田沼時代の日本にやってきた、 オランダの植物学者ツェンベリーは 「ツンベルグ日本紀行」において 「日本国民が人間の尊厳ということを自覚し、 平等や自由の観念をもっている と判断してはならな
「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。
自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。 これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。 充実して生きる道を探しているのだ。 それが、何にもまして一番重要なことなのだ。 それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。
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大乗仏教の中観の教理の基盤は、 般若経の教えです。 この世のすべての現象は、 存在現象も含めて、 原因(因)と条件(縁)によって 生起(縁起)しており、 その現象はそのまま 他の現象
今日でもインドシナ (ベトナムからタイをふくんで ビルマにいたる地域)には仏教国が多く、 また東南亜細亜全体において、 インド文化の影響がまだかなりのこっています。 これはインド文化が長
仏教世界の果てから果てまで、 広く交流がおこなわれ、 ナーランダの学林やカシミールの僧院 〔大乗仏教の有力な一派である 有部(うぶ)の本拠であった〕 にあらわれた新しい哲学的業績は、 巡礼
漢の支配者たちの帝国は 多くの独立した敵対国家に分裂し、 各国が主権を争いましたが、 紀元五八一年についに隋が主権をにぎりました。 隋王朝(五八一ー六一八)は 以前の秦王朝のように短命で
「絹の道」と「海の道」という 二大交通路によって、 はじめて世界の一体化が なされてきたわけですが、 全世界を一つの流れとしてとらえる 世界史という学問も、 このときはじめて誕生したとい
南北を統一した隋王朝は 文帝・煩帝・恭帝の三代、 わずか三十七年で農民の全国的反乱のため崩壊し、 これを平定した唐帝国の天下が 約三百年の長期にわたってつづきました。 隋・唐二王朝の関係
前二世紀の後半に、 張騫(ちょうけん)という支那人が、 コロンブスに匹敵する大探検に成功しました。 張騫は西域(中央亜細亜)にある国と連合して、 支那(漢帝国)の敵である 北方の匈奴をは
「絹の道」は、長年にわたって ユーラシアの一体化をうながし、 世界の一体化に大きな貢献をしてきました。 世界の一体化は、何千年にわたって すこしずつ進展してきたのです。 世界の一体化は
「絹の道」はすなわちシルク・ロードです。 「絹の道」と名づけたのは、 当時は支那でしかとれなかった絹が もっとも貴重なものとされ、 貿易の中心をしめていたためです。 絹はラクダに積まれ
七世紀末に、 韓にはじめて統一国家新羅があらわれました。 新羅は七世紀末から支那の儒教を国教として、 官吏採用のための試験制度も 支那をまねていました。 漢帝国時代の支那文化は、 ま
九世紀ごろに満州の南方に成立した 「渤海」という国も、 唐の制度を手本にした官僚機構 (律令制度)を形成していました。 ところが、日本に支配されていた韓のみは、 随・唐の律令制度を全面的
古代の大帝国の崩壊と交代のプロセスの後に、 歴史が没落していくように見えたまさにそのとき、 新しい呼吸を始め、 生命を脈打ちだした地域がありました。 ヤスパースの言う「軸の時代」が 頂点
支那では、漢帝国が(二二〇年に)ほろんだのち、 四百年近くのあいだ社会が乱れ、 六世紀末になって、ようやくひさしぶりで 隋という大帝国があらわれました。 隋は、中華(漢民族による支那)の復
漢王朝がはじまるころには、 すでに法家と墨家と名家とは その重要性を失なってしまい、 儒家と道家とが 意想界の有力な学派となっていました。 孔子(紀元前五五二-四七九)の 後継者たちだ
紀元前一〇八年に起こったことは、 総合商社が日本列島の対岸に 支店を設けたということです。 日本列島は、世界最古の土器文化を持っていて、 新石器時代はここで始まったのですが、 日本列島は
岡田英弘教授によると、 支那文明の本質は商業文明であり支那の皇帝制度も、 一種の総合商社なのです。 支那は国民国家でも領土国家でもありません。 皇帝のいる首都は本社で、 地方の県城は、
漢(かん、拼音: Hàn)は、支那の王朝です。 通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と 後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を 総称して「漢王朝」と呼びます。 支那初の統一王朝である秦王朝が
支那の漢帝国、西アジアのパルチア王国、 中央アジアのクシャーナ王国、地中海のローマ帝国、 インドのグブタ帝国が、 三世紀から六世紀にかけてあいついで滅亡して以後、 しばらくのあいだユーラシア
「坑儒」に至っては、 人を騙し、詐欺を行い国の政策を混乱させる 一部の道士らを一掃する政策にすぎません。 『史記』には、盧生と侯生という2人の方士 (不老不死の術や卜筮、呪術などを行う人)
丞相の李斯は淳于越が古の慣習を懐かしみ 現制度に反抗的であることを理由に 『焚書令』を提起しました。 その中では、 「以前は諸侯が互いに争い天下が乱れていたから、 富国強兵の策を求めて遊
始皇帝と言えば焚書坑儒を連想します。 焚書坑儒は始皇帝の残虐さの象徴ともいえる事件で、 それまでの支那の歴史や文化を 破壊したとも言われています。 しかし、始皇帝が焚書坑儒を行った真の目
錬金術師のうちでもっとも有名な 紀元四世紀の葛洪(かつこう)は、 「草木は焼けば灰になるが、 辰砂は火に熱すれは水銀に変えることができ、 その逆もまた同様である。 辰砂は、ふつうの植物性物質
支那の錬金術について 最初に触れたものとして知られているのは、 『前漢書』です。 泰の始皇帝は、 自分が長生きする見込みについて、 道家の呪術師たちに相談したのです。 紀元前三三年に
初期の天文学で最大の難問のひとつは、 恒星に対して太陽の 相対的な位置を決定することです。 それは太陽があらわれる時間には 星が消えているからです。 エジプト人やバビロニア人や その
支那のもっとも有名な天文学者は 石申(紀元前三五〇年ころ)で、 約八〇〇個の星の相対的位置を図示しました。 またかれは、食が 天体どうしの相互作用によることを知っており、 太陽と月との予
天文学においては、支那人はすでに、 ひじょうに遠い昔に観測をおこなっていた という名誉を担っています。 一七世紀に北京にきたイエズス会士たちは、 支那の天文学はそのころより四〇〇〇年も前に
墨子(紀元前約四七九-三八一)の 後継者たちであった墨家は、 兼愛の教義を教えましたが、 平和主義者ではありません。 強国に圧迫された弱国を助けるために、 みずから軍事技術の訓練をしまし
漢時代は、 技術上の新機軸で注目すべきものがありました。 紙の発明ばかりでなく、紀元前一〇〇年ころには 磁石の方向指示の作用も発見し、 鉄の鋳造の最初の記録も見られます。 紀元後三一年
陰と陽の二つの原理の相互作用が、 木・火・土・金・水の五行をうみます。 最初は、水と火とがあらわれたが、 この二つはそれぞれ成分において、 陰陽のうち陰が大部分を占めていました。 つぎ
初期の道家の多くは、野に入り隠者となり、 以前の巫祝(ふしゆく)の徒の呪術を使って 自然を研究しました。 道とは、自然の道であり人の道であり、 かつまた、宇宙の移りゆきです。 人間は道に
この時期の支那の数学は 秦、漢の時代が中心となります。 「周髀算経(しゅうひさんけい)」と 「九章算術」が最も古い数学書で、 この時代の数学を特徴付けています。 「周髀算経」は、紀元前2
秦王朝の百姓が負担する兵役や賦役は、 後漢時代に班固が編纂した『漢書』によると、 成人男性は一生のうち1年間の兵役に就き、 予備兵役又は開墾事業に1年間、 その後は毎年夜間の見張りに 1カ月
始皇帝は在位中に数々の圧政を行った とも言われてきましたが、 それは始皇帝が死去して119年後、 漢の武帝の時代に司馬遷が記した『史記』の 「隠宮徒刑されし者七十余万人、 乃ち分れて阿房宮を
『史記』秦始皇本紀によると、 始皇34年(紀元前213年)、 博士淳于越(中国語版)が郡県制に反対し、 いにしえの封建制を主張しましたた。 丞相の李斯は、 儒者たちが体制を批判していると、
秦は支那支配で、 強大な軍備を維持できる高度に形作られた権力と、 安定した経済により統一された 帝国を創造することを試みました。 秦は、貴族と地主の役割を極小化し 人口の絶対多数を占める
秦朝(しんちょう)は、 紀元前221年から206年まで存在した、 支那の統一王朝です。 秦は現在の甘粛省や陝西省 の秦の拠点に由来します。 秦朝を建てた皇帝は、 始皇帝として知られています
ユリアヌス帝の時に、 一時キリスト教が否定されましたが、 信徒は増大を続け、 コンスタンティヌス帝が 313年にキリスト教を公認した ミラノ勅令を発布しキリスト教の弾圧を禁止しました。
インドでは、一時(マウリヤ王朝のときに) 仏教がさかえましたが、それほど長つづきせず、 グプタ時代に、 それ以前から有力であったバラモン教と融合して、 ヒンドゥー教がつくられています。
仏教は、 まもなく中央アジアを経て支那へつたわり、 さらに支那から日本へ(六世紀) つたわってきています。 そして仏教は日本にあまりにも多くの影響をあたえ、 仏教ぬきでは日本文化を理解て
パルチア王国は、 ローマ帝国と隣り合っていましたが、 パルチアと漢帝国のあいだには、 かなりの距離のへだたりがあります。 しかし、紀元元年ごろに、 今日のアフガニスタンを中心にし、 北
東ローマ帝国は 6世紀のユステイニアヌス大帝の時最盛期を迎え、 一時地中海世界全域支配を回復しますが、 その後西地中海は再びゲルマン人の国家が建設され、 東ローマ帝国の支配はギリシャ・小アジ
西ローマ帝国は、 その後もゲルマン人の侵攻を受けて衰え、 476年にゲルマン人傭兵隊長の オドアケルの反乱によって滅亡します。 東ローマ帝国は、 もはやローマから離れたところを都とし、
彼の発明の多くは、 後世の発明家たちの想像力を刺激した という意味でいっそう重要です。 『気体学』という本のなかには 金属製の球のことが書いてあります。 球の中で水を沸騰させると、
ギリシャ黒人は 労働を節約する機械の発明に無関心でしたが、 もう一つの例外は、 アレクサンドリアの人へロン(62年ごろ~150年ごろ)です。 彼は物理学看であり数学者でしたが、 生年や没年は
シュラクサのアルキメデスが アレクサンドリアを訪れたときに、 アルキメデスの揚水機といわれている 回転体の助けをかりて 水を螺旋(らせん)状に送りあげる 簡単な装置を考案したといわれています
多くの哲学者、芸術家、文学者を 生み出したギリシャ人が、 なぜ応用科学の面では これといった活躍をしなかったのでしょう。 それは社会的、心理的影響が原因です。 ギリシャは奴隷制の上に築
支配層のギリシャ黒人のなかにも、 技術の才に恵まれた人が何人か居り、 いろいろの実験や発明をしています。 アルキメデス(紀元前287年-紀元前212年) もその一人で、 彼は静水学の根本原理を
ローマは原初は エトルリア人の王を戴いていましたが、 紀元前五〇九年に王は追われ、 貴族による寡頭制の下で共和政が成立し、 政治体はレス・プブリカと呼ばれるようになりました。 この語は英
紀元前二〇〇年ごろから、 紀元後二〇〇年ごろまでの四百年間は、 ユーラシアの古代的大帝国が もっともさかえた時代です。 東の漢帝国、パルチア王国(イラン)、 西のローマ帝国の三つが、ユー
ナザレのイエスは、 人間は平和の神の子として平等である、 神は父なる神である。 また、神は太陽や降雨などの環境を整えていて、 人間をはじめ鳥類などの生き物を日々養っており、 日々の祈りを
キリスト教の元であるユダヤ教(前270年頃)の神 ヤハウェはユダヤ人固有の神ではなかったようです。 フロイトは、 エジプトで革命的一神教を創始したファラオ、 アクエンアテン(アテン神をあがめ
マハーヴィーラ(紀元前5世紀)の始めたジャイナ教は、 苦行と瞑想に重点を置いて 正信・正知・正行の三宝を体系としていました。 最も強調した教えは、アヒンサー(不殺生)でした。 そのことは
前漢・後漢の時代の支那は儒学全盛でしたが、 後漢の滅亡とともに儒学の権威は衰退しました。 魏・晋の時代には老子や荘子の「無」が 万象の根源であり道の根本であるという、 無為自然の道を体得す
中観派は、この世界を概念を離れた真実の世界 (第一義諦、paramārtha satya)と、 言語や概念によって認識された仮定の世界 (世俗諦 、saṃvṛti-satya) という二つの真理に分けます。 言葉では表現
龍樹の『中論』の著作によって 「空」の理論は大成されました。 龍樹は存在という現象も含めて、 あらゆる現象はそれぞれの因果関係の上に 成り立っていることを論証しています。 この因果関係
宮廷からの逃走に成功した龍樹は 山上の塔を訪ね受戒出家しました。 小乗の仏典を わずか 90 日で読破した龍樹は更なる経典を求め、 ヒマラヤ山中の老比丘から 一つの大乗仏典を授けられました。
南インドのバラモンの家に生まれ、 幼くしてヴェーダを諳んじて その意味を了得した龍樹は、 (中インドの)ナーランダ僧院で バラモンの学問を修めたのち出家し、 天性の才能に恵まれたその学識を
六十二見とは仏教関係の人々が、 仏教以外の思想を62種類にまとめたものです。 「見」とは学説の意味です。 その中で「六師外道(ろくしげどう)」 と呼ばれる6人の思想家が、 今日に名前を残し
仏陀も苦行と瞑想を繰り返した後に、 輪廻転生の苦しみから脱け出す道を見つけたのです。 それは8つの基本的修行(八正道:はっしょうどう)、 正見(しょうけん)・正思惟(しょうしい)・ 正語(しょう
仏陀(紀元前5世紀前後)にとって、 この世の生活は苦しみを招く執着や 欲望に満ちあふれた苦々しいものでした。 “諸行無常”という概念は仏教の根本主張で、 世の中の一切のものは常に変化し生滅し
19世紀後半のドイツの哲学者ニーチェに、 『ツァラトウストラはこう言った』という 著書があります。 ニーチェの哲学の重大な命題である 「永劫回帰」の思想が語られています。 ツァラトウスト
ゴータマ・シッダルタは仏教の開祖で、 悟りを開いて仏陀と呼ばれる様になりました。 仏陀が、鹿野苑(ろくやおん)で、 五人の比丘に対して教えを説いたのが、 仏教の起こりです。 仏教の目的
ザラスシュトラはアーリア人です。 彼らはカスピ海の北方に住んでいましたが、 BC1500年前後にインドに入り、 さらにBC1200年頃にはイランにも入って行きました。 彼らは、この民族大移動の過程で
ゾロアスター教には ナオジョテと呼ばれる儀式があります。 入信の儀式です。 やがてキリスト教に取り入れられ、 洗礼となる儀式です。 ただ、ゾロアスター教では、 ローマ教会のような幼
ゾロアスター教は精霊の存在を信じます。 精霊とは八百万の神と同じで、 この世の森羅万象に宿る霊的存在のことで、 当然のこととして人間にも宿っています。 精霊をフラワシと呼びます。 そ
仮にこの世をつくつたのが、 一人の正義の神とすると、 正義が世界中にあふれていることになります。 悪い君主も殺人鬼も存在しない理屈になります。 清く正しく生きていれば、 誰もが幸福にな
善悪の神が戦う混乱の時代が終わる 1万2000年後の未来、 世界の終末にアララ・マズダーが行う 最後の審判によって、 生者も死者も含めて全人類の善悪が 審判・選別され、悪人は地獄に落ち、 す
自分で十分検討し、自分の意思で判断した場合だけ 自由な判断とみなされるといいますが、 十分な検討など本来不可能です。 経験則が確立できない現象に対して、 世間や自分を納得させるには 科学
ヘラクレイトスから数えて二千五百年の 形而上学の時代を通りすぎた後になって、 われわれはニーチェに至り着くことができます。 西欧の歴史も現時点に至って初めて、 禅がわれわれに考えさせようと
もともと仏教では、 時間論には、それほど重点を置いていません。 原始仏教では現在のみが存在する時であり、 過去も未来もないとする「過未無体(かみむたい)」 という考え方があります。 正
宇宙には、 自然科学が説明しえない根本原理(根本法則)があり、 それを発見し、それにしたがって生きれば人はすくわれる。 そしてこの宇宙の根本原理は、 神さまだと考えてもよいのです。 で
ユーラシア革命期のもう一つの要点として、 創唱宗教を挙げなければなりません。 これは科学や哲学の誕生におとらない重要なことです。 創唱宗教とそれ以前の宗教(原始宗教)との区別は、 どこに
マックス・ヴェーバーは、 宗教とは行動様式だと言いました。 これは倫理道徳も習慣風俗も全部含んでいます。 無論、正しくないということも含めて。 人間の行動様式のなかには 正不正という
応神天皇は一番下の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ) を後継者にしたがっていました。 そこで、ふたりの兄をためします。 お前たちは、年上と年下の子どっちがかわいいか? 大鷦鷯尊 (大雀
壱与は倭の女王卑弥呼の宗女で、 13歳で卑弥呼の跡を継いだとされる女性で、 魏の滅亡後に建国した晋の都、 洛陽に266年に朝貢しました。 晋は一度滅び、翌年、再建されています。 一度滅んだ
239年に親魏倭王の詔書印綬を受けた卑弥呼は、 243年に再び魏に朝貢しましたが、 248年に死去しました。 井沢元彦は、卑弥呼は、 邪馬台国と狗奴国との戦争での敗戦責任を問われて 殺害されたと
3世紀に入ると支那では漢がほろび、 魏(ぎ)、呉(ご)、蜀(しょく)という三国が 分かれて争う時代になりました。 そのうち日本列島の中に 魏と親交を結んだ国があり、 魏からも使者がきてい
あのころの朝鮮半島は戦国時代です。 朝鮮半島はで高句麗が圧倒的に強く、 百済・新羅・加羅は南に追いやられていました。 劣勢なのに新羅と百済・加羅は仲が悪いです。 敵を倒すには大和政権の
応神天皇は日本で初めて 外国と平和的に外交を行なった人です。 応神16年、百済の学者・王仁(わに)が来日します。 王仁は朝鮮に帰らず子孫も大和に残り、 天皇のそばで大きな仕事をしていきます
翌367年、誉田別命は天皇に即位し 第15代応神天皇となりました。 神功47年のことです。 歴代天皇のなかでも 聖帝といわれるほど特別な存在です。 朝鮮と積極的に交流し、 本格的に大陸の
仲哀天皇が亡くなり 新羅から倭軍が凱旋してきた365年頃、 神功皇后は筑紫に帰って 皇子(15代応神天皇、363年-403年)を生みました。 その後、神功皇后は海路、大和に向かいました。 その時
倭軍が、西暦三九一年、 海を渡って朝鮮半島に攻め入り、 百済や新羅(しらぎ)がその勢力下に入り、 その後たびたび戦いがあって、 四〇四年には 倭軍は北上して漢江(かんこう)流域に入り、 さら
古墳時代の391年に朝鮮に出兵し 百済・新羅を下します。 広開土王碑からは 396年にも朝鮮出兵をしたことが確認できます。 この碑は、 好太王の業績を称えるため子の長寿王が作成したもので、
皇位は日本武尊の弟・成務天皇が継ぎましたが、 その崩御後は日本武尊の息子が継ぎ、 仲哀天皇へと即位しました。 仲哀天皇はその父と同じように 九州へ出兵しようとしますが、 熊襲征伐の途上、
叔父である成務天皇に男子が居なかったことから、 後継者に指名され 天皇崩御(成務天皇48年)の翌々年即位しました。 日本武尊(やまとたけるのみこと)の第二子で 母は両道入姫(ふたじのいりひ
13代成務天皇は、311年に即位しました。 晋書によれば、台与は266年に 13歳での即位と考えられますから、 約半世紀の在位期間の記事がありません。 台与は享年57です。 景行天皇陵が「倭国
遣使は朝鮮半島諸国との外交を有利に進め、 なおかつ4世紀後半以降獲得した半島における 権益に関して国際的承認を得ることも 重要な目的でした。 倭王たちは宋に半島南部の軍事的支配権を 承認
遣使の目的は支那との交流を図ると共に、 中華皇帝の威光を借りることによって 当時のヤマト王権にまつろわぬ諸豪族を抑え、 国内の支配を安定させる意図があったのです。 倭王は自身のみならず臣下
宋の歴史をまとめた『宋書』には、 5世紀初頭から末葉まで、 およそ1世紀近くに渡って 主に南朝の宋(420年 - 479年)に 王、讃・珍・済・興・武の5人の倭王の使者が 貢物を持って参上し、 宋の
天叢雲剣は草薙剣とも言われ、 三種の神器(八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣)の一つです。 三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴とされています。 日本神話において、スサノオが 出雲国で八岐大
景行天皇の即位27年8月、 熊襲が再び謀反をおこしたので、 10月に小碓尊(16歳)に命じて熊襲を征討させます。 小碓尊は首長の川上梟帥を謀殺して日本武尊の名を得ます。 即位40年8月、 大碓皇
景行天皇(けいこうてんのう、 垂仁天皇17年 - 景行天皇60年11月7日)は 活目天皇(垂仁天皇)の第3皇子で、 日本の第12代天皇です。 『日本書紀』での名は大足彦忍代別天皇。 即位12年、九州
垂仁天皇88年7月条によると、 新羅王子を自称する天日槍が持って来た 但馬の神宝を見たいと天皇が言ったので、 使者を遣わし天日槍曾孫の清彦に 勅命を下して献上させました。 神宝とは羽太の玉
田道間守(たじまもり) あるいは多遅摩毛理(たじまもり)は、 新羅の皇子といわれています。 4-5世紀頃来日し、名の通り、 但馬(たじま)の国あたりを支配した実力者でした。 新羅王子の
第九代開化天皇の項に、 天皇の孫に「讃岐垂根王」の名前を 『古事記』に見ることが出来ます。 更にこの讃岐垂根王の姪に 「迦具夜比売命」なる名も見る事が出来ます。 讃岐なる名前の人の姓は
崇神天皇の時代に始まった全国統一の動きは、 垂仁天皇の御代においても継続して進められました。 この帝の御代にも政治の中央集権化は進められました。 また斎宮(いつきのみや)の齊王である皇女の
御間城天皇(崇神天皇)の第3皇子である垂仁天皇 (すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月14日)は 日本の第11代天皇です。 『日本書紀』での名は活目入彦五十狭茅天皇。 兄の
高句麗、新羅、百済、任那が朝鮮半島を経営しますが、 朝鮮半島は、地政学的に極めて独立が難しく 支那の属国状態が続きました。 日本が経営した任那も大陸との直接交易・交流の経由地でした。 こ
崇神天皇の即位65年、任那が使者として 蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わしてきました。 蘇那曷叱知は活目尊(垂仁天皇)の即位2年に任那へ帰国したが、 その際に天皇からの下賜品を新羅に奪われてしま
崇神天皇は即位12年、 戸口を調査して初めて課役を課しました。 この偉業をもって 御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと) と称えられています。 『古事記』には天下を統一して 平和で人
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田沼時代の日本にやってきた、 オランダの植物学者ツェンベリーは 「ツンベルグ日本紀行」において 「日本国民が人間の尊厳ということを自覚し、 平等や自由の観念をもっている と判断してはならな
③休暇が多く、バランスのある働き方 家族で過ごす時間を重視します。 定時には帰り、子供を迎えにいき、 家で団らんを過ごします。 また、休暇も多く、 長期はまとめて1カ月程取れるため、
トーマス・モアの描いた 唯一の価値観、唯一の基準、唯一の思想による 全体の知と富の共有というユートピア ではないユートピアはつぎのとおりです。 ①国民から信頼されている政治 教育も社会福
まず衣食住と医療、そして学ぶ機会が、 すべての人に約束された社会。 これは多くの人が望む社会ではないでしょうか。 問題はその次です。 最低限の生活が約束された上で、 出来るだけ豊かな
人が変えることができる社会なら、 人は理想の社会を作れるのではないでしょうか? 理想の社会を作る、 それこそ世の役に立つ仕事なのでしょうか。 人類は理想の社会を作ろうと、努力してきました
社会(制度:システム)は すべて人々の思いが造りだしたものです。 決して神が与えたものでも、 自分の外に物としてあるわけでもありません。 社会という現実は、 みんなの思っていることが外へ
社会全体が貧しければ、 みんな食料の確保で手一杯です。 歌う時間も夜空を見つめる余裕も生まれないし、 人生について考えているひまもありません。 農耕という生産手段を手に入れた人類は 生
アリストテレスの生物学にしても、 扁鵠の医学にしても、当時多くの知識が体系化し、 すぐれた科学があらわれていたことがわかります。 もちろん、今日の生物学・医学からみて、 いくらかのあやまり
ユーラシア文化革命期に、 支那やギリシャでおなじ年代に思想・哲学が いちじるしく発展したことがわかりますが、 この時期にはまた、科学も大きく進歩しました。 プラトンは、幾何学でも有名です。
支那とインドは広大ですが、 面積の小さなギリシャにも 多くのすぐれた成果があらわれたのは、 おどろくべきことです。 ギリシャの場合それは、 「ポリス社会」とよばれる 市民のなかの個人の
この時期(紀元前六○○年ごろから 前三一○○年ごろまでの時期)を、 ここでは 「ユーラシア文化革命期」とよぶことにしましょう。 支那では、 あまりに多くの有名な思想家があらわれたので、 「
この時代を、ドイツの哲学者カール・ヤスパースは 「軸の時代」と呼びました。 人民がこぞってそれを中心としてめぐりつつ結集するところの ひとつの理念的な軸を生み出した時代、という意味です。
帝国が建設されたのちも 二百年ほど偉大な創造がつづきます。 一般に、 前六世紀後半から前三世紀前半までの約三百年のあいだが、 ユーラシア文化の飛躍的な発展の時代で、 この三百年間を「ユー
第二の要因は、 ローマ帝国や徳川幕府と同様に すばらしい情報伝達の手段が考案されたことです。 どこかで反乱がおきると、 たとえ首都から遠くはなれたところでも、 その情報が迅速に首都にいる
第一の要因は、 大国を維持する統治技術のおかげです。 まず、帝国を二〇あまりの州にわけ、 各州を太守に統治させると同時に、 王の目、王の耳とよばれる監察官を派遣して、 太守の反乱をふせぎ
「ペルシャ」ということばは、 元来イランの一地方のことです。 イランの一地方から台頭してきた勢力が、 ついにイランだけでなく、 メソポタミアとエジプトを征服し、 さらに中央アジアの一かく
鉄器時代にはいってから、 各地で生産がすすみ、交通が発達しています。 そして生産と交通の発展は、 大帝国の形成を可能にしました。 大帝国の建設として、 むかしから歴史書によくのべられて
メソポタミアとエジプトの二つの文明地帯を 同時に征圧する大帝国アッシリアが 前七世紀にあらわれましたが、 それから約三十年ののちに、 アッシリアははやくも滅亡してしまいました。 しかし
支那に孔子があらわれ、 インドでシャカが仏教を説き、 ギリシャで哲人ソクラテスが出現したのが、 ほぼおなじ時代です。 えらい思想家や宗教家の名が、 歴史にあらわれてくるのは、 このころ
BC6世紀前後、 考える人が世界中に数多く登場してきました。 そして草木が一斉に芽吹くように、 今日まで残るような さまざまな思考の原点が誕生したのです。 この時代を、 謝世輝はユーラ
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