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千の朝 https://plaza.rakuten.co.jp/beabea65/

「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。

 自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。  これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。  充実して生きる道を探しているのだ。  それが、何にもまして一番重要なことなのだ。  それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。

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2014/09/11

1件〜100件

  • 中観派2

     大乗仏教の中観の教理の基盤は、  般若経の教えです。  この世のすべての現象は、  存在現象も含めて、  原因(因)と条件(縁)によって  生起(縁起)しており、  その現象はそのまま  他の現象

  • 海の道2

     今日でもインドシナ  (ベトナムからタイをふくんで  ビルマにいたる地域)には仏教国が多く、  また東南亜細亜全体において、  インド文化の影響がまだかなりのこっています。  これはインド文化が長

  • 大乗仏教

     仏教世界の果てから果てまで、  広く交流がおこなわれ、  ナーランダの学林やカシミールの僧院  〔大乗仏教の有力な一派である  有部(うぶ)の本拠であった〕  にあらわれた新しい哲学的業績は、  巡礼

  • 支那の錬金術2

     漢の支配者たちの帝国は  多くの独立した敵対国家に分裂し、  各国が主権を争いましたが、  紀元五八一年についに隋が主権をにぎりました。  隋王朝(五八一ー六一八)は  以前の秦王朝のように短命で

  • 世界史の誕生

     「絹の道」と「海の道」という  二大交通路によって、  はじめて世界の一体化が  なされてきたわけですが、  全世界を一つの流れとしてとらえる  世界史という学問も、  このときはじめて誕生したとい

  • 海の道1

     南北を統一した隋王朝は  文帝・煩帝・恭帝の三代、  わずか三十七年で農民の全国的反乱のため崩壊し、  これを平定した唐帝国の天下が  約三百年の長期にわたってつづきました。  隋・唐二王朝の関係

  • 絹の道4

     前二世紀の後半に、  張騫(ちょうけん)という支那人が、  コロンブスに匹敵する大探検に成功しました。  張騫は西域(中央亜細亜)にある国と連合して、  支那(漢帝国)の敵である  北方の匈奴をは

  • 絹の道3

     「絹の道」は、長年にわたって  ユーラシアの一体化をうながし、  世界の一体化に大きな貢献をしてきました。  世界の一体化は、何千年にわたって  すこしずつ進展してきたのです。  世界の一体化は

  • 絹の道2

     「絹の道」はすなわちシルク・ロードです。  「絹の道」と名づけたのは、  当時は支那でしかとれなかった絹が  もっとも貴重なものとされ、  貿易の中心をしめていたためです。  絹はラクダに積まれ

  • 絹の道1

     七世紀末に、  韓にはじめて統一国家新羅があらわれました。  新羅は七世紀末から支那の儒教を国教として、  官吏採用のための試験制度も  支那をまねていました。  漢帝国時代の支那文化は、  ま

  • 統一国家新羅

     九世紀ごろに満州の南方に成立した  「渤海」という国も、  唐の制度を手本にした官僚機構  (律令制度)を形成していました。  ところが、日本に支配されていた韓のみは、  随・唐の律令制度を全面的

  • 第二の軸の時代

     古代の大帝国の崩壊と交代のプロセスの後に、  歴史が没落していくように見えたまさにそのとき、  新しい呼吸を始め、  生命を脈打ちだした地域がありました。  ヤスパースの言う「軸の時代」が  頂点

  • 遣唐使

     支那では、漢帝国が(二二〇年に)ほろんだのち、  四百年近くのあいだ社会が乱れ、  六世紀末になって、ようやくひさしぶりで  隋という大帝国があらわれました。  隋は、中華(漢民族による支那)の復

  • 道家

     漢王朝がはじまるころには、  すでに法家と墨家と名家とは  その重要性を失なってしまい、  儒家と道家とが  意想界の有力な学派となっていました。  孔子(紀元前五五二-四七九)の  後継者たちだ

  • 武帝の朝鮮併合

     紀元前一〇八年に起こったことは、  総合商社が日本列島の対岸に  支店を設けたということです。  日本列島は、世界最古の土器文化を持っていて、  新石器時代はここで始まったのですが、  日本列島は

  • 支那の皇帝制度

     岡田英弘教授によると、  支那文明の本質は商業文明であり支那の皇帝制度も、  一種の総合商社なのです。  支那は国民国家でも領土国家でもありません。  皇帝のいる首都は本社で、  地方の県城は、

  • 漢帝国

     漢(かん、拼音: Hàn)は、支那の王朝です。  通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と  後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を  総称して「漢王朝」と呼びます。  支那初の統一王朝である秦王朝が

  • ユーラシア大陸

     支那の漢帝国、西アジアのパルチア王国、  中央アジアのクシャーナ王国、地中海のローマ帝国、  インドのグブタ帝国が、  三世紀から六世紀にかけてあいついで滅亡して以後、  しばらくのあいだユーラシア

  • 坑儒

     「坑儒」に至っては、  人を騙し、詐欺を行い国の政策を混乱させる  一部の道士らを一掃する政策にすぎません。  『史記』には、盧生と侯生という2人の方士  (不老不死の術や卜筮、呪術などを行う人)

  • 焚書

     丞相の李斯は淳于越が古の慣習を懐かしみ  現制度に反抗的であることを理由に  『焚書令』を提起しました。  その中では、  「以前は諸侯が互いに争い天下が乱れていたから、  富国強兵の策を求めて遊

  • 焚書坑儒2

     始皇帝と言えば焚書坑儒を連想します。  焚書坑儒は始皇帝の残虐さの象徴ともいえる事件で、  それまでの支那の歴史や文化を  破壊したとも言われています。  しかし、始皇帝が焚書坑儒を行った真の目

  • 葛洪

     錬金術師のうちでもっとも有名な  紀元四世紀の葛洪(かつこう)は、  「草木は焼けば灰になるが、  辰砂は火に熱すれは水銀に変えることができ、  その逆もまた同様である。  辰砂は、ふつうの植物性物質

  • 支那の錬金術

     支那の錬金術について  最初に触れたものとして知られているのは、  『前漢書』です。  泰の始皇帝は、  自分が長生きする見込みについて、  道家の呪術師たちに相談したのです。  紀元前三三年に

  • 黄道

     初期の天文学で最大の難問のひとつは、  恒星に対して太陽の  相対的な位置を決定することです。  それは太陽があらわれる時間には  星が消えているからです。  エジプト人やバビロニア人や  その

  • 石申

     支那のもっとも有名な天文学者は  石申(紀元前三五〇年ころ)で、  約八〇〇個の星の相対的位置を図示しました。  またかれは、食が  天体どうしの相互作用によることを知っており、  太陽と月との予

  • 支那の天文学

     天文学においては、支那人はすでに、  ひじょうに遠い昔に観測をおこなっていた  という名誉を担っています。  一七世紀に北京にきたイエズス会士たちは、  支那の天文学はそのころより四〇〇〇年も前に

  • 墨家・名家

     墨子(紀元前約四七九-三八一)の  後継者たちであった墨家は、  兼愛の教義を教えましたが、  平和主義者ではありません。  強国に圧迫された弱国を助けるために、  みずから軍事技術の訓練をしまし

  • 諸子百家

     漢時代は、  技術上の新機軸で注目すべきものがありました。  紙の発明ばかりでなく、紀元前一〇〇年ころには  磁石の方向指示の作用も発見し、  鉄の鋳造の最初の記録も見られます。  紀元後三一年

  • 宇宙の道

     陰と陽の二つの原理の相互作用が、  木・火・土・金・水の五行をうみます。  最初は、水と火とがあらわれたが、  この二つはそれぞれ成分において、  陰陽のうち陰が大部分を占めていました。  つぎ

  • 陰陽原理

     初期の道家の多くは、野に入り隠者となり、  以前の巫祝(ふしゆく)の徒の呪術を使って  自然を研究しました。  道とは、自然の道であり人の道であり、  かつまた、宇宙の移りゆきです。  人間は道に

  • 支那の数学

     この時期の支那の数学は  秦、漢の時代が中心となります。  「周髀算経(しゅうひさんけい)」と  「九章算術」が最も古い数学書で、  この時代の数学を特徴付けています。  「周髀算経」は、紀元前2

  • 民衆の負担

     秦王朝の百姓が負担する兵役や賦役は、  後漢時代に班固が編纂した『漢書』によると、  成人男性は一生のうち1年間の兵役に就き、  予備兵役又は開墾事業に1年間、  その後は毎年夜間の見張りに  1カ月

  • 阿房宮

     始皇帝は在位中に数々の圧政を行った  とも言われてきましたが、  それは始皇帝が死去して119年後、  漢の武帝の時代に司馬遷が記した『史記』の  「隠宮徒刑されし者七十余万人、  乃ち分れて阿房宮を

  • 焚書坑儒

     『史記』秦始皇本紀によると、  始皇34年(紀元前213年)、  博士淳于越(中国語版)が郡県制に反対し、  いにしえの封建制を主張しましたた。  丞相の李斯は、  儒者たちが体制を批判していると、

  • 秦の軍事

     秦は支那支配で、  強大な軍備を維持できる高度に形作られた権力と、  安定した経済により統一された  帝国を創造することを試みました。  秦は、貴族と地主の役割を極小化し  人口の絶対多数を占める

  • 秦朝

     秦朝(しんちょう)は、  紀元前221年から206年まで存在した、  支那の統一王朝です。  秦は現在の甘粛省や陝西省  の秦の拠点に由来します。  秦朝を建てた皇帝は、  始皇帝として知られています

  • キリスト教の国教化

     ユリアヌス帝の時に、  一時キリスト教が否定されましたが、  信徒は増大を続け、  コンスタンティヌス帝が  313年にキリスト教を公認した  ミラノ勅令を発布しキリスト教の弾圧を禁止しました。

  • アショーカ王

     インドでは、一時(マウリヤ王朝のときに)  仏教がさかえましたが、それほど長つづきせず、  グプタ時代に、  それ以前から有力であったバラモン教と融合して、  ヒンドゥー教がつくられています。  

  • グプタ帝国

     仏教は、  まもなく中央アジアを経て支那へつたわり、  さらに支那から日本へ(六世紀)  つたわってきています。  そして仏教は日本にあまりにも多くの影響をあたえ、  仏教ぬきでは日本文化を理解て

  • パルチア帝国

     パルチア王国は、  ローマ帝国と隣り合っていましたが、  パルチアと漢帝国のあいだには、  かなりの距離のへだたりがあります。  しかし、紀元元年ごろに、  今日のアフガニスタンを中心にし、  北

  • その後の東ローマ帝国

     東ローマ帝国は  6世紀のユステイニアヌス大帝の時最盛期を迎え、  一時地中海世界全域支配を回復しますが、  その後西地中海は再びゲルマン人の国家が建設され、  東ローマ帝国の支配はギリシャ・小アジ

  • ローマ帝国の滅亡

     西ローマ帝国は、  その後もゲルマン人の侵攻を受けて衰え、  476年にゲルマン人傭兵隊長の  オドアケルの反乱によって滅亡します。  東ローマ帝国は、  もはやローマから離れたところを都とし、

  • へロンの発明

     彼の発明の多くは、  後世の発明家たちの想像力を刺激した  という意味でいっそう重要です。  『気体学』という本のなかには  金属製の球のことが書いてあります。  球の中で水を沸騰させると、  

  • ヘロン

     ギリシャ黒人は  労働を節約する機械の発明に無関心でしたが、  もう一つの例外は、  アレクサンドリアの人へロン(62年ごろ~150年ごろ)です。  彼は物理学看であり数学者でしたが、  生年や没年は

  • てこの原理

     シュラクサのアルキメデスが  アレクサンドリアを訪れたときに、  アルキメデスの揚水機といわれている  回転体の助けをかりて  水を螺旋(らせん)状に送りあげる  簡単な装置を考案したといわれています

  • 奴隷制度

     多くの哲学者、芸術家、文学者を  生み出したギリシャ人が、  なぜ応用科学の面では  これといった活躍をしなかったのでしょう。  それは社会的、心理的影響が原因です。  ギリシャは奴隷制の上に築

  • アルキメデス

     支配層のギリシャ黒人のなかにも、  技術の才に恵まれた人が何人か居り、  いろいろの実験や発明をしています。  アルキメデス(紀元前287年-紀元前212年)  もその一人で、  彼は静水学の根本原理を

  • 帝国ローマ

     ローマは原初は  エトルリア人の王を戴いていましたが、  紀元前五〇九年に王は追われ、  貴族による寡頭制の下で共和政が成立し、  政治体はレス・プブリカと呼ばれるようになりました。  この語は英

  • 古代的大帝国

     紀元前二〇〇年ごろから、  紀元後二〇〇年ごろまでの四百年間は、  ユーラシアの古代的大帝国が  もっともさかえた時代です。  東の漢帝国、パルチア王国(イラン)、  西のローマ帝国の三つが、ユー

  • ナザレのイエス

     ナザレのイエスは、  人間は平和の神の子として平等である、  神は父なる神である。  また、神は太陽や降雨などの環境を整えていて、  人間をはじめ鳥類などの生き物を日々養っており、  日々の祈りを

  • ユダヤ教

     キリスト教の元であるユダヤ教(前270年頃)の神  ヤハウェはユダヤ人固有の神ではなかったようです。  フロイトは、  エジプトで革命的一神教を創始したファラオ、  アクエンアテン(アテン神をあがめ

  • ジャイナ教

     マハーヴィーラ(紀元前5世紀)の始めたジャイナ教は、  苦行と瞑想に重点を置いて  正信・正知・正行の三宝を体系としていました。  最も強調した教えは、アヒンサー(不殺生)でした。  そのことは

  • 格義仏教

     前漢・後漢の時代の支那は儒学全盛でしたが、  後漢の滅亡とともに儒学の権威は衰退しました。  魏・晋の時代には老子や荘子の「無」が  万象の根源であり道の根本であるという、  無為自然の道を体得す

  • 中観派

     中観派は、この世界を概念を離れた真実の世界  (第一義諦、paramārtha satya)と、  言語や概念によって認識された仮定の世界  (世俗諦 、saṃvṛti-satya) という二つの真理に分けます。  言葉では表現

  • 龍樹の空理論

     龍樹の『中論』の著作によって  「空」の理論は大成されました。  龍樹は存在という現象も含めて、  あらゆる現象はそれぞれの因果関係の上に  成り立っていることを論証しています。  この因果関係

  • 仏教に帰依

     宮廷からの逃走に成功した龍樹は  山上の塔を訪ね受戒出家しました。  小乗の仏典を  わずか 90 日で読破した龍樹は更なる経典を求め、  ヒマラヤ山中の老比丘から  一つの大乗仏典を授けられました。

  • 龍樹菩薩

     南インドのバラモンの家に生まれ、  幼くしてヴェーダを諳んじて  その意味を了得した龍樹は、  (中インドの)ナーランダ僧院で  バラモンの学問を修めたのち出家し、  天性の才能に恵まれたその学識を

  • 六十二見

     六十二見とは仏教関係の人々が、  仏教以外の思想を62種類にまとめたものです。  「見」とは学説の意味です。  その中で「六師外道(ろくしげどう)」  と呼ばれる6人の思想家が、  今日に名前を残し

  • 八正道

     仏陀も苦行と瞑想を繰り返した後に、  輪廻転生の苦しみから脱け出す道を見つけたのです。  それは8つの基本的修行(八正道:はっしょうどう)、  正見(しょうけん)・正思惟(しょうしい)・  正語(しょう

  • 仏陀

     仏陀(紀元前5世紀前後)にとって、  この世の生活は苦しみを招く執着や  欲望に満ちあふれた苦々しいものでした。  “諸行無常”という概念は仏教の根本主張で、  世の中の一切のものは常に変化し生滅し

  • 二-チェとの関係

     19世紀後半のドイツの哲学者ニーチェに、  『ツァラトウストラはこう言った』という  著書があります。  ニーチェの哲学の重大な命題である  「永劫回帰」の思想が語られています。  ツァラトウスト

  • 仏教の開祖

     ゴータマ・シッダルタは仏教の開祖で、  悟りを開いて仏陀と呼ばれる様になりました。  仏陀が、鹿野苑(ろくやおん)で、  五人の比丘に対して教えを説いたのが、  仏教の起こりです。  仏教の目的

  • 火を祀ること

     ザラスシュトラはアーリア人です。  彼らはカスピ海の北方に住んでいましたが、  BC1500年前後にインドに入り、  さらにBC1200年頃にはイランにも入って行きました。  彼らは、この民族大移動の過程で

  • 入信の儀式

     ゾロアスター教には  ナオジョテと呼ばれる儀式があります。  入信の儀式です。  やがてキリスト教に取り入れられ、  洗礼となる儀式です。  ただ、ゾロアスター教では、  ローマ教会のような幼

  • 守護霊と八百万の神

     ゾロアスター教は精霊の存在を信じます。  精霊とは八百万の神と同じで、  この世の森羅万象に宿る霊的存在のことで、  当然のこととして人間にも宿っています。  精霊をフラワシと呼びます。  そ

  • 時間軸を挿入

     仮にこの世をつくつたのが、  一人の正義の神とすると、  正義が世界中にあふれていることになります。  悪い君主も殺人鬼も存在しない理屈になります。  清く正しく生きていれば、  誰もが幸福にな

  • 最後の審判

     善悪の神が戦う混乱の時代が終わる  1万2000年後の未来、  世界の終末にアララ・マズダーが行う  最後の審判によって、  生者も死者も含めて全人類の善悪が  審判・選別され、悪人は地獄に落ち、  す

  • 宗教心

     自分で十分検討し、自分の意思で判断した場合だけ  自由な判断とみなされるといいますが、  十分な検討など本来不可能です。  経験則が確立できない現象に対して、  世間や自分を納得させるには  科学

  • ニヒリズムの克服

     ヘラクレイトスから数えて二千五百年の  形而上学の時代を通りすぎた後になって、  われわれはニーチェに至り着くことができます。  西欧の歴史も現時点に至って初めて、  禅がわれわれに考えさせようと

  • 有はみな時なり

     もともと仏教では、  時間論には、それほど重点を置いていません。  原始仏教では現在のみが存在する時であり、  過去も未来もないとする「過未無体(かみむたい)」  という考え方があります。  正

  • 宇宙の根本原理

     宇宙には、  自然科学が説明しえない根本原理(根本法則)があり、  それを発見し、それにしたがって生きれば人はすくわれる。  そしてこの宇宙の根本原理は、  神さまだと考えてもよいのです。  で

  • 創唱宗教

     ユーラシア革命期のもう一つの要点として、  創唱宗教を挙げなければなりません。  これは科学や哲学の誕生におとらない重要なことです。  創唱宗教とそれ以前の宗教(原始宗教)との区別は、  どこに

  • 宗教

     マックス・ヴェーバーは、  宗教とは行動様式だと言いました。  これは倫理道徳も習慣風俗も全部含んでいます。  無論、正しくないということも含めて。  人間の行動様式のなかには  正不正という

  • 末弟を指名する

     応神天皇は一番下の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)  を後継者にしたがっていました。  そこで、ふたりの兄をためします。  お前たちは、年上と年下の子どっちがかわいいか?  大鷦鷯尊  (大雀

  • 壱与の朝貢

     壱与は倭の女王卑弥呼の宗女で、  13歳で卑弥呼の跡を継いだとされる女性で、  魏の滅亡後に建国した晋の都、  洛陽に266年に朝貢しました。  晋は一度滅び、翌年、再建されています。  一度滅んだ

  • 卑弥呼の死

     239年に親魏倭王の詔書印綬を受けた卑弥呼は、  243年に再び魏に朝貢しましたが、  248年に死去しました。  井沢元彦は、卑弥呼は、  邪馬台国と狗奴国との戦争での敗戦責任を問われて  殺害されたと

  • 卑弥呼

     3世紀に入ると支那では漢がほろび、  魏(ぎ)、呉(ご)、蜀(しょく)という三国が  分かれて争う時代になりました。  そのうち日本列島の中に  魏と親交を結んだ国があり、  魏からも使者がきてい

  • 朝鮮動乱

     あのころの朝鮮半島は戦国時代です。  朝鮮半島はで高句麗が圧倒的に強く、  百済・新羅・加羅は南に追いやられていました。  劣勢なのに新羅と百済・加羅は仲が悪いです。  敵を倒すには大和政権の

  • 王仁

     応神天皇は日本で初めて  外国と平和的に外交を行なった人です。  応神16年、百済の学者・王仁(わに)が来日します。  王仁は朝鮮に帰らず子孫も大和に残り、  天皇のそばで大きな仕事をしていきます

  • 応神天皇

     翌367年、誉田別命は天皇に即位し  第15代応神天皇となりました。  神功47年のことです。  歴代天皇のなかでも  聖帝といわれるほど特別な存在です。  朝鮮と積極的に交流し、  本格的に大陸の

  • 忍熊王の反乱

     仲哀天皇が亡くなり  新羅から倭軍が凱旋してきた365年頃、  神功皇后は筑紫に帰って  皇子(15代応神天皇、363年-403年)を生みました。  その後、神功皇后は海路、大和に向かいました。  その時

  • 七枝刀

     倭軍が、西暦三九一年、  海を渡って朝鮮半島に攻め入り、  百済や新羅(しらぎ)がその勢力下に入り、  その後たびたび戦いがあって、  四〇四年には  倭軍は北上して漢江(かんこう)流域に入り、  さら

  • 広開土王碑

     古墳時代の391年に朝鮮に出兵し  百済・新羅を下します。  広開土王碑からは  396年にも朝鮮出兵をしたことが確認できます。  この碑は、  好太王の業績を称えるため子の長寿王が作成したもので、

  • 三韓出兵

     皇位は日本武尊の弟・成務天皇が継ぎましたが、  その崩御後は日本武尊の息子が継ぎ、  仲哀天皇へと即位しました。  仲哀天皇はその父と同じように  九州へ出兵しようとしますが、  熊襲征伐の途上、

  • 仲哀天皇

     叔父である成務天皇に男子が居なかったことから、  後継者に指名され  天皇崩御(成務天皇48年)の翌々年即位しました。  日本武尊(やまとたけるのみこと)の第二子で  母は両道入姫(ふたじのいりひ

  • 成務天皇

      13代成務天皇は、311年に即位しました。  晋書によれば、台与は266年に  13歳での即位と考えられますから、  約半世紀の在位期間の記事がありません。  台与は享年57です。  景行天皇陵が「倭国

  • 倭王たち

     遣使は朝鮮半島諸国との外交を有利に進め、  なおかつ4世紀後半以降獲得した半島における  権益に関して国際的承認を得ることも  重要な目的でした。  倭王たちは宋に半島南部の軍事的支配権を  承認

  • 倭王珍の遣使

     遣使の目的は支那との交流を図ると共に、  中華皇帝の威光を借りることによって  当時のヤマト王権にまつろわぬ諸豪族を抑え、  国内の支配を安定させる意図があったのです。  倭王は自身のみならず臣下

  • 倭の五王

     宋の歴史をまとめた『宋書』には、  5世紀初頭から末葉まで、  およそ1世紀近くに渡って  主に南朝の宋(420年 - 479年)に  王、讃・珍・済・興・武の5人の倭王の使者が  貢物を持って参上し、  宋の

  • 草薙剣

     天叢雲剣は草薙剣とも言われ、  三種の神器(八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣)の一つです。  三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴とされています。  日本神話において、スサノオが  出雲国で八岐大

  • 日本武尊

     景行天皇の即位27年8月、  熊襲が再び謀反をおこしたので、  10月に小碓尊(16歳)に命じて熊襲を征討させます。  小碓尊は首長の川上梟帥を謀殺して日本武尊の名を得ます。  即位40年8月、  大碓皇

  • 景行天皇

     景行天皇(けいこうてんのう、  垂仁天皇17年 - 景行天皇60年11月7日)は  活目天皇(垂仁天皇)の第3皇子で、  日本の第12代天皇です。  『日本書紀』での名は大足彦忍代別天皇。  即位12年、九州

  • 但馬清彦

     垂仁天皇88年7月条によると、  新羅王子を自称する天日槍が持って来た  但馬の神宝を見たいと天皇が言ったので、  使者を遣わし天日槍曾孫の清彦に  勅命を下して献上させました。  神宝とは羽太の玉

  • 右近の橘

     田道間守(たじまもり)  あるいは多遅摩毛理(たじまもり)は、  新羅の皇子といわれています。  4-5世紀頃来日し、名の通り、  但馬(たじま)の国あたりを支配した実力者でした。  新羅王子の

  • かぐや姫

     第九代開化天皇の項に、  天皇の孫に「讃岐垂根王」の名前を  『古事記』に見ることが出来ます。  更にこの讃岐垂根王の姪に  「迦具夜比売命」なる名も見る事が出来ます。  讃岐なる名前の人の姓は

  • 祭祀の振興

     崇神天皇の時代に始まった全国統一の動きは、  垂仁天皇の御代においても継続して進められました。  この帝の御代にも政治の中央集権化は進められました。  また斎宮(いつきのみや)の齊王である皇女の

  • 垂仁天皇

     御間城天皇(崇神天皇)の第3皇子である垂仁天皇  (すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月14日)は  日本の第11代天皇です。  『日本書紀』での名は活目入彦五十狭茅天皇。  兄の

  • 朝鮮半島

     高句麗、新羅、百済、任那が朝鮮半島を経営しますが、  朝鮮半島は、地政学的に極めて独立が難しく  支那の属国状態が続きました。  日本が経営した任那も大陸との直接交易・交流の経由地でした。  こ

  • 任那

     崇神天皇の即位65年、任那が使者として  蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わしてきました。  蘇那曷叱知は活目尊(垂仁天皇)の即位2年に任那へ帰国したが、  その際に天皇からの下賜品を新羅に奪われてしま

  • 御肇国天皇

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