南北両朝和平合体の時機が到来しました。 これまでも、足利直義や佐々木高氏などが、 吉野に和平の働きかけをしたこともありましたが、 吉野では、 北朝の解消、足利氏の帰順を条件としない限り、 交渉に応じ
「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。
自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。 これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。 充実して生きる道を探しているのだ。 それが、何にもまして一番重要なことなのだ。 それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。
東方にむかっては、ドイツの騎士たちが、 エルベ川を東に越えて 帯状の地帯を征服、植民しました。 船を使ってバルト海沿岸を飛石づたいに進み、 プロシャ、リヴオニア(現代のラトヴイア)、 エストニアを占
世界史上最も劇的でめざましい変化だった イスラームの自己変容と拡大は、 一〇〇〇年から一五〇〇年の間におこりました。 それについでおこった変化は、 未来に対してはそれよりさらに重要な 意味を持ってい
平安時代末期の保元の乱や平治の乱 といった朝廷の内部抗争などに端を発する 貴族階級の衰退と武士階級の飛躍的な台頭の後、 1185年に初めての武家政権となる 鎌倉幕府が成立しましたが、 東日本を勢力下におい
奥州藤原氏は、 特産品の金や馬で栄えてきた一族です。 源平の争いの間も、じっと静観し、 力を温存してきました。 第3代奥州藤原家当主、 藤原秀衡(ふじわらのひでひら)は 冷静沈着、剛の者と言われ、
保元の乱での天皇側の源義朝は 上皇側の源為義(義朝の父)の 助命を懇願しますが願いは聞きいれられず、 処刑されます。 さらに同じ天皇側であった 平清盛ばかりが厚くもてなされ、 義朝の不信感は高まって
後白河法皇の子、以仁王(もちひとおう)が 平氏討伐の兵をあげたのです。 挙兵後すぐに以仁王は 平氏に負けて亡くなってしまいます。 ところが、 これをきっかけに源頼朝が立ち上がると、 それに呼応して
平治の乱で源氏が敗北した際、 源頼朝は 敵方の嫡男(ちゃくなん・家を継ぐ者)として、 当然処刑されるはずでした。 しかし、「死んだ息子に似ている」との思いから、 情けをかけてほしいと平清盛に懇願した
今様(いまよう)は、 日本の歌曲の一形式です。 今様というはやり歌を、白拍子・遊女が歌い、 流行しました。 庶民はもとより貴族にまで愛され、 宮中の宴会でも歌われました。 後白河上皇も今様を好ま
鎌倉時代に資本主義があったかどうかは 議論の余地がありますが、 鎌倉時代には、 重商主義という考え方がありました。 重商主義とは、国家の富を増やすために、 貿易を通じて金銀を蓄えることを目的とした政
奈良・京都の文化圏から遠く離れた 鎌倉に幕府を置くことにより、 新たに武士や庶民の文化が花開きました。 問注所をつくつたことで土地争いが減少し、 相続には分割制度が採用されて 所領は細分化されました
鎌倉時代、源頼朝が鎌倉殿として 武士の頂点に立ちました。 平氏は朝廷に入り込み、 朝廷を通じて支配しようとしましたが、 鎌倉幕府は、 京都の朝廷、地方の荘園や公領はそのままにして、 幕府と主従関係を
鎌倉時代の特徴として、 公的な歴史書が書かれなくなったことがあります。 『今鏡』『水鏡』『愚管抄(ぐかんしょう)』 などが書かれていますし、 『吾妻(あづま)鏡』という 鎌倉幕府の一貫した流れを書いた歴
義経は壇ノ浦の戦いの後、 都にもどり後白河法皇に官位を与えられたために、 鎌倉の頼朝と対立せざるを得なくなりました。 頼朝は都に兵を送り、法皇を問い詰め、 義経を捕えるために、自分の部下(御家人)を
仁安(にんあん)二(一一六七)年、 平清盛が太政大臣となり、 平氏政権を打ち立てました。 藤原氏にとってかわった政権でしたが、 福原遷都など無謀な動きをして、 没落を早めました。 初めは朝廷のボディ
保元元年(1156年)7月に 皇位継承問題や摂関家の内戦で、 朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、 双方の衝突に至った政変です。 崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流されました。 この朝廷の内部抗
釈迦の死後が「正法」の時代、 次が「像法(ぞうほう)」の時代で、 最後に来るのが「末法(まっぼう)」の時代です。 この世はもう終わりではないか、 という末法思想がはびこったのです。 十一世紀に入ると政
後三条天皇の後、 天皇に即位したのは白河天皇です。 この白河天皇が始めたのが 院政と言う新しい政治のやり方です。 院政とは、天皇の座を明け渡すが、 自らは上皇(じょうこう)として 変わらず政治を
今度は前九年の役で、 その力を貸してくれた清原一族の内部で (1083年~1087年)に争いが起こります。 清原一族の跡継ぎ問題、土地の所有問題です。 この内乱に力を貸して収めたのが源義家です。
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の 蝦夷(えみし)討伐の後、 東北地方は朝廷により律令体制に組み込まれました。 しかし、時の流れと共に、 東北はまた波乱を起こし始めます。 東北は京都から離れ
錬金術の起原は古く、 紀元前3世紀ごろのアレクサンドリアでも その研究がなされています。 錬金術はもともと卑金属を貴金属つまり 金に変えるのが第1の目的ですが、 不老不死の薬をつくるということも、 し
九世紀の末に、 関東で勢力を作った武士は平氏の始祖、 高望王(たかもちおう)です。 元々関東の役人として赴任した高望王でしたが、 武士として、新たな生き方を目指しました。 そこで関東で勢力を広げ、
10世紀になると、各地で武士が成長し始めます。 彼らは高貴の出自であるという家柄と、 国司としての公法的な権威から、 地方の人々の名望を集め、 在任中から公私の田を営んで一大領主となり、 その所有地
日本の摂関政治の時代は、 貴族寺院の経済は主に荘園に依存していました。 律令の政治機構の多くは有名無実となり、 官職は政治の機関というよりも 貴族のための収入源となり、 朝廷の儀式や社寺の造営の費用
機械時計の技術では ヨーロッパは支那をはるかにしのいでいます。 最初の機械時計は錘りの落下を利用するものですが、 時計には時間をきざませる脱進器が必要で、 その脱進器の製作が難題でした。 11世紀に
ところで、ヨーロッパ中世後期の技術は、 ほとんどが支那が先がけているのです。 支那とヨーロッパとまったく無関係の場合、 原理だけが伝えられた場合、 実物がもってこられた場合など、 いろいろありますが
土木、建築、紡績、織布そのほか 数多くの技術が古代から それぞれの時代の社会の状態におうじて 発展してきており、 それは中世にはいってもつづいています。 古代におけるように 奴隷を多く使えなくなった
アリストテレスの哲学は12、13世紀に、 改めて強固にキリスト教神学と結合されました。 だが、そのようなことと関連し、 すでに12世紀にはヨーロッパに 新しい科学の精神が動きはじめ、 急速にひろがりつつあ
スペインにおいて イスラーム文化圏とキリスト教文化圏とが接触し、 ヨーロッパ人が改めてギリシャ文化に 重大な関心をもつ動機をつくりました。 とくに1085年にトレドが奪回され ギリシャの学術書のアラビア
1066年、ギヨーム2世は エドワード懺悔王の崩御に伴う後継者争いで 王位継承者を主張、ブリテン島に侵攻し、 ハロルド・ゴドウィンソンの勢力と戦いを繰り広げ、 最終的にこれをヘイスティングスの戦いで討ち取
ペルシャの哲学者イブン・スィーナーは イスラム世界が生み出した最高の知識人と評価され、 同時に当時の世界の大学者です。 980年8月末にサーマーン朝の徴税官 アブドゥッラーフ・イブン・アル=ハサンと そ
特に数学に就いていえば、 アラビアの数学者たちは 代数学と三角法とを作り上げたのです。 「代数学」に当たる英語Algebraは 実にアラビア語から出ているのです。 始めに0(ゼロ)の概念とその扱いを 厳密
アラビア人といえば、 今ではヨーロッパ人の圧迫の下に 見る影もなく喘いでいますが、 七世紀頃の彼等の組先は、 コーランを片手に剣をふり廻して、 東はインドの西部から 西は北アフリカを経てスペインにまで
ローマ崩壊(四五五)のころから、 教皇シルヴュスチル二世(九九九-一〇〇三在位)のもとで 西洋がはじめて知的に役興するまでの(暗黒時代)は、 ヨーロッパ文明史上の いわば不毛の時代であるとみなされてい
中世における科学の光は、 東方から射してきたのです。 この点でも、オリエントの科学の意義は大きく―― 古代ギリシャの学問の伝統はアラビアの イスラーム文化においてうけつがれ、発展し、 やがてスペインを
中世は科学にかんして暗黒時代であった、 とよくいわれます。 暗黒時代という言葉があてはまるのは、 10世紀を終えるころまでの西ヨーロッパの世界のことです。 キリスト教神学とそれの支柱となった哲学とが
イスラム軍(アッバース朝)とは、 804年のクラソスの戦い、 806年のアッバース朝軍の 小アジアへの侵攻で戦火を交えたが敗北し、 貢納金を支払う条件で和約しました。 811年には第一次ブルガリア帝国に侵攻
717年に即位したイサウリア王朝の皇帝レオーン3世は、 718年にイスラーム帝国軍(ウマイヤ朝)を撃退 (第二次コンスタンティノポリス包囲戦)。 以後イスラーム側の大規模な侵入はなくなり、 帝国の滅亡は回
日本の平安時代に対応する中世のヨーロッパは、 割拠した諸候の領土によって細分され、 社会矛盾がしだいに深まり、 封建領主たちはいきづまりを打開する 方策をさぐっていました。 そのころ、東のアラビア人
道長が左大臣にして内覧宣旨を得てからは 政局が安定しました。 道長は.一粂・三条・後一条・後宋雀・後冷泉 四代天皇の外舅または外祖父として、 ときに摂政となり、ときには閑白に等しい権 (正式の閲自任
基経のなき後、 藤原氏と外戚関係のない字多天皇は、 文章生出身の菅原道真を蔵人頭に登用し、 次の醍醐天皇の時は 左大臣藤原時平と並んで右大臣に登用して、 藤原氏の専制を抑制する策をとることができました
八一〇(弘仁元)年、 武家の藤原薬子が平城上畠の重詐をはかって、 兄の藤原仲威とともに起した薬子の乱は、 藤原式衆の没落を招いたが、この時、 これに備えて嵯峨天皇の設けた 蔵人所の頭(とう)となった藤原
下総から勢力を広げる平将門と 常陸で国司と対立する 藤原玄明(はるあき)が手を結び、 939年に反乱に発展した争いのことです。 豪族などが各地で成長した武士団のうち、 桓武天皇の曽孫の高望王から 平姓を
延喜8年(908年)に藤原菅根が病死し、 延喜9年(909年)には藤原時平が 39歳で病死しました。 延喜13年(913年)には右大臣源光が 狩りの最中に泥沼に沈んで溺死しました。 延喜23年には醍醐天皇の皇子で
宇多朝末にかけて、左大臣の源融や藤原良世、 宇多天皇の元で太政官を統率する 右大臣の源能有ら大官が相次いで没し、 寛平9年(897年)6月に 藤原時平が大納言兼左近衛大将、 道真は権大納言兼右近衛大将に任
京都南部に遷都してきたばかりの長岡京で 都の造営責任者・藤原種継が暗殺されました。 矢で射られて翌日に死亡した事件です。 暗殺事件は、早良親王を担いだ者たちの 桓武天皇体制への謀反であると考えられ
785年9月23日の夜、 京都南部に遷都してきたばかりの長岡京で 都の造営責任者・藤原種継が暗殺されました。 矢で射られて翌日に死亡した事件です。 この一大事件によって、 事件に関与した人物たちが 斬首
早良親王は桓武天皇の弟で、 785年の藤原種継暗殺事件に連座して流罪となり、 無実を訴えたが配流される途中で憤死しました。 それを恨んで日本史上最強最悪の怨霊になったのです。 母親は髙野新笠(たかのに
平安京は延暦十三年の遷都から、 鎌倉に幕府が開かれるまでのおよそ四百年間、 名実ともに政治史の舞台でした。 平安京への遷都を 天皇に建議したのは和気清麿です。 清麿は、道鏡が皇位をうかがったとき、
平安京は、京都盆地のほぼ中央に 南北三十八町(約五・三キロ)、 東西三十二町(約四・六キロ)の 都城として設定されています。 新京の中央部を商流していた鴨河は、 京を洪水から守るために、 大工事の結
もともと神道と仏教は性格が異なります。 神道は日本人の共同体のための宗教であり、 仏教は個人を対象とする宗教です。 しかし、人間が個人として生き、 同時に共同体の中で生きていくためには、 この両方
天台、真言の両宗は 奈良時代の南都諸宗とは異なって 山岳に伽藍(がらん)をつくり、 修行の道場にしました。 それまでの都市の仏教とは 明らかに違う特色がありました。 そこには山岳信仰と結びついた 修
山中に篭もり、虚空像菩薩の真言 (ノウボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリ キャマリ ボリ ソワカ)を百万遍唱えれば 一切の経典の意味が心の中にはいり、 その智恵を得ることができる 求聞持法(ぐも
密教は曼陀羅('まんだら)という、 密教の宇宙を象徴的に表現する 方法を見いだしました。 成立は五、六世紀で、 宇宙と一体化した人 間の悟りの境地の表現でもあり、 空海は、それを支那からの帰国にさいし
支那に留学し、長安で 本格的な密教を恵果(けいか)に学んだ空海は、 奈良仏教の到達点であった 華厳宗の個と宇宙の同一化に立脚しながらも、 宇宙のもつ生命性を重視、 生命体としての宇宙と 人間である自己と
仏教にとっての最も重要な問題は 煩悩をどう扱うかです。 密教は人間的な欲望もまた 宇宙生命につながるものとして、 否定はしません。 煩悩を含んだこの世界のすべてを肯定し、 現実世界の中に真理の世界
空海が唐で師事した人物は恵果で、 体得した密教は、正統真言密教です。 支那では唐末(900年代中頃)には 早くも密教の伝統が途絶えました。 1200年代中頃には 本国インドの仏教も滅亡するので、
弘法大師空海(774―833)は 804年に唐に留学し、 密教を専門に勉強して帰国しました。 816年、高野山に金剛峰寺を開き、 日本真言宗として旗揚げしました。 その教えは、インド正統密教で、
唐の都長安の青龍寺に、 恵果(けいか)という僧侶がいました。 この人が密教の教えを受け継ぐ一人でした。 空海はこの人に出会うのです。 空海は最澄などが帰国したあとも唐にとどまって、 恵果のもとで密
最澄と並ぶ平安仏教の大きな存在のもう一人は、 空海です。 四国の讃岐(さぬき)の人で、 当時の大学である大学寮に入り、 儒学などを学んでいました。 そして、『三教指帰(さんこうしいき)』 という本を著
最澄のあと、 唐から帰国した円仁(慈覚(じかく)大師)が 延暦寺の座主(ざす)になりました。 彼も比叡山の地位を高めるのに 力があった人です。 慈覚大師といえば、 東北や関東の多くのお寺の開祖 という
天台宗(てんだいしゅう, Tiantai)は、 隋を発祥とする大乗仏教の宗派のひとつです。 天台宗の名称は、 実質的開祖の智顗(ちぎ)((538年―597年)が 天台山に住んでいたということに由来します。 諸経の
奈良時代の仏教は、 国家や政治との結びつきが強いものでした。 鎮護国家――国家を鎮(しず)め護(まも)るのが 大きな役目だったのです。 その仏教に新しい動きが起こります。 中心になったのが 最澄(さい
天平宝字三年(七五九)一月一日、 因幡国の庁での大伴家持の年賀の歌は 「新しき年の始めの初春の 今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと) 」です。 新年のはじめの今日、ふりつもる雪のように いよいよよい
仏教社会は英雄排出の時でした。 中でも最も力を与えたのは最澄・空海の二人です。 最澄は近江滋賀郡の三津百枝(みずのももえ)の子で、 十二歳で大安寺に入り、 行表(ぎようひよう)の弟子となり、 学識深遠
書き言葉としての日本語の成立の第一歩は 人麻呂が進めました。 この年(680年)には宮廷の大全部が 天武天皇の突然の病気に大騒ぎしています。 天武帝ばかりか持続皇后も病気にかかり、 そのために天武帝
ユダヤ=キリスト教圏においては 「万人(ばんにん)は神の前に平等である」 という考え方が支配的です。 教会で高い地位を占めようと、 神の目から見れば法皇(ほうおう)も 奴隷(どれい)も同じなのです。 ま
山上憶良(やまのうえのおくら)は、 『万葉集』に収められた 「好去好来(こうきよこーうらい)の歌」で、 日本という国を 「皇神(すめろぎ)の厳(いつく)しき国」であり、 「言霊(ことだま)の(さき)幸はふ国」であ
『万葉集』にある 闊達(かったつ)に、自由に、思いのままに 自己を表現している姿は、 まさに個人主義です。 闊達に自分を和歌で表現できるというのは、 個が確立しているからにほかなりません。 個の確立
ドナルド・キーンが『万葉集』に注目するのは、 詩型の多様さに加えて、 語嚢の豊かさ、題材の豊富さです。 世界的に見て、 語嚢の豊かさは最高だといっています。 そして、天皇の国見の歌から恋の歌、生活
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)や 山部赤人(やまべのあかひと)らは 漢詩や漢文を学びながら 典礼の席で披露する歌を作り上げた。 みるみるうちに作歌スキルは上達し、 日本語による文学作品の水準に達
和歌を文字通りに解釈すると、 和(日本の)歌です。 和歌の起源は古墳時代に遡ります。 まず、役人が公式的な儀式の場において 音楽に合わせて歌を詠み上げたのが 始まりとされています。 でも、私たち
詩集としての 『万葉集』『古今和歌集』だけに着目すると、 「和歌は『万葉集』の時代に生まれた嗜み」 というようなことを考えがちです。 しかし、 それ以前の時代にも和歌の歴史がありました。 ここでカ
十一世紀にできた『栄華物語』によると、 『万葉集』は天平勝宝五(七五三)年、 孝謙天皇が左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)に 編集を命じられたことになっています。 しかしその後の研究で、 量的に全体の十
イスラームの多くの学者のなかで、 もっともきわだっていたアピケンナ (別名、イブン=シーナー)は、 九八〇年にブハラに生まれています。 すべてのことに精通し、 古代ギリシアでいえばアリストテレスに相
医師フナイン・イブン・イスハークは プラトンやアリストテレスの他、 デイオスコリデス、ガレノス、 ヒポクラテスの医学書も翻訳しました。 エウクレイデスやプトレマイオスなどの数学書も、 バグダッドでア
ウマイア朝の次の アッパース朝(七五〇~二一五今年)時代に、 アラブの科学は黄金時代を迎えました。 アッパース朝イスラム帝国の首都バグダッドは、 カリフ・アル=マンスール (在位七五四~七七五年)に
アラビアを中心に、ユーラシアの四半部に 最初のイスラム(回教:かいきよう)の大国である サラセン帝国があらわれました。 世界史の視点からみると、 イスラムの国家が登場たことは、 大きな意義をもってい
大仏の目は長さ約一・二メートルあります。 菩提僧正の手によって筆が運ばれ、 そこに瞳が入れられました。 この時に用いられた筆は、 現在も正倉院に残っています。 この筆に、 五色の績(長さ約二一・
天平勝宝四年(七五二)四月九日、 大仏開眼会が行われました。 大仏建立の詔が出されてから すでに九年の歳月が経っており、 元正天皇も、大僧正行基(ぎようき)も すでに故人となっていました。 大仏の鍍
墾田永年私財法によって、 資財と労働力のある王臣家や大寺院は 競って大土地所有に乗り出し、 いわゆる初期荘園を成立させることになりました。 特にこの時期は大寺院には 政府より墾田が施入され、また、
七四三年の墾田永年私財法により、 それまでの土地国有制の原則は 大きく変わりました。 三世一身の法は田畑を自力で開拓した場合、 三世代にわたって私有が許される 期限付きの私有令であったため、 期限が
『古事記』が帝紀(帝皇日継)と本辞(先代旧事)を 素材に正説を定めて記述したのに比して、 『日本書紀』は、 本文の外に「一書日(イワク)」 「或本云(イワク)」と異説を採って並記するという 変わった編纂方
舎人(とねり)親王が 勅によって撰修していた『日本書紀』が、 七二〇年五月に奏上されました。 紀三〇巻のほかに系図一巻があり、 序文.上表文の類いもあったのですが、 系図以下は散逸しました。 並行し
簡単に言えば、シラスは日本の国体、 ウシハクは帝国主義時代の西欧の国々の国体です。 ウシハクは、力を持った権力者が 国民を支配するという考え方で、 現在も世界中で武力と経済力による 権力争いがありま
『日本書紀』が漢文で書かれたのは、 支那などの外国に見せてもわかるような、 また恥ずかしくないものをつくろう という意図がありました。 しかし支那の官選の歴史書と違うのは、 第一巻で神代(かみよ)を扱
『日本書紀』も『古事記』と同様に 『帝紀』と『旧辞』が原典になっていますが、 正史だけに巻数も多く、 30巻と付属の系図1巻で構成されています。 坂本太郎は、天武天皇10年(681年)に 天皇が川島皇子以下
我が国では国を治める2つの方法について 『古事記』上巻「出雲の国譲り」の段で、 天照大神(あまてらすおおみかみ)が 建御雷(たけみかつち)神をして 大国主(おおくにぬし)神に問わしめた言葉に 「汝のうしはけ
『古事記』の場合、原典となったのは、 皇室の系図である『帝紀(ていき)』、 そして神話や伝承を記した 『旧辞(きゆうじ)』の2冊です。 もっとも原典になったといっても 『帝紀』と『旧辞』から 『古事記』
「牛、馬、犬、さる、鶏の肉を食べてはならない」 という食生活についての国家の方針は 牧畜や狩猟を積極的に行う ヨーロッパなどの人々とは異なる生き方を 日本人に選ばせました。 日本人は農業をもっぱらに
天武天皇は妻の持統天皇と共に 薬師寺を中心とした仏教文化を推進しました。 天武天皇が亡くなったあと、 皇后から天皇へ転身した持統女帝は、 政治的リアリズムの極致をゆく、 驚くべき女性でした。 即位
本格的都城であった藤原京を廃して さらに平城京を造営した目的は、 第一に、 律令を整備し、長年の目標であった中央集権、 全国支配を実現しえた自信と 唐に似せた小帝国を建設した自負に支えられて、 大都城
七〇八年九月に巡幸して地形を調査し、 直ちに阿倍宿奈麻呂、多治比池守を 造平城京司長官に任命し、 一二月には平城宮の地で地鎮祭を行うなど、 手際よく事業をすすめていた 元明(げんめい)天皇は七一〇年三月
地方では、国郡里制が制定され、 政府から全国に国司が派遣されます。 これがいわゆる旧国名に繋がるのですが、 さらに東海道・中山道・北陸道・山陽道・ 山陰道・南海道・西海道の 七道と呼ばれる地域と 大
天皇中心の国家を作るために大宝律令では 中央政府と地方区分について決められました。 まず、中央政府の方では 二官八省と呼ばれる体制が築かれました。 二官というのは 太政官と神祇官のことを指すのです
律令の律の部分です。 五刑というのは犯罪を犯した時に 犯人に対してどのようなことを行う というのを決めたもので、 笞刑(細い竹の棒で叩く刑罰。 10回から50回まで10回刻みで別れています)、 杖刑(太い木
藤原不比等は文武天皇を擁立したことや 大宝律令を制定したことによって 政治的な権力基盤を築くことになり、 のちに続く 藤原家の基礎を作っていくことになります。 大宝律令とは701年に制定された 日本初
壬申の乱という古代日本の中で 最大規模の内乱に勝利した天武天皇は 日本を近代化させるために 自ら政治を行い始めます。 天武天皇は妻の持統天皇とともに かつて天智天皇が目指そうとした 大化の改新を成し
藤原京の宮殿の屋根は瓦葺が採用されており、 その重量に耐えるために 大きな柱と礎石を大量に必要としました。 しかし、 近隣の山や森林のみでは用材の調達に不足したので、 「藤原宮役民の作れる歌」に詠ま
新都造営の動きは、 壬申の乱彼の中央集権的な支配機構の形成過程、 とりわけ飛鳥浄御厨令の編纂がはじまる 天武十年前後から、にわかに活発化します。 律令国家の首都として、 唐の長安・洛陽、新羅の慶州に
六六八年三月、 皇太子中大兄(なかのおおえ)皇子は 都を飛鳥から近江の大津に遷しました。 だが、この遷都にはかなりの抵抗がありました。 『書紀』は 「この時に、天下の百姓、都遷ること願はずして、 諷
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南北両朝和平合体の時機が到来しました。 これまでも、足利直義や佐々木高氏などが、 吉野に和平の働きかけをしたこともありましたが、 吉野では、 北朝の解消、足利氏の帰順を条件としない限り、 交渉に応じ
楠木正成の子正行(まさつら)が 河内四条畷(なわて)の戦いで戦死したことは、 吉野方には大打撃であり、 天皇は一時吉野を出て 大和の賀名生(あのう)に遷られたほどでした。 九州では、 征西将軍宮懐良(かね
吉野の朝廷では、 恒良親王.尊艮親王を奉じて 北国に下った新田義貞は、 越前金ガ崎城で敗れ、 ついで藤島に戦死し、 北畠顕家は義良親王を奉じて 陸奥から再び西上しましたが、 和泉石津の戦に戦死し、 頼
尊氏は九州で菊池武時の子武敏を破り、 少弐・大友・島津等の諸豪族をしたがえて 東上の準備を整え、 海陸両道から大軍を率いて京都に向います。 楠木正成はこれを摂津湊川に迎え戦って死に、 千種忠顕・名和
尊氏は好機訪れたとみてとり、 征夷大将軍に任ぜられて時行を討つことを請うたが、 許されなかったので勅許を待たずに東下し、 時行を討って鎌倉を回復しました。 新政権に不平を抱き、 幕府の再興を望む武士
中興事業に協力した武士の多くは、 幕府に対して不平を抱く人々です。 彼らは幕府を倒すことによって、 自己の地位を安定させ、 さらにそれがよりよくなることを期待したので。 天皇の理想を理解し、 それ
新政権に対する信頼が失われていくときに、 朝廷では、大内裏の造営を計画し、 安芸・周防を料国に宛て、 諸国の地頭にもその費用を課し、 夫役を徴した上に、 期日におくれると それを倍額にして徴収したので
中央.地方の行政機構は整備されましたが、 その施政には不手際が多く、 中興政権はわずか二年で崩壊しました。 新政の成否は、恩賞と土地問題の処理にありましたが、 恩賞の給源としての土地には限りがあるの
後醍醐天皇は伯耆を発し、 途中光厳天畠の廃立を宣言し、 京都に還幸するや、新政を開始しました。 翌年改元した年号をとって、 これを建武中興といいます。 中興政治の理想は、天皇観政を中核とする 公家
後醍醐天皇は隠岐に遷っても譲位の意志はなく、 光厳天皇の在位を認めず、 あくまでも討幕の志をすてません。 護良親王も楠木正成も幕府に抑えられることなく、 親王は近畿地方で活躍し、 叡山の末寺を中心に
正中の変により、 幕府の天皇に対する瞥或は厳重になり、 皇太子邦艮親王薨去後は、 天皇の皇子を皇太子に立てることを拒否し、 量仁親王を皇太子とします。 これで幕府を倒さない限り、 天皇が皇子に位を譲
持明院統の花園天畠のあとを受けて 皇位についたのは、大覚寺統の後醍醐天皇です。 天皇は後宇多天良の第二皇子で、 近臣とともに僧玄恵について宋学を学び、 革新的思想を身につけられました。 即位の初め
幕府の対朝廷策の失敗も 崩壊のきっかけの一つです。 承久の乱後公武両政権の関係は一変し、 治世の君として院政を担当する上皇の決定は、 幕府の手に握られることになりました。 朝廷では、後嵯峨天皇は、
御家人の所領を保護する必要に迫られた幕府は、 一二九七(永仁五)年徳政令を発布して、 御家人所領の質入・売買を禁止し、 すでに売却された土地は無償でもとの持主に取戻させ、 また金銭貸借に関する訴訟は
得宗専制の強化と内管領の抬頭は、 外様(とざま)と呼ばれた一般御家人との対立を生じ、 時宗の死を機として、 一二八五(弘安八)年の霜月騒動となって現われました。 これは幕府草創以来の名家である安達泰盛
1333年7月4日(元弘3年/正慶2年5月22日)に、 元弘の乱で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇が、 7月17日(和暦6月5日)に 「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したこと により成立した建武の新政でしたが、 鎌倉
元の世祖フビライ・セチェン・ハーンがつくった 北モンゴルから南シナ海におよぶ帝国は、 元朝の中国に君臨した最後の皇帝である 恵宗トゴン・テムル・ハーン(順帝)の治世に その組織が完戊し、 一三六八年か
西方では、 チンギス=ハーンの孫のフラグ=ハーンが 一二五八年にバグダドを略奪し、 ついに東部のアッバス王朝にとどめを刺しました。 フラグ=ハーンは、 タブリーズの南カにある アゼルバイジャンのマラ
火薬と火器は、蒙古人の手をへて 西欧に達したと考えられます。 印刷についても技術的な細目は別としても、 この径路で西欧に達したのです。 ある時期に支那で印刷されたカルタが、 蒙古人の侵入後まもなく
東洋では東部回教君主国を征服し、 支那の宋王朝を征服した蒙古人は、 最初は、アラビア人の場合よりももっと野蛮でした。 しかしかれらは、 征服した人びとから得た文明の水準にまで達しました。 蒙古人が
東方にむかっては、ドイツの騎士たちが、 エルベ川を東に越えて 帯状の地帯を征服、植民しました。 船を使ってバルト海沿岸を飛石づたいに進み、 プロシャ、リヴオニア(現代のラトヴイア)、 エストニアを占
世界史上最も劇的でめざましい変化だった イスラームの自己変容と拡大は、 一〇〇〇年から一五〇〇年の間におこりました。 それについでおこった変化は、 未来に対してはそれよりさらに重要な 意味を持ってい
平安時代末期の保元の乱や平治の乱 といった朝廷の内部抗争などに端を発する 貴族階級の衰退と武士階級の飛躍的な台頭の後、 1185年に初めての武家政権となる 鎌倉幕府が成立しましたが、 東日本を勢力下におい
奥州藤原氏は、 特産品の金や馬で栄えてきた一族です。 源平の争いの間も、じっと静観し、 力を温存してきました。 第3代奥州藤原家当主、 藤原秀衡(ふじわらのひでひら)は 冷静沈着、剛の者と言われ、
保元の乱での天皇側の源義朝は 上皇側の源為義(義朝の父)の 助命を懇願しますが願いは聞きいれられず、 処刑されます。 さらに同じ天皇側であった 平清盛ばかりが厚くもてなされ、 義朝の不信感は高まって
後白河法皇の子、以仁王(もちひとおう)が 平氏討伐の兵をあげたのです。 挙兵後すぐに以仁王は 平氏に負けて亡くなってしまいます。 ところが、 これをきっかけに源頼朝が立ち上がると、 それに呼応して
平治の乱で源氏が敗北した際、 源頼朝は 敵方の嫡男(ちゃくなん・家を継ぐ者)として、 当然処刑されるはずでした。 しかし、「死んだ息子に似ている」との思いから、 情けをかけてほしいと平清盛に懇願した
今様(いまよう)は、 日本の歌曲の一形式です。 今様というはやり歌を、白拍子・遊女が歌い、 流行しました。 庶民はもとより貴族にまで愛され、 宮中の宴会でも歌われました。 後白河上皇も今様を好ま
鎌倉時代に資本主義があったかどうかは 議論の余地がありますが、 鎌倉時代には、 重商主義という考え方がありました。 重商主義とは、国家の富を増やすために、 貿易を通じて金銀を蓄えることを目的とした政
奈良・京都の文化圏から遠く離れた 鎌倉に幕府を置くことにより、 新たに武士や庶民の文化が花開きました。 問注所をつくつたことで土地争いが減少し、 相続には分割制度が採用されて 所領は細分化されました
鎌倉時代、源頼朝が鎌倉殿として 武士の頂点に立ちました。 平氏は朝廷に入り込み、 朝廷を通じて支配しようとしましたが、 鎌倉幕府は、 京都の朝廷、地方の荘園や公領はそのままにして、 幕府と主従関係を
鎌倉時代の特徴として、 公的な歴史書が書かれなくなったことがあります。 『今鏡』『水鏡』『愚管抄(ぐかんしょう)』 などが書かれていますし、 『吾妻(あづま)鏡』という 鎌倉幕府の一貫した流れを書いた歴
義経は壇ノ浦の戦いの後、 都にもどり後白河法皇に官位を与えられたために、 鎌倉の頼朝と対立せざるを得なくなりました。 頼朝は都に兵を送り、法皇を問い詰め、 義経を捕えるために、自分の部下(御家人)を
仁安(にんあん)二(一一六七)年、 平清盛が太政大臣となり、 平氏政権を打ち立てました。 藤原氏にとってかわった政権でしたが、 福原遷都など無謀な動きをして、 没落を早めました。 初めは朝廷のボディ
保元元年(1156年)7月に 皇位継承問題や摂関家の内戦で、 朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、 双方の衝突に至った政変です。 崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流されました。 この朝廷の内部抗
釈迦の死後が「正法」の時代、 次が「像法(ぞうほう)」の時代で、 最後に来るのが「末法(まっぼう)」の時代です。 この世はもう終わりではないか、 という末法思想がはびこったのです。 十一世紀に入ると政
後三条天皇の後、 天皇に即位したのは白河天皇です。 この白河天皇が始めたのが 院政と言う新しい政治のやり方です。 院政とは、天皇の座を明け渡すが、 自らは上皇(じょうこう)として 変わらず政治を
今度は前九年の役で、 その力を貸してくれた清原一族の内部で (1083年~1087年)に争いが起こります。 清原一族の跡継ぎ問題、土地の所有問題です。 この内乱に力を貸して収めたのが源義家です。
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の 蝦夷(えみし)討伐の後、 東北地方は朝廷により律令体制に組み込まれました。 しかし、時の流れと共に、 東北はまた波乱を起こし始めます。 東北は京都から離れ
錬金術の起原は古く、 紀元前3世紀ごろのアレクサンドリアでも その研究がなされています。 錬金術はもともと卑金属を貴金属つまり 金に変えるのが第1の目的ですが、 不老不死の薬をつくるということも、 し