すでに一七六〇年代末から錦絵が流行し、 出版界が活気づいていましたが、 一七七一年に本居宣長の 『直毘霊』があらわされて、 国学が一つの頂点に達し、 一七七四年に杉田玄白らが 『解体新書』の翻訳をおえ
「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。
自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。 これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。 充実して生きる道を探しているのだ。 それが、何にもまして一番重要なことなのだ。 それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。
貿易と布教の盛況は長く続きませんでした。 幕府の権力を中心とする封建的支配体制が 成立してゆくにしたがい、 キリスト教の発展は、 再び幕府の危惧を呼び起したのです。 その上、蘭・英両国が商敵の ポ
貿易の隆盛にしたがって、 南方諸国に移住するものも増加し、 主なる貿易地には 大てい日本町がつくられました。 山田長政はこの日本町の首領から、 シャムの王侯に立身しました。 このよぅに 通交貿易の
わが商人は輸入貿易だけでなく、 直接に輸出貿易の利を収めようとしました。 幕府は海外に渡航する商人に対して 渡海朱印状を下付して、 統制と保護との効果を収め、 一六〇四(慶長九)年から一六三六(寛永
当時の日本の貿易市場では、 シナ南部及び南アジア方面産の 生糸・絹布・綿布・監T・薬種・香料数が 主な輸入品であり、 西洋の毛織物・銃砲・火薬・雑貨などこれに続き、 わが輸出品は銀・銅・硫黄・樟脳及び
江戸幕府は イスバニア・ポルトガルに対しても、 貿易の振興のため、 豊臣政権末期のキリスト教取締を緩和して、 来朝の宣教師を利用して 斡旋させる旧来の方法をとりました。 その結果、 秀吉の強硬策のた
江戸幕府の対外政策は、 国内の中央集権の進行の過程と歩調を合せ、 常に権力の保持を目的とします。 政権を担った当初は、 諸国との修好貿易の促進によって、 みずから経済上の利益を収めるとともに、 国の
家康は将軍任官の慶長8年(1603)に、 三河国や遠江国の諸寺社に対して、 数多くの寺領寄進状・社領寄進状を発給します。 一方で、畿内近国の諸寺社へも 寄進状を発給しています。 また、慶長20年(1615、
戦国時代を統一した豊臣秀吉は、 西国大名が南蛮貿易の利益を 独占するのではないか、 という危惧を抱いていました。 天正15(1587)年に 薩摩の島津を倒して九州を平定した秀吉は、 同年長崎を直轄領として
デ・オランディアの発言が秀吉の耳に届き、 スペインおよび宣教師たちの活動が 日本の植民地化を視野に入れたものである との疑いを強くした豊臣政権は、 以降キリスト教への態度をより硬化させました。 豊臣
サン=フェリペ号事件当時、 秀吉による明と朝鮮の征服の試みが頓挫し、 朝鮮・明との講和交渉が暗礁に乗る 緊迫した国際情勢で、 それ以前の1591年に原田孫七郎は フィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏、
増田長盛に面会した サンフェリペ号の水先案内人で航海長であった デ・オランディアは 憤って長盛に世界地図を示し、 スペインは広大な領土をもつ国であり、 日本がどれだけ小さい国であるかを語りました。
長宗我部元親の助言を一同で協議の上、 船の修繕許可と身柄の保全を求める使者に 贈り物を持たせて秀吉の元に差し向け、 船長のランデーチョは長浜に待機しました。 しかし使者は秀吉に会うことを許されず、
1596年8月28日(同年10月19日)、 サンフェリペ号は四国土佐沖に漂着し、 知らせを聞いた長宗我部元親の指示で 船は浦戸湾内へ強引に曳航され、 湾内の砂州に座礁してしまいました。 大量の船荷が流出し、
1596年7月、 フィリピンのマニラを出航した スペインのガレオン船サン=フェリペ号が メキシコを目指して 太平洋横断の途につきました。 ガレオン船には 100万ペソの財宝が積み込まれていたのです。 船長
家康の外交政策は、 平和的な関係を築くことを目指し、 外国との貿易を 積極的に推進するものでした。 彼の政策は、 江戸幕府の基盤を築く上で 重要な役割を果たしました。 彼は、江戸幕府を開いた後、
山田長政は政敵プラーサートトーンを 排除しようとします。 リゴールで山田長政を待ち受けていたのは、 隣国・パタニーとの戦です。 激戦の末、 彼はリゴール平定に成功しますが、 足に大けがを負ってしま
やがて、山田長政は アユタヤ王朝の津田又左右衛門を筆頭とする 日本人傭兵隊に加わり、 武芸の才能を発揮。 アユタヤ郊外にある 日本人町の頭領となりました。 彼はアユタヤに出入りする船を監視したり、
慶長三年(一五九八)、 豊臣秀吉が六十二歳で病死すると、 秀吉が臨終のときに成立した 五大老と五奉行を主体とする豊臣政権も 次第に動揺しました。 五大老の筆頭である徳川家康が、 秀吉の遺令に違背し、
山田長政は天正18年(1590年) 駿河国富厚里(静岡市葵区)で生まれました。 家は染物屋の商人で、 彼は武芸を学んだり、 臨済寺で学問を習ったりしました。 武士になりたいという夢を抱いた彼は 沼津に移
アメリカは一八九八年に 米西戦争でスペインを破り、 スペイン統治下のフィリピンを領有しました。 ロシアは。南下政策とともに北アジアに迫り、 清の弱体化につけこんで 満州のアムール川以北と沿海州を領有
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すでに一七六〇年代末から錦絵が流行し、 出版界が活気づいていましたが、 一七七一年に本居宣長の 『直毘霊』があらわされて、 国学が一つの頂点に達し、 一七七四年に杉田玄白らが 『解体新書』の翻訳をおえ
このような江戸を中心とする 都市の発展は、 じつは一八世紀の日本の商工業が、 いちじるしく発達していたことを 意味しています。 その一つの例ですが、 一七五○年代には、 すでに日本には初期資本主義の
衣類や茶や紙の生産が活発になり、 これらの消費がさかんになります。 商品流通が発達しはじめたのです。 そこで、 商品生産と流通をつかさどる 新興商人があらわれ、 日本の社会は、それ以前の 単純な封
江戸時代の平和な環境のなかに、 日本の農業は いちじるしく発展をしていました。 まず、 一七世紀(江戸時代の最初の百年間)に 米の収穫高が約一倍半も増加しています。 豊臣時代の文禄元年(一五九二年
日本では、江戸時代にはいってから 表面的には内戦がなくなり、 平和な状態がつづきました。 そのため一七世紀に農業はかなり発展し、 米・綿・茶などの増産にささえられて、 城下町の文化はしだいに発達しま
ナポレオンは 一八一一年、ロシアに侵入し敗退します。 この敗戦を聞いた西欧の国ぐには、 フランス(ナポレオン)に対して 反乱をおこしました。 そしてナポレオンは戦いにやぶれ、 地中海のエルバ島へな
ナポレオンは、一七六九年に 地中海のコシカ島で生まれ フランスの陸軍上官学校をでて、 フランス革命のときは中尉でした。 革命後のフランスは、 外国軍の侵入により 自由・平等の革命理念が つぶされそう
フランス革命は一七八九年におこりました。 革命のきっかけは、 フランス王室のぜいたくから 国家財政が危機にひんしたところへ、 一七八八年、凶作に見まわれ、 その影響をうけた国民が、 不満を爆発させた
ボルテールにつづいて、 フランスの最大の知識人はルソーです。 ルソーは一七五五年に 「人間不平等起源論」を書き、 文明の発達にともない 人間の自由がうばわれて 不平等が生みだされたと主張し、 文明の
イギリスで市民革命が成功してのちも、 フランスでは国王の力がつよく、 国王による独裁政治がつづいていました。 しかし、 一八世紀に多くのフランスの知識人が、 独裁政治にたいしてたたかい、 一八世紀末
アメリカが独立したとき、 その国土はまだ東海岸に近い 東部十三州のみでしたが、 一九世紀のうちに、 アメリカ人は西へ西へと進撃をつづけ、 一八五○年ごろに、 ついに太平洋岸まで到達しました。 その拡
アメリカの独立宣言文の最初に、 つぎのように記されています。 「われわれは自明の原理として、 すべての人は平等につくられ、 造物主によって、 一定のうばいがたい諸権利を賦与され、 そのなかに生命、自
一八世紀の西欧は、 一七世紀のイギリスにおこった市民革命が 各国にひろまっていった時期です。 注目されるのは、 アメリカの独立(1770年代)と フランス革命(一八世紀末)です。 アメリカには一七世紀
不平等条約説は、 これまで述べてきた日米和親条約と その四年後に締結された 日米修好通商条約とを あわせて論じられてきました。 なお最恵国待遇(条項)がいきていたため、 そのほかの列強との条約も 上
大東亜戦争の戦後の時期に、 日本の戦争責任の問題もからみ、 日本とその他アジア諸国とのあいだに、 近代の「共通性」をもとめる力がはたらいて、 再度この条約の不平等性が強調されました。 その場合、アジ
日米和親条約の調印は 一八五四年三月三一日でしたが、 「正文」を何語にするか の話し合いがなかったため、 最後の段階で応接掛は 外国語文への署名を拒否し、 ペリー側をあわてさせました。 日本文(応接
ペリーの贈り物にたいして幕府は、 米をはじめ反物や漆器類を贈呈し、 さらにべリーからの要望により 作物の種子や苗も贈りました。 贈り物の点では、アメリカ側が、 それを条約交渉にうまく利用しました。
最初に宴会を催したのは幕府側ですが、 贈り物の贈与で先手をとったのは アメリカ側でした。 一八五四年三月八日の 応接掛が催した宴会で、 ペリー一行は条約草案を提示しました。 その一週間後に幕府の条
アメリカ草案にたいして、 幕府は一週間後に アメリカに草案をわたしましたが、 それはまるで木で鼻をくくったような そっけない内容でした。 すべての交渉を長崎でやる、 という意味の旧来の幕府の態度を
アメリカ草案は、 望厦条約を基礎に不必要な部分を削除する という手順と論理で構成されていました。 草案と望厦条約漢文版とを 同時に応接掛にわたした理由も そこにありました。 応接掛はその削除にとも
西欧での農業生産がすすむと、 社会も大きくかわりはじめました。 まず「農村」がいたるところにあらわれます。 さらに重要な点は、 この農村が生まれたことによって、 農村から都市へ発展していく 要因が
一〇世紀までの西欧では、 農業はひどくたちおくれて 牧畜が生産の主流でした。 それというのも、 西欧の土はしめり気が多く重いので、 たがやすのに困難をきわめたからです。 「一粒の種をまいて一粒の麦
社会における産業の発達の段階と、 科学の発展における様相の変化は、 かなりの程度に並行しています。 生産の発展のための技術的問題が 科学研究を推進するということもあるし、 科学と技術がともに社会の発
15世紀なかばごろから 現代にいたるまでの近代科学の発展は、 どのような様相を示しているかを見るためには, 近代科学の歴史を いくつかの時代に区分することが必要であり、 またその区分を可能にするような
西欧の回復がはじまってから 一二〇〇年ごろまでの二世紀以上の期間、 西欧は、アラビア、ビザンティンの 高度に発達した科学や数学、天文学を 食欲(どんよく)に吸収し、 同時に大胆で精力的な創造に力を注いだ
イスラームの時代が過ぎ去ったのち ロマネスクとよばれる 西欧のキリスト教文化が作られます。 これは十一世紀のことです。 イスラーム文明は、十字軍の頃、 非常に高い文化をもっています。 バグダッド
日本に仏教文化が花開いた頃、 世界では、イスラーム教が生まれ、 その勢力を増していました。 ローマ帝国の衰退の後、 西欧はゲルマン民族の大移動によって、 それまでの秩序が崩壊していく中で、 イスラー
15世紀後半には, たとえば天文学における新しい動きが生じたり, 科学者としても大先覚者である レオナルド・ダ・ゲインチ (Leonardo da Vinci 1452-1519イタリア) のような人物があらわれたりしています。
豊臣政権のとった外交方針は、 統一政権の基礎を 外国貿易と海外発展によって堅固にし、 外国に対する威圧と征服とによって 勢威の拡大をほかる 封建的国家権力独得の方法であって、 そこにイスパニヤ・ポルト
徳川家康(とくがわ いえやす)の生涯は 多くの困難と戦いに満ちていました。 幼少期には今川家の人質となり、 その後独立して織田信長と同盟を結びます。 信長の死後は豊臣秀吉との 関ヶ原の戦いで勝利を
豊臣秀吉による朝鮮出兵は、 文禄の役(1592年~1593年)と 慶長の役(1597年~1598年)です。 これは、秀吉が 天下統一を成し遂げた後に行われた 大規模な軍事遠征で、 秀吉は、 明の征服を目指し、 李氏
秀吉は1588年の刀狩令で武装解除を進め、 農民から武器を取り上げることで 社会の安定を図り、これによって兵農分離を行い、 近世封建体制の基礎をつくりました。 刀狩令の目的は、一揆を防ぐことで、 安定し
秀吉は織田信長の家臣として出発し、 本能寺の変のあと、 秀吉が光秀を倒して 信長の後継者として認知され、 織田家の実権を握り、 天下統一を目指しました。 天下の趨勢を決したのが「中国大返し」でした。
本能寺の変は、1582年6月21日に発生した、 日本の歴史上非常に重要な出来事です。 この事件で信長は、 家臣の明智光秀による謀反に遭い、 京都の本能寺で自害しました。 信長は当時、 天下統一に向けて大
信長の世界観は、 当時の日本における伝統的な 価値観や宗教観とは一線を画すものです。 彼はキリスト教を受け入れ、 その教えに興味を持ち、 日本における キリスト教の布教を保護しました。 信長はキリ
長篠の戦いは、 織田信長率いる織田軍と 武田勝頼率いる武田軍が対峙した 大きな合戦です。 この戦いは、 天下統一のきっかけとなる出来事で、 現在の愛知県新城市で行われました。 織田信長は、鉄砲を積
新兵器、鉄砲の登場にすぐさま反応したのは、 各地の戟国大名たちだった。 最も早く実戟に投入したのが薩摩の島津氏。 伝来から六年目のことです。 中国地方の覇者、毛利元就は、 敵の鉄砲に気をつけるよ
守護大名の分国支配体制では、 守護がおのおの分国の 支配権を握っていましたが、 その国内には大小種々の土豪が自立散居し、 その上、荘園の遺制が残存し 公家・社寺の所領が散在する土地も多かったので、 領
応仁の乱の後、 約百年の間続いた群堆割拠の戦国時代が、 織田信長・豊臣秀吉の覇業によって治まり、 彼らの支配のもとに 新たな時代の幕が開かれたことは、 封建制度史上に劃期的特色をなすものです。 戦国
時尭は直ちに鉄砲の複製をつくることを命じました。 鉄砲伝来のわずか半年前の天文一二年三月、 種子島氏は、大隅半島の豪族、禰寝氏に攻め込まれ、 領土であった屋久島を奪い取られ 久島奪還をめざす時尭にと