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千の朝 https://plaza.rakuten.co.jp/beabea65/

「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。

 自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。  これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。  充実して生きる道を探しているのだ。  それが、何にもまして一番重要なことなのだ。  それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。

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2014/09/11

  • 西欧の拡張

    東方にむかっては、ドイツの騎士たちが、 エルベ川を東に越えて 帯状の地帯を征服、植民しました。 船を使ってバルト海沿岸を飛石づたいに進み、 プロシャ、リヴオニア(現代のラトヴイア)、 エストニアを占

  • 西欧と日本

    世界史上最も劇的でめざましい変化だった イスラームの自己変容と拡大は、 一〇〇〇年から一五〇〇年の間におこりました。 それについでおこった変化は、 未来に対してはそれよりさらに重要な 意味を持ってい

  • 幕府と朝廷

    平安時代末期の保元の乱や平治の乱 といった朝廷の内部抗争などに端を発する 貴族階級の衰退と武士階級の飛躍的な台頭の後、 1185年に初めての武家政権となる 鎌倉幕府が成立しましたが、 東日本を勢力下におい

  • 奥州藤原氏

    奥州藤原氏は、 特産品の金や馬で栄えてきた一族です。 源平の争いの間も、じっと静観し、 力を温存してきました。 第3代奥州藤原家当主、 藤原秀衡(ふじわらのひでひら)は 冷静沈着、剛の者と言われ、

  • 平治の乱

    保元の乱での天皇側の源義朝は 上皇側の源為義(義朝の父)の 助命を懇願しますが願いは聞きいれられず、 処刑されます。 さらに同じ天皇側であった 平清盛ばかりが厚くもてなされ、 義朝の不信感は高まって

  • 義仲と義経

    後白河法皇の子、以仁王(もちひとおう)が 平氏討伐の兵をあげたのです。 挙兵後すぐに以仁王は 平氏に負けて亡くなってしまいます。 ところが、 これをきっかけに源頼朝が立ち上がると、 それに呼応して

  • 源頼朝

    平治の乱で源氏が敗北した際、 源頼朝は 敵方の嫡男(ちゃくなん・家を継ぐ者)として、 当然処刑されるはずでした。 しかし、「死んだ息子に似ている」との思いから、 情けをかけてほしいと平清盛に懇願した

  • 今様

    今様(いまよう)は、 日本の歌曲の一形式です。 今様というはやり歌を、白拍子・遊女が歌い、 流行しました。 庶民はもとより貴族にまで愛され、 宮中の宴会でも歌われました。 後白河上皇も今様を好ま

  • 資本主義のはじまり

    鎌倉時代に資本主義があったかどうかは 議論の余地がありますが、 鎌倉時代には、 重商主義という考え方がありました。 重商主義とは、国家の富を増やすために、 貿易を通じて金銀を蓄えることを目的とした政

  • 徳政令

    奈良・京都の文化圏から遠く離れた 鎌倉に幕府を置くことにより、 新たに武士や庶民の文化が花開きました。 問注所をつくつたことで土地争いが減少し、 相続には分割制度が採用されて 所領は細分化されました

  • 問注所

    鎌倉時代、源頼朝が鎌倉殿として 武士の頂点に立ちました。 平氏は朝廷に入り込み、 朝廷を通じて支配しようとしましたが、 鎌倉幕府は、 京都の朝廷、地方の荘園や公領はそのままにして、 幕府と主従関係を

  • 鎌倉時代

    鎌倉時代の特徴として、 公的な歴史書が書かれなくなったことがあります。 『今鏡』『水鏡』『愚管抄(ぐかんしょう)』 などが書かれていますし、 『吾妻(あづま)鏡』という 鎌倉幕府の一貫した流れを書いた歴

  • 武家政権

    義経は壇ノ浦の戦いの後、 都にもどり後白河法皇に官位を与えられたために、 鎌倉の頼朝と対立せざるを得なくなりました。 頼朝は都に兵を送り、法皇を問い詰め、 義経を捕えるために、自分の部下(御家人)を

  • 平家滅亡

    仁安(にんあん)二(一一六七)年、 平清盛が太政大臣となり、 平氏政権を打ち立てました。 藤原氏にとってかわった政権でしたが、 福原遷都など無謀な動きをして、 没落を早めました。 初めは朝廷のボディ

  • 保元の乱

    保元元年(1156年)7月に 皇位継承問題や摂関家の内戦で、 朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、 双方の衝突に至った政変です。 崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流されました。 この朝廷の内部抗

  • 末法思想

    釈迦の死後が「正法」の時代、 次が「像法(ぞうほう)」の時代で、 最後に来るのが「末法(まっぼう)」の時代です。 この世はもう終わりではないか、 という末法思想がはびこったのです。 十一世紀に入ると政

  • 保元・平治の乱

    後三条天皇の後、 天皇に即位したのは白河天皇です。 この白河天皇が始めたのが 院政と言う新しい政治のやり方です。 院政とは、天皇の座を明け渡すが、 自らは上皇(じょうこう)として 変わらず政治を

  • 後三年の役

    今度は前九年の役で、 その力を貸してくれた清原一族の内部で (1083年~1087年)に争いが起こります。 清原一族の跡継ぎ問題、土地の所有問題です。 この内乱に力を貸して収めたのが源義家です。

  • 前九年の役

    坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の 蝦夷(えみし)討伐の後、 東北地方は朝廷により律令体制に組み込まれました。 しかし、時の流れと共に、 東北はまた波乱を起こし始めます。 東北は京都から離れ

  • 錬金術

    錬金術の起原は古く、 紀元前3世紀ごろのアレクサンドリアでも その研究がなされています。 錬金術はもともと卑金属を貴金属つまり 金に変えるのが第1の目的ですが、 不老不死の薬をつくるということも、 し

  • 源氏と平家

    九世紀の末に、 関東で勢力を作った武士は平氏の始祖、 高望王(たかもちおう)です。 元々関東の役人として赴任した高望王でしたが、 武士として、新たな生き方を目指しました。 そこで関東で勢力を広げ、

  • 武士団の成長

    10世紀になると、各地で武士が成長し始めます。 彼らは高貴の出自であるという家柄と、 国司としての公法的な権威から、 地方の人々の名望を集め、 在任中から公私の田を営んで一大領主となり、 その所有地

  • 武士の始まり

    日本の摂関政治の時代は、 貴族寺院の経済は主に荘園に依存していました。 律令の政治機構の多くは有名無実となり、 官職は政治の機関というよりも 貴族のための収入源となり、 朝廷の儀式や社寺の造営の費用

  • 魔術

    機械時計の技術では ヨーロッパは支那をはるかにしのいでいます。 最初の機械時計は錘りの落下を利用するものですが、 時計には時間をきざませる脱進器が必要で、 その脱進器の製作が難題でした。 11世紀に

  • 支那の技術

    ところで、ヨーロッパ中世後期の技術は、 ほとんどが支那が先がけているのです。 支那とヨーロッパとまったく無関係の場合、 原理だけが伝えられた場合、 実物がもってこられた場合など、 いろいろありますが

  • 中世後期の技術

    土木、建築、紡績、織布そのほか 数多くの技術が古代から それぞれの時代の社会の状態におうじて 発展してきており、 それは中世にはいってもつづいています。 古代におけるように 奴隷を多く使えなくなった

  • 近代科学への転回

    アリストテレスの哲学は12、13世紀に、 改めて強固にキリスト教神学と結合されました。 だが、そのようなことと関連し、 すでに12世紀にはヨーロッパに 新しい科学の精神が動きはじめ、 急速にひろがりつつあ

  • ヨーロッパ科学の曙光

    スペインにおいて イスラーム文化圏とキリスト教文化圏とが接触し、 ヨーロッパ人が改めてギリシャ文化に 重大な関心をもつ動機をつくりました。 とくに1085年にトレドが奪回され ギリシャの学術書のアラビア

  • ノルマン征服

    1066年、ギヨーム2世は エドワード懺悔王の崩御に伴う後継者争いで 王位継承者を主張、ブリテン島に侵攻し、 ハロルド・ゴドウィンソンの勢力と戦いを繰り広げ、 最終的にこれをヘイスティングスの戦いで討ち取

  • イブン・スィーナー

    ペルシャの哲学者イブン・スィーナーは イスラム世界が生み出した最高の知識人と評価され、 同時に当時の世界の大学者です。 980年8月末にサーマーン朝の徴税官 アブドゥッラーフ・イブン・アル=ハサンと そ

  • 零の発見

    特に数学に就いていえば、 アラビアの数学者たちは 代数学と三角法とを作り上げたのです。 「代数学」に当たる英語Algebraは 実にアラビア語から出ているのです。 始めに0(ゼロ)の概念とその扱いを 厳密

  • カリフの国

    アラビア人といえば、 今ではヨーロッパ人の圧迫の下に 見る影もなく喘いでいますが、 七世紀頃の彼等の組先は、 コーランを片手に剣をふり廻して、 東はインドの西部から 西は北アフリカを経てスペインにまで

  • イスラムの勃興

    ローマ崩壊(四五五)のころから、 教皇シルヴュスチル二世(九九九-一〇〇三在位)のもとで 西洋がはじめて知的に役興するまでの(暗黒時代)は、 ヨーロッパ文明史上の いわば不毛の時代であるとみなされてい

  • アラビア科学

    中世における科学の光は、 東方から射してきたのです。 この点でも、オリエントの科学の意義は大きく―― 古代ギリシャの学問の伝統はアラビアの イスラーム文化においてうけつがれ、発展し、 やがてスペインを

  • 科学の暗黒時代

    中世は科学にかんして暗黒時代であった、 とよくいわれます。 暗黒時代という言葉があてはまるのは、 10世紀を終えるころまでの西ヨーロッパの世界のことです。 キリスト教神学とそれの支柱となった哲学とが

  • アラブ・東ローマ戦争

    イスラム軍(アッバース朝)とは、 804年のクラソスの戦い、 806年のアッバース朝軍の 小アジアへの侵攻で戦火を交えたが敗北し、 貢納金を支払う条件で和約しました。 811年には第一次ブルガリア帝国に侵攻

  • 東ローマ帝国

    717年に即位したイサウリア王朝の皇帝レオーン3世は、 718年にイスラーム帝国軍(ウマイヤ朝)を撃退 (第二次コンスタンティノポリス包囲戦)。 以後イスラーム側の大規模な侵入はなくなり、 帝国の滅亡は回

  • ヨーロッパ中世

    日本の平安時代に対応する中世のヨーロッパは、 割拠した諸候の領土によって細分され、 社会矛盾がしだいに深まり、 封建領主たちはいきづまりを打開する 方策をさぐっていました。 そのころ、東のアラビア人

  • 藤原道長

    道長が左大臣にして内覧宣旨を得てからは 政局が安定しました。 道長は.一粂・三条・後一条・後宋雀・後冷泉 四代天皇の外舅または外祖父として、 ときに摂政となり、ときには閑白に等しい権 (正式の閲自任

  • 安和の変

    基経のなき後、 藤原氏と外戚関係のない字多天皇は、 文章生出身の菅原道真を蔵人頭に登用し、 次の醍醐天皇の時は 左大臣藤原時平と並んで右大臣に登用して、 藤原氏の専制を抑制する策をとることができました

  • 摂関政治

    八一〇(弘仁元)年、 武家の藤原薬子が平城上畠の重詐をはかって、 兄の藤原仲威とともに起した薬子の乱は、 藤原式衆の没落を招いたが、この時、 これに備えて嵯峨天皇の設けた 蔵人所の頭(とう)となった藤原

  • 平将門の乱

    下総から勢力を広げる平将門と 常陸で国司と対立する 藤原玄明(はるあき)が手を結び、 939年に反乱に発展した争いのことです。 豪族などが各地で成長した武士団のうち、 桓武天皇の曽孫の高望王から 平姓を

  • 道真の亡霊

    延喜8年(908年)に藤原菅根が病死し、 延喜9年(909年)には藤原時平が 39歳で病死しました。 延喜13年(913年)には右大臣源光が 狩りの最中に泥沼に沈んで溺死しました。 延喜23年には醍醐天皇の皇子で

  • 菅原道真

    宇多朝末にかけて、左大臣の源融や藤原良世、 宇多天皇の元で太政官を統率する 右大臣の源能有ら大官が相次いで没し、 寛平9年(897年)6月に 藤原時平が大納言兼左近衛大将、 道真は権大納言兼右近衛大将に任

  • 字多天皇

    京都南部に遷都してきたばかりの長岡京で 都の造営責任者・藤原種継が暗殺されました。 矢で射られて翌日に死亡した事件です。 暗殺事件は、早良親王を担いだ者たちの 桓武天皇体制への謀反であると考えられ

  • 藤原種継の暗殺

    785年9月23日の夜、 京都南部に遷都してきたばかりの長岡京で 都の造営責任者・藤原種継が暗殺されました。 矢で射られて翌日に死亡した事件です。 この一大事件によって、 事件に関与した人物たちが 斬首

  • 早良親王

    早良親王は桓武天皇の弟で、 785年の藤原種継暗殺事件に連座して流罪となり、 無実を訴えたが配流される途中で憤死しました。 それを恨んで日本史上最強最悪の怨霊になったのです。 母親は髙野新笠(たかのに

  • 遷都の理由

    平安京は延暦十三年の遷都から、 鎌倉に幕府が開かれるまでのおよそ四百年間、 名実ともに政治史の舞台でした。 平安京への遷都を 天皇に建議したのは和気清麿です。 清麿は、道鏡が皇位をうかがったとき、

  • 平安京遷都

    平安京は、京都盆地のほぼ中央に 南北三十八町(約五・三キロ)、 東西三十二町(約四・六キロ)の 都城として設定されています。 新京の中央部を商流していた鴨河は、 京を洪水から守るために、 大工事の結

  • 国風文化

    もともと神道と仏教は性格が異なります。 神道は日本人の共同体のための宗教であり、 仏教は個人を対象とする宗教です。 しかし、人間が個人として生き、 同時に共同体の中で生きていくためには、 この両方

  • 本地垂逆説

    天台、真言の両宗は 奈良時代の南都諸宗とは異なって 山岳に伽藍(がらん)をつくり、 修行の道場にしました。 それまでの都市の仏教とは 明らかに違う特色がありました。 そこには山岳信仰と結びついた 修

  • 求聞持法

    山中に篭もり、虚空像菩薩の真言 (ノウボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリ キャマリ ボリ ソワカ)を百万遍唱えれば 一切の経典の意味が心の中にはいり、 その智恵を得ることができる 求聞持法(ぐも

  • 曼陀羅

    密教は曼陀羅('まんだら)という、 密教の宇宙を象徴的に表現する 方法を見いだしました。 成立は五、六世紀で、 宇宙と一体化した人 間の悟りの境地の表現でもあり、 空海は、それを支那からの帰国にさいし

  • 宇宙との一体化

    支那に留学し、長安で 本格的な密教を恵果(けいか)に学んだ空海は、 奈良仏教の到達点であった 華厳宗の個と宇宙の同一化に立脚しながらも、 宇宙のもつ生命性を重視、 生命体としての宇宙と 人間である自己と

  • 入我我入

    仏教にとっての最も重要な問題は 煩悩をどう扱うかです。 密教は人間的な欲望もまた 宇宙生命につながるものとして、 否定はしません。 煩悩を含んだこの世界のすべてを肯定し、 現実世界の中に真理の世界

  • 正統真言密教

    空海が唐で師事した人物は恵果で、 体得した密教は、正統真言密教です。 支那では唐末(900年代中頃)には 早くも密教の伝統が途絶えました。 1200年代中頃には 本国インドの仏教も滅亡するので、

  • 真言宗

    弘法大師空海(774―833)は 804年に唐に留学し、 密教を専門に勉強して帰国しました。 816年、高野山に金剛峰寺を開き、 日本真言宗として旗揚げしました。 その教えは、インド正統密教で、

  • 恵果

    唐の都長安の青龍寺に、 恵果(けいか)という僧侶がいました。 この人が密教の教えを受け継ぐ一人でした。 空海はこの人に出会うのです。 空海は最澄などが帰国したあとも唐にとどまって、 恵果のもとで密

  • 空海

    最澄と並ぶ平安仏教の大きな存在のもう一人は、 空海です。 四国の讃岐(さぬき)の人で、 当時の大学である大学寮に入り、 儒学などを学んでいました。 そして、『三教指帰(さんこうしいき)』 という本を著

  • 円仁

    最澄のあと、 唐から帰国した円仁(慈覚(じかく)大師)が 延暦寺の座主(ざす)になりました。 彼も比叡山の地位を高めるのに 力があった人です。 慈覚大師といえば、 東北や関東の多くのお寺の開祖 という

  • 維新天台宗

    天台宗(てんだいしゅう, Tiantai)は、 隋を発祥とする大乗仏教の宗派のひとつです。 天台宗の名称は、 実質的開祖の智顗(ちぎ)((538年―597年)が 天台山に住んでいたということに由来します。 諸経の

  • 最澄

    奈良時代の仏教は、 国家や政治との結びつきが強いものでした。 鎮護国家――国家を鎮(しず)め護(まも)るのが 大きな役目だったのです。 その仏教に新しい動きが起こります。 中心になったのが 最澄(さい

  • 家持最後の歌

    天平宝字三年(七五九)一月一日、 因幡国の庁での大伴家持の年賀の歌は 「新しき年の始めの初春の 今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと) 」です。 新年のはじめの今日、ふりつもる雪のように いよいよよい

  • 平安の仏教

    仏教社会は英雄排出の時でした。 中でも最も力を与えたのは最澄・空海の二人です。 最澄は近江滋賀郡の三津百枝(みずのももえ)の子で、 十二歳で大安寺に入り、 行表(ぎようひよう)の弟子となり、 学識深遠

  • 柿本人麻呂

    書き言葉としての日本語の成立の第一歩は 人麻呂が進めました。 この年(680年)には宮廷の大全部が 天武天皇の突然の病気に大騒ぎしています。 天武帝ばかりか持続皇后も病気にかかり、 そのために天武帝

  • 歌の前に平等

    ユダヤ=キリスト教圏においては 「万人(ばんにん)は神の前に平等である」 という考え方が支配的です。 教会で高い地位を占めようと、 神の目から見れば法皇(ほうおう)も 奴隷(どれい)も同じなのです。 ま

  • 『万葉集』成立

    山上憶良(やまのうえのおくら)は、 『万葉集』に収められた 「好去好来(こうきよこーうらい)の歌」で、 日本という国を 「皇神(すめろぎ)の厳(いつく)しき国」であり、 「言霊(ことだま)の(さき)幸はふ国」であ

  • 個の確立

    『万葉集』にある 闊達(かったつ)に、自由に、思いのままに 自己を表現している姿は、 まさに個人主義です。 闊達に自分を和歌で表現できるというのは、 個が確立しているからにほかなりません。 個の確立

  • 和歌の多様性

    ドナルド・キーンが『万葉集』に注目するのは、 詩型の多様さに加えて、 語嚢の豊かさ、題材の豊富さです。 世界的に見て、 語嚢の豊かさは最高だといっています。 そして、天皇の国見の歌から恋の歌、生活

  • 七五調は日本固有

    柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)や 山部赤人(やまべのあかひと)らは 漢詩や漢文を学びながら 典礼の席で披露する歌を作り上げた。 みるみるうちに作歌スキルは上達し、 日本語による文学作品の水準に達

  • 太常寺

    和歌を文字通りに解釈すると、 和(日本の)歌です。 和歌の起源は古墳時代に遡ります。 まず、役人が公式的な儀式の場において 音楽に合わせて歌を詠み上げたのが 始まりとされています。 でも、私たち

  • 和歌の歴史

    詩集としての 『万葉集』『古今和歌集』だけに着目すると、 「和歌は『万葉集』の時代に生まれた嗜み」 というようなことを考えがちです。 しかし、 それ以前の時代にも和歌の歴史がありました。 ここでカ

  • 万葉集

    十一世紀にできた『栄華物語』によると、 『万葉集』は天平勝宝五(七五三)年、 孝謙天皇が左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)に 編集を命じられたことになっています。 しかしその後の研究で、 量的に全体の十

  • アビケンナ

    イスラームの多くの学者のなかで、 もっともきわだっていたアピケンナ (別名、イブン=シーナー)は、 九八〇年にブハラに生まれています。 すべてのことに精通し、 古代ギリシアでいえばアリストテレスに相

  • フナイン

    医師フナイン・イブン・イスハークは プラトンやアリストテレスの他、 デイオスコリデス、ガレノス、 ヒポクラテスの医学書も翻訳しました。 エウクレイデスやプトレマイオスなどの数学書も、 バグダッドでア

  • アラブ科学の黄金時代

    ウマイア朝の次の アッパース朝(七五〇~二一五今年)時代に、 アラブの科学は黄金時代を迎えました。 アッパース朝イスラム帝国の首都バグダッドは、 カリフ・アル=マンスール (在位七五四~七七五年)に

  • イスラム文化の発展

    アラビアを中心に、ユーラシアの四半部に 最初のイスラム(回教:かいきよう)の大国である サラセン帝国があらわれました。 世界史の視点からみると、 イスラムの国家が登場たことは、 大きな意義をもってい

  • 大仏の開眼方法

    大仏の目は長さ約一・二メートルあります。 菩提僧正の手によって筆が運ばれ、 そこに瞳が入れられました。 この時に用いられた筆は、 現在も正倉院に残っています。 この筆に、 五色の績(長さ約二一・

  • 大仏開眼供養

    天平勝宝四年(七五二)四月九日、 大仏開眼会が行われました。 大仏建立の詔が出されてから すでに九年の歳月が経っており、 元正天皇も、大僧正行基(ぎようき)も すでに故人となっていました。 大仏の鍍

  • 律令体制の落し子

    墾田永年私財法によって、 資財と労働力のある王臣家や大寺院は 競って大土地所有に乗り出し、 いわゆる初期荘園を成立させることになりました。 特にこの時期は大寺院には 政府より墾田が施入され、また、

  • 墾田永年私財法

    七四三年の墾田永年私財法により、 それまでの土地国有制の原則は 大きく変わりました。 三世一身の法は田畑を自力で開拓した場合、 三世代にわたって私有が許される 期限付きの私有令であったため、 期限が

  • 記述上の特色

    『古事記』が帝紀(帝皇日継)と本辞(先代旧事)を 素材に正説を定めて記述したのに比して、 『日本書紀』は、 本文の外に「一書日(イワク)」 「或本云(イワク)」と異説を採って並記するという 変わった編纂方

  • 日本書紀の編纂

    舎人(とねり)親王が 勅によって撰修していた『日本書紀』が、 七二〇年五月に奏上されました。 紀三〇巻のほかに系図一巻があり、 序文.上表文の類いもあったのですが、 系図以下は散逸しました。 並行し

  • 日本人が求める理想

    簡単に言えば、シラスは日本の国体、 ウシハクは帝国主義時代の西欧の国々の国体です。 ウシハクは、力を持った権力者が 国民を支配するという考え方で、 現在も世界中で武力と経済力による 権力争いがありま

  • 日本人の歴史観

    『日本書紀』が漢文で書かれたのは、 支那などの外国に見せてもわかるような、 また恥ずかしくないものをつくろう という意図がありました。 しかし支那の官選の歴史書と違うのは、 第一巻で神代(かみよ)を扱

  • 日本書記

    『日本書紀』も『古事記』と同様に 『帝紀』と『旧辞』が原典になっていますが、 正史だけに巻数も多く、 30巻と付属の系図1巻で構成されています。 坂本太郎は、天武天皇10年(681年)に 天皇が川島皇子以下

  • 統治理念

    我が国では国を治める2つの方法について 『古事記』上巻「出雲の国譲り」の段で、 天照大神(あまてらすおおみかみ)が 建御雷(たけみかつち)神をして 大国主(おおくにぬし)神に問わしめた言葉に 「汝のうしはけ

  • 古事記

    『古事記』の場合、原典となったのは、 皇室の系図である『帝紀(ていき)』、 そして神話や伝承を記した 『旧辞(きゆうじ)』の2冊です。 もっとも原典になったといっても 『帝紀』と『旧辞』から 『古事記』

  • 食生活の指針

    「牛、馬、犬、さる、鶏の肉を食べてはならない」 という食生活についての国家の方針は 牧畜や狩猟を積極的に行う ヨーロッパなどの人々とは異なる生き方を 日本人に選ばせました。 日本人は農業をもっぱらに

  • 白鳳文化

    天武天皇は妻の持統天皇と共に 薬師寺を中心とした仏教文化を推進しました。 天武天皇が亡くなったあと、 皇后から天皇へ転身した持統女帝は、 政治的リアリズムの極致をゆく、 驚くべき女性でした。 即位

  • 平城京造営の目的

    本格的都城であった藤原京を廃して さらに平城京を造営した目的は、 第一に、 律令を整備し、長年の目標であった中央集権、 全国支配を実現しえた自信と 唐に似せた小帝国を建設した自負に支えられて、 大都城

  • 新都平城京

    七〇八年九月に巡幸して地形を調査し、 直ちに阿倍宿奈麻呂、多治比池守を 造平城京司長官に任命し、 一二月には平城宮の地で地鎮祭を行うなど、 手際よく事業をすすめていた 元明(げんめい)天皇は七一〇年三月

  • 租庸調制

    地方では、国郡里制が制定され、 政府から全国に国司が派遣されます。 これがいわゆる旧国名に繋がるのですが、 さらに東海道・中山道・北陸道・山陽道・ 山陰道・南海道・西海道の 七道と呼ばれる地域と 大

  • 国の制度

    天皇中心の国家を作るために大宝律令では 中央政府と地方区分について決められました。 まず、中央政府の方では 二官八省と呼ばれる体制が築かれました。 二官というのは 太政官と神祇官のことを指すのです

  • 五刑と八虐

    律令の律の部分です。 五刑というのは犯罪を犯した時に 犯人に対してどのようなことを行う というのを決めたもので、 笞刑(細い竹の棒で叩く刑罰。 10回から50回まで10回刻みで別れています)、 杖刑(太い木

  • 藤原不比等

    藤原不比等は文武天皇を擁立したことや 大宝律令を制定したことによって 政治的な権力基盤を築くことになり、 のちに続く 藤原家の基礎を作っていくことになります。 大宝律令とは701年に制定された 日本初

  • 大宝律令

    壬申の乱という古代日本の中で 最大規模の内乱に勝利した天武天皇は 日本を近代化させるために 自ら政治を行い始めます。 天武天皇は妻の持統天皇とともに かつて天智天皇が目指そうとした 大化の改新を成し

  • 藤原宮役民

    藤原京の宮殿の屋根は瓦葺が採用されており、 その重量に耐えるために 大きな柱と礎石を大量に必要としました。 しかし、 近隣の山や森林のみでは用材の調達に不足したので、 「藤原宮役民の作れる歌」に詠ま

  • 藤原京

    新都造営の動きは、 壬申の乱彼の中央集権的な支配機構の形成過程、 とりわけ飛鳥浄御厨令の編纂がはじまる 天武十年前後から、にわかに活発化します。 律令国家の首都として、 唐の長安・洛陽、新羅の慶州に

  • 大津京遷都

    六六八年三月、 皇太子中大兄(なかのおおえ)皇子は 都を飛鳥から近江の大津に遷しました。 だが、この遷都にはかなりの抵抗がありました。 『書紀』は 「この時に、天下の百姓、都遷ること願はずして、 諷

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