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千の朝 https://plaza.rakuten.co.jp/beabea65/

「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。

 自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。  これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。  充実して生きる道を探しているのだ。  それが、何にもまして一番重要なことなのだ。  それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。

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2014/09/11

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  • プチャーチンの派遣

    プチャーチンの艦隊を派遣する案が 実行に移されていれば、 開国を促すロシア艦隊が ペリー艦隊より十年早く、 日本に来航していたことになります。 辛い、この案は日の目を見ません。 ウロンチエンコ蔵相

  • レザーノフ派遣

    ロシア政府は、 レザーノフ派遣で なんらの成果も得られなかったため、 日本への関心が急速に冷えてしまい、 日本間題には不干渉、無関心の 基本姿勢をとっていました。 ロシア政府が 三度対日交渉意欲を高

  • ロシア領アメリカ会社

    当時のロシア領アメリカ会社は、 カムチャッカ、アリューシャン列島、 アラスカを支配した半独立国家でした。 ロシア領アメリカ会社 独自の判断で行動していました。 この会社は、毛皮の採取、販売が主な事

  • ゴロウニン少佐

    文化八年には、 ロシア軍艦ディアナ号艦長の ゴロウニン少佐以下七名が、 国後島で松前藩の役人に逮捕され、 ゴロウニンは箱館に連行され、 拘禁されました。 文化九年には、 ゴロウニンの部下の ディアナ

  • 北方海域

    当時択捉島には、 幕府が松前藩と話し合って 箱館奉行所の出張所を置き、 松前藩、津軽藩、南部藩の 警備兵百五十名を配していました。 しかし、 侵入してきたロシア海兵は人数も多く、 海からの艦砲射撃も

  • フヴォストフ大尉

    レザーノフの話を 再三にわたって聞かされていた 若い海軍士官のフヴォストフ大尉は、 次第に日本人に対して 敵意をいだくようになりました。 彼は、一八〇六年(文化三年)秋、 フリゲート艦ユノナ号で 突

  • 遣日使節レザーノフ4

    長崎からカムチャッカへの 帰航時のレザーノフは、 将来に対し全く希望を失っていました。 「特使閣下、それでも少し希望があります。 それは、長崎の下級役人の中に、 なんとか両国の国交成立を望む声が か

  • 遣日使節レザーノフ3

    幕府は、 目付の遠山金四郎景晋(かげみち)を 長崎に派遣し、 長崎奉行所でレザーノフと会見させました。 レザーノフが長崎港外に到着してから、 実に六カ月後のことです。 幕府の姿勢は強硬で レザーノフ

  • 遣日使節レザーノフ2

    粘り強いのがロシア人の身上です。 レザーノフは、 ロシア皇帝アレクサンドル一世の 将軍宛親書の受領と 交易のための開港を 幕府に要求し続けました。 頑固な鎖国論者の成瀬も、 ついにレザーノフの熱心

  • 遣日使節レザーノフ

    ロシアの第二回遣日使節 レザーノフはナジュージダ号に乗って、 一八〇四年(文化元年)に 長崎港外に到着しました。 レザーノフは、日本人漂流民 津太夫一行を護送してきましたし、 ラクスマンが取得した長

  • 大黒屋光太夫

    大黒屋光太夫は、 ロシア滞在中にロシア語が堪能になり、 日本文化をロシアに紹介する 役割を演じました。 当時のロシアでは かなり有名な日本人で、 エカテリナ二世女帝に 謁見を許されたこともあったほど

  • 日露交渉

    ロシアの対日交易交渉の歴史は、 新興国アメリカよりかなり古いものです。 アメリカ建国から十六年ほど経った 一七九二年(寛政四年)に、 第一回の遣日使節ラクスマンを乗せた エカテリナ号は北海道根室港に

  • 石田梅岩

    勤勉と倹約の精神に、 理論的な根拠を与え、 分かりやすく町人たちに説いたのが 石田梅岩(1685~1744)です。 梅岩は、丹波(京都府と兵庫県の一部) の山村に生まれ、 人間の理想の生き方を求めて、 さま

  • 勤勉と倹約

    日本人は勤勉だとされていますが、 人々が勤勉をよいことだと考えるようになるのは、 江戸時代になってからです。 江戸時代は、戦国時代のように、 耕した田畑が戦乱によって踏み荒らされたり、 戦いに巻き込

  • 蘭学

    吉宗は、禁止していた洋書も一部解禁したので、 西洋を学ぶ『蘭学』が流行しました。 オランダの医者のシーボルトは、 『鳴滝塾』を開いて、 多くの蘭学者を育てました。 杉田玄白や前野良沢らは、 オラン

  • 八代将軍吉宗

    八代目将軍になった 吉宗(1684年~1751年)は、 新井白石を退けて、 自分で政治を行うようになりました。 その頃の幕府の財政は大赤字ですが なかなかの善政を行いました。 この赤字をなんとかしようと吉宗

  • 見盤

    見盤は、江戸時代 最も一般的な測量道具です。 紅毛流の測量で使われる平板(見盤)は、 定規、コンパスなどを用いて、 相似の図形を描き、 間接的に測量を行います。 見盤上に目標物との相似 三角形を作

  • 製図道具

    江戸時代の測量に使用する製図道具は、 流派や時代によって 多少の変化がありますが、 基本的には現地で記録する方位と 距離を縮図にするための道具が 用いられています。 方位は、「分度矩 (鎌形の分度器

  • 量地図説

    量地図説は 和算の関流長谷川門下である 常陸笠間藩士甲斐駒蔵広永が著した 測量術書です。 本書が出版された当時は、 ペリー来航直前で、 既に多くの西洋測量器具が 輸入されていました。 これらの西洋

  • 量程車

    量程車は、地上測量の器具です。 この道具を置いて曳いて歩くと、 下についている車が回り、 距離を表示する数字の ついている歯車が回り、 距離を表示できるようになっています。 動輪と連動する歯車機構

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