日本では一三〇〇年ごろから、 町人と船乗りが大きく頭をもたげはじめました。 支那人が造船術の改良に先がけをつくり、 それをうけて、 日本の社会でも大きな発展の道が開けます。 羅針盤、自在竜骨、竜骨
「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。
自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。 これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。 充実して生きる道を探しているのだ。 それが、何にもまして一番重要なことなのだ。 それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。
日本では一三〇〇年ごろから、 町人と船乗りが大きく頭をもたげはじめました。 支那人が造船術の改良に先がけをつくり、 それをうけて、 日本の社会でも大きな発展の道が開けます。 羅針盤、自在竜骨、竜骨
日本の宗教史も、 支那の手本から独立して独自のものを作るという、 同じ発展の方向を反映しました。 禅仏教は元来支那から移入されましたが、 日本でサムライの理想と結びあい、 支那の先例とは まったくち
日本における都市の隆盛は、 同時に新しい社会環境の発生をも意味していました。 そして、その環境下で、 支那の洗練された文明性と 日本の現実という正反対のもの同士の間から、 質実剛健な田舎サムライの
西欧でローマ皇帝の理念に 漠然たる敬意が払われていたように、 日本の封建制も、 初期中世ヨーロッパの封建制と酷似しており、 力を失ったとはいえ皇室の 宗主権が残存していたのです。 しかし重要なちがい
武士道は、個々の武将が、 自分自身や臣下の勢力増大のために集めた軍団を、 戦(いくさ)に勝たせるため訓練し、 気塊(きはく)を教えこんでいる間に生まれました。 もちろん、戦いに勝った軍団は、 一定の領地
院宣の効果を信じ、 のんびりと構えていた後鳥羽上皇の思惑は外れ、 大多数の武士は上皇の呼びかけに応じません。 幕府と朝廷の力の差は歴然で、 幕府軍はわずか1ヶ月で京都を占領し、 朝廷の敗北で承久の乱
日本の宮廷文化は、 皇室の権力が形だけのものになってしまったのちも 消え失せませんでした。 とはいえ、 日本社会の北への拡大の先頭に立った 辺境の豪族たちは、 日本最初の宮廷人たちが唐から大々的に輸
1221年5月に 後鳥羽上皇は院宣という命令書を出し、 全国の武士に北条義時を倒すよう命令しました。 京都近隣の武士が中心となり 幕府を倒すために挙兵したのです。 院宣を出した後鳥羽上皇は 「朝廷の命
後鳥羽上皇は、 鎌倉幕府の内部で混乱があれば、 御家人同士が争い朝廷が、 つけいる機会が生じるのではと考えました。 上皇はまた朝廷に年貢を納めない 武士と衝突することもあり、 上皇はますます鎌倉幕府
後鳥羽上皇は、 鎌倉幕府内部の権力争いを尻目に、 領地の拡大、軍事力の強化をはかります。 分散していた天皇領をまとめて資金力を確保し、 さらに従来からある北面の武士(ほくめんのぶし)に加えて、 西面
承久の乱は、1221年に後鳥羽上皇が 再び上皇中心の政治を取り戻すべく、 鎌倉幕府を討ち滅ぼそうとして起こした戦いです。 鎌倉幕府が誕生したとき 朝廷で最も権力を持っていたのは 天皇よりも上の位に就いて
日本は、六〇〇年から一〇〇〇年までの間に、 仏教、儒教をはじめ輸入し得る支那文化の あらゆる要素を歓迎して受け入れました。 外国の文物に対する日本人の精力的な熱狂性は、 それ以後の時代にも何度かくり
ヒマラヤの南側では、 ベンガルとカシミールが、 インド文化の重要な周辺地域となりました。 この二地方にはいずれも、 強力な地方国家が出現して、 インド北部の平野部を政治的に支配しましたが、 いずれも
安南(現在のヴェトナム北部)は 以前から支那の文化的衛星国となっていましたが、 この頃雲南がこれにつづきました。 チベットは、支那とインドの中間に位する という地理的な立場を利用して、 双方からさま
道長は大宰府の使いに、 「改元の後、必ず追討の勅符を下さん」 といいました。 しかし豪胆の道長も、今はすでに衰老しました。 そのうえ子供の三条中宮 及び皇太子の妃嬉子(きし)の二人を失い、 意気消
朝廷で、隆家らの功を論ずるとき、 権大納言藤原公任(きんとう)、 中納言藤原行成(ゆきなり)らは功を排して、 「勅符を俟(ま)たずして兵を発す、 功ありといえども罪もまた大なり」 といいました。 権大納言
しかし東丹は去ってすでに跡かたもありません。 この戦で、 筑前(ちくぜん)・壱岐(いき)・対馬(つしま)三国で 殺戮(さつりく)せられたものは四百六十二人、 劫掠(こうりやく)されたものは一千二百八十九人、
壱岐守藤原理忠(まさただ)は 契丹と戦って死にました。 当時、藤原伊周(これちか)の弟隆家(たかいえ)は、 大宰帥(ださいのそつ)に左遷されていましたが、 勅符を俟(ま)たずに、 前少監大蔵種材(さきのしよう
醍醐天皇の時、 漠北(ばくほく:ゴビ砂漠の北方の地〉に 契丹の太祖阿保機(あぼき)が起り四方を侵略し、 渤海を下し、国号を東丹国と改めて、 その子突欲にこれを治めさせました。 その頃、高麗(こうらい)の
天智天皇の時、 唐、新羅(しらぎ)と合従(がっしよう)して 百済(くだら)・高麗(こま)を亡ぼしました。 すでに新羅の、 二国の故地を併呑(へいどん)して朝鮮を一統しました。 この時靺轕(まつかつ)の族種 〈
遣唐使廃止の時期は、シナ文化の衰退期で、 その圧力が弱まったこともあり、 国風文化の形成は、あらゆる面に行われました。 なかでも仏教の日本化の一つに、 本地垂迹説(すいじやく)があります。 すでに八
藤原道長はすでに一家から三后を出し、 外孫をもって天皇とし、 太子としての栄耀は比類なく、 その意満ち、気伸び 「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月のかけたることもなしと思へば」 と歌いました。 寛
10世紀に入り、中国の唐末・五代のころ、 日本では平将門の反抗などが起こって 新しい武士階級の成長がみられました。 遣唐使廃止後も、 藤原氏と呉越とのあいだでは 外交が続いていました。 1126年(日本
字多天皇の八九四(寛平六)年に、 遣唐使が廃止され、唐との直接交渉がなくなり、 これまでに次第に芽生えつつあった 文化の国風化が促進され、 藤原氏の貴族政治を背景として、 優艶・繊細・巧緻を旨とする王
日本は七世紀はじめから遣唐使を派遣して、 さかんに唐の文物を摂取していました。 ところが、九世紀末の八九四年(平安朝初期)に、 唐への憧憬の根底にある唐の学芸・技能を凌駕した とする認識遣唐使のから
奈良時代(六四五-七八四年)に、 日本の歴代の天皇は急速かつ組織的に 支那(唐)の大宮廷を模倣しました。 日本の宮廷定格の、早咲きの繊細な感受性は、 一〇〇〇年のすぐ後に紫式部によって書かれた 細や
第一に、内外の商業の発展により、 宋時代に多くの都市が誕生し、さかえたこと、 第二に、宋時代も印刷術の発達などによって、 多数の市民がさかんに読書をし、 市民の活動がさかんになっています。 第三に、
第一に、内外の商業の発展により、 宋時代に多くの都市が誕生し、さかえたこと、 第二に、宋時代も印刷術の発達などによって、 多数の市民がさかんに読書をし、 市民の活動がさかんになっています。 第三に、
宋の都市の繁栄から、 かがやかしい文芸復興が生まれています。 従来の世界史では、 一五世紀末のイタリアで ルネサンス(文芸復興など)が最高潮に達し、 新しい種類の都市生活があらわれたとのべています。
唐末に軍閥や反乱勢力の争いの焦点となった 政治・経済の中心地は, もはや長安でも洛陽でもなく, 黄河と大運河という交通大動脈のまじわる 汴州(ベんしゅう)の周辺です。 節度使(せつどし)朱全忠(しゅぜん
元による古代シルク・ロードの復活が玄界灘、 そして東シナ海の彼方で着々と展開され パックス・タタリカ(タタール=モンゴルの平和) が強化されているとき、 日本でもいくどかの政治的紛争や 冷害、疫病、地
宋代前期(北宋時代)の 首都・開封(かいほう)は、 人口が百万をこえ、 朝から晩まで市内がにぎわっていたのです。 また、宋代後期(南宋時代)の 首都・臨安(りんあん:今の杭州)の 人口は五百万に達したも
元は広大なユーラシア大陸に 壮大な通商圏を築きました。 古代以来のシルク・ロードは、 この元の支配下で息を吹き返しただけでなく、 最高の繁栄と最大の安全を保障されたのです。 その西の終点は、 それ
《アラーのほかに神はなし》と マホメットがメッカで説き始めた時、 人々には信仰心と血族間の団結心が 旺盛であったにもかかわらず、 はげしい部族間の憎悪、対立がまき起こりました。 彼の家族ハーシム家は
それまで文明世界から遠く離れ 孤立した極限の地が、 大洋が開かれて通商ができるようになると、 あらゆる種類の外国からの海路に対し、 門戸を開くことになります。 西欧と日本の歴史が、 近年におよんで安
教会が支配力を失った メロヴィング朝に見切りをつけたペパンの父は、 もっと強力な「信仰の擁護者」を捜し求め、 たまたまトクール・ポワチエの英雄 カール・マルチル(鉄槌(てつつい)公)に 白羽の矢をたてた
七五一年にイタリアの パヴィアにいた教皇ザカリアスは、 フランク王国の使者から一通 の手紙をうけとりました。 教皇はこれを一読し、会心の笑みをもらすと、 聖庁職員に旅支度を命じました。 その文面は
エジプトからアフリカ北岸を西へ向かった イスラーム軍は七世紀中に旧ロ-マ領を席巻(せつけん)し、 七二年スペインに渡りました。 上陸第一歩のヘルス・デ・ラ・フロンテラの戦いで、 その地の西ゴート王ロデ
コンスタンティノープルでは、 ビザンティンのへラクレイオス帝が 失意のうちに世を去った後、 暗い不安な日々が続いていました。 アラビア人の活動が予言者の死後も 後継者(カリフ)によって結束を強め、
勇猛ではあるが意志の弱いへラグレイオスは アヴアール人が城下にせまってくると、 カルタゴヘの亡命を考えました。 この非常時に コンスタンティノープル総大主教セルギオスは 彼をはげまし、 帝国と教会と
領土が縮小し、国民は窮乏し、 見るかげもなくなった東ローマ帝国を、 人は哀れんで「ビザンツ」帝国とよび、 旭日(きょくじつ)の勢いをもって発展してきたのは イスラーム教徒のサラセン帝国です。 不毛のア
ゲルマン諸族によって 西ローマの地図がぬりかえられたころ、 東ローマの属州では、エスティニアヌスの大達征後、 七世紀前半の東ローマは風雲の中に投げこまれたが、 そこには皇帝へラグレイオス一世がおりまし
シーザーの征服以来イングランド一帯は 三、四世紀までにローマ文化の 全盛時代を経験していたが 四一〇年に最後のローマ兵士が撤退すると、 島内はプルトン人、スコット人、ピグト人などの 原住民の掠奪(りや
グレゴリウスの多忙の日常に 片時も彼の頭を去らなかったのは、 あの美しい顔をもつアングル人のことです。 彼はなんとかして ブリタニア島に手がかりを得たい と考えていたがたまたま ジュート人のケント国
ローマ総督在任中グレゴリウスはある時、 市内でアングル人の少年奴隷を見かけ、 《アングルとはよく名づけたものだ。 まるでアンゲルのようだ》 とその金髪、白い肌、青い眼をほめたが、 ふと彼らが異教徒であ
当時イタリアは東ゴート人の テオドリッグ大王の支配下にあり、 ラヴェンナに都をおく大王は 東ローマでうけた教養を誇り、 当代随一の思想家ポエティウス、 カッシオドルスなどを顧問とし、 万事ローマ風を規
第二次世界大戦の末期、 イタリア占領中のドイツ軍を攻撃する連合軍は カンパニア高原の一角モンテ・カッシーノで 激戦を交えました。 その山頂には 聖ベネディクトクスの創設した修道院があり、 空陸からの
アンリ・ビレンヌは論文 『マホメットとシャルルマーニュ』の中で 《古代は終わることなく、 少しずつ色あせて中世の内に延長される。 純歴史的にいえば、過渡期である…… グロヴィス王の征服以来、 フランク
現代に起こった二つの大戦間の時代は 「暗い谷間」とよばれますが、 それは大規模な国際戦争に始まり、 物質と精神とのはなはだしい荒廃にみまわれ、 ファッシズムによる 一層非人間的な戦争の危機に直面した時
ウェーバーのたくみな直喩によれば、 ローマの高度の都市文化の中に生きる ある古典作家が、 彼の羊皮紙の上にうつむいたまま、 数世紀間のうたた寝をした後、 ふと目をさましたとしたら、 彼はフランク時代の
西ローマ滅亡を ルネサンス時代のヒューマニストは 古代全般の没落と考え、 一八世紀の啓蒙思想家たちは モンテスキューやギボンのように ローマ末期の内的衰退と ゲルマン族による外的衝撃とによる 古代の「
私は今、 第一次「民族大移動」の終末期に立って、 あわただしく過ぎ去ったローマ帝国末期の 数世紀間に見られたいくつかの光景を 回想しています。 そこにはもはや国境を 防備し得なくなったローマ軍団があ
地理的拡大と相まって、 西欧文明の内部でも大きな統合が行われました。 文明の統合は、生活のあらゆる層で行われ、 目ざましい成功をかち得ましたが、 それでも西欧流の制度や文化パターンを、 永続的な鋳型
キリスト教圏にとって、 南と東に最も大きな意味を持つ前線がありました。 その方角には、 イスラームとビザンティンの社会があり、 後進的で勇猛な蛮族よりも、 西欧の文明化のために 役にたつものを持って
西欧の新たな姿勢を最も劇的に証明したのは、 キリスト教圏の境界線が、 あらゆる方向に向かって 地理的に拡大したことです。 スカンディナヴイアと西ケルトの辺境地帯が 西欧の社会構成の中にうまく収まるま
暴動に慌てた皇帝エスティニアヌスが、 こそこそと亡命の支度にかかった時、 彼の背中を一つどやしつけて性根をすえさせたのは 口八丁手八丁の妃のテオドラです。 《恥をしのんで生きるより、 紫の帝衣のまま
ローマでは皇帝、 元老院議員をはじめ軍人、役人たちが それぞれひいきの緑組、青組というチームの 戦車牽引競馬のスピード感や賭金のやりとりに興じ、 民衆もまた余興を求めていた。 人々は豊富な食糧をエジ
西方フランク王国の分裂が始まったころ、 東方では、 ギリシアからオリエント一帯にひろがる 東ローマ帝国(ビザンツ)が健在を示していました。 帝都コンスタンティノープルは 歴帝の築いた幾重もの堅城にか
グロヴィス王の建国事業が完成して後、 約半世紀が過ぎました。 王の曾孫シルドベール二世の末年、 トクール市の司教館の一室で、 初老の一高憎が心静かに著述の 鵞(が)ベンを走らせていました。 その顔は
ローマ人政権を倒して、 名目上「同盟者」となったグロヴィスは 余勢を駆ってロワール河畔まで進み、 北フランス一帯を手中に収め、 事実上ゲルマン族中第一の支配者に成り上がり ランス市に凱旋しました。
アングル人、サクソン人は 海峡を渡ってプリタニアに移ります。 諸族の統率者は各地で王国を創建し、 ローマ貴族、執政官(コンスル)の肩書きを受け、 思いのままに皇帝をあしらいます。 西ゴート人の擁立し
五世紀後半のローマ帝国の地図をひろげた人は あたかも古びた錦欄(きんらん)の布地に 雑色の端布(はぎれ)でつぎをあてた 道化師の着物でも見る思いがするでしょう。 それは支配権(インペリウム)の失われた皇帝
真にアフリカの聖者としての面目は、 はからずも総督ボニファキウスの陰謀によって 起こった悲劇に際会して発揮されることとなりました。 総督は中央の政界に対抗するために、 スペインにいたヴアングル人を味
フン族のローマ市来襲に先立つこと約二〇年前、 ローマ領ヌミディアに、 軍人で総督のボニファキウスと ヒッポの司教アウグスティヌスがあらわれまし。 二人は親友の間柄ですが、 その生涯と最後の運命はまっ
問答無用!アッテイラが まさに進撃命令を下そうとした時、 ふと頭上の空を見上げました。 初代キリスト教会の使徒、 ペテロとパウロが 天から舞いおりてくるのが見えたのです。 二聖人はぬき身の剣をふり
建国以来一二〇〇年の伝統を誇る永遠の都ローマは、 恐るべき征服者アッテイラが ローマをめざして進撃中だという情報が入ったので 皇帝はいち早く亡命しました。 アユテイクス将軍はまだガリアにとどまってお
フン族の大軍は四五一年、 西ローマの要衝の地、ガリア(フランス)を目指して 渡河西進します。 東ゴート人など多数のゲルマン諸部族が合流し、 疾風怒涛の進撃に、 またたく間にトレーヴ、メッツ、ランスの
紀元四世紀の末、 ドナウ河中流ダキア地方(今のハンガリー)の ローマ辺境に、 恐るべき民族が姿をあらわしました。 フン族とよばれるトルコ系の一遊牧民です。 容貌(ようぼう)はずんぐりした短躯で、 黄
民族大移動時代のゲルマン族が信仰していた 神話の世界を伝えているこの伝説は、 彼らは文字をもたず、偶像をつくらなかったので、 忘れ去られていました。 ゲルマン神話とは、 キリスト教化される前のゲルマ
伝説によると地獄の復讐が計画されており、 ゲルマン族の歓楽の世界にも 終わりがくることになっています。 ニッフルハイムという 北方の闇と氷の世界では ロキという巨人族の焔の神が、 地上で老衰や病気の
天にかかる虹の橋は ゲルマン族の天国への入口です。 戦場で勇敢に戦ってたおれた者、 神々の父オーディンに特別に愛された者は 地上での生命が終わると、 戦場の乙女ヴァルキュリーたちに運ばれて この橋を
森の一隅には聖なる泉がわき、 かれらは神殿も神像も作らない代わりに、 森の王国を民族的神話の世界になぞらえました。 白馬にまたがり槍をふるう主神オーディン、 戦車を駆る雷神トール、軍神テイル…… 神々
長城前方の森は、 一見、住むものといえば野生の獣ばかりで、 農業も行なっている ゲルマン族の居住地とは思われません。 しかしよく森影をみると、 傭兵たちと同じように肌着に長ズボンをはき、 肩には毛織
砦にはローマ市民権をもつ正規の将校が 白銀色の胸甲を陽の光に輝かせ、 赤い羽飾りのついたヘルメットをかぶって 監視に立っています。 ゲルマン傭兵たちは軽装で、 布地の帽子をかぶり、 長槍をかまえて歩
紀元前二世紀末、 キンプル人というゲルマン族の一派が 南ドイツ地方に侵入してきた時から 防備を固めるようになったもので、 長城は二〇〇年後に完成しました。 その工事は大がかりなもので、 ライン軍団の
中世の西欧史は ローマ帝国の辺境に築かれた長城の砦と、 そこに襲いかかるゲルマン族とによって始まります。 アメリカ西部の辺境(フロンティアー)にある 守備隊の砦(とりで)で幕をあける西部劇の舞台が、 や
西欧の学者は自分たちが 古代ギリシャ.ローマを受け継いでいる と自負しているため、 「古代」と「近代」の問に「中世」を挟んで、 いかにも西洋「文化」が一貫して 継続しているように考えていますが、 この
西洋の歴史で「中世」(Middle Age)とは、 「古代」ギリシャ・ローマと 「近代」に挟まれた時代のことです。 この時代はゲルマン民族の大移動ののち、 キリスト教化され、現代の西洋といわれる 世界が形成さ
イスラームの自己変容と拡大は、 一〇〇〇年から一五〇〇年の間におこった、 世界史上最も劇的でめざましい変化でした。 それについでおこった変化は、 さらに重要な意味を持っており、 それは、文明世界の両
支那から距離的に離れていたため、 支那の文化圏に完全にのみ込まれてしまう危険を あまり感じなかった日本は、 六〇〇年から一〇〇〇年までの間に、 仏教だけでなく、儒教をはじめ 彼らが輸入し得る支那文化の
インドにしてもおなじことで、 マラータ人やシーク教徒は、 回教徒の専制支配にたいして、 復古の反乱をくわだて、 ときには成功をおさめたこともありましたが、 インド人全般の愛国心の高揚を見るにはいたりま
外国の支配を覆(くつがえ)そうとする企(くわだ)てが 無かった訳ではなく、なかには成功した例もありました。 しかし外国支配のもとで、民族意識の低下は、 民族再興をほとんど不可能にしました。 土着の王朝
もともと 平和的で自足的な性格の東洋文明は、 外からの侵略にたいしてはつねに弱かった。 日本とベトナムを除く東洋諸国は、 モンゴルが東洋の統一を破壊するのを許したばかりか、 インド、支那の文明を彼ら
モンゴルの襲来が 仏教世界とキリスト教世界におよぼした 影響を比べてみると、おどろくほどの違いがあります。 地中海とバルト海の沿岸諸民族は、 長いあいだたがいに侵略しあってきたので、 侵入してきた遊
支那を征服したモンゴルが、 十三世紀後半、朝鮮人に道案内をさせて 日本侵略をくわだてて以来、 わが国と大陸の隣人たちとの古くからの関係も、 衰えはじめました。 モンゴルの好戦的態度は、約四十年間もつ
六世紀のころ、 インドのヴイクラマーディティヤ王の治世にあらわれ、 詩歌音楽の隆盛をもたらした自由廣大の精神は、 支那唐朝にも、 同時代のわが奈良朝の宮廷にもあらわれています。 さらに、八世紀のイン
しかし、この最後のモンゴル襲来は、 過去にその比を見ない大規模なものでした。 それは、太平洋とインド洋に達しただけでなく、 ウラルをこえて、モスクワを侵しました。 ジンギス汗の後裔は、支那では元(
東洋の衰退は、 十三世紀のモンゴルの征服とともにはじまりました。 支那とインドの古典文明は、 この侵略以来彼らをおそった夜の暗さと対比するとき、 ひときわその輝きをましてきます。 黄河とガンジスの
西欧の各国家に重要な諸権益の葛藤は、 代表制度により有効な発言ができるようになり、 財産家や納税者は自分たちと関係の深い 公共問題に関して意見を徴されました。 しかし、農民の代表が出されることはなく
時代が経つにつれて、 一時献金はその重要性を増しました。 騎士や騎士の封土の所有者 (まだ成年に達していない、死んだ騎士の息子)は、 戦争に召集されたとき、自分で出頭するより、 だれかに金を払って戦
中世西欧の代表議会政治と言う政治制度は、 ふたつの大きな根を持っています。 ひとつは、教会法が、 司教はその司教座のある教会の 聖職者たちによって選ばれねばならぬ、 と定めていましたし、一般的な問題
ドイツとイタリアにおいては様子が違って、 小さな都市国家やさまざまの王の支配権が、 主権にまつわる属性の大部分を獲得しました。 長い空位時代ののち、 一二七三年、ハプスブルク家のルドルフが 皇帝にえ
教皇の権威は、 フランス、イングランドの 国王たちと衝突しました。 以前は、この両者は、 キリスト教世界に対しドイツ皇帝が 至高権を主張するのを防ぐため、 教皇とゆるい連合関係にあるのが普通でした。
イングランド王ジョンは、 教皇インノケンティウス三世に 破門されたりして弱りきって、 一二一五年には貴族たちに強制されて 「マグナ・カルタ」(大憲章)を承認し、 その翌年に死にました。 このころのブ
神聖ローマ帝国の西隣りは フランク人の王国ですが、 領土は小さく今のフランスの東半分の、 それも南はロワール河までしか 及んでいなかったのです。 今のフランスの西半分、 北はノルマンディーから、 南
十三世紀の初めの西欧状況は、 イタリアという国もなく.ドイツという国もなく、 フランスという国もなく、英国という国もなく、 スペインという国もありませんでした。 こういう国々は、 みんなもっと後にな
十一世紀から十六世紀にいたる 西欧の政治の発展は、三つの局面に分けられます。 第一期は、皇帝 (シャルルマーニュがその称号を横取りしたとき以来 ドイツの統治者になっていた者)が、 大部分のドイツの司
この時代たしかに暗黒時代でした。 西欧では、人々は互いに相争うのに忙しく、 文学や芸術にあまりエネルギーをさけませんでした。 しかし、アイルランドとブリテン島には、 聖パトリック(四六一年没)によ
西欧史の〝暗黒時代″も実り豊かな面もありました。 騎士、大型黎、 それに攻撃的で独立の気概に燃えた商業人口、 この三つが西欧に、 新しい制度と技術とを与えました。 また新しく発明されたのではない
西欧中世の社会組織に一層の力と幅とを与える、 ふたつの根本的な変化がありました。 そのひとつは重い大型黎(すき)の普及です。 黎に基礎を置く農耕が経済的な支えとなってはじめて、 西欧を真に恐るべき存
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日本では一三〇〇年ごろから、 町人と船乗りが大きく頭をもたげはじめました。 支那人が造船術の改良に先がけをつくり、 それをうけて、 日本の社会でも大きな発展の道が開けます。 羅針盤、自在竜骨、竜骨
日本の宗教史も、 支那の手本から独立して独自のものを作るという、 同じ発展の方向を反映しました。 禅仏教は元来支那から移入されましたが、 日本でサムライの理想と結びあい、 支那の先例とは まったくち
日本における都市の隆盛は、 同時に新しい社会環境の発生をも意味していました。 そして、その環境下で、 支那の洗練された文明性と 日本の現実という正反対のもの同士の間から、 質実剛健な田舎サムライの
西欧でローマ皇帝の理念に 漠然たる敬意が払われていたように、 日本の封建制も、 初期中世ヨーロッパの封建制と酷似しており、 力を失ったとはいえ皇室の 宗主権が残存していたのです。 しかし重要なちがい
武士道は、個々の武将が、 自分自身や臣下の勢力増大のために集めた軍団を、 戦(いくさ)に勝たせるため訓練し、 気塊(きはく)を教えこんでいる間に生まれました。 もちろん、戦いに勝った軍団は、 一定の領地
院宣の効果を信じ、 のんびりと構えていた後鳥羽上皇の思惑は外れ、 大多数の武士は上皇の呼びかけに応じません。 幕府と朝廷の力の差は歴然で、 幕府軍はわずか1ヶ月で京都を占領し、 朝廷の敗北で承久の乱
日本の宮廷文化は、 皇室の権力が形だけのものになってしまったのちも 消え失せませんでした。 とはいえ、 日本社会の北への拡大の先頭に立った 辺境の豪族たちは、 日本最初の宮廷人たちが唐から大々的に輸
1221年5月に 後鳥羽上皇は院宣という命令書を出し、 全国の武士に北条義時を倒すよう命令しました。 京都近隣の武士が中心となり 幕府を倒すために挙兵したのです。 院宣を出した後鳥羽上皇は 「朝廷の命
後鳥羽上皇は、 鎌倉幕府の内部で混乱があれば、 御家人同士が争い朝廷が、 つけいる機会が生じるのではと考えました。 上皇はまた朝廷に年貢を納めない 武士と衝突することもあり、 上皇はますます鎌倉幕府
後鳥羽上皇は、 鎌倉幕府内部の権力争いを尻目に、 領地の拡大、軍事力の強化をはかります。 分散していた天皇領をまとめて資金力を確保し、 さらに従来からある北面の武士(ほくめんのぶし)に加えて、 西面
承久の乱は、1221年に後鳥羽上皇が 再び上皇中心の政治を取り戻すべく、 鎌倉幕府を討ち滅ぼそうとして起こした戦いです。 鎌倉幕府が誕生したとき 朝廷で最も権力を持っていたのは 天皇よりも上の位に就いて
日本は、六〇〇年から一〇〇〇年までの間に、 仏教、儒教をはじめ輸入し得る支那文化の あらゆる要素を歓迎して受け入れました。 外国の文物に対する日本人の精力的な熱狂性は、 それ以後の時代にも何度かくり
ヒマラヤの南側では、 ベンガルとカシミールが、 インド文化の重要な周辺地域となりました。 この二地方にはいずれも、 強力な地方国家が出現して、 インド北部の平野部を政治的に支配しましたが、 いずれも
安南(現在のヴェトナム北部)は 以前から支那の文化的衛星国となっていましたが、 この頃雲南がこれにつづきました。 チベットは、支那とインドの中間に位する という地理的な立場を利用して、 双方からさま
道長は大宰府の使いに、 「改元の後、必ず追討の勅符を下さん」 といいました。 しかし豪胆の道長も、今はすでに衰老しました。 そのうえ子供の三条中宮 及び皇太子の妃嬉子(きし)の二人を失い、 意気消
朝廷で、隆家らの功を論ずるとき、 権大納言藤原公任(きんとう)、 中納言藤原行成(ゆきなり)らは功を排して、 「勅符を俟(ま)たずして兵を発す、 功ありといえども罪もまた大なり」 といいました。 権大納言
しかし東丹は去ってすでに跡かたもありません。 この戦で、 筑前(ちくぜん)・壱岐(いき)・対馬(つしま)三国で 殺戮(さつりく)せられたものは四百六十二人、 劫掠(こうりやく)されたものは一千二百八十九人、
壱岐守藤原理忠(まさただ)は 契丹と戦って死にました。 当時、藤原伊周(これちか)の弟隆家(たかいえ)は、 大宰帥(ださいのそつ)に左遷されていましたが、 勅符を俟(ま)たずに、 前少監大蔵種材(さきのしよう
醍醐天皇の時、 漠北(ばくほく:ゴビ砂漠の北方の地〉に 契丹の太祖阿保機(あぼき)が起り四方を侵略し、 渤海を下し、国号を東丹国と改めて、 その子突欲にこれを治めさせました。 その頃、高麗(こうらい)の
天智天皇の時、 唐、新羅(しらぎ)と合従(がっしよう)して 百済(くだら)・高麗(こま)を亡ぼしました。 すでに新羅の、 二国の故地を併呑(へいどん)して朝鮮を一統しました。 この時靺轕(まつかつ)の族種 〈
我が国では国を治める2つの方法について 『古事記』上巻「出雲の国譲り」の段で、 天照大神(あまてらすおおみかみ)が 建御雷(たけみかつち)神をして 大国主(おおくにぬし)神に問わしめた言葉に 「汝のうしはけ
『古事記』の場合、原典となったのは、 皇室の系図である『帝紀(ていき)』、 そして神話や伝承を記した 『旧辞(きゆうじ)』の2冊です。 もっとも原典になったといっても 『帝紀』と『旧辞』から 『古事記』
「牛、馬、犬、さる、鶏の肉を食べてはならない」 という食生活についての国家の方針は 牧畜や狩猟を積極的に行う ヨーロッパなどの人々とは異なる生き方を 日本人に選ばせました。 日本人は農業をもっぱらに
天武天皇は妻の持統天皇と共に 薬師寺を中心とした仏教文化を推進しました。 天武天皇が亡くなったあと、 皇后から天皇へ転身した持統女帝は、 政治的リアリズムの極致をゆく、 驚くべき女性でした。 即位
本格的都城であった藤原京を廃して さらに平城京を造営した目的は、 第一に、 律令を整備し、長年の目標であった中央集権、 全国支配を実現しえた自信と 唐に似せた小帝国を建設した自負に支えられて、 大都城
七〇八年九月に巡幸して地形を調査し、 直ちに阿倍宿奈麻呂、多治比池守を 造平城京司長官に任命し、 一二月には平城宮の地で地鎮祭を行うなど、 手際よく事業をすすめていた 元明(げんめい)天皇は七一〇年三月
地方では、国郡里制が制定され、 政府から全国に国司が派遣されます。 これがいわゆる旧国名に繋がるのですが、 さらに東海道・中山道・北陸道・山陽道・ 山陰道・南海道・西海道の 七道と呼ばれる地域と 大
天皇中心の国家を作るために大宝律令では 中央政府と地方区分について決められました。 まず、中央政府の方では 二官八省と呼ばれる体制が築かれました。 二官というのは 太政官と神祇官のことを指すのです
律令の律の部分です。 五刑というのは犯罪を犯した時に 犯人に対してどのようなことを行う というのを決めたもので、 笞刑(細い竹の棒で叩く刑罰。 10回から50回まで10回刻みで別れています)、 杖刑(太い木
藤原不比等は文武天皇を擁立したことや 大宝律令を制定したことによって 政治的な権力基盤を築くことになり、 のちに続く 藤原家の基礎を作っていくことになります。 大宝律令とは701年に制定された 日本初
壬申の乱という古代日本の中で 最大規模の内乱に勝利した天武天皇は 日本を近代化させるために 自ら政治を行い始めます。 天武天皇は妻の持統天皇とともに かつて天智天皇が目指そうとした 大化の改新を成し
藤原京の宮殿の屋根は瓦葺が採用されており、 その重量に耐えるために 大きな柱と礎石を大量に必要としました。 しかし、 近隣の山や森林のみでは用材の調達に不足したので、 「藤原宮役民の作れる歌」に詠ま
新都造営の動きは、 壬申の乱彼の中央集権的な支配機構の形成過程、 とりわけ飛鳥浄御厨令の編纂がはじまる 天武十年前後から、にわかに活発化します。 律令国家の首都として、 唐の長安・洛陽、新羅の慶州に
六六八年三月、 皇太子中大兄(なかのおおえ)皇子は 都を飛鳥から近江の大津に遷しました。 だが、この遷都にはかなりの抵抗がありました。 『書紀』は 「この時に、天下の百姓、都遷ること願はずして、 諷
額田王(ぬかたのおおきみ)」は 飛鳥時代に活躍した歌人です。 額田王に関する資料は、非常に少なく、 誕生は630年ごろ、 没年は690年ごろとされていますが、 生没年や両親についても詳しいことは分かってい
約一ヵ月にわたって戦われた壬申の乱は 大海人皇子の圧倒的勝利に終りました。 大海人皇子の最大の勝因は、 貴族・地方豪族の 広い支持を得ることができたからです。 彼らは天智天皇の急進的改革(大化の改
明くれば壬申の年(六七二)、 吉野で忍従の日々を送っていた大海人皇子は、 天智没後の政情不安のさなかの六月二四日、 わずかな従者とともに東国へ進発し、 ここに壬申の乱が勃発したのです。 昼夜兼行で伊
乱の原因は、天智天皇が 弟の大海人(おおあま)皇子を皇太弟に立てて 次期皇位継承者としていたことにあります。 しかし天智天皇の長子大友(おおとも)皇子は 卑母の所生ですが、 人並以上の資質に恵まれていた
しかし、 中大兄皇子の救援軍派遣による 百済復興軍の勢力の活発化も 唐が大軍を百済に送ると一変し、 復興軍内部に内証がおこり、 豊璋が福信を謀反の疑いありとして 殺害する事態に陥りました。 八月、唐
六六〇年一二月に至り、 斉明女帝は百済救援軍派遣を宣言しました。 朝鮮半島から遮断され、 さらには第二の百済になる可能性もある という危機感が、 敢(あ)えて軍事的冒険に踏み切らせた要因です。 翌正