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千の朝 https://plaza.rakuten.co.jp/beabea65/

「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。

 自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。  これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。  充実して生きる道を探しているのだ。  それが、何にもまして一番重要なことなのだ。  それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。

住所
港北区
出身
水戸市
beabea65
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2014/09/11

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  • 下瀬火薬

    下瀬火薬(しもせかやく)は、 大日本帝国海軍技師の 下瀬雅允が実用化した火薬(砲弾の炸薬)で、 日露戦争当時の帝国海軍が使用し、 日露戦争における大戦果の一因です。 成分は純粋ピクリン酸ですが、 砲

  • 日露戦争

    日本は列強の帝国主義からの自衛上、 やむなく日清・日露戦争を行なったのです。 ロシアは露清の撤兵条約にもかかわらず 満州からの撤兵を渋ります。 列強環視の中、 日英同盟に対して露仏同盟をもって対抗

  • 北京の籠城戦

    北清事変における北京の籠城戦での 芝中佐の防御計画、戦闘指導によって 南城壁、イギリス公使館、ドイツ公使館は 危急を救われ全籠城軍の 最も頼りとする守りの主柱でした。 柴五郎は日本だけでなく イギリ

  • 列強の駆け引き

    一九〇九年四月、 米国は英独仏による 湖広鉄道借款計画を知りました。 タフト政権はこれを重視し 英国と清国に計画への参画を要求しましたが、 一九〇九年六月英国がこれを拒否し、 清国も無視しました。

  • 支那の植民地化

    北清事変の危機にあたって 北京にあった各国外交団は、 義和団の包囲の危機に対し連合軍を組織し、 日本もこれに出兵し北京を陥れました。 清国は翌年、議定書を結び 1・責任者の処罰、 2・賠償金の支払い、

  • 北清事変

    五月末になると、 形勢いよいよ急迫したので、 列国は天津に停泊中の軍艦から、 居留民保護のためそれぞれ水兵を北京に送りました。 その数は各国合わせて士官・水兵四百数十名です。 六月に入ると北京・天

  • 義和団の乱4

    義和団がいよいよ北京に迫った五月の末、 北京公使団は大括沖合に停泊中の 各国艦隊に救援軍の派遣を求めました。 五月三十一日、各国艦隊は 第一回援軍約四百名を北京に送りこんだ。 続いて、第二回増援軍

  • 日本人惨殺さる

    一九〇〇年北京の空気は異様に熟していた。 山東省の一画で蜂起した義和団が、 北京に刻々と迫っていたからです。 六月十一日(月)モリソンは 北京外人クラブにいた。 ロシア公使館のクルペンスキーが

  • 義和団の乱3

    アメリカは立ちおくれてではあったが、 一八九九(明治三二)年 太平洋の拠点となるハワイを合併し、 翌年九月には国務長官ジョン=ヘイが 清国の領土保全・門戸開放・機会均等主義 の名のもとに門戸開放主義を

  • 義和団の乱2

    すでにイギリスは幕末以来 清国の一角に根拠地を獲得し、 またロシアは北方から南下しつつあった。 日清戦争後の三国干渉を契機に 列強の清国分割に対する活動は熾烈化して、 ロシアは一八九六(明治二九)年 日本

  • 海軍拡張の財源

    桂内閣の出現は藩閥政府の更生であった (明治三四年六月成立)。 しかしその翌年には、 日英同盟を締結して外交上の功績をたて、 議会対策には、政友会と妥協を策して 海軍拡張のために第二次山縣内閣の 五

  • 義和団の乱

    多くの支那人の目には、 外国に対して利権を譲渡する政府の行為は 国益を裏切るものとうつった。 こうして満州王朝清の転覆と、 純粋に支那人からなる愛国的な政府の樹立 をめざした秘密結社が、 ことに学生

  • 日露開戦

    一八九六年以降、 朝鮮はロシアと日本の 出先機関のあいだの争点となり、 ともに帝国主義的進出をめざしていた この二国は激しく対立して、 一九〇四年には戦争が勃発しました。 ここでも日本がロシアを 巧

  • 近代の超克

    西欧列強によって味わわされた屈辱よりも、 この清国の誇りを大きく傷つけたのは、 朝鮮で日本軍に敗れたこと(一八九四-九五年)でした。 支那にとって属国のひとつであった朝鮮は、 地理的に支那の首都に近

  • 日露戦争

    日露戦争は 「それまで二百年の長きにわたって アジア・アフリカを統治してきた西洋人は、 無敵で神のような存在と信じられてきたが、 実際はそうではないことを 日本人は全人類の面前で証明してしまった」 と

  • 帝国主義

    この時代の発端は、 帝国主義のイギリスとロシアの戦いで、 戦争の時代だったのです。 イギリスが支那にアヘン戦争をしかけ、 香港を植民地にしました。 それ以後、イギリスは北に向かって アジアでの侵攻

  • 列強とアメリカ

    遼束半島は三国干渉で 支那にかえされたが、朝鮮は独立国となり、 支那はもはや宗主権を主張できなくなりました。 「眠れる獅子」の威力を秘めている かにみえた支那もとくに日清戦争で その弱体をさらけ出し

  • 西欧の蚕食と日本

    この大反乱の指導者太平天国の天王、 洪秀全(こうしゆうぜん)は南京城内で自殺し、 西欧諸国は支那周辺を蚕食(さんしょく)します。 まずロシアは一八五八年塁里江以北の地を、 六〇年ウスリー江以東の地を奪い

  • 眠れる獅子

    清朝による支那支配は、 康熙・乾隆の絢爛豪華を誇った盛時をさかいに 急速におとろえました。 一九世紀をつうじて、内憂外患こもごもいたり、 中華の誇りもその実をともなわなくなりました。 アヘン戦争・

  • 朝鮮改革方案

    「(貴国は)国内の安寧を維持する兵備に 欠乏せる所ありて其勢、 此に至るものと判定せざるを得ず。 我帝国は貴国と一衣帯水(いちいたいすい)を隔てて相隣接し、 随って政治及貿易上の関係浅からざれば、 貴国

  • 宣教師の安全

    イギリスは他の欧米四ヵ国に、 あるメッセージを伝えていました。 ロシア、フランス、ドイツ、アメリカに対して、 日本の撤兵を条件とせずに、 日本との協議に応ずるよう清国に共同で促したい、 と伝えていた

  • 日本の反駁

    日本はこの干渉には慎重に反駁しました。 ロシアの軍事介入の有無の判断が 難しかったのです。 しかし七月十日には、 西徳二郎(とくじろう)駐露公使が、 ロシアの武力干渉はないだろう と伝えてきました。

  • ロシアの提案

    「朝鮮政府は同国の内乱は鎮定したことを、 同国駐箚(ちゅうさつ)の各国公使に公然と告げた。 また、清国兵幷(ならび)に日本兵を 撤回させることに付き、 各国使臣等の援助を要請した。 よって本官の君主である

  • 大鳥圭介5

    日本軍の退去を要請する朝鮮政府に対し、 大鳥は次のように日本の意向を伝えました。 「(東学党の反乱は静まったとはいえ) 内に内政が衰えて到底独立統治する実力がない。 常に朋党が軋轢(あつれき)し、 暴

  • 大鳥圭介4

    日本政府は過去二回の経験から、 陸戦隊だけでは大鳥の安全を 守れないことはわかっていました。 新編成の混成旅団(旅団長大島義昌少将)は 借り上げた汽船を利用して 続々と仁川に入りました。 旅団本部

  • 大鳥圭介3

    戦前の史書が、 「僅か十日に足らぬ日数を以って、 斯(か)くも迅速に、斯くも堂々と、 陸海の兵がぴたぴたと部署に就いた行動を見て、 清韓両国は意外の目を瞠(みは)り、 鉾(ほこ)を交えずして 既に士気を呑ま

  • 大鳥圭介2

    「(大鳥は)密命を受けて翌六月五日出発します。 発するに臨んで血痕班々たる腹帯を纏いました。 之実は圭介が維新の変、幕軍に将として官兵と闘い、東 西に転戦して終に箱館五稜郭に降を請う時まで、 身を放さ

  • 大鳥圭介1

    東学党の乱が起こった頃、 大鳥は休暇で大磯にいました。 明治政府は一八九四年六月二日に 第六回議会解散の奏講をし、 同時に済物浦(さいもっぽ)条約第三款に基づく 朝鮮出兵も天皇に奏講しました。 裁可

  • 李鴻章

    1895年4月、 日本全権伊藤博文・陸奥宗光と 清国全権李鴻章とのあいだで 下関条約を締結しました(条約5月8日発行)。 その内容は、①清国は朝鮮の独立を認め、 ②遼東半島および台湾・澎湖諸島を日本に

  • 陸奥宗光

    日清戦争のさなか、 インテリジェンスのもう一つの局面としての 条約改正への取り組みも無視できません。 この最大の立役者が陸奥宗光です。 明治政府にとって、 江戸幕府が結んだ不平等条約、 特に関税自主権なし

  • 川上操六

    1894年8月、日本が清国に宣戦し 日清戦争が勃発し戦争指導のため、 明治天皇と大本営が広島に移った。 戦局は、 軍隊の規律・訓練、兵器の統一性に勝る 日本側の圧倒的優勢のうちに進んだ。 日本軍は

  • 勝利ムード

    その九月一五日が平壌総攻撃の日でした。 包囲に気づいた清国軍は戦意がなく、 その日のうちに白旗をかかげたので 日本軍は翌一六日、やすやすと入城、占領します。 その翌日、九月一七日、黄海海戟が行われ

  • 海戦が先行

    実際の戟争は、 海の方で一足先に始まりました。 七月二五日の朝、 仁川に向かう日本軍艦と 清国増援兵輸送の護衛に向う清国軍艦とが 豊島沖で遭遇し、砲撃を交したからです。 それに続いて七月二九日、

  • 日清戦争

    1894年、朝鮮で東学の信徒を中心に 減税と排日を要求する農民の反乱 (甲午農民戦争)が起きると、 清国は朝鮮政府の要請を受けて出兵しました。 わが国も天津条約に従って朝鮮に出兵しました。 東学党

  • 脱亜論6

    現在の戦略を考えた場合に、 わが国は隣国の開明を待ち、 共にアジアを発展させる猶予はありません。 むしろ、その仲間から脱出し、 西洋の文明国と進退をともにし、 その支那、朝鮮に接する方法も、 隣国だ

  • 脱亜論5

    例えば、支那、朝鮮の政府が 昔どおり専制で、 法律は信頼できなければ、 西洋の人は、 日本もまた無法律の国かと疑うだろう。 支那、朝鮮の人が迷信深く、 科学の何かを知らなければ、 西洋の学者は日本も

  • 脱亜論4

    支那・朝鮮の二国をみれば、今の文明東進の情勢の中にあっては、とても独立を維持する道はない。幸い国の中に志士が現れ、国の開明進歩の手始めに、われらの明治維新のような政府の大改革を企て、政治を改めるととも

  • 脱亜論3

    日本の国土はアジアの東端に位置しますが、 国民の精神は既にアジアの旧習を脱し、 西洋の文明に移っています。 しかし不幸なのは、 支那、朝鮮という隣国があることです。 この二国の人民も古来、 アジア

  • 脱亜論2

    近代西洋文明が日本に入ったのは、 嘉永の開国が発端です。 国民はそれを採用するべきことを知り、 しだいに活発の気風が生じたものの、 進歩の道に横たわる老害の幕府がありました。 幕府を保存しようとす

  • 脱亜論1

    世界中の現状を観察し、 文明の東漸への抵抗が 不可能なことを知る者は、 世の移りにあわせ、 共に文明の海に浮き沈み、 文明の波に乗り、 文明の苦楽をともにする以外にはないのです。 文明とは全く、 麻

  • 脱亜論

    1885年、福沢諭吉は「脱亜論」を発表し、 アジアを脱して欧米列強の一員となるべきこと、 清国・朝鮮に対しては 武力をもって対処すべきこと、 を主張しました。 これにより日本と清国との間は 次第に緊張が高

  • グローバリゼーションの時代

    冷戦終焉後のこのような周辺諸国の 日本に対する敵対的な行動を眺めて、 日本は国家概念覚醒の時代に入るかと思いきや、 事態は逆の方向に進んでいます。 「ポストモダニズム」という蒙昧なる思想が 日本の知

  • 完全な平和

    完全な平和を維持できた理由の一部は偶然ですが、 理由の大半は日本が 日米同盟の一方的な受益者であったことです。 六〇年余の平和の中で 日本は再び国家概念を希薄化させました。 皮肉なことに、冷戦終焉

  • 国家の概念

    日本は巨大なユーラシア大陸の東端に位置し、 波高い対馬海流に守られ、 古来、中華帝国、ロシア帝国の 侵略を受けることの少ない「海洋の共同体」でした。 日本において国家概念が希薄なのは、 孤立した島国

  • 警察制度1

    新警察制度創設の中心人物の川路利良は、 明治五年九月、欧州に旅行して 各国の警察制度を調査し、 六年九月、帰国して意見書を政府にだしたが、 その冒頭にいわく 「夫レ警察ハ国家平常ノ治療ナリ、 人ノ養生

  • 警察制度

    警察制度は、明治五年、 司法省に警保寮がもうけられ、 中央集権の全国画一の警察制度の 第一歩がふみだされていましたが、 当時はなお司法警察が主でした。 その警保寮が新設の内務省に移管されるとともに、

  • 内務省と行政管理

    大久保は新設の内務省の充実を急ぎました。 明治七年(一八七四)一月十日公布した職制によれば、 「内務省ハ国内ノ安寧、人民保障ノ事務ヲ管理スル所」とし、 課を勧業寮・警保寮(以上一等寮) ・戸籍寮・駅

  • 日清戦争概略

    国内では、それまでしばしば 対立・抗争を続けていた政府と政党が 一致協力の態勢をとり、 議会では巨額の軍事予算も 満場一致で可決されるなど、 清国との戦争を遂行するため 挙国一致の動きが進められました

  • 東学の乱

    1894(明治27)年5月、 朝鮮で民族主義的な東学(とうがく)を中心に、 減税と排日を要求する 大規模な農民の反抗がおこりました (甲午(こうご)農民戦争、東学の乱)。 朝鮮政府は鎮圧のために清国に派兵を要

  • 天津条約

    1876年、 日本は日朝修好条規により 朝鮮を開国させました。 以来、朝鮮国内では、 親日派が台頭していった。 しかし、1882年、 日本への接近を進める閔氏一族に対し、 大院君を支持する軍隊が反乱を起こ

  • 日清修好条規

    江戸時代末期に日本人は アジアにたいしてどのような考えをもち、 そして明治政府は当初 どのような対外政策をもっていたのでしょうか。 西洋の東洋進出にたいして、 支那と日本がおなじ利害でむすばれており、 ア

  • 日清両国の対立

    明治政府は、 朝鮮が清国から独立して 近代化すること狙っていた。 この背景には、ロシアが南下を続け、 朝鮮国境まで領土を広げていた。 もし半島が、ロシアに領有されるか、 列強に分割されるかすれば、

  • 国際関係

    フランスがインドシナに入り、 その南部三省を取ったのは、 一八六二年(文久二年)のことで、 その後、次第にその勢力は延び、 一八八四年(明治十七年)安南全域を フランスの保護国としましたが、 そのた

  • 廃藩置県

    明治四年(一八七一)七月十四日、 天皇は在京の旧藩主たちを招集し、 「藩」を廃して「県」とすると宣言した。 旧藩主たちは、この二年前、 いちおう「版籍奉還」、 つまり徳川家からもらった領地を 天皇に「返す

  • 徴兵告諭

    新政府は国民の全員に、 徴兵の義務を課しました。 明治五年十一月の「徴兵告諭」は、 「全国四民男子二十歳ニ至ル者ハ 尽グ兵籍二編入」すると宣言しました。 国民とくに農民は動揺した。 この義務は与えられた

  • 地政学で見た日本

    我が国は、アジア大陸の東に沿うて、 南北に長く連なる島々より成っています。 しかるにアジア大陸は、 日本列島をその中央において 衝くかのような形をもって、 一つの半島を突出しています。 朝鮮半島が

  • 朝鮮半島

    朝鮮半島をめぐる 明治六年の政府の重臣の分裂は、 各方面に大きな影響を与えましたが、 最も大きな動揺を生じ、 損害を受けたものは、 陸軍です。 当時の陸軍、大将は西郷隆盛ひとりでした。 その西郷が

  • 維新の変革

    欧米諸列強の干渉を心配したのは、 当時もっともよく西洋を知っていた 福沢論吉(一八三四~一九〇一)でした。 彼は洋学の知識をもったため 幕臣にとりたてられていたが、 彼はこの心配のあまり、 英明のほ

  • 藩国家

    寛政年間に 「尊王」をとなえて全日本をへめぐつた 高山彦九郎(一七四七-九三)は 「奇人」と呼ばれ、あげくのはては、 腹を切って死なねばならなかった。 浪人がじかに尊王を説いたりしたら、 分をこえた

  • 列国の帝国主義

    一九世紀末に近づくと、 西欧の列強の海外進出と植民地の形成が さかんになってきます。 まず、一八七五年ごろからイギリスが あきらかに海外膨張政策をとっています。 イギリスは、 一八七四年に新しい内

  • 福島事件3

    福島事件は、 1882年に福島県で発生した 自由民権運動の一環です。 県令三島通庸が 強制的な道路建設を進めたことに対し、 自由党員の河野広中らが反発しました。 これにより、 自由党員が逮捕されるなど

  • 福島事件2

    薩摩隼人を自任し、 「土木県令」「鬼県令」といわれた 三島通庸が福島県に着任したのは、 まだ雪深い二月のことです。 かれは、 「火つけ強盗と自由党とは 管内に一匹もおかぬ」と豪語してきただけに、 初

  • 福島事件1

    このころ、伊藤に宛てた 山県の書簡の全体がその心情を伝えています。 福島事件に大弾圧を命じた かれの毅然たる姿勢には、 それこそ「国家の命脈に関する一大事」のため 一歩たりとも退かぬという 決意がよ

  • 陸海軍の大拡張

    馬場らにかわって自由新聞の主幹になった 古沢敢(この男は数年後に井上薫の秘書官になる)が、 改進党への敵意を煽りはじめました。 ここまでくれば自由・改進両党の提携という 最悪事態は避けられる。 あ

  • 内憂外患

    伊藤の渡欧の 留守政府をあずかる山県のもとには、 全国四十一府県会からぞくぞく 郡長公選を要求する建議がだされ、 改進党が「天下の豪商豪農を団結し、 以て政府に迫らんとする」形勢を示していることに、

  • 諸政党の勃興

    政府は自由・改進両党に対して 御用党の擁立を発し、 その結果同年三月には、 福地政一郎・丸山作楽・水野真次郎らが 帝政党を結成しました。 その背後には熊本の紫溟会、 土佐の谷干城・佐々木高行らもいま

  • 改進党

    この自由党に対して 一八八二(明治一五)年三月には、 先に下野した大隈重信を総理として、 その与党の河野敏鎌・矢野文堆.小野梓らと、 自由党系と相いれなかった 沼問守竺・藤田茂吉・犬養毅.尾崎行堆・

  • 自由党

    国会期成同盟の運動は、 やがて政党組織へとすすみます。 その機運は一八八〇(明治三)年末にきざし、 植木枝盛らの急進派の強い主張によって ともかく自由党の名称が内定して 盟約四力粂を議定した。 や

  • 板垣の外遊

    板垣は元気で東京にかえり、 伊藤・山県・井上馨らが用意していた 板垣を西欧につれだし、 かの地で伊藤や西園寺や森有礼らが よってたかってかれを軟化させよう、 という政府の極秘の計画にまんまとはまり、 政商三

  • 板垣退助

    しかし、その自由民権運動も、 政府の徹底的な弾圧にあって、 一八八二年四月六日、 板垣は岐阜の演説会で刺客に刺されました。 このとき、 後藤象二郎は手早く旅じたくをして 自由党本部にあらわれ、 「板

  • 明治憲法

    日清戦争にさきだつ明治二二年(一八八九年)に、 明治政府が策定した帝国憲法が発布されましたが、 これこそ帝国主義への道を はっきりさししめすものでした。 この憲法では、天皇の大権として、 法律の裁可

  • アジアの旗手

    諭吉は同年 「日章の国旗をもって東洋の全面をおおうて、 その旗風は遠く西洋諸国にまでも ふきおよぼすがごときは、 また愉快ならずや」と書いています。 すなわち、アジアの旗手として 西洋の全面的な侵略

  • 明治の民主主義

    はやくも明治一〇年代に、 民主主義(当時は民権思想といわれていました) は弾圧され、 議会をひらくことも延期されてしまいます。 それと同時に、 日本は朝鮮や支那などを 積極的に開明しなければならない

  • 身分制度の廃止

    先ずは士農工商という四つの階級に わかれていた身分制度を廃止しました。 この時代、 よく「一君万民」とか「四民平等」 ということばがつかわれました。 ひとりの君、 つまり天皇の下に すべての国民が

  • 明治維新

    徳川将軍は迷ったあげく、 翌一八五四年にアメリカの要求を受け入れました。 諸藩の愛国者たちは 外国の要求に屈した日本政府の弱腰を 許すべからざることとみなしました。 激しい反対の動きがおこり、 多

  • 西欧の動向

    支那が西欧の圧力に抵抗できなかったのを 見ていた日本人は、これを教訓としまし。 一六三九年以来 厳しい鎖国政策を行ってきた日本ですが、 いまや開国をせまる西欧の海軍強国の意志に逆らって、 その政策を

  • 維新の原動力

    明治推新の重要性から考えると、 西洋の学者がこれにあまり 注意を払っていなかったのは驚くばかりです。 最近、欧米の著者も 日本の社会学者のあとを追って、 維新の「原動力」やその重要性に 関心を寄せる

  • 政治的自覚

    明治政府は出発において、 民主主義の高い理想をかかげており、 しかも法律によって あるていど保障されていたのです。 だからこそ「明治維新」は 偉大な変革だったのです。 しかし、 どんなに政治思想が

  • 鹿持雅澄

    維新の時期に あれほど有用なスローガンとなった 「復古」の思潮は、 土佐にもすでに十分現われていました。 鹿持雅澄(一七九一-一八五七年) などをはじめとして私塾の教師たちは、 さきに本居宜長が唱道

  • 西洋の学問

    彼らは革新者というよりも、 むしろ仲間の考えについていく方でした。 文字は読めますが、 決してインテリではありません。 その見解には昔流儀のところがあったが、 反啓蒙主義ではなかったのです。 当

  • 青年武士

    以上の一般的叙述を具体化するために、 目を全国的な情景から土佐地方に転じ、 坂本龍馬や中岡慎太郎が知っていた 当時の社会経済事情を見ることにします。 土佐でも他の藩と同様、深刻な経済問題から、 藩政

  • 西欧人の到来

    それは、 すでに支那におけるイギリスのやり方に 先例の現われている現象です。 それはまた、 オランダ人が長崎の貿易所から かねて通報していた問題であり、 彼らは迫りつつある事態に まじめな警告を発し

  • 並はずれた問題

    福沢の場合といえども、 その有名な自伝は 古い昔の記憶をつづったもので、 彼が青年時代の反抗を 誇張して書いたのでしょう。 福沢の場合には、個人的にも、 その成長期をおさえつけていた階級、 身分制度

  • 窮理

    学者の知的探求心は 決して破壊的になどなるもの ではありませんでした。 学者たちは藩や幕府の指令に 従順に従っていましたし、 思想的にも当時は彼らが自分で儒学の 「事物探求」のごく普通の応用 と考え

  • 知的探求心

    個々の学者は西洋の事物を研究していても、 その根は伝統的な儒教思想や 封建的な価値判断に しっかり立脚しているのが普通で、 その洋学に志した動機も、 反乱と挫折の鬱積した感情のはけ口を求める などといったも

  • 西欧思想の後援者

    どんな後援者といえども、 幕府以上に大きな利益を 引き出せるものはなかったし、 他地域の学者を惹きつけ 報酬を与える能力の点でも、 幕府の右に出るものはありませんでした。 大阪の緒方洪庵塾 (福沢諭

  • 維新の志士

    一八五三年の第一回ペリー来航から、 一八五八年のハリスとの通商条約交渉、 一八六七年の徳川軍事政府の倒壊までの 知的なまた政治的な激動が 明治維新を醸成したのです。 維新は日本を民族的な統一国家に導き、

  • 日清修好条規

    この条約は、日清両国が おたがいに治外法権制度をみとめ、 たがいに同一の関税をもうけようという 対等なものでした。 日清両国はたがいにたすけあい、 なかよくすべきだと明示してあり、 アジアは連帯して

  • 近代西欧批判

    佐久間象山は、安政五年(一八五八)の四月、 日米通商条約の折衝が大詰に達したときに、 罰せられて幽閉中の身であるにもかかわら ずどうにかして自分の意見を 幕府にとどかせようと努力しました。 その意見の要旨

  • 佐久間象山

    佐久間象山(1811年〜1864年)は 信州松代藩の兵学者・洋学者・思想家で、 勝海舟や吉田松陰など 多くの志士に影響を与えました。 東アジアの文化世界の東端にあった我が日本では、 明治維新後の「明治改革」

  • 横井小楠

    肥後の学者横井小楠(一八〇九-一八六九)は、 百五十石どりの肥後藩士の二男坊です。 名は時存、通称を平四郎といいました。 秀才の平四郎青年は、 現実の政治と無関係な官学にあきたらず、 当然、知行合

  • 明治維新

    江戸時代末期に日本人は アジアにたいしてどのような考えをもち、 そして明治政府は当初どのような 対外政策をもっていたのでしょう。 幕末にすでに アジア侵略をとなえていた人もいましたが、 西洋の東洋進

  • アジアの反応

    アジア人の抵抗は、 太平天国とセポイの反乱だけにかぎりません。 たとえば、ベトナムへ侵略したフランスは、 一八五八年ベトナム人のすさまじい抵抗にあって、 一時全滅しかけたほどです。 清がイギリスに

  • セポイの反乱2

    反乱は一八五七年五月 北インドのメーラト市におこりましたが、 ついに北インド全域と中央インドをおおう 大規模なものとなり、 二年あまりにわたって、 イギリスをあわてさせました。 王族も、地方の有力者

  • セポイの反乱1

    太平大国のたたかいと ほとんど同時におきた、 インドのセポイの反乱についてのべます。 セポイの反乱は一八五七年に北インドにおきた、 イギリスへの反抗のたたかいでしたが、 支那の太平天国のように 統一

  • 太平天国の意義

    太平天国は革命運動として 歴史的に大きな意義をもっています。 第一は、異民族・清朝の独裁政権を 打倒すべきだという 情熱を漢民族に点火したことです。 第二に、太平軍の鎮圧に 列強が協力したことからもわかる

  • 太平天国2

    洪秀全は、一八四〇年から、 民衆を啓発して新しい社会を築くための 上帝会を組織していましたが、 一八五〇年ヒ月、各地から上帝会員を結集させ、 ただちに多くの農村で 革命運動を展開しはじめました。 上

  • 太平天国1

    一八四〇年から四二年にかけてのアヘン戦争で、 支那はイギリスに惨敗し、 ますます大壷のアヘンがはいるようになり、 支那人を堕落させました。 そのうえ、ぼう大な戦費と イギリスへの賠償金の負担が、 ま

  • 洪秀全

    太平天国のたたかいをリードした洪秀全は、 長年儒教を勉強していましたが、 キリスト教に接してのち、 エホバの神の前にすべての人が 平等でなければならないととなえだしました。 「人はみな兄弟であり、

  • 反抗するアジア

    一八五〇年代におきた 支那の太平天国のたたかいと、 インドのセポイの乱、 ならびに一八六八年の日本の明治維新の三つは、 アジア近代史をきりひらいた 三大民族解放闘争だといわれています。 明治維新につ

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