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千の朝 https://plaza.rakuten.co.jp/beabea65/

「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。

 自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。  これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。  充実して生きる道を探しているのだ。  それが、何にもまして一番重要なことなのだ。  それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。

beabea65
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水戸市
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2014/09/11

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  • 宣教師の掃滅

    貿易と布教の盛況は長く続きませんでした。 幕府の権力を中心とする封建的支配体制が 成立してゆくにしたがい、 キリスト教の発展は、 再び幕府の危惧を呼び起したのです。 その上、蘭・英両国が商敵の ポ

  • 貿易と布教の盛況

    貿易の隆盛にしたがって、 南方諸国に移住するものも増加し、 主なる貿易地には 大てい日本町がつくられました。 山田長政はこの日本町の首領から、 シャムの王侯に立身しました。 このよぅに 通交貿易の

  • 朱印船貿易

    わが商人は輸入貿易だけでなく、 直接に輸出貿易の利を収めようとしました。 幕府は海外に渡航する商人に対して 渡海朱印状を下付して、 統制と保護との効果を収め、 一六〇四(慶長九)年から一六三六(寛永

  • 江戸幕府の対外政策3

    当時の日本の貿易市場では、 シナ南部及び南アジア方面産の 生糸・絹布・綿布・監T・薬種・香料数が 主な輸入品であり、 西洋の毛織物・銃砲・火薬・雑貨などこれに続き、 わが輸出品は銀・銅・硫黄・樟脳及び

  • 江戸幕府の対外政策2

    江戸幕府は イスバニア・ポルトガルに対しても、 貿易の振興のため、 豊臣政権末期のキリスト教取締を緩和して、 来朝の宣教師を利用して 斡旋させる旧来の方法をとりました。 その結果、 秀吉の強硬策のた

  • 江戸幕府の対外政策1

    江戸幕府の対外政策は、 国内の中央集権の進行の過程と歩調を合せ、 常に権力の保持を目的とします。 政権を担った当初は、 諸国との修好貿易の促進によって、 みずから経済上の利益を収めるとともに、 国の

  • 家康の外交

    家康は将軍任官の慶長8年(1603)に、 三河国や遠江国の諸寺社に対して、 数多くの寺領寄進状・社領寄進状を発給します。 一方で、畿内近国の諸寺社へも 寄進状を発給しています。 また、慶長20年(1615、

  • キリスト教禁制

    戦国時代を統一した豊臣秀吉は、 西国大名が南蛮貿易の利益を 独占するのではないか、 という危惧を抱いていました。 天正15(1587)年に 薩摩の島津を倒して九州を平定した秀吉は、 同年長崎を直轄領として

  • キリスト教徒の弾圧

    デ・オランディアの発言が秀吉の耳に届き、 スペインおよび宣教師たちの活動が 日本の植民地化を視野に入れたものである との疑いを強くした豊臣政権は、 以降キリスト教への態度をより硬化させました。 豊臣

  • 国際情勢と豊臣政権2

    サン=フェリペ号事件当時、 秀吉による明と朝鮮の征服の試みが頓挫し、 朝鮮・明との講和交渉が暗礁に乗る 緊迫した国際情勢で、 それ以前の1591年に原田孫七郎は フィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏、

  • 国際情勢と豊臣政権

    増田長盛に面会した サンフェリペ号の水先案内人で航海長であった デ・オランディアは 憤って長盛に世界地図を示し、 スペインは広大な領土をもつ国であり、 日本がどれだけ小さい国であるかを語りました。

  • サンフェリペ号事件3

    長宗我部元親の助言を一同で協議の上、 船の修繕許可と身柄の保全を求める使者に 贈り物を持たせて秀吉の元に差し向け、 船長のランデーチョは長浜に待機しました。 しかし使者は秀吉に会うことを許されず、

  • サンフェリペ号事件2

    1596年8月28日(同年10月19日)、 サンフェリペ号は四国土佐沖に漂着し、 知らせを聞いた長宗我部元親の指示で 船は浦戸湾内へ強引に曳航され、 湾内の砂州に座礁してしまいました。 大量の船荷が流出し、

  • サンフェリペ号事件

    1596年7月、 フィリピンのマニラを出航した スペインのガレオン船サン=フェリペ号が メキシコを目指して 太平洋横断の途につきました。 ガレオン船には 100万ペソの財宝が積み込まれていたのです。 船長

  • 家康の外交政策

    家康の外交政策は、 平和的な関係を築くことを目指し、 外国との貿易を 積極的に推進するものでした。 彼の政策は、 江戸幕府の基盤を築く上で 重要な役割を果たしました。 彼は、江戸幕府を開いた後、

  • 山田長政3

    山田長政は政敵プラーサートトーンを 排除しようとします。 リゴールで山田長政を待ち受けていたのは、 隣国・パタニーとの戦です。 激戦の末、 彼はリゴール平定に成功しますが、 足に大けがを負ってしま

  • 山田長政2

    やがて、山田長政は アユタヤ王朝の津田又左右衛門を筆頭とする 日本人傭兵隊に加わり、 武芸の才能を発揮。 アユタヤ郊外にある 日本人町の頭領となりました。 彼はアユタヤに出入りする船を監視したり、

  • 関ケ原の役

    慶長三年(一五九八)、 豊臣秀吉が六十二歳で病死すると、 秀吉が臨終のときに成立した 五大老と五奉行を主体とする豊臣政権も 次第に動揺しました。 五大老の筆頭である徳川家康が、 秀吉の遺令に違背し、

  • 山田長政

    山田長政は天正18年(1590年) 駿河国富厚里(静岡市葵区)で生まれました。 家は染物屋の商人で、 彼は武芸を学んだり、 臨済寺で学問を習ったりしました。 武士になりたいという夢を抱いた彼は 沼津に移

  • アメリカの植民地支配

    アメリカは一八九八年に 米西戦争でスペインを破り、 スペイン統治下のフィリピンを領有しました。 ロシアは。南下政策とともに北アジアに迫り、 清の弱体化につけこんで 満州のアムール川以北と沿海州を領有

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