封建的な雰囲気のなかで、 新しい西欧の科学が成熟しました。 それは、特権と腐敗が 広くはびこっていたにもかかわらず けっして不利な雰囲気ではありませんでした。 西欧の プロテスタンティズム(新教運
「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。
自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。 これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。 充実して生きる道を探しているのだ。 それが、何にもまして一番重要なことなのだ。 それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。
これら四つの体制上の区別が 明白になってくるのは、 一九世紀の中ごろ、 ちょうどペリーとのあいだで 日米和親条約が成立した時期です。 日本は、一八三九年からの 前哨戦をふくむアヘン戟争の情報を 刻々
まず①列強とはなにか―― 列強(powers)とは、自国の船により 世界のどこへでも到達できる力をもって、 それを保護するだけの海軍力を有する 「海洋国」です。 世界では、「超大国」イギリス、 日本と長く親
早急に武備の充実を計るには、 一時的にも外国との交易を行って、 近代的な艦船や大砲を 入手する必要があります。 しかし、 それが鎖国政策によって禁止されています。 自分で自分の手を縛りあげて 身動
正弘はその頃、鎖国政策の矛盾に 一番頭を悩ませていました。 鎖国政策は、日本の泰平無事と 幕府自身の安泰を願う政策です。 そのため、幕府は 努めて諸藩の勢力を弱くすることに 意を用いてきました。
論議を続けているうちに、 海防掛に注目すべき建白書が仙台藩の 儒者大槻磐渓(ばんけい)から寄せられました。 磐渓は蘭学者だった父 玄澤(げんたく)の影響を受け、 儒学者にもかかわらず、 世界の情勢に明る
正弘は、 老中評議と海防掛会議終了後、 海防参与の徳川斉昭に対し、 ロシア国書受取りに関する 公文書翰を認(したた)めさせました。 それには、五老中の連署があり、 さすがの斉昭も反対はできません。
ロシアのネッセルローデ首相兼外相の 親書は江戸城に未着だが、 八月上旬から海防掛は対ロシア交渉の 論議をはじめていました。 親書の内容は、 長崎奉行の書状で明らかです。 議論を重ねていくうちに、
老中評議の後、 正弘は海防掛会議を召集しました。 そこで正弘は、 在府長崎奉行の水野筑後守に命じ、 ロシア艦隊の長崎来訪の儀と ロシア艦隊司令長官プチャーチン提督の 丁重な交渉態度を紹介させました。
老中首座伊勢守阿部正弘は登城すると、 すぐに海防掛の川路聖謹(としあきら)を招き、 「さきほど、長崎奉行の水野殿が この書状を届けにこられた。 まずお読みいただきたい」 「オロシャの提督はペルリとは
豊後守は、直ちに 在府長崎奉行の水野筑後守と 老中首座阿部伊勢守に書状を認めました。 ロシア艦隊司令長官プチャーチン提督の 丁重な申入れに免じ、 ロシア首相の親書を受理してほしいと懇願しました。
翌八月十日(嘉永六年七月十八日)朝、 プチャーチンは、 全艦隊に警戒態勢に入るよう命令し、 伊王島沖を抜錨しました。 伊王島の西北端の真鼻岬沖を大きく右に迂回して、 昼過ぎに長崎湾口に浮かぶ高鉾島の
「それは相手の出方を見た上で決めるつもりだ。 しかし、レザーノフのように、 なんの成果もあげずに 長崎を去ることは絶対にしない。 アメリカ艦隊は かなり強硬姿勢で対日交渉を行うようだ。 ロシアは強硬姿
八月九日の夜、 プチャーチン提督は、 パルラダ号艦長ウンコフスキー少佐と、 水いらずで夕食を共にし、 語り合いました。 「艦長、十カ月に及ぶ大航海、 ほんとうにご苦労だった。 無事に長崎に来られたの
ロシア艦隊が 父島からそのまま直行して 浦賀に向かっていたら、 幕府が江戸城で諸大名に 意見を聴取していた六月末頃、 ロシアの黒船四隻が 江戸湾に出現したことになります。 しかし、プチャーチン提督の
結局、ロシア艦隊が後になって、 パルラダ号はインド洋の玄関口ケープタウンに 一八五三年の三月十日に入港しました。 先のカラス(黒船)ミシシッピ号の入港は 一月二十四日であり、すでに一ヶ月半の遅れです
メンシコフは、プチャーチンに対し、 いかなる交渉も平和的に行い、 諸外国との紛争は極力避けるよう命じました。 当時のロシアは、トルコ政策をめぐって、 英仏両国と外交関係が悪化しており、 アジアでロシ
ロシア政府は、 アメリカの後塵を拝することを恐れ、 四月に極東政策特別委員会を結成し、 五月にプチャーチン海軍中将を 通日全権大使に任命しました。 アメリカに対抗できる遠征艦隊を編成、 日本との三度
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封建的な雰囲気のなかで、 新しい西欧の科学が成熟しました。 それは、特権と腐敗が 広くはびこっていたにもかかわらず けっして不利な雰囲気ではありませんでした。 西欧の プロテスタンティズム(新教運
近代産業は 封建的条件から興こることはできませんでしたし、 ルネサンスの大公たちの大権から興こることも できませんでした。 大公たちはふんだんに浪費し、 常に金に不自由し、 また常に人から金をだまし
スタートヴァントは 開発費用と採算性の吟味を十分考慮に入れ、 資本調達の方法についても はっきりした計画をもっていました。 しかし彼は失敗しました。 技術上の無能のためではありません。 彼は今日
スタートヴァントは、 新産業時代の夜明け前に 発明の技術面と経済面との問題について、 多くの点で貴重な発言を書き残しました。 彼は次のように述べています 「ユーレテイカ――発明の術、 新しいものを発見
発明家の一人に コルネリウス・ドレベル(一五七二-一六三四年)がおり、 潜水船を作ってテムズ河で人にみせましたが、 もっと儲かる事業として緋色染料を輸入しました。 オランダ人で後世に名を残さなかった
産業革命の需要が加えた圧力が、 新奇なものに対する態度を変えました。 ひとたび利潤というものが公然と認められ、 新奇な方法が 富を約束することができるようになると、 人は新奇なものをさけるより むし
一方、西欧ではルネサンスから 科学の応用の実用の時代が始まりました。 科学の確実な応用の場として 航海者が要求したのが天文学と航海術です。 これは古代から、 占星術と暦の作製に奉仕して 活動してき
一六世紀末から一七世紀始めの西欧の 産業の高揚は最初の産業革命 と呼ばれてきましたが、 そこに含まれた技術上の新機軸の点でも 科学の利用の点でも、 それは一八世紀の大産業革命と 同列に並べることはでき
儒学を見れば江戸文明が、 健全な日本文明の特色を 具備していたのは、明らかです。 当時の知識人である武士というものを 形づくつてゆく原理となった 日本独自の発展を見た儒学は、 支那の儒教をもとに つ
一七七〇年代前半は、錦絵が流行し、 日本文化の百花斉放がくりひろげられます。 杉田玄白らが 『解体新書』を翻訳・出版して蘭学をおこし、 三浦梅園がヘーゲルにさきがけて ヘーゲルの弁証哲学と同等の哲学
江戸の人口は、 一六三四年(寛永一一年)に 約一四万八〇〇〇と記されていますが、 一八世紀の.一七二一年(享保六年)には 五〇万を突破し、大阪をしのいでいます。 ただし当時の人口調査では 少年・幼児
すでに一七六〇年代末から錦絵が流行し、 出版界が活気づいていましたが、 一七七一年に本居宣長の 『直毘霊』があらわされて、 国学が一つの頂点に達し、 一七七四年に杉田玄白らが 『解体新書』の翻訳をおえ
このような江戸を中心とする 都市の発展は、 じつは一八世紀の日本の商工業が、 いちじるしく発達していたことを 意味しています。 その一つの例ですが、 一七五○年代には、 すでに日本には初期資本主義の
衣類や茶や紙の生産が活発になり、 これらの消費がさかんになります。 商品流通が発達しはじめたのです。 そこで、 商品生産と流通をつかさどる 新興商人があらわれ、 日本の社会は、それ以前の 単純な封
江戸時代の平和な環境のなかに、 日本の農業は いちじるしく発展をしていました。 まず、 一七世紀(江戸時代の最初の百年間)に 米の収穫高が約一倍半も増加しています。 豊臣時代の文禄元年(一五九二年
日本では、江戸時代にはいってから 表面的には内戦がなくなり、 平和な状態がつづきました。 そのため一七世紀に農業はかなり発展し、 米・綿・茶などの増産にささえられて、 城下町の文化はしだいに発達しま
ナポレオンは 一八一一年、ロシアに侵入し敗退します。 この敗戦を聞いた西欧の国ぐには、 フランス(ナポレオン)に対して 反乱をおこしました。 そしてナポレオンは戦いにやぶれ、 地中海のエルバ島へな
ナポレオンは、一七六九年に 地中海のコシカ島で生まれ フランスの陸軍上官学校をでて、 フランス革命のときは中尉でした。 革命後のフランスは、 外国軍の侵入により 自由・平等の革命理念が つぶされそう
フランス革命は一七八九年におこりました。 革命のきっかけは、 フランス王室のぜいたくから 国家財政が危機にひんしたところへ、 一七八八年、凶作に見まわれ、 その影響をうけた国民が、 不満を爆発させた
ボルテールにつづいて、 フランスの最大の知識人はルソーです。 ルソーは一七五五年に 「人間不平等起源論」を書き、 文明の発達にともない 人間の自由がうばわれて 不平等が生みだされたと主張し、 文明の
聖フランチェスコの 強烈な聖なるものの追求は、 彼を異端の際まで押しやります。 弟子たちのある者は、 教皇や教会の司教たちが、 (托鉢士たちが実行することを 原則としているように) 貧しい暮らしをし
行動の領域では、合成総合よりも、 多様さと矛盾の方がきわだっていました。 しかし、対立しあう傾向や思想は 互いにバランスをとりあい、 結果として人間の 衝動の範囲の広さが生かせました。 例えば、キ
「文化」において、 西洋の学者たちは自分たちが 古代ギリシャ・ローマを受け継いでいる と自負しているため、 「古代」と「近代」の問に「中世」を挟んで、 いかにも西洋「文化」が一貫して 継続しているよう
アクィナスには 批判者がないわけではなかった。 そのうちで最も影響力があったのは、 論理的証明の長い連鎖に不信を抱いて、 神秘的体験により得られる 神的なるものの確実性の方を好み、 世俗のものの知に
中世末期の日本の変化は、 社会の発展がその基礎にあり、 南蛮人の影響でおこったのではない。 その発展を一向宗と法華宗いう 二つの宗教がささえました。 親鸞のひらいた一向宗(真宗)は、 農民ばかりで
西欧における神学の領域では、 信仰と理性は、 聖トマス・アクィナス(一二七四年没)や アルベルトウス・マグヌス(一二八〇年没) のような神学者の力で、 決定的に和解させられました。 アクィナスの『神
西欧の中世文化が ようやく芽生える準備を始めたころ、 日本は後醍醐天皇によって、 天皇親政による専制国家という 近世の政治様式を目指しました。 しかし、 この建武の中興は容易に進まず 所領問題、恩賞
およそ一二〇〇年と一三〇〇年の間に、 中世西欧文化の上昇曲線の躍進は、 もっと複雑で困難ではありますが、 しかし大きな豊かさを持った構造へと 発展をとげました。 一方においては、キリスト教の信仰、
日本に仏教文化が花開いたころ イスラーム教が生まれ、 イスラーム勢力は ゲルマン民族の大移動により 秩序の崩れた西欧に侵入していきます。 これに対しフランク王国の カール・マルテルが勝利し フランス
西欧の中世では、キリスト教は、 社会生活と密接に関連しています。 教会は絶大な権力をもち、 社会生活もすべて キリスト教を中心にしてうごいています。 そのため、教会の腐敗は、 たちまち社会の堕落に
西欧では長年、世俗の権力 (ローマ市の貴族やローマ周辺の有力者)が ローマ法王を決定する習慣がありましたが、 これが堕落の源となっていました。 ローマ法王庁が 世俗の力によって支配されるなら、 ヨー
西欧での農業生産がすすむと、 社会も大きくかわりはじめました。 まず「農村」がいたるところにあらわれます。 さらに重要な点は、 この農村が生まれたことによって、 農村から都市へ発展していく 要因が
一〇世紀までの西欧では、 農業はひどくたちおくれて 牧畜が生産の主流でした。 それというのも、 西欧の土はしめり気が多く重いので、 たがやすのに困難をきわめたからです。 「一粒の種をまいて一粒の麦
社会における産業の発達の段階と、 科学の発展における様相の変化は、 かなりの程度に並行しています。 生産の発展のための技術的問題が 科学研究を推進するということもあるし、 科学と技術がともに社会の発
15世紀なかばごろから 現代にいたるまでの近代科学の発展は、 どのような様相を示しているかを見るためには, 近代科学の歴史を いくつかの時代に区分することが必要であり、 またその区分を可能にするような
西欧の回復がはじまってから 一二〇〇年ごろまでの二世紀以上の期間、 西欧は、アラビア、ビザンティンの 高度に発達した科学や数学、天文学を 食欲(どんよく)に吸収し、 同時に大胆で精力的な創造に力を注いだ
イスラームの時代が過ぎ去ったのち ロマネスクとよばれる 西欧のキリスト教文化が作られます。 これは十一世紀のことです。 イスラーム文明は、十字軍の頃、 非常に高い文化をもっています。 バグダッド
日本に仏教文化が花開いた頃、 世界では、イスラーム教が生まれ、 その勢力を増していました。 ローマ帝国の衰退の後、 西欧はゲルマン民族の大移動によって、 それまでの秩序が崩壊していく中で、 イスラー
15世紀後半には, たとえば天文学における新しい動きが生じたり, 科学者としても大先覚者である レオナルド・ダ・ゲインチ (Leonardo da Vinci 1452-1519イタリア) のような人物があらわれたりしています。
豊臣政権のとった外交方針は、 統一政権の基礎を 外国貿易と海外発展によって堅固にし、 外国に対する威圧と征服とによって 勢威の拡大をほかる 封建的国家権力独得の方法であって、 そこにイスパニヤ・ポルト