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千の朝 https://plaza.rakuten.co.jp/beabea65/

「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。

 自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。  これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。  充実して生きる道を探しているのだ。  それが、何にもまして一番重要なことなのだ。  それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。

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2014/09/11

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  • 新しい実験哲学者

    封建的な雰囲気のなかで、 新しい西欧の科学が成熟しました。 それは、特権と腐敗が 広くはびこっていたにもかかわらず けっして不利な雰囲気ではありませんでした。 西欧の プロテスタンティズム(新教運

  • 真の技術的進歩

    近代産業は 封建的条件から興こることはできませんでしたし、 ルネサンスの大公たちの大権から興こることも できませんでした。 大公たちはふんだんに浪費し、 常に金に不自由し、 また常に人から金をだまし

  • 特許権の分配

    スタートヴァントは 開発費用と採算性の吟味を十分考慮に入れ、 資本調達の方法についても はっきりした計画をもっていました。 しかし彼は失敗しました。 技術上の無能のためではありません。 彼は今日

  • シモン・スタートヴァント

    スタートヴァントは、 新産業時代の夜明け前に 発明の技術面と経済面との問題について、 多くの点で貴重な発言を書き残しました。 彼は次のように述べています 「ユーレテイカ――発明の術、 新しいものを発見

  • コルネリウス・ドレベル

    発明家の一人に コルネリウス・ドレベル(一五七二-一六三四年)がおり、 潜水船を作ってテムズ河で人にみせましたが、 もっと儲かる事業として緋色染料を輸入しました。 オランダ人で後世に名を残さなかった

  • 発明家

    産業革命の需要が加えた圧力が、 新奇なものに対する態度を変えました。 ひとたび利潤というものが公然と認められ、 新奇な方法が 富を約束することができるようになると、 人は新奇なものをさけるより むし

  • 産業革命

    一方、西欧ではルネサンスから 科学の応用の実用の時代が始まりました。 科学の確実な応用の場として 航海者が要求したのが天文学と航海術です。 これは古代から、 占星術と暦の作製に奉仕して 活動してき

  • 最初の産業革命

    一六世紀末から一七世紀始めの西欧の 産業の高揚は最初の産業革命 と呼ばれてきましたが、 そこに含まれた技術上の新機軸の点でも 科学の利用の点でも、 それは一八世紀の大産業革命と 同列に並べることはでき

  • 武士道

    儒学を見れば江戸文明が、 健全な日本文明の特色を 具備していたのは、明らかです。 当時の知識人である武士というものを 形づくつてゆく原理となった 日本独自の発展を見た儒学は、 支那の儒教をもとに つ

  • 江戸の教育と哲学

    一七七〇年代前半は、錦絵が流行し、 日本文化の百花斉放がくりひろげられます。 杉田玄白らが 『解体新書』を翻訳・出版して蘭学をおこし、 三浦梅園がヘーゲルにさきがけて ヘーゲルの弁証哲学と同等の哲学

  • 江戸の人口

    江戸の人口は、 一六三四年(寛永一一年)に 約一四万八〇〇〇と記されていますが、 一八世紀の.一七二一年(享保六年)には 五〇万を突破し、大阪をしのいでいます。 ただし当時の人口調査では 少年・幼児

  • 安永百花斉放

    すでに一七六〇年代末から錦絵が流行し、 出版界が活気づいていましたが、 一七七一年に本居宣長の 『直毘霊』があらわされて、 国学が一つの頂点に達し、 一七七四年に杉田玄白らが 『解体新書』の翻訳をおえ

  • 初期資本主義

    このような江戸を中心とする 都市の発展は、 じつは一八世紀の日本の商工業が、 いちじるしく発達していたことを 意味しています。 その一つの例ですが、 一七五○年代には、 すでに日本には初期資本主義の

  • 封建社会から脱皮

    衣類や茶や紙の生産が活発になり、 これらの消費がさかんになります。 商品流通が発達しはじめたのです。 そこで、 商品生産と流通をつかさどる 新興商人があらわれ、 日本の社会は、それ以前の 単純な封

  • 一七世紀の江戸

    江戸時代の平和な環境のなかに、 日本の農業は いちじるしく発展をしていました。 まず、 一七世紀(江戸時代の最初の百年間)に 米の収穫高が約一倍半も増加しています。 豊臣時代の文禄元年(一五九二年

  • 江戸時代の文化

    日本では、江戸時代にはいってから 表面的には内戦がなくなり、 平和な状態がつづきました。 そのため一七世紀に農業はかなり発展し、 米・綿・茶などの増産にささえられて、 城下町の文化はしだいに発達しま

  • ナポレオンの失脚

    ナポレオンは 一八一一年、ロシアに侵入し敗退します。 この敗戦を聞いた西欧の国ぐには、 フランス(ナポレオン)に対して 反乱をおこしました。 そしてナポレオンは戦いにやぶれ、 地中海のエルバ島へな

  • ナポレオン

    ナポレオンは、一七六九年に 地中海のコシカ島で生まれ フランスの陸軍上官学校をでて、 フランス革命のときは中尉でした。 革命後のフランスは、 外国軍の侵入により 自由・平等の革命理念が つぶされそう

  • フランス革命

    フランス革命は一七八九年におこりました。 革命のきっかけは、 フランス王室のぜいたくから 国家財政が危機にひんしたところへ、 一七八八年、凶作に見まわれ、 その影響をうけた国民が、 不満を爆発させた

  • ルソー

    ボルテールにつづいて、 フランスの最大の知識人はルソーです。 ルソーは一七五五年に 「人間不平等起源論」を書き、 文明の発達にともない 人間の自由がうばわれて 不平等が生みだされたと主張し、 文明の

  • ボルテール

    イギリスで市民革命が成功してのちも、 フランスでは国王の力がつよく、 国王による独裁政治がつづいていました。 しかし、 一八世紀に多くのフランスの知識人が、 独裁政治にたいしてたたかい、 一八世紀末

  • アメリカの侵略

    アメリカが独立したとき、 その国土はまだ東海岸に近い 東部十三州のみでしたが、 一九世紀のうちに、 アメリカ人は西へ西へと進撃をつづけ、 一八五○年ごろに、 ついに太平洋岸まで到達しました。 その拡

  • アメリカの独立宣言

    アメリカの独立宣言文の最初に、 つぎのように記されています。 「われわれは自明の原理として、 すべての人は平等につくられ、 造物主によって、 一定のうばいがたい諸権利を賦与され、 そのなかに生命、自

  • 一八世紀の西欧

    一八世紀の西欧は、 一七世紀のイギリスにおこった市民革命が 各国にひろまっていった時期です。 注目されるのは、 アメリカの独立(1770年代)と フランス革命(一八世紀末)です。 アメリカには一七世紀

  • 不平等条約説

    不平等条約説は、 これまで述べてきた日米和親条約と その四年後に締結された 日米修好通商条約とを あわせて論じられてきました。 なお最恵国待遇(条項)がいきていたため、 そのほかの列強との条約も 上

  • 不平等性の比較

    大東亜戦争の戦後の時期に、 日本の戦争責任の問題もからみ、 日本とその他アジア諸国とのあいだに、 近代の「共通性」をもとめる力がはたらいて、 再度この条約の不平等性が強調されました。 その場合、アジ

  • 正文のない条約

    日米和親条約の調印は 一八五四年三月三一日でしたが、 「正文」を何語にするか の話し合いがなかったため、 最後の段階で応接掛は 外国語文への署名を拒否し、 ペリー側をあわてさせました。 日本文(応接

  • 二港開港決定

    ペリーの贈り物にたいして幕府は、 米をはじめ反物や漆器類を贈呈し、 さらにべリーからの要望により 作物の種子や苗も贈りました。 贈り物の点では、アメリカ側が、 それを条約交渉にうまく利用しました。

  • 宴会と贈り物

    最初に宴会を催したのは幕府側ですが、 贈り物の贈与で先手をとったのは アメリカ側でした。 一八五四年三月八日の 応接掛が催した宴会で、 ペリー一行は条約草案を提示しました。 その一週間後に幕府の条

  • 幕府の条約草案

    アメリカ草案にたいして、 幕府は一週間後に アメリカに草案をわたしましたが、 それはまるで木で鼻をくくったような そっけない内容でした。 すべての交渉を長崎でやる、 という意味の旧来の幕府の態度を

  • アメリカ草案の矛盾点

    アメリカ草案は、 望厦条約を基礎に不必要な部分を削除する という手順と論理で構成されていました。 草案と望厦条約漢文版とを 同時に応接掛にわたした理由も そこにありました。 応接掛はその削除にとも

  • アメリカの条約草案

    条約草案はまず アメリカ側からだされ(使用言語は漢文)、 同時に望厦条約の漢文版が添付されていました。 望厦条約とは 一八四四年に清米間で締結された条約であり、 二年前の清英間の南京条約にたいする

  • 日米の外交交渉陣

    日米和親条約の交渉時の交渉陣をくらべると、 ペリー側はペリーを筆頭に 副官アダムス、中国語通訳ウィリアムズ、 オランダ語通訳ポートマンで、 幕府側応接掛では筆頭の 林大学頭ほか、井戸対馬守(町奉行)、

  • 大型船建造

    阿部は大型船建造の解禁を、 条約交渉の開始以前に、 老中みずからの手によって諮問のうえ、 決定してしまいます。 ペリー艦隊の第一回来航の約三カ月後、 諮問から三週間ほどの短時間、 一〇月一七日のこと

  • 大型船の建造

    阿部は大型船建造の解禁を、 条約交渉の開始以前に、 老中みずからの手によって諮問のうえ、 決定してしまった。 ペリー艦隊の第一回来航の約三カ月後、 諮問から三週間ほどの短時間、 一〇月一七日のことで

  • 大型船の解禁

    一九世紀中ごろの段階では、 ①キリシタン禁制、 ②日本人の渡航禁止、 ③そのための外洋船(大型船)の 所有・建造の禁止などが重要であり、 鎖国を実施した一七世紀の ポルトガル船・スペイン船の来航禁止とい

  • 交渉の言語

    交渉に使用する言語は 幕府側だけの問題ではなく、 双方の問題です。 ペリー側は各種の理由から 日本語通訳をつれてくることができず、 口頭ではオランダ語(担当は若きポートマン)、 文書では漢文(宣教師

  • 幕府の責任

    外交は幕府(将軍・老中)の仕事であり、 幕府の責任で条約が必要なら調印する、 そのどこかの段階で 御三家・有力大名などから必要な意見は聞くが、 責任をもつ外交主体は幕府であった。 三権分立の原則が承

  • 幕府の情報の入手努力

    海外情報の人手を積極的にやっており、 鎖国(日本人の海外渡航の禁止が重要な一要素) というかぎられた状況下で、 最善をつくして情報収集に努めていました。 具体的には、長崎にはいるオランダ船と清国船に

  • 黒船の威力は不発

    江戸湾に外国船が 来航したことは何度かあり、 そのなかにはアメリカ東インド艦隊の ビッドルの二隻(一八四六年)もありました。 しかし、黒煙をあげ、 潮の流れにかかわらず左右自在に動く 蒸気船が江戸湾

  • 対日交渉

    日本との条約締結を第一課題とした以上、 問題は交渉にあたる人物です。 条約の草案作成や通訳などを担える 人物をつれていかなければならなりませんが、 支那で調達する予定でした。 香港到着後、ただちに

  • 日本重視

    ペリーが支那に到着する直前、 太平天国軍が南京を占拠して首都とし、 さらに開港場の上海をおびやかしており、 上海居留のアメリカ人を 保護する必要が生じました。 しかし居留民保護に時間をついやせば 日

  • 列強間の競争

    巨大な蒸気船はアメリカ海軍の独占物です。 当時まだ「新興国」であったアメリカで 「超大国」に匹敵できる産業は、 急成長していた造船業で、 その造船業がアメリカ海軍の発注をうけ、 国家の威信をかけて、

  • ペリーの権限

    国際政治は、 このような諸体制の総体をさします。 そのなかで、 列強のうちの「超大国」イギリスは 日本に最初の条約をもたらさず、 アメリカが一番乗りをはたします。 では、ペリーの得た権限、 派遣の

  • 交渉の準備

    「発砲厳禁」を至上命令としてうけた以上、 戦争も辞さないという態度は、 脅し以外にはとれません。 それにアメリカから日本へは 太平洋を横断してきたのではなく、 世界の四分の三という遠路をとおってきた

  • 発砲厳禁

    ペリー派遣のさいの大統領命令のなかで 最大の内容のものは、「発砲厳禁」です。 海軍ですから、発砲をうけた場合の 自衛・脱出のための発砲は 当然ながら許されていますが、 自分のほうから威嚇のためであれ

  • 四つの体制

    これら四つの体制上の区別が 明白になってくるのは、 一九世紀の中ごろ、 ちょうどペリーとのあいだで 日米和親条約が成立した時期です。 日本は、一八三九年からの 前哨戦をふくむアヘン戟争の情報を 刻々

  • 当時の国際情勢

    まず①列強とはなにか―― 列強(powers)とは、自国の船により 世界のどこへでも到達できる力をもって、 それを保護するだけの海軍力を有する 「海洋国」です。 世界では、「超大国」イギリス、 日本と長く親

  • 阿部の大船製造

    早急に武備の充実を計るには、 一時的にも外国との交易を行って、 近代的な艦船や大砲を 入手する必要があります。 しかし、 それが鎖国政策によって禁止されています。 自分で自分の手を縛りあげて 身動

  • 徳川斉昭

    正弘はその頃、鎖国政策の矛盾に 一番頭を悩ませていました。 鎖国政策は、日本の泰平無事と 幕府自身の安泰を願う政策です。 そのため、幕府は 努めて諸藩の勢力を弱くすることに 意を用いてきました。

  • 大槻磐渓

    論議を続けているうちに、 海防掛に注目すべき建白書が仙台藩の 儒者大槻磐渓(ばんけい)から寄せられました。 磐渓は蘭学者だった父 玄澤(げんたく)の影響を受け、 儒学者にもかかわらず、 世界の情勢に明る

  • ロシア国書の受領2

    正弘は、 老中評議と海防掛会議終了後、 海防参与の徳川斉昭に対し、 ロシア国書受取りに関する 公文書翰を認(したた)めさせました。 それには、五老中の連署があり、 さすがの斉昭も反対はできません。

  • ロシアかアメリカか

    ロシアのネッセルローデ首相兼外相の 親書は江戸城に未着だが、 八月上旬から海防掛は対ロシア交渉の 論議をはじめていました。 親書の内容は、 長崎奉行の書状で明らかです。 議論を重ねていくうちに、

  • ペリーの威嚇

    老中評議の後、 正弘は海防掛会議を召集しました。 そこで正弘は、 在府長崎奉行の水野筑後守に命じ、 ロシア艦隊の長崎来訪の儀と ロシア艦隊司令長官プチャーチン提督の 丁重な交渉態度を紹介させました。

  • ロシア国書の受領

    老中首座伊勢守阿部正弘は登城すると、 すぐに海防掛の川路聖謹(としあきら)を招き、 「さきほど、長崎奉行の水野殿が この書状を届けにこられた。 まずお読みいただきたい」 「オロシャの提督はペルリとは

  • 阿部伊勢守

    豊後守は、直ちに 在府長崎奉行の水野筑後守と 老中首座阿部伊勢守に書状を認めました。 ロシア艦隊司令長官プチャーチン提督の 丁重な申入れに免じ、 ロシア首相の親書を受理してほしいと懇願しました。

  • プチャーチンとペリー

    翌八月十日(嘉永六年七月十八日)朝、 プチャーチンは、 全艦隊に警戒態勢に入るよう命令し、 伊王島沖を抜錨しました。 伊王島の西北端の真鼻岬沖を大きく右に迂回して、 昼過ぎに長崎湾口に浮かぶ高鉾島の

  • 艦長との夕食会2

    「それは相手の出方を見た上で決めるつもりだ。 しかし、レザーノフのように、 なんの成果もあげずに 長崎を去ることは絶対にしない。 アメリカ艦隊は かなり強硬姿勢で対日交渉を行うようだ。 ロシアは強硬姿

  • 艦長との夕食会

    八月九日の夜、 プチャーチン提督は、 パルラダ号艦長ウンコフスキー少佐と、 水いらずで夕食を共にし、 語り合いました。 「艦長、十カ月に及ぶ大航海、 ほんとうにご苦労だった。 無事に長崎に来られたの

  • ロシア艦隊は長崎へ

    ロシア艦隊が 父島からそのまま直行して 浦賀に向かっていたら、 幕府が江戸城で諸大名に 意見を聴取していた六月末頃、 ロシアの黒船四隻が 江戸湾に出現したことになります。 しかし、プチャーチン提督の

  • プチャーチンの派遣4

    結局、ロシア艦隊が後になって、 パルラダ号はインド洋の玄関口ケープタウンに 一八五三年の三月十日に入港しました。 先のカラス(黒船)ミシシッピ号の入港は 一月二十四日であり、すでに一ヶ月半の遅れです

  • プチャーチンの派遣3

    メンシコフは、プチャーチンに対し、 いかなる交渉も平和的に行い、 諸外国との紛争は極力避けるよう命じました。 当時のロシアは、トルコ政策をめぐって、 英仏両国と外交関係が悪化しており、 アジアでロシ

  • プチャーチンの派遣2

    ロシア政府は、 アメリカの後塵を拝することを恐れ、 四月に極東政策特別委員会を結成し、 五月にプチャーチン海軍中将を 通日全権大使に任命しました。 アメリカに対抗できる遠征艦隊を編成、 日本との三度

  • プチャーチンの派遣

    プチャーチンの艦隊を派遣する案が 実行に移されていれば、 開国を促すロシア艦隊が ペリー艦隊より十年早く、 日本に来航していたことになります。 辛い、この案は日の目を見ません。 ウロンチエンコ蔵相

  • レザーノフ派遣

    ロシア政府は、 レザーノフ派遣で なんらの成果も得られなかったため、 日本への関心が急速に冷えてしまい、 日本間題には不干渉、無関心の 基本姿勢をとっていました。 ロシア政府が 三度対日交渉意欲を高

  • ロシア領アメリカ会社

    当時のロシア領アメリカ会社は、 カムチャッカ、アリューシャン列島、 アラスカを支配した半独立国家でした。 ロシア領アメリカ会社 独自の判断で行動していました。 この会社は、毛皮の採取、販売が主な事

  • ゴロウニン少佐

    文化八年には、 ロシア軍艦ディアナ号艦長の ゴロウニン少佐以下七名が、 国後島で松前藩の役人に逮捕され、 ゴロウニンは箱館に連行され、 拘禁されました。 文化九年には、 ゴロウニンの部下の ディアナ

  • 北方海域

    当時択捉島には、 幕府が松前藩と話し合って 箱館奉行所の出張所を置き、 松前藩、津軽藩、南部藩の 警備兵百五十名を配していました。 しかし、 侵入してきたロシア海兵は人数も多く、 海からの艦砲射撃も

  • フヴォストフ大尉

    レザーノフの話を 再三にわたって聞かされていた 若い海軍士官のフヴォストフ大尉は、 次第に日本人に対して 敵意をいだくようになりました。 彼は、一八〇六年(文化三年)秋、 フリゲート艦ユノナ号で 突

  • 遣日使節レザーノフ4

    長崎からカムチャッカへの 帰航時のレザーノフは、 将来に対し全く希望を失っていました。 「特使閣下、それでも少し希望があります。 それは、長崎の下級役人の中に、 なんとか両国の国交成立を望む声が か

  • 遣日使節レザーノフ3

    幕府は、 目付の遠山金四郎景晋(かげみち)を 長崎に派遣し、 長崎奉行所でレザーノフと会見させました。 レザーノフが長崎港外に到着してから、 実に六カ月後のことです。 幕府の姿勢は強硬で レザーノフ

  • 遣日使節レザーノフ2

    粘り強いのがロシア人の身上です。 レザーノフは、 ロシア皇帝アレクサンドル一世の 将軍宛親書の受領と 交易のための開港を 幕府に要求し続けました。 頑固な鎖国論者の成瀬も、 ついにレザーノフの熱心

  • 遣日使節レザーノフ

    ロシアの第二回遣日使節 レザーノフはナジュージダ号に乗って、 一八〇四年(文化元年)に 長崎港外に到着しました。 レザーノフは、日本人漂流民 津太夫一行を護送してきましたし、 ラクスマンが取得した長

  • 大黒屋光太夫

    大黒屋光太夫は、 ロシア滞在中にロシア語が堪能になり、 日本文化をロシアに紹介する 役割を演じました。 当時のロシアでは かなり有名な日本人で、 エカテリナ二世女帝に 謁見を許されたこともあったほど

  • 日露交渉

    ロシアの対日交易交渉の歴史は、 新興国アメリカよりかなり古いものです。 アメリカ建国から十六年ほど経った 一七九二年(寛政四年)に、 第一回の遣日使節ラクスマンを乗せた エカテリナ号は北海道根室港に

  • 石田梅岩

    勤勉と倹約の精神に、 理論的な根拠を与え、 分かりやすく町人たちに説いたのが 石田梅岩(1685~1744)です。 梅岩は、丹波(京都府と兵庫県の一部) の山村に生まれ、 人間の理想の生き方を求めて、 さま

  • 勤勉と倹約

    日本人は勤勉だとされていますが、 人々が勤勉をよいことだと考えるようになるのは、 江戸時代になってからです。 江戸時代は、戦国時代のように、 耕した田畑が戦乱によって踏み荒らされたり、 戦いに巻き込

  • 蘭学

    吉宗は、禁止していた洋書も一部解禁したので、 西洋を学ぶ『蘭学』が流行しました。 オランダの医者のシーボルトは、 『鳴滝塾』を開いて、 多くの蘭学者を育てました。 杉田玄白や前野良沢らは、 オラン

  • 八代将軍吉宗

    八代目将軍になった 吉宗(1684年~1751年)は、 新井白石を退けて、 自分で政治を行うようになりました。 その頃の幕府の財政は大赤字ですが なかなかの善政を行いました。 この赤字をなんとかしようと吉宗

  • 見盤

    見盤は、江戸時代 最も一般的な測量道具です。 紅毛流の測量で使われる平板(見盤)は、 定規、コンパスなどを用いて、 相似の図形を描き、 間接的に測量を行います。 見盤上に目標物との相似 三角形を作

  • 製図道具

    江戸時代の測量に使用する製図道具は、 流派や時代によって 多少の変化がありますが、 基本的には現地で記録する方位と 距離を縮図にするための道具が 用いられています。 方位は、「分度矩 (鎌形の分度器

  • 量地図説

    量地図説は 和算の関流長谷川門下である 常陸笠間藩士甲斐駒蔵広永が著した 測量術書です。 本書が出版された当時は、 ペリー来航直前で、 既に多くの西洋測量器具が 輸入されていました。 これらの西洋

  • 量程車

    量程車は、地上測量の器具です。 この道具を置いて曳いて歩くと、 下についている車が回り、 距離を表示する数字の ついている歯車が回り、 距離を表示できるようになっています。 動輪と連動する歯車機構

  • 中型象限儀

    伊能忠敬の全国測量は 緯度一度の距離測定が目的で、 そのためには日本各地での 正確な天体観測が必要でした。 象限儀はそのための観測器具の一つで、 師である間重富が 「霊台儀象志」などを参考に工夫して

  • 天文と測量

    西洋科学の影響を受けて天文学が発展し、 幕府天文方が天文台を設置して 天体観測を行い、改暦も行いました。 個人でも天体観測に取り組む人が現れ、 星図を元にした天球儀も制作されました。 また、 西洋

  • 算盤及び拾璣算法

    近世の庶民は計算道具として 「そろばん」を使っていましたが、 和算家はその他に 古代以来の計算道具である 「算木」を用いていました。 算木は木製または紙製の一種の計算棒で、 十進法に基づいて数を配置

  • 庶民の和算書

    江戸時代後期には、 簡単な和算の知識は庶民にも一般的となり、 いろいろな書物の中に 出てくるようになりました。 寺子屋の教科書であるとか、 日常の必要事項をまとめた百科事典などに、 そろばんの使い方

  • 小判色揚げ技法

    江戸時代を通じて10種類の 小判が発行されていますが、 いずれも純金ではなく、 金と銀が混ざった合金でした。 金品位の低い小判を 金らしく見せる技術として 「色揚げ」がおこなわれました。 江戸時代に

  • 鉱業

    鉱業(こうぎょう、英語:mining)とは、 鉱物などの地下資源 (場合によっては地表にあるものを含む)を 鉱脈や鉱石から資源として取り出す産業です。 江戸時代は、 金・銀・銅が貨幣として通用していたので

  • 地球儀

    西洋では、 地球儀と天球儀が対で利用され、 日本はこれらに中国伝来の渾天儀が加わって、 天文暦学関係者や 蘭癖大名らの所持品となっていました。 西洋から伝えられた地球儀や天球儀は、 和製としては、

  • 万年時計

    万年時計(万年自鳴鐘)は、 江戸時代の発明家、田中久重によって 製作された機械式の置時計で、 万年時計の名で広く知られています。 1000点を超える部品が田中による 手作りから作られています。 七宝、

  • 江戸時代の技術

    江戸時代には長く平和が続き、 庶民も寺子屋などで 「読み、書き、そろばん」を 学ぶことのできる社会が生まれました。 和算も学問や商業などの実用の技として、 学者や一部の武士だけでなく、 庶民にまで広

  • ジェームス・ワット

    グラスゴー大学は ニューコメン式の蒸気機関の 模型を所有していましたが、 当時ロンドンに修理に出さていました。 ワットは大学にかけあい 蒸気機関をグラスゴーに取り寄せて、 その修理を任されました。

  • 産業革命

    植民地アメリカが 独立の戦いを起こしていたころ、 本国イギリスでは 産業革命とよばれる産業・経済・社会の 大変革が進んでいました。 その口火をきったのは、 木綿工業における機械の発明、利用です。

  • ナポレオンの登場

    経済活動の自由や 土地などの財産を手にした人々は、 革命の行き過ぎを恐れ、 戦争の勝勝利と政治の安定を望みました。 このとき登場したのが軍人ナポレオンです。 イタリア・エジプト遠征の後 1799年、銀行

  • フランス革命

    1789年、絶対王政は 行きづまった財政の打開のため、 僧侶・貴族・平民からなる 三部会を召集しました。 ここからフランス革命は始まります。 7月14日、 パリ民衆のバスチーユ攻撃義挙は 草命の潮を一気

  • アメリカの独立革命

    清教徒の移住で始まった アメリカのイギリス領植民地は、 18世紀になると本国政府からの商工業統制や、 重い課税に強い不満が高まりました。 本国がこれを圧迫したことから 1775年独立戦争に発展し、 翌年人

  • 市民革命

    市民革命とは、一言でいえば、 絶対王政を打倒した革命のです。 国家の権力をにぎるものが、基本的には、 封建的な君主や貴族階級から 市民階級にうつった、政治的な変革です。 市民革命では、その名のとお

  • イギリスの市民革命

    絶対君主として 議会を無視し専政を行なう 国教徒の王に対する議会と清教徒の反乱が まず専制政治をたおしました(1649年)。 ここに成立した共和国はなが続きせず、 王政復古となり専制政治が復活しました

  • 絶対王政時代

    世界の各地に西欧人が進出するようになった 15世紀末から16世紀以後の西欧は、 政治・経済・社会・軍事・文化などにも 新しい動きが現われました。 とくに、大西洋に面していた国々ほど、 商工業や海外貿易が

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