一九世紀中ごろの段階では、 ①キリシタン禁制、 ②日本人の渡航禁止、 ③そのための外洋船(大型船)の 所有・建造の禁止などが重要であり、 鎖国を実施した一七世紀の ポルトガル船・スペイン船の来航禁止とい
「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。
自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。 これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。 充実して生きる道を探しているのだ。 それが、何にもまして一番重要なことなのだ。 それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。
つぎのパスコ=ダ=ガマの、 インドへの航路ですが、 さいわいにケニア沿岸のモンバサという港で、 アラブ大のイブン=マージという 水先案内大の援助を得て、 ついにインド南端の貿易港 カリカットへ到着でき
インド、エジプト、イタリアの商人が コショウの貿易ルートによって、 もうけていましたが、一六世紀はじめから、 これにわりこんできたのがポルトガル人でした。 ポルトガルは、一二世紀に イベリア半島の西
西欧人は、長いあいだ 牧畜に依存して生活してきた関係から、 大量の肉をたべる習慣が 今日までつづいてきています。 そのために、西欧人は 殺した家畜の肉を保存することについて、 むかしから大きな関心を
政治の混乱はありましたが一方では、 新しい農業や耕作技術が発展しました。 特に水田農業が重要で、 水利施設の整備や灌漑技術の 進歩が行われました。 また農業土木の発展により、 農地の拡大や効率的な
倭冠は鎌倉時代にも見られましたが、 西国の土豪が組織した海賊、 いわゆる前期倭冠は、 米と奴隷の略奪を目的として 朝鮮半島から支那の北部、 さらに南部にまで進出して猛威をたくましくし、 倭冠の至るとこ
室町幕府の財政は、 外国とくに明との貿易による利益が、 大きな財源となりました。 蒙古の来襲後も、 九州や瀬戸内海沿岸の住民は、 さかんに支那や朝鮮と私貿易を行っていました。 この貿易には莫大な利
義満は室町幕府の最盛期を 築くことに成功しました。 明徳の乱で山名氏を押えたのは、 その第一歩です。山名氏は、 因幡・伯耆など五カ国の守護を兼ねており、 一族合せて十一カ国の守護を領し、 日本六十余
1467年(応仁1)から十一年間続いた内乱は、 細川勝元と山名持豊(宗全)との対立に, 将軍足利義政の跡継ぎ問題, 斯波・畠山両管領家の相続争いがからんで, 諸国の守護大名が細川方の東軍と 山名方の西軍に
日本の統一的支配者の座を獲得した義満は、 その晩年、上皇になることに意を注ぎます。 その証左は、夫人の日野康子を 後小松天皇の准母としたことで明白です。 夫人が准母なら、夫の義満は 自動的に天皇の
足利義満(あしかが よしみつ)は、 延文3年8月22日(1358年9月25日)の生まれで、 室町時代前期の室町幕府第3代征夷大将軍です。 明徳3年(1392年)、 楠木正勝が拠っていた河内国千早城が陥落し、 南朝勢力
南朝軍で唯一優勢を誇っていた九州の懐良親王軍が、 東上の軍をおこしましたが、 途中で瓦解しました。 諸国の直冬(ただふゆ)党も勢いを失い、 天下三分の混沌状態は克服されつつありました。 義詮が十三年
室町幕府は、 足利氏の将軍による武家政治機構です。 足利尊氏は、九州から東上して 光明天皇を立てた直後、 鎌倉幕府の遺老二階堂是円(ぜえん)らに 政治の大綱を諮問しました。 その答申が一七条から成る
南北両朝和平合体の時機が到来しました。 これまでも、足利直義や佐々木高氏などが、 吉野に和平の働きかけをしたこともありましたが、 吉野では、 北朝の解消、足利氏の帰順を条件としない限り、 交渉に応じ
楠木正成の子正行(まさつら)が 河内四条畷(なわて)の戦いで戦死したことは、 吉野方には大打撃であり、 天皇は一時吉野を出て 大和の賀名生(あのう)に遷られたほどでした。 九州では、 征西将軍宮懐良(かね
吉野の朝廷では、 恒良親王.尊艮親王を奉じて 北国に下った新田義貞は、 越前金ガ崎城で敗れ、 ついで藤島に戦死し、 北畠顕家は義良親王を奉じて 陸奥から再び西上しましたが、 和泉石津の戦に戦死し、 頼
尊氏は九州で菊池武時の子武敏を破り、 少弐・大友・島津等の諸豪族をしたがえて 東上の準備を整え、 海陸両道から大軍を率いて京都に向います。 楠木正成はこれを摂津湊川に迎え戦って死に、 千種忠顕・名和
尊氏は好機訪れたとみてとり、 征夷大将軍に任ぜられて時行を討つことを請うたが、 許されなかったので勅許を待たずに東下し、 時行を討って鎌倉を回復しました。 新政権に不平を抱き、 幕府の再興を望む武士
中興事業に協力した武士の多くは、 幕府に対して不平を抱く人々です。 彼らは幕府を倒すことによって、 自己の地位を安定させ、 さらにそれがよりよくなることを期待したので。 天皇の理想を理解し、 それ
新政権に対する信頼が失われていくときに、 朝廷では、大内裏の造営を計画し、 安芸・周防を料国に宛て、 諸国の地頭にもその費用を課し、 夫役を徴した上に、 期日におくれると それを倍額にして徴収したので
中央.地方の行政機構は整備されましたが、 その施政には不手際が多く、 中興政権はわずか二年で崩壊しました。 新政の成否は、恩賞と土地問題の処理にありましたが、 恩賞の給源としての土地には限りがあるの
後醍醐天皇は伯耆を発し、 途中光厳天畠の廃立を宣言し、 京都に還幸するや、新政を開始しました。 翌年改元した年号をとって、 これを建武中興といいます。 中興政治の理想は、天皇観政を中核とする 公家
後醍醐天皇は隠岐に遷っても譲位の意志はなく、 光厳天皇の在位を認めず、 あくまでも討幕の志をすてません。 護良親王も楠木正成も幕府に抑えられることなく、 親王は近畿地方で活躍し、 叡山の末寺を中心に
正中の変により、 幕府の天皇に対する瞥或は厳重になり、 皇太子邦艮親王薨去後は、 天皇の皇子を皇太子に立てることを拒否し、 量仁親王を皇太子とします。 これで幕府を倒さない限り、 天皇が皇子に位を譲
持明院統の花園天畠のあとを受けて 皇位についたのは、大覚寺統の後醍醐天皇です。 天皇は後宇多天良の第二皇子で、 近臣とともに僧玄恵について宋学を学び、 革新的思想を身につけられました。 即位の初め
幕府の対朝廷策の失敗も 崩壊のきっかけの一つです。 承久の乱後公武両政権の関係は一変し、 治世の君として院政を担当する上皇の決定は、 幕府の手に握られることになりました。 朝廷では、後嵯峨天皇は、
御家人の所領を保護する必要に迫られた幕府は、 一二九七(永仁五)年徳政令を発布して、 御家人所領の質入・売買を禁止し、 すでに売却された土地は無償でもとの持主に取戻させ、 また金銭貸借に関する訴訟は
得宗専制の強化と内管領の抬頭は、 外様(とざま)と呼ばれた一般御家人との対立を生じ、 時宗の死を機として、 一二八五(弘安八)年の霜月騒動となって現われました。 これは幕府草創以来の名家である安達泰盛
1333年7月4日(元弘3年/正慶2年5月22日)に、 元弘の乱で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇が、 7月17日(和暦6月5日)に 「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したこと により成立した建武の新政でしたが、 鎌倉
元の世祖フビライ・セチェン・ハーンがつくった 北モンゴルから南シナ海におよぶ帝国は、 元朝の中国に君臨した最後の皇帝である 恵宗トゴン・テムル・ハーン(順帝)の治世に その組織が完戊し、 一三六八年か
西方では、 チンギス=ハーンの孫のフラグ=ハーンが 一二五八年にバグダドを略奪し、 ついに東部のアッバス王朝にとどめを刺しました。 フラグ=ハーンは、 タブリーズの南カにある アゼルバイジャンのマラ
火薬と火器は、蒙古人の手をへて 西欧に達したと考えられます。 印刷についても技術的な細目は別としても、 この径路で西欧に達したのです。 ある時期に支那で印刷されたカルタが、 蒙古人の侵入後まもなく
東洋では東部回教君主国を征服し、 支那の宋王朝を征服した蒙古人は、 最初は、アラビア人の場合よりももっと野蛮でした。 しかしかれらは、 征服した人びとから得た文明の水準にまで達しました。 蒙古人が
今日アフリカにはアラブ人の国が樹立され、 すべてイスラーム圏に属していますが、 中部アフリカでもイスラーム教を信奉する国、 あるいはイスラーム教を第一の宗教とする国 がかなりあります。 たとえば、
アフリカだけにかぎりません。 インド北部にも、 一○世紀末からたびたびイスラームの軍隊 (イスラーム化されたトルコ人)が侵入し、 一二○○年ごろ、ついにイスラーム勢力が 北インド全域を占領してしまって
夢窓疎石は一人で坐禅していた時に、 眠気に襲われたので 後ろの壁にもたれて寝ようとしますが、 後ろには何もなくそのまま倒れてしまいました。 思わず大笑いした時、悟りを得ました。 鎌倉幕府が滅亡する
建治元年(1275)に伊勢国で生まれた 夢窓は臨済宗の禅僧です。 9歳で出家し、奈良の東大寺で 仏教経典はもちろん支那の老荘思想を修めました。 20歳の時、夢の中で異人に導かれ、 疎山と石頭という
五月三日、合浦を出発した末路軍は 対馬、壱岐をへて六月六日、 博多湾に姿をあらわしたが、 日本側は海岸一帯に堅固な石塁を築き、 九州だけでなく関東の武士も襲撃にそなえていました。 このため、末路軍は
南宋を滅ぼし、支那征服を完了したモンゴルは、 一二八〇年に日本再征を決定し、 第一次の五倍を越える大軍を動員して、 一二八一年に出発しました。 屈服させたばかりの旧南宋の支那人十万、 船三千五百隻の
一二七四年の十月三日、 船団は朝鮮の合浦(がつぼ)(馬山:ばざん)を出航し、 五日には対馬、十四日には壱岐を犯して、 虐殺と略奪をほしいままにし、 十九日には博多湾に入り、 二十日には湾岸各地点から い
一二世紀末の日本では鎌倉幕府が成立し、 一二二一年の承久の乱をへて、 この武士政権はもっとも充実した時期を迎えていました。 フビライが派遣したモンゴルの使者が、 はじめて日本に来たのは一二六八年です
モンゴル皇帝フビライ・ハーンは、 高麗国王元宗を降伏させ、これを朝貢国とし、 一一六六年、フビライは軍事力による征服の 威嚇をこめた日本招諭のための使者の派遣を 高麗に強要しました。 いったんは 「
たしかに趙彝にとって、 日本は黄金の国と思われたかもしれない。 とくに奥州藤原(おうしゆうふじわら)氏の 豊かな金力が 彼のイメージを大きくふくらませました。 膨大な黄金を、それこそ湯水のように投じ
フビライ・ハーンの政治的叡智(えいち)は 南宋の息の根を止めるには その貿易ルートを遮断することが先決と考えました。 このフビライ・ハーンに 日本列島の侵略を示唆(しさ)したのは、 高麗(こうらい)人であ
明時代のなかでとくに注目されるのは、 四〇三年に即位した成祖で、 別名永楽帝ともよばれる国王の時期です。 第一代、第一一代皇帝が、 内政を充実させたあとをついだ永楽帝は、 積極的に対外進出にのりだし
このチムール帝国で注目すべきことが二つあります。 一つは、チムールがイスラーム教に改宗したために、 イスラームの勢力がいっそうつよまっていったことです。 もう一つはチムールの後継者(その息子)の時期
モンゴル時代は、 一二一八年から一三六八年まで 百五十年ほど続きました。 モンゴル帝国が滅亡してのち、 ユーラシアの各地で 新しい動きがあらわれてきましたが、 そのなかでとくに注目すべきものは、 や
第八の段階は、華中・華南の征服です。 南宋に対する作戦は、オゴデイ・ハーン以来、 何度も試みられましたが、 最後に一二七六年、フビライ・ハーンの派遣した モンゴル軍が杭州を占領し、南宋は滅亡しました
「黄金のオルド」のハーンの位を バトゥから継いだのは、 その弟のベルケですが、 ベルケとフレグは コーカサスの領有をめぐって衝突しました。 この情勢のもとに、 エジプトのマムルーク朝は ベルケと手を
第七の段階は、西アジアの征服です。 チンギス・ハーンの孫のモンケ・ハーンは、 一二五三年、弟のフレグを 西アジア遠征に派遣しました。 フレグは一二五八年、バグダードを攻略して 最後のハリーファを処
一二四一年十二月、 オゴデイ・ハーンが死去したため、 モンゴルの遠征軍は東経十六度線で突然、 進軍を中止して引き揚げました。 このときウィーナー・ノイシュタットでは、 追撃したオーストリア軍は 八人
モンゴル軍の作戦の目的は、 西欧をことごとく征服して、 大西洋岸に達し、この地方を モンゴルの故地とすることであったと思われます。 その証拠に、モンゴル軍の先鋒隊には、 あるイギリス貴族が従軍してい
第六の段階は、キプチャク草原の征服です。 チンギス・ハーンの長男のジョチは、 父からカザフスタンを牧地として与えられていました。 オゴデイ.ハーンは一二三四年、 ジョチの次男のバトゥを総司令官とし
セルジュク朝は、 イスラーム世界では最初のトルコ人の帝国ですが、 その領土の東半分を引き継いだのは、 やはりトルコ人イスラーム教徒の ホラズム・シャ一朝です。 ホラズムというのは、 現在のウズベク共
西アジアのイスラーム世界は、 七世紀のアラブ帝国の大征服が創り出したものです。 この帝国は八~九世紀、 バグダドのアッパース朝のハリーファ(カリフ)のもとで 最も繁栄したが、この時代から、 中央アジ
一二五〇年代に、 モンゴル軍は第三次西征にでかけ、 一二五八年に 有名なバグダッド(現在のイラクの首都)を攻略しました。 さらにエジプトへ進撃しようとしたのですが、 このときも国内からの不幸の急報に
もともと、モンゴルの文化は それほど高くはなかったのですが、 ホラズム遠征によって、 中央アジアやイランの 高い文化や都市の繁栄をみて、 はじめて世界に目をひらいたのでした。 そして、さらに西方を攻
アジアでは民族がつぎつぎにあらわれましたが、 モンゴル帝国はそのもっとも成功し例です。 モンゴル帝国の出現によって、 当時のユーラシア全体の情勢が一変しました。 モンゴルは、 モンゴル高原(支那本
これからのモンゴル帝国の発展は、 いくつかの段階に分かれます。 第一の段階は、西夏王国の征服でする。 チンギス・ハーンの即位前の一二〇五年から、 すでにモンゴル軍は西夏に侵入を開始し、 一二二七年
フランスの美術評論家プウジナは、 一九三五年の著述 『支那のイタリア・ルネサンス絵画への影響』のなかで、 技術と内容の両方から分析し、 支那絵画の影響について、 つぎのように指摘しています。 「技術
ルネサンス思潮を もっともよくあらわしたのが、 レオナルド=ダ=ビンチや ラファエロに代表される 絵画だといわれています。 それ以前の西欧中世の絵は、 完全な宗教画だったのですが、 レオナルドやラフ
ルネサンスのもとの意味は、「再生」です。 つまり、古代ギリシア・ローマに 花ひらいた人間賛歌の文芸がほろび、 その後イスラーム勢力や宗教によって 抑圧されていた時代をこえ、 いままた再生したというわ
中世の末期(一五世紀)に イタリアに大きな変化がおきました。 西欧は、一二世紀になって ようやく都市文明の時代へはいりましたが、 都市の発達のもっともはやかったのは、 北イタリアでした。 一四~一
航海について、重要なことは、 天文学も地理学も イスラームの学術書からまなんでいることです。 西欧人がイベリア半島からイスラームを 追いはらって建国した国の一つに カスチラ王国があります。 この国
一二世紀にはいると、 西欧にはいくつかの都市が誕生し、 大学も設置されるようになりました。 そして一三世紀になると、 西欧のいたるところに都市があらわれ、 また多くの大学がもうけられました。 これ
トレドには多数のイスラームの学術図書が 保存されたイスラームの大図書館があり、 そこには、古代ギリシャの学術研究を アラビア語に訳した書籍 もたくさんおかれていました。 そして、トレド図書館をみつけ
当時の西欧の軍事力では、 とてもイスラーム軍に対抗できず、 エルサレムを奪回することは一時的にはできても、 けっきょくは成功しませんでした。 しかし十字軍によって、 西欧よりはるかに文化の発達したイ
イスラームの勢力圏が もっとも拡大したのは一七世紀で、 マホメットの布教から一千年のちのことです。 一七世紀には 旧大陸(ナジアとアフリカ)のじつに半分以上が イスラームの勢力下にはいっていたのです
モンゴル(元)の国王につかえた イタリア商人のマルコ=ポーロは、 帰途スマトラ島(インドネシア)に しばらく滞在したことがあります。 そのころスマトラには、 ほぼ現在のインドネシア全域を支配する 大
アフリカには今日ではアラブ人の国が樹立され、 すべてイスラーム圏に属していますが、 中部アフリカでもイスラーム教を信奉する国、 あるいはイスラーム教を第一の宗教とする国が かなりあります。 たとえば
アフリカだけにかぎりません。 インド北部にも、 一○世紀末からたびたびイスラームの軍隊 (イスラーム化されたトルコ人)が侵入し、 一二〇〇年ごろ、ついにイスラーム勢力が 北インド全域を占領してしまっ
チムール帝国で二つの注目すべきことがあります。 一つは、チムールがイスラーク教に改宗したために、 イスラームの勢力が一層つよまっていったことです。 もう一つはチムールの後継者(その息子)の時期に、
永楽帝は南へは、 鄭和という提督に数十せきの大艦隊をあたえ、 一四〇五年から三〇年までのあいだに 七回にわたって航海させています。 鄭和の大艦隊は、東南アジアの タイ、マレー、ジャワ、スマトラをはじ
モンゴル時代は、 一二一八年から一三六八年まで 百五十年ほどつづきました。 モンゴル帝国が滅亡してのち、 ユーラシアの各地で 新しい動きがあらわれてきましたが、 とくに注目すべきは、 モンゴルの四大
歴史上の最大の大帝国を建設したモンゴルは、 世界史上でどのような意味があるのでしょうか。 五世紀ごろから一五世紀ごろまで、 騎馬民族がつぎからつぎへとあらわれて、 ユーラシアの中心勢力となったのです
モンゴル軍がなぜつよく、 たちまちユーラシア大陸を席巻できたのでしょう。 その第一の理由は、 モンゴル軍は軽装の騎馬兵だけで、 機動力にとんでいたためです。 当時、ほかの国の軍隊は、 歩兵と騎兵が
一二五〇年代に、 モンゴル軍は第三次西征にでかけ、 一二五一年にバグダッド(現在のイラクの首都)を 攻略しました。 さらにエジプトへ進撃しようとしたのですが、 このときも国内からの不幸の急報に接して
モンゴルの文化はもともと、 それほど高くはなかったのですが、 ホラズム遠征によって、 中央アジアやイランの高い文化や都市の繁栄をみて、 世界に目をひらいたのです。 そして、さらに西方を 攻略したいと
モンゴル帝国は、 まさに空前絶後の大帝国を建設しました。 領土の広さについてみるなら、 そういえるでしょう。 世界史における中世の特徴の一つは、 騎馬民族が歴史の主導権をにぎっていたことです。
アジアでは、1215年に蒙古軍が金の首都を陥れ、 チンギス・ハーンの西征が開始されます。 13世紀にモンゴル高原におこり, 西アジア・ヨーロッパにまたがる 大帝国をつくりあげたモンゴル人は, 1234年,金を
「タヤン」とは、 金帝国から与えられた称号「大王」のなまりです。 ナイマン軍はモンゴル軍とオルホン河畔で 戦闘で大敗し、タヤン・ハーンは戦死しました。 テムジンは東方に転じてタタール部族を撃破し、
ケルイトのオン・ハーンと モンゴルのテムジンの協力は 一二〇二年まで続き、 それまでに外モンゴルの諸部族は ほとんどが二人の支配下に入りました。 ところが成功とともに利害の対立が生じ、 ついに一二〇
一一九五年、ケルイト王国では、 またも内紛が起こっていました。 西隣のアルタイ山脈方面の ナイマン部族の王がこれに介入し、 トグリル・ハーンの弟の ジャア・ガンボは逐い出されて、 東隣のケンティ山脈
イエスゲイが死んだ時、 息子のテムジンはまだ幼かった。 この頃のモンゴル部族には、 まだ文字の知識がなく、 従って記録もなかったので、 テムジンが生まれた年も確実には判りません。 テムジンの事蹟が
パルグジンとは、 バイカル湖に東側から流れ込む河の名前で、 その渓谷は大きな平原になっています。 パルグはこの地方に住む遊牧民のことで、 現在のブリヤート・モンゴル人の祖先です。 ジャライルという
モンゴルという部族は、 もともと現在のシベリアと 内モンゴル東部の境を流れる アルグン河のほとりの遊牧民で、 その名前は七世紀に初めて記録に現れます。 モンゴルが再び現れるのは1084年のことで、
日蓮の時代はモンゴル帝国が各方面に侵攻し、 モンゴル・南宋戦争、モンゴルの高麗侵攻など 日本の隣国を繰り返し侵略し、 前年の1259年には高麗が降伏していた時期でした。 日蓮は文応元年(1260年)7月16日
日蓮は貞応元年(1222年)に 千葉県鴨川市に生まれました。 四条天皇の御代に出家し、 比叡山他を14年間遊学しました。 五時教判 (支那の天台が諸経典の教えの相や時期を 五つに分けて判別して、
世界遺産である平等院の、平等という名は、 仏の救済が平等ということを意味しています。 そもそも 天照大神(あまてらすおおみかみ)は女性で、 日本では神代の昔から 男女平等は当然と見られていました。
孤雲懐奘(こうん えじょう:建久9年生)は、 道元の一番弟子で、 曹洞宗の第二祖とされる禅僧です。 道元の死後、永平寺の住持となり、 道元の教えを守り伝えました。 また、道元の著書『正法眼蔵』の
道元は、 正法眼蔵によって「正伝の仏法」を伝えるので 「禅宗」や「曹洞宗」などと云うものを 伝えるのではないと述べています。 室町時代後期、戦国時代に入ると、 寺社勢力は金融の担い手となっており 度
道元は、 土御門帝の正治2年(1200年)に生まれ、 禅の思想を初めて日本に持ち帰った 日本の曹洞宗の開祖です。 宋(中国)で如浄禅師に師事し、 悟りの境地に至りました。 帰国後は京都や越前(福井
栄西(永治元年―建保3年)は、 鎌倉時代の僧で、 日本における臨済宗の開祖で、 備中(岡山県)の出身です。 天台宗と密教を学んだ後、 宋に渡って禅宗の教えを受けました。 帰国後は九州や京都で禅宗の布
歎異抄に 「善人なおもて往生をとぐ、 いわんや悪人をや(善人が極楽往生できるのなら、 悪人ができないはずが無い)」と有り、 悪人正機(あくにんしょうき)と呼ばれる思想は 親鸞独自のものとして知られてい
親鸞(承安3年、1173-1262)は 鎌倉時代の仏教家で、 浄土真宗の宗祖で、法然を師として、 浄土往生を説く教えを継承しました。 出家した後は比叡山で修行しましたが、 後に下山して法然に師事しま
「方丈記」は末尾に 「于時建暦ノフタトセ、ヤヨヒノツコモリコロ、 桑門ノ蓮胤、トヤマノイホリニシテ、コレヲシルス」 (大福光寺本)とあることから、 建暦2年(1212年)3月末日に記されたのでしょう。 現
方丈記とは、鴨長明による鎌倉時代の随筆です。 日本中世文学の代表的な随筆とされ、 兼好法師の『徒然草』、清少納言の『枕草子』とならぶ 「古典日本三大随筆」に数えられます。 この随筆は、鴨長明が京都
昭和25年、「新大阪新聞」に掲載された 「きけわだつみのこえ」(原題「人間劇の喪失」で、 小林は「平家物語」の世界を引き合いに出しながら、 「人間らしい物語を創り出すことのできるような 戦争も実際に可能
新しい仏教の特徴は、 古代以来の多神教的な世界から、 それぞれがただ一つの道を選ぶという 選択にありました。 この道さえ歩めば、必ず救われるという 一神教的な道を説いたのです。 修行の仕方も、念仏
「平家物語」は鎌倉時代に成立した軍記物語で、 平家の栄光と没落を追うことで、 世の無常を描きだしました。 保元の乱および平治の乱に勝利した平家と 敗れた源氏の対照的な姿、 その後の源平の戦いから平家
法然は長承2年(1133年)、 岡山県誕生寺に生まれ、 9歳のとき父が敵の夜襲にあい、 非業の死を遂げます。 臨終間際に、法然を呼び寄せ 「決して仇を討ってはいけない。 仇は仇を生み、憎しみは 絶え
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一九世紀中ごろの段階では、 ①キリシタン禁制、 ②日本人の渡航禁止、 ③そのための外洋船(大型船)の 所有・建造の禁止などが重要であり、 鎖国を実施した一七世紀の ポルトガル船・スペイン船の来航禁止とい
交渉に使用する言語は 幕府側だけの問題ではなく、 双方の問題です。 ペリー側は各種の理由から 日本語通訳をつれてくることができず、 口頭ではオランダ語(担当は若きポートマン)、 文書では漢文(宣教師
外交は幕府(将軍・老中)の仕事であり、 幕府の責任で条約が必要なら調印する、 そのどこかの段階で 御三家・有力大名などから必要な意見は聞くが、 責任をもつ外交主体は幕府であった。 三権分立の原則が承
海外情報の人手を積極的にやっており、 鎖国(日本人の海外渡航の禁止が重要な一要素) というかぎられた状況下で、 最善をつくして情報収集に努めていました。 具体的には、長崎にはいるオランダ船と清国船に
江戸湾に外国船が 来航したことは何度かあり、 そのなかにはアメリカ東インド艦隊の ビッドルの二隻(一八四六年)もありました。 しかし、黒煙をあげ、 潮の流れにかかわらず左右自在に動く 蒸気船が江戸湾
日本との条約締結を第一課題とした以上、 問題は交渉にあたる人物です。 条約の草案作成や通訳などを担える 人物をつれていかなければならなりませんが、 支那で調達する予定でした。 香港到着後、ただちに
ペリーが支那に到着する直前、 太平天国軍が南京を占拠して首都とし、 さらに開港場の上海をおびやかしており、 上海居留のアメリカ人を 保護する必要が生じました。 しかし居留民保護に時間をついやせば 日
巨大な蒸気船はアメリカ海軍の独占物です。 当時まだ「新興国」であったアメリカで 「超大国」に匹敵できる産業は、 急成長していた造船業で、 その造船業がアメリカ海軍の発注をうけ、 国家の威信をかけて、
国際政治は、 このような諸体制の総体をさします。 そのなかで、 列強のうちの「超大国」イギリスは 日本に最初の条約をもたらさず、 アメリカが一番乗りをはたします。 では、ペリーの得た権限、 派遣の
「発砲厳禁」を至上命令としてうけた以上、 戦争も辞さないという態度は、 脅し以外にはとれません。 それにアメリカから日本へは 太平洋を横断してきたのではなく、 世界の四分の三という遠路をとおってきた
ペリー派遣のさいの大統領命令のなかで 最大の内容のものは、「発砲厳禁」です。 海軍ですから、発砲をうけた場合の 自衛・脱出のための発砲は 当然ながら許されていますが、 自分のほうから威嚇のためであれ
これら四つの体制上の区別が 明白になってくるのは、 一九世紀の中ごろ、 ちょうどペリーとのあいだで 日米和親条約が成立した時期です。 日本は、一八三九年からの 前哨戦をふくむアヘン戟争の情報を 刻々
まず①列強とはなにか―― 列強(powers)とは、自国の船により 世界のどこへでも到達できる力をもって、 それを保護するだけの海軍力を有する 「海洋国」です。 世界では、「超大国」イギリス、 日本と長く親
早急に武備の充実を計るには、 一時的にも外国との交易を行って、 近代的な艦船や大砲を 入手する必要があります。 しかし、 それが鎖国政策によって禁止されています。 自分で自分の手を縛りあげて 身動
正弘はその頃、鎖国政策の矛盾に 一番頭を悩ませていました。 鎖国政策は、日本の泰平無事と 幕府自身の安泰を願う政策です。 そのため、幕府は 努めて諸藩の勢力を弱くすることに 意を用いてきました。
論議を続けているうちに、 海防掛に注目すべき建白書が仙台藩の 儒者大槻磐渓(ばんけい)から寄せられました。 磐渓は蘭学者だった父 玄澤(げんたく)の影響を受け、 儒学者にもかかわらず、 世界の情勢に明る
正弘は、 老中評議と海防掛会議終了後、 海防参与の徳川斉昭に対し、 ロシア国書受取りに関する 公文書翰を認(したた)めさせました。 それには、五老中の連署があり、 さすがの斉昭も反対はできません。
ロシアのネッセルローデ首相兼外相の 親書は江戸城に未着だが、 八月上旬から海防掛は対ロシア交渉の 論議をはじめていました。 親書の内容は、 長崎奉行の書状で明らかです。 議論を重ねていくうちに、
老中評議の後、 正弘は海防掛会議を召集しました。 そこで正弘は、 在府長崎奉行の水野筑後守に命じ、 ロシア艦隊の長崎来訪の儀と ロシア艦隊司令長官プチャーチン提督の 丁重な交渉態度を紹介させました。
老中首座伊勢守阿部正弘は登城すると、 すぐに海防掛の川路聖謹(としあきら)を招き、 「さきほど、長崎奉行の水野殿が この書状を届けにこられた。 まずお読みいただきたい」 「オロシャの提督はペルリとは
つぎのパスコ=ダ=ガマの、 インドへの航路ですが、 さいわいにケニア沿岸のモンバサという港で、 アラブ大のイブン=マージという 水先案内大の援助を得て、 ついにインド南端の貿易港 カリカットへ到着でき
インド、エジプト、イタリアの商人が コショウの貿易ルートによって、 もうけていましたが、一六世紀はじめから、 これにわりこんできたのがポルトガル人でした。 ポルトガルは、一二世紀に イベリア半島の西
西欧人は、長いあいだ 牧畜に依存して生活してきた関係から、 大量の肉をたべる習慣が 今日までつづいてきています。 そのために、西欧人は 殺した家畜の肉を保存することについて、 むかしから大きな関心を
政治の混乱はありましたが一方では、 新しい農業や耕作技術が発展しました。 特に水田農業が重要で、 水利施設の整備や灌漑技術の 進歩が行われました。 また農業土木の発展により、 農地の拡大や効率的な
倭冠は鎌倉時代にも見られましたが、 西国の土豪が組織した海賊、 いわゆる前期倭冠は、 米と奴隷の略奪を目的として 朝鮮半島から支那の北部、 さらに南部にまで進出して猛威をたくましくし、 倭冠の至るとこ
室町幕府の財政は、 外国とくに明との貿易による利益が、 大きな財源となりました。 蒙古の来襲後も、 九州や瀬戸内海沿岸の住民は、 さかんに支那や朝鮮と私貿易を行っていました。 この貿易には莫大な利
義満は室町幕府の最盛期を 築くことに成功しました。 明徳の乱で山名氏を押えたのは、 その第一歩です。山名氏は、 因幡・伯耆など五カ国の守護を兼ねており、 一族合せて十一カ国の守護を領し、 日本六十余
1467年(応仁1)から十一年間続いた内乱は、 細川勝元と山名持豊(宗全)との対立に, 将軍足利義政の跡継ぎ問題, 斯波・畠山両管領家の相続争いがからんで, 諸国の守護大名が細川方の東軍と 山名方の西軍に
日本の統一的支配者の座を獲得した義満は、 その晩年、上皇になることに意を注ぎます。 その証左は、夫人の日野康子を 後小松天皇の准母としたことで明白です。 夫人が准母なら、夫の義満は 自動的に天皇の
足利義満(あしかが よしみつ)は、 延文3年8月22日(1358年9月25日)の生まれで、 室町時代前期の室町幕府第3代征夷大将軍です。 明徳3年(1392年)、 楠木正勝が拠っていた河内国千早城が陥落し、 南朝勢力
南朝軍で唯一優勢を誇っていた九州の懐良親王軍が、 東上の軍をおこしましたが、 途中で瓦解しました。 諸国の直冬(ただふゆ)党も勢いを失い、 天下三分の混沌状態は克服されつつありました。 義詮が十三年
室町幕府は、 足利氏の将軍による武家政治機構です。 足利尊氏は、九州から東上して 光明天皇を立てた直後、 鎌倉幕府の遺老二階堂是円(ぜえん)らに 政治の大綱を諮問しました。 その答申が一七条から成る
南北両朝和平合体の時機が到来しました。 これまでも、足利直義や佐々木高氏などが、 吉野に和平の働きかけをしたこともありましたが、 吉野では、 北朝の解消、足利氏の帰順を条件としない限り、 交渉に応じ
楠木正成の子正行(まさつら)が 河内四条畷(なわて)の戦いで戦死したことは、 吉野方には大打撃であり、 天皇は一時吉野を出て 大和の賀名生(あのう)に遷られたほどでした。 九州では、 征西将軍宮懐良(かね
吉野の朝廷では、 恒良親王.尊艮親王を奉じて 北国に下った新田義貞は、 越前金ガ崎城で敗れ、 ついで藤島に戦死し、 北畠顕家は義良親王を奉じて 陸奥から再び西上しましたが、 和泉石津の戦に戦死し、 頼
尊氏は九州で菊池武時の子武敏を破り、 少弐・大友・島津等の諸豪族をしたがえて 東上の準備を整え、 海陸両道から大軍を率いて京都に向います。 楠木正成はこれを摂津湊川に迎え戦って死に、 千種忠顕・名和
尊氏は好機訪れたとみてとり、 征夷大将軍に任ぜられて時行を討つことを請うたが、 許されなかったので勅許を待たずに東下し、 時行を討って鎌倉を回復しました。 新政権に不平を抱き、 幕府の再興を望む武士
中興事業に協力した武士の多くは、 幕府に対して不平を抱く人々です。 彼らは幕府を倒すことによって、 自己の地位を安定させ、 さらにそれがよりよくなることを期待したので。 天皇の理想を理解し、 それ
新政権に対する信頼が失われていくときに、 朝廷では、大内裏の造営を計画し、 安芸・周防を料国に宛て、 諸国の地頭にもその費用を課し、 夫役を徴した上に、 期日におくれると それを倍額にして徴収したので
中央.地方の行政機構は整備されましたが、 その施政には不手際が多く、 中興政権はわずか二年で崩壊しました。 新政の成否は、恩賞と土地問題の処理にありましたが、 恩賞の給源としての土地には限りがあるの