封建的な雰囲気のなかで、 新しい西欧の科学が成熟しました。 それは、特権と腐敗が 広くはびこっていたにもかかわらず けっして不利な雰囲気ではありませんでした。 西欧の プロテスタンティズム(新教運
「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。
自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。 これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。 充実して生きる道を探しているのだ。 それが、何にもまして一番重要なことなのだ。 それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。
1569年年の四月八日、 信長は都を追放されて堺に住んでいた、 宣教師ルイス=フロイスに面会しました。 フロイスはこのときの信長の印象を、 つぎのようにローマに報告しています。 「この尾張の王は年齢が
のちに信長と京都で会った耶蘇会士ルイス=フノロイスは、 かれを評して 「倣慢」「ほとんど規律に服せず。」といっています。 規律に服さないとは、 旧来の習慣や規格にとらわれないという意味です。 信長
一五四三年に、 ポルトガル人の乗ったジャンク船が 種子島に漂着して鉄砲を日本に伝えました。 船の持ち主は、 倭寇の首魁(しゅかい)である 明人の王直(おうちょく)です。 ポルトガル商人が倭寇と一緒に、
われわれは知るところが少ないにもかかわらず、 大洋を航海する船が、 病原菌を広めた全体的な結果について、 知ることはできます。 第一に、それまで孤立して 暮らしていた住民たちが、 致命的な人命損失を
西欧の船は、多くの疫病―― その中には黄熱病やマラリアのような 命にかかわる病が明らかに含まれていました ――をアフリカから新世界に運び、 そこで蚊の媒介によって 中央アメリカおよび南アメリカの各地方を、
病気は、価格の変様と同様、 人間の意思とは無関係に、 まったく理解されることなしに、 広まりました。 病気の拡大に伴う事情は はっきりとはしません。 その理由は、 アメリカにおける原住民の間であれ
アメリカ産の栽培植物の発見は、 各地域の食橿供給を増大させ、 それに伴う人口増加を引きおこしました。 このことは確実に支那南部におこりました。 またアフリカ、特に西アフリカにおける 人口の劇的な増
アメリカの栽培植物は、植物学的に、 旧世界で知られているものとは まったくちがっていました。 西欧、アジアおよびアフリカの 農民たちがそれまで知っていたものを補う きわめて価値ある作物でした。 例
伝統的な社会・経済的諸関係 によって定められていた、 確たる日常生活の中のすべての安定性は、 一五〇〇年と一六五〇年の間に 西欧におこった激しい物価変動のため ついえ去りました。 各政府は、それまで
コルテスは翌二一年、 大軍を率いてふたたび来襲し、 四カ月かけてメキシコを完全に征服しました。 つづいて、フランシスコ・ピサロは、 南米のペルーを中心とする インカ帝国の首都クスコに入城し、 ペルー
いっぼう、スペインの植民者は 中南米地方へ探検を進め、 一五一三年九月には. ハナマ地峡を乗りこえ、 太平洋を望む地点へ到達しました。 その間、 冒険と黄金の夢にとりつかれた 投機的な荒れくれ男たち
一五世紀の末に、 地理上の発見を他国に先がけてなしとげた スペインとポルトガルは、 一六世紀の前半にさらに探検の歩みを進めました。 ボルトガルはインドのゴアに基地と商館を設け、 香料とくに胡椒を求め
フランス、イギリス(イングランド)、 オランダといった国々は この条約によって領土獲得の優先権から 締め出される形となりました。 この状況を打破するには、 スペインやポルトガルの船団に対して 海賊行
ジョアン2世は スペインのフェルディナンド2世と直接交渉し、 1494年に教皇子午線からさらに西に270レグア進んだ 子午線を境界線とするトルデシリャス条約を締結しました。 1506年にはアレクサンデル6世の次の
1492年、クリストファー・コロンブスが 「インド」(実際には西インド諸島)に到達し、 帰還しポルトガル・スペイン両国において 「新世界」への冒険的航海がブームとなりました。 しかしコロンブス以前から、
わが国への鉄砲の伝来については よく聞かされますが、 鉄砲の放棄についてはあまり聞かない。 しかし鉄砲放棄のもつ意味合いは大きい。 世界の歴史は戦争の歴史ともいわれ、 同時に武器の発達の歴史でもあ
活発な経済的、文化的な交流の背景に、 中世における人知・人力を超えた 疫病のような共通の体験(危機)があったのです。 その解決を求めての未知なる海外への進出、 そこでの強烈な国際交流のなかから、 そ
網野善彦は 「南北朝の内乱は民族の体質、 あるいは民俗の根底に関わる 大きな構造上の転換期」で、 この動乱期を節目として 「呪術性が次第に社会から消えていく…… 理性が優位を次第に占めてくる」 としてい
ユーラシア大陸の かなり広域な部分を襲ったとみられる 疫病はほぼ一三五〇年に始まり、 その後少なくとも百五十年間は 深刻な危機をもたらす形で続発しました。 一三五〇年頃というと、 わが国ではちょうど
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封建的な雰囲気のなかで、 新しい西欧の科学が成熟しました。 それは、特権と腐敗が 広くはびこっていたにもかかわらず けっして不利な雰囲気ではありませんでした。 西欧の プロテスタンティズム(新教運
近代産業は 封建的条件から興こることはできませんでしたし、 ルネサンスの大公たちの大権から興こることも できませんでした。 大公たちはふんだんに浪費し、 常に金に不自由し、 また常に人から金をだまし
スタートヴァントは 開発費用と採算性の吟味を十分考慮に入れ、 資本調達の方法についても はっきりした計画をもっていました。 しかし彼は失敗しました。 技術上の無能のためではありません。 彼は今日
スタートヴァントは、 新産業時代の夜明け前に 発明の技術面と経済面との問題について、 多くの点で貴重な発言を書き残しました。 彼は次のように述べています 「ユーレテイカ――発明の術、 新しいものを発見
発明家の一人に コルネリウス・ドレベル(一五七二-一六三四年)がおり、 潜水船を作ってテムズ河で人にみせましたが、 もっと儲かる事業として緋色染料を輸入しました。 オランダ人で後世に名を残さなかった
産業革命の需要が加えた圧力が、 新奇なものに対する態度を変えました。 ひとたび利潤というものが公然と認められ、 新奇な方法が 富を約束することができるようになると、 人は新奇なものをさけるより むし
一方、西欧ではルネサンスから 科学の応用の実用の時代が始まりました。 科学の確実な応用の場として 航海者が要求したのが天文学と航海術です。 これは古代から、 占星術と暦の作製に奉仕して 活動してき
一六世紀末から一七世紀始めの西欧の 産業の高揚は最初の産業革命 と呼ばれてきましたが、 そこに含まれた技術上の新機軸の点でも 科学の利用の点でも、 それは一八世紀の大産業革命と 同列に並べることはでき
儒学を見れば江戸文明が、 健全な日本文明の特色を 具備していたのは、明らかです。 当時の知識人である武士というものを 形づくつてゆく原理となった 日本独自の発展を見た儒学は、 支那の儒教をもとに つ
一七七〇年代前半は、錦絵が流行し、 日本文化の百花斉放がくりひろげられます。 杉田玄白らが 『解体新書』を翻訳・出版して蘭学をおこし、 三浦梅園がヘーゲルにさきがけて ヘーゲルの弁証哲学と同等の哲学
江戸の人口は、 一六三四年(寛永一一年)に 約一四万八〇〇〇と記されていますが、 一八世紀の.一七二一年(享保六年)には 五〇万を突破し、大阪をしのいでいます。 ただし当時の人口調査では 少年・幼児
すでに一七六〇年代末から錦絵が流行し、 出版界が活気づいていましたが、 一七七一年に本居宣長の 『直毘霊』があらわされて、 国学が一つの頂点に達し、 一七七四年に杉田玄白らが 『解体新書』の翻訳をおえ
このような江戸を中心とする 都市の発展は、 じつは一八世紀の日本の商工業が、 いちじるしく発達していたことを 意味しています。 その一つの例ですが、 一七五○年代には、 すでに日本には初期資本主義の
衣類や茶や紙の生産が活発になり、 これらの消費がさかんになります。 商品流通が発達しはじめたのです。 そこで、 商品生産と流通をつかさどる 新興商人があらわれ、 日本の社会は、それ以前の 単純な封
江戸時代の平和な環境のなかに、 日本の農業は いちじるしく発展をしていました。 まず、 一七世紀(江戸時代の最初の百年間)に 米の収穫高が約一倍半も増加しています。 豊臣時代の文禄元年(一五九二年
日本では、江戸時代にはいってから 表面的には内戦がなくなり、 平和な状態がつづきました。 そのため一七世紀に農業はかなり発展し、 米・綿・茶などの増産にささえられて、 城下町の文化はしだいに発達しま
ナポレオンは 一八一一年、ロシアに侵入し敗退します。 この敗戦を聞いた西欧の国ぐには、 フランス(ナポレオン)に対して 反乱をおこしました。 そしてナポレオンは戦いにやぶれ、 地中海のエルバ島へな
ナポレオンは、一七六九年に 地中海のコシカ島で生まれ フランスの陸軍上官学校をでて、 フランス革命のときは中尉でした。 革命後のフランスは、 外国軍の侵入により 自由・平等の革命理念が つぶされそう
フランス革命は一七八九年におこりました。 革命のきっかけは、 フランス王室のぜいたくから 国家財政が危機にひんしたところへ、 一七八八年、凶作に見まわれ、 その影響をうけた国民が、 不満を爆発させた
ボルテールにつづいて、 フランスの最大の知識人はルソーです。 ルソーは一七五五年に 「人間不平等起源論」を書き、 文明の発達にともない 人間の自由がうばわれて 不平等が生みだされたと主張し、 文明の
聖フランチェスコの 強烈な聖なるものの追求は、 彼を異端の際まで押しやります。 弟子たちのある者は、 教皇や教会の司教たちが、 (托鉢士たちが実行することを 原則としているように) 貧しい暮らしをし
行動の領域では、合成総合よりも、 多様さと矛盾の方がきわだっていました。 しかし、対立しあう傾向や思想は 互いにバランスをとりあい、 結果として人間の 衝動の範囲の広さが生かせました。 例えば、キ
「文化」において、 西洋の学者たちは自分たちが 古代ギリシャ・ローマを受け継いでいる と自負しているため、 「古代」と「近代」の問に「中世」を挟んで、 いかにも西洋「文化」が一貫して 継続しているよう
アクィナスには 批判者がないわけではなかった。 そのうちで最も影響力があったのは、 論理的証明の長い連鎖に不信を抱いて、 神秘的体験により得られる 神的なるものの確実性の方を好み、 世俗のものの知に
中世末期の日本の変化は、 社会の発展がその基礎にあり、 南蛮人の影響でおこったのではない。 その発展を一向宗と法華宗いう 二つの宗教がささえました。 親鸞のひらいた一向宗(真宗)は、 農民ばかりで
西欧における神学の領域では、 信仰と理性は、 聖トマス・アクィナス(一二七四年没)や アルベルトウス・マグヌス(一二八〇年没) のような神学者の力で、 決定的に和解させられました。 アクィナスの『神
西欧の中世文化が ようやく芽生える準備を始めたころ、 日本は後醍醐天皇によって、 天皇親政による専制国家という 近世の政治様式を目指しました。 しかし、 この建武の中興は容易に進まず 所領問題、恩賞
およそ一二〇〇年と一三〇〇年の間に、 中世西欧文化の上昇曲線の躍進は、 もっと複雑で困難ではありますが、 しかし大きな豊かさを持った構造へと 発展をとげました。 一方においては、キリスト教の信仰、
日本に仏教文化が花開いたころ イスラーム教が生まれ、 イスラーム勢力は ゲルマン民族の大移動により 秩序の崩れた西欧に侵入していきます。 これに対しフランク王国の カール・マルテルが勝利し フランス
西欧の中世では、キリスト教は、 社会生活と密接に関連しています。 教会は絶大な権力をもち、 社会生活もすべて キリスト教を中心にしてうごいています。 そのため、教会の腐敗は、 たちまち社会の堕落に
西欧では長年、世俗の権力 (ローマ市の貴族やローマ周辺の有力者)が ローマ法王を決定する習慣がありましたが、 これが堕落の源となっていました。 ローマ法王庁が 世俗の力によって支配されるなら、 ヨー
西欧での農業生産がすすむと、 社会も大きくかわりはじめました。 まず「農村」がいたるところにあらわれます。 さらに重要な点は、 この農村が生まれたことによって、 農村から都市へ発展していく 要因が
一〇世紀までの西欧では、 農業はひどくたちおくれて 牧畜が生産の主流でした。 それというのも、 西欧の土はしめり気が多く重いので、 たがやすのに困難をきわめたからです。 「一粒の種をまいて一粒の麦
社会における産業の発達の段階と、 科学の発展における様相の変化は、 かなりの程度に並行しています。 生産の発展のための技術的問題が 科学研究を推進するということもあるし、 科学と技術がともに社会の発
15世紀なかばごろから 現代にいたるまでの近代科学の発展は、 どのような様相を示しているかを見るためには, 近代科学の歴史を いくつかの時代に区分することが必要であり、 またその区分を可能にするような
西欧の回復がはじまってから 一二〇〇年ごろまでの二世紀以上の期間、 西欧は、アラビア、ビザンティンの 高度に発達した科学や数学、天文学を 食欲(どんよく)に吸収し、 同時に大胆で精力的な創造に力を注いだ
イスラームの時代が過ぎ去ったのち ロマネスクとよばれる 西欧のキリスト教文化が作られます。 これは十一世紀のことです。 イスラーム文明は、十字軍の頃、 非常に高い文化をもっています。 バグダッド
日本に仏教文化が花開いた頃、 世界では、イスラーム教が生まれ、 その勢力を増していました。 ローマ帝国の衰退の後、 西欧はゲルマン民族の大移動によって、 それまでの秩序が崩壊していく中で、 イスラー
15世紀後半には, たとえば天文学における新しい動きが生じたり, 科学者としても大先覚者である レオナルド・ダ・ゲインチ (Leonardo da Vinci 1452-1519イタリア) のような人物があらわれたりしています。
豊臣政権のとった外交方針は、 統一政権の基礎を 外国貿易と海外発展によって堅固にし、 外国に対する威圧と征服とによって 勢威の拡大をほかる 封建的国家権力独得の方法であって、 そこにイスパニヤ・ポルト