下瀬火薬(しもせかやく)は、 大日本帝国海軍技師の 下瀬雅允が実用化した火薬(砲弾の炸薬)で、 日露戦争当時の帝国海軍が使用し、 日露戦争における大戦果の一因です。 成分は純粋ピクリン酸ですが、 砲
「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。
自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。 これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。 充実して生きる道を探しているのだ。 それが、何にもまして一番重要なことなのだ。 それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。
下瀬火薬(しもせかやく)は、 大日本帝国海軍技師の 下瀬雅允が実用化した火薬(砲弾の炸薬)で、 日露戦争当時の帝国海軍が使用し、 日露戦争における大戦果の一因です。 成分は純粋ピクリン酸ですが、 砲
日本は列強の帝国主義からの自衛上、 やむなく日清・日露戦争を行なったのです。 ロシアは露清の撤兵条約にもかかわらず 満州からの撤兵を渋ります。 列強環視の中、 日英同盟に対して露仏同盟をもって対抗
北清事変における北京の籠城戦での 芝中佐の防御計画、戦闘指導によって 南城壁、イギリス公使館、ドイツ公使館は 危急を救われ全籠城軍の 最も頼りとする守りの主柱でした。 柴五郎は日本だけでなく イギリ
一九〇九年四月、 米国は英独仏による 湖広鉄道借款計画を知りました。 タフト政権はこれを重視し 英国と清国に計画への参画を要求しましたが、 一九〇九年六月英国がこれを拒否し、 清国も無視しました。
北清事変の危機にあたって 北京にあった各国外交団は、 義和団の包囲の危機に対し連合軍を組織し、 日本もこれに出兵し北京を陥れました。 清国は翌年、議定書を結び 1・責任者の処罰、 2・賠償金の支払い、
五月末になると、 形勢いよいよ急迫したので、 列国は天津に停泊中の軍艦から、 居留民保護のためそれぞれ水兵を北京に送りました。 その数は各国合わせて士官・水兵四百数十名です。 六月に入ると北京・天
義和団がいよいよ北京に迫った五月の末、 北京公使団は大括沖合に停泊中の 各国艦隊に救援軍の派遣を求めました。 五月三十一日、各国艦隊は 第一回援軍約四百名を北京に送りこんだ。 続いて、第二回増援軍
一九〇〇年北京の空気は異様に熟していた。 山東省の一画で蜂起した義和団が、 北京に刻々と迫っていたからです。 六月十一日(月)モリソンは 北京外人クラブにいた。 ロシア公使館のクルペンスキーが
アメリカは立ちおくれてではあったが、 一八九九(明治三二)年 太平洋の拠点となるハワイを合併し、 翌年九月には国務長官ジョン=ヘイが 清国の領土保全・門戸開放・機会均等主義 の名のもとに門戸開放主義を
すでにイギリスは幕末以来 清国の一角に根拠地を獲得し、 またロシアは北方から南下しつつあった。 日清戦争後の三国干渉を契機に 列強の清国分割に対する活動は熾烈化して、 ロシアは一八九六(明治二九)年 日本
桂内閣の出現は藩閥政府の更生であった (明治三四年六月成立)。 しかしその翌年には、 日英同盟を締結して外交上の功績をたて、 議会対策には、政友会と妥協を策して 海軍拡張のために第二次山縣内閣の 五
多くの支那人の目には、 外国に対して利権を譲渡する政府の行為は 国益を裏切るものとうつった。 こうして満州王朝清の転覆と、 純粋に支那人からなる愛国的な政府の樹立 をめざした秘密結社が、 ことに学生
一八九六年以降、 朝鮮はロシアと日本の 出先機関のあいだの争点となり、 ともに帝国主義的進出をめざしていた この二国は激しく対立して、 一九〇四年には戦争が勃発しました。 ここでも日本がロシアを 巧
西欧列強によって味わわされた屈辱よりも、 この清国の誇りを大きく傷つけたのは、 朝鮮で日本軍に敗れたこと(一八九四-九五年)でした。 支那にとって属国のひとつであった朝鮮は、 地理的に支那の首都に近
日露戦争は 「それまで二百年の長きにわたって アジア・アフリカを統治してきた西洋人は、 無敵で神のような存在と信じられてきたが、 実際はそうではないことを 日本人は全人類の面前で証明してしまった」 と
この時代の発端は、 帝国主義のイギリスとロシアの戦いで、 戦争の時代だったのです。 イギリスが支那にアヘン戦争をしかけ、 香港を植民地にしました。 それ以後、イギリスは北に向かって アジアでの侵攻
遼束半島は三国干渉で 支那にかえされたが、朝鮮は独立国となり、 支那はもはや宗主権を主張できなくなりました。 「眠れる獅子」の威力を秘めている かにみえた支那もとくに日清戦争で その弱体をさらけ出し
この大反乱の指導者太平天国の天王、 洪秀全(こうしゆうぜん)は南京城内で自殺し、 西欧諸国は支那周辺を蚕食(さんしょく)します。 まずロシアは一八五八年塁里江以北の地を、 六〇年ウスリー江以東の地を奪い
清朝による支那支配は、 康熙・乾隆の絢爛豪華を誇った盛時をさかいに 急速におとろえました。 一九世紀をつうじて、内憂外患こもごもいたり、 中華の誇りもその実をともなわなくなりました。 アヘン戦争・
「(貴国は)国内の安寧を維持する兵備に 欠乏せる所ありて其勢、 此に至るものと判定せざるを得ず。 我帝国は貴国と一衣帯水(いちいたいすい)を隔てて相隣接し、 随って政治及貿易上の関係浅からざれば、 貴国
イギリスは他の欧米四ヵ国に、 あるメッセージを伝えていました。 ロシア、フランス、ドイツ、アメリカに対して、 日本の撤兵を条件とせずに、 日本との協議に応ずるよう清国に共同で促したい、 と伝えていた
日本はこの干渉には慎重に反駁しました。 ロシアの軍事介入の有無の判断が 難しかったのです。 しかし七月十日には、 西徳二郎(とくじろう)駐露公使が、 ロシアの武力干渉はないだろう と伝えてきました。
「朝鮮政府は同国の内乱は鎮定したことを、 同国駐箚(ちゅうさつ)の各国公使に公然と告げた。 また、清国兵幷(ならび)に日本兵を 撤回させることに付き、 各国使臣等の援助を要請した。 よって本官の君主である
日本軍の退去を要請する朝鮮政府に対し、 大鳥は次のように日本の意向を伝えました。 「(東学党の反乱は静まったとはいえ) 内に内政が衰えて到底独立統治する実力がない。 常に朋党が軋轢(あつれき)し、 暴
日本政府は過去二回の経験から、 陸戦隊だけでは大鳥の安全を 守れないことはわかっていました。 新編成の混成旅団(旅団長大島義昌少将)は 借り上げた汽船を利用して 続々と仁川に入りました。 旅団本部
戦前の史書が、 「僅か十日に足らぬ日数を以って、 斯(か)くも迅速に、斯くも堂々と、 陸海の兵がぴたぴたと部署に就いた行動を見て、 清韓両国は意外の目を瞠(みは)り、 鉾(ほこ)を交えずして 既に士気を呑ま
「(大鳥は)密命を受けて翌六月五日出発します。 発するに臨んで血痕班々たる腹帯を纏いました。 之実は圭介が維新の変、幕軍に将として官兵と闘い、東 西に転戦して終に箱館五稜郭に降を請う時まで、 身を放さ
東学党の乱が起こった頃、 大鳥は休暇で大磯にいました。 明治政府は一八九四年六月二日に 第六回議会解散の奏講をし、 同時に済物浦(さいもっぽ)条約第三款に基づく 朝鮮出兵も天皇に奏講しました。 裁可
1895年4月、 日本全権伊藤博文・陸奥宗光と 清国全権李鴻章とのあいだで 下関条約を締結しました(条約5月8日発行)。 その内容は、①清国は朝鮮の独立を認め、 ②遼東半島および台湾・澎湖諸島を日本に
日清戦争のさなか、 インテリジェンスのもう一つの局面としての 条約改正への取り組みも無視できません。 この最大の立役者が陸奥宗光です。 明治政府にとって、 江戸幕府が結んだ不平等条約、 特に関税自主権なし
1894年8月、日本が清国に宣戦し 日清戦争が勃発し戦争指導のため、 明治天皇と大本営が広島に移った。 戦局は、 軍隊の規律・訓練、兵器の統一性に勝る 日本側の圧倒的優勢のうちに進んだ。 日本軍は
その九月一五日が平壌総攻撃の日でした。 包囲に気づいた清国軍は戦意がなく、 その日のうちに白旗をかかげたので 日本軍は翌一六日、やすやすと入城、占領します。 その翌日、九月一七日、黄海海戟が行われ
実際の戟争は、 海の方で一足先に始まりました。 七月二五日の朝、 仁川に向かう日本軍艦と 清国増援兵輸送の護衛に向う清国軍艦とが 豊島沖で遭遇し、砲撃を交したからです。 それに続いて七月二九日、
1894年、朝鮮で東学の信徒を中心に 減税と排日を要求する農民の反乱 (甲午農民戦争)が起きると、 清国は朝鮮政府の要請を受けて出兵しました。 わが国も天津条約に従って朝鮮に出兵しました。 東学党
現在の戦略を考えた場合に、 わが国は隣国の開明を待ち、 共にアジアを発展させる猶予はありません。 むしろ、その仲間から脱出し、 西洋の文明国と進退をともにし、 その支那、朝鮮に接する方法も、 隣国だ
例えば、支那、朝鮮の政府が 昔どおり専制で、 法律は信頼できなければ、 西洋の人は、 日本もまた無法律の国かと疑うだろう。 支那、朝鮮の人が迷信深く、 科学の何かを知らなければ、 西洋の学者は日本も
支那・朝鮮の二国をみれば、今の文明東進の情勢の中にあっては、とても独立を維持する道はない。幸い国の中に志士が現れ、国の開明進歩の手始めに、われらの明治維新のような政府の大改革を企て、政治を改めるととも
日本の国土はアジアの東端に位置しますが、 国民の精神は既にアジアの旧習を脱し、 西洋の文明に移っています。 しかし不幸なのは、 支那、朝鮮という隣国があることです。 この二国の人民も古来、 アジア
近代西洋文明が日本に入ったのは、 嘉永の開国が発端です。 国民はそれを採用するべきことを知り、 しだいに活発の気風が生じたものの、 進歩の道に横たわる老害の幕府がありました。 幕府を保存しようとす
世界中の現状を観察し、 文明の東漸への抵抗が 不可能なことを知る者は、 世の移りにあわせ、 共に文明の海に浮き沈み、 文明の波に乗り、 文明の苦楽をともにする以外にはないのです。 文明とは全く、 麻
1885年、福沢諭吉は「脱亜論」を発表し、 アジアを脱して欧米列強の一員となるべきこと、 清国・朝鮮に対しては 武力をもって対処すべきこと、 を主張しました。 これにより日本と清国との間は 次第に緊張が高
冷戦終焉後のこのような周辺諸国の 日本に対する敵対的な行動を眺めて、 日本は国家概念覚醒の時代に入るかと思いきや、 事態は逆の方向に進んでいます。 「ポストモダニズム」という蒙昧なる思想が 日本の知
完全な平和を維持できた理由の一部は偶然ですが、 理由の大半は日本が 日米同盟の一方的な受益者であったことです。 六〇年余の平和の中で 日本は再び国家概念を希薄化させました。 皮肉なことに、冷戦終焉
日本は巨大なユーラシア大陸の東端に位置し、 波高い対馬海流に守られ、 古来、中華帝国、ロシア帝国の 侵略を受けることの少ない「海洋の共同体」でした。 日本において国家概念が希薄なのは、 孤立した島国
新警察制度創設の中心人物の川路利良は、 明治五年九月、欧州に旅行して 各国の警察制度を調査し、 六年九月、帰国して意見書を政府にだしたが、 その冒頭にいわく 「夫レ警察ハ国家平常ノ治療ナリ、 人ノ養生
警察制度は、明治五年、 司法省に警保寮がもうけられ、 中央集権の全国画一の警察制度の 第一歩がふみだされていましたが、 当時はなお司法警察が主でした。 その警保寮が新設の内務省に移管されるとともに、
大久保は新設の内務省の充実を急ぎました。 明治七年(一八七四)一月十日公布した職制によれば、 「内務省ハ国内ノ安寧、人民保障ノ事務ヲ管理スル所」とし、 課を勧業寮・警保寮(以上一等寮) ・戸籍寮・駅
国内では、それまでしばしば 対立・抗争を続けていた政府と政党が 一致協力の態勢をとり、 議会では巨額の軍事予算も 満場一致で可決されるなど、 清国との戦争を遂行するため 挙国一致の動きが進められました
1894(明治27)年5月、 朝鮮で民族主義的な東学(とうがく)を中心に、 減税と排日を要求する 大規模な農民の反抗がおこりました (甲午(こうご)農民戦争、東学の乱)。 朝鮮政府は鎮圧のために清国に派兵を要
1876年、 日本は日朝修好条規により 朝鮮を開国させました。 以来、朝鮮国内では、 親日派が台頭していった。 しかし、1882年、 日本への接近を進める閔氏一族に対し、 大院君を支持する軍隊が反乱を起こ
江戸時代末期に日本人は アジアにたいしてどのような考えをもち、 そして明治政府は当初 どのような対外政策をもっていたのでしょうか。 西洋の東洋進出にたいして、 支那と日本がおなじ利害でむすばれており、 ア
明治政府は、 朝鮮が清国から独立して 近代化すること狙っていた。 この背景には、ロシアが南下を続け、 朝鮮国境まで領土を広げていた。 もし半島が、ロシアに領有されるか、 列強に分割されるかすれば、
フランスがインドシナに入り、 その南部三省を取ったのは、 一八六二年(文久二年)のことで、 その後、次第にその勢力は延び、 一八八四年(明治十七年)安南全域を フランスの保護国としましたが、 そのた
明治四年(一八七一)七月十四日、 天皇は在京の旧藩主たちを招集し、 「藩」を廃して「県」とすると宣言した。 旧藩主たちは、この二年前、 いちおう「版籍奉還」、 つまり徳川家からもらった領地を 天皇に「返す
新政府は国民の全員に、 徴兵の義務を課しました。 明治五年十一月の「徴兵告諭」は、 「全国四民男子二十歳ニ至ル者ハ 尽グ兵籍二編入」すると宣言しました。 国民とくに農民は動揺した。 この義務は与えられた
我が国は、アジア大陸の東に沿うて、 南北に長く連なる島々より成っています。 しかるにアジア大陸は、 日本列島をその中央において 衝くかのような形をもって、 一つの半島を突出しています。 朝鮮半島が
朝鮮半島をめぐる 明治六年の政府の重臣の分裂は、 各方面に大きな影響を与えましたが、 最も大きな動揺を生じ、 損害を受けたものは、 陸軍です。 当時の陸軍、大将は西郷隆盛ひとりでした。 その西郷が
欧米諸列強の干渉を心配したのは、 当時もっともよく西洋を知っていた 福沢論吉(一八三四~一九〇一)でした。 彼は洋学の知識をもったため 幕臣にとりたてられていたが、 彼はこの心配のあまり、 英明のほ
寛政年間に 「尊王」をとなえて全日本をへめぐつた 高山彦九郎(一七四七-九三)は 「奇人」と呼ばれ、あげくのはては、 腹を切って死なねばならなかった。 浪人がじかに尊王を説いたりしたら、 分をこえた
一九世紀末に近づくと、 西欧の列強の海外進出と植民地の形成が さかんになってきます。 まず、一八七五年ごろからイギリスが あきらかに海外膨張政策をとっています。 イギリスは、 一八七四年に新しい内
福島事件は、 1882年に福島県で発生した 自由民権運動の一環です。 県令三島通庸が 強制的な道路建設を進めたことに対し、 自由党員の河野広中らが反発しました。 これにより、 自由党員が逮捕されるなど
薩摩隼人を自任し、 「土木県令」「鬼県令」といわれた 三島通庸が福島県に着任したのは、 まだ雪深い二月のことです。 かれは、 「火つけ強盗と自由党とは 管内に一匹もおかぬ」と豪語してきただけに、 初
このころ、伊藤に宛てた 山県の書簡の全体がその心情を伝えています。 福島事件に大弾圧を命じた かれの毅然たる姿勢には、 それこそ「国家の命脈に関する一大事」のため 一歩たりとも退かぬという 決意がよ
馬場らにかわって自由新聞の主幹になった 古沢敢(この男は数年後に井上薫の秘書官になる)が、 改進党への敵意を煽りはじめました。 ここまでくれば自由・改進両党の提携という 最悪事態は避けられる。 あ
伊藤の渡欧の 留守政府をあずかる山県のもとには、 全国四十一府県会からぞくぞく 郡長公選を要求する建議がだされ、 改進党が「天下の豪商豪農を団結し、 以て政府に迫らんとする」形勢を示していることに、
政府は自由・改進両党に対して 御用党の擁立を発し、 その結果同年三月には、 福地政一郎・丸山作楽・水野真次郎らが 帝政党を結成しました。 その背後には熊本の紫溟会、 土佐の谷干城・佐々木高行らもいま
この自由党に対して 一八八二(明治一五)年三月には、 先に下野した大隈重信を総理として、 その与党の河野敏鎌・矢野文堆.小野梓らと、 自由党系と相いれなかった 沼問守竺・藤田茂吉・犬養毅.尾崎行堆・
国会期成同盟の運動は、 やがて政党組織へとすすみます。 その機運は一八八〇(明治三)年末にきざし、 植木枝盛らの急進派の強い主張によって ともかく自由党の名称が内定して 盟約四力粂を議定した。 や
板垣は元気で東京にかえり、 伊藤・山県・井上馨らが用意していた 板垣を西欧につれだし、 かの地で伊藤や西園寺や森有礼らが よってたかってかれを軟化させよう、 という政府の極秘の計画にまんまとはまり、 政商三
しかし、その自由民権運動も、 政府の徹底的な弾圧にあって、 一八八二年四月六日、 板垣は岐阜の演説会で刺客に刺されました。 このとき、 後藤象二郎は手早く旅じたくをして 自由党本部にあらわれ、 「板
日清戦争にさきだつ明治二二年(一八八九年)に、 明治政府が策定した帝国憲法が発布されましたが、 これこそ帝国主義への道を はっきりさししめすものでした。 この憲法では、天皇の大権として、 法律の裁可
諭吉は同年 「日章の国旗をもって東洋の全面をおおうて、 その旗風は遠く西洋諸国にまでも ふきおよぼすがごときは、 また愉快ならずや」と書いています。 すなわち、アジアの旗手として 西洋の全面的な侵略
はやくも明治一〇年代に、 民主主義(当時は民権思想といわれていました) は弾圧され、 議会をひらくことも延期されてしまいます。 それと同時に、 日本は朝鮮や支那などを 積極的に開明しなければならない
先ずは士農工商という四つの階級に わかれていた身分制度を廃止しました。 この時代、 よく「一君万民」とか「四民平等」 ということばがつかわれました。 ひとりの君、 つまり天皇の下に すべての国民が
徳川将軍は迷ったあげく、 翌一八五四年にアメリカの要求を受け入れました。 諸藩の愛国者たちは 外国の要求に屈した日本政府の弱腰を 許すべからざることとみなしました。 激しい反対の動きがおこり、 多
支那が西欧の圧力に抵抗できなかったのを 見ていた日本人は、これを教訓としまし。 一六三九年以来 厳しい鎖国政策を行ってきた日本ですが、 いまや開国をせまる西欧の海軍強国の意志に逆らって、 その政策を
明治推新の重要性から考えると、 西洋の学者がこれにあまり 注意を払っていなかったのは驚くばかりです。 最近、欧米の著者も 日本の社会学者のあとを追って、 維新の「原動力」やその重要性に 関心を寄せる
明治政府は出発において、 民主主義の高い理想をかかげており、 しかも法律によって あるていど保障されていたのです。 だからこそ「明治維新」は 偉大な変革だったのです。 しかし、 どんなに政治思想が
維新の時期に あれほど有用なスローガンとなった 「復古」の思潮は、 土佐にもすでに十分現われていました。 鹿持雅澄(一七九一-一八五七年) などをはじめとして私塾の教師たちは、 さきに本居宜長が唱道
彼らは革新者というよりも、 むしろ仲間の考えについていく方でした。 文字は読めますが、 決してインテリではありません。 その見解には昔流儀のところがあったが、 反啓蒙主義ではなかったのです。 当
以上の一般的叙述を具体化するために、 目を全国的な情景から土佐地方に転じ、 坂本龍馬や中岡慎太郎が知っていた 当時の社会経済事情を見ることにします。 土佐でも他の藩と同様、深刻な経済問題から、 藩政
それは、 すでに支那におけるイギリスのやり方に 先例の現われている現象です。 それはまた、 オランダ人が長崎の貿易所から かねて通報していた問題であり、 彼らは迫りつつある事態に まじめな警告を発し
福沢の場合といえども、 その有名な自伝は 古い昔の記憶をつづったもので、 彼が青年時代の反抗を 誇張して書いたのでしょう。 福沢の場合には、個人的にも、 その成長期をおさえつけていた階級、 身分制度
学者の知的探求心は 決して破壊的になどなるもの ではありませんでした。 学者たちは藩や幕府の指令に 従順に従っていましたし、 思想的にも当時は彼らが自分で儒学の 「事物探求」のごく普通の応用 と考え
個々の学者は西洋の事物を研究していても、 その根は伝統的な儒教思想や 封建的な価値判断に しっかり立脚しているのが普通で、 その洋学に志した動機も、 反乱と挫折の鬱積した感情のはけ口を求める などといったも
どんな後援者といえども、 幕府以上に大きな利益を 引き出せるものはなかったし、 他地域の学者を惹きつけ 報酬を与える能力の点でも、 幕府の右に出るものはありませんでした。 大阪の緒方洪庵塾 (福沢諭
一八五三年の第一回ペリー来航から、 一八五八年のハリスとの通商条約交渉、 一八六七年の徳川軍事政府の倒壊までの 知的なまた政治的な激動が 明治維新を醸成したのです。 維新は日本を民族的な統一国家に導き、
この条約は、日清両国が おたがいに治外法権制度をみとめ、 たがいに同一の関税をもうけようという 対等なものでした。 日清両国はたがいにたすけあい、 なかよくすべきだと明示してあり、 アジアは連帯して
佐久間象山は、安政五年(一八五八)の四月、 日米通商条約の折衝が大詰に達したときに、 罰せられて幽閉中の身であるにもかかわら ずどうにかして自分の意見を 幕府にとどかせようと努力しました。 その意見の要旨
佐久間象山(1811年〜1864年)は 信州松代藩の兵学者・洋学者・思想家で、 勝海舟や吉田松陰など 多くの志士に影響を与えました。 東アジアの文化世界の東端にあった我が日本では、 明治維新後の「明治改革」
肥後の学者横井小楠(一八〇九-一八六九)は、 百五十石どりの肥後藩士の二男坊です。 名は時存、通称を平四郎といいました。 秀才の平四郎青年は、 現実の政治と無関係な官学にあきたらず、 当然、知行合
江戸時代末期に日本人は アジアにたいしてどのような考えをもち、 そして明治政府は当初どのような 対外政策をもっていたのでしょう。 幕末にすでに アジア侵略をとなえていた人もいましたが、 西洋の東洋進
アジア人の抵抗は、 太平天国とセポイの反乱だけにかぎりません。 たとえば、ベトナムへ侵略したフランスは、 一八五八年ベトナム人のすさまじい抵抗にあって、 一時全滅しかけたほどです。 清がイギリスに
反乱は一八五七年五月 北インドのメーラト市におこりましたが、 ついに北インド全域と中央インドをおおう 大規模なものとなり、 二年あまりにわたって、 イギリスをあわてさせました。 王族も、地方の有力者
太平大国のたたかいと ほとんど同時におきた、 インドのセポイの反乱についてのべます。 セポイの反乱は一八五七年に北インドにおきた、 イギリスへの反抗のたたかいでしたが、 支那の太平天国のように 統一
太平天国は革命運動として 歴史的に大きな意義をもっています。 第一は、異民族・清朝の独裁政権を 打倒すべきだという 情熱を漢民族に点火したことです。 第二に、太平軍の鎮圧に 列強が協力したことからもわかる
洪秀全は、一八四〇年から、 民衆を啓発して新しい社会を築くための 上帝会を組織していましたが、 一八五〇年ヒ月、各地から上帝会員を結集させ、 ただちに多くの農村で 革命運動を展開しはじめました。 上
一八四〇年から四二年にかけてのアヘン戦争で、 支那はイギリスに惨敗し、 ますます大壷のアヘンがはいるようになり、 支那人を堕落させました。 そのうえ、ぼう大な戦費と イギリスへの賠償金の負担が、 ま
太平天国のたたかいをリードした洪秀全は、 長年儒教を勉強していましたが、 キリスト教に接してのち、 エホバの神の前にすべての人が 平等でなければならないととなえだしました。 「人はみな兄弟であり、
一八五〇年代におきた 支那の太平天国のたたかいと、 インドのセポイの乱、 ならびに一八六八年の日本の明治維新の三つは、 アジア近代史をきりひらいた 三大民族解放闘争だといわれています。 明治維新につ
下瀬火薬(しもせかやく)は、 大日本帝国海軍技師の 下瀬雅允が実用化した火薬(砲弾の炸薬)で、 日露戦争当時の帝国海軍が使用し、 日露戦争における大戦果の一因です。 成分は純粋ピクリン酸ですが、 砲
日本は列強の帝国主義からの自衛上、 やむなく日清・日露戦争を行なったのです。 ロシアは露清の撤兵条約にもかかわらず 満州からの撤兵を渋ります。 列強環視の中、 日英同盟に対して露仏同盟をもって対抗
北清事変における北京の籠城戦での 芝中佐の防御計画、戦闘指導によって 南城壁、イギリス公使館、ドイツ公使館は 危急を救われ全籠城軍の 最も頼りとする守りの主柱でした。 柴五郎は日本だけでなく イギリ
一九〇九年四月、 米国は英独仏による 湖広鉄道借款計画を知りました。 タフト政権はこれを重視し 英国と清国に計画への参画を要求しましたが、 一九〇九年六月英国がこれを拒否し、 清国も無視しました。
北清事変の危機にあたって 北京にあった各国外交団は、 義和団の包囲の危機に対し連合軍を組織し、 日本もこれに出兵し北京を陥れました。 清国は翌年、議定書を結び 1・責任者の処罰、 2・賠償金の支払い、
五月末になると、 形勢いよいよ急迫したので、 列国は天津に停泊中の軍艦から、 居留民保護のためそれぞれ水兵を北京に送りました。 その数は各国合わせて士官・水兵四百数十名です。 六月に入ると北京・天
義和団がいよいよ北京に迫った五月の末、 北京公使団は大括沖合に停泊中の 各国艦隊に救援軍の派遣を求めました。 五月三十一日、各国艦隊は 第一回援軍約四百名を北京に送りこんだ。 続いて、第二回増援軍
一九〇〇年北京の空気は異様に熟していた。 山東省の一画で蜂起した義和団が、 北京に刻々と迫っていたからです。 六月十一日(月)モリソンは 北京外人クラブにいた。 ロシア公使館のクルペンスキーが
アメリカは立ちおくれてではあったが、 一八九九(明治三二)年 太平洋の拠点となるハワイを合併し、 翌年九月には国務長官ジョン=ヘイが 清国の領土保全・門戸開放・機会均等主義 の名のもとに門戸開放主義を
すでにイギリスは幕末以来 清国の一角に根拠地を獲得し、 またロシアは北方から南下しつつあった。 日清戦争後の三国干渉を契機に 列強の清国分割に対する活動は熾烈化して、 ロシアは一八九六(明治二九)年 日本
桂内閣の出現は藩閥政府の更生であった (明治三四年六月成立)。 しかしその翌年には、 日英同盟を締結して外交上の功績をたて、 議会対策には、政友会と妥協を策して 海軍拡張のために第二次山縣内閣の 五
多くの支那人の目には、 外国に対して利権を譲渡する政府の行為は 国益を裏切るものとうつった。 こうして満州王朝清の転覆と、 純粋に支那人からなる愛国的な政府の樹立 をめざした秘密結社が、 ことに学生
一八九六年以降、 朝鮮はロシアと日本の 出先機関のあいだの争点となり、 ともに帝国主義的進出をめざしていた この二国は激しく対立して、 一九〇四年には戦争が勃発しました。 ここでも日本がロシアを 巧
西欧列強によって味わわされた屈辱よりも、 この清国の誇りを大きく傷つけたのは、 朝鮮で日本軍に敗れたこと(一八九四-九五年)でした。 支那にとって属国のひとつであった朝鮮は、 地理的に支那の首都に近
日露戦争は 「それまで二百年の長きにわたって アジア・アフリカを統治してきた西洋人は、 無敵で神のような存在と信じられてきたが、 実際はそうではないことを 日本人は全人類の面前で証明してしまった」 と
この時代の発端は、 帝国主義のイギリスとロシアの戦いで、 戦争の時代だったのです。 イギリスが支那にアヘン戦争をしかけ、 香港を植民地にしました。 それ以後、イギリスは北に向かって アジアでの侵攻
遼束半島は三国干渉で 支那にかえされたが、朝鮮は独立国となり、 支那はもはや宗主権を主張できなくなりました。 「眠れる獅子」の威力を秘めている かにみえた支那もとくに日清戦争で その弱体をさらけ出し
この大反乱の指導者太平天国の天王、 洪秀全(こうしゆうぜん)は南京城内で自殺し、 西欧諸国は支那周辺を蚕食(さんしょく)します。 まずロシアは一八五八年塁里江以北の地を、 六〇年ウスリー江以東の地を奪い
清朝による支那支配は、 康熙・乾隆の絢爛豪華を誇った盛時をさかいに 急速におとろえました。 一九世紀をつうじて、内憂外患こもごもいたり、 中華の誇りもその実をともなわなくなりました。 アヘン戦争・
「(貴国は)国内の安寧を維持する兵備に 欠乏せる所ありて其勢、 此に至るものと判定せざるを得ず。 我帝国は貴国と一衣帯水(いちいたいすい)を隔てて相隣接し、 随って政治及貿易上の関係浅からざれば、 貴国
外交は幕府(将軍・老中)の仕事であり、 幕府の責任で条約が必要なら調印する、 そのどこかの段階で 御三家・有力大名などから必要な意見は聞くが、 責任をもつ外交主体は幕府であった。 三権分立の原則が承
海外情報の人手を積極的にやっており、 鎖国(日本人の海外渡航の禁止が重要な一要素) というかぎられた状況下で、 最善をつくして情報収集に努めていました。 具体的には、長崎にはいるオランダ船と清国船に
江戸湾に外国船が 来航したことは何度かあり、 そのなかにはアメリカ東インド艦隊の ビッドルの二隻(一八四六年)もありました。 しかし、黒煙をあげ、 潮の流れにかかわらず左右自在に動く 蒸気船が江戸湾
日本との条約締結を第一課題とした以上、 問題は交渉にあたる人物です。 条約の草案作成や通訳などを担える 人物をつれていかなければならなりませんが、 支那で調達する予定でした。 香港到着後、ただちに
ペリーが支那に到着する直前、 太平天国軍が南京を占拠して首都とし、 さらに開港場の上海をおびやかしており、 上海居留のアメリカ人を 保護する必要が生じました。 しかし居留民保護に時間をついやせば 日
巨大な蒸気船はアメリカ海軍の独占物です。 当時まだ「新興国」であったアメリカで 「超大国」に匹敵できる産業は、 急成長していた造船業で、 その造船業がアメリカ海軍の発注をうけ、 国家の威信をかけて、
国際政治は、 このような諸体制の総体をさします。 そのなかで、 列強のうちの「超大国」イギリスは 日本に最初の条約をもたらさず、 アメリカが一番乗りをはたします。 では、ペリーの得た権限、 派遣の
「発砲厳禁」を至上命令としてうけた以上、 戦争も辞さないという態度は、 脅し以外にはとれません。 それにアメリカから日本へは 太平洋を横断してきたのではなく、 世界の四分の三という遠路をとおってきた
ペリー派遣のさいの大統領命令のなかで 最大の内容のものは、「発砲厳禁」です。 海軍ですから、発砲をうけた場合の 自衛・脱出のための発砲は 当然ながら許されていますが、 自分のほうから威嚇のためであれ
これら四つの体制上の区別が 明白になってくるのは、 一九世紀の中ごろ、 ちょうどペリーとのあいだで 日米和親条約が成立した時期です。 日本は、一八三九年からの 前哨戦をふくむアヘン戟争の情報を 刻々
まず①列強とはなにか―― 列強(powers)とは、自国の船により 世界のどこへでも到達できる力をもって、 それを保護するだけの海軍力を有する 「海洋国」です。 世界では、「超大国」イギリス、 日本と長く親
早急に武備の充実を計るには、 一時的にも外国との交易を行って、 近代的な艦船や大砲を 入手する必要があります。 しかし、 それが鎖国政策によって禁止されています。 自分で自分の手を縛りあげて 身動
正弘はその頃、鎖国政策の矛盾に 一番頭を悩ませていました。 鎖国政策は、日本の泰平無事と 幕府自身の安泰を願う政策です。 そのため、幕府は 努めて諸藩の勢力を弱くすることに 意を用いてきました。
論議を続けているうちに、 海防掛に注目すべき建白書が仙台藩の 儒者大槻磐渓(ばんけい)から寄せられました。 磐渓は蘭学者だった父 玄澤(げんたく)の影響を受け、 儒学者にもかかわらず、 世界の情勢に明る
正弘は、 老中評議と海防掛会議終了後、 海防参与の徳川斉昭に対し、 ロシア国書受取りに関する 公文書翰を認(したた)めさせました。 それには、五老中の連署があり、 さすがの斉昭も反対はできません。
ロシアのネッセルローデ首相兼外相の 親書は江戸城に未着だが、 八月上旬から海防掛は対ロシア交渉の 論議をはじめていました。 親書の内容は、 長崎奉行の書状で明らかです。 議論を重ねていくうちに、
老中評議の後、 正弘は海防掛会議を召集しました。 そこで正弘は、 在府長崎奉行の水野筑後守に命じ、 ロシア艦隊の長崎来訪の儀と ロシア艦隊司令長官プチャーチン提督の 丁重な交渉態度を紹介させました。
老中首座伊勢守阿部正弘は登城すると、 すぐに海防掛の川路聖謹(としあきら)を招き、 「さきほど、長崎奉行の水野殿が この書状を届けにこられた。 まずお読みいただきたい」 「オロシャの提督はペルリとは
豊後守は、直ちに 在府長崎奉行の水野筑後守と 老中首座阿部伊勢守に書状を認めました。 ロシア艦隊司令長官プチャーチン提督の 丁重な申入れに免じ、 ロシア首相の親書を受理してほしいと懇願しました。
翌八月十日(嘉永六年七月十八日)朝、 プチャーチンは、 全艦隊に警戒態勢に入るよう命令し、 伊王島沖を抜錨しました。 伊王島の西北端の真鼻岬沖を大きく右に迂回して、 昼過ぎに長崎湾口に浮かぶ高鉾島の