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千の朝 https://plaza.rakuten.co.jp/beabea65/

「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。

 自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。  これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。  充実して生きる道を探しているのだ。  それが、何にもまして一番重要なことなのだ。  それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。

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2014/09/11

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  • 都市生活者の特性

    日本では一三〇〇年ごろから、 町人と船乗りが大きく頭をもたげはじめました。 支那人が造船術の改良に先がけをつくり、 それをうけて、 日本の社会でも大きな発展の道が開けます。 羅針盤、自在竜骨、竜骨

  • 禅宗と浄土宗

    日本の宗教史も、 支那の手本から独立して独自のものを作るという、 同じ発展の方向を反映しました。 禅仏教は元来支那から移入されましたが、 日本でサムライの理想と結びあい、 支那の先例とは まったくち

  • サムライの風俗

    日本における都市の隆盛は、 同時に新しい社会環境の発生をも意味していました。 そして、その環境下で、 支那の洗練された文明性と 日本の現実という正反対のもの同士の間から、 質実剛健な田舎サムライの

  • 日本の封建制

    西欧でローマ皇帝の理念に 漠然たる敬意が払われていたように、 日本の封建制も、 初期中世ヨーロッパの封建制と酷似しており、 力を失ったとはいえ皇室の 宗主権が残存していたのです。 しかし重要なちがい

  • 武士道の萌芽

    武士道は、個々の武将が、 自分自身や臣下の勢力増大のために集めた軍団を、 戦(いくさ)に勝たせるため訓練し、 気塊(きはく)を教えこんでいる間に生まれました。 もちろん、戦いに勝った軍団は、 一定の領地

  • 六波羅探題の設置

    院宣の効果を信じ、 のんびりと構えていた後鳥羽上皇の思惑は外れ、 大多数の武士は上皇の呼びかけに応じません。 幕府と朝廷の力の差は歴然で、 幕府軍はわずか1ヶ月で京都を占領し、 朝廷の敗北で承久の乱

  • 軍事政権

    日本の宮廷文化は、 皇室の権力が形だけのものになってしまったのちも 消え失せませんでした。 とはいえ、 日本社会の北への拡大の先頭に立った 辺境の豪族たちは、 日本最初の宮廷人たちが唐から大々的に輸

  • 後鳥羽上皇の院宣

    1221年5月に 後鳥羽上皇は院宣という命令書を出し、 全国の武士に北条義時を倒すよう命令しました。 京都近隣の武士が中心となり 幕府を倒すために挙兵したのです。 院宣を出した後鳥羽上皇は 「朝廷の命

  • 絶好の機会

    後鳥羽上皇は、 鎌倉幕府の内部で混乱があれば、 御家人同士が争い朝廷が、 つけいる機会が生じるのではと考えました。 上皇はまた朝廷に年貢を納めない 武士と衝突することもあり、 上皇はますます鎌倉幕府

  • 後鳥羽上皇

    後鳥羽上皇は、 鎌倉幕府内部の権力争いを尻目に、 領地の拡大、軍事力の強化をはかります。 分散していた天皇領をまとめて資金力を確保し、 さらに従来からある北面の武士(ほくめんのぶし)に加えて、 西面

  • 承久の乱

    承久の乱は、1221年に後鳥羽上皇が 再び上皇中心の政治を取り戻すべく、 鎌倉幕府を討ち滅ぼそうとして起こした戦いです。 鎌倉幕府が誕生したとき 朝廷で最も権力を持っていたのは 天皇よりも上の位に就いて

  • 日本文化の独自性

    日本は、六〇〇年から一〇〇〇年までの間に、 仏教、儒教をはじめ輸入し得る支那文化の あらゆる要素を歓迎して受け入れました。 外国の文物に対する日本人の精力的な熱狂性は、 それ以後の時代にも何度かくり

  • アジア太平洋の発展2

    ヒマラヤの南側では、 ベンガルとカシミールが、 インド文化の重要な周辺地域となりました。 この二地方にはいずれも、 強力な地方国家が出現して、 インド北部の平野部を政治的に支配しましたが、 いずれも

  • アジア太平洋の発展1

    安南(現在のヴェトナム北部)は 以前から支那の文化的衛星国となっていましたが、 この頃雲南がこれにつづきました。 チベットは、支那とインドの中間に位する という地理的な立場を利用して、 双方からさま

  • 契丹の来襲7

    道長は大宰府の使いに、 「改元の後、必ず追討の勅符を下さん」 といいました。 しかし豪胆の道長も、今はすでに衰老しました。 そのうえ子供の三条中宮 及び皇太子の妃嬉子(きし)の二人を失い、 意気消

  • 契丹の来襲6

    朝廷で、隆家らの功を論ずるとき、 権大納言藤原公任(きんとう)、 中納言藤原行成(ゆきなり)らは功を排して、 「勅符を俟(ま)たずして兵を発す、 功ありといえども罪もまた大なり」 といいました。 権大納言

  • 契丹の来襲5

    しかし東丹は去ってすでに跡かたもありません。 この戦で、 筑前(ちくぜん)・壱岐(いき)・対馬(つしま)三国で 殺戮(さつりく)せられたものは四百六十二人、 劫掠(こうりやく)されたものは一千二百八十九人、

  • 契丹の来襲4

    壱岐守藤原理忠(まさただ)は 契丹と戦って死にました。 当時、藤原伊周(これちか)の弟隆家(たかいえ)は、 大宰帥(ださいのそつ)に左遷されていましたが、 勅符を俟(ま)たずに、 前少監大蔵種材(さきのしよう

  • 契丹の来襲3

    醍醐天皇の時、 漠北(ばくほく:ゴビ砂漠の北方の地〉に 契丹の太祖阿保機(あぼき)が起り四方を侵略し、 渤海を下し、国号を東丹国と改めて、 その子突欲にこれを治めさせました。 その頃、高麗(こうらい)の

  • 契丹の来襲2

    天智天皇の時、 唐、新羅(しらぎ)と合従(がっしよう)して 百済(くだら)・高麗(こま)を亡ぼしました。 すでに新羅の、 二国の故地を併呑(へいどん)して朝鮮を一統しました。 この時靺轕(まつかつ)の族種 〈

  • 本地垂迹説の発明

    遣唐使廃止の時期は、シナ文化の衰退期で、 その圧力が弱まったこともあり、 国風文化の形成は、あらゆる面に行われました。 なかでも仏教の日本化の一つに、 本地垂迹説(すいじやく)があります。 すでに八

  • 契丹の来襲1

    藤原道長はすでに一家から三后を出し、 外孫をもって天皇とし、 太子としての栄耀は比類なく、 その意満ち、気伸び 「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月のかけたることもなしと思へば」 と歌いました。 寛

  • 日宋貿易

    10世紀に入り、中国の唐末・五代のころ、 日本では平将門の反抗などが起こって 新しい武士階級の成長がみられました。 遣唐使廃止後も、 藤原氏と呉越とのあいだでは 外交が続いていました。 1126年(日本

  • 仮名文字の発明

    字多天皇の八九四(寛平六)年に、 遣唐使が廃止され、唐との直接交渉がなくなり、 これまでに次第に芽生えつつあった 文化の国風化が促進され、 藤原氏の貴族政治を背景として、 優艶・繊細・巧緻を旨とする王

  • 日本の文芸復興

    日本は七世紀はじめから遣唐使を派遣して、 さかんに唐の文物を摂取していました。 ところが、九世紀末の八九四年(平安朝初期)に、 唐への憧憬の根底にある唐の学芸・技能を凌駕した とする認識遣唐使のから

  • 日本文芸復興の基礎

    奈良時代(六四五-七八四年)に、 日本の歴代の天皇は急速かつ組織的に 支那(唐)の大宮廷を模倣しました。 日本の宮廷定格の、早咲きの繊細な感受性は、 一〇〇〇年のすぐ後に紫式部によって書かれた 細や

  • 宋の市民文化

    第一に、内外の商業の発展により、 宋時代に多くの都市が誕生し、さかえたこと、 第二に、宋時代も印刷術の発達などによって、 多数の市民がさかんに読書をし、 市民の活動がさかんになっています。 第三に、

  • 宋の市民文化

    第一に、内外の商業の発展により、 宋時代に多くの都市が誕生し、さかえたこと、 第二に、宋時代も印刷術の発達などによって、 多数の市民がさかんに読書をし、 市民の活動がさかんになっています。 第三に、

  • 支那の文芸復興

    宋の都市の繁栄から、 かがやかしい文芸復興が生まれています。 従来の世界史では、 一五世紀末のイタリアで ルネサンス(文芸復興など)が最高潮に達し、 新しい種類の都市生活があらわれたとのべています。

  • 変革の時代

    唐末に軍閥や反乱勢力の争いの焦点となった 政治・経済の中心地は, もはや長安でも洛陽でもなく, 黄河と大運河という交通大動脈のまじわる 汴州(ベんしゅう)の周辺です。 節度使(せつどし)朱全忠(しゅぜん

  • パックス・タタリカ

    元による古代シルク・ロードの復活が玄界灘、 そして東シナ海の彼方で着々と展開され パックス・タタリカ(タタール=モンゴルの平和) が強化されているとき、 日本でもいくどかの政治的紛争や 冷害、疫病、地

  • 宋王朝

    宋代前期(北宋時代)の 首都・開封(かいほう)は、 人口が百万をこえ、 朝から晩まで市内がにぎわっていたのです。 また、宋代後期(南宋時代)の 首都・臨安(りんあん:今の杭州)の 人口は五百万に達したも

  • シルク・ロード

    元は広大なユーラシア大陸に 壮大な通商圏を築きました。 古代以来のシルク・ロードは、 この元の支配下で息を吹き返しただけでなく、 最高の繁栄と最大の安全を保障されたのです。 その西の終点は、 それ

  • コーラン

    《アラーのほかに神はなし》と マホメットがメッカで説き始めた時、 人々には信仰心と血族間の団結心が 旺盛であったにもかかわらず、 はげしい部族間の憎悪、対立がまき起こりました。 彼の家族ハーシム家は

  • 世界史の誕生

    それまで文明世界から遠く離れ 孤立した極限の地が、 大洋が開かれて通商ができるようになると、 あらゆる種類の外国からの海路に対し、 門戸を開くことになります。 西欧と日本の歴史が、 近年におよんで安

  • ペパン

    教会が支配力を失った メロヴィング朝に見切りをつけたペパンの父は、 もっと強力な「信仰の擁護者」を捜し求め、 たまたまトクール・ポワチエの英雄 カール・マルチル(鉄槌(てつつい)公)に 白羽の矢をたてた

  • 匿名問答

    七五一年にイタリアの パヴィアにいた教皇ザカリアスは、 フランク王国の使者から一通 の手紙をうけとりました。 教皇はこれを一読し、会心の笑みをもらすと、 聖庁職員に旅支度を命じました。 その文面は

  • 三つの「上陸」

    エジプトからアフリカ北岸を西へ向かった イスラーム軍は七世紀中に旧ロ-マ領を席巻(せつけん)し、 七二年スペインに渡りました。 上陸第一歩のヘルス・デ・ラ・フロンテラの戦いで、 その地の西ゴート王ロデ

  • ギリシャの火

    コンスタンティノープルでは、 ビザンティンのへラクレイオス帝が 失意のうちに世を去った後、 暗い不安な日々が続いていました。 アラビア人の活動が予言者の死後も 後継者(カリフ)によって結束を強め、

  • イスラームの湖

    勇猛ではあるが意志の弱いへラグレイオスは アヴアール人が城下にせまってくると、 カルタゴヘの亡命を考えました。 この非常時に コンスタンティノープル総大主教セルギオスは 彼をはげまし、 帝国と教会と

  • 偶像と棗の中から

    領土が縮小し、国民は窮乏し、 見るかげもなくなった東ローマ帝国を、 人は哀れんで「ビザンツ」帝国とよび、 旭日(きょくじつ)の勢いをもって発展してきたのは イスラーム教徒のサラセン帝国です。 不毛のア

  • へラグレイオス

    ゲルマン諸族によって 西ローマの地図がぬりかえられたころ、 東ローマの属州では、エスティニアヌスの大達征後、 七世紀前半の東ローマは風雲の中に投げこまれたが、 そこには皇帝へラグレイオス一世がおりまし

  • ブリタニア島

    シーザーの征服以来イングランド一帯は 三、四世紀までにローマ文化の 全盛時代を経験していたが 四一〇年に最後のローマ兵士が撤退すると、 島内はプルトン人、スコット人、ピグト人などの 原住民の掠奪(りや

  • 美しき奴隷

    グレゴリウスの多忙の日常に 片時も彼の頭を去らなかったのは、 あの美しい顔をもつアングル人のことです。 彼はなんとかして ブリタニア島に手がかりを得たい と考えていたがたまたま ジュート人のケント国

  • グレゴリウス

    ローマ総督在任中グレゴリウスはある時、 市内でアングル人の少年奴隷を見かけ、 《アングルとはよく名づけたものだ。 まるでアンゲルのようだ》 とその金髪、白い肌、青い眼をほめたが、 ふと彼らが異教徒であ

  • 宗教界の新風

    当時イタリアは東ゴート人の テオドリッグ大王の支配下にあり、 ラヴェンナに都をおく大王は 東ローマでうけた教養を誇り、 当代随一の思想家ポエティウス、 カッシオドルスなどを顧問とし、 万事ローマ風を規

  • ベネディクトクス

    第二次世界大戦の末期、 イタリア占領中のドイツ軍を攻撃する連合軍は カンパニア高原の一角モンテ・カッシーノで 激戦を交えました。 その山頂には 聖ベネディクトクスの創設した修道院があり、 空陸からの

  • 古代の消滅

    アンリ・ビレンヌは論文 『マホメットとシャルルマーニュ』の中で 《古代は終わることなく、 少しずつ色あせて中世の内に延長される。 純歴史的にいえば、過渡期である…… グロヴィス王の征服以来、 フランク

  • 古代の連続

    現代に起こった二つの大戦間の時代は 「暗い谷間」とよばれますが、 それは大規模な国際戦争に始まり、 物質と精神とのはなはだしい荒廃にみまわれ、 ファッシズムによる 一層非人間的な戦争の危機に直面した時

  • 古代の没落

    ウェーバーのたくみな直喩によれば、 ローマの高度の都市文化の中に生きる ある古典作家が、 彼の羊皮紙の上にうつむいたまま、 数世紀間のうたた寝をした後、 ふと目をさましたとしたら、 彼はフランク時代の

  • 古代の転換

    西ローマ滅亡を ルネサンス時代のヒューマニストは 古代全般の没落と考え、 一八世紀の啓蒙思想家たちは モンテスキューやギボンのように ローマ末期の内的衰退と ゲルマン族による外的衝撃とによる 古代の「

  • 古代の衰退

    私は今、 第一次「民族大移動」の終末期に立って、 あわただしく過ぎ去ったローマ帝国末期の 数世紀間に見られたいくつかの光景を 回想しています。 そこにはもはや国境を 防備し得なくなったローマ軍団があ

  • 文明の変転

    地理的拡大と相まって、 西欧文明の内部でも大きな統合が行われました。 文明の統合は、生活のあらゆる層で行われ、 目ざましい成功をかち得ましたが、 それでも西欧流の制度や文化パターンを、 永続的な鋳型

  • キリスト教圏の拡大2

    キリスト教圏にとって、 南と東に最も大きな意味を持つ前線がありました。 その方角には、 イスラームとビザンティンの社会があり、 後進的で勇猛な蛮族よりも、 西欧の文明化のために 役にたつものを持って

  • キリスト教圏の拡大1

    西欧の新たな姿勢を最も劇的に証明したのは、 キリスト教圏の境界線が、 あらゆる方向に向かって 地理的に拡大したことです。 スカンディナヴイアと西ケルトの辺境地帯が 西欧の社会構成の中にうまく収まるま

  • 西方遠征軍

    暴動に慌てた皇帝エスティニアヌスが、 こそこそと亡命の支度にかかった時、 彼の背中を一つどやしつけて性根をすえさせたのは 口八丁手八丁の妃のテオドラです。 《恥をしのんで生きるより、 紫の帝衣のまま

  • 反皇帝暴動

    ローマでは皇帝、 元老院議員をはじめ軍人、役人たちが それぞれひいきの緑組、青組というチームの 戦車牽引競馬のスピード感や賭金のやりとりに興じ、 民衆もまた余興を求めていた。 人々は豊富な食糧をエジ

  • 新しいロ-マ

    西方フランク王国の分裂が始まったころ、 東方では、 ギリシアからオリエント一帯にひろがる 東ローマ帝国(ビザンツ)が健在を示していました。 帝都コンスタンティノープルは 歴帝の築いた幾重もの堅城にか

  • 司教の回想

    グロヴィス王の建国事業が完成して後、 約半世紀が過ぎました。 王の曾孫シルドベール二世の末年、 トクール市の司教館の一室で、 初老の一高憎が心静かに著述の 鵞(が)ベンを走らせていました。 その顔は

  • フランク人の統治

    ローマ人政権を倒して、 名目上「同盟者」となったグロヴィスは 余勢を駆ってロワール河畔まで進み、 北フランス一帯を手中に収め、 事実上ゲルマン族中第一の支配者に成り上がり ランス市に凱旋しました。

  • 最後のローマ人

    アングル人、サクソン人は 海峡を渡ってプリタニアに移ります。 諸族の統率者は各地で王国を創建し、 ローマ貴族、執政官(コンスル)の肩書きを受け、 思いのままに皇帝をあしらいます。 西ゴート人の擁立し

  • ローマの現状

    五世紀後半のローマ帝国の地図をひろげた人は あたかも古びた錦欄(きんらん)の布地に 雑色の端布(はぎれ)でつぎをあてた 道化師の着物でも見る思いがするでしょう。 それは支配権(インペリウム)の失われた皇帝

  • アフリカの聖者2

    真にアフリカの聖者としての面目は、 はからずも総督ボニファキウスの陰謀によって 起こった悲劇に際会して発揮されることとなりました。 総督は中央の政界に対抗するために、 スペインにいたヴアングル人を味

  • アフリカの聖者1

    フン族のローマ市来襲に先立つこと約二〇年前、 ローマ領ヌミディアに、 軍人で総督のボニファキウスと ヒッポの司教アウグスティヌスがあらわれまし。 二人は親友の間柄ですが、 その生涯と最後の運命はまっ

  • 征服者と聖人

    問答無用!アッテイラが まさに進撃命令を下そうとした時、 ふと頭上の空を見上げました。 初代キリスト教会の使徒、 ペテロとパウロが 天から舞いおりてくるのが見えたのです。 二聖人はぬき身の剣をふり

  • イタリアの敗北

    建国以来一二〇〇年の伝統を誇る永遠の都ローマは、 恐るべき征服者アッテイラが ローマをめざして進撃中だという情報が入ったので 皇帝はいち早く亡命しました。 アユテイクス将軍はまだガリアにとどまってお

  • 蛮族の決戦

    フン族の大軍は四五一年、 西ローマの要衝の地、ガリア(フランス)を目指して 渡河西進します。 東ゴート人など多数のゲルマン諸部族が合流し、 疾風怒涛の進撃に、 またたく間にトレーヴ、メッツ、ランスの

  • フン族の襲来

    紀元四世紀の末、 ドナウ河中流ダキア地方(今のハンガリー)の ローマ辺境に、 恐るべき民族が姿をあらわしました。 フン族とよばれるトルコ系の一遊牧民です。 容貌(ようぼう)はずんぐりした短躯で、 黄

  • ゲルマンの伝説

    民族大移動時代のゲルマン族が信仰していた 神話の世界を伝えているこの伝説は、 彼らは文字をもたず、偶像をつくらなかったので、 忘れ去られていました。 ゲルマン神話とは、 キリスト教化される前のゲルマ

  • 神々のたそがれ

    伝説によると地獄の復讐が計画されており、 ゲルマン族の歓楽の世界にも 終わりがくることになっています。 ニッフルハイムという 北方の闇と氷の世界では ロキという巨人族の焔の神が、 地上で老衰や病気の

  • ゲルマン族の天国

    天にかかる虹の橋は ゲルマン族の天国への入口です。 戦場で勇敢に戦ってたおれた者、 神々の父オーディンに特別に愛された者は 地上での生命が終わると、 戦場の乙女ヴァルキュリーたちに運ばれて この橋を

  • 巨人の玩具

    森の一隅には聖なる泉がわき、 かれらは神殿も神像も作らない代わりに、 森の王国を民族的神話の世界になぞらえました。 白馬にまたがり槍をふるう主神オーディン、 戦車を駆る雷神トール、軍神テイル…… 神々

  • 森の民族

    長城前方の森は、 一見、住むものといえば野生の獣ばかりで、 農業も行なっている ゲルマン族の居住地とは思われません。 しかしよく森影をみると、 傭兵たちと同じように肌着に長ズボンをはき、 肩には毛織

  • 砦から都市へ

    砦にはローマ市民権をもつ正規の将校が 白銀色の胸甲を陽の光に輝かせ、 赤い羽飾りのついたヘルメットをかぶって 監視に立っています。 ゲルマン傭兵たちは軽装で、 布地の帽子をかぶり、 長槍をかまえて歩

  • 長城の構築

    紀元前二世紀末、 キンプル人というゲルマン族の一派が 南ドイツ地方に侵入してきた時から 防備を固めるようになったもので、 長城は二〇〇年後に完成しました。 その工事は大がかりなもので、 ライン軍団の

  • 辺境の砦

    中世の西欧史は ローマ帝国の辺境に築かれた長城の砦と、 そこに襲いかかるゲルマン族とによって始まります。 アメリカ西部の辺境(フロンティアー)にある 守備隊の砦(とりで)で幕をあける西部劇の舞台が、 や

  • 中世の暗黒史観

    西欧の学者は自分たちが 古代ギリシャ.ローマを受け継いでいる と自負しているため、 「古代」と「近代」の問に「中世」を挟んで、 いかにも西洋「文化」が一貫して 継続しているように考えていますが、 この

  • 西欧の中世

    西洋の歴史で「中世」(Middle Age)とは、 「古代」ギリシャ・ローマと 「近代」に挟まれた時代のことです。 この時代はゲルマン民族の大移動ののち、 キリスト教化され、現代の西洋といわれる 世界が形成さ

  • 日本と中世西欧

    イスラームの自己変容と拡大は、 一〇〇〇年から一五〇〇年の間におこった、 世界史上最も劇的でめざましい変化でした。 それについでおこった変化は、 さらに重要な意味を持っており、 それは、文明世界の両

  • 日本史の特徴

    支那から距離的に離れていたため、 支那の文化圏に完全にのみ込まれてしまう危険を あまり感じなかった日本は、 六〇〇年から一〇〇〇年までの間に、 仏教だけでなく、儒教をはじめ 彼らが輸入し得る支那文化の

  • インドの抵抗

    インドにしてもおなじことで、 マラータ人やシーク教徒は、 回教徒の専制支配にたいして、 復古の反乱をくわだて、 ときには成功をおさめたこともありましたが、 インド人全般の愛国心の高揚を見るにはいたりま

  • 支那の抵抗

    外国の支配を覆(くつがえ)そうとする企(くわだ)てが 無かった訳ではなく、なかには成功した例もありました。 しかし外国支配のもとで、民族意識の低下は、 民族再興をほとんど不可能にしました。 土着の王朝

  • 東洋への影響

    もともと 平和的で自足的な性格の東洋文明は、 外からの侵略にたいしてはつねに弱かった。 日本とベトナムを除く東洋諸国は、 モンゴルが東洋の統一を破壊するのを許したばかりか、 インド、支那の文明を彼ら

  • 西欧への影響

    モンゴルの襲来が 仏教世界とキリスト教世界におよぼした 影響を比べてみると、おどろくほどの違いがあります。 地中海とバルト海の沿岸諸民族は、 長いあいだたがいに侵略しあってきたので、 侵入してきた遊

  • モンゴルの影響

    支那を征服したモンゴルが、 十三世紀後半、朝鮮人に道案内をさせて 日本侵略をくわだてて以来、 わが国と大陸の隣人たちとの古くからの関係も、 衰えはじめました。 モンゴルの好戦的態度は、約四十年間もつ

  • 東洋の柔軟性

    六世紀のころ、 インドのヴイクラマーディティヤ王の治世にあらわれ、 詩歌音楽の隆盛をもたらした自由廣大の精神は、 支那唐朝にも、 同時代のわが奈良朝の宮廷にもあらわれています。 さらに、八世紀のイン

  • モンゴル襲来

    しかし、この最後のモンゴル襲来は、 過去にその比を見ない大規模なものでした。 それは、太平洋とインド洋に達しただけでなく、 ウラルをこえて、モスクワを侵しました。 ジンギス汗の後裔は、支那では元(

  • 東洋の輝き

    東洋の衰退は、 十三世紀のモンゴルの征服とともにはじまりました。 支那とインドの古典文明は、 この侵略以来彼らをおそった夜の暗さと対比するとき、 ひときわその輝きをましてきます。 黄河とガンジスの

  • 中世西欧の政治

    西欧の各国家に重要な諸権益の葛藤は、 代表制度により有効な発言ができるようになり、 財産家や納税者は自分たちと関係の深い 公共問題に関して意見を徴されました。 しかし、農民の代表が出されることはなく

  • 賦課税

    時代が経つにつれて、 一時献金はその重要性を増しました。 騎士や騎士の封土の所有者 (まだ成年に達していない、死んだ騎士の息子)は、 戦争に召集されたとき、自分で出頭するより、 だれかに金を払って戦

  • 代表議会政治

    中世西欧の代表議会政治と言う政治制度は、 ふたつの大きな根を持っています。 ひとつは、教会法が、 司教はその司教座のある教会の 聖職者たちによって選ばれねばならぬ、 と定めていましたし、一般的な問題

  • 教皇政治

    ドイツとイタリアにおいては様子が違って、 小さな都市国家やさまざまの王の支配権が、 主権にまつわる属性の大部分を獲得しました。 長い空位時代ののち、 一二七三年、ハプスブルク家のルドルフが 皇帝にえ

  • 教皇の権威

    教皇の権威は、 フランス、イングランドの 国王たちと衝突しました。 以前は、この両者は、 キリスト教世界に対しドイツ皇帝が 至高権を主張するのを防ぐため、 教皇とゆるい連合関係にあるのが普通でした。

  • イングランド

    イングランド王ジョンは、 教皇インノケンティウス三世に 破門されたりして弱りきって、 一二一五年には貴族たちに強制されて 「マグナ・カルタ」(大憲章)を承認し、 その翌年に死にました。 このころのブ

  • フランス

    神聖ローマ帝国の西隣りは フランク人の王国ですが、 領土は小さく今のフランスの東半分の、 それも南はロワール河までしか 及んでいなかったのです。 今のフランスの西半分、 北はノルマンディーから、 南

  • 西欧の状況

    十三世紀の初めの西欧状況は、 イタリアという国もなく.ドイツという国もなく、 フランスという国もなく、英国という国もなく、 スペインという国もありませんでした。 こういう国々は、 みんなもっと後にな

  • 政治的統合

    十一世紀から十六世紀にいたる 西欧の政治の発展は、三つの局面に分けられます。 第一期は、皇帝 (シャルルマーニュがその称号を横取りしたとき以来 ドイツの統治者になっていた者)が、 大部分のドイツの司

  • 学問の衰微

    この時代たしかに暗黒時代でした。 西欧では、人々は互いに相争うのに忙しく、 文学や芸術にあまりエネルギーをさけませんでした。 しかし、アイルランドとブリテン島には、 聖パトリック(四六一年没)によ

  • 馬の首当て

    西欧史の〝暗黒時代″も実り豊かな面もありました。 騎士、大型黎、 それに攻撃的で独立の気概に燃えた商業人口、 この三つが西欧に、 新しい制度と技術とを与えました。 また新しく発明されたのではない

  • 黎と通商の普及

    西欧中世の社会組織に一層の力と幅とを与える、 ふたつの根本的な変化がありました。 そのひとつは重い大型黎(すき)の普及です。 黎に基礎を置く農耕が経済的な支えとなってはじめて、 西欧を真に恐るべき存

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