

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