封建的な雰囲気のなかで、 新しい西欧の科学が成熟しました。 それは、特権と腐敗が 広くはびこっていたにもかかわらず けっして不利な雰囲気ではありませんでした。 西欧の プロテスタンティズム(新教運
「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。
自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。 これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。 充実して生きる道を探しているのだ。 それが、何にもまして一番重要なことなのだ。 それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。
封建的な雰囲気のなかで、 新しい西欧の科学が成熟しました。 それは、特権と腐敗が 広くはびこっていたにもかかわらず けっして不利な雰囲気ではありませんでした。 西欧の プロテスタンティズム(新教運
近代産業は 封建的条件から興こることはできませんでしたし、 ルネサンスの大公たちの大権から興こることも できませんでした。 大公たちはふんだんに浪費し、 常に金に不自由し、 また常に人から金をだまし
スタートヴァントは 開発費用と採算性の吟味を十分考慮に入れ、 資本調達の方法についても はっきりした計画をもっていました。 しかし彼は失敗しました。 技術上の無能のためではありません。 彼は今日
スタートヴァントは、 新産業時代の夜明け前に 発明の技術面と経済面との問題について、 多くの点で貴重な発言を書き残しました。 彼は次のように述べています 「ユーレテイカ――発明の術、 新しいものを発見
発明家の一人に コルネリウス・ドレベル(一五七二-一六三四年)がおり、 潜水船を作ってテムズ河で人にみせましたが、 もっと儲かる事業として緋色染料を輸入しました。 オランダ人で後世に名を残さなかった
産業革命の需要が加えた圧力が、 新奇なものに対する態度を変えました。 ひとたび利潤というものが公然と認められ、 新奇な方法が 富を約束することができるようになると、 人は新奇なものをさけるより むし
一方、西欧ではルネサンスから 科学の応用の実用の時代が始まりました。 科学の確実な応用の場として 航海者が要求したのが天文学と航海術です。 これは古代から、 占星術と暦の作製に奉仕して 活動してき
一六世紀末から一七世紀始めの西欧の 産業の高揚は最初の産業革命 と呼ばれてきましたが、 そこに含まれた技術上の新機軸の点でも 科学の利用の点でも、 それは一八世紀の大産業革命と 同列に並べることはでき
儒学を見れば江戸文明が、 健全な日本文明の特色を 具備していたのは、明らかです。 当時の知識人である武士というものを 形づくつてゆく原理となった 日本独自の発展を見た儒学は、 支那の儒教をもとに つ
一七七〇年代前半は、錦絵が流行し、 日本文化の百花斉放がくりひろげられます。 杉田玄白らが 『解体新書』を翻訳・出版して蘭学をおこし、 三浦梅園がヘーゲルにさきがけて ヘーゲルの弁証哲学と同等の哲学
江戸の人口は、 一六三四年(寛永一一年)に 約一四万八〇〇〇と記されていますが、 一八世紀の.一七二一年(享保六年)には 五〇万を突破し、大阪をしのいでいます。 ただし当時の人口調査では 少年・幼児
すでに一七六〇年代末から錦絵が流行し、 出版界が活気づいていましたが、 一七七一年に本居宣長の 『直毘霊』があらわされて、 国学が一つの頂点に達し、 一七七四年に杉田玄白らが 『解体新書』の翻訳をおえ
このような江戸を中心とする 都市の発展は、 じつは一八世紀の日本の商工業が、 いちじるしく発達していたことを 意味しています。 その一つの例ですが、 一七五○年代には、 すでに日本には初期資本主義の
衣類や茶や紙の生産が活発になり、 これらの消費がさかんになります。 商品流通が発達しはじめたのです。 そこで、 商品生産と流通をつかさどる 新興商人があらわれ、 日本の社会は、それ以前の 単純な封
江戸時代の平和な環境のなかに、 日本の農業は いちじるしく発展をしていました。 まず、 一七世紀(江戸時代の最初の百年間)に 米の収穫高が約一倍半も増加しています。 豊臣時代の文禄元年(一五九二年
日本では、江戸時代にはいってから 表面的には内戦がなくなり、 平和な状態がつづきました。 そのため一七世紀に農業はかなり発展し、 米・綿・茶などの増産にささえられて、 城下町の文化はしだいに発達しま
ナポレオンは 一八一一年、ロシアに侵入し敗退します。 この敗戦を聞いた西欧の国ぐには、 フランス(ナポレオン)に対して 反乱をおこしました。 そしてナポレオンは戦いにやぶれ、 地中海のエルバ島へな
ナポレオンは、一七六九年に 地中海のコシカ島で生まれ フランスの陸軍上官学校をでて、 フランス革命のときは中尉でした。 革命後のフランスは、 外国軍の侵入により 自由・平等の革命理念が つぶされそう
フランス革命は一七八九年におこりました。 革命のきっかけは、 フランス王室のぜいたくから 国家財政が危機にひんしたところへ、 一七八八年、凶作に見まわれ、 その影響をうけた国民が、 不満を爆発させた
ボルテールにつづいて、 フランスの最大の知識人はルソーです。 ルソーは一七五五年に 「人間不平等起源論」を書き、 文明の発達にともない 人間の自由がうばわれて 不平等が生みだされたと主張し、 文明の
イギリスで市民革命が成功してのちも、 フランスでは国王の力がつよく、 国王による独裁政治がつづいていました。 しかし、 一八世紀に多くのフランスの知識人が、 独裁政治にたいしてたたかい、 一八世紀末
アメリカが独立したとき、 その国土はまだ東海岸に近い 東部十三州のみでしたが、 一九世紀のうちに、 アメリカ人は西へ西へと進撃をつづけ、 一八五○年ごろに、 ついに太平洋岸まで到達しました。 その拡
アメリカの独立宣言文の最初に、 つぎのように記されています。 「われわれは自明の原理として、 すべての人は平等につくられ、 造物主によって、 一定のうばいがたい諸権利を賦与され、 そのなかに生命、自
一八世紀の西欧は、 一七世紀のイギリスにおこった市民革命が 各国にひろまっていった時期です。 注目されるのは、 アメリカの独立(1770年代)と フランス革命(一八世紀末)です。 アメリカには一七世紀
不平等条約説は、 これまで述べてきた日米和親条約と その四年後に締結された 日米修好通商条約とを あわせて論じられてきました。 なお最恵国待遇(条項)がいきていたため、 そのほかの列強との条約も 上
大東亜戦争の戦後の時期に、 日本の戦争責任の問題もからみ、 日本とその他アジア諸国とのあいだに、 近代の「共通性」をもとめる力がはたらいて、 再度この条約の不平等性が強調されました。 その場合、アジ
日米和親条約の調印は 一八五四年三月三一日でしたが、 「正文」を何語にするか の話し合いがなかったため、 最後の段階で応接掛は 外国語文への署名を拒否し、 ペリー側をあわてさせました。 日本文(応接
ペリーの贈り物にたいして幕府は、 米をはじめ反物や漆器類を贈呈し、 さらにべリーからの要望により 作物の種子や苗も贈りました。 贈り物の点では、アメリカ側が、 それを条約交渉にうまく利用しました。
最初に宴会を催したのは幕府側ですが、 贈り物の贈与で先手をとったのは アメリカ側でした。 一八五四年三月八日の 応接掛が催した宴会で、 ペリー一行は条約草案を提示しました。 その一週間後に幕府の条
アメリカ草案にたいして、 幕府は一週間後に アメリカに草案をわたしましたが、 それはまるで木で鼻をくくったような そっけない内容でした。 すべての交渉を長崎でやる、 という意味の旧来の幕府の態度を
アメリカ草案は、 望厦条約を基礎に不必要な部分を削除する という手順と論理で構成されていました。 草案と望厦条約漢文版とを 同時に応接掛にわたした理由も そこにありました。 応接掛はその削除にとも
条約草案はまず アメリカ側からだされ(使用言語は漢文)、 同時に望厦条約の漢文版が添付されていました。 望厦条約とは 一八四四年に清米間で締結された条約であり、 二年前の清英間の南京条約にたいする
日米和親条約の交渉時の交渉陣をくらべると、 ペリー側はペリーを筆頭に 副官アダムス、中国語通訳ウィリアムズ、 オランダ語通訳ポートマンで、 幕府側応接掛では筆頭の 林大学頭ほか、井戸対馬守(町奉行)、
阿部は大型船建造の解禁を、 条約交渉の開始以前に、 老中みずからの手によって諮問のうえ、 決定してしまいます。 ペリー艦隊の第一回来航の約三カ月後、 諮問から三週間ほどの短時間、 一〇月一七日のこと
阿部は大型船建造の解禁を、 条約交渉の開始以前に、 老中みずからの手によって諮問のうえ、 決定してしまった。 ペリー艦隊の第一回来航の約三カ月後、 諮問から三週間ほどの短時間、 一〇月一七日のことで
一九世紀中ごろの段階では、 ①キリシタン禁制、 ②日本人の渡航禁止、 ③そのための外洋船(大型船)の 所有・建造の禁止などが重要であり、 鎖国を実施した一七世紀の ポルトガル船・スペイン船の来航禁止とい
交渉に使用する言語は 幕府側だけの問題ではなく、 双方の問題です。 ペリー側は各種の理由から 日本語通訳をつれてくることができず、 口頭ではオランダ語(担当は若きポートマン)、 文書では漢文(宣教師
外交は幕府(将軍・老中)の仕事であり、 幕府の責任で条約が必要なら調印する、 そのどこかの段階で 御三家・有力大名などから必要な意見は聞くが、 責任をもつ外交主体は幕府であった。 三権分立の原則が承
海外情報の人手を積極的にやっており、 鎖国(日本人の海外渡航の禁止が重要な一要素) というかぎられた状況下で、 最善をつくして情報収集に努めていました。 具体的には、長崎にはいるオランダ船と清国船に
江戸湾に外国船が 来航したことは何度かあり、 そのなかにはアメリカ東インド艦隊の ビッドルの二隻(一八四六年)もありました。 しかし、黒煙をあげ、 潮の流れにかかわらず左右自在に動く 蒸気船が江戸湾
日本との条約締結を第一課題とした以上、 問題は交渉にあたる人物です。 条約の草案作成や通訳などを担える 人物をつれていかなければならなりませんが、 支那で調達する予定でした。 香港到着後、ただちに
ペリーが支那に到着する直前、 太平天国軍が南京を占拠して首都とし、 さらに開港場の上海をおびやかしており、 上海居留のアメリカ人を 保護する必要が生じました。 しかし居留民保護に時間をついやせば 日
巨大な蒸気船はアメリカ海軍の独占物です。 当時まだ「新興国」であったアメリカで 「超大国」に匹敵できる産業は、 急成長していた造船業で、 その造船業がアメリカ海軍の発注をうけ、 国家の威信をかけて、
国際政治は、 このような諸体制の総体をさします。 そのなかで、 列強のうちの「超大国」イギリスは 日本に最初の条約をもたらさず、 アメリカが一番乗りをはたします。 では、ペリーの得た権限、 派遣の
「発砲厳禁」を至上命令としてうけた以上、 戦争も辞さないという態度は、 脅し以外にはとれません。 それにアメリカから日本へは 太平洋を横断してきたのではなく、 世界の四分の三という遠路をとおってきた
ペリー派遣のさいの大統領命令のなかで 最大の内容のものは、「発砲厳禁」です。 海軍ですから、発砲をうけた場合の 自衛・脱出のための発砲は 当然ながら許されていますが、 自分のほうから威嚇のためであれ
これら四つの体制上の区別が 明白になってくるのは、 一九世紀の中ごろ、 ちょうどペリーとのあいだで 日米和親条約が成立した時期です。 日本は、一八三九年からの 前哨戦をふくむアヘン戟争の情報を 刻々
まず①列強とはなにか―― 列強(powers)とは、自国の船により 世界のどこへでも到達できる力をもって、 それを保護するだけの海軍力を有する 「海洋国」です。 世界では、「超大国」イギリス、 日本と長く親
早急に武備の充実を計るには、 一時的にも外国との交易を行って、 近代的な艦船や大砲を 入手する必要があります。 しかし、 それが鎖国政策によって禁止されています。 自分で自分の手を縛りあげて 身動
正弘はその頃、鎖国政策の矛盾に 一番頭を悩ませていました。 鎖国政策は、日本の泰平無事と 幕府自身の安泰を願う政策です。 そのため、幕府は 努めて諸藩の勢力を弱くすることに 意を用いてきました。
論議を続けているうちに、 海防掛に注目すべき建白書が仙台藩の 儒者大槻磐渓(ばんけい)から寄せられました。 磐渓は蘭学者だった父 玄澤(げんたく)の影響を受け、 儒学者にもかかわらず、 世界の情勢に明る
正弘は、 老中評議と海防掛会議終了後、 海防参与の徳川斉昭に対し、 ロシア国書受取りに関する 公文書翰を認(したた)めさせました。 それには、五老中の連署があり、 さすがの斉昭も反対はできません。
ロシアのネッセルローデ首相兼外相の 親書は江戸城に未着だが、 八月上旬から海防掛は対ロシア交渉の 論議をはじめていました。 親書の内容は、 長崎奉行の書状で明らかです。 議論を重ねていくうちに、
老中評議の後、 正弘は海防掛会議を召集しました。 そこで正弘は、 在府長崎奉行の水野筑後守に命じ、 ロシア艦隊の長崎来訪の儀と ロシア艦隊司令長官プチャーチン提督の 丁重な交渉態度を紹介させました。
老中首座伊勢守阿部正弘は登城すると、 すぐに海防掛の川路聖謹(としあきら)を招き、 「さきほど、長崎奉行の水野殿が この書状を届けにこられた。 まずお読みいただきたい」 「オロシャの提督はペルリとは
豊後守は、直ちに 在府長崎奉行の水野筑後守と 老中首座阿部伊勢守に書状を認めました。 ロシア艦隊司令長官プチャーチン提督の 丁重な申入れに免じ、 ロシア首相の親書を受理してほしいと懇願しました。
翌八月十日(嘉永六年七月十八日)朝、 プチャーチンは、 全艦隊に警戒態勢に入るよう命令し、 伊王島沖を抜錨しました。 伊王島の西北端の真鼻岬沖を大きく右に迂回して、 昼過ぎに長崎湾口に浮かぶ高鉾島の
「それは相手の出方を見た上で決めるつもりだ。 しかし、レザーノフのように、 なんの成果もあげずに 長崎を去ることは絶対にしない。 アメリカ艦隊は かなり強硬姿勢で対日交渉を行うようだ。 ロシアは強硬姿
八月九日の夜、 プチャーチン提督は、 パルラダ号艦長ウンコフスキー少佐と、 水いらずで夕食を共にし、 語り合いました。 「艦長、十カ月に及ぶ大航海、 ほんとうにご苦労だった。 無事に長崎に来られたの
ロシア艦隊が 父島からそのまま直行して 浦賀に向かっていたら、 幕府が江戸城で諸大名に 意見を聴取していた六月末頃、 ロシアの黒船四隻が 江戸湾に出現したことになります。 しかし、プチャーチン提督の
結局、ロシア艦隊が後になって、 パルラダ号はインド洋の玄関口ケープタウンに 一八五三年の三月十日に入港しました。 先のカラス(黒船)ミシシッピ号の入港は 一月二十四日であり、すでに一ヶ月半の遅れです
メンシコフは、プチャーチンに対し、 いかなる交渉も平和的に行い、 諸外国との紛争は極力避けるよう命じました。 当時のロシアは、トルコ政策をめぐって、 英仏両国と外交関係が悪化しており、 アジアでロシ
ロシア政府は、 アメリカの後塵を拝することを恐れ、 四月に極東政策特別委員会を結成し、 五月にプチャーチン海軍中将を 通日全権大使に任命しました。 アメリカに対抗できる遠征艦隊を編成、 日本との三度
プチャーチンの艦隊を派遣する案が 実行に移されていれば、 開国を促すロシア艦隊が ペリー艦隊より十年早く、 日本に来航していたことになります。 辛い、この案は日の目を見ません。 ウロンチエンコ蔵相
ロシア政府は、 レザーノフ派遣で なんらの成果も得られなかったため、 日本への関心が急速に冷えてしまい、 日本間題には不干渉、無関心の 基本姿勢をとっていました。 ロシア政府が 三度対日交渉意欲を高
当時のロシア領アメリカ会社は、 カムチャッカ、アリューシャン列島、 アラスカを支配した半独立国家でした。 ロシア領アメリカ会社 独自の判断で行動していました。 この会社は、毛皮の採取、販売が主な事
文化八年には、 ロシア軍艦ディアナ号艦長の ゴロウニン少佐以下七名が、 国後島で松前藩の役人に逮捕され、 ゴロウニンは箱館に連行され、 拘禁されました。 文化九年には、 ゴロウニンの部下の ディアナ
当時択捉島には、 幕府が松前藩と話し合って 箱館奉行所の出張所を置き、 松前藩、津軽藩、南部藩の 警備兵百五十名を配していました。 しかし、 侵入してきたロシア海兵は人数も多く、 海からの艦砲射撃も
レザーノフの話を 再三にわたって聞かされていた 若い海軍士官のフヴォストフ大尉は、 次第に日本人に対して 敵意をいだくようになりました。 彼は、一八〇六年(文化三年)秋、 フリゲート艦ユノナ号で 突
長崎からカムチャッカへの 帰航時のレザーノフは、 将来に対し全く希望を失っていました。 「特使閣下、それでも少し希望があります。 それは、長崎の下級役人の中に、 なんとか両国の国交成立を望む声が か
幕府は、 目付の遠山金四郎景晋(かげみち)を 長崎に派遣し、 長崎奉行所でレザーノフと会見させました。 レザーノフが長崎港外に到着してから、 実に六カ月後のことです。 幕府の姿勢は強硬で レザーノフ
粘り強いのがロシア人の身上です。 レザーノフは、 ロシア皇帝アレクサンドル一世の 将軍宛親書の受領と 交易のための開港を 幕府に要求し続けました。 頑固な鎖国論者の成瀬も、 ついにレザーノフの熱心
ロシアの第二回遣日使節 レザーノフはナジュージダ号に乗って、 一八〇四年(文化元年)に 長崎港外に到着しました。 レザーノフは、日本人漂流民 津太夫一行を護送してきましたし、 ラクスマンが取得した長
大黒屋光太夫は、 ロシア滞在中にロシア語が堪能になり、 日本文化をロシアに紹介する 役割を演じました。 当時のロシアでは かなり有名な日本人で、 エカテリナ二世女帝に 謁見を許されたこともあったほど
ロシアの対日交易交渉の歴史は、 新興国アメリカよりかなり古いものです。 アメリカ建国から十六年ほど経った 一七九二年(寛政四年)に、 第一回の遣日使節ラクスマンを乗せた エカテリナ号は北海道根室港に
勤勉と倹約の精神に、 理論的な根拠を与え、 分かりやすく町人たちに説いたのが 石田梅岩(1685~1744)です。 梅岩は、丹波(京都府と兵庫県の一部) の山村に生まれ、 人間の理想の生き方を求めて、 さま
日本人は勤勉だとされていますが、 人々が勤勉をよいことだと考えるようになるのは、 江戸時代になってからです。 江戸時代は、戦国時代のように、 耕した田畑が戦乱によって踏み荒らされたり、 戦いに巻き込
吉宗は、禁止していた洋書も一部解禁したので、 西洋を学ぶ『蘭学』が流行しました。 オランダの医者のシーボルトは、 『鳴滝塾』を開いて、 多くの蘭学者を育てました。 杉田玄白や前野良沢らは、 オラン
八代目将軍になった 吉宗(1684年~1751年)は、 新井白石を退けて、 自分で政治を行うようになりました。 その頃の幕府の財政は大赤字ですが なかなかの善政を行いました。 この赤字をなんとかしようと吉宗
見盤は、江戸時代 最も一般的な測量道具です。 紅毛流の測量で使われる平板(見盤)は、 定規、コンパスなどを用いて、 相似の図形を描き、 間接的に測量を行います。 見盤上に目標物との相似 三角形を作
江戸時代の測量に使用する製図道具は、 流派や時代によって 多少の変化がありますが、 基本的には現地で記録する方位と 距離を縮図にするための道具が 用いられています。 方位は、「分度矩 (鎌形の分度器
量地図説は 和算の関流長谷川門下である 常陸笠間藩士甲斐駒蔵広永が著した 測量術書です。 本書が出版された当時は、 ペリー来航直前で、 既に多くの西洋測量器具が 輸入されていました。 これらの西洋
量程車は、地上測量の器具です。 この道具を置いて曳いて歩くと、 下についている車が回り、 距離を表示する数字の ついている歯車が回り、 距離を表示できるようになっています。 動輪と連動する歯車機構
伊能忠敬の全国測量は 緯度一度の距離測定が目的で、 そのためには日本各地での 正確な天体観測が必要でした。 象限儀はそのための観測器具の一つで、 師である間重富が 「霊台儀象志」などを参考に工夫して
西洋科学の影響を受けて天文学が発展し、 幕府天文方が天文台を設置して 天体観測を行い、改暦も行いました。 個人でも天体観測に取り組む人が現れ、 星図を元にした天球儀も制作されました。 また、 西洋
近世の庶民は計算道具として 「そろばん」を使っていましたが、 和算家はその他に 古代以来の計算道具である 「算木」を用いていました。 算木は木製または紙製の一種の計算棒で、 十進法に基づいて数を配置
江戸時代後期には、 簡単な和算の知識は庶民にも一般的となり、 いろいろな書物の中に 出てくるようになりました。 寺子屋の教科書であるとか、 日常の必要事項をまとめた百科事典などに、 そろばんの使い方
江戸時代を通じて10種類の 小判が発行されていますが、 いずれも純金ではなく、 金と銀が混ざった合金でした。 金品位の低い小判を 金らしく見せる技術として 「色揚げ」がおこなわれました。 江戸時代に
鉱業(こうぎょう、英語:mining)とは、 鉱物などの地下資源 (場合によっては地表にあるものを含む)を 鉱脈や鉱石から資源として取り出す産業です。 江戸時代は、 金・銀・銅が貨幣として通用していたので
西洋では、 地球儀と天球儀が対で利用され、 日本はこれらに中国伝来の渾天儀が加わって、 天文暦学関係者や 蘭癖大名らの所持品となっていました。 西洋から伝えられた地球儀や天球儀は、 和製としては、
万年時計(万年自鳴鐘)は、 江戸時代の発明家、田中久重によって 製作された機械式の置時計で、 万年時計の名で広く知られています。 1000点を超える部品が田中による 手作りから作られています。 七宝、
江戸時代には長く平和が続き、 庶民も寺子屋などで 「読み、書き、そろばん」を 学ぶことのできる社会が生まれました。 和算も学問や商業などの実用の技として、 学者や一部の武士だけでなく、 庶民にまで広
グラスゴー大学は ニューコメン式の蒸気機関の 模型を所有していましたが、 当時ロンドンに修理に出さていました。 ワットは大学にかけあい 蒸気機関をグラスゴーに取り寄せて、 その修理を任されました。
植民地アメリカが 独立の戦いを起こしていたころ、 本国イギリスでは 産業革命とよばれる産業・経済・社会の 大変革が進んでいました。 その口火をきったのは、 木綿工業における機械の発明、利用です。
経済活動の自由や 土地などの財産を手にした人々は、 革命の行き過ぎを恐れ、 戦争の勝勝利と政治の安定を望みました。 このとき登場したのが軍人ナポレオンです。 イタリア・エジプト遠征の後 1799年、銀行
1789年、絶対王政は 行きづまった財政の打開のため、 僧侶・貴族・平民からなる 三部会を召集しました。 ここからフランス革命は始まります。 7月14日、 パリ民衆のバスチーユ攻撃義挙は 草命の潮を一気
清教徒の移住で始まった アメリカのイギリス領植民地は、 18世紀になると本国政府からの商工業統制や、 重い課税に強い不満が高まりました。 本国がこれを圧迫したことから 1775年独立戦争に発展し、 翌年人
市民革命とは、一言でいえば、 絶対王政を打倒した革命のです。 国家の権力をにぎるものが、基本的には、 封建的な君主や貴族階級から 市民階級にうつった、政治的な変革です。 市民革命では、その名のとお
絶対君主として 議会を無視し専政を行なう 国教徒の王に対する議会と清教徒の反乱が まず専制政治をたおしました(1649年)。 ここに成立した共和国はなが続きせず、 王政復古となり専制政治が復活しました
世界の各地に西欧人が進出するようになった 15世紀末から16世紀以後の西欧は、 政治・経済・社会・軍事・文化などにも 新しい動きが現われました。 とくに、大西洋に面していた国々ほど、 商工業や海外貿易が
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封建的な雰囲気のなかで、 新しい西欧の科学が成熟しました。 それは、特権と腐敗が 広くはびこっていたにもかかわらず けっして不利な雰囲気ではありませんでした。 西欧の プロテスタンティズム(新教運
近代産業は 封建的条件から興こることはできませんでしたし、 ルネサンスの大公たちの大権から興こることも できませんでした。 大公たちはふんだんに浪費し、 常に金に不自由し、 また常に人から金をだまし
スタートヴァントは 開発費用と採算性の吟味を十分考慮に入れ、 資本調達の方法についても はっきりした計画をもっていました。 しかし彼は失敗しました。 技術上の無能のためではありません。 彼は今日
スタートヴァントは、 新産業時代の夜明け前に 発明の技術面と経済面との問題について、 多くの点で貴重な発言を書き残しました。 彼は次のように述べています 「ユーレテイカ――発明の術、 新しいものを発見
発明家の一人に コルネリウス・ドレベル(一五七二-一六三四年)がおり、 潜水船を作ってテムズ河で人にみせましたが、 もっと儲かる事業として緋色染料を輸入しました。 オランダ人で後世に名を残さなかった
産業革命の需要が加えた圧力が、 新奇なものに対する態度を変えました。 ひとたび利潤というものが公然と認められ、 新奇な方法が 富を約束することができるようになると、 人は新奇なものをさけるより むし
一方、西欧ではルネサンスから 科学の応用の実用の時代が始まりました。 科学の確実な応用の場として 航海者が要求したのが天文学と航海術です。 これは古代から、 占星術と暦の作製に奉仕して 活動してき
一六世紀末から一七世紀始めの西欧の 産業の高揚は最初の産業革命 と呼ばれてきましたが、 そこに含まれた技術上の新機軸の点でも 科学の利用の点でも、 それは一八世紀の大産業革命と 同列に並べることはでき
儒学を見れば江戸文明が、 健全な日本文明の特色を 具備していたのは、明らかです。 当時の知識人である武士というものを 形づくつてゆく原理となった 日本独自の発展を見た儒学は、 支那の儒教をもとに つ
一七七〇年代前半は、錦絵が流行し、 日本文化の百花斉放がくりひろげられます。 杉田玄白らが 『解体新書』を翻訳・出版して蘭学をおこし、 三浦梅園がヘーゲルにさきがけて ヘーゲルの弁証哲学と同等の哲学
江戸の人口は、 一六三四年(寛永一一年)に 約一四万八〇〇〇と記されていますが、 一八世紀の.一七二一年(享保六年)には 五〇万を突破し、大阪をしのいでいます。 ただし当時の人口調査では 少年・幼児
すでに一七六〇年代末から錦絵が流行し、 出版界が活気づいていましたが、 一七七一年に本居宣長の 『直毘霊』があらわされて、 国学が一つの頂点に達し、 一七七四年に杉田玄白らが 『解体新書』の翻訳をおえ
このような江戸を中心とする 都市の発展は、 じつは一八世紀の日本の商工業が、 いちじるしく発達していたことを 意味しています。 その一つの例ですが、 一七五○年代には、 すでに日本には初期資本主義の
衣類や茶や紙の生産が活発になり、 これらの消費がさかんになります。 商品流通が発達しはじめたのです。 そこで、 商品生産と流通をつかさどる 新興商人があらわれ、 日本の社会は、それ以前の 単純な封
江戸時代の平和な環境のなかに、 日本の農業は いちじるしく発展をしていました。 まず、 一七世紀(江戸時代の最初の百年間)に 米の収穫高が約一倍半も増加しています。 豊臣時代の文禄元年(一五九二年
日本では、江戸時代にはいってから 表面的には内戦がなくなり、 平和な状態がつづきました。 そのため一七世紀に農業はかなり発展し、 米・綿・茶などの増産にささえられて、 城下町の文化はしだいに発達しま
ナポレオンは 一八一一年、ロシアに侵入し敗退します。 この敗戦を聞いた西欧の国ぐには、 フランス(ナポレオン)に対して 反乱をおこしました。 そしてナポレオンは戦いにやぶれ、 地中海のエルバ島へな
ナポレオンは、一七六九年に 地中海のコシカ島で生まれ フランスの陸軍上官学校をでて、 フランス革命のときは中尉でした。 革命後のフランスは、 外国軍の侵入により 自由・平等の革命理念が つぶされそう
フランス革命は一七八九年におこりました。 革命のきっかけは、 フランス王室のぜいたくから 国家財政が危機にひんしたところへ、 一七八八年、凶作に見まわれ、 その影響をうけた国民が、 不満を爆発させた
ボルテールにつづいて、 フランスの最大の知識人はルソーです。 ルソーは一七五五年に 「人間不平等起源論」を書き、 文明の発達にともない 人間の自由がうばわれて 不平等が生みだされたと主張し、 文明の
聖フランチェスコの 強烈な聖なるものの追求は、 彼を異端の際まで押しやります。 弟子たちのある者は、 教皇や教会の司教たちが、 (托鉢士たちが実行することを 原則としているように) 貧しい暮らしをし
行動の領域では、合成総合よりも、 多様さと矛盾の方がきわだっていました。 しかし、対立しあう傾向や思想は 互いにバランスをとりあい、 結果として人間の 衝動の範囲の広さが生かせました。 例えば、キ
「文化」において、 西洋の学者たちは自分たちが 古代ギリシャ・ローマを受け継いでいる と自負しているため、 「古代」と「近代」の問に「中世」を挟んで、 いかにも西洋「文化」が一貫して 継続しているよう
アクィナスには 批判者がないわけではなかった。 そのうちで最も影響力があったのは、 論理的証明の長い連鎖に不信を抱いて、 神秘的体験により得られる 神的なるものの確実性の方を好み、 世俗のものの知に
中世末期の日本の変化は、 社会の発展がその基礎にあり、 南蛮人の影響でおこったのではない。 その発展を一向宗と法華宗いう 二つの宗教がささえました。 親鸞のひらいた一向宗(真宗)は、 農民ばかりで
西欧における神学の領域では、 信仰と理性は、 聖トマス・アクィナス(一二七四年没)や アルベルトウス・マグヌス(一二八〇年没) のような神学者の力で、 決定的に和解させられました。 アクィナスの『神
西欧の中世文化が ようやく芽生える準備を始めたころ、 日本は後醍醐天皇によって、 天皇親政による専制国家という 近世の政治様式を目指しました。 しかし、 この建武の中興は容易に進まず 所領問題、恩賞
およそ一二〇〇年と一三〇〇年の間に、 中世西欧文化の上昇曲線の躍進は、 もっと複雑で困難ではありますが、 しかし大きな豊かさを持った構造へと 発展をとげました。 一方においては、キリスト教の信仰、
日本に仏教文化が花開いたころ イスラーム教が生まれ、 イスラーム勢力は ゲルマン民族の大移動により 秩序の崩れた西欧に侵入していきます。 これに対しフランク王国の カール・マルテルが勝利し フランス
西欧の中世では、キリスト教は、 社会生活と密接に関連しています。 教会は絶大な権力をもち、 社会生活もすべて キリスト教を中心にしてうごいています。 そのため、教会の腐敗は、 たちまち社会の堕落に
西欧では長年、世俗の権力 (ローマ市の貴族やローマ周辺の有力者)が ローマ法王を決定する習慣がありましたが、 これが堕落の源となっていました。 ローマ法王庁が 世俗の力によって支配されるなら、 ヨー
西欧での農業生産がすすむと、 社会も大きくかわりはじめました。 まず「農村」がいたるところにあらわれます。 さらに重要な点は、 この農村が生まれたことによって、 農村から都市へ発展していく 要因が
一〇世紀までの西欧では、 農業はひどくたちおくれて 牧畜が生産の主流でした。 それというのも、 西欧の土はしめり気が多く重いので、 たがやすのに困難をきわめたからです。 「一粒の種をまいて一粒の麦
社会における産業の発達の段階と、 科学の発展における様相の変化は、 かなりの程度に並行しています。 生産の発展のための技術的問題が 科学研究を推進するということもあるし、 科学と技術がともに社会の発
15世紀なかばごろから 現代にいたるまでの近代科学の発展は、 どのような様相を示しているかを見るためには, 近代科学の歴史を いくつかの時代に区分することが必要であり、 またその区分を可能にするような
西欧の回復がはじまってから 一二〇〇年ごろまでの二世紀以上の期間、 西欧は、アラビア、ビザンティンの 高度に発達した科学や数学、天文学を 食欲(どんよく)に吸収し、 同時に大胆で精力的な創造に力を注いだ
イスラームの時代が過ぎ去ったのち ロマネスクとよばれる 西欧のキリスト教文化が作られます。 これは十一世紀のことです。 イスラーム文明は、十字軍の頃、 非常に高い文化をもっています。 バグダッド
日本に仏教文化が花開いた頃、 世界では、イスラーム教が生まれ、 その勢力を増していました。 ローマ帝国の衰退の後、 西欧はゲルマン民族の大移動によって、 それまでの秩序が崩壊していく中で、 イスラー
15世紀後半には, たとえば天文学における新しい動きが生じたり, 科学者としても大先覚者である レオナルド・ダ・ゲインチ (Leonardo da Vinci 1452-1519イタリア) のような人物があらわれたりしています。
豊臣政権のとった外交方針は、 統一政権の基礎を 外国貿易と海外発展によって堅固にし、 外国に対する威圧と征服とによって 勢威の拡大をほかる 封建的国家権力独得の方法であって、 そこにイスパニヤ・ポルト